三流読書人

毎日の新聞 書物 など主に活字メディアを読んだ感想意見など書いておきたい

ドングリ小屋住人 

すごい大学生がいた

2013年02月11日 15時17分09秒 | 教育 

すごい大学生がいたものだ
 大阪市立大学工学部4年生の山下明さん(21歳)が自費出版した工業高校向け教科書「電気基礎」が文部科学省の検定に合格、教科書の目録に掲載され、今春から、北海道旭川工業高校で使われるのだそうだ。2月6日の毎日新聞夕刊の一面の記事から引用させていただき紹介したい。
 山下さんは、大学で電子・物理工学を専攻、教科書の作成を思い立ち、電気の専門書、関係法令、正確な日本語表現など大変な勉強の末、10年10月に完成し、自費出版する。文部省の検定に申請、11年9月検定意見の通知があり101カ所の修正を求められた。役人やら御用学者がイチャモンをつける。
 先進国では珍しい教科書検定(日本とドイツ・ロシアぐらいのようだ)という制度は、教科書の国定化といってもよい愚かな制度というべきだが、よく合格したものだ。
 山下さんの教科書は、親しみが持てるように「です・ます調」で表現。一般的な教科書は約600ページあるが、内容を絞り込み153ページにまとめた。教員の教え方の自由度が高いのが特徴なのだそうだ。すばらしい。
 今春から山下さんは大阪府立の工業高校の教師になるそうである。背筋の寒くなるような教育行政の大阪より、いっそ北海道旭川工業高校に行けばいいのにと思う。この教科書を採択したこの学校の教師集団に拍手を送りたいと思うのだ。

日本の教育財政支出最下位 OECD加盟国中

2011年09月30日 14時48分24秒 | 教育 
教育財政支出 日本最下位 
OECD加盟国中
GDP比3.3%2年連続


少し前の新聞(9月14日付け毎日新聞)にこういう見出し・小見出しの記事が載った。
多くの人に読んでほしいと思う。紹介したい。

教育財政支出日本最下位
 日本の08年の教育への公財政支出は、国内総生産(GDP)比3.3%で経済開発協力機構(OECD)の比較可能な加盟国31カ国中最下位だったことが、OECDが13日発表した調査結果でわかった。OECD平均の5%を下回り、前年(3.3%)に続く最下位。OECDは「どんなに教育にコストがかかっても、補って余りあるリターンが出る」と積極的な教育投資を促している。今回の結果には、高校授業料無償化や今年度から始まった小学1年生での35人学級は反映していない。教育への公財政支出は、ノルウエーが7.3%で最高だったのをはじめ北欧諸国が高水準だった。日本は公財政支出全体に占める教育分野の割合も9.4%で、OECD平均の12.9%を下回り、イタリアと並ぶ最下位。一方教育支出に占める私費負担(民間の奨学金などを含む)の割合はOECD平均(16.5%)の2倍以上の33.6%で、家計負担は21.3%だった。小学校の09年の平均学級規模も日本は28人でOECD平均の21.4人を上回った。大半のOECD加盟国が教員の給与などの待遇改善を進めているが、日本の小中高校の教員給与は05年を100とした場合、09年は95に低下した。また、OECDは日本についての報告書で東日本大震災に言及し「教育政策が日本の長期的な経済的・社会的発展に対して重大な役割を果たす」とした。【木村健二】


どう思われるだろうか。
日本という国は、典型的な例で言えば、大阪の「維新の会」とかいう政治団体が徹底的に教員を弾圧、思想信条の自由を奪い、教育の場に競争原理を持ち込んでひたすら競わせることを目的とするような条例案を提案するなど、真逆の方向に向おうとしている。彼らのいう「教育基本条例」が子供たちを幸せにすることは絶対にない。
この報告の「どんなに教育にコストがかかっても、補って余りあるリターンが出る」また、東日本大震災に言及し、「教育政策が日本の長期的な経済的・社会的発展に対して重要な役割を果たす」という部分は、ぐさりと来る。
日本は、これから何をしなければならないのか。

