ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

夏を惜しむ、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行より

2012年06月30日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行

夏を惜しむ
小林稔

    かんかん照りの道を 学校から帰ると、一つの死が 私を

待ち構えていた。
    
十二歳の私は 悲しみを覚えることなく、一年数ヶ月の生

   命の結末に 口ごもる家族と離れ、ひんやりとした廊下で 

   仰向けに寝転んで、流れる雲の行方を 追っていた。
 
    別れるときの死顔が 作りもののように思えた。商店の裏

   道を抜けて 伯父と小さな棺を担いで お寺まで急いだ。
   
    えんえんと続くお経を縫うように、鈍い木魚の音が 規則

   的に響いていた。うだるような暑さの中で私は気を遠くして

   いた。

 
    突然に 一本の電話が鳴る。姉の二番目の男の子の死を知

   らされた。あれから十五年目の夏、弟のもとに去った 十八

   歳の死を想った。立つことかなわず、言葉一つ発せずに終わ

   った未熟児。うなり声は家中とどろき、睡眠を奪ったが、死

   の前日は さらに激しかった。朝起き 体に触れると動かな

   かった、と聞く。
    
    東京にいた私は 父のもとに帰った。姉と義兄が 私を待

   ち受けていた。

   
    棺の蓋を取りのぞくと 蒼白の顔面があった。目はきつく

   閉ざされ 引きつっていた。唇の割れ目から前歯が 覗いて

   いた。そこから朱が一筋、顎の辺りまで引かれ 干からびて

   いた。花びらを亡骸(なきがら)に散らせ 釘を刺した。
 
    コンクリート壁の部屋で 猫背の男が炉の鉄の扉を開け、

   骨を 無造作に取り出した。
 
    火葬された骨は 舞うようであったが、差し出す箸(はし)

   にすがったのは 軽さのためか。
 
    私は骨壷を 肩からかけた白い布にくるみ、炎天下の道を

   のろのろとお寺へと歩いていった。

 
    毎年、夏になると どこからか笛と太鼓の音が聞こえてく

   る。祭りの前日には 朝早く御神体を抱えた男たちが かけ

   声とともに 走り回る。
 
    今年もその日が来た。人がどっとおし寄せ、男たちは酔っ

   たように 神輿(みこし)を担いでいた。

  

                 copyright1998 Ishinnsha


連載エセー②「井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)」解読

2012年06月28日 | 井筒俊彦研究
井筒俊彦研究 井筒俊彦著『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読
連載/第二回
小林稔



詩は言葉で書かれる。言葉で始まり言葉に終わる。しかし言葉は物が存在するようにあるのではなく、物あるいは事を表出する媒体と考えられている。一詩人が言葉を用いて詩を書くとき、それらの言葉は長い歳月の過程で、多くの人たちの手垢にまみれたものであり、彼らの物事への思いによって少しずつ変遷をしてきたものであるから、言葉の背後には広大な時間が広がり、彼方から引き寄せられた祖先の魂が現出する。しかも詩は一詩人の生の場における経験、日常的経験世界に亀裂のように訪れるものであろう。

 「世界」は始めから、一定の形で分節された存在秩序として、我々の前に現れている。
               「文化と言語アラヤ識」『井筒俊彦著作集9東洋哲学』

 ここでいう「文節」とは「区別」と同じような意味と考えてよい。さまざまな事物や性質、出来事などすべてのものは、「名」によって指示され、それぞれのものは区別され相互的な関係のなかで世界の秩序を構成していると考えられている。しかし東洋哲学はこのような常識的な解釈に激しく対立すると井筒氏はいう。

 荘子によれば、存在の存在リアリティーの究極的、本源的な様態は「渾沌」、すなわち、物と物とを分つ境界線がどこにも引かれていない全くの無文節である。
                                   「同」
 私たちの日常世界では、目にするもの(物や事柄)にはすべて名が与えられ独立して存在し、相互に伝達するためにはなんの不自由も感じない。しかしごく一部を除いて、東洋哲学では、それは虚妄であり、言葉の意味文節的働きが虚妄の原因であると考えられていると井筒氏は指摘する。

