ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

リルケ、芭蕉、宣長ー「意識と本質」解読⑥

2016年07月04日 | 井筒俊彦研究

連載エセー⑥井筒俊彦『意識と本質』解読。
小林稔

連載/第六回

『意識と本質』Ⅰが終わり、ここからⅡの記述が始まる。Ⅰでは、東洋的思考には
いかに「本質」否定の概念が徹底してあるのかをみてきた。井筒氏はこの『意識と
本質』を世に発表した一九八二年の後に、「本質」否定についてもう少し深く追究
した論文を発表している。このブログで紹介しようとしたが、厖大な分量になるの
で割愛した。しかし前回イブン・アラビーについてはやや詳しく解説してみた。い
つか新プラトン主義との関連を掘り下げて論じてみようと考えている。
資料としては下記の書物がある。

 『意識の形而上学』
 「Ⅲ存在と意識の構造」『超越のことば』
 「意味分節理論と空海」『井筒俊彦著作集9』
 「文化と言語アラヤ識」『井筒俊彦著作集9』

さて『意識と本質』Ⅱ を読み始めよう。

P34~39
「ものの心をしる」
 井筒氏は、東洋哲学の伝統には、これまで論じてきた「本質」否定とは逆に、
「本質」の実在性を全面的に肯定する思想潮流があるという。『意識と本質』Ⅱに
おいて論じられるであろう。
 本居宣長は中国思想にみられる抽象概念を「くだくだしくこちたき」として極度
に嫌ったことを井筒氏は指摘する。『玉勝間』の「「かの宋儒の格物到知窮理のを
しへこそ、いともいともをこなれ」として、抽象概念のもとになる普遍者、つまり
「本質」などは、生命のない死物にすぎなかったであろうと井筒氏はいう。
中国的思考の抽象的・概念的に対して「宣長は徹底した即物的思考法を説いた」と
し、その例として、「物のあわれ」があると井筒氏は指摘する。どういうことか。
井筒氏の説明によると、物にじかに触れる、そして物の心を内側からつかむ、それ
が正しい認識方法であると宣長は考えたのだという。「心ある人」と宣長がいうの
は、概念的「本質」の世界は死の世界であるのに対して、眼前にある事物は、生き
て躍動する生命あふれる実在性を具えているので、それを捉えるには「実存的感動」
を「深く感じること」意外にないということであると井筒氏は解釈する。
 眼前の「前客体化的固体」(メルロー・ポンティ)、認識以前の「原初的実在性
における個物」の心を捉えることは「言語的意味以前の実在的意味の核心」(メル
ーロー・ポンティ)を直感的に把握することであると井筒氏はいうが、「個物の実
在的核心を」「客観対象的に認知することはできないという。「xを花というもの
もの、自分に対立する客体として認知することそのものうちに、すでに「花」とい
う言葉の意味分節作用を通じて、xを普遍化する操作が含まれているからである」
と井筒氏は説き、「この普遍性をこそ「本質」と呼ぶ」のだという。このような見
方で考えると、宣長のいおうとすることとは、「本質」回避であり、直接無媒介的
直観知(非「本質」的直観知)とでもいえようかと井筒氏は解釈する。しかし「物
の心」を事物の「本質」とする別の立場も考えられると井筒氏は指摘する。つまり
二つの違った意味の「本質」を考えることができるのだ。

一、自然に人が見出すままの原初的事物の、個体的実在性としての「本質」。
 二、意識の分節機能によって普遍化され、概念化された形で事物が提示する「本質」。

 「一」を個体的「本質」、「二」を普遍的「本質」とし、井筒氏は「本質」の区
別を考察していく。イスラーム哲学にはこの二つの「本質」を術語的に区別して考
える伝統があると井筒氏はいう。

P40~45
「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」
 イスラーム哲学者ジョルジャーニ(十五世紀)の『存在の階層』に対する註解を
井筒氏は次のように引用している。「いかなるものにも、そのものをそのものたら
しめているリアリティーがある。だが注意すべきは、このリアリティーは一つでは
なく二つであるということだ。その一つは具体的、個体的なリアリティーであって、
これを術語でフウィーヤという。もう一つは普遍的リアリティーで、これをマーヒ
ーヤと呼ぶ。
 「フウィーヤ」は「一般的意味での本質(マーヒーヤ)」といい、「マーヒーヤ」
は「特殊的意味での本質(マーヒーヤ)」と呼ばれている。
「特殊的意味での本質」としてのマーヒーヤは、アリストテレスの「本質」(それ
は何であるか)をアラビア語に移したものであり、その答えとして与えられるもの
は、「xの永遠普遍の自己同一性を規定するもの」として「本質」は定位されると
井筒氏はいう。これこそが完全に抽象化した「普遍者」、「一般者」である。
 「一般的意味での本質」としての「フウィーヤ」は「一切の言語化と概念化とを
峻拒する真に具体的なxの即物的リアリティー」であり、「フウィーヤ」は「これ
であること」という意味であると井筒氏はいう。
 「切れば血のほとばしる」実在性のおいて存在させているのは「個体的リアリテ
ィー」だけ、つまりフウィーヤだけであるとする考え方があるが、われわれの表層
意識がそれに視線を向けたとき、実在性の色褪せた、共同的な形姿で現われざるを
えない、それが普遍者としての「本質」、つまりマーヒーヤであると考える人がい
ることを井筒氏は指摘する。
また普遍的「本質」こそ、具体的、個体的に成立させる存在根拠であると考える人
もいるという。経験的世界に存続させる根拠としての個別のリアリティーを「個的
独自の個的実在性に認めないで、むしろそこに個的形態で顕現している普遍的「本
質」に認める人たち、「本質」は普遍的でありながらしかも実在すると考える人た
ちがいると井筒氏はいう。

P47~50
フッサール現象学における「本質」
 井筒氏によると、マーヒーヤ(「本質」の普遍性)とフウィーヤ(「本質」の個
体性)の不安定さは、フッサールの現象学の「本質」理解の曖昧さに露呈している
という。フッサールの現象学的還元と形相的還元の二重操作を経て本質直観的に把
握した「本質」は、上のどちらの「本質」だったのであろうかと戸惑うと述べてい
る。どういうことであろうか。
 われわれの意識経験に現われる具体的な事象は、「本質」を求め「類化」や「形
式化」をほどこせば、「具体的生の現実から遠く引き離された無色透明な普遍者で
ある」ことになろうと井筒氏はいう。フッサールの後裔者はその抽象性から脱出し
ようと解釈的努力をしているという。例えばエマニュエル・レビナスがいる、あるい
はメルロー・ポンティがいる。ポンティは、「引き離された本質」とは言語化され
た「本質」のことであるが、現象学的還元における「本質」は生きた現実の、躍動
するものであると述べていると井筒氏はいう。
 仏教におけるコトバの意味分節機能が及ぼす「妄念」の働きを考察した井筒氏は、
深層意識における意味的アラヤ識を考えれば、表層意識に現われていない「種子」
の働きがあることを指摘する。フッサールの「本質直観」は、前言語分節的意識が
語りかける何かを現前させるものであるとポンティの解釈からいえないこともない
という曖昧さを残してしまうと井筒氏はいう。