教育費の公的支出世界最低レベル

2009年09月10日 21時10分55秒 | 教育 
やっぱりというか、今さらということでもあるが、経済協力開発機構(OECD)が発表した「図表で見る教育09年版」によると、06年の日本の国内総生産(GDP)に占める教育への支出は3.3%。OECD加盟国の平均は4.9%で、日本は比較可能な28カ国のうち27位! だという。03年・05年は最下位、04年・06年はブーピー。
1位はアイスランドで7.2%、2位デンマーク6.7%、3位スェーデン6.2%。以下フランス、イギリス、アメリカと続く。なんとアメリカにも負けているのだ。
9月9日新聞各紙が報道している。
農・林・漁業という第一次産業を切り捨て、さらに子供にかける教育費を世界最低レベルに下げたこの国の将来像はどう描けるのか。
教育のことは親や子供や地域の心構えの問題とし、金は出さないが口だけは出す。
これほどあらゆる場面で規制緩和を言いながら教育の中身には規制だらけ。
日本歴史は嘘を教えることまで許容する。
ここまで腐りきった自民党・公明党政策についに音を上げた国民の悲鳴が先日の選挙結果だろう。
しかし、民主党と言えども自民党的政治家の集まりとどれほどのちがいがあるか。
この亡国政治は断ち切れるか。日本は亡ばずにすむか。



「私はこう見る(09衆院選) 教育改革」

2009年08月24日 09時30分50秒 | 教育 

 「私はこう見る(09衆院選)教育改革」
 8月21日付け毎日新聞の囲み記事、上のようなタイトルで衆院選に向けての識者の意見が掲載されていた。
 尾木直樹氏と西村和雄氏、お二人が書いている。

尾木直樹氏(法政大学キャリアデザイン学部教授 評論家)) 
 多くの日本人は、高校の授業料を払うことを「当然」と思い込んでいるが、世界の大勢は無償化だ。日本は79年に国際人権規約の社会権規約を批准したが「高等教育の無償化」を定めた条項は留保している。締約国160カ国で、留保しているのはマダガスカルと日本だけだ。現代は知識を基盤とした社会であり、すべての国民に高校卒業程度の教育を受ける機会を保障することは、国家の利益でもある。今回の衆院選で「高校の実質無償化」という政策が出てきたのは遅すぎるくらいだ。
 今の政治からは「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない。日本の若者の現状への危機感が弱い。重要なのは、若者が精神的に自立し、常識を持った大人として生きていく力を高める教育の実践なのだ。
 日本の若者の精神状態は危機的だ。「トイレにこもって食事する大学生がいる」という話を聞き、学生465人にアンケートしたところ、11人が「経験がある」と回答し、驚愕した。「一緒に食事する友がおらず、一人で食べている姿を見られると『友人がいないことの証明』になるから」だという。人として生きていく力が衰弱している、と言うほかない。
 今の大学生の振る舞いは幼稚でしばしば20年前の中学生と同じに見える。若者が自立して生きる力を失った国に未来はない。目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育が求められている。

西村和雄氏(国際教育学会長、日本経済学教育協会会長)
 この20年、日本では子供の教育に金がかかり過ぎるようになった。公立高校の授業料が値上がりしたことと、公教育の学力水準が低下して私立校を目指す子供が増えたという二つの原因がある。今回の衆院選で教育費の無償化や奨学金の充実など、今まで行われていない政策が公約に掲げられた点は遅すぎたとはいえ、評価はできる。
 問題は学力向上へ向けた具体策や学習指導要領の再検討などが十分に論議されていないことだ。安部内閣では教育再生会議が大きな役割を果たしたが、福田内閣以降は教育の具体的な中身に関する議論が減少した。教育は、優先課題から外されていたのだろう。
 経済格差で生じる教育格差をなくすには、教科書を子供が自学自習できるものにすることだ。今の教科書には問題の答えが書かれておらず、子供は1人で勉強できない。経済的に余裕ある家庭の子供は塾へ通うため、学力差が生まれる。
 自学自習できる教科書を編集し、貧しい家庭の子供が塾に通わずとも勉強できるようにすれば、大きな予算措置を取らなくても公立校の水準を回復することはできる。
 さらに優先的に取り組まなければならない課題は、小学校から高校までの学習カリキュラムの見直しだ。「ゆとり教育」時代のカリキュラムが今も残り、学力水準の低下を招いている。カリキュラムが子供の学習を妨げている状況を改善すれば、お金をかけずとも学力は向上する。

