ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「読者へ」ボードレール『悪の花』小林稔訳詩より

2016年01月01日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「読者へ」の翻訳詩

小林稔

 

7 読者へ AU  LECTEUR

 

愚かさ、過誤、罪、吝嗇、それらは

われらの精神にどっぷり居座り、われらの身体を弄ぶ。

われらは愛すべき悔恨を養っているのだ、

乞食たちが蚤、虱を養い育てるように。

 

われらの罪は堅固で、悔悛はだらしない。

気前よく告白を支払ったつもりにでもなって

ぬかるんだ道を喜んで、もとのところに引き返す

すべての穢れを卑しい涙で洗い流せると信じて。

 

悪の枕辺で、魅入るわれらの精神を

いつまでも揺するのは、まさしく魔王トリスメジスト。

そして、われらの意志である豊富な金属は、

博学の化学者によって蒸発させられ、煙を立ち上げている。

 

そいつは「悪魔」だ、われらを引き寄せる糸を握るのは!

ぞっとするような物にわれらは魅惑を見つけ出し、

日々、われらは地獄の方へ一歩また一歩と、

悪臭放つ闇から闇を、怖れることなく墜ちてゆく。

 

昔の、虐げられた売春婦の乳房に

口づけし、齧りつく貧しい放蕩者のように

われらは秘密の快楽をゆきずりに盗みとる、

しなびたオレンジを力まかせに搾り取るように。

 

百万の蛔虫さながら、われらの脳髄のなかで

押されひしめく魔物の大群が騒ぎ立てる。

息をする度に、「死」は眼に見えぬ大河になって、

鈍い嘆きの音を立て、われらの肺のなかへ流れ落ちる。

 

強姦、毒薬、短刀、放火、それらの楽しい図柄を

われらの惨めな運命の画布にいまだ縫い取っていない

というのであれば、それはわれらの魂が

ああ! 大胆さをまだ十分に持っていなからだ。

 

とはいえ、金狼、豹、牝狼

猿、蠍、禿鷹、蛇、それらのなかで

鋭い声で鳴き、吠え、唸り、這い廻る、

われらの悪徳という卑劣な動物園のなかにいる、

 

いっそう醜く、いっそう邪悪で、いっそう胸糞悪い者が一匹いる!

大きな身振りも、大きな叫びも立てないが、

好んで大地を廃墟にするであろう奴、

ひと欠伸しただけで、この世を呑み込んでしまうそいつ、

 

それが「倦怠」というものだ! 心ならずも涙に覆われた眼をして、

そいつは水パイプを燻(くゆ)らせながら、死刑台の夢を夢見ている。

読者であるきみよ、知っているかい、この繊細な怪物を。

――偽善者の読者よ、――私の同類よ、――私の兄弟よ!


ショパン論 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』より

2016年01月01日 | ショパン研究

小林稔季刊個人誌『ヒーメロス』20号に掲載


  『ヒーメロス』最新号(20号)2012年3月25日発行 無断転用禁止


書評 (前編)
情念のエクリチュール
小説『ショパン 炎のバラード』
ロベルト・コトロネーオ 河島英昭訳 集英社 二〇一〇年十月刊
小林 稔
―――――――――――――――――――――――
 

 今しばらくは私の音楽との関わりを通して、ロベルト・コトロネーオというイタリアの新鋭が、一九九五年十月に満を持して(訳者の弁)世に問うた処女長編小説、原題『プレスト・コン・フォーコ』(情熱の炎をこめて迅速に)の日本語訳を読みながら、主人公が音楽に抱いた思念を考え、それを一人称で書き進める小説のエクリチュールを考察してみようとするのが、この短い書評の意図するところである。
この書物を語りつぐ「私」なる人物、ピアニストの巨匠アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが七十五歳で亡くなった四ヵ月後にこの小説は出版されたことになるが、作者は「私」がミケランジェリであることは明かしていない。しかし、記述の内容から他の人物であるとは考えにくいことである。生前から謎の多い人物であるということのほかに、主人公の名を明かさない理由の一つに、ミケランジェリの音楽への思念は、あくまで作者自身の想像の域を出ないことにあるのではないか。当然のことながら作者の解釈にすぎないのだが、真の人物像にどの程度肉迫しているのかを読み手に納得させることができるかに、この小説の真価が問われるであろう。コトロネーオの描く〈ミケランジェリ〉が、私自身の〈ミケランジェリ〉と相違することを恐れながら、ドラクロアの描くショパンのデッサン画をブックカバーにもつこの小説を私は読んでいった。

「情念の筆跡というものもあるはずだ。」小説の書き出し、第一章の冒頭は、この一文から始まる。物語の中盤で、「私」に不意にもたらされることになる、これはF・ショパンの「バラード四番」の手稿譜を示している。十二章とエピローグからなるこの物語の第一章と第十二章、そしてエピローグが「私」の現在時、つまり一九九五年、スイス山中の山荘における、死の直前までになされる幼年時代の追憶、後年の著名なピアニストとの邂逅などのモノローグが記される。その間の第二章から第十一章が数年間のパリ滞在の回想になる。そこで偶然に知り合う一人の女性と、ショパンの手稿譜を「私」に託すロシア人男性との出逢いなどが語られる。
  
   一

五線譜に書かれた、なめらかに、荒々しく刻まれた音符の群れ、閃きを定着させる表音記号。例えばショパンのプレリュード集のある曲に人々は名前をつける。しかし彼は思うのだ、「音楽を何か別のものであるかのごとくに意味づけようと」すれば、「冒瀆以外の何ものでもない」と。

私に見えるのは一台のピアノだけだ。(p.10)

幼い子どものころ、母親がチェルニーの練習曲のために使用していたピアノに向かい、《幻想即興曲》を弾いていた瞬間、不眠の夜を過ごしたせいで発熱していた彼は、女性に対する想念がかすめていき、「漠とした不確かな霧の中へ」右手は速度を緩めていった。《作品》が生身の異性への関心を呼び起こしたのである。その後十四歳になった彼は、ラフマニノフのピアノ協奏曲四番ト短調を弾きこなした。「まるで全世界が私の気紛れに、平伏しているかのように思いこむのであった」。十五歳で音楽学院の卒業資格を所得する。あたかも、「成熟した女にならないうちに、あまりにも早く愛の果実を知った小娘のように」、男を見れば誘惑し思いを遂げながら男を閉じ込め、「男の目からおのれの妄念の代償を引き出そうと求めつづけるのであった。虚しくも性の虜になった自分自身を解放させようとするように。未熟であった彼からスタインウェイのピアノ一台は「調教師のように」才能を引きずり出し、人々は彼を天才と褒めそやしたが、彼は怯え戸惑うしかなかった。彼は自分が天才に値するものと思えず恥じてさえいたのである。今日の人々は彼を変人扱いにし伝記を書くように求める。彼はそこから解放されたいのだ。彼には「我慢がならない」。「私は自分のことを大切にしているだけ」である。今や音楽を読み解くことだけが日課になっていた。

 ヴァイオリンやチェロは演奏者の肉体の一部であるかのように音を響かせるが、ピアノという楽器では演奏者は「物理的に音楽から切り離されている」。「私」の情感を強く表現することには限界がある。ピアノには演奏者と音楽との距離が絶えずあり、楽器との対決を強いられる。そうであるなら、「音楽はそれ自体で漂っていくべきだ」と彼は考えるようになった。

楽器というものは、際限のない不実さで作られている。弾き手が若くして、自分の望むすべてを演奏するために、ピアノのテクニックを身につけていても、演奏するための円熟さを備えていなければ。ただし、それを実践できる円熟さを備えたときに、かつて若き日に身につけていた、あの指の完璧さを、失っていれば。そして八十歳の老人が同じ柔軟性を駆使して弾ける、と信じることができるのは、批評家たちだけである。(p.30)

演奏家にとって《作品》はどのような存在なのかを考えたとき、一様でないことは想像される。作曲者とその《作品》との関係が深く関与するからだ。この小説の主人公「私」(ミケランジェリ)とショパンについて考えてみよう。「私」は幼少のころから難曲を弾きこなせる技術を獲得している。彼の人生経験は、大人たちが《作品》に喚起される人生を完璧に弾きこなすことで擬似体験される。右に引用した「演奏するための円熟」さは、楽譜を読み解くことと実人生を送ることの複雑な様相のもとで養われるだろう。あらゆる現代批評がそうであるように、《作品》は作者を超越するものとして解釈される。音楽に人生を擬えるのは彼にとって冒瀆であった。

