ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔「小さな老婆たち」ボードレール『悪の花』訳詩

2013年07月19日 | ボードレール研究

19 小さな老婆たち

ボードレール『悪の花』の訳詩

小林稔

 

   一

 

古い首都の曲がりくねった襞のなか、

そこではすべてが、恐怖さえ魅惑になるのだが、

私は宿命的な気質のままに待ち構える、

奇妙で、老いぼれの、可愛い生き物たちを。

 

この関節が外れたような怪物たちもかつては女であったのだ、

ユリウスの妻エポニーヌ、それとも古代ギリシアの遊女ライスか!

愛そうではないか、腰は砕かれ、猫背で、捩れた肢体の怪物たちを!

いまだ、魂としてあるのだ。穴のあいたペチコートと、冷たい布地を身に纏い、

 

彼らは這いつくばり、意地悪な北風に鞭打たれ、

乗合馬車の車輪が廻るうるさい音に身を打ち震わせながら

花模様や判じ絵に縁どりされた小さな手提げ袋を

聖遺物さながら小脇に抱え込んでいる。

 

よちよち歩くその姿は、まったく操り人形そっくりで

傷を負った動物のように、足をひきずり歩く者たち、

「悪魔」が容赦なくぶら下がる、気の毒な呼び鈴のように

踊りたくもないのに踊りつづける者たち! 腰がすっかり折れ

 

それでも錐のように突き刺す眼、

夜に水が眠る穴のようにきらめく眼、

それらは、光るものすべてに驚き、笑う、

小さな女の子の神々しい眼を、彼らはもっている。

 

――あなたはお気づきかね?

老婆の棺桶の多くは、子どもの棺桶とほとんど同じくらい小さいことを。

これらの柩が互いに似ていることに、

博識なる「死」が、奇怪で魅惑的な一つ趣味を象徴している。

 

私は蟻のように群集のうごめくパリという画布を横切って、

いつも一人の虚弱な亡霊を垣間見るたびに

この壊れやすい生きものが、新しい揺籃の方へ

なんともゆっくりと立ち去るように思えるのだ。

 

さもなくば、幾何学に思いをはせ

私はこの不具合な四肢を見ながら考える、

職人はいくたび、このような身体を収める

箱の形を変えなければならないのかを。

 

――これらの眼は、数えられぬほどの涙の粒で作られた井戸、

冷えた金属がこびりついて光る坩堝……

これら神秘的な眼は、克服できない魅力があるのだ、

峻厳な「不運の女神」に授乳され育てられた人にとっては!

 

 

   二

 

かつてのフラスカティの、恋するウェスタの巫女、

喜劇の女神タレイアに仕えたる者。ああ! その名を知るは

埋葬された後見だけ。昔チイのヴォリの木陰に

影を落とした、名高き軽薄な女よ、

 

すべての女が私を酔わせる! だが、これらのか弱い女の中には

苦悩から蜜を作り、彼らに翼を貸し与える「献身」に

「強い翼持つ鷲頭の天馬イポグリフよ、天まで私を

連れてっておくれ!」と呼びかける者もいる。

 

ある女は、祖国によって試練を与えられ、

またある女は、夫から背負いきれぬほどの苦痛を与えられ、

また別の女は、わが子によって胸を突き刺された「聖母」、

どの女も、彼女たちの涙で大河をつくることができたであろうに!

 

 

   三

 

ああ! これら小さな老婆たちの後を何度追ったことか!

そのなかの一人は、沈む夕日が

空を赤い傷口で血まみれにする時刻に

物思いにふけり、ひとり離れてベンチに腰かけていた、

 

金管楽器の音色まき散らす、このようなコンサートを聴くために

兵士たちが、時折公園にあふれ、

人々が生き返るように感じる、これら黄金色の夕べ

市民たちの心に何か英雄的な気分を注いている。

 

この老婆は身体をまっすぐに立たせ

誇り高く礼儀正しく、溌剌として好戦的な歌を貪るように飲み込んでいた。

彼女の眼は、ときどき老いた鷲の眼のように見開かれ

大理石の額は月桂樹を飾るのにふさわしかった。

 

 

   四

 

かくのごとくあなたたちは歩いていく、

毅然と不平も洩らさず、生きた都市の混沌を横切って、

血まみれの心臓を持つ母たち、娼婦であれ聖女であれ

かつてその名はあまねく世の人の口に挙げられたのに。

 

かつて優美であり栄光であったあなたたち、

たれひとり知る人とていない! 無作法な飲んだくれが

通りすがりに、ふざけ口説いては、あなたたちを侮辱する、

あなたがたの足許で、卑怯で下劣な子どもたちが飛び跳ねる。

 

生きているのも恥ずかしい、萎びた影法師の

あなたたちは怖気づき、背を丸め、壁伝いに歩いていく。

たれひとりあなたたちに挨拶する人などいない、

奇妙な定めの人々に! 永遠界に入るため爛熟した、人間の残骸に!