 尾木直樹氏はさすが、日本の自民党的政治の教育政策の貧困をずばり突いて厳しい。
 それに対し、西村和雄氏の文章にはあきれ果てるというか、その稚拙さに笑ってしまう。
 「今回の衆院選で教科書の無償配布や奨学金の充実など今まで行われていない政策が公約に掲げられた点は、遅すぎたとはいえ、評価できる」と言いながら、そのことが今日の教育の最も大きな課題を生み出したということには触れない。「この20年日本では子供の教育に金がかかり過ぎるようになった。」というが、それは親の負担のことである。教科書の作り方を少しいじれば低学力は回復できるとし、そうすれば「大きな予算措置を取らなくても」「お金はかけずとも学力は向上する」と言う。やはり教育にはお金をかけないということを前提とし、自民党的政治の教育政策のプロパガンダをつとめる。
 そしてこの人は公教育ということを誤解している。公教育とは公立の学校をいうのではない。私立の学校の教育も公教育なのだ。
 西村和雄氏、肩書きを見れば、国際教育学会長なのだそうだが、検索してみると別に国際的なものでもなんでもなく自分たちの集まりに「国際」という言葉をつけただけの組織のようだ。そしてこの組織の長を名乗っている。こういう人物が教育改革を語る人物として毎日新聞という大メディアが認知していることが怖い。
 この囲みの紹介として、前段に次のような記事がある。

 「・・・・・経済協力開発機構(OECD)の08年報告によると日本の国内総生産(GDP)に対する教育費の公財政支出の割合は3.4%で回答した28ヵ国中最低だった。不況で教育費の負担感は増し、親の所得格差が子供の教育の機会均等に影響する『教育格差』も問題になっている。・・・・・」(抜粋)。
 尾木氏の指摘といい、この記事といい子供の成長、発達、教育にはお金をかけないというこの国の特殊な仕組み、のもととなっているのは何か、である。


 


宝塚音楽学校入学式

2009年04月19日 19時17分20秒 | 教育 
テレビのニュースで宝塚音楽学校の入学式が報道されていた。
大変な競争のなかから選ばれた新入生は緊張のなかでも誇りにみちた様子である。
もちろんきれいである。
しかし感動したのは、その姿勢、歩き方、表情、目、などの見事さである。
まだ入学したばかり。
これからまだまだ鍛えられるのだろうけどたいしたものだと思った。
地球上に現存する生物の「進化の頂点」としての人間の姿を極めようとしているように見える。
直立した姿、歩く姿などの基本的な所作というか。

もとより、宝塚歌劇のステージなどは見たくない。好きではない。
しかし、人間の本来持っている能力、あるべき姿というものを学べるのではないか。
特に日本人は。
あまりに汚い、歩く姿、立ち姿、挙措動作を考えなおしてみてはどうか。

立っている。座っている。歩く。他人と身振りを交えて交流する。
こういうことについて訓練をする。
没個性的に強制であれ、なんであれ、一定期間悪く言えばたたきこむ。
かつての軍国主義の教育といっしょにされては困るが。
あれは人間を醜くさせた。