 存在の本源的真相は、コトバの意味分割機能の働きによって産み出された事物・事象の、幾重にも重なるベールに覆い隠されて、不可視、不可知である。
                                   「同」

 上記の文は、イスラームの聖言(ハディース)にある「神は、光と闇の七万の帳のかげに隠れている」という預言者の言葉を、井筒氏が記号学的存在論に翻訳したものである。井筒氏の使う、コトバというカタカナ表記は、ソシュールのいうlangage(ランガージュ)を意味する。私たちの生きる現象的世界の虚妄を打破し、絶対無文節者の立場に立ち、文節的世界(この現実世界)を捉えなおそうとする人たちが東洋哲学には顕著であると井筒氏は指摘する。これから読み進めようとする『意識と本質』には詳細な分析が見られるのでここでは省くが、「言語アラヤ識」につなげるためには必要なので最小限の説明にとどめよう。 私たちのいる現象世界はコトバによって名づけられた秩序のある世界であり、「一定数の意味文節単位の有機的連合体系であって、それらの意味単位は、それぞれ、本質的に固定されて動きのとれない事物、事象からなる既成的世界像を生み出す」(『文化と言語アラヤ識』)。井筒氏はロラン・バルトの「すべて言語なるものは一つの分類様式である。およそ秩序なるものは、区分けであると同時に、威嚇をも意味する」という、言語のもつファシスト的な機能を指摘する見解に、何をどう言うかだけでなく、何をどう見るべきか、つまり言語は一定の世界像を強制するものであると井筒氏は付け加える。しかしコトバを「社会制度的表層レベル」だけで考えるのではなく、言語つまり文化が表層次元の下に深層構造を持っていると考えることができると井筒氏はいう。深層構造における言語的意味は流動的であり、表層次元のように固定されていなくて、その「意味可能体」は絶え間なく生産され、「名」のせかいに出現しようとしているのであるという。これらを論理的に追求した人たちが東洋哲学の伝統のなかにいる。大乗仏教、唯識派の思想家たちであると井筒氏は指摘している。
そこで問題になっているのは「客観的実在世界の言語的虚構性」である。唯識哲学のテクストには「瞑想の修習に専念して、ついに形而上的照明の境に達したこれらの菩薩たちは、『内心の呟き』を離れては、いかなるものの存在を見ない。全存在世界は、ただ、内心の呟きのまま、現出するだけである」と記されている。
 分節性を持たないコトバは意味形象もあいまいである。「現勢化を待つ意味的エネルギー群として存在する潜勢態のコトバと考えられると井筒氏はいう。シンプルにいうと、やがて意味として現出しようとしているが、まだ可能性として秘めている意味エネルギーとしてのコトバである。意味エネルギーの実体的形象化したものを、唯識派では「種子(しゅうじ)」と名づけている。この「種子」のたまり場にあたるのが「阿頼耶(あらや)識」である。唯識派では、アーラヤとは貯蔵所の意味であり、意識下の場所を意識構造モデル的に借定すると井筒氏は説明する。唯識哲学では、意識構造を三層に分ける。一、感覚知覚と思惟・想像・感情・意欲などの場所としての表層。二、経験の実存的中心点としての自我意識の中間層。三、深層意識の領域。最後の第三層を、井筒氏は言語理論的に拡大して、「言語アラヤ識」と名づける。
 
 およそ人間の経験は、いかなるものであれ―言語的行為であろうと、非言語的行為であろうと、すなわち、自分が発した言葉、耳で聞いた他人の言葉、身体的動作、心の動き、などの別なく―必ず意識の深みに影を落として消えていく。たとえ、それ自体としては、どんなに些細で、取るに足りないようなものであっても、痕跡だけは必ず残す。内的、外的に人が経験したことがあとに残していくすべての痕跡が、アラヤ識を、いわゆるカルマの集積の場所となす。そしてカルマ痕跡は、その場で直ちに、あるいは時をかけて次第に、意味の「種子」に変わる。この段階におけるアラヤ識を、特に「言語アラヤ識」と、私は呼びたいのである。
                            同「文化と言語アラヤ識」

