ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ボードレール『悪の花』から「灯台」「あほうどり」小林稔訳詩より

2016年01月21日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「灯台」と「あほうどり」訳詩・小林稔

 

8 灯台 LES PHARES

 

ルーベンス、忘却の河、懶惰の園、

愛することかなわぬ若々しい肉の枕、

しかし、空に空気が海に海が溶け入るように、

生命は一刻も休むことなく流れ息づく。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ、深く暗い鏡、

可愛らしい天使たちが

彼らの国を閉ざす氷河や松林の陰に

優しい微笑を浮かべ、その姿を見せる。

 

レンブラント、ぶつぶつと不平溢れる悲壮な病院

飾られたのは大きな磔刑の像だけ、

涙に暮れた祈りは、汚物から放たれ、

そのなかを唐突に突き抜ける冬の陽射し。

 

ミケランジェロ、ヘラクレスたちがいる不明瞭な場所、

キリストたちに混じり合い、すくっと立ち上がり、

黄昏のなかで力あふれる亡霊たちが

指を伸ばしながら自らの屍衣を引き裂いている

 

拳闘家の怒り、半獣神の厚かましさ

無礼者たちの美を寄せ集めたおまえ、

傲慢さに充ちた鷹揚なこころ、虚弱な黄ばんだ男

ピュジェよ、徒刑囚たちの憂鬱な帝王。

 

ヴァトー、多くの著名な人たちが

この謝肉祭で蝶のように煌きながら彷徨い、

新鮮で軽やかな装飾を照らし出すシャンデリアは、

渦巻くこの舞踏会に狂気を注いでいる。

 

ゴヤ、未知の物たちであふれる悪夢。

サバト(魔女集会))の最中に焼かれる胎児たち、

鏡に対座する老女たちと、全裸の少女たち、

靴下を整えながら魔物たちを惑わすために。

 

ドラクロワ、堕天使がとり憑いた血の湖、

常緑樹の樅の森がその影を水面に落とし、

憂鬱な空のした、奇妙な吹奏楽隊は通過してゆく、

ヴェーバーのおし殺された溜息のように。

 

これらの呪い、これらの冒瀆、これらの嘆き

これらの法悦、これらの叫び、これらの涙、これらの讃歌は、

千の迷宮を潜りぬけて繰り返される、同じ一つの木霊にすぎない。

これぞ、死すべき人間のため、神から贈られた阿片。

 

これぞ、千の歩哨によって繰り返す一つの叫び、

千の拡声器で送られる指令。

これぞ、千の砦のうえを照らす灯台にすぎない、

深い森で道に迷う猟師の呼び声だ!

 

なぜなら、主よ、それは真により良き証ゆえに、

われらが自らの尊厳を自らに与えるという証、

時代は次々に廻り、われらの熱烈なむせび泣きは

やがて死に絶えることになるという証、そなたの永遠の岸辺で!

 

9 あほうどり L´ARBATOROS

 

船乗りたちは、しばしば気晴らしに

海の巨大な鳥、あほうどりを捕まえる。

この無気力な旅の相棒は

苦い潮流のうえを滑る船のあとについてくる。

 

船員たちが甲板のうえで身を横たえるとすぐに

不器用で、恥じらう、この青空の王者たちの

大きな白い翼を垂らしたみすぼらしい姿は

櫂が両側の海面に引きずる様子に似ている。

 

この翼持つ旅人の、なんとぶざまでだらしないこと!

先ほどはあれほど美しかったのに、今はなんと滑稽で醜いこと!

ある者はパイプで嘴を突きまわし、

ある者は足を引きずって、飛んでいた不具者の真似をする!