P50~53
リルケの「本質」
 マーヒーヤとフウィーヤという二つの本質を考えたとき、リルケのような実存的
体験を重視する詩人はフウィーヤ、つまり「個体的リアリティー」に強い関心を示
すことを井筒氏は指摘する。経験的事象にこそ詩の磁場であることは現代において
詩人であろうとする私においても共通するものである。経験の一回性は重要な意味
作用をもつ。しかもそこで感受した形象を詩人自身の内面世界に引き込んでいくだ
ろう。「そのものの純粋な形象を、日常言語より一段高次の詩的言語にそのまま現
存させようとする」のだと井筒氏はいう。言い方を変えれば、フウィーヤからマー
ヒーヤへの過程が創作行為であると私は考えるが、逆は真ではないであろう。リル
ケにとってマーヒーヤを通してものを見ることは、「ものの本源的個体性を最大公
約数的平均価値のなかに解消してしまうこと」だと井筒氏は主張する。しかし問題
は言語的意味分節において、つまりリルケが詩的言語で表現するときに起こる困難
さである。井筒氏によれば、フウィーヤ(個体的リアリティー)は表層意識には自
己を開示しないことをリルケは知っていたという。ノーラに送ったリルケの手紙で、
彼は次のようなことを述べていた。「内部の深層次元において、ものは始めてもの
として、その本来的リアリティーを開示する」と。このことは、事物の真の内的リ
アリティーが、すべてを言語意味的に普遍化する表層意識の対象にはなりえないと
いうことと、表層意識と異なる意識の次元の存在があるということを伝えているの
だと井筒氏はいう。その深層領域にあるフウィーヤ(個別的リアリティー)を言語
化する、つまり「フウィーヤを非分節的に分節し出さなければならない」のであり、
「表層言語を内的に変質させるによってしか解消されない」であろうし、「異様な
実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する」ことになると井筒氏は
結論する。

P53~61
芭蕉の「本質」
 宣長の関心のあった詩的言語は、リルケの高次言語とは違って「マーヒーヤの顕
在的認知に基づくコトバ」であると井筒氏はいう。それは「和歌の言語」であり、
「一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界」だ
からである。
 しかし普遍「本質」的に規定された世界に飽き足らない詩人たちがいたと井筒氏
は指摘する。平安朝の「眺め」を彼は解説する。「新古今」的幽玄追求において
「眺め」の意識は「茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識
主体的態度ではなかったろうか」と井筒氏は問う。眼前の具体的な事物を認知した
とたん、普遍的「本質」が見えてしまうのだが、「できるだけぼかすことによって、
本質の存在規定性を極度に弱めようとする」のだと解釈する。
 
ながむれば我が心さへはてもなく、行くへも知らぬ月の影かな
                          式子内親王

 井筒氏によると、「詩人の意識は事物に鋭く焦点を合わせていない。それらは遠
い彼方に、限りなく遠いところにながめられている」という。視線の先で、事物は
「本質」的限定を越え、そこに存在深層の開顕があるという。この「眺め」意識は
事物のマーヒーヤを否定するものではなく、肯定するからこそぼかそうとするのだ
と井筒氏は指摘する。
 
 さて芭蕉についての考察に入る。芭蕉は上のような態度は取らなかった。フウィ
ーヤを追求する激しさにおいてリルケとひけを取ることはなく、詩的実存のすべて
をかけて追求したと井筒氏はいう。しかし普遍的な本質であるマーヒーヤの実在性
を否認することはなかったもいう。事物のフウィーヤはマーヒーヤと同一であると
考えた。普遍的なものと個体的なものが具体的存在者の現前において結びついたこ
とになる。つまり「概念的普遍者ではなく実在的普遍者としての「本質」が、いか
にして実在する固体の個体的「本質」でもありえるのか。」このアポリアを以下の
ように井筒氏は解読する。
 普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべ
きことを芭蕉は説いたのだと井筒氏はいう。芭蕉の俳句では、マーヒーヤがフウィ
ーヤに突如転成する瞬間が詩的言語に結晶するという、実存的緊迫に満ちた瞬間の
ポエジーであったのだと井筒氏は主張する。

  物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし
                            芭蕉
 永遠不易の「本質」、それは事物の存在深層に隠れた「本質」であると井筒氏は
指摘する。「物」と「我」が分裂し、主体(物)が自己に対立するものとして客観
的に外から眺めることのできる存在次元を存在表層と呼ぶとすれば、存在深層とは
存在表層を越えた、「認識的二極分裂以前の根源的存在次元」であると井筒氏は分
析する。この事物の普遍的「本質」、マーヒーヤを芭蕉は「本情」と呼んだのであ
る。
 井筒氏によると、芭蕉のいう「本情」は表層意識では捉えられず、直接触れるに
は根本的な変質が行われなければならない、この変質を芭蕉は「私意をはなれる」
と表現し、このような美的修練を「風雅の誠」と呼んだのだという。さらに、「本
情」は不断に表れるものではなく、ものを前にして突然「・・・の意識」が消える瞬間
があり、そういう瞬間にこそ、ものの「本質」がちらっと光るのだと井筒氏は説く。
「物の見えたる光」のことである。
 さらに井筒氏の解釈に沿って要約していこう。人がものに出会う瞬間に、人ともの
との間に一つの実存的磁場が現成し、人の意識は消え、ものの「本情」が自己を開示
するというのだ。「物に入りて、その微の顕われ」ることである。
 すなわち、永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験において、突然、瞬間的に、
生々しい感覚性に変成して現れるのだと井筒氏はいう。普遍者が瞬間的に自己を感覚
化する、この感覚的なものが、その場のおけるそのものの個体的リアリティーであり、
マーヒーヤがフウィーヤに変貌する瞬間であるという。

 フウィーヤだけを意識し、マーヒーヤを概念的虚構とするリルケと、マーヒーヤの
形而上的実在性を認め、感性的表層に変成するフウィーヤの瞬間を捉えようとする芭
蕉との違いは明確になった。この二つの型に共通することといえば「即物的直視」で
あろう。しかし「即物的直視」を排し、マーヒーヤをイデア的純粋性において直観し
ようとする詩人がいると井筒氏はいう。顕著な例としてマラルメを挙げる。哲学的に
は普遍的「本質」の実在論につながるものであるといい、井筒氏は『意識と本質』Ⅲ
においてマーヒーヤ実在論を東洋哲学に探ることになる。

次回第七回につづく copyright2012 以心社


ギリシア抒情詩の開花/井筒俊彦「神秘哲学」再読(十二)・小林稔

2016年06月04日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『神秘哲学』再読(第十二回)

小林稔

 