若い時期のほうが良いと思う。
人間のもつ能力、可能性、すばらしさを教える。
こんな考えは間違っているだろうか。




ノーベル物理学賞の小柴雅俊さん 日本の教育を語る 「文明国として悲しい」

2008年06月30日 20時00分54秒 | 教育 
 
 
【日本では、若者が教育を受けるのに大金を払わなければなりません。これは情けないことですね。文明国として悲しい。
 「こんなに学費がかかるのでは、子どもは一人で精一杯。二人目なんて考えられない」という声を耳にします。教育費の高さは、少子化の一因にもなっています。
  
 ぼくは一九九八年から九九年にかけて一年間、学術交流で招かれ、ドイツに暮らしたことがあります。ドイツの大学では、入学金も授業料もただでした。
 招いてくれたフンボルト財団は、僕たち夫婦の往復の旅費を出してくれ、好きなところで好きなように滞在させてくれました。日本では、外国の学者を招くと「どこそこでいくつ講演してほしい」などと事細かに要求しますが、ドイツではそうしたことは一切ありませんでした。そのくらいゆとりある学術交流というのが大切ではないかと思いましたね。
 
 二〇〇二年、日本の国立大学を独立行政法人にするかどうかをめぐり大きな議論が起こっていました。このとき僕には心配がありました。大学が「独立採算」に躍起となり、利潤をあげることに一生懸命になるかもしれないということです。産学協同をやるあてがない学部もあります。そういう〝稼げない〟学部が冷や飯を食わされることになれば、若い人がそういう分野に進まなくなる。最近の流れを見ていると、心配したとおりになっています。地方の大学は地元の産業との連携に血眼になっています。

 かつては国立大学に、国から教授一人当たり年数百万円の講座研究費が出ていました。これである程度、基礎的な実験や研究がやれたのです。
 ところが、法人化後は大学への交付金が年々減らされているうえに、学長や学部長が特定のプロジェクトに使う予算などに優先的に回されてしまう。ある大学では、教授が受け取る基礎研究費が年間二十数万円だといいます。これでは郵便代にしかなりません。

 ドイツでは、政府がマックスプランク協会という組織に多額の資金を出し、基礎研究の振興に当たっています。その協会から指名を受けた研究者は、年間一億円ほどの研究費が出ます。日本とは全然違います。
     ・・・中略・・・
 若い人をきちんと教育するということは、次の時代の、その国の繁栄を約束するものです。これをちゃんとやらないというのは、ばかげた話だと思う。国家としては「国のさらなる繁栄のための投資だ」と考え、若い人の教育のために予算をしっかり使うべきです。】
 
 (6月29日付 「しんぶん 赤旗」より)



「ないしょ話」

2008年01月13日 09時51分18秒 | 教育 
 「ないしょ話」

結城芳夫  作詞
山口保治  作曲

ないしょ ないしょ
ないしょの話は あのねのね
にこにこにっこり ね かあちゃん
お耳にこっそり あのねのね
坊やのお願い きいてよね

ないしょ ないしょ
ないしょのお願い あのねのね
あしたの日曜 ね かあちゃん
ほんとにいいでしょ あのねのね
ぼうやのお願い きいてよね

ないしょ ないしょ
ないしょの話は あのねのね
お耳へこっそり ね かあちゃん
知っているのは あのねのね
坊やとかあちゃん ふたりだけ


1939年の作、昭和14年です
昭和16年には日本は真珠湾を攻撃する
キナ臭さなど通り越した時代に作られた
いい歌です
言葉がきちんとしています
坊やと母ちゃんでないしょの世界を、二人だけで共有する世界を持つ幸せな坊やです

子育ての技術などとは無縁であるが親を殺すという発想などおこりようもない

「力の限りか」

2007年10月10日 10時28分07秒 | 教育 
 10月10日の『毎日新聞』のコラム「発信箱」。
 全く同感なのです。 日本人が変わりつつあるのではないか。これは一体何だろう。と思っていた。