 

だがこの私、遠くから優しくあなたたちを見守る、

不安げな眼で、たどたどしい足取りに視線を注ぐ、

あなたたちの父親でもあるかのように。おお、なんという不思議! 

あなたがたに気づかれぬうち、私は秘密の快楽を味わう。

 

私は見る、あなたたちの初々しい情熱が花ひらくのを。

暗かろうと明るかろうと、私は失われたあなたたちの日々を生きる。

倍加する私の心は、あなたたちの悪徳のすべてを享受する!

私の魂はあなたたちの美徳のすべてで光り輝く!

 

老いさらばえた人たちよ! 私の同胞よ! 同種族の脳髄たちよ!

夜ごと私はあなたたちに壮麗な別れの言葉を告げよう。

「神」の怖ろしい鉤爪に襲いかかられるあなたたち、八十歳の「イヴ」たちよ、

あなたたちは明日、どこに身を置くのだろうか?

 

kopyright2013以心社

無断転載禁じます。


睡りの岸辺・小林稔、詩集『遠い岬』より

2013年07月11日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

  小林稔第八詩集『遠い岬』(以心社)2011年10月20日刊より

睡りの岸辺

小林稔 

 

眼をこらすと夜が明けかけている。波が岩礁に砕け飛沫をあげて

いるだろう。いまはその音だけが闇に溶け入っている。額から鼻す

じ、ひらきかけた唇、顎の窪みに鈍い光が輪郭を浮き立たせ、少年

の息が頬に吹きかけられた。少年の吐息に呼吸を重ねてみる。する

と睡魔に襲われ、私は身を引いた。

どのくらい時が流れただろう。ふっと私は意識を取り戻した。砕

ける波が私の頭上を越えて行く。首に何かが絡んでいる。確かに腕

であった。胸元には少年の顔があり、両腕でしっかりとしがみつい

ている。青い水がひたひたと少年の髪をすいているではないか。一

瞬戸惑いを覚えたが、そのままの姿勢を保つ。少年から乳のような

匂いが放たれ私は眼を閉じた。いくつかの声が制しようもなく重な

りながら私の脳髄に押し寄せた。

 

 息を切らして少年は私のうしろについて歩いている。前方に霧が

立ち上がって、少年はこれ以上無理だと言わんばかりに立ち止まり、

私に抗議の視線を向ける。リュックの紐が肩にくい込んでいる。

 

どこまで行くのですか? と私に訊く。

かあさんからはなれたいんだろう? 

そう言って少年の顔を覗き込むと、首を縦に下ろした。

ついてきてくれればいい。帰りたければ帰ってもいいのだよ。

私はそのように告げて、ふたたび霧の中を歩きつづけた。

 ……背後に少年の気配は感じられなくなる。

 少年を帰らせてしまったことを悔いた。

 かつて私の前に現れた十歳の少年の、両親の庇護のもとですくと

育った姿態を記憶の片隅によみがえらせた。好奇の眼差しで私の瞳

の奥を覗き込む。すると幼い日の思い出が私に連れ戻された。十二

歳を越えたころから少年に微小な変調が見え始めた。愁いの兆しが

表情に影を射している。私はこのときに決めた、導く者になろうと。

 いまとなってはそのような想いも泡と消えたのだ。母親を裏切り

父親から少年を奪うことに過ぎないだろう。少年との関係に心を痛

めても、時間を取り逃しているだけではないのか。

 霧はさらに濃く立ちはだかった。視界から光が奪われ、私は両の

手を宙に泳がせた。少年は家路に着いているだろう。少年が母親に

反抗し父親に背いたとて、私との交わりは、やがて帰る道草に過ぎ

なかったのだ。私はさらに霧の中に踏み込んだ。

 そのときである。霧がぱっと晴れ青空が見えた。その下には一本

の道がまっすぐ地平線へつづいている。

 私の名を呼ぶ少年の声を聞いた。私は心勇んで振り返る。

 たしかに少年の姿を見た、が一瞬のうちに消えてしまった。

 

 いや、違うのだ。私はすべてを賭けてきみに向かおうとしているのだ。

あなたの顔がぼろぼろに壊れていく…・…。

少年は脅えるような声でつぶやいた。

いけない! 