  二

ショパンの音楽には、創作の契機となった現実の体験を超えて踏み出そうとする音の世界がある。とはいえ、リストのように技巧を凝らしたピア二ズムに走らない。それは現実と隔離した別の世界だ。ショパンには、イデア世界に羽ばたこうとする高揚感と、現実に楔を打ち込むような激情が湧出し、それまでの美的な世界に亀裂をもたらそうとする欲求が生まれる。それゆえ現実との接触は絶えずあり、たんなる夢に終わることはない。少年の無垢な空にとつぜんに襲ってくる深い哀しみを表現するモーツアルトとも、厳格な理想主義の、恐ろしいまでの至福を垣間見せるベートーベンとも相違するショパンは、ある意味で「青春」の原型を表現したといえるのではないだろうか。
二十代半ば、偶然にもミケランジェリの『フレデリック・ショパン』というレコードに私は出逢った。一九七一年にミュンヘンで録音されたとライナーに記されている。A面には十のマズルカが第四十三番から始まり次が第三十四番というように置かれ、おそらく曲想の配慮からミケランジェリ自身が順番を構成し直したと思われる。B面には《前奏曲嬰ハ短調作品45》、《バラード第一番ト短調作品23》、《スケルツォ第二番変ロ短調作品31》の三曲が収録されている。私はこれらを「青春三部作」と勝手に名づけた。私は熱心なクラシック・フアンではなかったが、それまで聴いた演奏とはどこか違うものを感じた。ミケランジェリの奏でる音楽を聴いているとき、私はピアノの鍵盤や演奏者を連想することがない。鍵盤から遠いところで音楽そのものが自らを奏でているといった印象であった。私の固定観念では、ピアノの華やかさはどこか貴族性を匂わせるゆえの虚飾に結ばれ、真の人間性から遠い存在に思われていたのであった。だが、ミケランジェリのショパンは質素な暖炉の燃える、あるいは窓からアルプスの見える山小屋から聴こえてくるような響きであった。それでいて崇高な音の響きを耳に残した。それ以来、彼の弾くベートーベンやラベルやシューマンを録音したレコードを立てつづけに聴き、ミケランジェリ以外の演奏にも耳を傾けたが、最初に受けた印象は消えることがない。さらに三十歳にならんとするころ、私は無謀にも自らピアノを弾くようになったのであったが、演奏することで作曲者の内面に深く分け入りたかったという一念からであった。

程度の差はあれ、すべての芸術家は実人生と芸術から知りえた他者の人生と《作品》を受容し、創造の糧にしていくのだが、ショパンという作曲者と「私」という演奏者の、芸術への志向が交差する場をもちえたということがわかる。芸術は人生の模倣ではなく、人生からすべてを分析できるものではなく、その領域からの「超出」こそが芸術の真髄であるということである。それは後期ロマン主義と称されるショパンのいくつかの《作品》を特徴づけるものであると思われる。例えば《エチュード作品10、25》。練習曲という枠を超えて全体を一つの紆余曲折のある流れとして捉えている。あるいは《プレリュード作品28》の構成を考えてみれば納得されるであろう。それぞれの最終曲の劇的な終わりは、音楽に終止符を打とうとするかのようだ。ショパンの人生に降りかかった破局、それが愛や疾病であろうと、危機を梃子に「流れ逝く時間」を直視ようとしている。《バラード第四番作品52》。この楽曲のフィナーレの激しさもその一つに過ぎないのである。主人公の「私」は、ショパンの楽譜からショパンの見つめた「時間の真髄」を音で追っていくのだ。それは一つ一つが原子のような音の流動である。それは演奏者とピアノとの対決を通してのみなされることであった。
ところが「私」に転機が訪れる。ショパンが「死の直前に書き遺したという《バラード第四番》の手稿譜」の予期せぬ出逢い、それはいかにしてなされたか。それがこの小説の主題であるが、「私」の音楽に陰翳の足跡を刻むことになった。

  三

あたかも芸術論らしき様相を呈していた第一章が終わり、第二章から第十一章までがこの長編小説の本領である。しかし、帯文に記された「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」であると期待して読むならば落胆するに違いない。すべて一人の音楽家の内省的告白以上のものではないからだ。
死の年、つまり一九九五年の追憶は十七年前に始まる数年間に遡ることになる。当時ミラノに居を構えていた彼に自動小銃が突きつけられる。一九七八年四月のことだ。アルド・モーロ前首相がテロリスト集団の手に落ち、ミラーノは厳戒体制下にあった。四名の官憲はドイツ・グラマフォンとの契約書簡の入ったカバンを奪い、その内容を理解できない彼らは「私」を反政府の危険分子として連行し彼は留置所で一晩過ごした。翌日彼は釈放されたが、身辺を整理しイタリアを離れた。
彼が亡命の地に選んだのはパリであった。セーヌ川のオルレアン河岸に面したアパルトマンに、スタインウエイ社、一九三八年製のCD三一八型のピアノといっしょに身を落ち着かせた。そのアパルトマンはサン・ルイ島にあるミツキェヴィッチ記念館とポーランド図書館のごく近くに位置していた。ミツキェヴィッチは生涯を亡命のうちに過ごしたポーランドの詩人で、その詩に触発されたショパンは四曲のバラードを書いたと伝えられる。ポーランド図書館にはショパンの遺品や自筆譜、デスマスクまで展示されている。
ピアノという楽器は室内の環境や空気の湿度によって微妙に音色を変える。ましたそこに弾く者の心理状況が加われば鍵盤の深さがいつもと違っているように感じられもする。彼はミラーの滞在時から《ノクターン作品48‐1》の録音を考えていた。このピアノは完全であると主張する技術者に抗議するため、しばらく指を置くことなく、サン・ジェルマン界隈のカフェを梯子してはそこに座る女性を眺めていたが、いく日か後に再び情熱が湧き上がりピアノに向かうことが多くなる。
ある晩、ラスパイユ大通りとレンヌ通りの交差点を少し過ぎたところにあるカフェで、一人の若い女性に出逢うことになった。「彼女の顔立ちは、ドラクロアの絵に描かれた、大きな帽子の娘のことを、思い出させた」。以後、彼は帽子をかぶった娘と名づけるようになる。娘を連れて(彼女がそれを要求したのだ)帰宅したのであったが、翌日、音楽について語ることをあれほど嫌っていた彼が、あのノクターンについて息つくひまなく話しつづける。なぜか?

ショパンのあの曲と、あの女に私が触れて服を脱がせることのあいだには、類似したものがあったからだ。(p..46)

そう記してすぐに否定する。音楽には他の動きに類似しているものはなく、明晰なものであると。「ひとりの男の性的衝動と音楽感覚との危ういバランス」を保とうとする。「私にとってダンテ風の地獄」とまで記される。この二つの相反する思いを断ち切ろうと、彼女にもう逢うことなく、ノクターンからも離れようと彼は心に決めたのであった。
「私が九歳か十歳のころ」であったと記す。ベートーベンの《熱情》を求められた演奏会で、多くの演奏者に賞賛を浴びせかけるために作られたに過ぎない速度に反抗し、最終楽章をテンポを速めずに弾いたのであった。そのとき彼は「自分が弾く作曲家の主人になった」ことを知った。それ以来、「自分の完璧主義との闘い」を始めるようになった。「世界と生き方に対する私の確信とヴィジョンとを明確に反映させようと」する「微細な部分への妄執」が、いっそう孤独への道を突き進ませることになった。このような彼だけが感じ取る「差異」について聴き手としての他者がいなくなり、「同じ感性を共有」してくれる者がいなくなることが問題である。それゆえの孤独である。それはあらゆる芸術上の問題を喚起する。耐えなければならない孤独であるが、それはどのような有意義をもたらすのであろうか。

私はピアノを弾くことによって人生を過ごしてきた。いままでに誰かと何かの取引をしたこともない。(p.56)

 三メートルはある二階のアパルトマンの窓の下で、五時間も私のピアノに聴き入る男がいた。「私」が何者であるかを明らかに知っている。「私」はドビュッシーの《ベルガマスク組曲》をしきりに弾いていた。髯を生やした虚ろな眼差しのその男は、「悶え苦しみ」「金縛りにあったように身動きができなくなっていた」。
「金銭の必要に迫られているのだろうと想像してみる。とにかく事情を知るためにカフェに誘い話を聞くことになった。ロシアで三度「私」のコンサート聞いたことがあるといった。エフゲニーという名のパリに亡命してきたロシア人であることを自ら明らかにするが「私」は強い疑いを持つ。しかし男がバラード第四番の自筆譜について語り始めると関心を持たざるをえなくなった。この楽曲が終結すると誰もが思っていると、第二一二小節以降コーダの始まり、「鏡の内に映し出されたかのように」「感情の爆発のごときものへと収斂し「作品の終わりを告げる決然とした怒り」が繰り広げられる。「抑制されて、ひそかに持続していた愛が、知性の戯れのように、最後にこらえきれずに爆発して、火花の感覚のように、周囲を驚かすのにも似ている」と「私」は考えるが、その終結部(コーダ)について明確にすべき言葉をもたないでいた。別れぎわにエフゲニーはショパンの自筆譜を後日持参することを告げる。「あなただけが、完全に弾きこなせることができるでしょう」と言い残して。男は何かしらの金額で「私」と取引をしようとしていることを暗に知らしめたのである。

