ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

轍ー記憶から滑り落ちた三つの断片・(その三)飛行場/小林稔

2016年06月17日 | ヒーメロス作品

轍ー記憶から滑り落ちた三つの断片/その三

小林稔

三、飛行場

 

 首都カトマンズから、土地の人がそう呼んでいる「スイスバス」に揺られ、ヒマラヤ山

系の麓にあるポカラという村に向かう。途中、チベット難民の住む集落を通過し、十時間

を超えてようやく到着した。山道を踏み行ったところに湖があり、安宿が点在していた。

紐を額で止めて荷を背負う女の人に出逢ったが、旅行者の姿はなかった。いくつかの宿を

廻り、その日の安宿を決め、荷物を降ろして外に出れば、夕日に照らされて白い稜線を赤

く染めた、アンナプルナ、ダウラギリ、マナスルなど八千メートルの山々が、私たちの眼

前に迫っていた。

 

静寂を打ち破るようにリズムを刻むドラムと電気ギターがはちきれんばかりに響き、私

たちのいる小道に届いた。ビートルズの『アビーロード』であった。東京のアパートの一

室で全身を奮わせた「Come together」で始まるアルバムがこの場所で聞けるなんてまっ

たくの驚きである。少し離れたレストランの明かりから流れてきているようであった。そ

れにしても山々の夕映えの遠景と不思議なほど溶け込んでいる。レストランに近づいてい

くと、働いている三人の少年たちに囲まれ、私たちは旅の行程を尋ねられた。

 

 

 翌朝、空き地に滑走路があるだけの飛行場と、その周辺に小屋をいくつか並べている店

を覗き歩いた。果物を置いている店の奥の暗闇から光を放つ少年の瞳に出逢う。私はなぜ

か胸に傷を負ったような痛みを感じたが、互いの宿命と言える「時と場所」を超えて、祝

福すべき交わりの予感であった。所詮、私の笑うべき恣意に過ぎないのだが、この少年の、

誇り高く無垢な眼差しが私の心に反射させたものとは、旅をする私自身の不幸の証であっ

たのか。私は夢を見ていたのだ。その場所からすぐに離れたが、これからの人生で、この

とき私を見つめていた、あの少年の眼差しにいく度も呼び戻されるだろうと思った。 

 

 

 

 


朔太郎論/ロマン主義的精神と朔太郎・小林稔

2016年06月16日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その三・小林稔

日本現代詩の源流

萩原朔太郎における詩人像(二)

ロマン主義的精神と朔太郎

自然主義もロマン主義も西洋からの輸入に過ぎない日本のそれらは、当然ではあるが日本的な解釈をほどこされかなり変形をこうむられた。先述したように、エミール・ゾラの「没主観の科学的観察」という観点から距離を保ち、島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「蒲団」などの小説の世界で日本の自然主義文学が試みられ、作家の体験を赤裸々に描くという私小説化の流れが見られた。そこでは文章語から口語への移行が一つの要因とされよう。

朔太郎においては、文学への出発となった自筆歌集『ソライロノハナ』で指摘したように、文学と詩人としての現実との接触が一義的な主題として成立してきた。白秋や犀星の文学的現実との相違であり、一方では暮鳥の『聖三稜玻璃』に見られる言語的現実の探求とも距離を置くことにもなった理由である。私見によれば、現実と文学の抜き差しならぬ関係はランボーに近いものがあり、さらにランボーを誘発させたボードレール、さらにボードレールに多大な影響を与えたエドガー・ポーに留意する必要があろう。つまり朔太郎の文学は、ドストエフスキーを含めた西洋の近代文学を日本的土壌、つまりいかに日本の詩がグローバルな地点で可能になるかという使命感さえ意識しながら、現実の人生との格闘という卑近距離からの視点と、反対に普遍的な視点、つまり哲学的視点を兼ね備えていたものであった。その苦悩と限界を彼自身が熟知していたと言ってよいのではないか。認識し、さらに詩として開花させる詩人の生。ランボーの「思想の開花に立ち会おう」とする激しい意思を汲み取ることができる。三好達治が指摘する、「(朔太郎)の詩的態度、人生態度の根底には、明治後半以後の自然主義精神の湿潤が支配的なあるものとして潜在していたのではないか」という三好氏の臆見があり、「自然主義に対する勝手な誤解」という三好氏の指摘は的外れである。三好氏は、朔太郎の絶えず自分の人生を見つめようとする文学観に対してたんに自然主義的と言っているに過ぎない。三好氏は「実生活的な傾向を持つ一線は、始終貫かれている」というが、それゆえに詩人朔太郎の魅力が存在する。現代文学や哲学が己の存在から始める特質を持つことを思い起こすなら、思想の原点に立つ稀有な詩人である。

 

私の情操の中では、二つの違ったものが衝突している。一つは現実にぶつかっていく烈しい気持で、一つは現実から逃避しようとする内気な気持だ。この前の気質は「叛逆性」で、後の気質は「超俗性」である。前者は獅子のように怒り、後者は猫のように夢を見ている。私の思想にはポーとニーチェが同時に棲んでいる。私が芸術的感興にのってくるとき、いつもポーの大鴉のように、神秘な幻想境に入ってしまう。この芸術の至境には不平もなく議論もない。この世界は私にとってユートピアであり、唯美であり、三昧であり、慰安であり「自我を完全する所」の「芸術」である。願わくば私はいつもこの「芸術」の世界に住んでいたい。しかし私の中には、一面非常に非芸術的な気質があり、現実に執着しながら、現実に向って歯をかみならし、あらゆる環境に対して敵気の牙をむく叛逆性がある。

                       (朔太郎『烈風の中に立ちて』「日本詩人」大正十五年)

 

右記は朔太郎自身による自己分析である。己に棲まう「叛逆性」と「超俗性」。前者は結果的には『氷島』において頂点を極め、後者は『青猫』に結集された。彼がいう「非芸術的な気質」はニーチェなどに奮起された哲学への志向であり、本来は詩に内在する「生への眼差し」である。