          ◇  

 「発信箱」論説室 玉木研二氏「力の限りか」
 落ちている子ども体力・運動能力。だが調査で皆力を出し切っているのか。私はかすかな疑問を感じてぢる。 
 がむしゃらに走り、力の限り投げる。 それを男恥ずかしがり、また人が頑張るのを笑う…。
 そんな情景を運動会などで見ると、調査にもつい疑問がわくのだ。
 それは昨今の大人社会を映す鏡かも知れない。公的調査にまともに答えない、真面目に応じない風潮が生じたのはいつからか。例えば、国勢調査は拒否や無回答が近年目立つようになった。
 1920年の第1回国勢調査は28万人の調査員を動員、「10月1日午前10時の実態」を記録すべく、夜中に懸命に駆け回った。永井荷風は「国勢調査と号して深更猥に人家の戸を敲き、人員を調査せしといふ」と「断腸亭日乗」に書き残している。
 当時、政府は国民の実態を初めて精密に調べ出すことで「文明国に仲間入り」とうたい、人々も進んで協力したという。
 匿名社会化の今、調査に積極的に協力することなど「信じられない」話かもしれない。しかし、さまざまな国民統計が次第にあやふやになり用をなさなくなる社会、それでいいのか。
 九州山地の小学校の分校で放課後、先生が翌日の50メートル走のコースを引いていた。校庭が狭く対角線だが、」それでもはみ出し校舎の間がゴールになる。先の壁にマット。子どもたちは懸命に走るから、それが必要なのだ。
 20年以上も前のことだ。クマよけの鈴を鳴らし登下校していたあの子らを、走れせてやれていたら、今そう思い返す。  

       ◇

 一斉の体力・運動能力テストには一定の批判があり、問題点が多くあることも事実であるが、一生懸命さを嘲笑するという今日の風潮は、それでいいのかと思う。

 

教育改革とは何か

2007年07月08日 14時01分45秒 | 教育 
教育改革とは何か 何のための 誰のための
 戦後、「教育基本法」を制定、新しい教育制度を作り、戦前の「天皇陛下ばんざい」といって死ぬ皇民教育を二度と行わないと誓って出発した。
 そも教育とは何か、を考える教育のスタートでもあった。その実践と理論は貴重な財産として残すべきものであった。それを彼ら自民党、あるいは自民党的政治はずたずたに破壊し、敝履の如く捨て去ろうとそしている。
 教育を真に国民のものとして構築していく実践と理論はそれとの闘いそのものであった。
 彼らが言う教育再生とは紛れもなく教育再破壊である。
 以下は、『毎日新聞』経済欄コラム「経済観測」に書かれたものである。(7月5日付)私にとっては少し難解なところもある。しかし、「教育再生会議」なるものがおおかたの国民の理解を超えたところにあることは想像に難くない。

《 教育再生会議をフロントとして安倍晋三首相は教育改革に意識的に取り組んでいるが、産業界が望む資質と学校教育が重点をおいてきた目標とのギャップについてはまだ十分な詰めがなされていないように思われる。
 経済のグローバル化による競争激化の中で、企業の社内教育にかけるコストや時間が少なくなり、基礎的な資質について一定の水準の充足が期待されるとともに、事業環境の激しい変化に対応できるような柔軟性や想像力、開拓力、親和力などの資質のはぐくみを求める声も急速に高まっている。
 このような期待の拡大に対して、困難を増しつつある教育現場の実態との距離はむしろ開きつつある。
 産業界や社会の要請が「知育」であることを前提にしてきた教育から脱皮するには、まず教育現場をあずかっている教師の人たちがその必然を理解し、主体的に取り組む意思が生まれる必要がある。
 元々からそうした創造性や開拓力、親和力などを引き出すことは、教育を人生に仕事として選んだ人たちにとって、より本来の願いへの回帰になるとも考えられる。
 しかし現実にそこにハードルがあるとすれば行政と教育現場の間に長年にわたってつくられた「依存させ、依存する」という風土ではないか。
 こうした相互依は摩擦を減らすプラスはあるが、本心でかかわる意思を萎えさせるマイナスもある。同時に子どたちに本心でかかわり、本心を引き出すことはまさに教育に携わる人たちの本来の喜びであろう。
 その願いがもっと引き出され、教える側にも主体的な想像力や知識欲が生まれ、結果として学力も上がることこそが望まれる。そのためには、教育行政の方から「依存」させる体質を転換することがまず大切な道順であるように思われる。(猷)》