   四

敢えて待ちつづけようとする好奇心の形態もあるのだ。(p.60)

 ミケランジェリは高名なピアニストの中でも最も録音する曲が少ないピアニストの一人だ。録音だけでなく、まれに開催されるコンサートを突然キャンセルすることでも有名である。この『炎のバラード』という小説において著者コトロネーオは、「私」の思念としてさまざまな想いを書き込んでいる。ミケランジェリ自身の自伝がなく真実は闇に包まれてしまった以上、他者の詮索に委ねるしかない。第三章はピアニストになり変わった「私」の告白である。ドビュシーの前奏曲の第二巻の収録のためパリに来ていた。十二の小品で全三十八分のために十年の歳月を費やしてしまったことを嘆いている。ルービンシュタインなら、第一巻、第二巻の合計二十四曲を録音するのに二日間で終えてしまうというのに。収録に時間をかけるピアニストにグレン・グールドがいる。「私」よりもっと時間をかけ、バッハの《インベンション》に二十年弱を費やした。ひとつの曲のある部分を納得できるまで何十回となく繰り返し、最良の部分をモンタージュする。聴き手にとっては何の相違も感じられないというのにである。しかし「私」はそうはしない。「私」と「私のピアノ」は一体であり、作品は演奏されるその瞬間における「私」である。その瞬間において「私の未来は、すでに、再構築されるべき過去と、似ているはずだ」と確信している。あのロシア人が金銭を巻き上げようと、よく分からない品物を(自筆譜)売ろうとすることなど「私」にとって何ほどの価値もないことだ。あのとき「私」はなんと動揺していたことだろう。「一時的な虚脱状態」にあったと語られる。これらはピアニストが晩年にスイスの山荘でパリにいたころを回顧する場面である。さらに遡って「私」は幼いころの自分を回想している。
 夕暮れ時、三階の自室で本を読んでいた。「夏の光に輝いていたあの一日が、ゆっくりと翳って、険しい様相を帯び、一瞬のうちに、夏から冬へとあたりが変わった。」家の周囲に闇が訪れ、人工の雪が舞っていた。そのとき白い服の母が現われ、何か言い出そうとする「私」を制止するように視線で示し、ピアノを弾くように命じているのが、母の表情から読み取れた。譜面台に広げられた音符は読み取ることができない。鍵盤の上に両手を凭れかけるだけで体を震わせるだけであった。母は不思議な笑みを浮かべるとピアノの前に座り、「不意に家を襲った雷鳴のように、激しい響き」を奏でた。《練習曲(エテュード)作品一〇の第十二番ハ短調(革命)》であった。「母の左手が鍵盤の上に降りて圧倒的な速さで低い音調を生み出していった」ので「私の心臓は激しく高鳴った。」アルフレッド・コルトーが弾いていたときよりいっそう速く正確であった。これほど速く弾かれた「エテュード」を聴いたことがないと思った。「私の正気を失わせた」ほどである。おそらく「私」のピアノとの、ほんとうの出逢いであった。当時、パリで失意の「私」に訪れた夢のような過去が甦る。世間ではなぜ私が「作品一〇」を演奏しないのかと言う。あの幼いとき聴いた母の「エテュード」が、夢の中で何度も弾かれ、「私」はそのときから、この曲は「生涯にわたって演奏するまい」と決めたのである。いかなる評論家も「私」の心の苦しみは理解できないのだ。
 
私のスタインウェイが独りでに鳴りだすのではないか、あの忌まわしいエテュードの録音を上に乗せた機械が、自動装置のように弾きだすのではないか、と私の不安はつのった。(p.65)

 「私」は願っていた、「過去の数世紀を復活させる力が、沈黙の譜面が白と黒の鍵盤のうちに響きわたりながら、人生の神秘に合致していくことを。」神秘を追い払いながらも追い求めていることになる。「物悲しげな始まり」へと向かうが、それは「無であった」。「無」であるがゆえすべてを可能にする音の神秘、それはどのような場所へも、魅惑的な肉体のまで入り込む。レンヌ通りのカフェで知ったあの娘にも。しかしそれ以上考えようとすると恐ろしさに襲われるのであった。「類似によって音楽を考えようとしたからだ。」

音楽は《意志》だ、《表出》ではない。音楽は世界との関連をもたない。音楽はそれを説明しない。ましてや世界を創出したりしない。その形態を変え、その気質を修正する。私は自分の惑乱や自分の感情に意味を与えるために、楽曲をあれこれと探しに戻ったりしてはならなかった。(p.68)

 宇宙は「音楽的周波から成り、不連続で」あり、不調和であり、不規則であるが、ピアノによって再調整され聴覚によって最後は調整されると考えたいのだが、それでは「私」は「事物を調整する術」を心得た男であるか。しかし当時の私は論理的に調整が困難であった。背反二律において「自分を鍛えてきた」ということができる。「私の肉体と聴覚の幻影」の関係性を断言できずにいるのだ。「私」は古本屋の立ち並ぶセーヌ河岸を歩く。ショパンの《前奏曲(プレリュード)作品二八》の二十四曲がつぎつぎに心に甦ってくる。そうしているうちに足取りは速められエッフェル塔への橋を過ぎ、ジェラール・ド・ネルヴァルが一八五三年に運び込まれた精神病の診療所があったことを思い出した。かつて『シルヴィ』を何度も読んでいた少年時代の自分を顧みた。「私」は読書の好きな若者で、読むことを禁じられた本の書棚もあったが、父の書斎からホラティウス、マルティアリスはおろか、ジョルダーノ・ブルーノ、ジローラモ・カルダーノ、ジャーコモ・カサノーヴァ、プローティノースまで見つけたのである。「最後の作家の、少年に宛てた危険な手紙」までも父は所有していて、大人になってから「私」に説明したのであった。スクリャービンの《ピアノソナタ第十番》の悪魔的で異教的な悩みを、ひどく掻き立てる音楽であったが、言葉を必要としないから許されていた。ネルヴァルの『シルヴィ』は、音楽的物語の破片であるショパンの前奏曲と同様に「私」を魅了していた。ネルヴァルがリストと会ったことは記録されているが、リストと同時代のショパンがネルヴァルと会ったことはないだろう。しかしお互いに名前は知っていた可能性が高い。『シルヴィ』にショパンは熱狂したのではないのか。なぜなら「未解決の部分を含んでいたから」。数日前訪ねてきた友人の言うように、「私」は、ネルヴァルが病んでいた同じ病に冒されているのだろうかと思う。シテ島が眼前に姿を現してきたとき、日が暮れていて深い疲労を感じた。家に帰り、自由に楽譜を選び取れる書棚を見て不安も疲労も消えた。

   五
 
一九七八年六月二十四日早朝、差出人の記載されない一通の手紙を受け取ることになる。「いっさいの世俗的な触れあいを絶っていたが、まだ研究に没頭できずにいく日も当てもなく歩き回っていた。しかし苦しみや不安は消えかけていた。差出人の不明な手紙は恐怖を覚えたが、読むうちに謎は消えていき至福の感覚さえ味わえるようになっていた。手紙は例の謎のロシア人であった。丁寧な裏側には威嚇が張りついてゆすりに手馴れた男であることが読み取れた。カフェで知り合いになった娘が次の朝「私」の家を出るところまで目撃している。「私」を尾行していることまで知らせている。この手紙から与えられた傷は今でも痛む。

 低俗な人間のために自分が窮地に立たされ、自分の創造力を阻まれ、自分が生み出そうとしていた完璧な世界を、すなわち演奏されるべき姿のように演奏されたショパンの練習曲を、混乱に落とし入れられたことには、我慢がならなかった。(p.90)