第七章 生の悲愁

 現実の歌――ギリシア抒情詩

ギリシア海上貿易の繁栄は紀元前七世紀に絶頂を迎え、紀元七、六世紀に亘って個人主義の時代が訪れていたことは前章で述べた。これらの時代に支配的文学形式である抒情詩の世界において、政治的社会的生活面におけるよりもさらになまなましく、より一層直接的な形姿の下に検察できると井筒氏はいう。経済生活形態の変遷と同時に全盛期に達した抒情詩は、個性的「我」の覚醒が対決した歓喜の歌であり、苦悩の叫喚である。つまりイオニア・アイオリス的抒情詩は極めて現実性の文学なのである。ロマンティックで感傷的な、現実逃避をする日本の抒情詩とは全く異なるものである。ギリシア抒情詩の主題は現実に対する自らの感情であり思想であると井筒氏はいう。英雄譚を描く叙事詩の夢はこの時代では消え失せ、「今この時代」の真実に直面する詩人たちには、日常生活を反映させ、現実批判を主要目的とするイアンボス調と、叙事詩形式に最も近いエレゴス調に大別されるという。後者では、エフェソスのカッリノスやチュルタイオスがいる。

 

おんみら何時まで惰眠を貪るのか。そもいつの日、猛き心抱かんとするのか。

若者らよ、隣国の民の目を恥もせで

 

右記はカッリノスの詩句であるが、二行読んだだけで厳かな叙事詩的口調が感じられよう。

 

 息絶えつつも最後の槍を投ずべし

そは、戦いの庭に征きて、己が祖国と

己が子供らと、また正しくめとりたる妻とを

あだなす者より護ことこそ男の子たる身の誉れなれば。

 

同胞を祖国のために蹶起(けっき)させようとするこれらの言葉はホメロス的ヒロイズムであるが、截然と分かたれるものは、生々しい、血の出るような現実であるということであると井筒氏は指摘する。遠い昔の伝説的ヒロイズムから現実の切実なるヒロイズムへの転換があるという。しかし、カッリノスやチュルタイオスの現実は集団的、国家的である。そこからさらなる転換、つまり彼らの国家的観点から、個人的観点に移すとき、はじめて古典的ギリシア抒情詩が成立したと井筒氏はいう。

 このような二重の転換を経た詩人にあげられるのが、パロス島のアルキロコスやミムネルコスがいる。

 

 ああ、なさけなきこの身よ、恋の苦悩に堪えかねて

 生きんここちもさらなく。神々は激しき呵責をわれに下して」

 我が骨髄までも衝き通す。

 

右記は、アルキロコスの詩句である。恋の懊悩を訴える、個人的苦痛の直接端的な爆発は、新しい芸術領域のものであるという。

 

 されど友よ、恋のなやみのはげしさに、わが身は窶(やつ)れ疲れはてぬ。

 

多情多感な情熱の詩人の歔欷(きょき)と呻吟(しんぎん)をじかに感得するであろう、直接性、個人的現実性こそがギリシア抒情詩の世界であるという。

 

現実の歌――それがギリシア抒情詩の本質的定義である。(井筒俊彦)

 

 黄金なす愛慾の女神なくして何の人生ぞ、何の歓びぞ、

 死なんかな、かのうるわしきことどもの、過ぎにし夢と消えさらば、

秘めし恋、心こめたる贈り物、愛の臥床。

 ただ青春の艶花のみ、おとこにも、おみなにも

 いつくしまるるものなるを――

 

右記は、「イオニア的憂愁」詩人と言われた、ミムネルモスの詩句である。

 後のローマの詩人、ホラティウスの次のような詩句を、井筒氏は『神秘哲学』の註で引用している。「もしミムネルモスの考えるごとく恋と戯れごとなくしては、世に何のたのしみなしとならば、貴君も恋と戯れごとでお暮しなさい」。ともに享楽主義的人生観が覗かれる。

 

 しかし何といっても、この個人主義的時代のすぐれて個人主義的なものは、レスボス島を中心とするアイオリス人の間に発生した独詠歌唱こそが、全ギリシア文学のうち最も純粋に抒情詩の名に値するものであると井筒氏はいう。

 

 君がその愛(は)しき微笑(えまい)に わが胸の

 心の臓はもの狂おしくときめきいでぬ

 君が姿をほの見れば、声はみだれて

    はや物言わんすべもなく

 わが舌は渇きはて、繊かなる火焔

 たちまちに膚えの下を燃えめぐり

 まなこはかすみ わが耳は

   鳴りやまず

 とめどなく汗はしたたり、妖しき悪寒に

 身はふるえ、蒼ざめしわが面(おも)は

草の葉に色にもまさりて、生きの緒も

絶えんばかりの思ひなり。

 

右に引用したのは、女流詩人サッポ―の「恋の狂乱」である。夜半の静謐を心に映して、孤独の愁いを淡々と歌う彼女の心に、突如、恋慕の情が目ざめる。寄せ来る潮のような恋情の焔は、全身に浸透し、ついには肉体的苦痛にまで鋭化する。女性独特の感受性を持って、悩ましい愛の情熱が把握されていると井筒氏はいう。ここで看過してはならないのは、主観性の確立は主観性への耽溺を意味しないということ。主観性の極限においてさえ、観想的な最後の一線を守っていると井筒氏は主張する。つまり、身も心も苦しみもがきながらも、われとわが身を観察し、「熱火のうちにありながら冷静に、凍結しながら燃えている」という。まさに氷塊のただなかで燃える炎のようにと形容できようか。

 どこまでも人間的現実であり、個にして永遠なるものに達しているからこそ、サッポ―の情熱の形姿は「恋の古典」として後世永く讃美の的となったと井筒氏はいう。「個を通して個を超克」し普遍的なものに翻出しようとするギリシア精神本源の動向が看取されるが、これに踵を接して誕生したミレトス哲学と相距るものではないと井筒氏は主張する。

 アルカイオスやサッポ―のアイオリス抒情詩の主題の「現実」は内面的現実であったが、イオニア抒情詩の主題は人間の外にある生命的現実であった。それゆえ、行動的であり、現実批判に傾くと井筒氏はいう。

 

 ギリシアの憂欝

 井筒氏は、イオニアの詩形としての二つの詩形を挙げる。一つはエレゴスで、「人生の目的について、神の義について、人の運命について、自ら反省しつつ他にまた反省を促す一種の思惟活動であり、人生観、世界観に関するものであり、もう一つは、イアンボスというもので、揶揄嘲弄の詩形で、峻烈な現実批判で、現実に働きかける行動の具であったという。後者にはエフェソスのヒッポナクスやイアンボスの完成者と言われる、アルキロコスがいる。現実の不正不義に向かう人間の救いようもない不幸。ホメロスやヘシオドスにあった運命思想が紀元前七世紀六世紀にギリシア思想界の前面に押し出されてくる。しかしそれは人間自由の問題に他ならないと井筒氏はいう。後にギリシア悲劇へと手渡される人間自由の問題であり、ここではじめて抒情詩人に提出されたのだという。彼らにとっては「運命」は神々の意志、つまりゼウスの意志と同一視された。あらゆるものの根源は神であり、「運命のめぐりあわせが人間に全てを与える」(アルキロコス)のであった。それは「善人の苦悩」の問題は道徳的思想の焦点を人間の倫理性から神の倫理性に移すことだと井筒氏はいう。ギリシア倫理思想上はじめて、矛盾多い人生の実相が、そのまま道徳神学の大問題として呈示されたという。しかし、多くの抒情詩人たちには、現実の惨苦を克服し、人生の尊厳を護符するだけの精神力を持ち合わせていなかったので、ギリシア的生の悲愁、「ギリシアの憂鬱」という途を採ったのだという。

