ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「シャマン的実存」 小林稔評論集「来るべき詩学のために(一)に収録より

2016年01月30日 | 井筒俊彦研究

連載/十四回

シャマン的実存。「本質」実在論第二型について。

小林稔

 P180~

 

「本質」実在論第二型、元型的「本質」論について。

  人間の意識はイマージュ生産的であって、深層意識だけでなく表層意識においても今イマージュに満ちていると井筒氏はいう。深層意識では経験的世界の具体的な事実から遊離し働くという特性を示すが、表層意識では、経験的事実に密着した即物性を特徴とすると井筒氏は指摘する。井筒氏によると、表層意識というものは外界の事物の感覚的認知を第一次的な機能とするので、イマージュの大部分は実在する事物に裏打ちされているので、感性的イマージュの介在を意識することはないという。目の前に木があると木の意識が成立する。イマージュの参与に気づかないが、木の実在しない場所で意識に木が現象するとき、そこに働く木のイマージュに気づくことから、初めから木のイマージュは存在していたという。外的事物を認識し意識することが、根源的にはコトバ(内的言語)の意味分節作用にもとづくものであり、内的言語の意味「種子」の場所を、言語アラヤ識という名で深層意識に定位したのである。言語学でラングと呼ぶ言語学的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定することが正しければ、表層意識的に、目前に実在する一本の木を意識する場合にも、認識過程に言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているといえようと井筒氏は説き、言葉の意味作用とイマージュは結びついている。語の意味作用とはイマージュの喚起作用に他ならないという。

 目前のⅩを見て木として意識することは、Xのあり方に促されて木という一つの意味「種子」が言語アヤヤ識内で発動することで始まる。つまり、この意味「種子」の現勢化がイマージュを生み出すのである。直接無媒介的に認識するわけではない。人間の意識は「想像的投企」(エドワード・ケイジー)に充たされるといえると井筒氏は指摘する。言語アラヤ識内で、一つの「種子」が自体的にどのように構成されているか、他の「種子」とどのような聯関に立っているかによって現出するイマージュも変わってくる。同じ日本語を話す日本人の言語アラヤ識から湧出する木のイマージュには共通形状があり、一定の型が認められ、その型が固定されるとき、木の「本質」が成立すると井筒氏はいう。

 井筒氏の「言語アラヤ識」の措定は井筒哲学の基軸の一つだと私は確信する。そして私が確立しようとする「詩学」に活用できる中心概念であろう。

 井筒氏の記述を改めて引用してみる。

 「何らかの刺激を受けて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだす時、必ずそれは一つ、あるいは一聯の、イマージュを喚起するもの」である。「個々の語(コトバ)の意味作用とイマージュとの間には、ほとんど宿命的な緊密な結びつきがある。」『意識と本質』(p184)

  「何らかの刺激を受けて」とはどういうことかを考えなければならない。私たちのすべての経験が言語アラヤ識の深層意識内に蓄積され、「ひそかに発動し」意味「種子」が現勢化を待っているのだ。それが何らかの合図を受け、イマージュを形成するとき、言語(ラング)の一定の型を伴って現勢化すると井筒氏はいう。

 

 井筒氏が「本質」実在論の第二型の存在の有「本質」的分節について、ここで述べようとしている。有「本質」的分節といえ、すべては深層意識的事態であるから、基礎になるイマージュの成立領域やイマージュの性質も様々であると井筒氏は強調する。

さらに読み進めよう。

 我々の日常的意識は、日常的に働いている限り、根源的イマージュ性は表面に現われない。鏡に写った事物をそのまま見ていることに気がつかない。「鏡を打ち破れ」という禅の言葉を実践するのは容易ではない。なぜなら表層意識内で作用するイマージュの即物性、事物密着性が強固であるからであると井筒氏はいう。 だが、日常的意識のなさかに、突然、現実的事物との結合を離れて、現実性から遊離したイマージュがどこからともなく現われ、意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがあると井筒氏はいう。「何らかの刺激で」意識が興奮したり、弛緩したりしたときこのようなことが起こる。このようなイマージュには現実的な裏づけがないので、無想の状態に引き入れる。井筒氏によると、東洋思想の精神的伝統では、シャマニズムが代表的な例として、このようなイマージュが重要な役割を担わされてきた。表層意識の立場からは妄想や幻想と見られても、深層意識の領域では真の意味での現実であると井筒氏は指摘する。