 《バラード第四番》の完全な手稿譜は誰も所有していない。世間に流布している印刷された楽譜と違っているなら大変な事態である。コーダの部分が始まる第二一一小節から二三九小節は誰もが当惑させられるのだ。「それらに音楽の原子や微細な部分を理解できればと願ってきた。このページにまつわる秘密をどう物語ればよいのか。このコーダを書いていたときショパンはノアンにいた。ジョルジュ・サンドとともに。ショパンはコンサートが開けないほど肉体は病んでいた。親友のウジューヌ・ドラクロアも数日間過ごしたことのある家であった。《バラード第四番》とドラクロアの絵画の大作の間に色彩に関してある種の対話があると「私」は絶えず考えていた。サンドは凡庸な作家でショパンの音楽をほんとうには理解していなかったと「私」は考えている。ドラクロアはショパンを理解していた。おそらくノアンに出入りしていた人物はこのバラードを何度も聴いていたに違いない。ショパンは自ら弾いているうちに何度も書き換えようとしたであろう。ショパンとドラクロアはお互いを真の友人と見なしていたが、相手の芸術の細部を理解していたかどうかを「私」は疑う。「私」はドラクロアの絵が好きである。「あの豊饒な色彩の海に溺れる感覚」が。ルーブル美術館には「二つに引き裂かれた、ショパンの肖像画」が展示されている。「私」の祖父は一八七四年の競売でこの絵を落札しようとして入手しそこねたことがあった。(祖父は素人のピアニストでリストの前でピアノを弾いたこともあり、ドビュシーとも親しかったと聞いている。「私」が生まれる四年前に他界していた。)ドラクロアはサンドの欠点を、ショパンの方は天賦の才と偉大さを見抜き描いたのではないかと考える。「私」があのバラードを愛するのは私自身に似ているからだと告白する。「自制心と熱情、理性と狂気、そして最後に到達する神秘。それらの総体といってもよい。」いく年か前にショパンは《前奏曲作品二八》を完成していた。マヨルカ島での辛い経験をショパンに思い起こさせる。サンドの語るショパンは、「幻覚に囲まれ」た「忌まわしい病人」である。若手ピアニストの練習曲集を聴いても、「彼らの演奏が練習以外の何ものでもない、と感じてきた。」前奏曲集も聴いたが、「冷ややかに弾かれる」だけで、「日々、苦しみ、咳き込んでいたショパンの、あの絶望の気配は、とうてい感じ取れなかった。」そのような演奏になってしまうのは、彼らが技法の妄執の虜になっているからである。グレン・グールドがそうであるように。彼はショパンを弾かなかった。トロントの風景はバッハの風景にふさわしいだろう。もはやそこには修道士も亡霊もいないから。
 「私」の妄執はモスクワに、ロシアの風景にある。ロシア人はショパンを真に理解したためしはなくてもである。ショパンはバラードをホーランドの国民詩人、ミツキェヴィッチの詩行に想を借りた。ロシア人は侵略者である。「侵略者には、バラードが孕むポーランドの精神を理解できない。」ロシアの圧政下にあったホーランドはショパンの苦しみの種であった。にもかかわらず、ロシア人のひとりが《バラード第四番》の手稿譜を保有しているとは奇怪なことである。「だが、なぜ、一度は失われた手稿譜が発見されたのか。「私」はそれを熱情で繫ぎ合わせ再構成したようと「当惑するばかりの熱狂とともに、神秘を暴きたい、と思い立った。」それにはあのロシア人と会わなければならなかった。彼にあって手稿譜を見せてもらい、本物かどうかを確認しなければならなかった。本物であるかどうかを調べるには、ショパンのことなら何でも知っている、ロンドンにいる古い友人と会わなければならなかった。

   六
 
小説『ショパン 炎のバラード』の第五章は、翻訳本の帯の裏面に「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」と記されるにふさわしい部分である。一般の読者はそういった展開こそ興味をそそられるものであろう。登場人物によって明かされる話においてであり、全体的に多くを占めていないとしても。しかし、この小説はミステリーではない。ひとりのピアニストの心の葛藤を主題にしているのだ。つまりミケランジェリというピアニストに関心をもったことのある人であれば、奇人とさえ噂された演奏上の完全主義とはどのようなものであったのか、なぜ彼が私たちの心を打つのかを考えさせる小説ではないかと私は考えるのだ。とはいえこの小説は芸術論や音楽批評ではない。ピアニスト本人が告白する自伝でもなく、綿密な調査を尽くして書かれたものであっても虚構を駆使した小説である。主人公のピアニストが作品の異稿にこだわらなければならない以上は、その行方はストリーを要求することになる。
ロシア人が所有すると語るショパンの手稿譜の真偽を確かめるため、「私」はロンドンに住む友人を訪ねる。ボストンで生まれたアメリカ人であるが外交官の父に連れられてロンドンに住み始め、その後イギリス国籍を得た男である。「私」がそのジェイムズと名のる人物(仮名で語ることを「私」はつけ加える)と知り合いになったいきさつは、ロンドンで美雲か担当官をする、母方の叔父がジェイムズの父と親しかったことによる。「私」より四歳年上である。若いころ将来を期待されるピアニストであったが、叔父から伝え聞くところによると、「二十歳を過ぎたころ、彼は強烈な精神の枯渇に襲われて、音楽から、一挙に、遠ざかった」という。別の人が語るところによると、登山中の事故で障害を及ぼす後遺症によりピアニストを断念したということであった。今は二年前(およそ十五年前)に亡くなってしまったが、そのころの彼は音響再生装置に関心をもち世界中から機械を蒐集していた。それらの中には精巧を極めた機械があり、リヒャルト・シュトラウス、グリーク、サン・サーンス、スクリャービン、マーラー、ブゾーニ、ドビュシーなどの演奏を再現することができた。ドビュシーを聴かせてもらったときは、彼が自作を弾く作曲家となったのではないかと怯えさせるほどであった。

私は、作曲した者の権威や、その正当性を確立する者の権威に、怯えやすかった…(略)他人によって書かれたもの、与えられたページを、無限に解釈し、説明することならばできる。ベヒシュタイン(自動ピアノ)は、要するにジェイムズの裏返しだった。(p.107)

ジェームスの書棚にはさまざまな作曲家の手稿譜の写真版や複製版が収納され、それらの資料集をまとめ仕事をしていたのである。彼は「私」にショパンの《バラード第一番》の古い話を話し始める。資料を棚の最上部に梯子を使って取り出し示し、「私」に読ませる。たった二ページに過ぎない、このト短調の楽譜の手稿譜がとんでもない高値で売りに出され、彼の友人のコレクターが買い取ろうとしていたが、それを見せてもらった彼はそれが贋物であると見抜いたというのである。真贋を見分けるには内容を理解していなければならないという。「音符の配列のされ方」、印刷された楽譜をまるで写し取ったかのような書き方から贋物であると判断される。ジェームズは別の、《マズルカ作品五九の三》の自筆稿の写真を示し、インクの染み具合や紙の汚れや歪みなどを指摘し、本物であることを指摘する。そして話が「私」にロシア人がもちかけている手稿譜にまで及ぶのであった。ショパンの楽譜を知りぬいている「私」に売りつけようとする危険を侵すものは一体誰なのかと彼は疑問視する。さらに一ロシア人がなぜ親しい友人でさえ、いやヨーロッパ中に秘密にされている「私」の住所を知り訪ねてきたのか、《バラード第四番》の完全な手稿譜がなぜ存在しないのか謎だと「私」に語った。不完全な手稿譜は二つ存在している。一つはニューヨーク、もう一つはロンドンのボドレアン・ライブラリーにある。後者はメンデルスゾーンの妻が所持していたものである。偉大な音楽家がその一部を受け取るなどということがあるだろうか。それに対して「私」は異議を唱える。ショパンは初め四分の六拍子で書き始めたが、その後八分の六に変更して書きつづけた。初めに書いた楽譜はそのまま残り、友人が見つけ大切に保有していたにであろう。ニューヨークにある手稿譜はそれで説明がつくが、ボドレアン・ライブラリーの手稿譜は第一三六小節までしか残されていないことの説明ができないし、それ以降の手稿譜はどこにあるか知られていないのだから。
 ジェイムズは一人の人物の名を口にした。フランツ・ヴェルトというピアニストで、ナチスの犯罪人であり、一九四五年、ポーランドの人の恋人と、チリのサンティアゴに身を隠したという男を。彼は「美青年で、魅力的」であり、ベルリンで多くの人々にもてはやされていた。彼は「特権的な階級を通じてのみ、近づきうる文化に弱かった」。サンティアゴではバウアーと名のった。ベルリン時代、ヴェルトは宮廷のピアニストになり、ナチスの重要人物たちと交友を結んだ。ジェイムスの友人は彼のコンサートを聴いて当惑したという。「なぜならピアノによる霊媒術は彼の(ヴェルト)の諧謔精神を刺激し、興味深いものに思われたから」。ヴェルトは秘密の手稿譜を知る機会をもっていたであろうと「私」に語った。その手稿譜の中にはモーツァルト、リスト、メンデルスゾーン、バッハ、ヘンデルなどの未発表作品があったし、ショパンのものもあったであろう。しかしなぜベルリンに辿り着いていたのかは解明できない。ナチスがパリを占領した後にベルリンに移された可能性はあると語った。
 現在の「私」は、当時ジェイムスが知りえなかった、ヴェルトに関することを知りえている。先述したポーランド人の恋人はクリスティナといい、ともにベルリンを発ち、デンマークに行き身を落ち着かせ、それからオスロに移り、ロンドンに移り数日間滞在しダブリンに行き、そこから大西洋を渡った。後にクリスティナは別の男と駆け落ちした。そのとき彼女はヴェルトがもっていた手稿譜を持ち出してしまった。彼女は(一九七六年にブエノスアイレスで死んだ。ジェイムスはその手稿譜を探そうとしたが徒労であった。ロンドン滞在時にヴェルトは手稿譜を売らなかったのであるから。「私」にわかったことは、バラード四番の手稿譜はどこにでもありうるということであった。実際、手稿譜の多くはベルリンから持ち出されモスクワに渡ったのである。あのロシア人が言ったのは嘘ではなかった。バラード四番の手稿譜は、「パリから盗み出され、ナチスによってベルリンに運ばれ、ベルリンから赤軍によってモスクワに移された」のである。あおのロシア人はそこから手稿譜をもう一度パリに持ち込んだのである。
 ジェイムスの部屋には一九二〇年代のものであろう、スタインウェイのグランドピアノが置かれていた。