 

 かつて美貌を謳われし人も、やがて青春の時すぎれば

    げにうとましき者となり果つ、己が子らにも、己が友にも。

 

 もろ人にめで愛さるる若き日も

    はかなき夢のごとくにて、ただ束の間に過ぎてかえらず

                   (ミムネルモス 断片)

 

ミムネルモスの抒情詩に見られるような青春の悲嘆は存在それ自身の嘆きを象徴するものであり、万物流転はイオニア的世界観・人生観の基調であると井筒氏は指摘する。

 

地に住む者にとって、こよなく望ましきは、現世に生まれ出ざること、あまつ日の耀いを目に見ざること……されど、ひとたびこの世に生をうけし上は、寸時もはやく冥府の門をクグリ、厚き土塊の衾の下に横たわること」(テオグニス・断片)

 

こうした厭世的無常観は、享楽主義的人生観へと辿りつくものであった。自己の快楽主義を万物必滅の理によって基礎づけるのだと井筒氏はいう。アモルゴスのセモニデスでは、一刻も早く蒙昧の夢から醒めて人生の儚さを悟り、僅かに許されたる青春の時を充分に享楽せよと説教するという。

 こうしたイオニアの詩人たちの享楽主義は、主観的気分を衝動的に表白したものではなく、すでに立派は思想であったと井筒氏は主張する。後のイオニア自然学の始まりとして、人間的現実に対する倫理的反省を一転して、自然的現実に対する存在論的反省となすことに転化させた。人間的行動の倫理性を基礎づけていた「美わしさ」(カロン)の傍らに、「快さ」(ヘーデュ)が人生最高の価値として登場したのであり、ソクラテス、プラトンアリストテレスに至る倫理思想史は、この両者の相克闘争の歴史に帰着すると井筒氏はいう。

 個人主義の到来が享楽主義を招き、イオニア自然哲学を生むことになったが、さらにギリシア精神はもう一つの試練を堪えねばならなかった。

 それはディオニュソス神である。次の章で井筒氏は展開していくだろう。


「シャマン的実存」 小林稔評論集「来るべき詩学のために(一)に収録より

2016年01月30日 | 井筒俊彦研究

連載/十四回

シャマン的実存。「本質」実在論第二型について。

小林稔

 P180~

 

「本質」実在論第二型、元型的「本質」論について。

  人間の意識はイマージュ生産的であって、深層意識だけでなく表層意識においても今イマージュに満ちていると井筒氏はいう。深層意識では経験的世界の具体的な事実から遊離し働くという特性を示すが、表層意識では、経験的事実に密着した即物性を特徴とすると井筒氏は指摘する。井筒氏によると、表層意識というものは外界の事物の感覚的認知を第一次的な機能とするので、イマージュの大部分は実在する事物に裏打ちされているので、感性的イマージュの介在を意識することはないという。目の前に木があると木の意識が成立する。イマージュの参与に気づかないが、木の実在しない場所で意識に木が現象するとき、そこに働く木のイマージュに気づくことから、初めから木のイマージュは存在していたという。外的事物を認識し意識することが、根源的にはコトバ(内的言語)の意味分節作用にもとづくものであり、内的言語の意味「種子」の場所を、言語アラヤ識という名で深層意識に定位したのである。言語学でラングと呼ぶ言語学的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定することが正しければ、表層意識的に、目前に実在する一本の木を意識する場合にも、認識過程に言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているといえようと井筒氏は説き、言葉の意味作用とイマージュは結びついている。語の意味作用とはイマージュの喚起作用に他ならないという。

 目前のⅩを見て木として意識することは、Xのあり方に促されて木という一つの意味「種子」が言語アヤヤ識内で発動することで始まる。つまり、この意味「種子」の現勢化がイマージュを生み出すのである。直接無媒介的に認識するわけではない。人間の意識は「想像的投企」(エドワード・ケイジー)に充たされるといえると井筒氏は指摘する。言語アラヤ識内で、一つの「種子」が自体的にどのように構成されているか、他の「種子」とどのような聯関に立っているかによって現出するイマージュも変わってくる。同じ日本語を話す日本人の言語アラヤ識から湧出する木のイマージュには共通形状があり、一定の型が認められ、その型が固定されるとき、木の「本質」が成立すると井筒氏はいう。

 井筒氏の「言語アラヤ識」の措定は井筒哲学の基軸の一つだと私は確信する。そして私が確立しようとする「詩学」に活用できる中心概念であろう。

 井筒氏の記述を改めて引用してみる。

 「何らかの刺激を受けて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだす時、必ずそれは一つ、あるいは一聯の、イマージュを喚起するもの」である。「個々の語(コトバ)の意味作用とイマージュとの間には、ほとんど宿命的な緊密な結びつきがある。」『意識と本質』(p184)

  「何らかの刺激を受けて」とはどういうことかを考えなければならない。私たちのすべての経験が言語アラヤ識の深層意識内に蓄積され、「ひそかに発動し」意味「種子」が現勢化を待っているのだ。それが何らかの合図を受け、イマージュを形成するとき、言語(ラング)の一定の型を伴って現勢化すると井筒氏はいう。

 

 井筒氏が「本質」実在論の第二型の存在の有「本質」的分節について、ここで述べようとしている。有「本質」的分節といえ、すべては深層意識的事態であるから、基礎になるイマージュの成立領域やイマージュの性質も様々であると井筒氏は強調する。

さらに読み進めよう。

 我々の日常的意識は、日常的に働いている限り、根源的イマージュ性は表面に現われない。鏡に写った事物をそのまま見ていることに気がつかない。「鏡を打ち破れ」という禅の言葉を実践するのは容易ではない。なぜなら表層意識内で作用するイマージュの即物性、事物密着性が強固であるからであると井筒氏はいう。 だが、日常的意識のなさかに、突然、現実的事物との結合を離れて、現実性から遊離したイマージュがどこからともなく現われ、意識一面を奇妙な色に染めてしまうことがあると井筒氏はいう。「何らかの刺激で」意識が興奮したり、弛緩したりしたときこのようなことが起こる。このようなイマージュには現実的な裏づけがないので、無想の状態に引き入れる。井筒氏によると、東洋思想の精神的伝統では、シャマニズムが代表的な例として、このようなイマージュが重要な役割を担わされてきた。表層意識の立場からは妄想や幻想と見られても、深層意識の領域では真の意味での現実であると井筒氏は指摘する。