 常識的人間の日常意識に事物性から遊離したイマージュが姿を現わすと、異常現象や病的現象になるが、シャマンやタントラの達人のように、深層意識の超現実的次元を方法的に拓いた人たちだけが、この種のイマージュを活用できる術を獲得しているのだと井筒氏はいう。表層意識から深層意識への推移を最も原初的、最も明瞭な形で示すのは、シャマニズムであると井筒氏は主張する。なぜならシャマニズムは日常的意識とシャマン的意識が截然と分離しているからであるという。

 ここから、井筒氏は古代中国のシャマニズム文学の最高峰である『楚辞』を考察することになる。ともに辿ってみよう。

 井筒氏は、『楚辞』に現われるシャマン的実存には自我意識の三つの層、あるいは次元を異にする三つの段階からなる意識構造体が考えられるという。

一、経験的自我を中心とする日常的意識。

二、「自己神化」の過程において次第に開かれていく脱現実的主体性の意識。

三、純然たるシャマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識。

 『楚辞』の主人公である屈原は並み優れた人物だが、一の段階では普通の意識を持つ普通の人である。しかし、非凡な資質をもつゆえに社会から疎外された人物であるという自覚がある。自らを悲劇的実在として意識する。

 

……(略)

 世を挙げて皆濁り

我独り清(す)めり

衆人皆酔い

我独り醒めたり

……(略)

漁父曰く

聖人は物に凝滞せずして

能く世に推移す

世人皆濁らば

なんぞその泥を濁してその波を揚げざる

……(略)

 

屈原曰く

吾之を聞く

新たに沐する者は必ず冠を弾き

新たに浴する者は必ず衣を振るう

いずくんぞ能く身の察察たるを以て

物の文文(もんもん)たるを者を受けんや

 

寧ろ湘流に赴きて

江魚の腹中に葬らるるとも

いずくんぞ能く硈硈の白を以って

世俗の塵埃を蒙らんやと

 

漁父莞爾として笑い

(かい)を鼓して去り

乃ち歌いて曰く

滄浪の水清まば

以て吾が纓を濯(あら)うべし

滄浪の水濁らば

以て吾が足を濯うべし

遂に去って復た興(とも)に言わず

 

 全体を引用することは避けるが、世俗に妥協を許さぬ屈原の姿が描かれている。漁父はいう、並外れた資質をもつゆえ社会から疎外されているとはいえ普通の人間に過ぎない。彼の生きる世界もまた経験的世界である。詩人であるとはいえ、世俗のしきたりに従うがよいであろうと言っている。最後は道徳の問題になり、事実から遊離したイマージュは問題視されていないと井筒氏はいう。意識の三段階のおいて考えるなら、まず第一段は、経験的自我を中心とする日常的意識、第二段では日常的人間の主体からシャマン的主体性に変貌し、「聖なるもの」に近づくことのよって聖化されていく意識の主体的変貌が描かれていると井筒氏は指摘する。その神懸り状態が続く限りは神自身がシャマンの口を借りて第一人称で語るが、神が去った後はシャマンの人間の一人称に変わる。つまりシャマンと神は二個の独立したペルソナなのであって、しばしば神と人の「情事」にまで発展することもあると井筒氏は指摘する。

 のりうつった神が立ち去った直後のシャマン、神懸り直前のシャンには異常な興奮状態になり、経験の主体は神的主体であるが、直前と直後は経験の主体は人間的主体であると井筒氏は解く。人間的主体が住むところは当然人間的世界である。意識の第二段階においても慣れ親しんだ日常世界は目に映る。したがって第二段階の意識では山や木や水は名状し難い幽遠な様相を帯びると井筒氏はいう。神懸り前後の半ば神化された意識状態においては目前の自然的事物の現実に触発され、現実にありながら異次元的に遊離したイマージュ、つまり深層から立ち現われてきた「想像的」イマージュで描き出された心象風景ともいいえるものであるが、経験的存在とは別次元で活動するイマージュが立ち現われると井筒氏は説明する。

