1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『景行天皇伝説を巡る冒険』26.景行天皇の真意と国内統一

2022-12-28 21:55:00 | 景行天皇の記録
【景行天皇の真意と国内統一】
景行天皇は、この山鹿・菊池の地で多くの血が流されていたことは十分知っていたはずです。

『古事記』における高天原の神々をヤマト王権の前身とする北部九州の豪族と仮定し、安本美典氏が主張するように『魏志』「倭人伝」の邪馬台国を北部九州、福岡県の筑前町や朝倉市を中心としたクニあるいは連合国とすれば、当時、邪馬台国の南にあって邪馬台国と対立した狗奴国というクニは、熊本であったことになります。また『魏志』「倭人伝」には狗奴国には狗古智卑狗(ククチヒク)という役人がいたことになっています。そして、狗古智(ククチ)は菊池の語源とされています。
つまり、ヤマト王権にとって、かつての山鹿・菊池地域は、仇敵の本拠地だったことになるのです。その後、ヤマト王権の前身勢力である神武天皇が軍勢を率いて国の統一を図るための東征を開始する頃には、狗奴国は彼らの配下にあったかもしれません。

いずれにしろ、北部九州の勢力と山鹿・菊池勢力の間では血で血を洗う争いがあったものと推察されます。
そして、景行天皇は、その戦いに敗れし者、犠牲になった全ての人々を、神聖な人々、つまり八神として故郷に酷似した三輪山に倣って、震岳の頂きに祀られたのだと思います。

熊本には景行天皇の九州巡幸時の伝承や地名の説話が多く残っています。そして、多くの神社では神と崇められ、ゆかりの地では今なお尊崇を受けて語りつがれています。それがなぜかと問われれば、緊張した国際政治状況のなかにあって、未だ盤石とはいえない王権に不安を抱えつつ一部の敵対勢力との厳しい戦いの最中、これまで国の統一のために協力してくれた地元の土豪への感謝や無念の死を遂げた者達への哀悼の意を込めた、まさに巡幸と呼ぶにふさわしい行脚だったからなのだと答えるほかありません。
そして国の統一において、例え敵対勢力であったとしても義を尽くして死した者に対し、哀悼の念を持ち続ける思想こそが各地で尊崇を受けた最大の理由で、それこそがヤマトにおいて国の統一を果たした本当の理由だと思います。

しかしながら、国の統一という大事業を精神論だけで成し遂げるとは到底考えられません。そこには用意周到な戦略があったはずです。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』25.敗れし魂の行方と勝者の激情

2022-12-28 18:21:00 | 景行天皇の記録
【破れし魂の行方と勝者の激情】
『魏志』「倭人伝」をはじめとする中国の史書には、弥生時代の終わりごろにあたるニ世紀後半の日本は「倭国大乱」といわれるような状況にあったことが記載されています。また、古代人の遺骨研究の分野では、北部九州の弥生人には激しい戦いを想起させるような傷跡を持つ人骨がかなりの頻度で見い出されていることが報告されています。福岡県の大規模埋葬遺跡である筑紫野市、隈・西小田遺跡からは戦傷例が集中して出土していますが、付近の遺跡規模や戦傷人骨の出土状況から、戦闘の規模は数十人から数百人程度の集団戦であったことが考察されています。

このように考古学の見地からも部族間の激しい戦闘が行われたことをうかがい知ることができます。無念の思いで命を落とした古代の人々のことを思うと胸が痛みます。戦わなければならない義が双方にはあったはずです。勝者になることもあれば、敗者になることもあります。しかし、敗者になることはすなわち死を意味します。そして、勝ち続けた者の背後には無数の死屍が累々と積み重なっていきます。国内の統一とは、そういった多くの死や数え切れない無念の上に成り立っているとも言えます。

必死の思いで己の死をかいくぐり、最終的に勝者となった者は何を思うのでしょうか。真の勝利者にならなければ感じることのできない、内から湧いて出てくる激情があるように思います。
世の中には様々な勝負ごとあります。勝者を目指す本当の意義や価値は、その激情を学べることではないでしょうか。
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