 意味「種子」が実現するのは私たち個人個人の意識内であるが、個人の経験を超えこれまで願い年月をかけて経験してきた人々の生体験の総体、ユングのいう集合的無意識に相当する「集団的共同下意識領域」において表象されるべきものであるので、「すべての人々のすべてのカルマ痕跡がそこに内蔵されている」と井筒氏は考える。「カルマが意味「種子」に変成する過程を、唯識哲学では「薫習」という術語によって、すこぶる特徴ある形で説明する」。「行為が人の心の無意識の深みにそっと残していく印象を、そこはかとない移り香に譬えるのだ」と井筒氏はいう。「種子」は条件がととのえば顕在的意味形象となって意識表層に浮かび上がってくるというのだ。つまりアラヤ識は「内部言語」であり、「意味可能体」がアラヤ識の闇に浮遊しているのである。社会制度としての言語の深層構造には、「創造的エネルギーにみちた意味マンダラの溌溂たる動きのあるアラヤ識]がその基底にあるが、井筒氏が主張するように、ここで注意しなければならないのは、主体の意識の「空化」(存在解体)が前提であるということである。

 (第三回につづく) copyright 以心社 無断転載を禁じます。

銀幕、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年06月27日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年刊

銀幕
小林稔

      男の子は 姿見の前に立ち、額に ゆかたの紐を結わえた。
  
     一昨日、姉と見に行った映画館の、銀幕に映し出された若武

     者になりたい、と思った。

      上目使いに 鏡面に映った男の子を睨(にら)んだ。肩を

     はだけて、剣を傾け 闇を切り裂く。
 
      死角から現われた男がいた。男の子は身を翻(ひるがえ)