 

『九歌』「湘夫人」の冒頭の一説を井筒氏は引用する

  帝子、北渚(ほくしよ)に降(くだ)る

 目、眇眇(びょうびょう)として予(わ)れを愁えしむ

 嫋嫋(じょうじょう)たり、秋風

 洞庭、波立ちて木葉下(ち)る

 

(井筒氏の訳)

湘夫人とは湘水の女神、ここでは「帝子」天帝の御子という。湘夫人は、恋い焦がれるシャマンの設けた祭堂に降下せず、北の渚に降りる。遠い彼方に光る女神の姿。「神人合一」の期待が外れ、シャマンは人間的実存の次元に残る。彼の心は暗い悲しみに翳る。神を眺める彼の目は人間の目であり、しかし、意識はすでにシャマン的脱自状態にある。そんな彼の眼に映る自然は、上の詩句の最後の二行がそれである。これは普通の自然描写ではない。半ば「神化」されたシャマン詩人の意識に映じた心象風景である。

  このようにして見られ、言葉に換えられた風景描写が詩の言葉になっているのだが、ポエジー(という神とアナロジカルなもの)が詩人の心に降り、脱自的状態を作り言葉(表現)を創り出すことに似ていると私には思われるが、それはともかくとして、井筒氏が強調したいのは、外界に存在的根拠を持つ普通の事物も、経験的現実に裏打ちされない神々や妖鬼などと同資格で登場することであり、シャマンとは無関係の一般人から見れば幻想風景として登場するということである。シャマンの意識は経験的世界の現実とは、この第二段階ではつながっている。シャマンの目に眺められることのよって、経験的事物は「想像的」イマージュに変貌し、異次元のイマージュ空間に移されると井筒氏は指摘する。

 シャマン的自我意識の第三段階は、純然たるシャマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識である。この段階では始めから「想像的」イマージュなのでイマージュ化の過程は必要がないと井筒氏はいう。経験的世界で目にする事物はすべてある。山は、百神が住み山上には懸圃と呼ばれる神園を秘める崑崙山であり、若木と呼ばれる、高さ数千丈、大きさ二千余囲の神木である若木(じゃくぎ)と呼ばれる樹木もあるといった、経験的世界の事物の質料性の重みを感じさせないものばかりであると井筒氏はいう。つまり「想像的」イマージュの独自のあり方で存在し活動しているのだ。

  本物のシャマンは、「人間の魂にかけては偉大な専門家」(エリアーデ)であり、身体を抜け出した「魂」の旅するイマージュの国の地理を知り尽くしている。この「遠き国」に向かって魂を送り出す。この一時的にではあれ、肉体を脱出した彼の「魂」こそが、シャマン的意識主体であると井筒氏は指摘する。

  「遠遊」である、遥かなるイマージュ空間の旅路は、そこでの体験を言葉に移しシャマン的叙事詩となると井筒氏はいう。第一段階ではシャマンは人々の不義を憤り、わが身の不運に涙する人の形姿であった。その彼がここでは神話的世界の英雄になり登場する。

しかし、純粋イマージュの世界の世界は、シャマニズムだけでない。例えば、西洋のグノーシス、東洋のタントラ、密教のマンダラ空間があるが、マンダラのイマージュ空間は、密教的修行主体の脱自的意識である点が、第三段階の意識状況に符合すると井筒氏は指摘する。職業的シャマンは己のイマージュ体験の哲学的意味を問うことはなく、超現実的世界に「魂を遊ばせる」だけであるが、「魂の遊び」としてのイマージュ体験は詩的創造の源泉であり、自然に展開し神話になる。この神話こそシャマン的体験の言語的展開の場所であると井筒氏はいう。このような超現実的ヴィジョンに哲学的意義を認め神話を象徴的寓話に変え、存在論的、形而上学的思想を織り込んでいくためには、第三段階のシャマン意識を越え、哲学的知性の第二次的操作が必要であると井筒氏は指摘する。例として、荘子の哲学がある。シャマニズムの地盤から出発し、シャマニズムを越えた人の思想であると井筒氏は主張する。また荘周という思想家の「無何有(むかいう)の郷」の住人は原初的シャマニズムを超脱していると井筒氏はいい、『荘子』の冒頭に描かれる怪鳥、鵬(おおとり)、背の広さ幾千里、垂天の雲のごとき翼の羽ばたきに三千里の水を撃し、九万里の高さに上って天池に向かう鵬の宇宙飛遊は、「離騒」のシャマン的飛遊の絶えて知らぬ哲学的象徴性があると井筒氏は主張する。