私は大声で叫んで眼が覚めた。

となりの枕には少年の顔がなかった。

 

 

copyright以心社2011 無断転載禁じます。

 


小林稔、「タペストリー1,2」 詩誌『ヒーメロス』24号2013年6月30日発行

2013年07月08日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品

詩誌「ヒーメロス」24号2013/6/30 

小林稔

 

タペストリー 1

通り過ぎていった時のきれぎれが死の淵へと向かう闇の途上、射しこんだ薄明

に照らし出され、もう一つの時の途が霞んだ空に伸びる、ゆるやかな水の流れ

のように。――そのとき、残され佇んだ私に、見えない縄梯子が降りてきて、

魂を呼び寄せる声がどこからか聴こえはじめ、私の耳底に宿った。

 

夏の庭を裸足で足跡をつけていった少年を追い駆けなければならない。

廃屋の裏手に忍び込み、不在の友人たちと遊んだ秘密の場所で見失われる。

 

ひそひそ話をする声がいくつも交叉する。軒下に吊った鳥籠に忘れられたメジ

ロが枝から枝へ跳ねる。時の縦糸を縫い合わせる脚本は回収されてしまう。

 

防火用水で泳いでいたサンショウウオが樋(とい)から注ぐ雨水で流された。

植えこみの日陰で何十年も経った今でも息をしているのかもしれない。

 

骨抜きにされた午後に、行き場をなくし湿度を含んだ風が、終止符を打たない

ピアノの音を運んでいる。通りを走る車のエンジン音や歩く人の足音に消され

るが、再び訪れた静寂の在りかを探るように微かに絃を打つハンマー音は届く。

 

生まれ出たところから曳いてきた繭の糸を紡いで、どんなタペストリーを織れ

るだろうか。最後のひと吹きで夕陽が沈む時刻には還らなければならない、何

処へと問われるなら、追憶の消滅する場所と答えようか。

 

言葉を一枚一枚結んでいく。死者がこの世への憧憬に導かれ懐かしむように、

かつての私がぬぎ捨てた記憶の衣服を拾い畳んでいる。

  

 

 

タペストリー 2

 

 

神経の枝を伸ばした樹木が横倒れて車窓の額縁から飛び散り、野原は遠方に聳

える尖塔を中心に手前に大きく弧を描いて樹木の跡を追い駆けている。傾きは

じめた太陽が尖塔の縁に架かると一瞬ダイアモンドの光を放射した。

 

人の数だけ世界の終末はある。生まれる命の数だけ世界のはじまりはある。

 

国境をいくつも越え、貨幣をいくつも変え、終着駅のにぎわいを断ち切るよう

に街路に踏み出すと、聞きなれない言葉と群集の足音が耳に飛び込んでくる。

人ごみの向こうから、しきりに手をふっている少年がいた。そこだけ明るい光

が注がれ、いくつもの方向に視線を放つ人々の鉄条網にさえぎられ雑踏に消え

た。画集を広げるが描かれた天使像には行きつかない。私に手をふったのかさ

え定かではなく、たとえそうであろうと、ほんとうの邂逅に出逢うには、自己

の闇に沈潜し、〈私〉という柵の向こうに降り立たなければならないとは。

 

すでに訪れ終え背を向けたいくつもの街々が、一枚のキャンバスに重ね合わさ

れ土地の名が交じり合う。ネーデルランドの夕暮れ、石飾りのファサードの足

許を流れる運河に、地中海の朝焼けに染まる雲の階層のした、水の上、遠くに

近くに自らの影像を水に落とす建物群が重なり、運河を蛇行した黒い水は想い

をラグーナに投げ海に注いでいく。若いころの旅の時間が、老体にひたすら向

かう旅人の身体の襞から剥がされ、やがて存在もろとも煙と消えるだろう。

 

岩が砕け砂になり打ちあげられ浜辺に白い輪郭線を引く。洞窟に逃げ込んだ砂

は海底に沈み、太陽の光を内側の岩壁に反射させ、いちめんに青の粒子を撒き

散らす。私があなたと生涯に一度だけ心身を重ねることがあるとすればここだ。

ドルフィンになって泳ぐ二つの身体は青く染められていく。少年時から魅せら

れてきた青。時の残留物を押しのけ生き永らえた私自身の記憶は、水底から流

出する青の光線のなかで紐解かれ、〈私〉と〈あなた〉の交換は成就する。