1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『景行天皇伝説を巡る冒険』13.”濃い”景行天皇伝説

2022-12-01 20:08:00 | 景行天皇の記録
【″濃い″景行天皇伝説】
そして、それらをまとめたのが先に紹介した各地の伝説や伝承です。調査を行なって先ず驚いたのが、その数の多さです。これは江戸時代の末期に盛んとなった尊皇思想も背景にあるのではないかと思われます。特に、八頭大亀についての伝承は、天皇の神威を高める物語として後世に創作されたものと考えることも可能です。そこで、八頭大亀について様々な方の力を借りて調べたところ、天理大学の図書館に所蔵されていた江戸時代の古文書に吉田神道の卜部兼敬が記した『八頭大亀本記(やずおおがめほんぎ)』を見いだすことができました。天理大学図書館に問い合わせ、それを複写して入手していますが、残念ながら私の力では解読できません(どなたか解読して頂くと助かります!)。

『八頭大亀本記』の冒頭部分

『八頭大亀本記』の巻末部分
卜部兼敬にあまり画才はなっかのかも



『八頭大亀本記』を著した卜部兼敬が主宰する吉田神道とは、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派です。朝廷や幕府に取り入って支持を取り付けつつ、神職の任免権を得、権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授けました。また、神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていきました。
そして、江戸期には、徳川幕府が寛文5年(1665年)に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置こうとします。
しかし、熊本では、元々朝廷と繋がりが強かった阿蘇神社はこれに反発していました。また、国学者の本居宣長の門人となり、熊本藩に国学を伝えた帆足長秋は、三玉地区にある一目神社の神職であったのですが、官位は吉田家ではなく別の公家である鷹司家の執奏によって官位を受けています。

このような吉田神道の熊本における不人気ぶりが何を意味するかわかりません。ただ肥後熊本、特に、県北の山鹿•菊池地域は中世の菊池氏の繁栄に依拠した「南朝」寄りという思想的な背景が、武家の力を巧みに利用して成りあがった卜部家(吉田家)の神道を嫌ったのかもしれません。
ひょっとすると、卜部(吉田)兼敬が『八頭大亀本記』を記したのは、熊本で吉田神道の神威を高めるための謀略であったのかもしれません。
そういうふうに考えると、八頭大亀の伝説は荒唐無稽な物語と受けとられても仕方がありません。

しかし、火のない所に煙は立たないのと同じように、山鹿地方には原形となる伝説があったことは十分考えられ、吉田家がこの伝説を巧みに利用しようとしたと考える方が自然なような気がします。
また、一介の地方神職に過ぎなかった帆足長秋(三玉の一ツ目神社の神主)が、『古事記伝』を記した本居宣長の門人となって日本の古代について勉学を深めた動機も、本当のところは、県北に残る〝濃い″景行天皇の伝説の存在がその発端ではなかったのかという気がしてなりません。

山鹿市西牧地区には、景行天皇が腰をおろしたとされる帝石(みかどいし)が残っています。この石は、安土桃山時代に里人によって末代の記念にすべきとして蓮照寺と菅原神社に安置されたもので、現在も地区のシンボルとして尊崇を受けています。
現地に足を運んでこのような事実を目の当たりにすると、景行天皇に対する崇敬は正真正銘であり、景行天皇の存在に疑いを挟むことはむしろ無礼ではないかと思ったほどでした。

蓮照寺の帝石(みかどいし)


太平洋戦争で辛い経験を重ねた大先輩や戦後教育の中で唯物論を信望してきた方々にとって、勤皇思想は極めて受け入れ難い考え方であることは理解しています。しかし、それを差引いても余りある精神世界が私たちの心に根付いているのではないでしょうか。

このような視点からみると、山鹿地域に伝わる景行天皇の伝説は、他の地域と比べてその”濃さ”が一層際立っているように思われます。そして、それらが山鹿灯篭に代表されるような伝統ある重要な文化遺産に繋がっています。また、戦国時代末期の兵火が無ければ平安時代に建立された国内七大伽藍と称されるような壮大な寺院が三玉の霊仙地区には残っていて、今とは全く異なる様相ではなかったかと想像されます。
伝説の”濃さ”やその後の山鹿の発展からもわかるように、おそらく古代から中世にかけては菊池川流域が肥後国の中心だったと思われます。
「三玉」という地名の本来の由来については長らく忘れられていましたが、自身の調べでその由来が1500年以上も遡る景行天皇の九州巡幸に因んだものであることを知ったとき、神話や伝説には真実が含まれている可能性についてもっと検討しなければならないのではないかという気持ちになったのでした。
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