ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「スカイ島」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より

2016年01月17日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』(旧天使舎)以心社2003年刊より

スカイ島
小林稔



グラスゴー、エジンバラ、ヨークと宿泊して足跡を残し、さらに北の

インバネスへ行き、そこからバスで、カイル・オブ・ロハルシュという町

に着いた時には、陽は低く落ちて辺りは暗くなり始めていた。スコット

ランドの北端に位置するこの土地を選んだのは、空に浮かぶ島の影像が、

スカイ島という名で脳裡にもたらされたからである。道を歩いている中

年の土地の男に、ユースホステルのある場所を訊いて、男の指差した海

沿いの道を私たちは足早に歩いて行く。受付を済ませ、二段ベッドが部

屋いっぱいに配置された寝室にリュックを置いて、食堂に駆けつけた時

には、十数人の宿泊客たちが夕食を終えたらしく、話をしたり、庭に出

たりしていた。窓硝子の方に視線を投げた時、いちめんに広がった藍色

の空があった。すでに陽は地平線に沈んだ後で、海面に突き出した島々

の輪郭が朱色に象られていたが、空は茜色に変貌して、みるみるうちに

紫色のグラデーションを描き、濃さを増していく。その下で、怪物のよ

うな島々が息をひそめ待機しているようであった。
 

宿舎の庭に少年たちの一群があった。リーダーと思われる少年が立ち、

本を掲げて声を上げて読んでいる。彼を取り囲むようにして他の少年た

ちが岩に腰を降ろしうつむいている。私と友人は彼らの後ろに立った。

歯切れのいい英語の響きが頭上を越え、闇に吸い込まれていくようであ

った。それはまぎれもなく聖書の一節であった。

時にかれ(ヤコブ)は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、

その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。


空は濃紺色に変って宿舎の食堂からこぼれる灯火が、かろうじて少年

たちの存在を知らせている。宿舎に戻った時、好奇心できらきらした瞳

が、私たち二人に向けられた。聖書を日本から携えていた私は、寝室の

リュックから取り出し彼らのいる食堂に戻った。求められ最初の数行を

日本語で朗読した。聞き入っている少年たちの背中が、闇を遮っている

硝子窓に脱け殻のように映っている。時間は瞬く間に過ぎ去って、消灯

の時間になった。彼らとともに寝室に向かった。彼らはいっせいに衣服

を取り始めた。身体の揺れで金色の髪が波打ち、小麦色したうすべった

い胸板と、くびれた胴体、細い脚と腕がいくつも入り乱れ、シーツに滑

り込むと、ベッドが軋む音を立てた。私たちも裸になり寝具に包まった。

さっき見た夕日に染まった空の色が閉じた目蓋に浮び上がった。灯りが

消えて、部屋に闇が満ちて静寂が深くなる。しばらくして誰かの呼気が

私の耳たぶに注がれた。湖面の方から射してくる細い光で小さな顔がか

すかに浮び上がったが、夢の汀を越えてしまったのか、それは水面で自

らの重さに耐えられず沈み込むように、眠りの底に落ちて行った。
 
目を醒ますと、開け放たれた寝室の窓から青空が飛び込んで来た。少

年たちの姿はなかった。出発したのだろう。私たちだけで朝食を素早く

済ませ、フェリーに乗ってスカイ島に渡り、そこからバスに乗ると、向

かいから来るバスからあの少年たちが顔を出し私たちに呼びかけている。

引き返して、カイルから山腹をバスで辿り、停留所で降りてしばらく歩

いて行くと、次の宿舎が木立の中に見えた。ロビーでは、昨夜の少年た

ちのリーダーが、同じ年頃の少女に凭れて肩に頭を載せ、私たちがいる

ことに気づくことなく、夢を見ているような人の視線を中空に彷徨わせ

ている。夏の訪れを知らせる光が、彼らの足元に射し込んでいた。




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雑記、「ランボーのこと」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』に収録より