 

嵐のなかにも姿を見せ,射手をあざ笑う

雲の王者に「詩人」は似ている。

罵声が飛びかうさなか、地上に追い立てられ

巨大な翼も歩くたびにじゃまになるばかりだ。

 

copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。


元型」イマージュと言語アラヤ識 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2016年01月21日 | 井筒俊彦研究

連載/第十五回

「元型」イマージュを生む言語アラヤ識領域と中間地帯(M)

 小林 稔

 

  シャマンの超現実的ヴィジョンに哲学的意義を認め、シャマン的神話を変成させ、そこに存在論的、形而上学的思想を織り込んでいくためには、第三段階のシャマン意識をさらに越えた哲学的知性の第二次的操作が要る。古代中国の思想界では、荘子の哲学が、シャマニズムの地盤から出発し、シャマニズムを越えた人の思想だ、と井筒氏はいう。(P199)

  「想像的」イマージュは、深層意識的イマージュであり、「本質」論のつながりでは、事物の「元型」(アーキタイプ)を形象的に提示するところに成立し、つまり、「元型」の形象化を通して事物の本質を露呈させることなのだと井筒氏は指摘する。

 今回は『意識と本質』のⅨ(P205)から読み解いていこう。

 「元型」とは人間の実存に深く喰い込んだ生々しい普遍者であると井筒氏はいう。フィリップ・ウィールライトは、ゲーテの「根源現象に結びつけ、真の詩的直観のみが、世界内の事物をそれらの「元型」において把握する、「具象的普遍者」と呼んだという。個々に事物を個々の事物としてではなく「元型」で把握する、つまり「元型」は「想像的イマージュ」として深層意識に自己を開示する「本質」であるということであると井筒氏は解く。カール・ユングは彼のいう「集団的無意識」が「元型」的に規定された構造を持つといっているといっているのだということを井筒氏は指摘し、「元型」とは、集団的無意識」または「文化的無意識」に深みにひそむ、一定の方向性をもった深層意識的潜在エネルギーであるという。

 「元型」イマージュは人間の存在経験の方向をあらかじめ規定するもの(原初的)であり、事物の「本質」であっても、どのようなイマージュとして現われるかは誰にもわからないものであり、このような「元型」イマージュ的「本質」とプラトンのイデア的「本質」とはまったく違うものであると井筒氏はいう。文化ごとに顕現形態が違うのはもちろんのこと、同一文化内でも複数のイマージュ群が生まれるが、それでも一つの「元型」方向性を感得できるし、「本質」を象徴的に提示すると井筒氏は解く。古代中国の「易」の全体構造は、転地の間に広がる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系であると井筒氏は読み解く。そして聖人の深層意識に映し出される存在世界は、一切事物と事態の「元型」的形象のマンダラとして現成するという。

 井筒氏は深層意識構造を説明している(P214)。最下の一点は意識のゼロポイントであり、その上の層が無意識。深層意識領域は全体が無意識層だが、意識化に向かう段階を考えて、この領域を無意識の領域とする。その上が意識化に次第に向かう胎動を見せる領域である。ここが言語アラヤ識の領域であると井筒氏はいう。意味的「種子」(ビージャ)が潜勢性において隠在する場所である。唯識哲学から井筒氏が借定したものである。ユングの、集団的無意識の領域であり「元型」成立の場所であるという。その上の領域に「想像的」イマージュが生起し、神話と詩の象徴化作用の機能を発揮する領域である。しかし、井筒氏によれば、この領域は象徴化だけでなく他の働きもあるという。チベット密教の専門家であるという、ラウフの分析では、深層意識のイマージュ現象を三つのプロセスで解いていると井筒氏はいう。①「元型」→②「根源形象」→③シンボルとする。

 無意識の領域に成立する「元型」は、無意識と経験的意識の中間地帯で「根源形象」、つまり、「想像的」あるいは「元型」的イマージュとなって形象化する領域であり、「元型」的イマージュが表層意識の領域に出て記号に結晶したものが「シンボル」である。つまり、「シンボル」は本来、強烈なエネルギーの充満する深層意識領内で生起するが、ここで「想像的」エネルギーを保持したまま、「シンボル」は経験的世界にやってくる。このエネルギーの照射を受けると、平凡に見えていた日常的事物がたちまち象徴性を帯びていく。花はもはやただの花ではない。井筒氏が語りたいのは、この「元型」イマージュの第二次的機能ではなく、「元型」イマージュのそれ自体の第一次的機能であるという。

