ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「夏を惜しむ」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月09日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行

夏を惜しむ
小林稔

    かんかん照りの道を 学校から帰ると、一つの死が 私を

待ち構えていた。
    
十二歳の私は 悲しみを覚えることなく、一年数ヶ月の生

   命の結末に 口ごもる家族と離れ、ひんやりとした廊下で 

   仰向けに寝転んで、流れる雲の行方を 追っていた。
 
    別れるときの死顔が 作りもののように思えた。商店の裏

   道を抜けて 伯父と小さな棺を担いで お寺まで急いだ。
   
    えんえんと続くお経を縫うように、鈍い木魚の音が 規則

   的に響いていた。うだるような暑さの中で私は気を遠くして

   いた。

 
    突然に 一本の電話が鳴る。姉の二番目の男の子の死を知

   らされた。あれから十五年目の夏、弟のもとに去った 十八

   歳の死を想った。立つことかなわず、言葉一つ発せずに終わ

   った未熟児。うなり声は家中とどろき、睡眠を奪ったが、死

   の前日は さらに激しかった。朝起き 体に触れると動かな

   かった、と聞く。
    
    東京にいた私は 父のもとに帰った。姉と義兄が 私を待

   ち受けていた。

   
    棺の蓋を取りのぞくと 蒼白の顔面があった。目はきつく

   閉ざされ 引きつっていた。唇の割れ目から前歯が 覗いて

   いた。そこから朱が一筋、顎の辺りまで引かれ 干からびて

   いた。花びらを亡骸(なきがら)に散らせ 釘を刺した。
 
    コンクリート壁の部屋で 猫背の男が炉の鉄の扉を開け、

   骨を 無造作に取り出した。
 
    火葬された骨は 舞うようであったが、差し出す箸(はし)

   にすがったのは 軽さのためか。
 
    私は骨壷を 肩からかけた白い布にくるみ、炎天下の道を

   のろのろとお寺へと歩いていった。

 
    毎年、夏になると どこからか笛と太鼓の音が聞こえてく

   る。祭りの前日には 朝早く御神体を抱えた男たちが かけ

   声とともに 走り回る。
 
    今年もその日が来た。人がどっとおし寄せ、男たちは酔っ

   たように 神輿(みこし)を担いでいた。

  

                 copyright1998 Ishinnsha


「行水」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月09日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行より

   行水
   小林稔



       夏の樹々の葉叢(はむら)のすきまから、きらきらと き

      んいろの光が戯れている。
 
       アキオはランニングシャツを脱いだ。それから 半ズボン

      を腰から落としたとき、太腿から踵へ、ひんやりとした直線

      状の感覚が走ったように思った。

       庭に、母がしつらえた盥(たらい)が置かれてある。

       アキオは真裸になることを ためらった。が、やがて、十

      三年の時の流れが 背中から消えていくように、アキオには

      思われた。

       日の光が 瞳を貫き、視界を黒く塗りつぶしていく。

       アキオは一切を脱ぎ捨てると、庭に出た。盥の浅い水に腰

      を沈めて、両手で水をむすんだ。蝉の鳴き声にも耳をくれず、

      水に反射する光を見ていた。両足を盥の縁にかけ、肩を水に

      浸す。アキオは 気恥ずかしさに顔を赤らめた。

       あのブロック塀に、誰かの眼差しを感じても、アキオは自

      分の眼差しを 自分の身にひそめてしまうに違いない。

       アキオは姿勢を直すと、首筋に生温かい微風が通り過ぎる

      のを知って、半身をくねらせるのだった。

       背後に物音がする。突然、我に返った十三歳のアキオは振

      り返る。父が立っていた。眼前には萎(な)えた父の陰茎が

      あった。

       一瞬のことではあったが、見知らぬ男がいることに 畏怖

      の念を禁じることができなかった。真裸の父を見たのは こ

      れが初めてで 最後であった。


       十八歳の誕生日を迎えた穐男(アキオ)は、縁側に腰を降ろ

      して、あのときと同じ庭を見つめる。擦れ違いざまに見ただ

      けの父の肉体から、離反し、背いてきた。自分と父を断ち切

      らせたものは何だったのだろう、と穐男は しきりに考えた。


       昼下がりの庭を、宵闇が足音を忍ばせ 迫ってきて 縁側

      の石に足裏を落とし 物想いにふける穐男を すっぽりと包

      み込んだ。


「飴玉」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月09日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月発行より


飴玉
小林稔

        ふぞろいに並んだ 丈の低いガラスのケースのすきまから、

       くねくねと 細い坂道が空に昇りつめている。店の奥の椅子

       に腰を降ろした姉は、向かい合わせに座った 男の子の背中

       を支えるが、両足を姉の胴にからめ、上半身を そり返らせ

       るので、男の子の髪が地面に触れる。すると、そこに嵐のよ

       うな風が巻き起こるのだった。

        店先の方へ視線を投げると、見慣れているはずの町並みが

       一転して別の世界になる。そして 腹部に力を込めて起き上

       がろうとしたとき、口の中で転がしていた大きな飴玉が、男

       の子の咽喉(のど)に ぴたりと止まった。

        あわてふためいたのは 姉であった。男の子は頭部と手足

       を だらりと垂らした。苦しさに瞳を開けたまま、もがいて

       みたが 力がなかった。
 
        電信柱の陰で さっきから覗いていた男がいたが気づかな

       かった。真向かいの肉屋に吊るしてある 皮を剥いだ何頭か
       
       
       の豚と、その隣りの雛人形店に飾られていた 大きな羽子板

       が、輪郭を失い色の流れになって 渦を巻いていた。男の子

       の視界に虹の滝が逆流している。姉は青ざめている弟を抱き

       背中をしきりに たたいた。

        すんでのことに死神が、ひとりの少年を小脇に抱え 隠し

       去ろうとした。そのとき、咽喉(のど)にはまった飴玉が、

       おそらくは 熱で溶け出したのだろう、すぽんと落下し、飲

       み込んだ。男の子は あわてて息を吸った。たちまち生気が

        よみがえった。母と姉の顔が はっきり見えた。

       男の子は手の指を動かした。とても不思議なことに思うの
       
       だ。もう一度、ゆっくりと息をする。関節につながれた肢体
       
       が別々の生き物のようだ。
        
        動け、右足。次は左足だ。魂を吹きかけられた セルロイ
        
       ドの人形にするように 自分の体に命令するのだった。
       
        飴玉のように夕日に染まった小砂利の坂道を、男の子は踵
       
       を宙にさまよわせ 踏み出した。