ヨーロッパの詩が日本において成立する条件の一つと言ってよいだろう。朔太郎はこの日本に稀有な詩人像をどこから身にまとうようになったのかを考えたとき、内向的性向と西洋への関心がある。それらは「生活なき生活者の夢幻的観念、単独者的情念を掻立てる――いわば青年のロマン的気質と人間存在にまつわる実存感によると言える」と三好豊一郎氏は指摘する。

かつて古代ギリシアにおける抒情詩の発生が、ホメロスの叙事詩以後、大動乱期の個人主義的土壌から哲学と抒情詩が、ほぼ同時期に生まれた精神の土壌を分有することに留意するなら、西洋の詩の概念には強い現実意識と哲学的思考が内在し、変遷を繰り返し継承されてきたことが知られている。抒情詩の発生の源泉には哲学と共有する精神的思考ルーツがあったのである。

 

象徴主義の源泉としてのポーの詩学

 

詩は真実ではなく快楽をその直接の目的とする点で、科学の仕事と対立し、また明確な快感の変わりに、漠たる快感を目ざす点で(この目的が達せられる限りにおいて、詩となる)、ロマンスと対立する。ロマンスは明確な感覚をつたえるイメージを提供し、詩のイメージは、漠たる感覚のそれであり、その目的のためには音楽こそ本源的である。甘美なる音の知覚こそ、我々の最も漠たる知覚だからである。快感と結びつかぬ音楽は、たんに音楽というに止まる。音楽なき思念は、その明確性の故に散文である。

エドガー・アラン・ポー(ニ十一歳)

 

右記の引用は佐伯影一氏の「ポーの生涯と作品」(新潮社版「世界詩人全集」6の解説)からの引用である。佐伯氏によると、詩人ポーは「象徴主義の源泉」というべき存在であるという。T・S・エリオットでさえ「ボードレールに始まり、ヴァレリーにおいて頂点に達するこのフランス詩の伝統」を語るとき、「ポーに多くを負うていることを忘れてはならぬ」と言い切っているという。ポーの詩には、本国人(アメリカ人)の耳には、滑らかすぎ、甘美すぎ、音楽的にすぎるふしがあり、「ポーの音楽性は、とくに異国の読者の耳に訴え、楽しませるような口当たりの良き種類のものであることまでも匂わせたのは、オルダス・ハックスレーであったという。科学的精神とその散文的な態度が詩的想像力とその主題たるべき美は地球から追放され、そこで詩人がなすべきことは、遠い異界のヴィジョンを唱い上げる。「思想でないところの、微妙繊細なる一種の空想(ファンタジー)にして、私がいまだ言語を適用することの全く不可能なもの」をポーは語る。「空想」は「極度に張りつめた静謐の瞬間にのみ、ふと魂のうちに生起する何物か」であり、「夢の世界と醒めた世界とが交錯する瞬間に訪れる。ポーが「他界の一瞥」と呼んでいたもので、「まさに眠りに落ちようとする寸前で、しかも自分でその点を意識している瞬間で、強烈な恍惚感をもたらすと佐伯氏はいう。

私が度々引用するヴァレリーの『ボードレールの位置』という論評には、ボードレールとポーの「価値の交換」が述べられている箇所がある。

 

二人はおのおの相手に、自分の持つものを与え、自分の持たぬものを貰います。ポーはボードレールに斬新深奥な思想の一体系をそっくり引き渡します。これを啓発し、豊饒にし、多くの題目についての彼の意見を決定してやります。詩作の哲理、人工的なものの理論、近代的なものの理解と決定例外的なものとある種の奇異さの重要性、貴族的態度、神秘性、優雅と明確の趣味,政見すらも……全ボードレールは彼に浸透され、霊感され、深められます。これらの財宝と引き換えに、ボードレールはポーの思想に、無限の広褒を得させます。彼はこれを未来に提出します。※マラルメの雄大な詩句にある、詩人を彼自身に変ずるこの広褒をば、憐れなポーの亡霊に開き、確保してやるのは、ボードレールの行動であり、翻訳であり、序文類であります。(ヴァレリー『ボードレールの位置』)

         ※「永遠がつねに彼を「彼自身」に変ずるごとき……」(マラルメ『エドガー・ポーの墓』

 

ヴァレリーは、ボードレールにおいて初めてフランス詩歌はフランスの国境を出て、多くの人々に読まれ、詩人たちにも影響を与えたという。その要因の一つは、「批評的叡智と詩的効力を兼ね合わせるという例外的事情」にある。朔太郎も評論を数多く残していること。二つ目の要因は、ロマン主義全盛期に詩人としてすべきことは、先行する高名な詩人たちと異なることをすることが求められたこと。朔太郎が、白秋でもなく犀星でない別の道を進むことを意識せざるを得なかったのと同様である。ボードレールはロマン主義の巨匠たちを観察し、ロマン主義の弱点と欠落を確認し、巨匠たちの成し得なかったことをしようとしたのだとヴァレリーは指摘する。

佐伯氏は「感覚の強烈な乱用による新しいヴィジョンの獲得を主張し、実践したランボーとのつながりを――象徴主義としての源泉としてのポーの意味を思い合わせるべきであろう」と指摘する。佐伯氏は、ポーに「他界」を夢みるプラトニストの一面を見るが、朔太郎が『青猫』の序文で自ら記す、「私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢい(、、、、)を聴くであろう。その笛の音こそはプラトオのエロスーー霊魂の実在にあこがれる羽ばたき――である。」朔太郎がプラトン哲学をどのくらい深く理解していたかは別にして、感情的に共感を持っていたに違いない。

このようにしてポーやボードレールの詩的営みに朔太郎との共通点を辿ったのであるが、朔太郎は、大概的に捉えればロマン主義の特色を持つ詩人と言えるが、遠い異界に思いを漂泊させながらも、絶えず自分が置かれた現実の生活や故郷に連れ戻され喪失を嘆くという、両極に牽引された詩人像が浮かび上がるのである。

 