2016年01月17日 | ランボー研究

ランボーのこと 


 もはやランボーという歴史上、実在した一詩人が問題なのではない。二千年を超える西洋文化史のなかで、固有名詞ランボーという身体を通過した詩の諸問題を考え、さらにはわが国の現代詩の源流である新体詩以降の流れに私たちが位置する意味を考えてみたいのである。
 青春期に患う一過性の熱病のようにランボー体験を捉える人もいれば、ランボーのみならずヨーロッパの詩から直接的な関係を絶ち、すでに日本の詩はそれ自身として確立していると考える人たちも多くいよう。しかし、あえていま私が普通名詞としてのランボーに(現代詩を考える上で避けられない現象という意味で)言及するのは、日本の現代詩が、新体詩以前の詩歌との、あるいは現代においても書き継がれている短歌や俳句との相違を明確にさせていないからである。ジャンルによることなく、詩を感ずればよしとする書き手もいるが、それは読み手の側の論理であり、詩の存在意義を矮小化してしまうことになる。明らかに、詩という形式でしかできない内容があると信じるのである。
 塚本邦雄を嚆矢とする現代短歌の世界は一つの頂点を極めた、とする私の考えが妥当性をもちえるならば、現代詩の世界はいくつかの峰々が屏風のように取り巻いているにすぎない。言い方を変えれば千差万別で、試行錯誤ばかりが目立つのである。つまり混迷のみを深め詩人相互の連関がないのである。確立には程遠いと言わざるをえない。詩人相互の批評が成立していないことの理由も同じところにある。短歌や俳句、さらに小説との分岐線はどこに引かれるのであろうか。詩においてのみなしえることとは何かを考えたいのである。それが私のランボー問題の原点である。
 反発を恐れずに言えば、ほんとうの詩作は詩人の生き方と分離して考えることはできないということである。詩人が何を考え、どのように時間を捉えるか、つまり自分という一過性の生を歴史に位置づけ、いかに生き、何を書きえか、その足跡を残さずして詩人と呼ぶことはできない。しかし、言葉に残したものだけが詩であるという意見に異を唱えるわけではない。このことは詩人の生を重視することと矛盾しない。この点では、読み手の関心とは必ずしも重複しない。あくまで詩人の行き方の問題として提出したいのである。もっとも、詩より詩人の生き方に関心を寄せ、伝説の詩人像に興味を寄せる読み手がいるが、詩作の真相を歪曲するだけであり、書き手は極力避けなければならない。かつてプルーストは、文学を知るにはその作者を知らなければならないと主張するサントブーヴに反論した。日常生活をする自我と、書こうとする自我は同じではない。書こうとする自我には、たとえば一人の詩人に自覚された詩人像があり、その詩人の生を牽引するものであろう。詩人像とは詩人としての生の自覚からなされる理想像である。ランボーのいわゆる見者の手紙が表明している。書かれた詩は詩人自身の生を切り開く啓示となる。プルーストの場合は、彼の生涯を再発見することに小説の使命を悟ったが、詩人はそれ以上に、現在時の生から詩を生みだす者であるという観点では異なる、と私は考える。その生とは、彼の捉える詩人像に牽引された生である。ここで、「個別的なものの頂点でこそ普遍的なものが花開く」と述べたプルースト自身の言葉を引くのも無駄ではないだろう。小説家のみならず、詩人にも言えることだからである。つまり一詩人の存在理由なくして普遍性に到達する詩を獲得できないと考えるのである。詩人自身の生が一つの実験であるという意味もそこにある。


雑記、「生成する音楽、ビートルズ」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』に収録より

2016年01月17日 | お知らせ

生成する音楽、ビートルズ

小林稔

 吉祥寺にあったビー・バップというロックのレコードを聞かせる店の薄暗い部屋の窓から、朝の通りを行き交う人々を見ているのが私には快かった。発売されたばかりのビートルズのアルバム『アビーロード』が大音量で流れていた。一九七〇年のことである。
 六十年代後半は世界が変わろうとする気配を感じさせる時期であった。アメリカからヒッピー文化が日本にも紹介され、新宿の地下通路を若者たちが寝転んで占拠していた。六十八年には世界の大学生が旧体制を破壊しようと学生運動が起こった。私は地下鉄駅の出口を出て高校の正門に向かう途中、機動隊に追われて逃げる大学生の集団を眼にしたことがあった。このような世界状況の中で、ビートルズはアイドルを脱皮し変貌していった。コンサートは止め音の追求をスタジオで始めるようになり、アルバム単位で発表するようになっていた。今、ドキュメントビデオを見ると、スタジオが実験室になっていたことがわかる。即興のギター演奏で語り合い、それぞれの音楽の断片がスパークし、ひらめき、つまりその場で破壊と創造をくり返し、構成されていく。レコーディングを何度もやり直し終了するまで続くのだ。『サージャント・ロンリーハート・クラブバンド』のアルバムからアーティストの道を歩み始め、実際世界中の芸術家から、それまで否定的な評価を下していた芸術家からさえ絶賛されたのであった。
 やがてビートルズの解散という時期が訪れ、次の段階に入っていく。それはアーティストへと歩き始めた彼らにとっては必然的な、すべての芸術家の宿命として与えられる孤独の道程であった。解散後、ポールは彼の本来の持ち味であるポップ調のアルバムをいち早く発表したし、ジョンはギンズバーグ調の自己の叫びを激しいリズムで表現していた。ジョンはロック界の詩人であった。彼の中で音楽は生成し続けていた。つまり、人生と音楽を一体化させ、自分の人生を生き抜くことで真実を見つけ出そうとしていたのだ。アルバム『マザー』は傑作である。『イマジン』で社会的なテーマで世界に訴えたが、その後はアーティストとしての困難な道を歩んでいる。四十歳にならんとするまで、日本人の妻、ヨーコとの間に授かった子どもの養育に当たり、音楽から遠ざかっていた。四十歳になったとき、家族をテーマにした『ダブルファンタジー』というアルバムを発表した。喜びを持ってスターティングオーバー(再出発)しようと世界に向かっていくジョンがいた。経験からインスパイアされるほんものの芸術家がいた。しかし、発売されてまもなく一人の熱狂的なファンの銃弾を浴び命をなくした。
 七十年前後の時代の風潮の中で私は詩を書き始めた。私は、アーティストになってからのビートルズには大きく影響されたが、ビートルズから何を学んだのだろう。四十年たった今、私は、それは生成する芸術の力だと言うことができる。生き様が芸術を生み、その芸術が芸術家を変貌させていく。つまり生の変革なのだ。それは奇抜な生活をすることではなく、あらゆる固定観念を棄て自由を得てひたすら信じるように生きることだ。自由に生きられる環境を選び人生を歩くことで世間の多くの人たちと乖離することでもある。
 その後、様々なポピュラーミュージックに出会ったが、そのとき限りの消費物に成りさがっている。今や音楽も文学も売ろうとする商業主義が露骨に表わされ、買い手も喜んで乗せられているように見える。ビートルズのような存在は二度と現れないだろう。