時どき、何かを弾いてみたりする。だが、ある日、不意に魂を奪われて、わたしにはその影だけが残っているようなものだ。それゆえ、すでに知っている音色の、あとだけを、たどっている。回転する円盤に刻まれた物音を。あるいは、どれだけ優秀なピアニストであっても、そこまでは決して解けなかった謎を。いわば、不意に、その意味を自分に明らかにしてくれるような、沈黙のページを。(p.127)

ジェイムスの独り言のような語りに「私」は一言も返さずピアノのまえに腰を降ろす。譜面台には《ノクターン作品九第一番変ロ単調》が開かれてあった。ノクターン集の最初におかれる曲である。「技術的には非常に単純であるがゆえに、危険なものであった」と主人公の「私」は考える。私自身もかつて弾いたことがあるノクターンである。遥かなものに寄せる思いが静かに始まり、それが記憶をこちらに現出させる奥行きをもたせて、旅をするときの想念に満ちあふれた曲という印象をもつ。「私」はジェイムズの前で弾き終えると、しばらく沈黙が二人のあいだに訪れたが、それを破るようにジェイムズは楽譜の十五小節目が始まる四小節を指でたどった。フォルテ・アパッシオナート(強く熱情的に)から始まりクレッシェンドがきて、コン・フォウツァ(力をこめて)の部分である。
「魂を両手から失うとは、どういうことか、ご存知ですか?」とジェイムズは言った。右記した小節に正しい解釈を与えられないことであるという。そういう状態は憂鬱(スプリーン)である。「憂鬱が、いわば不意に襲ってきた炎のように、精神と肉体とを一挙に包みこむこと」であるとジェイムズは語る。彼の蒐集した「魂がない機械仕掛けの怪物」を「私」は眺め、「ある日、わたしは魂を奪い取られしまったらしい。その影だけが、わたしには残されている。まさにそれと同じ音を、たてているのです。ロールに刻まれた音を、わたしは……」と口にはしなかったが、「私」は彼の言おうとすることを理解したように思ったのであった。



     後編(七~十三)につづく。『ヒーメロス』20号に、全編一挙掲載されています。


「コンコルド広場」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より掲載

2016年01月01日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊より

コンコルド広場
小林稔


セーヌの岸に沿って歩いて行くと、グランパレ、プチパレの円蓋が見え、さらに先にエッフェル塔の遠景がある。

                    私たちが引き寄せられるように向かうのはコンコルド広場だ。マリーアン

トワネットが処刑された地点にオベリスクが立っている。荒れ狂う海原に屹立し渡った、アレク

サンドリアから航海した記憶を夕陽の射したその切尖に留めて。

      この街の地下墓地の十字路には夥しい数の死者が葬られて、その間隙に、ミシェランの性能の良いタイヤ

が地下鉄の線路を、猛スピードで回転し続けている。

   
           突如、ショパンの楽曲が、今はマーラーの『シンフォニー四番』ではなくベートーベンの『皇

帝』でもない、私たちの脳裡を疾走したのはショパンの『バラード一番 』。

      青春の矜持は咲き乱れる紅い薔薇、終息することのない夢は海に注ぎ込む銀色の大河のように。

                    めくるめく音階を滑り降りて駆け上がり、息をついて再び駆け上がる高み

で、意を決して一段一段と降り、加速させ転がり落ちて行く。この街と私たちが別れる時は近づいている。

           
                生涯に再びこの地に立つことがあるだろうか。


 離れる私たちの後ろでオベリスクは一瞬、傾いたように見えた。

夏の微風に包まれ、夕暮れの空に聳え立つ金字塔、オベリスクよ、かつて無名の詩人がこの街で、ある時は哀しみに心

を裂き、ある時は夢に燃えた青春のあったことを永遠に記憶せよ。

                               私たちの視線の先、シャンゼリゼ通りの真ん中に

凱旋門が悠然と立つ。街灯が光を放ち、闇をいっそう深くしていた。



copyright 2003 以心社


[フーコーの変貌と真理ゲームという概念 小林稔「自己への配慮と詩人像」より掲載

2016年01月01日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

〔長期連載エセー〕
自己への配慮と詩人像(六)  『ヒーメロス』14号2010年6月10日発行
小林 稔

30 フーコーの変貌と「真理ゲーム」という概念

 プラトンを中心とする古代ギリシアの哲学は、紀元前一世紀から紀元一、二世紀のヘレニズム・ローマ期に継承され、真実の言説を主体化する技法や実践が重んじられたが、それがどのようなものであったかをフーコーに導かれながら考察してきた。第一段階は聴くこと、読むこと、書くことについてフーコーの分析に沿って辿ってみた。聴くこと、つまり聴覚はロゴスを主体が摂取するときの重要な関心事であった。プラトンの『国家』では、音楽と詩を一括りにして危険視される、いわゆる詩人追放論なるものを考えてみた。すべての感覚のうちで聴覚は最も受動的であるがゆえに、欠点と利点の両方を備えているのである。グレコ・ローマン期の哲学者によって、聴覚は強く魂を魅惑させるものであることから、理性に対する敵対とロゴスへの覚醒の両義性が説かれた。聴覚はセネカによっても尊重されたが、やはりある種の技法が必要であると主張された。また書くことと読むことにおいてもさまざまな技法がストア派の哲学者たちによって考察された。キリスト教との比較において論述を展開してきた。(キリスト教については次回以降、独立して詳しく論じる予定である。)
 主体は、真理の主体になるため、まず真実の言説を師から聴くことを求められた。導かれる者は沈黙を強いられ、師の言説には真理が求められたのである。弟子において主体化される真実の言説の方法論を考えるとき、そこに見えてくるものがパレーシアという概念であった。パレーシアとは語る主体に要求される道徳的資質であるとフーコーは述べる。ここまでが前回の概略である。今回はパレーシアについてさらに考察してみたい。(前回に論じたプラトンの「詩人追放論」は聴覚の受動性に関連して挿入した論考であり、パレーシアとは直接の関連性はないことをお断りしておく。)