リリシズムとイロニー

朔太郎の「陽のあたる部分」を継承した詩人が西脇順三郎であるという篠田氏の指摘をすでに述べたが、朔太郎の「西脇順三郎の詩論」(『詩人の使命』に所収)を読むと、西脇の詩がいかに自分の詩と異なるのかを明確に分析していたことが知れる。それは、西脇の詩論集『純粋な鶯』を批判した評論であり、一言でいえば、ディレッタントの詩論であると激しく非難している。詩の精神が「非日常的飛躍」にあることは両者の一致するところであるが、それが「なぜ詩人に欲情されるかということの意志の本質問題」について西脇は知らない」という。ポエジーの本質である、「人生において、詩が欲求される必然性と、詩を歌わねばならない生活の悲哀や苦悶を知らない」のだという。西脇は、詩的精神の本質は形態(フォルム)の中につきるとし、全てのリリシズムを排斥して、詩の文学的価値は知性の鑑賞としての興味にしか過ぎないのだという。

「百合や菫の花を愛し、自然の美を好む人が詩人なのではなく、そうした言葉の中に、美のイメージ感じる人が詩人だという」西脇の言葉に共感しつつも、「詩人は花という言葉の表象に、人生において主観しているところのある情感を寄せている」。「主観の生活情操と関係なく、単に言葉の面白さ」を楽しむ人はほんとうの詩人ではなく「言語遊戯者」である。「西脇の文学論には、モラルもなく、人生もなく、意志もなく、ヒューマニティもなく、全ての文学する精神を虚脱された形態ばかりが、解剖台の上の死体のように提出されている」と異常な外科医に喩える。

 

僕はポーから「詩」を学び、ニーチェから「哲学」を学び、ドストエフスキーから「心理学」を学んだ。僕がドストエフスキーを読んだ頃は、丁度「白樺」の一派が活躍して、人道主義が一世を風靡した時代であった。その白樺派の人たちは、トルストイとドストエフスキーとを並列させて、文学の二大神様のように崇拝していた。……しかしドフトエスキーを読んだ後に、僕は白樺派の文学論を軽蔑した。なぜならドストエフスキーの小説とトルストイとは、気質的に全く対蹠する別物であり、……人道主義というごとき感傷観で、二者を無差別に崇拝する白樺派のヒロイズムは、僕にとってあまり子供らしく浅薄に思われた。(朔太郎「ドストエスキーを読んだ頃」『廊下と室房』所収)

 

西脇の詩に形態論や知性の重視、ヒューマニズムやモラルの欠如を批判していることから、それらの対極にあるものを朔太郎が主張していると思ってはならない。飯島耕一氏は、評論集『萩谷朔太郎1』で、ヒューマニズム的な一面を持つ「四季」の同人になったこと、「コギト」や「日本浪漫派」のような「ヒューマニズムをある意味で突き詰めることによって危うくする傾向の確かに底流する場への接近した」ことを指摘する。「朔太郎におけるヒューマニズムの問題は単純ではない」という。また、「朔太郎の内部には、西洋か日本かではなくて、西洋的な知性を持って日本の失われた青春を回復しようという意図があった」とも飯島氏は主張する。西脇からは、詩は道徳論や人生論は無縁であると言うだろう。だが、朔太郎のいう「人生」や「生活」は単純ではない。朔太郎には日本のシュルレアリスムを批判する批評があり、それを先導する西脇への攻撃でもあった。

西脇は朔太郎の「畸形なもの、孤独なるもの、醜悪なもの、生理的なもの、憂鬱なもの、醜悪なもの、罪悪なもの、罪の意識、兇賊的なもの、死体、死といった幻影の世界」に対して「諧謔性」に偉大さを感じ、『氷島』の「漂泊者の歌」は「まともの諧謔(イロニー)を残している」と西脇は考えていたと飯島氏は指摘し、「諧謔の視点こそ意外にポエジーの本質がある」として西脇に賛同している。西脇の詩に「生活の悲哀や苦悶の訴え」の欠如を朔太郎が批判しているが、「詩の形でナマに訴えることを拒否したのではないかと飯島氏はいう。

脳髄は人間の本来の論理性を持っているが、それが過剰に在りすぎると脳髄が圧力を感じ憂鬱になる。脳髄が諧謔を欲するのは論理的憂鬱を軽減するためであろう。(西脇「『詩学』六十七年)

 

リリシズムとイロニーは優れた詩人に内在する両極であるとも言えようが、朔太郎と西脇を引き離す差異の振幅こそが、それ以後の私たちの荒寥たる現代詩の状況を露呈していると考えられないだろうか。

 

詩を書く朔太郎の絶望と今日的問題

『月に吠える』は日本の「近代詩」の独立宣言であったという篠田氏の指摘は先述したが、ここにおいて「近代日本の詩的感受性と呼ぶにふさわしいものが始めて創られ、その方向が定められた」というのである。藤村から白秋に至る詩集群は、近代的意匠に過ぎず、「朔太郎はこの意匠遊びを最初から拒絶した」。しかし私たちが心に留めるべきは、『月に吠える』の病的な幻想世界や『青猫』の抒情的かつ夢想世界に隠された朔太郎の、日本の詩に対する絶望があったということだ。

先述したように、『月に吠える』の後を受けて、西脇順三郎の『Ambarvaria』と三好達治の『測量船』が世に出たが、三好達治が継承したという「影の部分」の内実を考えてみよう。

『青猫』の中の表題となった詩、「思想は一つの意匠であるか」という問いかけは、「自在に動き回る言葉と音に対応するだけの思念の世界の空白、もしくは欠落を痛切に感じとっていた」朔太郎の、「おのれの手中に収めた新しい言語の技法の自在さの持つおそろしさに愕然とした詩人の嘆きに外ならない」と篠田氏は指摘する。先に述べた「おのれの内部の空しさ」である。『測量船』を書いていたころの三好達治は、「口語自由詩の無秩序におのれをいましめ、日本現代詩の未来について暗い予感に襲われていた」と篠田氏はいう。そのことが伝統的定型詩に三好氏を向かわせる。「いかにしておのれのポエジーを十全な形において唱い、表現するかという熾烈な欲望、そして、そのためには現代の日本語がいかに不十分であるかという絶望的な反省」があったともいう。