     すと 男の胴に刀を滑らせた。どっしりとした手ごたえがあ

     ったので、男の子は よろけた。

     「えい、えい」
    
      たちまちにして 姿勢を正し、見えない敵に向かって剣をか

     ざし、畳の上を進んだ。
 
      不覚にも 男の子の胸元を突き刺す敵の刃(やいば)があ

     った。傷口から血が噴き出している。
  
      男の子は身をよじって、もがき、倒れた。

     「オノレ、にっくきやつ、覚悟いたせ」
 
       男の子はしろ目を出しながら 畳の上を這い 叫んだが、

     ようやく立ち上がった。乳首の下の裂けめから 地が流れ、
      
     股を伝って 踵で止まった。
    
      一人の敵に斬(き)りかかったとき、男の子は力つきて、

     身を仰向けにして倒れた。
 
      男の子は信じていた。こんなとき 味方の男たちが 馬を

     走らせて やって来るんだ。きっと 夜明けの樹々が男たち

     のうしろに 次々と倒れ、灰色の雲が 煙のように流れてい

     くのだろう。蹄(ひづめ)の音が男の子の耳元に響くのだが、

     男たちは姿を見せない。息が絶えそうになり、男の子は 身

     を小刻みにふるわせ、瞳を閉じた。
 
      一瞬、息を取り戻したとき、男の子は味方の男の胸に し

     っかりと抱えられていた。手足と首を ぐったりと垂らし、男

     の子は しばらく そのままにしていた。

      男の子は 他にだれもいるはずのない八畳間の真ん中から、

     すうっと立ち上がって 障子を開けた。
 
      日は暮れかけていた。男の子はいなくなった。部屋いちめ

     んが 闇に包まれた。

繭の糸、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社刊1998年11月

2012年06月26日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月発刊より

    繭の糸
    小林稔


        高島田が うしろ向きに廊下に置かれてあった。それを見
       
       た男の子は、ぎくっとした。わめき、泣いたが、家の人はど
       
       こかに消えていた。
       
        男の子は八畳間に 逃れた。障子に頭をぶつけ、唐紙に全
       
       身があたった。唇がひきつり、ゆがみ、歯をくいしばる。涙
       
       とよだれが混じって、顎(あご)のくぼみをしめした。
       
        姉が駆けつけた。男の子を見て驚いたが、日差しの射した
       
       廊下に視線をやると、微笑んだ。部屋の奥で しりもちをつ
       
       いている男の子に近づき、両腕の中に男の子の顔をうずめた。    
        
        顔を上げ姉を見た。白粉(おしろい)が塗られた姉の顔が
       
       あった。いつもとは違っていたが、瞳の奥から浮かんでくる
       
       花びらのような優しさに安堵(あんど)を覚えるのだった。
       
        廊下に目を向けると、首筋に丸みをもたせた高島田が、ま
       
       だあった。もう一度、頬を姉の胸に凭(もた)せかけた。
       
        姉は 男の子の位置を確かめるように、彼女の裾(すそ)
       
       を引いて 抱いては離し、また抱きかかえてみた。
       
        もう、怖れることはないのだ。男の子は笑顔を浮かべる。
       
       すると姉の白い指が 男の子の鼻すじを伝い、そこに一本の
       
       白粉(おしろい)が走った。
       
        母親ほど齢の離れた姉に抱かれて、男の子の指から 力が
       
       抜けていった。
       
        いままでもそうだったし、いまも こうして姉に身をあず
       
       けていられる。揺りかごに揺すぶられるようにして、やがて
       
       男の子は眠りについた。
       
        石のように重くなった男の子は、姉の両腕から離され、布
       
       団の上に置かれ、幌蚊帳(ほろがや)を被せられた。
       
        まどろんでいる男の子の脳裏に 足音が現われて、また消
       
       えていった。そして、もう現われなくなった。
       
        午睡から醒めて、蚊帳の外に出た。部屋から部屋を廻り歩
       
       いて、襖(ふすま)を開けて覗いてみたが、姉の姿は なか
       
       った。



                

飴玉、小林稔第三詩集『白蛇』1998年11月(旧天使舎)以心社より

2012年06月25日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月発行より


飴玉
小林稔

        ふぞろいに並んだ 丈の低いガラスのケースのすきまから、

       くねくねと 細い坂道が空に昇りつめている。店の奥の椅子

       に腰を降ろした姉は、向かい合わせに座った 男の子の背中

       を支えるが、両足を姉の胴にからめ、上半身を そり返らせ

       るので、男の子の髪が地面に触れる。すると、そこに嵐のよ

       うな風が巻き起こるのだった。

        店先の方へ視線を投げると、見慣れているはずの町並みが

       一転して別の世界になる。そして 腹部に力を込めて起き上

       がろうとしたとき、口の中で転がしていた大きな飴玉が、男

       の子の咽喉(のど)に ぴたりと止まった。

        あわてふためいたのは 姉であった。男の子は頭部と手足

       を だらりと垂らした。苦しさに瞳を開けたまま、もがいて

       みたが 力がなかった。
 
        電信柱の陰で さっきから覗いていた男がいたが気づかな

       かった。真向かいの肉屋に吊るしてある 皮を剥いだ何頭か
       
       
       の豚と、その隣りの雛人形店に飾られていた 大きな羽子板

       が、輪郭を失い色の流れになって 渦を巻いていた。男の子

       の視界に虹の滝が逆流している。姉は青ざめている弟を抱き

       背中をしきりに たたいた。

        すんでのことに死神が、ひとりの少年を小脇に抱え 隠し

       去ろうとした。そのとき、咽喉(のど)にはまった飴玉が、

       おそらくは 熱で溶け出したのだろう、すぽんと落下し、飲

       み込んだ。男の子は あわてて息を吸った。たちまち生気が

        よみがえった。母と姉の顔が はっきり見えた。

       男の子は手の指を動かした。とても不思議なことに思うの
       
       だ。もう一度、ゆっくりと息をする。関節につながれた肢体
       
       が別々の生き物のようだ。
        
        動け、右足。次は左足だ。魂を吹きかけられた セルロイ
        
       ドの人形にするように 自分の体に命令するのだった。
       
        飴玉のように夕日に染まった小砂利の坂道を、男の子は踵
       
       を宙にさまよわせ 踏み出した。