 フーコーの書物あるいは講義録にパレーシアという概念が表れたのは最晩年のことである。より詳しく
は、この論考が準拠する『主体の解釈学』(一九八二年の講義)の後半部分から表れ、『真理とディスクー
ル』(二〇〇二年筑摩書房刊)は、パレーシアについての一九八三年カルフォルニア大学のバークレー校の講義を書物にしたものであるが、そこではパレーシアが中心テーマになっている。この書物の訳の巻末で、中山元氏によるフーコー哲学の転向が解説されている。パレーシアを論述する前に、パレーシアという概念がフーコーに訪れた推移を辿ることは、私が書き進めているこのエセーを理解するためにも必要なことなのでここで紹介しておくことは無駄ではないだろう。
 中山氏によると、フーコーは初め考古学的見地から真理の問題を考えていた。それはカントから示唆されたものである。カントは理性の考古学を考えることで、人間の思考の前提条件となっているものを探求しようとした。それに対して、フーコーは真理が可能となる前提条件を考察することを構想した。ある命題が「真理」と判断されるためには、どのような歴史的条件が必要とされるかを考えたのである。中山氏は進化論の例を挙げ、「進化論の命題が真理として認識されるためには、生物についての概念がアリストテレス的な伝統から一新される必要があった」「そのためには、古代や中世のエピステメーから、近代のエピステメーへと、知の枠組みが変動する必要があった」ように、永遠不動の真理などはなく、それぞれの時代の知の前提条件での真理に過ぎないということであろうと述べている。『言葉と物』の基本的なコンセプトはここにあると思われる。
 しかし、そこに留まらずフーコーは、「真理を語ることがいかに権力を生むか、他者の語る真理に服することで、どのような権力的な場におかれるか」を重要と考えるようになったと『真理とパレーシア』の巻末の解説で中山氏は述べている。今度はニーチェの系譜学から示唆されたのである。真理の考古学から真理の系譜学へと移行した。「ニーチェが示した系譜学という概念は、ではなく、という観点から、真理の問題を考察するものである」と中山氏は指摘する。ここでも真理は相対化される。「誰がどのような意図で語るかを考えなければならないし、現実世界での役割を考えなければならない」、「真理を権力との関係で分析するという視点を貫こうと」したと中山氏は述べる。『狂気の歴史』や『監獄の誕生』などの書物の基本テーゼであろう。
 フーコーの転向はここで終わらなかった。さらに「一九七〇年代末から一九八〇年代はじめに」、「真理を語る主体という側面から考察する必要がある」と考え出したのである。「真理を語る主体の変貌」を語り始めるようになったのである。それはまたフーコー自身の哲学の変貌でもあったのであろう。(私は、パリ滞在を含むヨーロッパ、アジア、アフリカ放浪から帰ってきたばかりで(一九七六年十二月三十一日)、次の年からアテネフランセに一日中立てこもり、フランス語の学習はもとより、ギリシア語、ラテン語、フランス文学、フーコーの哲学をフランス語で行なわれる授業を受講していたころである。『オイディプス王』『アエネーイス』『オーレリア』『性の歴史』『狂気の歴史』などを学んでいた。『性の歴史』の授業では、フーコーが第一巻『知への意志』を刊行したまま(一九七六年のフランスで刊行、日本語訳は一九八六年刊行新潮社)、八年間の沈黙の時期を迎えていた。「知への意志」を原書で読みながらオードブラン夫人(アテネフランセの教師)の配布するフーコーの最新インタビュー記事などを読んでいた。)今になってみれば、『主体の解釈学』の巻末に、この書物の校閲者であるフレデリック・グロの詳細な解説やその後のフーコーへのインタビュー、講義録などによって、沈黙の八年間にフーコーに何が起こっていたのかが知れるのである。
 例えば「講義の位置づけ」で引用されているフーコーの『快楽の用法と自己の技法』(一九八三年)を書き出してみよう。「哲学が思考自身への思考の批判的作業でないとしたら、今日、哲学とはいったい何であろう。もし、また哲学の本領が、自分の知っていることを正当化するかわりに、別の仕方で考えることが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとすることを企てることのうちにないとしたら、いったい哲学とは何であるか」。この発言をグロは、一九七六年から一九八四年の間の変化を知る意味で重要であるという。そしてまた、この私のエセーの骨格とする『主体の解釈学』にまとめられた、一九八二年のコレージュ・ド・フランスの講義は決定的に重要であるとグロは指摘する。

 最近(二〇〇八年筑摩書房刊)出版された『賢者と羊飼い・フーコーとパレ-シア』という書物で、著者の中山元氏は、「哲学者の語る真理そのものよりも、真理を語る哲学者に注目することで、ヘーゲルとはまったく異なる哲学史を試みた」ものとして、カール・マルクスの若き時代の学位論文『デモクリトスの自然科学とエピクロスの自然哲学の差異』を取り上げ、晩年のフーコーの哲学的行為との類似性を指摘している。マルクスはヘーゲルのように哲学の思想の真理性に注目するのではなく、真理がどのように語られるかという視点から、真理を語る賢者の像を重視しようとしたと中山氏は指摘する。マルクスは「賢者が真の学問の現実の姿として示される」ことに関心をもち、真理を語る個人の歴史という観点からギリシア哲学を描き出そうとしたのである。七賢人とされる初期の賢者、ソクラテス、ストア派とエピクロスの賢者に分けられる。「神が賢者の口を借りて真理を語る。アテナイの人倫のうちに、生身の身体をもってごく自然に生きている」のが初期の賢者の姿であり、そこから「この人倫が神の境地から独立してくる」ようにな
り「生ける芸術品として登場する」と中山氏は述べる。マルクスは『エピクロスの哲学』(大月書店刊)において「民衆はみずからのうちから、それが彫塑的な偉大さで登場するのを見る。最初の賢者たちの場合と同じように、彼らの活動が普遍的なものを形成するところでは、彼らの発言は現実に適用する実体、つまり法律となる」と述べる。しかし、ソクラテスにおいてこのような関係は破綻した。「ソクラテスはアテナイの人倫ではなく、みずからの魂に聞こえてくる声、ダイモーンに従ったからである」。つまり、ソクラテスは「神の言葉でもなく、アテナイのポリスの人倫の真理でもない。」実体をもたぬ主観性なのである。彼は人々の足を止め、みずからの魂の配慮について説教を続ける賢者なのであると、中山氏はマルクスの考えを要約する。次の三番目の賢者は、ストア派とエピクロスである。彼らはプラトンとアリストテレスを継承する賢者である。「エピクロスはデモクリトスの自然哲学を作り替えることで、心の平静を保ち神について観想するソフォスとなりえたか」をマルクスは述べているという。ソクラテスには語るべき真理はなく、ひたすら魂の配慮を求め、実質的な内容は語られず、無知の知が打ち出されるだけである。プラトンの描くソクラテスはイデアの理論を説く人物として存在するが、ソフォスとしてのソクラテスはそのような人物である。中山氏は、マルクスは「真理を生きる者である賢者の変身の経過が、ギリシアの哲学の進展を象徴し、それを動かしていくと考えた。この生き方の系譜と語られる真理の系譜には深い絆がある」と指摘する。このようなマルクスの視点とフーコー晩年の視点の類似性は興味深いことである。転向後のフーコーは病に倒れるまで、「真理を語る主体の系譜学」とも呼ぶべき学を展開していった。

 先に述べたように、「真理を語ることでどのような主体が構成されるか」という視点から、真理のゲームという概念が誕生したのは、カント、ニーチェと示唆されてきたフーコーが、次はウィトゲンシュタインの言語ゲームという概念に示唆されたからであると中山氏は指摘する。ウィトゲンシュタインの言語ゲームの理論では「言語とはなにかという問いを拒む。語の定義というものは、語によって語ることができない」、「これは自己言及的な悪循環に陥るからである。」「語を語によって定義するのではなく、実際に使われる方法によって認識する必要がある」という主張であると中山氏は述べる。フーコーに引き寄せて考えれば、「真理の本質について語るのではなく、現実の世界という力関係の場において、どのようにして真理が語られるかを考察することが重要になった」(中山氏)のである。パレーシアとは現実世界で真理を語ることであるが、「言語ゲームと同じように」「真理を語る主体にとって、真理を語るという行為がなにを意味するのかが問われ」、「さらに言語行為の理論と同じように、真理が語られることによって他者のもとに生み出されるさまざまな影響を考察する」。つまり「真理を語る主体と真理を告げられる他者との関係に焦点をあてようとする」ことであると中山氏は解説している。
 『主体の解釈学』の訳者、廣瀬浩司氏の巻末の解説によると、権力は変更可能で流動的な諸関係の総体として分析されるべきだという「監獄の誕生」以来の定義をあらためて確認したうえで、このような「権力の戦略的領野」としての「統治性」の分析においては、自己との関係の分析が不可欠であることを強調し、そしてこの関係においてしか、政治的権力に対する「抵抗点」はないかもしれないとフーコーは付け加えていることを指摘する。「戦略の根拠を、権力側からではなく、いわば内側から組織し直すものであるとも言える」といい、「主体への移行はといえるような、個人的で主体的な経験の図式が規定され始めたのは、十九世紀以降である」というフーコーの記述から、「抵抗の可能性」という問題の立て方を、より広い射程で考え直そうとしているように思えると廣瀬氏は述べる。「真理を語る主体」についての考察においてパレーシアという主題が重要になってくるのだという。ここまで確認した上で、パレーシアについてフーコーの語ることに耳を傾けてみよう。