朔太郎の、「日本近代詩人として詩を書くことの絶望」とはいかなるものであったのか。篠田氏は、「日本の近代詩がついにポエジーたりえなかった絶望」や、「日本の伝統的な詩のあり方がいまや目前に厳として迫っているヨーロッパの詩に対して無力であるという絶望」ではあるが、朔太郎の絶望にはアイロニー的な表現があることを無視してはならず、「自己劇化」せずにはいられないほど深刻であったのではないか、つまり、これらの絶望を生み出した背景に、朔太郎の実生活上の荒廃だけに目を奪われてはならず、「この詩人独自の詩の生理と原理との合体を成就させたのは、彼のヨーロッパ経験というべきものであった」と篠田氏は主張する。その「ヨーロッパ経験が、もし真実のものであるならば、それは必ず彼(近代文学の文学者)を絶望へ導くはずである。この絶望にいかに堪え、そこからかけがえのない珠玉の言葉をつくりだすかが、明治以降の日本の文学者の軽重を測る、ほとんど唯一の基準だといって差し支えない」という。

それでは二十一世紀の日本の現代詩の状況において、ヨーロッパの詩の経験はどのような意味を持つのか、あるいはこのような発想自体が無意味化されたのか。後者であるならば、朔太郎の絶望は解消されていることになろう。しかし、現在書かれ、私の目に触れる詩は、凡庸であり慎ましさをよしとするものが多く、一部では難解さを目的とした詩もあるが、大方はわかりやすい言葉で書かれた詩が評価され好まれている。西欧の詩に関心を示すのは研究者のみで、詩人と自称する人たちは、自由自在に詩作する。彼らは、日本の詩の成立やヨーロッパ経験も思い描くことはないだろう。そこから生まれる芸術全般の狭小化と商業主義に抗して、私は朔太郎以後のモダニズム詩やプロレタリア詩の動向を戦後詩まで考察する一方、短歌や俳句を含めた東洋的思考を、ヨーロッパ詩の領野から統合的に考えていこうと思う。

 

日本の〈詩〉と称する文学は、過去に於いて皆ジレッタントとダンディズムの文学だった。それは民衆の生活とも関係なく、文化の現実とも交渉なく、単に詩人自身の頭脳内でのみ構想されて居たところの、空中浮遊の風船玉文学だった。(朔太郎「西脇順三郎の詩論」)

 

今日の詩的状況はどのように推移したか。「僕らもまた海の向こうに、西洋という蜃気楼をイメージした。だがその蜃気楼は、今日もはや幻想から消えてしまった」(朔太郎『日本への回帰』)という朔太郎の趣旨は、右に引用とした論考と同じことを言っているのであって、日本回帰をすればよしと単純に言っているのではないことを飯島氏は述べている。「蜃気楼が消えて家郷に帰ってみれば、全ては失われているということである」のだという。『氷島』のテーマを思い起こされる。今日では西洋の詩学は研究者のみの対象になってしまった。詩人は日常に視線を浴びせ、方向性を持たぬまま詩的レトリックに心身を注いでいる。「文化の現実との交渉」においても、現代に詩を書く者は深く考察しなければならないだろう。


轍ー記憶を滑り落ちた三つの断片/その二・小林稔

2016年06月13日 | ヒーメロス作品

轍ー記憶を滑り落ちた三つの断片/その二・小林稔

二、分岐と共有

 

  「さあ、修行僧たちよ。わたしはいまお前たちに告げよう、――もろもろの事象は過ぎ

去るものである。 怠けることなく修行を完成させない。久しからずして修業完成者は

なくなるだろう。これから三か月過ぎたのちに、修業完成者はなくなるだろう」と。

    尊師はこのように説いたあとで、さらに次のように言われた。――「わが齢は熟した。

わが余命はいくばくもない。汝らを捨てて、わたしは行くであろう。わたしは自己に帰

依することをなしとげた。汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、よく戒

めをたもて。その思ひをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。この教

説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも終滅する

であろう」と。(大パリニッバーナ経 第三章五一 中村元訳)

 

 商店が所狭しと軒を並べている大通りに人びとがあふれ往来している。人々の投げる眼

差しは温和で、インドで見た雑多な民族の鋭いそれとはなんという違いであろう。仏教徒

本来の優しさが感じ取れるようであり、次第により近く日本が迫ってくるように感じられ

たのであった。ヨーロッパのさまざまな国、アフリカのモロッコを彷徨した後、それらの

文化の終結地、パリの屋根裏での滞在、Aとの日本での離別とパリでの再会、そこからイ

ギリス、イタリア、ギリシアからトルコと、イスタンブールから東へ東へと向かった私の

一連の旅は、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドへと刻んだ足跡を、私の記憶

の渦中に置き去りにして、老いに向かう時間の高波に翻弄され、いまも生成をしつづける。

「書く」という祝福とも悲惨ともいうべき「宿命」に身を任せながら、人生の終わりまで

止むことはないであろうと思い定める。

 

 十二月ともなれば寒いのは当然である。衣料品店を覗き、ヤクという動物の毛で織った

ショールを買い求め、首から胸を包んで歩いた。この一枚ですっかり土地の若者に変身で

きた気になれるのが不思議である。彼らと見間違えられるほどに長旅で服装は汚れていた。

私たちの視線は還るべき場所をなくした人のようにどこか虚ろであったが、ネパール人と

血の近しさを感じたのであった。ヨーロッパからの貧乏旅行者も多く見かけたが、彼らに

は異文化体験の地であり、私がヨーロッパで感知したものと同様であったであろう。

 

 ハヌマン・ドーカという宮殿があり猿の神様の彫像が私たちを睨んでいる。通りを挟ん

で生き神に選ばれた少女を住まわせる習慣のあるクマリ・デヴィと名づける寺院がある。

ヒンズー教の寺院であろうが、インドのそれとはなんという違いであろうか。黒の木彫り

の窓枠がどこか日本の民芸品を思い起こさせる。渇いた土の匂いを感じさせる美学は、こ

の国独自のものだ。インド人の視線は彼岸に注がれているのに、ここではすでに彼岸に辿

りついた人の穏やかな視線と感じられる。それは彼らの造った真鍮の、大きな頭を傾けた

黄金(きん)の仏像に表象されていると思われた。

 