 常識的人間の日常意識に事物性から遊離したイマージュが姿を現わすと、異常現象や病的現象になるが、シャマンやタントラの達人のように、深層意識の超現実的次元を方法的に拓いた人たちだけが、この種のイマージュを活用できる術を獲得しているのだと井筒氏はいう。表層意識から深層意識への推移を最も原初的、最も明瞭な形で示すのは、シャマニズムであると井筒氏は主張する。なぜならシャマニズムは日常的意識とシャマン的意識が截然と分離しているからであるという。

 ここから、井筒氏は古代中国のシャマニズム文学の最高峰である『楚辞』を考察することになる。ともに辿ってみよう。

 井筒氏は、『楚辞』に現われるシャマン的実存には自我意識の三つの層、あるいは次元を異にする三つの段階からなる意識構造体が考えられるという。

一、経験的自我を中心とする日常的意識。

二、「自己神化」の過程において次第に開かれていく脱現実的主体性の意識。

三、純然たるシャマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識。

 『楚辞』の主人公である屈原は並み優れた人物だが、一の段階では普通の意識を持つ普通の人である。しかし、非凡な資質をもつゆえに社会から疎外された人物であるという自覚がある。自らを悲劇的実在として意識する。

 

……(略)

 世を挙げて皆濁り

我独り清(す)めり

衆人皆酔い

我独り醒めたり

……(略)

漁父曰く

聖人は物に凝滞せずして

能く世に推移す

世人皆濁らば

なんぞその泥を濁してその波を揚げざる

……(略)

 

屈原曰く

吾之を聞く

新たに沐する者は必ず冠を弾き

新たに浴する者は必ず衣を振るう

いずくんぞ能く身の察察たるを以て

物の文文(もんもん)たるを者を受けんや

 

寧ろ湘流に赴きて

江魚の腹中に葬らるるとも

いずくんぞ能く硈硈の白を以って

世俗の塵埃を蒙らんやと

 

漁父莞爾として笑い

(かい)を鼓して去り

乃ち歌いて曰く

滄浪の水清まば

以て吾が纓を濯(あら)うべし

滄浪の水濁らば

以て吾が足を濯うべし

遂に去って復た興(とも)に言わず

 

 全体を引用することは避けるが、世俗に妥協を許さぬ屈原の姿が描かれている。漁父はいう、並外れた資質をもつゆえ社会から疎外されているとはいえ普通の人間に過ぎない。彼の生きる世界もまた経験的世界である。詩人であるとはいえ、世俗のしきたりに従うがよいであろうと言っている。最後は道徳の問題になり、事実から遊離したイマージュは問題視されていないと井筒氏はいう。意識の三段階のおいて考えるなら、まず第一段は、経験的自我を中心とする日常的意識、第二段では日常的人間の主体からシャマン的主体性に変貌し、「聖なるもの」に近づくことのよって聖化されていく意識の主体的変貌が描かれていると井筒氏は指摘する。その神懸り状態が続く限りは神自身がシャマンの口を借りて第一人称で語るが、神が去った後はシャマンの人間の一人称に変わる。つまりシャマンと神は二個の独立したペルソナなのであって、しばしば神と人の「情事」にまで発展することもあると井筒氏は指摘する。

 のりうつった神が立ち去った直後のシャマン、神懸り直前のシャンには異常な興奮状態になり、経験の主体は神的主体であるが、直前と直後は経験の主体は人間的主体であると井筒氏は解く。人間的主体が住むところは当然人間的世界である。意識の第二段階においても慣れ親しんだ日常世界は目に映る。したがって第二段階の意識では山や木や水は名状し難い幽遠な様相を帯びると井筒氏はいう。神懸り前後の半ば神化された意識状態においては目前の自然的事物の現実に触発され、現実にありながら異次元的に遊離したイマージュ、つまり深層から立ち現われてきた「想像的」イマージュで描き出された心象風景ともいいえるものであるが、経験的存在とは別次元で活動するイマージュが立ち現われると井筒氏は説明する。

 

『九歌』「湘夫人」の冒頭の一説を井筒氏は引用する

  帝子、北渚(ほくしよ)に降(くだ)る

 目、眇眇(びょうびょう)として予(わ)れを愁えしむ

 嫋嫋(じょうじょう)たり、秋風

 洞庭、波立ちて木葉下(ち)る

 

(井筒氏の訳)

湘夫人とは湘水の女神、ここでは「帝子」天帝の御子という。湘夫人は、恋い焦がれるシャマンの設けた祭堂に降下せず、北の渚に降りる。遠い彼方に光る女神の姿。「神人合一」の期待が外れ、シャマンは人間的実存の次元に残る。彼の心は暗い悲しみに翳る。神を眺める彼の目は人間の目であり、しかし、意識はすでにシャマン的脱自状態にある。そんな彼の眼に映る自然は、上の詩句の最後の二行がそれである。これは普通の自然描写ではない。半ば「神化」されたシャマン詩人の意識に映じた心象風景である。

  このようにして見られ、言葉に換えられた風景描写が詩の言葉になっているのだが、ポエジー(という神とアナロジカルなもの)が詩人の心に降り、脱自的状態を作り言葉(表現)を創り出すことに似ていると私には思われるが、それはともかくとして、井筒氏が強調したいのは、外界に存在的根拠を持つ普通の事物も、経験的現実に裏打ちされない神々や妖鬼などと同資格で登場することであり、シャマンとは無関係の一般人から見れば幻想風景として登場するということである。シャマンの意識は経験的世界の現実とは、この第二段階ではつながっている。シャマンの目に眺められることのよって、経験的事物は「想像的」イマージュに変貌し、異次元のイマージュ空間に移されると井筒氏は指摘する。

 シャマン的自我意識の第三段階は、純然たるシャマン的イマージュ空間に遊ぶ主体性の意識である。この段階では始めから「想像的」イマージュなのでイマージュ化の過程は必要がないと井筒氏はいう。経験的世界で目にする事物はすべてある。山は、百神が住み山上には懸圃と呼ばれる神園を秘める崑崙山であり、若木と呼ばれる、高さ数千丈、大きさ二千余囲の神木である若木(じゃくぎ)と呼ばれる樹木もあるといった、経験的世界の事物の質料性の重みを感じさせないものばかりであると井筒氏はいう。つまり「想像的」イマージュの独自のあり方で存在し活動しているのだ。

  本物のシャマンは、「人間の魂にかけては偉大な専門家」(エリアーデ)であり、身体を抜け出した「魂」の旅するイマージュの国の地理を知り尽くしている。この「遠き国」に向かって魂を送り出す。この一時的にではあれ、肉体を脱出した彼の「魂」こそが、シャマン的意識主体であると井筒氏は指摘する。

  「遠遊」である、遥かなるイマージュ空間の旅路は、そこでの体験を言葉に移しシャマン的叙事詩となると井筒氏はいう。第一段階ではシャマンは人々の不義を憤り、わが身の不運に涙する人の形姿であった。その彼がここでは神話的世界の英雄になり登場する。