31 エウリピデスの悲劇に見られるパレーシア  

 フーコーは『真理とディスクール』の冒頭で、パレーシアという語の定義をしている。語の意味は「率直に語る」ことであるが、それだけではまったく十分ではない。そこにはさまざまなパレーシアのゲームがあるのだ。最も早くこの言葉がギリシア文学に登場するのはエウリピデスの悲劇であるとフーコーは述べる。紀元四世紀末と五世紀を通してキリスト教の文献にも表れ、パレーシアを行使する人をパレーシアステースと呼ぶ。真実を語る人という意味である。しかし先述したように、フーコーはそこで語られる真理とは何かということに関心を寄せているのではなく、真理を語る主体に、真理を語ることが何を意味するのかを分析しようとしている。真理を語る主体とそれを受け止める他者との関係を考察するのである。十七世紀のデカルト以降の哲学では、明証性が導き出されるまで真理と見なされることはない。それに対して、古典古代のテクストでは、語る主体が道徳的な特質をもつ人であれば真理を所有していることが保証されたのである。このように時代により前提条件が異なれば真理とされるものが異なる。先述した「真
理のゲーム」とフーコーの呼ぶ所以である。紀元前五世紀から初期キリスト教の時代のパレーシアをフーコーは分析しようとしているのだが、当然ながらパレーシアには変遷が見られ、フーコーは、弁論術、政治、哲学との関係から詳細に論じている。
『真理とディスクール』の第二章第一節(p32~p112)において、フーコーはエウリピデスの六つの悲劇を取り上げ、さまざまなパレーシアの特性を指摘している。手短に挙げてみよう。
 『フェニキアの女たち』では、オイディプスの息子たち、兄エテオクレスと弟プリュネイケスの争いがテーマである。遺産を「鋭い剣で分けあうがよい」という父親の呪いの言葉を回避するため、一年ごとにテーバイを交互に支配すると取り決め、まず兄が統治するが、一年後に兄は弟に王座を譲らなかった。弟は兄から王座を奪いテーバイを占領するため軍を進める。それを知ったイオカステ、つまりオイディプスの妻にして母親、しかも彼らの母親である彼女は、争いを回避するため話し合いを提案する。イオカステは兄ポリュネイケスにテーバイを追われて苦しかったかを尋ねる。ポリュネイケスは答える。「何よりもまず、自由にものが言えぬこと」が辛いと打ち明ける。「自由にものが言えぬ」とは「パレーシアができないことを意味する」のである。「それは奴隷と同じことですね」とイオカステは声をかける。つまりパレーシアの権利を失っていることはいかなる権利も行使できない「奴隷の境遇」にあることであるし、また支配者に対して批判できず、支配者の権利に制限を与えるものがなくなるということであり、パレーシアとは支配者を批判し支配者の権力に制限を加える権利であるということがわかるとフーコーは述べる。
 『ヒッポリュトス』は、義理の息子ヒッポリュトスを愛するファイドラの物語である。ファイドラは相手の名を明かさずに乳母にこの恋を打ち明けるが、その直後に、身分の高い女性が夫以外の男と密通し夫や子供に恥をかかせる例を語り、母親を誇りに思っている息子にパレーシアの権利を行使して欲しいと願う。男性は家族の不名誉を意識すると奴隷になってしまうとファイドラはいう。つまり、市民の地位にあるものに与えられるパレーシアは、市民であるだけでなく社会的な資格と道徳的な資格が必要であることを示しているとフーコーは指摘する。
 次に『バッコスの信女』では、キタイロンの住む王の羊飼い、王の伝令である男が、バッコスの信女たちが山で混乱と無秩序を引き起こしているので王に報告する。ギリシアでは喜ばしい報せをもたらす使者は報われ、悪い知らせを伝える使者は罰せられる伝統があるので、王に、「パレーシアを行使し、知るかぎりのことを伝えてもよいか」と尋ねると、王はほんとうのことであれば罰しないことを約束する。ここでは、パレーシアテースになるのは自由人だけでなく召使にも許されているが、正直に話さない限り、パレーシアの権利を行使できない。もし王が立腹すれば真理を認識できない悪しき支配者になることになる。いうなれば「パレーシア契約」というものを認めることであるとフーコーは指摘する。これには制度的な裏づけはないので王の道徳的な義務に過ぎず、羊飼いにとっては真実を語ることでリスクを負うという理由から、契約はそれを減らすことを目指していると指摘する。
 『エレクトラ』は、娘を神の犠牲に捧げられた母親の怒りと姦通が重なって悲劇的な結末をもたらしたアガメムノン家の伝説を物語る悲劇である。僭主でありクリュタイメストラの愛人であるアイギストスの二人がアガメムノンを殺したので、息子のオレステスが父の仇討ちをした。その直後にパレーシアが行使される。オレステスは死骸を隠しておいたので、母親のクリュタイメストラはアイギストスが殺害されたことを知らず、娘エレクトラに会う。エレクトラは奴隷のような地位にいる。母親とエレクトラは対決する。母親は、夫を殺したのは娘イフィネゲイアを神の犠牲にしたからであることを語る。「さあ、言い分があるなら言ってごらん。何でも言いたいことを言って、答弁するがいい、お前の父親の死が不当であることをね。」「なんでも言いたいことを言う」がパレーシアという言葉で述べられている。エレクトラは言いたいことを述べた後で殺されることを恐れるが、パレーシアを行使する。母親のクリュタイメストラは女王であるのでパレーシアはしない。パレーシアはクライの下の者が上の者に真実を伝えるときに使うものだからからである。すぐ後で息子オレステスと娘エレクトラは母親を殺すことになる。ここでも「パレーシアの契約」が取り交わされたが、パレーシアの権利を認めた者(母親)が、パレーシアを懇願した下の位の者(エレクトラ)によって殺されることになる。『バッコスの信女』とは逆転している、いわば「逆向きの罠」であるとフーコーは述べる。

32 神の沈黙をテーマとする『イオン』

 エウリピデスの悲劇のいくつかを取り上げてきたが、『イオン』と『オレステス』についてはフーコーは詳細な解説を試みている。序幕(プロロゴス)で劇の背景をヘルメスが語る構成を取る。それによると、アテナイの初代の王エレクテウスにはクレウサ、ケクロプス、オレイチュイア、プロクリスなどの子供たちがいた。娘クレウサだけが生き残り、アテナイの王家を継ぐ。ある日、崖の下で花を摘んでいたクレウ
サをアポロンは強姦する。クレウサはやがて男の子を産む。父のエレクテウスにはこのことを知られたく
ないので、子供を置き去りにする。アポロンはヘルメスに子供をデルポイ神殿に運ぶよう命じる。やがてこの子は神殿で育てられ、神の僕(しもべ)になる。この子がイオンである。アポロン以外にはこの子がどこから来たかは知らない。母クレウサはこの子のことはどうなっているかわからず、死んでしまったと思っている。クレウサは異邦人のクストスという人と結婚する。クストスは異邦人なので、アテナイで暮らすにはさまざまな問題が起こる。それを変えるには子供をもうけることが重要になるが、子供を授からないでいた。そこで彼らはデルポイに行き子供が生まれるかどうかを聞きにいく。クストスは子供が生まれるかどうかを尋ねるが、クレウサはアポロンとの間にできた子供はどうなったのかを尋ねたのである。
 アポロンの僕イオンは神殿の戸口で出会う。しかし母親と息子であることは互いに知らないのである。母と子が互いを知らないことは『オイディプス王』と同様の設定になっている。しかし『オイディプス王』では最初から真理を語るアポロンに対して『イオン』ではアポロンは最後まで沈黙を貫くのである。前者では人間は神の語る真理を回避しようと努力するが、後者では真理の解明に励むのは人間のほうである。「むりやりに利益を求め、またかりにそれを手に入れたとて、何になりましょうか、神々が進んで与え給うものこそ、私たちを益するのです。」とイオンは語る。劇の最後ですべてのことが明かされるが、アポロンは最後まで現われず、アテナ女神がアポロンの伝言を携え登場することになる。「かのアポロンは、過ぎし日への咎めが表沙汰にされぬよう、そなたらの面前に現われるのをはばかって、わらわをさし遣わし、かく言伝し給うー―」と語り、イオンに向かって「そなたを生んだのはこれなる女、父はアポロンである、してそなたをかのクストスに授けたのは、産みの父なるゆえにではなく、そなたがいとも高貴なる館の世継ぎとして、認められんがためである。しかし事の秘密が洩れたために、そなた母の策略により、また母はそなたの手にかかって、あやうく死なんとするところを、御神が然るべき手段もて救い給うたのだ。神の御意図では、一応そのことは伏せておいて、アテナイに返ってから、はじめてこの女がそなたをわが子と認め、またそなたも、自分が彼女とポイボスとの間に生まれた子であることを知るように、事を運ぶ手筈であった」と説明する。この悲劇では沈黙と罪は神の側にある。神の沈黙に抗しながら人間がなんとか真理を発見し、真理を求め闘うことに中心のテーマがあるとフーコーは指摘する。アポロンは「反パレーシアステース」であり、イオンとクレウサがパレーシアを行使する者であるという。神はクストスに神殿を出て最初に会うのが息子だと告げるが、それは嘘で神殿の戸口で待ち構えるのはイオンだったからである。つまりアポロンは真理を語る者ではなく嘘つきなのだとフーコーはいう。クストスは自分の息子だと信じて喜び抱擁するがイオンは突き放す。二人の質疑応答が始まる。父親が異邦人であれば子供はアテナイの市民と認められないという不安がイオンの脳裏を掠める。エウリピデスはこの場面でアテナイの政治生活や王政の政治生活を批判しているとフーコーは指摘している。イオンは一方ではエレクテウスを継ぐ第二代の王家の後継者を望んでいる。最後の場面にならなければ真理は明かされないので、この時点では私生児と見られることを心配するが、最初はイオンを客人として迎え、息子であることは隠しておき、しかるべきときに息子として後継ぎにしようというクストスの提案をイオンは受け入れるのである。イオンは母親がアテナイの女性であることを望むが、それはパレーシアの権利を享受しようとするからである。民主制と王政をイオンが批判的に語るのは、イオンがパレーシアテース的な人物であるからだとフーコーは指摘する。母親が不明ではパレステースの権利はない。イオンにそうさせているのはアポロンが反パレーシアステースだからである。母クレウサが真理を語ることで息子がパレーシアステースになれる。したがって母クレウサもパレーシアテース的な人物であるとフーコーはいう。
 クレウサの方からパレーシアを分析してみよう。イオンによる政治的パレーシアとはまったく異なり、アポロンの過ちを公の場で糾弾しようとする。アポロンが自分にした強姦という行為、息子を奪い、クレウサの問いに答えないこと、クレトスに息子を与えたことに憤怒し、真実を語ることを決断する。『オイディプス王』では、アポロンの語る真理が信じがたいものだったので、人間はアポロンの神託を受け入れなかった。それに対して、『イオン』では、アポロンは嘘をつき沈黙するので、人間が真理に導かれていくのである。クレウサはアポロンの嘘でイオンがクストスの実の息子だと信じている。クレウサの糾弾がパレーシアであるのは、自分よりも強い権利を持っているからである。クレウサの批判は長い詩行で書かれているが、その特徴を挙げると次のようになる。公的な場での非難であること、光り輝くアポロンの姿と、洞窟の暗がりで若い娘を強姦するレトの子という姿の対比、竪琴を弾く音楽の神アポロンと泣き叫ぶクレウサ。彼女のパレーシアは自己告発、自分自身についての真実を告発するものである。イオンとクレウサのそれぞれ違ったパレーシアを並列することで、最後に真実が明かされるとフーコーは指摘する。イオンがクレトスの実の子供だと信じるクレウサは、イオンを殺そうとし、それに気づいたイオンは逆にクレウサを殺そうとする。これはオイディプスの状況を逆転させたものであるとフーコーは主張する。
 この悲劇で、真理が開示される場がデルポイからアテナイに移動し、アテナイ市民のパレーシアによって、神々が人間に語るものではなく人間が人間に語るものとなったことをエウリピデスは伝えたかったのだとフーコーは指摘している。
 
