ヒーメロス通信


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小林稔・「真如」ー世界現出の窮極の原点 井筒俊彦『意識の形而上学』を読む。連載第三回

2013年10月25日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論」を読む。第三回・世界現出の窮極の原点としての「真如」

小林稔

 

 『意識と本質』では、「絶対無分節者」と呼んで無本質なる領域を措定していたが、ここでは「形而上学的なるもの」と置き換えられている。「形而上学」という言葉の意味に多少違和感を感じた私は、手元にある国語辞典(講談社)を調べてみた。

 「形而上」とは「形を超えるもの。感覚ではとらえられないもの。思惟のみでとらえられる窮極的なもの。哲学で、経験の範囲をこえ、自然的、物理的存在をこえた感覚的に知覚できないもの」と書かれている。「形而上学的」とは神秘的な、直接感覚にたよれない直観的な、しかも奥深い意味をもっているさま」という記述が見える。

井筒氏は「形而上学的思惟の極限に至って、言語が、その意味指示的有効性を喪失してしまう」のは「極限的境地においては、形而上学的なるものは絶対無分節だから」であるという。しかし「コトバの介入なしには、形而上学が存在論に展開することはありえない」ともいう。形而上学はコトバで書かれなければ形而上学とは呼ばないであろうと漠然と考えていた私は、井筒氏が形而上学なるものの極限、つまり絶対無分節的な形而上学的なるものを措定していることを知った。そして「大乗起信論」ではその領域を仮名(けみょう)ではあるが「真如」と名づけたのである。それは、プロティノスにおける「一者」、老荘の「道(タオ)」、ウパニシャッド・ヴェーダーンタ哲学の「ブラフマン」、イブヌ・ル・アラビーの「存在(ウジュード)」に相当する。またそれらには「存在次元」に降りてくるという点でも共通性があるが、その仕方はそれぞれが異なる。例えば、アラビーの「存在一性論」では、神(アッラー)はコトバの次元で「存在」と呼ぶが、その「存在」の窮極位をその存在の彼方に措定すると井筒氏は説明する。それはプロティノスの「一者」と同じであり、「全存在世界の太源」であるという。「神以前の神」は、「神」と呼び慣らすことはできない。だからアラビーは「存在」(ウジュード)という仮名(けみょう)を使うしかない。一切のコトバを超えた「存在」には「自己顕現への志向性が本源的に内在していると解釈する。その自己顕現に促されて「存在」はヴェーダーンタでいう『名とかたち」の存在次元に降りてくると考えるのだ。『意識と本質』ではもう少し詳しく説明されている。それによると、ヴェーダンータでは「一者がそれに内在する自己分節的性向に促されて積極的に分節展開し、他者となって存在的に顕現する」が、アラビーの「存在一性論」では「有無中道の実在」という中間領域を置く。「内的にはさまざまに分節された段階である」が、この中間領域でこれからの分節の方向を決定するという。したがってその下の段階である日常的経験世界においては、「本質」はその中間領域にあると考えられているという。つまり、我々の意識に映し出される中間領域のある「本質」は人の眼には実在的なのだ。アラビーの本質論は「本質」否定の立場でありながら、「本質」非有説と「本質」実在説の中間に属するといえるのは、このような理由によると井筒氏はいう。さらに詳しくは彼の著書『超越のことば』で説明されている。ここでは『大乗起信論』の「真如」の分節論を展開しなければならない。

 

「真如」の二重構造

 「真如」には、言語を超越し有意味的分節を拒否する面と、言語に依拠し無限の意味分節を許容する面があり、前者を「離言真如」、後者を「依言真如」と呼び、双方を同時に一つの全体として見なければならないと井筒氏はいう。分節的存在界は、根源的無分節「真如」自身の分節態に他ならず、この『大乗起信論』の「真如」の双面性はプロティノスの「一者」の形而上学と同様であると井筒氏指摘する。

 