安倍内閣「教育再生会議」とは何か

2007年04月01日 17時40分49秒 | 教育 
  安倍氏のいう「美しい国」は教育をどう考えているのか

 「美しい国」は「にくいしくつう」と読むそうだ。
 彼の内閣の(かれはよく「私の内閣」)という)「教育再生会議」なるものが、新しい提言を行う。なにをするというのか。
 特にやり玉にあがっているのは、「ゆとり教育の見直し」。
 1970年代頃より、当時からつめこみ、おちこぼれ、受験地獄など今日の教育荒廃、学校荒廃の萌芽はすでにあった。国民の期待は、楽しい学校、良く分かる授業、現場ではひとりも落ちこぼさない教育をと望んだ。
 そこで、文部省学習指導要領はまず「ゆとりの時間」の強要、ついで「新学力観」による評価基準の転換の持ち込み、「総合的な学習の時間」の新設、習熟度別授業、学校五日制などを、三次にわたる学指導要領の「改訂」によって持ち込んだ。おまけにこの「学指導要領」は法的拘束力を持つのだとして現場に強いた。が、しかし、条件整備はほったらかし、教育内容の精選は明らかに失敗。すし詰め教室はそのまま、教師の負担は増すばかり。
 当然のことながら学校は荒れ、学力低下を招いた。そのことは教師の責めとして喧伝されている。マスコミまたそうである。
 子どもにとっての競争の激化、教師に対しては管理の強化、教師にも親にも子どもにも有無を言わさぬシステムを作ろうとしている。
 「教育再生会議」の目玉は、①基礎・基本の反復・徹底、②全国一斉学力テスト、③習熟度別指導と学校選択制の導入。これが果たして解決策になるか。現場の論議もないままに。
 歴史の改竄、地方教育行政の崩壊、道徳教育の押しつけ、これらは罰則と処分によって徹底される。
 もの言わぬ教師、怯えた教師が、仲間同士で論議をしてよりよい教育実践を、などとは望むべくもない。
 かつて、文部省自身が音頭をとった「ゆとりと充実」は「言うとおりと忠実」に姿を変え、作られようとしているのは「新しい教師像」である。
 その布石として「教育基本法」を改悪し、やがて憲法を変えたいと望んでいるのであろう。
 
 「教育再生会議はその名称を裏切り、今や『教育困難再生産会議』に変質してしまっている。」(梅原利夫氏 和光大学)
 
 あなたの子どもはどう育てられようとしているのか。覚悟は出来ていますか。
  
 

国は子どもをどう育てようとしているのか

2007年02月23日 19時52分00秒 | 教育 
 文部科学省は二十一日、改悪教育基本法の具体化である教育関連三法案法の概要を中央教育審議会の分科会に提出した。
 教員免許法改定案には、免許の有効期限を十年とし、更新には三十時間程度の更新を受けることを明記した。
 いわゆる不適格教員については、同時に教育公務員特例法も改訂して、一定期間研修を課した上で免職などの措置を講ずるとしている。
 学校教育法改定案は、「わが国と郷土を愛する心」や「公共の精神」などの目標規定を盛り込むことを示した。子どもの内心の自由のはどうなるのか、と現場の教師や父母に不安感は大きい。
 また、校長を「補佐」するものとして「副校長」「主幹」「指導教諭」などを新たにおくとし、管理の強化を露骨に打ち出している。授業をせずに教師の管理をする係である。
 地方教育行政法改定案では、教育委員会による学校行政が、不適正と文部科学省が認めた場合、是正勧告や指示が出来るとしている。地方分権、地方の独自性を否定し、すべて国の指示どおりに教育行政を行わせようという、中央集権化の強化であろう。