中国を経て日本にたどり着いた密教的仏教もまた、「想像的」イマージュ体験を基に雄大な哲学的世界観にまで発展させた精神的伝統であると井筒氏はいう。例えば空海、金胎両部マンダラは意識と存在の深層に現成する「想像的」イマージュ空間の構造的提示であり、このようにイマージュ空間として自己顕現する存在リアリティーそのものの形而上学的秘儀を、思想家空海は探ろうとしたと井筒氏は解釈している。また、ユダヤ教神秘主義、カッバーラーや、イスラム思想のスフラワルディー系の照明哲学などがあると彼は指摘する。

 シャマニズムのイマージュ体験は、一般に詩作に行なわれる散発的に現われるイマージュを現実的世界の一部とする考え方とは違い、現実世界そのものの全体が、一個の渾然たる世界イマージュ的世界として顕現することを井筒氏は主張する。つまりイマージュ体験は一種の実在体験であるということである。意識も世界もイマージュ空間に転成してしまうことであると井筒氏はいう。もし経験的事物の実在性以上の実在性を認めるならば独特の存在論が生まれるであろうと井筒氏は説く。スフラワルディーは「形象的相似の世界」と呼んだという。「想像的」(イマジナル)な存在次元では、経験的事物のイマージュ、あるいは相似であるという意味で、我々の日常的世界で見聞し、行為した経験が基盤にあることが私には非常に興味深く感じられる。なぜなら詩人がイマジナルな世界を表出するとき、経験的現実の世界が描かれずに、観念的に走っているという非難を受けることがあるからである。経験的世界の出来事を主題にした詩は、読み手の共感が容易であることは理解できるが、詩が哲学的思惟からも考察するに匹敵するものと考えられるなら、井筒氏の論述は詩の実在体験において非常に示唆的であると私は考えるのである。

 神話から象徴的寓意に変成させ、そこに存在論的、形而上学的思想を織り込むには哲学的知性を必要とするという井筒氏の指摘は重要である。イスラームの神秘家スフラワルディーは「想像的」イマージュを、経験界の事物に似ているけれども、物質性をまったく欠くゆえに、フィジカルな手ごたえのある事物ではなく、それらとは似て非なる存在者と考えていると井筒氏は解く。これらの「似姿」(アシュバーハ)を「宙を浮く比喩」と呼ぶという。言語表現上の比喩ではなく、存在次元の移しによって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的な存在次元に「運び移され」そこで異次元的に、「宙に浮いて」いる存在者であると井筒氏は解く。彼の哲学的信念においては、経験的事物の方が、経験世界で「比喩」と呼ぶものの比喩なのであり、経験的世界に実在する事物よりも遥かに存在性の濃いものとして現われるのだと井筒氏は指摘する。その他、シャマニズム、グノーシス、密教などの精神的伝統を代表する人々にとって、現実世界の事物こそ影のような存在に過ぎないのであると井筒氏はいうのだ。この「似姿」「比喩」と名づけたものは「イマージュ」と述べてきたものであるが、スフラワルディーにとってはれっきとした実在なのだと井筒氏はいう。さらに井筒氏は、それらは質料的事物の「粗大」性に対して、「微細」であるとイスラーム哲学では表現する。インド哲学のサーンキヤ哲学でも同様であるという。

 「想像的」イマージュは深層意識的イマージュであり、事物の「元型」(アーキタイプ)を深層意識に形象化として露見させると井筒氏はいう。「元型」の生起と活動が深層意識的事象であることはユング分析心理で理論的にも実験的にも明示されていると井筒氏は指摘し、次の説明で詳細に解説していく。

 

(次回第十五回につづく)

 

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「不在の館」 小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社より

2016年01月30日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

七 不在の館

    