パタンは首都カトマンズから数キロ離れたところにある古都である。その張り巡らされ

た路地を抜け出ると石を敷いた広場があり、そこを囲むように二重の塔、三重塔がつつま

しやかに姿を見せている。Aと私はそれらを見て廻る。私たちの旅の終わりに何という似

つかわしい光景だろうか。かつて訪れた興福寺や法隆寺を思い起こした。放浪を重ね辿り

ついた私たちにもろ手を挙げ、大きな胸に抱え込んでしまいそうな存在に感じられ、きつ

く締めた紐の結び目を緩めてしまいそうで、いっそう胸が締めつけられた。Aはこらえき

れず涙で頬を濡らしている。喜びと哀しみに同時に襲われたような感動が私にあった。源

泉を同じくする異文化と言うべきか、一つに共有されるものがあり、しかも道を分(わ)か違(たが)え

しなければならなかったという宿命。互いに異国人であるのは偶然に過ぎず、その、私た

ちを結ぶ闇の彼方、歴史の長大な時間と空間を突き抜けて、眼前に見えるものを通して、

感覚が奔走したような経験であった。それを証とする言葉が、私の中から生まれ出ようと

もがいていたのである。こうして旅の営みを観想する、四十年後の私もまた――。

 

パタンからさらにバスに乗りパドカオンというもう一つの古都を訪れた。王宮の茜色の

土壁にいくつもの黒い木製の窓が嵌め込まれ、いっそう郷愁を呼び起こす光景である。こ

のかつての王宮は現在博物館として使用され、密教の曼陀羅が展示されていた。王宮広場

を囲む煉瓦のいくつもの建築物と寺院、それらを通り抜け交差する道の佇まいを透視する

私の眼には、私の放浪のすべての意味がここに凝縮され具現化されているように映った。

見えるものが私の旅の思考に内省を強く要請しているようであった。

 

――父よ、ぼくは旅に出ようと思います。あの山、この海の向こうに、ぼくの知らない

世界があるといいます。どんな人々が暮らしているのかを見たいのです。

――おまえのような臆病者が行けるところではないだろう。

父は息子に笑いを返したが、自分が遂げられなかった若い頃を思い、わが子の決意を誇

りに思うところがあった。そして長い旅から故郷に戻った息子を喜び迎える父に息子は心

を移さず、直ちに踝を返し再び旅発つのであった。

パゾリーニの映画「アラビアンナイト」の、この一場面が私の旅立ちを後押ししたので

あったが、「 書く」ことを求めつづける生の「真理」から考えるならば、この話の意味す

るものは何かを、私はこれからも探しつづけるだろう。

 

人生は旅の途上であるという諦念にも似た想いで輪廻を体得している人の、全ての物象

に対する一期一会への想いが彼らの物を見る眼差しから感じられた。おそらく風土が彼ら

の宗教心を育み、町の外観を構成し、彼らの表情を変えたのであろう。中国人とも日本人

とも違う彼らの慈愛の眼差しは、旅人がこの世を見つめるそれなのだと思った。日本に帰

りたいとしきりに願うAの眼に映るこれらの光景はどのようなものだったのであろうか。

横浜の埠頭で、私の出発を見送ったAのその時の想いと、私の身を案じて一人パリにやっ

てきた時の想いを、これまで私は深く考えてみることはなかった。そのAが自分を喪失し

たと嘆いているのであった。

 

「私は何を見て、何を感じ、どのように変わるのかを見とどけよう」と旅の日記に、ある

日の私は書き留めた。旅の途上で旅を思考する、それは思考する自分を観察するもう一つ

の眼差しをもちつづけることではないか。旅で出逢う事物の深みに思いの錘を降ろすこと

だ。旅から帰還しても私の旅は終わらないだろうと思った。人生が旅である限り、私を見

つめるもう一つの眼差しは絶えず存在し、事物の意味を解き明かそうとするだろう。水の

ように流れ行く時間の中で、自然と出逢い、事物と出逢い、その表層が見せる美こそが存

在の本質ではないのか。それゆえ世界は生きるに値するし、旅人の事物に注ぐ眼差しには

惜別の哀しみがある。存在の本質は問いをいつも含んでいて想いを流離(さすら)わせなければなら

ないのだろう。そして、いつかついに存在の深みで虚無に出逢うのだ。


長期エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その二・小林稔

2016年06月13日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その二・小林稔

48日本現代詩の源流を求めて

萩原朔太郎における詩人像(二)

朔太郎の詩が抵触したヨーロッパ詩の経験

 

 日本の詩という文学は、それの発生上における文化的『必然性』が欠けているのである。……もし超現実派という言葉を皮肉に使えば、生活的現実性がなく、現実を遊離していることにおいて、日本の詩はすべて皆超現実派であり、日本の詩人はすべて皆シュルレアリストである。この一切の原因は、要するに日本の詩人らが、真の理性的批判力を持たないことに帰着する。……いったい日本の詩人という連中は、昔の歌人や俳人時代から、伝統的に感応や趣味の上で鋭い感受性を持っているが、理性人としてのエスプリを少しも持っていないのである。……彼ら(ヨーロッパ人)の芸術の中に本質している、エスプリとしての哲学を掴むことができないのである。

     (朔太郎、一九三七年刊エッセイ集『詩人の使命』所収の「理性に醒めよ」からの一節、途中省略)

 

 

朔太郎には日本近代詩のヨーロッパ経験に対する批判を述べた多くの評論がある。全てを現代詩に当てはめることには無理があるが、現代詩の詩人に内在する問題を指摘すると思われる箇所もきわめて多い。朔太郎の初期の詩には、フランスへのあこがれを歌った「旅上」という詩があるが、実際にヨーロッパに行っていない。しかしヨーロッパの模倣から出発した日本の近代詩を深く探求することで、朔太郎の詩が初めてほんとうの意味でヨーロッパの詩に触れたと言ってよいのではないかと思う。つまり朔太郎は詩作という創造行為でヨーロッパの詩の中核に触れたということである。そのことを篠田氏の評論から示唆されるままに論じてみよう。

