『毎日新聞』 2008年1月15日付「発信箱」
「御輿」 論説室 玉木研二氏
「おやじさん、あんた初めからわしらが担いどる御輿(みこし)やないの。組がここまでになんのに誰が血ぃ流しとるの。御輿が勝手に歩けるゆんなら歩いてみいや。おう?」
1973年の正月。封切られた飯干晃一原作・深作欣二監督の東映映画「仁義なき戦い」は、それまでの任侠(にんきょう)路線とは全く異なる「実録」を看板にし、空前のヒットシリーズになった。
戦後の広島抗争が舞台で、脚本の笠原和夫は組長らから実地に取材をした。出演者は誰一人「標準語」をしゃべらない。冒頭のせりふは、強欲で計算高い組長を幹部(松方弘樹の名演)が突き上げる場面。組織の上に黙って乗っかっておれ、というのだ。
それから35年。今年、暴力団対策法が改正され、組員が起こした事件や不始末の損害賠償責任が組織トップの組長に及ぶようにするという。御輿だ、とあぐらをかいている場合ではない。抗争でヒットマンになって服役し、刑務所から出てきた組員の「出所祝い」も禁じる。御輿のありがたみもすっかり減じよう。
組織締め付けの効果はあるだろう。だが、もう一つの問題、取り締まっても取り締まっても、この世界に絶えず入ってくる社会で疎外された若者たち。これには抜本策がなかなか見つからない。「仁義なき戦い」の無名の登場者たちもそこから抜け出せず、悲運のうちに横死する。
「わしらどこで道間違えたんかのう。夜中に酒飲んどると、つくづく極道がいやになっての……」と嘆息した男は白昼、街で射殺された。
御輿を標的にするだけでは解決しない。(論説室)
これが昨日の『毎日新聞』のコラム「発信箱」。
「取り締まっても取り締まっても、この世界に絶えず入ってくる社会で阻害された若者たち」とあるように、彷徨う若者が沢山いる。
もちろん本人の責任もあるだろうが今日の格差社会の中で神輿の担ぎ手の予備軍は後を絶たない。
振り込め詐欺の手先、ぼったくり風俗店の客引き、末端の覚醒剤の売人など。こういう働き手を必要とするもう一つの社会がある。
根絶できるかどうかは、格差をなくそうという強い意志を持った社会であるかどうかということだろう。