 規制緩和、地方への権限委譲などといいながら、大資本のやりたい放題を許す国の行政によって、地方は疲弊している。
 そうした情勢の中にあって、教育の分野のみ、ひたすら規制強化、中央集権化を推し進めようとするのはなぜか。


また、酒よ

2007年01月13日 13時59分23秒 | 教育 
 また、酒よ
 山頭火

 最後にどろどろになって翌朝己の醜態を責める。そして自戒を繰り返す。
 『 酒は味わうべきものだ。うまい酒を飲むべきだ。』
一、焼酎(火酒類)は飲まないこと
一、冷酒をあおらないこと
一、適量として三合以上飲まないこと
一、落ち着いてしずかに温めた淳良酒を小さな酒杯で飲むこと
一、微酔で止めて泥酔を避けること
一、気持ちのよい酒であること、おのずから酔ふさけであること
一、後に残るような酒は飲まないこと
 山頭火の酒に対する自戒の言葉である。
 よく言うよ。
 おそらくこれは、貝原益軒『養生訓』巻四「飲酒」のうつしであると思われる。内容はそのままである。

 かくありたいとは思う。が飲まないのが一番。


酒よ

2007年01月12日 17時31分51秒 | 教育 
 酒よ
 種田山頭火

 「日頃から山頭火は、酒に酔っていく過程を、
『ほろほろ、ふらふら、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、最後がどろどろ』
といいあらわしていた。」
 そして「『酒のうまさを知ることは、不幸でもあり、幸福でもある。酒のみと、酒好きは別のものだが酒好きの多くは酒飲みだ。一合は一合の不幸、一升は一升の不幸』」(岩川隆著 わが山頭火伝『どうしやうもない私』講談社刊より)。

 大酒飲みが酒を飲まずに、酒のことばかり考えている。酒好きというより酒飲みなんだろうな私は。
 山頭火に関するものを読み直してみて、自己嫌悪を感じ、酒飲みの卑しさを感じるのは誰もが書いている。 
 それでも、

 分け入っても分け入っても青い山

 うしろすがたのしぐれてゆくか

 ここにふきのとうがふたつ
 
 さくらさくらさくさくらちるさくら

やっぱり、好きである。


「機長の10秒間」関西風味

2007年01月11日 19時26分49秒 | 教育 

 「わあ、機長さんが手を振ってくれた」。神戸空港ビル3階に子どもたちの声が弾む。そこからジャンボの操縦室が真正面に見える。中の機長が白手袋で子どもたちに応えているのだ。いつのころからか、それは半ば習慣化しているという。
 ビルから操縦室まではわずか約25㍍。とくに背の高いボーイング777は視線さえ合いそうな近さである。日本航空のベテランパイロット牧寿さん(43)も「世界的に珍しい」という。ジャンボはその後、車に押されて後ずさりし、滑走路へ向かう。その直前の時間帯はすべての整備が終わり、ほんの10秒間ほどほっと出来る瞬間なのだそうだ。
 地上から「いってらっしゃい」と合図を送る整備士たち。機長はビルの見送り客に手を振るとき、「任せて下さい」と気を引きしめる。
                                             【西村浩一】

  『毎日新聞』1月11日付 、地域ニュースの小さな囲み記事の欄「かんさい風味」です。タイトルは「機長の10秒間」。
 へえーと思い、なるほどと思い、なんとなくほっとする思いがしました。


 


ふきの薹 早くも

2007年01月10日 13時12分27秒 | 教育 


先日の大嵐がうそのように今日は素晴らしい天気。
ひょっとすると思って栗の木の下をかき分けると、出ていました。
例年はもっと早いのですが今年は今日が初めて。
もう少しすると天ぷらにするほどでてくるか。

地面が柔らかく、足をずるずると滑らせてあわててカメラをかばいなが両手をついてしまいました。古い栗のいががいくつもあってもろにその上に。