美ら島(ちゅらしま)八重山
小説家 高橋治氏によると(『慕情旅枕』から)
「石垣島を根拠地にして、近くの島々を経巡っていると、八重山とはいかにも巧みに名づけたりという気持ちにさせられる。
波照間島、与那国島は少々離れすぎているが、竹富、西表、小浜、新城、黒島などの諸島は、相互に関連を持ちつつ、重なって見える。そして重なるゆえに遠近感を増幅させ、濃淡の色合いが、まさに八重に重なる島々に見えるのだ。
いつ、誰が言い出したとも知れない。しかし、沖縄本島から西南をめざすにせよ、台湾の方向から北上したにせよ、この緑におおわれて点在する諸島は、船乗りたちにやすらぎと救いを与えるものに見えたことだろう。
極端なきめつけ方になってしまうかも知れないが、沖縄への旅は、この八重山も含めた呼び方の"先島"を訪問先に加えないと、中身が半分ほどに薄まってしまうほどである。
沖縄の人々はやさしい。それは誰もが感ずることだろう。だが、先島の人々はとりわけ心優しい。その優しさが、海山のつくり出す光景の彩りを一段と濃くしてくれる。」
たしかにこの表現のとおりだと思う。もう一度行きたい。
しかし、美ら島(ちゅらしま)が、いわゆる「戦争マラリア」という過酷な歴史をもつもう一つの戦場であったことを私は知らなかったし、知る人は少ないと思う。
八重山のいくつかの島は江戸時代以前よりマラリアの汚染地域であった。
石垣島、西表島は汚染地域であり、波照間は汚染されない住みやすい島であったようだ。
それでも島々には島民が住んでいて、マラリアの危険を避けつつ暮らしていた。
第二次世界大戦末期、日本軍は本土決戦の盾とするべく沖縄に基地をつくる。
八重山・波照間・与那国など離島にも「離島残置諜者」と呼ばれる陸軍中野学校で特殊な訓練を受けた特別任務要員を配置。飛行場をはじめとする用地の確保、物資の調達、島民を戦争に協力させるための軍の方針の徹底をはかるため、時には懐柔し、時には暴力をふるい、あるいは日本刀と拳銃で威嚇し、島民を屈服させていった。
波照間では、島民を西表に強制移住させる。島民はマラリアの感染および原生林のような移住地での生活で悲惨を極める。食糧不足による栄養失調などがマラリア禍を増大させ、大量の死者を出す。17人の家族で生き残ったのは一人という家もある。島民が波照間に放棄させられた牛、豚、山羊などの家畜は日本軍がし、燻製にし、軍の食料とされた。沖縄が米軍に占領された後、波照間に帰島した住民はすでにマラリアに感染しているものもいて、波照間にもマラリアは広がる。
こうして日本軍の戦略によるマラリア汚染による犠牲者は記録に残るだけで4337人におよぶ。
戦後、米軍の持ち込んだマラリアの特効薬によってマラリアは絶滅し、高橋氏のような表現になっていく。
これは一例である。
美ら島は日本軍による犠牲の島でもあった。
劇作家、演出家の栗原省氏が波照間に取材し、朗読劇「ハテルマ・ハテルマ」を作・演出。
第一回公演を2004年12月和歌山市で行い、反響を呼んだ。
沖縄各地での公演も予定されている。
栗原氏への連絡先は、
〒643-0811 和歌山県有田郡吉備町庄684-32 栗原 省
℡ 0737-52-5963 Fax0737-52-6099