しかし、純粋イマージュの世界の世界は、シャマニズムだけでない。例えば、西洋のグノーシス、東洋のタントラ、密教のマンダラ空間があるが、マンダラのイマージュ空間は、密教的修行主体の脱自的意識である点が、第三段階の意識状況に符合すると井筒氏は指摘する。職業的シャマンは己のイマージュ体験の哲学的意味を問うことはなく、超現実的世界に「魂を遊ばせる」だけであるが、「魂の遊び」としてのイマージュ体験は詩的創造の源泉であり、自然に展開し神話になる。この神話こそシャマン的体験の言語的展開の場所であると井筒氏はいう。このような超現実的ヴィジョンに哲学的意義を認め神話を象徴的寓話に変え、存在論的、形而上学的思想を織り込んでいくためには、第三段階のシャマン意識を越え、哲学的知性の第二次的操作が必要であると井筒氏は指摘する。例として、荘子の哲学がある。シャマニズムの地盤から出発し、シャマニズムを越えた人の思想であると井筒氏は主張する。また荘周という思想家の「無何有(むかいう)の郷」の住人は原初的シャマニズムを超脱していると井筒氏はいい、『荘子』の冒頭に描かれる怪鳥、鵬(おおとり)、背の広さ幾千里、垂天の雲のごとき翼の羽ばたきに三千里の水を撃し、九万里の高さに上って天池に向かう鵬の宇宙飛遊は、「離騒」のシャマン的飛遊の絶えて知らぬ哲学的象徴性があると井筒氏は主張する。

中国を経て日本にたどり着いた密教的仏教もまた、「想像的」イマージュ体験を基に雄大な哲学的世界観にまで発展させた精神的伝統であると井筒氏はいう。例えば空海、金胎両部マンダラは意識と存在の深層に現成する「想像的」イマージュ空間の構造的提示であり、このようにイマージュ空間として自己顕現する存在リアリティーそのものの形而上学的秘儀を、思想家空海は探ろうとしたと井筒氏は解釈している。また、ユダヤ教神秘主義、カッバーラーや、イスラム思想のスフラワルディー系の照明哲学などがあると彼は指摘する。

 シャマニズムのイマージュ体験は、一般に詩作に行なわれる散発的に現われるイマージュを現実的世界の一部とする考え方とは違い、現実世界そのものの全体が、一個の渾然たる世界イマージュ的世界として顕現することを井筒氏は主張する。つまりイマージュ体験は一種の実在体験であるということである。意識も世界もイマージュ空間に転成してしまうことであると井筒氏はいう。もし経験的事物の実在性以上の実在性を認めるならば独特の存在論が生まれるであろうと井筒氏は説く。スフラワルディーは「形象的相似の世界」と呼んだという。「想像的」(イマジナル)な存在次元では、経験的事物のイマージュ、あるいは相似であるという意味で、我々の日常的世界で見聞し、行為した経験が基盤にあることが私には非常に興味深く感じられる。なぜなら詩人がイマジナルな世界を表出するとき、経験的現実の世界が描かれずに、観念的に走っているという非難を受けることがあるからである。経験的世界の出来事を主題にした詩は、読み手の共感が容易であることは理解できるが、詩が哲学的思惟からも考察するに匹敵するものと考えられるなら、井筒氏の論述は詩の実在体験において非常に示唆的であると私は考えるのである。

 神話から象徴的寓意に変成させ、そこに存在論的、形而上学的思想を織り込むには哲学的知性を必要とするという井筒氏の指摘は重要である。イスラームの神秘家スフラワルディーは「想像的」イマージュを、経験界の事物に似ているけれども、物質性をまったく欠くゆえに、フィジカルな手ごたえのある事物ではなく、それらとは似て非なる存在者と考えていると井筒氏は解く。これらの「似姿」(アシュバーハ)を「宙を浮く比喩」と呼ぶという。言語表現上の比喩ではなく、存在次元の移しによって、物質的、質料的な経験界の存在次元から、非質料的な存在次元に「運び移され」そこで異次元的に、「宙に浮いて」いる存在者であると井筒氏は解く。彼の哲学的信念においては、経験的事物の方が、経験世界で「比喩」と呼ぶものの比喩なのであり、経験的世界に実在する事物よりも遥かに存在性の濃いものとして現われるのだと井筒氏は指摘する。その他、シャマニズム、グノーシス、密教などの精神的伝統を代表する人々にとって、現実世界の事物こそ影のような存在に過ぎないのであると井筒氏はいうのだ。この「似姿」「比喩」と名づけたものは「イマージュ」と述べてきたものであるが、スフラワルディーにとってはれっきとした実在なのだと井筒氏はいう。さらに井筒氏は、それらは質料的事物の「粗大」性に対して、「微細」であるとイスラーム哲学では表現する。インド哲学のサーンキヤ哲学でも同様であるという。

 「想像的」イマージュは深層意識的イマージュであり、事物の「元型」(アーキタイプ)を深層意識に形象化として露見させると井筒氏はいう。「元型」の生起と活動が深層意識的事象であることはユング分析心理で理論的にも実験的にも明示されていると井筒氏は指摘し、次の説明で詳細に解説していく。

 

(次回第十五回につづく)

 

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道元「山水経」に見る「水の現成」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2016年01月26日 | 井筒俊彦研究

連載/第十三回

小林稔

 「水、水を見る」。道元が「山水経」に説く「水の現成」とは。

 

無「本質」的分節なるものが、いかにして「本質」抜きで成立するのか。

以下、井筒氏の言説を追ってみよう。(P168~180) 

 「本質」とは元来、存在の限界付けである。存在界を一つの全体と見て、これを現実と呼ぶ。その中の一つの部分を他から切り離して独立したものと見立てる。これが「本質」である。こうして局所的に措定された「本質」をめぐって一つのものが組み立てられる。コトバによって名指しされるものは、このような形で私たちの意識に現前する。これが分節Ⅰである。このような経験的世界を大乗仏教は妄念の世界、空華、と呼ぶ。分節Ⅱを真の現実(真如)と考えるからである。分節Ⅱが分節Ⅰと分かつのは無分節である。存在の究極的無分節態は、存在(存在=意識)のゼロ・ポイントであり、意識と存在の二方向に分岐して展開する創造的活動の発出点である。しかも無分節者が最高度の存在充実である。

 「無」に瀰漫する存在エネルギーが発散してものを現出させる。

 分節Ⅱにおいてそのものを覚知する。この次元の意識にとって、経験的世界(現象界)の事物の一つ一つが、無分節者の全体を挙げての自己分節なのである。「無」全体がそのまま花となり鳥となる。局所的限定ではなく、現実の全体が花であり鳥である。つまり無「本質」的なのであると井筒氏はいう。この存在の次元転換(分節Ⅰと分節Ⅱの転換)は瞬間的出来事であるから無分節と分節は二重写しになる。すなわち「花のごとし」である。

 すべてのものが無分節者の全体の顕露であるがゆえに分節されたものが他のものを含む。

  「しるべし、解脱にして繋縛なしといへども、諸法住位せり」(道元)