ヨーロッパの詩、特にシェイクスピア、テニスン、ロングフェローなどの英詩が『新体詩抄』では紹介され島崎藤村らの文語自由詩に影響を与えたが、その後、象徴詩は、北村透谷から試行され、蒲原有明や薄田泣菫によって進められた。象徴詩と言えば、篠田氏の言を待つまでもなく、ボードレールに始まり、マラルメに引き継がれた近代ヨーロッパの基本的な詩法に集約する。このフランス象徴主義を唱導する詩が日本の詩壇にも登場し始める。前記した三人の後に北原白秋や三木露風が後期象徴派として現われた。篠田氏によれば、これらはすべて「ヨーロッパの詩的意匠と、すでに枯渇化した伝統的な詩的形式(短歌や俳句)との安易な接木作業」であり、朔太郎の『月に吠える』において、「明治開国以来、ヨーロッパ文学を中軸とする、いわゆる世界文学のコンテクストをはじめて目前にして、ついにみずからのコンテクストに選ばざるを得なくなった近代文学の運命の最初の詩的実現」が可能になったという。しかし朔太郎の詩境は、口語自由詩の伸びやかな技法は決して意気揚々としたものではなく、朔太郎自身、「内面において危機を感じていた」であろうという。「自在に動き回る言葉と音に対応するだけの思念の世界の空白、もしくは欠落を痛切に感じとっていた」。しかし、『月に吠える』や『青猫』で展開した「ファンタジーの世界」に朔太郎は「耽溺することなく、これに対していわゆる自然主義的な目を向けて、四囲を観察し、自己の内部との距離をたえず目測し、夢が破れ、おのれの内部の空しさが露呈する瞬間をあまりにも敏感な姿勢で待ちうけていた」という篠田氏の鋭い詩的は傾聴に値する。つまり勝利を得るのは夢か、自然主義の目か(自然主義の定義が問題であるが)ということであり、そのことを見失っては『氷島』の世界は理解できないであろうという。そこでは「夢はますます深く、深刻な様相を帯びてくる。夢みることがもっとも深刻な現実であることを、物の見事に実現したのが朔太郎晩年の詩境」である。そこにおいてこそ、「詩のイデー、つまり詩形式によってはじめて把握でき、さらに理解されるイデーが確立されたのである。」これこそ朔太郎が「ヨーロッパ・アメリカにおけるサンボリスムの現代的展開の一環としてその正当な位置を要求することができる」と篠田氏は主張する。つまり西洋模倣の時代を朔太郎は終結させたのである。その後現われたモダニズムの文学運動とプロレタリア運動に分化して戦後詩に問題を残していくが、朔太郎の詩境におけるヨーロッパ詩の経験において、日本の詩がヨーロッパの詩の伝統に初めて接続された。要因として考えられるのは、朔太郎の文学に初めから一貫して見られる、文学と現実の一致、あるいは一致を可能にしようとする強烈な願望であると私は考える。朔太郎の詩は、『氷島』に向けて生成したと言ってよいだろう。

さらに留意すべきは、朔太郎の詩的世界はボードレールが近代ヨーロッパに果たした同じような意味を、ひとつの巨大な水源地になっていくつかの水脈が流れ出すように、日本の近代詩や現代詩に持っていると篠田氏は主張する。その水脈のいくつかは、三好達治であり西脇順三郎であるという。水脈とは、かつてヴァレリーが『ボードレールの位置』で語ったように、水源から溢れだした一部分である。ヴェルレーヌの、「内奥の感覚及び、神秘的感動と官能的熱烈の力強く混濁した混合」、ランボーの「出発の狂熱、宇宙によって掻き立てられる焦燥感、諸感覚とそれらの諧調的反響との深い意識」、マラルメの「形式的並びに技術的探求、完璧と詩的純粋性」の延長というように分化していったとヴァレリーはいう。

それでは三好達治と西脇順三郎に流れた水脈とはどのようなものか。篠田氏は、『月に吠える』は日本の「近代詩」の独立宣言であったというが、詩的言語の輝かしい顕示であるとともに詩の危機も暗示していたという。「陽のあたる部分」と「影の部分」があり、朔太郎自身が「影の部分」に自ら復讐され、「郷土望景詩」と『氷島』で必死の脱出をしたのであったが、被害妄想に冒されていた彼が、この脱出をどれほど自覚していたかは疑問であるという。その「闇の部分」を継承したのが三好達治であり、「陽のあたる部分」を継承したのが西脇順三郎であると篠田氏は指摘する。「影の部分」とは何かは後述することにして、三好達治も朔太郎同様、口語自由詩形の確立を追い求めたが、伝統的定型詩形も可能性を認めていたという。彼を理解するには、初期の『測量船』だけでなく後期の作品を論じなければならないが、それは別の機会に譲ることにして、今回は、「朔太郎の詩業を世に伝えた最上の詩人」と篠田氏が称する三好達治が、朔太郎をどのように分析していたのかを読むことで、彼の朔太郎像を掘り下げ、その賛否を考えてみよう。

 

「ロマン的気質における志気」

昭和三十九年刊行の三好達治全集第五巻には、萩原朔太郎についての評論が集められている。その中の「萩原朔太郎詩の概略」に朔太郎の自然主義文学精神が指摘されている。朔太郎の詩の出発は「愛憐詩篇」にあったが、その中でも初期の作品である「夜汽車」や「こころ」の詩を引用し、北原白秋の『邪宗門』『思い出』の「粉飾体」の影響が朔太郎の詩にいかに少ないかを指摘する。「こころはあぢさゐの花」「こころは二人の旅びと」「わがこころはいつもかくさびしきなり」といった「素朴でぶっきらぼうな日常口語に近い口吻」など、白秋の詩からは「遠く異質の本質に根ざしたもの」であるという。