「一者」は全宇宙の絶対無的極点。一切の存在者を無限に遠く超脱して、言亡慮絶の寂莫たる超越性の濃霧の中に身を隠す独絶者。それでいてしかも「一者」は「万有の父(パテール)として、一切者を包摂しつくして一物たりとも余すところがない。自らを、「有」の次元に開叙するとき、あたかも巨大な光源から光が四方八方に発散するごとく、縹渺と無限宇宙を顕現し、また反対に自らを収摂するときは、一切の存在者を自己に引き戻し、全世界を寥廓たる「無」の原点に記入させて一物も余すところがない。

                       井筒知史彦『意識の形而上学』

 存在と意識のゼロ・ポイントでありながら、存在分節と意識の現象的自己顕現の、世界現出の窮極の原点であると井筒氏はいう。図形としての円を描き直径を横に引き、上をA、下をBとする。Aは「真如」を空間的に表したもの、Bを、言語と意識が「アラヤ識」をトポストして関わり合うことによって生起する流転消滅の事物の構成する形而下的世界とする。

Bの存在次元のみを実在世界とするなら、Bは「妄念」に転落し、Aだけが「真如」となる。しかし、A-B双面的な全体こそが「真如」であると覚知するならBは「妄念」の所産であることをやめ、現象的事物事象として働く真実性それ自体が、形而下的存在次元における「形而上学的なるもの」ということになる。「真如」は生滅流転の存在として機能しながら、清浄な本性を失うことがない。このような「真如」の側面を『大乗起信論』では「如来蔵」と呼ぶのだと井筒氏はいう。

 「真如」の抽象的な把握しがたさを哲学的に進めるためには、具体的形象のコトバに翻訳する必要があるとし、井筒氏は「心(しん)」を提出することになる。つまり唯心論的解釈を試みようとしている。それによって茫膜としていた意味の拡がりが一挙に活性化すると井筒氏は指摘する。一般的に『大乗起信論』は仏教的唯心論の代表作とされていることが、哲学的展開を推進する確信になっている。それでは唯心論とは何かが問われなければならないと述べ、第一部「存在論的視座」を終え、第二部「存在論から意識論へ」においてその問いから井筒氏は始める。つまり分析の中心が「真如」から「心」に移り、存在論から意識論に移ることになるだろう。

 

私の連載の第三回はここで終わり、次回第四回につづいていく。

 

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詩誌「ヒーメロス」25号発刊します。

2013年10月23日 | お知らせ

詩誌「ヒーメロス」25号が10月25日に発刊されます。

 

 タぺストリー 3,4,5  小林稔

 殺すな  二宮清隆

 影たちの時間  河江伊久

 あたしは、猫のキヨコ  原 葵

評論

 デリダ論序説  小林稔

 長期連載エセー『「自己への配慮と詩人像』(十七)  小林稔

 編集後記  小林稔

発行所 埼玉県吉川市平沼226-1 小林稔(以心社)


「意味分節の彼方。意識と存在のゼロ・ポイント」井筒俊彦『意識の形而上学』を読む・小林稔・連載第二回

2013年10月19日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論の哲学」)を読む

来るべき詩学のために(二)

 

小林稔

 

連載第二回

 

意味分節の彼方。意識と存在のゼロ・ポイント。

 

 一切の言説は仮名(けみょう)にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(コトバでは存在の真相は把握できない)なるを以ての故に、真如と言うも、また相(この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極(コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、言に依りて言を遣るを謂うのみ(コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)……」(『大乗起信論』、カッコ内は井筒氏の説明)

 

東洋哲学における形而上学的思惟は、その極所に至って言語を超えた境地に到達し、言語の意味指示機能を喪失すると井筒氏はいう。しかし言語能力を否定するためにさえ、言語を使うことが必要なのである。生来言語的存在者である人間の、逆説的な宿命ではないかと彼はいう。そして『大乗起信論』は「コトバ」以前を言語的に定位し、言語の全領域、つまり全存在世界を捉えなおすことを試みようとする書物であると井筒氏は説明する。