 水は水の存在的位置を占め、山は山の存在的位置を占めて、それぞれ完全に分節されてはいるが、しかしこの水とこの山とは「解脱」した(無「本質」的)水と山であって、「本質」に由来する一切の繋縛から脱している。ところが、分節Ⅰにおいても水が低所に向かって流れるだけと見るのは偏った見方である。地中を流通し、空を流通し、上に流れ、下に流れ、川となり、深い淵となり、天に昇っては雲となり、下っては流れを止めてよどみもする。しかしこのような分節Ⅰの境地にとどまっている限り、水の真のリアリティーはつかめない。分節Ⅱでは無分節者が全エネルギーを挙げて、自己を水として分節する。 

「水のいたらざるところあるといふは、小乗声聞教なり。あるひは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり。心念思慮分別裏にもいたるなり。覚知仏性裏にもいたるなり」

「一切衆生、悉有仏性」という根本命題の存在論的意味である。一滴の水の中にも無量の仏国土が現成するとも言われる。しかし、水の中に仏土があるのではなく、水すなわち仏土なのである。水の所在は過去、現在、未来の別を超越して、どの特定の世界にも関わりがない。しかし水は水として存在する。したがって「仏祖のいたるところには水はかならずいたる。水のいたるところ、仏祖かならず現成するなり」。

 『正法眼蔵』第二十九「山水経」の中で、道元は無「本質」的分節の自由性を、彼独自の先鋭な論理で考究しているが、「山水経」の主題は、有「本質」的分節のために枯渇している存在を、無「本質」的次元に移して、本来の生々躍動する姿に戻そうとすることにある。無分節者が自由に不断に分節していく。私たち人間が感覚器官の構造とコトバの文化的制約性に束縛され行なう存在分節は分節様式の一つに過ぎず。例えば、天人の目になり、魚の目になって、新しく分節し直してみればわかるということを道元はいっているのだと井筒氏は解釈する。しかし道元の存在分節論はさらに続き、先に挙げたような視点を含めた高次の視点に表われる「髄類の諸見不同」を超えて、「水、水を見る」ところに跳出しなければならないと道元はいうと井筒氏は説明する。

「水が水を見る」に至って、分節Ⅱは幽玄な深みを露にする。水が水そのもののコトバで自らを水と言う。水の自己分節。水が水自身を無制約的に分節する、これが水の現成であるが、水が水自身を水にまで分節するということは分節しないのと同じであり、分節しながら分節しない、それこそが無「本質」的存在分節の真面目であると井筒氏はいう。

 井筒氏は、「本質」否定論に対立する「本質」肯定論の第一の型である、宋儒の「格物窮理」を説明するついでに、正反対の.禅の無「本質」論を取り上げ、より明確にしようとしたが、その他これから井筒氏が述べようとするであろう肯定論の第二型においても対立を明確にするという理由があってのことなのだという。

それでは、その肯定論の第二型とは何か。井筒氏の言葉を下記に引用すれば、

 {詩的想像力、あるいは神話形成的想像力によって深層意識のある特殊な次元に現われる元型(アーキタイプ)的形象を、事物の実在する普遍的、「本質」として認める一種の象徴主義的「本質」論の立場である。グノーシス、シャマニズム、タントラ、神秘主義などなど。東洋哲学の領域において、顕著な位置を占め、その広がりは大きい。何処からともなく湧き起こって、意識の仄暗い深層にうごめきつつ、そこに異様な心象の絵模様を描き出す元型的「本質」。その世界を、無「本質」主義の禅はまったく知らない。あるいは知っていても、全然問題にしない。}

 Ⅷ P180~

 ここから第二型の肯定論に入る。(第一型の肯定論は、宋儒の「格物窮理」であった。)

 人間の表層意識に出没する怪物たちの棲息地は深層意識内である。ふだんは姿を現さない。この内的怪物たちが深層意識領域にとどまる限り、あるべき形で働く限り、それぞれの役割があり、時には幽玄な絵画ともなり感動的な詩歌を生み出すものをもっていると井筒氏は指摘する。チベット・ラマ教美術の不気味な空間に浮かぶ異形のものたち、胎蔵界マンダラの外縁、外金剛部院を充たす地獄、餓鬼、畜生、阿修羅など輪廻の衆生。本来の深層意識の観想地域を離れて、表層意識に出没し、日常世界をうろつき廻るようになるとき、人間にとって深刻な実存的、あるいは精神医学的な問題が起こってくると井筒は解説する。心理学では、イマージュ形成こそ、人間意識の、他の何物によっても説明できない、最も本源的な機能であるといわれていると井筒氏はいう。ここで井筒氏が言おうとするのは、イマージュの場所は、深層意識だけではなく、表層意識にもあって、イマージュの性格も働き方も根本的に違うということであり、どう違うのかが、これからの論点になる。

 

以下、第十四回につづく

 

 

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「リルケ、芭蕉、和歌に見られる本質」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2016年01月22日 | 井筒俊彦研究

連載エセー⑥井筒俊彦『意識と本質』解読。
小林稔

連載/第六回

『意識と本質』Ⅰが終わり、ここからⅡの記述が始まる。Ⅰでは、東洋的思考には
いかに「本質」否定の概念が徹底してあるのかをみてきた。井筒氏はこの『意識と
本質』を世に発表した一九八二年の後に、「本質」否定についてもう少し深く追究
した論文を発表している。このブログで紹介しようとしたが、厖大な分量になるの
で割愛した。しかし前回イブン・アラビーについてはやや詳しく解説してみた。い
つか新プラトン主義との関連を掘り下げて論じてみようと考えている。
資料としては下記の書物がある。

 『意識の形而上学』
 「Ⅲ存在と意識の構造」『超越のことば』
 「意味分節理論と空海」『井筒俊彦著作集9』
 「文化と言語アラヤ識」『井筒俊彦著作集9』

さて『意識と本質』Ⅱ を読み始めよう。

P34~39
「ものの心をしる」
 井筒氏は、東洋哲学の伝統には、これまで論じてきた「本質」否定とは逆に、
「本質」の実在性を全面的に肯定する思想潮流があるという。『意識と本質』Ⅱに
おいて論じられるであろう。
 本居宣長は中国思想にみられる抽象概念を「くだくだしくこちたき」として極度
に嫌ったことを井筒氏は指摘する。『玉勝間』の「「かの宋儒の格物到知窮理のを
しへこそ、いともいともをこなれ」として、抽象概念のもとになる普遍者、つまり
「本質」などは、生命のない死物にすぎなかったであろうと井筒氏はいう。
中国的思考の抽象的・概念的に対して「宣長は徹底した即物的思考法を説いた」と
し、その例として、「物のあわれ」があると井筒氏は指摘する。どういうことか。
井筒氏の説明によると、物にじかに触れる、そして物の心を内側からつかむ、それ
が正しい認識方法であると宣長は考えたのだという。「心ある人」と宣長がいうの
は、概念的「本質」の世界は死の世界であるのに対して、眼前にある事物は、生き
て躍動する生命あふれる実在性を具えているので、それを捉えるには「実存的感動」
を「深く感じること」意外にないということであると井筒氏は解釈する。
 眼前の「前客体化的固体」(メルロー・ポンティ)、認識以前の「原初的実在性
における個物」の心を捉えることは「言語的意味以前の実在的意味の核心」(メル
ーロー・ポンティ)を直感的に把握することであると井筒氏はいうが、「個物の実
在的核心を」「客観対象的に認知することはできないという。「xを花というもの
もの、自分に対立する客体として認知することそのものうちに、すでに「花」とい
う言葉の意味分節作用を通じて、xを普遍化する操作が含まれているからである」
と井筒氏は説き、「この普遍性をこそ「本質」と呼ぶ」のだという。このような見
方で考えると、宣長のいおうとすることとは、「本質」回避であり、直接無媒介的
直観知(非「本質」的直観知)とでもいえようかと井筒氏は解釈する。しかし「物
の心」を事物の「本質」とする別の立場も考えられると井筒氏は指摘する。つまり
二つの違った意味の「本質」を考えることができるのだ。