  《夢よ、愚かしき生よ。汝の魅惑の泡は、海が応える日の煌きのごとし。》

                         十七世紀無名詩人のエピグラフ

 

森を貫く銃声に鳥たちは一斉に飛び立つ。太陽はいくすじもの光線

を葉群の透き間に斜めに射しこみ、足許では水の流れがプレリュー

ドを奏でる。鹿の足音だろうか、落ち葉を打つ音が背後から聞こえ

る。もうずいぶん前から少年は樹木をすり抜けて森の外れに消えた。

 

(時に祝祭の灰塵(かいじん)が……)

 

あの館では暖炉の火が燃えて、戸棚に飾られた絵皿には橇を楽しむ

幼い二人の姉弟が揺れていたり、小さな活字の這う読みかけの本が、

寝椅子の側の床に敷いた年代物のキリム(黄色や赤や青の幾何学模

様はなんて素晴らしいのだろう!)のうえに投げ出されたりしてい

る。不在の主は兎狩りに出ているのではない。横幅三メートルの食

卓には、木片が葉の似像にくりぬかれた容器に盛られた二個の銀製

の胡桃や硝子の花瓶から針金のように伸びる枝枝があり、小さな赤

い実をつけている。

 

黒い窓枠から見える空はすでに灰色に垂れ幕のようにひろがり、遠

くでピアノが旋律をなぞっているように聴こえてくるのだが、四キ

ロメートル離れた海の、砂を曳く波の音がそのひとつひとつに蔽い

かぶさっては鍵盤から放たれた音の足跡を消していく。

 

庭の白い彫像が筋肉を隆起させた臀部はテラスに、右腕はいつか来

るであろう客に向けられ、そのサチュルヌスの滑稽な視線の定まる

ところに、さほど大きくない円型の水盤の中央から水が弱く噴き上

げ、そこから下の水槽にレース状のしずくがこぼれ落ち、丸い水滴

になって水面をころがっている。

 

館の住人は初老の男一人、夕暮れが訪れるまでの時間を書物に費や

し、時折り疲れた眼はつらなる活字を羽虫の群れに変貌させるのだ

が鳥が翼を休めるため枝に宿るように、睡眠が意識の岸辺に顕われ

る、その度にギーという悲鳴をあげる椅子を廻して、窓辺に置いた

書机の抽斗を背に、視線は室内の隅から隅に辿った。

         

雲が畳みこまれた茜色の空を見るにつけ、彼には昔の旅がよみがえ

り、追憶は此岸と彼岸の境を滅して訪れたが、生涯の残された日々

を修辞しようとするので、なされたことなされなかったことを反芻

しつづけなければならなかった。あらゆる事象が彼を呼び、紙片に

書き留められるのを待っているように思われた。

 

(時に翼が机上から羽搏いて……)

 

祖先の息吹が、われわれの身体を神経のように走る血管に翳を落と

すとき、旅人よ、広大なユーラシア大陸を西へと向かう馬群が、立

ち昇る砂塵を従え駆け抜ける幻影を目撃しなかっただろうか。征服

者の盛衰は夢の傷口から溢出する叫びとなり、彼らの信奉する神神

の争いになる。割拠する領土で培われる民族の通貨、すなわち言語

はさまざまな文明を簒奪しながら増殖しイマージュを刻印しつづけ

るだろう。

 

列柱の遠近法を縫うようにつぎつぎに胴体を陽にさらすブロンズの、

大理石の彫像。語りつがれた伝説上の英雄たちの背後から荒波が寄

せ、海上の都を呑みこんでいく。砂に埋もれた古代都市よ、われわ

れの現代の営みも建物も今ある姿は跡形もなく歴史の地層に消える。

 

ベルゲンのフィヨルドからモンテ・ローザの氷河を越え、ローマの

街角のオブジェになりはてた遺跡、アドリア海を南下しエーゲ海の

丘に聳え立つアクロポリスの神殿、さらに東の古都イスタンブール

の尖塔からアジアの邦々がインドまで名をつらねていく。讃えよ、

われわれの幻影(マーャー)は一炊の夢と滅びた虚空に、光がひかりの束を追い

つらぬき、ひとり詩人の言葉、すなわち肉体が見出されんことを。