 このような言詮不及の極限、つまり形而上学の極所に東洋哲学は名を案出してきた。例えば、「絶対」、「真」、「道(タオ)」、「空」、「無」などがあるが、本来は絶対に無相無名であるものを、便宜上、コトバの支配圏に曳き入れるための仮の名にすぎず、『起信論』では「仮名(けみょう)」と名づけていると井筒氏はいう。大乗仏教では、このような意識と存在のゼロ・ポイントを「真如」とよんでいるが、それぞれの文化的パターンの違いによって異なる名称で呼ばれる。意識と存在のゼロ・ポイントでは同様であるが、意味指示的には別物であると井筒氏はいう。

『意識と本質』を読んだ人であるなら、「分節」という言葉に馴染んできているであろうが、そうでない人のために、「決定的重要説を持つキーターム」である「分節」を考えてみよう。

仏教術語では「分別」という語を用いる。しかしこの語「分別」は、現代日本語では道徳的含意を与えるので、思想の純哲学的構造化を志向する言説には不適であり、「分節」という語を使うという。

 

 我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵されていた無量無数の言語分節単位それぞれの底に潜在する意味カルマの現象化志向性に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の意味的存在が、それぞれ自分独自の言語的符丁を負って現出すること、それが分節である。    ( 井筒俊彦『意識の形而上学』 )

 「意味カルマ」とは「長い年月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積」であると井筒氏はいう。意識と存在のゼロ・ポイントが文化によって言語が異なるので呼び方が異なるのだ。それだけでなく意味の集積内容も異なってくる。その文化の混合が新種を生み出すのである。例えばインドで生まれた仏教が、サンスクリットから移入した中国の漢字に訳され、さらに日本語に移される。そのたびに文化交流が起こってきたのである。

 意識と存在のゼロ・ポイントを指示することでは同じだが、「真如」と「道」(老荘思想)と「無」では言語的意味のカルマが違うので意味指示のアプローチが全く違ってしまうと井筒氏は指摘する。それらの仮名の意味するものは、「形而上学的思惟」において同じ「分節」の問題を提起する」と井筒氏はいう。私は、形而上学的なるものは言葉で語られるものとばかり思ってきた。つまり言葉で語られたものを形而上学と考えてきたのである。例えば「詩的なるもの」の気配を感じたときに、そこから言葉が意味をともなって私に訪れる。その言葉を書き留め詩作を完成させる。それが形而上学であるなら、「真なるもの」の理論を組み立てるだろう。しかし井筒氏が語るのは、形而上学的思惟の極限においてと強調する。言語の本来の機能は意味分節にあり、対象を分節することなしに意味指示的に働かないという。

 「詩的なるもの」と「詩」が異なるように、「形而上学的なるもの」と「形而上学」は異なると考えてよいのかもしれない。したがって仮名であれ「真如」と名づけた瞬間に、ぜったい無分節的な「形而上学的なもの」は本来の「無分節性」を失ってしまう。それゆえ『大乗起信論』では仮名に過ぎないと断って論を進めているのだと井筒氏はいう。「詩的なるもの」と「詩」が異なるように、「形而上学的なるもの」と「形而上学」は異なると考えてよいのだろうか。その疑問に対して井筒氏は次のように解釈する。「コトバ以前」を言語的に定位し、この言語の及ばない極限から、言語の支配圏である全領域、つまり全存在世界を射程に入れ、頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと、そこに形而上学の本旨があり、『大乗起信論』はその試みであると。

 

 老荘的思惟では、意識と存在のゼロ・ポイントを「道」や「無名」という仮名で呼ぶ。ただ「無」の空々漠々たる拡がり、渺茫たる絶対無分節の浄域であり、荘子は「混沌」の神のイメージを描くと井筒氏はいう。「混沌」とはいろいろなものが混在している状態委ではなく、何も存在していない非現象の、絶対無分節の「無物」空間を意味する。そこには「混沌」の、ノッペラボウの神がいて、友人である神がその顔の表面に「穴」をほって目と鼻と口を作ったがそれらが開いたとたん「混沌」の神は死んでしまったと荘子は語っている。井筒氏によると、この話は、絶対無分節から分節態へ、非現象性から現象性への存在的次元転換であるという。

