ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「坑道」 小林稔詩集『砂の襞』2008年(思潮社)より

2016年01月31日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

坑 道

 

軋むような音が 夜半の静寂に罅を入れている

連日つづいた雨で 切り忘れた竹がいつのまにか

屋根を被うほどに伸びて 昼間の庭に光が射さなくなった

季節遅れの暴風が竹を打ち 瓦を一枚吹き飛ばして地面に叩きつけた

 

ある日 私の飼う室内犬が激しく吼えた

近所の猫が庭に侵入すると吼えることがたびたびあったが

いつもとは違うねじ伏せるような声の異変に気がついた

竹薮の陰がはみ出して 振り落とされた枝葉の散らばる

高さ一メートルほどの石垣に身をおく生き物の姿があった

灰にけぶったような黒毛に包まれ 夕暮れの空気に

消え入るように ひっそりと前足をそろえている

突き出した口に 犬のかたちがかろうじて見分けられた

かつて夢に現われた犬が闇の淵を跨ぎ

いくつもの闇の坑道をとぼとぼ歩いて 

ようやくこの庭に辿り着いたのかも知れぬ

ふくよかであったらしい毛の残部が 胸と尾の辺りに見える

眼差しは定めがたく 世捨て人の凄みさえも伝えて哀れにも気味が悪い

声を立てぬ自らの影に向かって 私の犬が吼えている

私は吼えはしないが 自らの存在 にんげんという孤独な生き物を 

予感し脅えたのではなかったか

 

ある朝 ブルドーザーが根こそぎ竹を掘り起こし運んだ

――明るい光が部屋に注ぎ込んでいる


小林稔・新連載評論「ランボーからデリダへ(一)言語にとって詩とは何か」 

2016年01月31日 | 日日随想

ランボーからデリダへ

 小林稔

 

   一 言語にとって詩とは何か

 

 この、おそらくあるタイトルの副題になるであろう「ランボーからデリダへ」という言葉は、あるとき直観した言葉であったが、全く根拠のない感慨ではなく、「言語にとっての他者」というエクリチュールの欲望としてこれからの長い彷徨を示唆する、いわば私にとって啓示のようなものであった。この論考はさらに細部への考察に促され明証化するための始まりの一歩なのである。

 

私にとって評論は目的ではなく、書きつつ明けてくる地平のようなものであり、地平は絶えず先へ先へと後退するであろうが、そのプロセスにおける経験こそが最重要視されるべきものなのだ。そのプロセスで知(エピステメー)に関わるものをその都度、解明しつづけることが評論(エセー)の行為であり、その意志の言語表現の作品化が詩作と呼ばれるものである。

 

 日々の日常生活を送る反復の中で、頭脳を過る思念を書き留めておこうとすることは必要事と思われた。未明、心躍らせて見知らぬ街に歩みを進めようとするときのように、昨日の疲労を睡眠によって解き放たれ、生まれたばかりの幼児の頭脳に自然に湧き上る想念に誘われるように、少しずつ明けて行く世界を実感しながら、さらに一日の歩みを進めて行くのである。

 

 ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の冒頭の詩に「異国の人」(異邦人)という詩がある。二人の対話で構成されている。二人とも詩人自身であろう。一人(聞き手)がĽétranger(見知らぬ人)に向けて、「一番愛すものは何か」を訊く。父母、兄弟姉妹、友人、祖国、美、金などを挙げて尋ねるが、すべて否定される。この謎の男、ひと並外れたこの異邦人に対して、「それでは君は一体何を愛するのか」という問いに、男は「流れ行く雲」と答え、空を指さして「あのすばらしい雲だ!」という。

 詩人ボードレールを神と称えたランボーにとって、詩は「生の変革」であった。詩を生の変革と捉える詩人は、詩を書く時だけが詩人なのではなく、人生のすべての時間を詩人として生きることになる。行く川の流れのように、あるいは流れ行く雲のように、世界に対峙する詩人の脳髄に想念が過ぎ去って行く。日々湧き上る思念は通過し、再び訪れることはない。「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず」と鴨長明が著した「方丈記」の一節のように。流れる雲、流れる水のように詩人の精神もまた刻一刻と生成する。そのプロセスにおいて言語化し作品にしたものが詩なのである。これが詩人の日常と言えるものだ。詩は単なる「私」の想いをこえて言葉の他者性から発する声である。

 

 プラトン哲学の内部にはらむ脱構築性を指摘するデリダは、言葉の根源にまで探索の手をゆるめない。プラトンから継承され発展してきた形而上学を検証、解体する。さらに我々が拠り所とするエクリチュールの実態を暴いて見せる。パロールにおける原エクリチュールや〈法〉やDNAに読み取られる暗号にまでエクリチュールの暴力を考察する。言葉にとっての「全き他者」というアポリアの経験によって全てにおいて解体し、西洋思想を揺るがし脱構築しようとする試みなのである。詳しくは彼の書物を深く読むことで実証していくが、私の究極的な狙いはポエジーにある。文学全般ではなく詩の特異性を定義したいのである。この論考が、副題となるタイトル「ランボーからデリダへ」とあるように、「言語にとって詩とは何か」をデリダに示唆されながら、できるところまで追求していきたいと考える。私はかつて「デリダ論序説」(『来るべき詩学のために(一)』に収録)で記したように、西洋思想の終焉を東洋思想、特に仏教思想に繋げるという目的を持つ。したがって西洋思想の解体はしっかり見とどけなければならない。「一切の言説は仮名にして実はなく、ただ妄念あるのみ」(大乗起信論)とし、西洋哲学を即否定するわけにはいかない。私たちの西洋化された現実世界から逃避し、過去の世界に没入することは不可能であるし、意味がないことである。デリダの哲学は矛盾を怖れず甘受し、その上での肯定的決断を提示するものである。

 

 ランボーは私にとって四十年以上の経験を持つ存在があるが、デリダは十年に満たない存在である。膨大な量の著作物を検証しつつ、その過程に置いて感受できる事柄を書いていきたい。したがって、この論考はまずデリダからランボーへと辿ることになるだろう。現在の心情を日記のように書き込んで、見えない読み手=他者の目にさらすツールとしてブログを活用することは何らかの意味を付与してくれるかもしれない。少なくとも書くモチベーションを作り出してくれることは疑いのないことである。新しい旅立ちに祝盃を!