 

静物のこころは怒り

そのうはべは哀しむ

この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる

窓ぎはのみどりはつめたし。「静物」

 

右に引用した、「夜汽車」「こころ」の一年後の「静物」に至っては「簡素をきわめた作」であり、朔太郎自身が「きっぱり明確に自分の道を見出し始めたことだろうと推測される」といい、「再会」においては、「論理の飛躍、時間と空間の先にいったような錯雑と混乱」があり、「ふだんはかくれて睡ってゐる精神の潜在能力が触発され目ざめる」という満足を「再会」を前にして覚えるという。つまり「白秋における象徴主義は朔太郎におけるそれに転化して新しい展望を得た」のだと述べている。中村稔氏は最近の評論集『萩原朔太郎論』(ニ〇一六年二月青土社刊)において、室生犀星の『抒情小曲集』の「小景異情」には「短歌的抒情がまったくない」ことを指摘し、朔太郎の短歌的決別に大きな影響を与えたという。

三好氏は、「夜汽車」「こころ」から「静物」「再会」に至る間に朔太郎は何かを発見したのだと指摘する。それらを三つに要約すると、一つ目は後期象徴詩の粉飾と、外面上の均整と、無用の積み重ねと、横すべりと思わせぶりへの洞察、二つ目はその反撥としての素朴な人生への結びつきと、生活感情への直接な話しかけ、三つ目は、詩句の連関連想からする切り崩しあるいはその組み換えである。三つ目の発見は『月に吠える』への大きな飛躍に有力な契機を見出し実現されたという。

 

自然主義、この語をあの人(朔太郎)は徹底的に毛嫌いし敵視していたけれども、その半ばは当の自然主義に対するあの人の身勝手な誤解に根ざしているもののように、私には考えられる。歌人としての石川啄木に自然主義精神の浸潤が根底を成しているのを見るその同じ意味で、同じ程度に根ぶかく、一つの大きな気運としての時代精神、自然主義的精神は、それこそあの人をその前時代詩人たちのグループからきっぱり切り離すところのあるものとして、あの人における最深奥部の支配的なものとして潜在していたのではあるまいか。(三好達治「萩原朔太郎詩の概略」

 

三好氏はさらに朔太郎の蕪村論において、蕪村俳諧の「艶美風流ないしそのロマンチック趣味」には触れず、蕪村の「自然主義的人生観察の鋭い眼差し」に偏り過ぎていることを指摘した。だが三好氏の自然主義の概念は正当なのだろうかという疑問は否めない。三好豊一郎氏の論考『自然主義と象徴主義』によると、朔太郎が反論した自然主義は、エミール・ゾラの「没主観の科学的観察によって描き出そうとした厖大な企て」ではなく「ゾラのペシミスチックな決定論的宿命観のみを、仏教的諦念に養われた日本人独特の生活心情に結合させた私小説ないし心境小説の消末主義と、それへの安住を意味した」のであった。また「彼自身の中の自然主義――宿命観、諦念、因果律、虚無感――との抗争でもあった」。「朔太郎の詩の本質は、常に詩人の情緒的反応が経験を優越し、外的現実が自我の内面に引き起こす感情の主観的リアリティを描き出そうとする傾向の強さ」であるという。文学をその遊戯性から引き離し、現実の生活の次元から哲学的思惟を、普遍性(イデア)へと羽搏かせる朔太郎の詩学は、私にはどこかランボーの「生の変革」を想起させるところがある。前回の論考で私が朔太郎に興味を覚える理由として挙げた、詩人と詩人が生きなければならない現実と詩作行為が一体になっているということである。結果として創られる作品は、単に現実生活を題材にした「身辺雑記」とは非常に異なってくる。

三好達治の朔太郎論をさらに続けると、蕪村論や石川啄木の短歌への共感などにみられる朔太郎の「日常生活の極めて些細な具体的な寒酸な現実への凝視」から判断し、「その詩的世界はある意味では極度に狭められ、それだけ鋭く直接に人生そのものに素朴に接触交渉しようとする傾きが認められる」というのである。つまり、白秋の「装飾体」から切り離したものこそが三好氏の指摘する自然主義であった。この傾向はかすかながら初期の詩から存在し、やがて「郷土望景詩」で完成に達し、『氷島』において極点に達し「無残な頽唐と破産とが同時に併せ齎された」と三好達治は主張するのである。明治後半以後の「時代思潮としての自然主義文学精神と深く気息の相通う一線、手っ取り早く言えば甚だ簡卒に実人生的な傾向を持つ一線は、始終貫いている」と指摘し、「郷土望景詩」の詩境に至ってついに「風霜の気」と呼ぶべき飛躍を示したというのである。「風霜の気」とは世の中の厳しい苦難に立ち向かおうとする意気込みを言うのであろう。そこに「宗教的雰囲気」と「病理的なもの」が加わるが、前回述べたのでここでは省く。三好豊一郎氏が「自然主義と象徴主義」という論考で指摘するように、自然主義というよりも「ロマン的気質における志気」によるものであり、ロマンチシズムの特徴と見るべきであろう。「啄木の自然主義的文学精神が具体的現実的社会的な生活実感の上に成るものであるのに反して、朔太郎の文学精神は、生活なき生活者の夢幻的観念、単独者的観念、単独者的情念を掻き立てる、いわば青年のロマン的気質と人間存在にまつわる実存感による」とし、「魂の安息を導き入れる生活への郷愁にとどまる」。ロマン的反逆精神をボードレールに見、共鳴したとしても、どこまでも現実の生にしがみつき、人間の悪の正体を暴かずにはいないボードレールとは違い、東洋的な諦念のもとで遠いイデアを憧憬しているに過ぎない。かつて朔太郎は、日本の詩人が「現実を遊離している」ことを解いたが、それは自戒でもあった。「理性的なものは全て現実的である」というヘーゲルの言葉を朔太郎は引用したが、理性の長い歴史を持たない日本人とは違い、ボードレールやランボー、シュルレアリズムにおいても、現実を超えることがいかに困難なことであったかは、詩と詩人の人生、その言葉の闘争の痕跡を辿れば知ることができる。私たち日本人は日常と非日常に関心を集約させ、現実と超現実的感覚に疎く、西洋における詩的感覚を共有しない特質があると言える。朔太郎の日常の内実は詩人としての特異なそれであり、己を直視しようとし、己の生を実験現場とする現実であった。