 ウパニシャド・ヴェーダ―ンダ哲学では「形而上学的なるもの」は「梵」(ブラフマン)と呼ばれると井筒氏はいう。「梵」も窮極の境地(意識と存在のゼロ・ポイント)では無分節で、それを特に「上梵」(無相ブラフマン)、それに対立する現象的分節態におけるブラフマンを「下梵」(有相ブラフマン)と名づけるという。その「名色論」は有名で、シャンカラの不二一元論的ヴェーダーンダ哲学では「下梵」が我々の現象世界の「名とかたち」の存在次元であることを強調していると井筒氏は説明する。「かたち」とは外形だけでなく、ものの属性、用途など限定的に構成する一切を意味するという。

 カオス状の未分の塊りである「無物」空間の表面に言語的分割線を引くのが分節であり、名をつけることによって一つ一つのものが有意味的存在モナドとして現象する、つまり意味分節単位の網目構造として力動的な全体性を構成すると井筒氏は主張する。コトバの介入なしに形而上学が存在論的に展開することはなく、「形而上学的なるのも」の「無」的極限は「名」の排除という形で否定的にコトバに関わってくるのだという。意識と存在のゼロ・ポイントを考えれば、言語の意味分節機能において「真如」と同様である。

 ヴェーダ―ンダと中国、日本の思想の関係よりずっとかけ離れた思想伝統にある、人格一神教的啓示宗教のイスラームのコンテクストでは、上記のような言語分節の概念が形而上学的にどのような働きをしているのかを井筒氏は解読していく。『意識と本質』でも説明したように、イスラーム哲学は西暦十三世紀になってギリシア哲学一辺倒から脱出し、イスラームの独自性を創出していくようになった。中心人物はイブヌ・ル・アラビーであり、その形而上学は「存在一性論」である。

 イスラームでは存在性・実在性の窮極の境位にいるのは神アッラーであるが、アラビーの「存在一性論」では問題は複雑になると井筒氏はいう。宗教と信仰のコトバが神と呼ぶものを、彼(アラビー)は哲学のコトバで「存在」と呼び、しかもこの「存在」の窮極位を存在の彼方に置くのだと井筒氏は説明する。すべての存在の始まりに神があるのではなく、神より以前にある存在を考える。「実在性と思考の彼方」を考えたプロティノスの「一者」と同じであるが、それは無名無相、一切の「……である」という述語づけを受けつけず、「神である」とすら言えないと井筒氏は解釈する。コトバを超え「名」を超えるこの真実性(存在)には、自己顕現への志向性が本源的に内在しているという。ヴェーダ―ンダ哲学では先に見たように、無名無相の「存在」は「名とかたち」の存在次元に降りてくるが、ここでは第一段が「アッラー」としての自己顕現であり、コトバの介入がこの段階で始まっていると井筒氏は指摘する。伝統的なイスラームの教義では、「神名論」と名づけ、無名無相の絶対的真実性が「名とかたち」によって自己分節する最初の段階が「アッラー」でありそれに続いて無数の下位的「神名」が出現し、現象的存在世界を作り出すとするが、伝統的なイスラームの教義では、「神名論」と名づけ、「神名」は神的「属性」として扱われると井筒氏はいう。つまり「神名論」は言語意味的分節論であり、コトバの介入なしには存在の分節があり得ないことを明確に主張していると井筒氏は指摘する。

 このように「名づけ」がものを存在の場に呼び出す例をいくつか挙げて、言語意味分節論は東洋哲学の大潮流の一つの精髄であることを我々に教示してくれた。ここから井筒氏は、『大乗起信論』の「真如」の分節論的構造に深く迫っていこうとする。

 

『意識の形而上学』(「大乗起信論」)を読む。第二回を終える。

つぎの第三回は、「真如」の二重構造について読み解いていく。

 

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