  無意識の領域のすぐ上にあるのが言語アラヤ識の領域であることはすでに触れたが、そこではいろいろなイマージュを生み出しているが、その多くは経験界に実在する事物のイマージュであると井筒氏はいう。これら、外界に対応物を持つイマージュは、経験界の現実の事態に刺激を受けて発生し、そのまま表層意識に上昇し、そこで事物の知覚的認知を誘発する。しかし、「元型」イマージュは外界に直接の対応物を持たないと井筒氏はいう。例えば、神話の主人公の英雄のイマージュや、仏教のイマージュ空間に咲く花は現実の花に「似ている」が現実の花の直接のイマージュではない。したがって「元型」イマージュは表層意識まで到達しないで、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯にとどまる。ここが「元型」イマージュの本来の場所であると井筒氏は説明する。禅においては、ここに現われる不思議なものは虚妄で根拠のないものとする。禅宗第五祖、弘忍(601-674)は坐禅する初心者に向かっていったという、坐禅していると瞑想状態にあるお前の目の前に、あるときは巨大な光が燦然と輝きながらお前の身体から発出し、あるときは仏陀が肉身の姿で現われる、また多くの不思議なものが猛烈なスピードで互いに変融し合う有様が見えるが、静かに心を保ち、決して注意を払ってはならない、それらはすべて虚妄で無根拠なのであり、お前自身の妄念の働きで見えるだけなのだからと。(『修心要論』)

 シャマニズムや密教では、このようなイマージュに意義を認めるという正反対の立場であると井筒氏はいう。それではそれらは、言語アラヤ識と表層意識の中間地帯、意識のM領域で果す役割とはどのようなものなのかを、井筒氏は次の章、(P220)で考察する。

 

 

次回、第十六回につづきます

Copyright 2,012 以心社

無断転載を禁じます。


「シャルル・ドゴール空港」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より

2016年01月21日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』以心社刊(旧天使舎)2003年12月31日刊行

シャルル・ド・ゴール空港       
 
小林稔


 空港のロビーに私はいた。友人が来るというのだ。その日は鉄道のス
トライキがあったのでバスで辿り着くことになった。手紙で知らされて
いた時刻に着地した飛行機から降りた乗客の群れに彼の姿はなかった。
三時間が過ぎても友人は現われない。
横浜の埠頭で私を見送った時の友人の顔が浮かんだ。甲板に出た私は、
彼がこれから向かうアルバイトに遅れはしないか気がかりであった。ひ
るがえる別れのテープに見え隠れしながらも、いつまでも桟橋に立って
いた。思いがけず船は大きく揺れて、ゆっくりとカーブを描いた。その
時である、突然に私の足がわなわなと震え出した。そして全身が震える
と、声を出して泣きたい気持ちを必死で抑えた。感情より先に身体が感
応してしまったのか。桟橋を駆け出し、市街の雑踏に突き進む友人の小
さな姿があった。哀しみが波紋のように輪を胸の奥に広げていく。気が
ついた時には、舟は青い海と空の境に向かって走り出していて、もうず
いぶんと沖に出ていた。

「別れ」という言葉のほんとうの意味を、このとき初めて私は体験した
のである。実家を去った日、窓から覗いた父の寂しげな横顔を、バスに
乗った私は見ていた。出発の日の朝、友人と宿泊した横浜のホテルから
電話をした。母の泣き崩れる声が電話線の闇の彼方から聴こえた。そし
て友人との別れ。この時の、彼らとの切断は、帰国後も縫い合わせるこ
とができないでいる。砕け散った破片の空白を何で埋めることができよ
うか。出発前の私に戻れないことと同じではないか。ショパンのエチュ
ード、作品十、三曲目に置かれた『 別れの曲』、その中間部の、執拗な
までの上下音の繰り返しは、時間の断層を噛み合わせては切断して、突
然の静寂が起こり、全てを忘却の淵に沈めていく。「告別」ならモーツア
ルトの『ハ短調の幻想曲K,475』が思い起される。この一気に私たちを
天上界に連れて行ってしまうモーツアルトと違って、ショパンはあくま
で私たちの足元に滑り込んでくるのだ。比喩としての現実に隠蔽された、
それゆえに現実からしか見出すことのできない、「別れ」という言葉の普
遍的な意味に、あの時の私の身体は応えたのではなかったか。