33 『オレステス』に見られる政治的パレーシア

 エウリピデスの悲劇『オレストス』は、貶めた意味でパレーシアが使われているエウリピデス唯一で最後の劇であるとフーコーは語る。オレステスはエレクトラとともに母クリュタイメストラを殺したために裁判にかけられている。まずフーコーは『真理とディスクール』において、『オレステス』884~931の長い引用をしてアテナイの刑事裁判の手続きを解説する。市民のすべてが集められ、伝令が事の次第を読み上げた後、「発言を求めるものはいないか」と尋ねる。平等な発言の権利を示すものであり、イセ―ゴリアと名づけられたものである。最初に発言を求めたものはタルチュビオスとディオメデスであった。前者は、ホメロスの世界から借りてきた神話の英雄であり、アガメムノンがトロイア攻略の際、使者の役を果した者であり、権力者に依存する自由人とは言いがたい人物である。したがって率直に話すことのできない男である。母クリュタイメストラとその愛人アイギストスを殺したオレステスを有罪とすると主張する。後者は比類ない勇敢さと雄弁において広く知られていた英雄である。前者とは異なり自立した人物であり、穏健な解決策、殺人に対する伝統的なポリスからの追放という処罰を提案する。両者の意見に市民たちの意見も分かれるのであった。次に登場する二入の人物は神話上の英雄ではないので名前は伏せられている。フーコーによると、二つの「社会的な類型」を表している。一人は悪しき発言者の類型であり、民主制にとって悪しき発言者の代表者の類型で、先ほどの英雄タルチュビオスに相当するという。「おしゃべり」が特徴である。フーコーは古代ギリシアの文学から、「おしゃべり」がいかに恥ずべきものと考えていたかを論じているが長くなるのでここでは省略しよう。つまり、パレーシアステースらしからぬ人物である、あるいは貶めた意味でのパレーシアを行使する人と市民に思われていたのである。語るべきことと、語らざるべきことを区別できることが、肯定的なパレーシアである。この三人目の登場人物のもう一つの特徴は「厚かましさ」であるとフーコーは指摘する。さらに、「アルゴス生まれでないのにアルゴスの人間になっている」ということと、「がなりたてる」ことである。「自分の発言に筋道をたてることに自信をもっているのではなく、大きな騒がしい声で、聴衆のうちに情緒的な反応を引き起こすことに自信をもっている」人物であるとフーコーは分析する。最後の特徴は、「下品にしゃべりまくる」ことである。教養や知恵が欠けていることを意味する。「すぐれた教育と、知的で道徳的な教養に基づいて」政治的なパレーシアが行使されなければならないことを示すものであるとフーコーは語る。最後の発言者(四番目にあたる発言者)は、「見かけは立派ではありませんが、勇気ある方」と裁判の報告で使者が語る人である。市場にはまれにしか姿を見せない人とも語られる。それはアゴラと呼ばれる市場での集まりで時間を費やす職業的な政治家ではなく、また民会に参加して報酬を得ようとする貧民でもないことを意味していると、フーコーは説く。参加するのは重要な問題が生じたときだけである。それは自作農である。エウリピデスが自作農の政治的な能力の高さを強調していることをフーコーは指摘する。このような自作農の特徴は、ポリスを守るために優れた戦士になる用意があること、よい提案のために言葉を使うことができること、つまりよい識者であるということである(数名の召使や奴隷を従えているので)。最後に道徳に優れた人物であることをフーコーは挙げている。この四番目の発言者はオレステスを無罪にすべきだと主張する。それだけでなく「その功績により、冠を授くべきだ」とさえこの自作農は主張したのである。
これほどまでに、この自作農がオレステスを讃えるのはなぜか。フーコーによると、自作農の無罪の主張は平和の意志を尊重するものである。アテナイはスパルタとペロポネソス戦争のただなかにあったことを考えるべきであるとフーコーはいう。アテナイは紀元前四一三年敗北をした後、『オレステス』が初演された紀元前四〇八年には海軍の再建が少しあったものの、まだ不安定な時期であり、戦争か平和かを選択する議論が沸き起こっているころであった。民主派は戦争支持であり平和共存を望む保守派は和平案を支持していた。民主派の指導者はクレオフォンで第三の発言者の否定的なパレーシアの特徴を備えた人物である。保守派の指導者はテラメネスという人物で、市民としての主要な権利と政治的な権利を持つのは自作農だけと考えている人物であり、好ましいパレーシアテースの特徴をもつ四番目の発言者にあてはまるとフーコーは指摘する。ギリシアの劇はいつも市民を啓蒙する意図があるので、オレステス裁判をテーマとするこの悲劇にもそれが見られるのである。
『オレステス』でパレーシアはいかなる問題を提起しているのかを要約してみよう。フーコーは、肯定的なパレーシアと否定的なパレーシアの対立が見られ、『イオン』で見たような神との関係でなく人間の役割のうちだけでパレーシアが発生していると分析する。つまりパレーシアの危機が描かれているというこ
とである。パレーシアの権利を行使できるのは誰か。市民のすべてがもちえたパレーシアの権利を、社会的な地位や個人的な徳を基準にだけ与えるべきではないか。法の下の市民の平等であるイソノミア、すべての人に与えられる発言の権利セーゴリアと異なり、パレーシアには制度的な用語としての明確な定義はなかったとフーコーは指摘し、「真理を語る人物に、いかにして法的な形式を与えることができるかという問題」が生まれていたという。パレーシアの危機の二番目の側面はパレーシアと真理の関係である。率直さや勇気だけではパレーシアは成立せず、教育や個人的な訓練の必要性を問い始めたのである。「民主主義そのものには、真理を語るために必要な特質や、真理を語る権利を手にするために必要な特質をもっているのは誰かを、決定する力」はなく、「言語活動としてのパレーシアは、真理を開示するための十分な条件」ではなく、いまや「自由、権力、民主主義、教育、真理の関係が、政治的な制度の間に重要なとして登場してきた」、つまり「発言の自由に緊張が生まれ、危機として受けとめられた」とフーコーは語る。