三流読書人

毎日の新聞 書物 など主に活字メディアを読んだ感想意見など書いておきたい

ドングリ小屋住人 

去年今年

2011年01月01日 00時10分20秒 | 徒然なるままに
去年今年貫く棒の如きもの      虚子
 毎年、この句を思い出し、ブログに書いたりしてきたが、
 中川広氏の「俳句のページ」という欄に次のような論評がある。
 俳句には全くの素人なのでそういう見方もあるのかと驚いた。紹介したい。

「 虚子のこの句を評価する人が多い。「痴呆的俳句」と虚子の本質を鋭く突いた山本健吉も、この句については「一見無造作な表現ながら、過ぎ行く月日を的確に掴んで、大胆にずばりと言って退けたところがよい」(句歌歳時記)と褒めている。昭和25年、虚子が78歳を迎えようとしてる年末の作だと言う。
 「貫く棒の如きもの」で過ぎ行く月日を的確に掴んでいるという、山本健吉の評価はどうか。有り体に言えば、当人しか分からない句作りではないか。去年今年を「貫く棒」とは一体何んなのか。山本健吉は月日という時間の連続性の比喩だと見ているのだろうが、果たしてそうか。大晦日から新年への移りゆく刻の流れのなかで、ぴんと背骨を張った思いで新年を迎えた。ただ、それだけのことを思わせぶりに詠んだだけではないのか。
 虚子の句には思わせぶりな主観的俳句が多い。そのすべてがすべて箸にも棒にもかからぬ駄句だ。この「去年今年貫く棒の如きもの」は思わせぶりの典型である。まともな俳句が詠めないから、こうした中途半端な句で誤魔化すのではないか。結社内でしか通用しない言葉遣い、句作りによって仲間褒め、身内褒めが幅を利かせ、どうにもしようのない結社一人よがりの「家元俳句」へと堕ちていったのではないか。坂口安吾は「堕落論」の中で堕ちるとこまで堕ちれば立ち上がるだろうとの希望を底に、「堕ちよ堕ちよ」と言ったが、俳句界は安吾の希望が通用しないところのようだ。いくら堕ちても堕ちても目が覚めない。悲しいほどに安逸をむさぼり、虚子の駄句凡句を名句秀句と褒めそやす。そして、俳人は単なる世間話ていどの無意味な句を垂れながす。

   去年今年貫く棒の如きもの      虚子
   年守や乾鮭の太刀鱈の棒       蕪村
 蕪村の句と比べていただきたい。年守るというのは「除夜に眠らず正座して元旦を迎えること」であり、明らかにこの蕪村の句がひびいているのではないか。虚子の「貫く棒の如きもの」は、蕪村が詠んでいる「鱈の棒」、棒鱈のことだ。蕪村の句を下敷きに、虚子一流の思わせぶりな句に仕立てただけではないか。蕪村に寄り掛かりながら、虚子の「去年今年」は蕪村にはるかに及ばない。虚子の句にはなによりも思わせぶりの卑しさがある。文学性と対極にある句作りだ。」

いかがですか。

12時を少し回って2011年の1月1日となった。
今年はどうなるのか。