 空港からの帰りのバスにいた私は見知らぬ通りで降りた。通りから入
った小路をあてなく歩いて行くと、真っ直ぐ下に伸びた石の階段の入口
に立っていた。急ぎ足で降り続ければ、背中にのしかかっていた灰色の
空から遁れたような気になる。小さなカフェがあったが入らずに、大通
りをひたすら歩いた。ぽっかりと広がった胸の空洞に突風が突き抜けた。
私はいく度となく訪れたことがあるピガール広場に来ていた。クリシー
通りを歩いていると髭をつけたイスラム圏の男たちが眼に入った。いつ
もはどことなく下町の風情と繁華街の乱雑な情緒を見せてくれたこの界
隈も、この時は冷淡でよそよそしく思われ、私は沈鬱な気持ちに耐え、
歩き続けるしかなかった。

 詩を書く内的促しを突き止めなければならない。沈黙は詩人の死を告
げるものだ。オルフェのように、そこから這い上がらなければならない。
私を囲むこの世界は言わば偉大な死骸である。経験によってそれらに息
吹きを与えなければならない。自我の目覚めとともに、友を求める旅が
開始したのだ。その友を私は世界と呼ぶ。ナルシスの神話のように、わ
れを忘れるということと、われを呼び起こすということの二律背反に思
い煩っていたのかもしれない。欺きと絶望が交互に訪れた。友への希求
に呪縛されていた。東京で始めた友人との共同生活は苦闘の五年間であ
った。自己放棄と自己確立の両立は破綻した。詩を書く行為なしにはあ
りえないことであった。あの日旅立つ決意をした私のうしろ姿を彼はい
かなる想いで見送ったのであろうか。半身が捥がれたような痛みを覚え
ながらも、未知なる土地への想いで私の視線は前方に注がれていた。

 暮れなずむ通りの真ん中に『勝利の女神像』のシルエットが浮かび上
がった。パリよ、今は遠くから貴方を想う。蛇行するセーヌの羊水に二
艘の舟、すなわちサンルイ島とシテ島を懐妊し、人々の憎悪と歓喜、愚
行と悲哀に歴史を何百年も見てきた。瀕死の老婦人であるパリよ、あな
たはあなたよりも老いた子を妊んでローマもギリシアもアラビアも、血
管の放射状に広がる大通りと、そこから伸びた神経の大通りにそれらを
命名し、美を集約させた。旅の途上の五ヶ月をパリで過ごしてから、す
でに二十六年後の今、青春の一時期を送ったという思い出に終わらせた
くないパリが私の心をつかんで放さない。人生は悲惨だが、この現実の
ただなかに精神が開花するとしたら、なんという悦びであろうか。この
空気に触れると、感覚が皮膚から放たれ、瞳孔に捉えられた美に感応し
始めるような確かさがあった。旅の途上で私を魅了させたパリよ、生活
だ、孤独を知れ、あの鋪道の枯れた樹木のように不動の姿勢で忍耐せよ
と、あなたは私に手を差し伸べたのだ。

 なぜに、と問うことは、たとえば切断した足が痛むようなものだ。あ
の時、私に生を与えた未来への身を焦がれるような想いだけが、老いた
あなたの影像とともに今も甦るのだ。

 マダム・Dの屋根裏部屋に帰るために、友人を案じながら私はアンモ
ナイトの螺旋階段をよろけるようにして昇った。薄暗い通路を曲がり、
ドアのまえに立った。差し込んだ鍵をねじる力をなくしていた。