轍ー記憶から滑り落ちた三つの断片(その一)小林稔

2016年06月12日 | ヒーメロス作品

詩誌「ヒーメロス」33号の詩作品の一部を掲載

轍(わだち)――記憶から滑り落ちた三つの断片-その一

小林稔

 

 

一、パトナの渡し

 

    やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。わたしは、あらかじめこのように説いたでは

   ないか、――全ての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。

およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、

ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。

アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身

とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(ゴ―タマ)に仕えてくれた。お前は

善いことをしてくれた。努めてはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。   

(大パリニッバーナ経 第五章十四 中村元訳)

 

ヴァ―ラーナシー(ベナレス)を発った列車が、パトナ駅に着いた頃には、夜の帳がす

っかり降りて、停電に遭ったように町の建物が暗闇に佇んでいた。窓際にはところどころ

に明かりが点っている。通りに目を向ければ、まばらな人影が往来している。友Aと私は

リクシャを駆って、ガンジス河の船着き場へと急ぐ。岸辺に降り、人の声のする方に歩い

て行くと、すでに停泊している船に乗客が乗り込んでいた。

 

銅鑼を叩く音が暗闇で舞い上がった。ランタンが一つ、甲板に吊り下がっていた。船は

静かに動き出す。水しぶきを立てる大きな車輪が廻っている。暗い船底には、白い布を被

った男たちが座して対になった眼球があちこちで光っている。己にまとわりついた宿命を、

船の横揺れで目測しているような静かな眼差しであった。

 

Aはヴァ―ラーナシーで同宿の男から渡されたハッシシに手を出し吸飲したが、その幻

覚から覚めないと思い込んで脅えるAを気づかい、いったんはインドを去らなければなら

なかった。一か月の滞在であったのに、この闇が私を離れがたくさせる。

 

一時間ほどで船は対岸の町に着く。降りた乗客は一同に鉄道駅に向かう。すでに列車は

ホームに停車していた。船から降りた人々はどこへ行ったのだろうか、列車に乗り込んで

車窓から顔を覗かせる乗客は予想外に少ない。ここからムザファプールへ行き、乗り換え

て、さらに北上し、ネパールとの国境の町、ラクソールへと向かう。ムザファプール駅で

下車し、駅の食堂で遅いカレーを指でつまんで食べた。ラクソール行きの列車が発ち、い

くつもの駅に停車した。

 

夜が深まり眠気に襲われる。途中の停車駅で強盗が乗ってくるかもしれないという恐怖

があった。空いた列車が危ない、と旅行案内書に書かれてあったことを思い出した。パス

ポートと旅費をくるめ込んだ腹巻を手探りし、網棚に載せたリュックを見上げた。

私は少し前から腹痛を起こしている。卵カレーがいけなかったのか、野菜カレーを食し

たAは腹痛を感じていない。乗客の疎らな車両を見渡し、深夜になるにつれ不安が掻き立

てられ抗ったが、睡魔に敗北し闇に溶け入ってしまったのであった。

 

 目覚めると朝だった。列車が停車している。少年の澄んだ瞳が車窓の淵を滑っていく。

内側から追う私の視線と合うと、ヤカンと籠を持って少年は乗り込んできた。お茶を買わ

ないかという。少年は仕事をしているのだ。籠から素焼きの器を取り出しヤカンから注い

でAと私に手渡した。ミルクティーであった。最後の一飲みをしようとすると、舌にざら

ざらした触感が感じられた。砂が混じっているのだろうと思ったが、そのおいしさと少年

の爽やかな笑顔に心が晴れ、久しぶりにAにも笑顔が戻った。

二十分、三十分しても列車は一向に走ろうとしない。あの少年がまた戻ってきてお茶を

買わないかという。しばらくして列車が動き始める。一時間ほどで目的地のラクソール駅

に着いた。下車してリクシャを拾い、一気にヒマラヤ山麓の斜面を登らなければならない。

 

国境を越えると検問所でリクシャを待たせ、ヴァ―ラーナシ―で取得したネパールのヴ

ィザを提示した。そこから細い山道をリクシャは抜けて、ビルガンジーという村でリクシ

ャを降りた。少年たちは私たちを取り囲む。訝し気な視線で私たちとの距離を測りながら、

少しずつその距離を縮めている。土色の肌に黒曜石のような瞳であった。一人の男の子を

先頭に私たちを安宿に連れていくという。後ろを他の少年たちがついてくる。部屋に入る

と腹痛が激しくなり、就寝の間に幾度も目を醒ましてトイレとベッドの往復をくりかえす。

そのようにせわしなく動く私を見て、不安に脅えていたAは思わず笑った。

 

翌朝、薄暗い中をカトマンズ行きのバスに乗るため宿を発つ。バスは山道を激しく揺れ

たが、衰弱した私は眠りで意識を失って、バスの窓ガラスに頭を何度も打ちつけた。Aは

大声を出し私の顔を叩くが、感覚が麻痺している私はAの声を遠くで聞いているようであ

った。霞んで見える車内が夢の光景のようでもあり、眠りの底深く意識は沈み込んだ。

 

どのくらい時が経ったのであろうか。眠りの淵から浮上してわれを取り戻したとき、車

窓から山の斜面に作られた棚田が整然と広がっているのが見えた。Aもそこに視線を向け

ていて、目を醒ました私に気づいていない。一人取り残されたようで心細かったに違いな

い。どこか日本の田舎の風景を彷彿させるこの景色を、Aもまた懐かしい気持ちで見てい

るのだろうか。バスはやがて家々が姿を見せる村の道に入って行った。ついにカトマンズ

だ、と私は心の中で呟くと、胸に熱い一すじの流れが零れ落ちたように感じた。