一、自然に人が見出すままの原初的事物の、個体的実在性としての「本質」。
 二、意識の分節機能によって普遍化され、概念化された形で事物が提示する「本質」。

 「一」を個体的「本質」、「二」を普遍的「本質」とし、井筒氏は「本質」の区
別を考察していく。イスラーム哲学にはこの二つの「本質」を術語的に区別して考
える伝統があると井筒氏はいう。

P40~45
「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」
 イスラーム哲学者ジョルジャーニ(十五世紀)の『存在の階層』に対する註解を
井筒氏は次のように引用している。「いかなるものにも、そのものをそのものたら
しめているリアリティーがある。だが注意すべきは、このリアリティーは一つでは
なく二つであるということだ。その一つは具体的、個体的なリアリティーであって、
これを術語でフウィーヤという。もう一つは普遍的リアリティーで、これをマーヒ
ーヤと呼ぶ。
 「フウィーヤ」は「一般的意味での本質(マーヒーヤ)」といい、「マーヒーヤ」
は「特殊的意味での本質(マーヒーヤ)」と呼ばれている。
「特殊的意味での本質」としてのマーヒーヤは、アリストテレスの「本質」(それ
は何であるか)をアラビア語に移したものであり、その答えとして与えられるもの
は、「xの永遠普遍の自己同一性を規定するもの」として「本質」は定位されると
井筒氏はいう。これこそが完全に抽象化した「普遍者」、「一般者」である。
 「一般的意味での本質」としての「フウィーヤ」は「一切の言語化と概念化とを
峻拒する真に具体的なxの即物的リアリティー」であり、「フウィーヤ」は「これ
であること」という意味であると井筒氏はいう。
 「切れば血のほとばしる」実在性のおいて存在させているのは「個体的リアリテ
ィー」だけ、つまりフウィーヤだけであるとする考え方があるが、われわれの表層
意識がそれに視線を向けたとき、実在性の色褪せた、共同的な形姿で現われざるを
えない、それが普遍者としての「本質」、つまりマーヒーヤであると考える人がい
ることを井筒氏は指摘する。
また普遍的「本質」こそ、具体的、個体的に成立させる存在根拠であると考える人
もいるという。経験的世界に存続させる根拠としての個別のリアリティーを「個的
独自の個的実在性に認めないで、むしろそこに個的形態で顕現している普遍的「本
質」に認める人たち、「本質」は普遍的でありながらしかも実在すると考える人た
ちがいると井筒氏はいう。

P47~50
フッサール現象学における「本質」
 井筒氏によると、マーヒーヤ(「本質」の普遍性)とフウィーヤ(「本質」の個
体性)の不安定さは、フッサールの現象学の「本質」理解の曖昧さに露呈している
という。フッサールの現象学的還元と形相的還元の二重操作を経て本質直観的に把
握した「本質」は、上のどちらの「本質」だったのであろうかと戸惑うと述べてい
る。どういうことであろうか。
 われわれの意識経験に現われる具体的な事象は、「本質」を求め「類化」や「形
式化」をほどこせば、「具体的生の現実から遠く引き離された無色透明な普遍者で
ある」ことになろうと井筒氏はいう。フッサールの後裔者はその抽象性から脱出し
ようと解釈的努力をしているという。例えばエマニュエル・レビナスがいる、あるい
はメルロー・ポンティがいる。ポンティは、「引き離された本質」とは言語化され
た「本質」のことであるが、現象学的還元における「本質」は生きた現実の、躍動
するものであると述べていると井筒氏はいう。
 仏教におけるコトバの意味分節機能が及ぼす「妄念」の働きを考察した井筒氏は、
深層意識における意味的アラヤ識を考えれば、表層意識に現われていない「種子」
の働きがあることを指摘する。フッサールの「本質直観」は、前言語分節的意識が
語りかける何かを現前させるものであるとポンティの解釈からいえないこともない
という曖昧さを残してしまうと井筒氏はいう。

P50~53
リルケの「本質」
 マーヒーヤとフウィーヤという二つの本質を考えたとき、リルケのような実存的
体験を重視する詩人はフウィーヤ、つまり「個体的リアリティー」に強い関心を示
すことを井筒氏は指摘する。経験的事象にこそ詩の磁場であることは現代において
詩人であろうとする私においても共通するものである。経験の一回性は重要な意味
作用をもつ。しかもそこで感受した形象を詩人自身の内面世界に引き込んでいくだ
ろう。「そのものの純粋な形象を、日常言語より一段高次の詩的言語にそのまま現
存させようとする」のだと井筒氏はいう。言い方を変えれば、フウィーヤからマー
ヒーヤへの過程が創作行為であると私は考えるが、逆は真ではないであろう。リル
ケにとってマーヒーヤを通してものを見ることは、「ものの本源的個体性を最大公
約数的平均価値のなかに解消してしまうこと」だと井筒氏は主張する。しかし問題
は言語的意味分節において、つまりリルケが詩的言語で表現するときに起こる困難
さである。井筒氏によれば、フウィーヤ(個体的リアリティー)は表層意識には自
己を開示しないことをリルケは知っていたという。ノーラに送ったリルケの手紙で、
彼は次のようなことを述べていた。「内部の深層次元において、ものは始めてもの
として、その本来的リアリティーを開示する」と。このことは、事物の真の内的リ
アリティーが、すべてを言語意味的に普遍化する表層意識の対象にはなりえないと
いうことと、表層意識と異なる意識の次元の存在があるということを伝えているの
だと井筒氏はいう。その深層領域にあるフウィーヤ(個別的リアリティー)を言語
化する、つまり「フウィーヤを非分節的に分節し出さなければならない」のであり、
「表層言語を内的に変質させるによってしか解消されない」であろうし、「異様な
実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する」ことになると井筒氏は
結論する。

P53~61
芭蕉の「本質」
 宣長の関心のあった詩的言語は、リルケの高次言語とは違って「マーヒーヤの顕
在的認知に基づくコトバ」であると井筒氏はいう。それは「和歌の言語」であり、
「一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界」だ
からである。
 しかし普遍「本質」的に規定された世界に飽き足らない詩人たちがいたと井筒氏
は指摘する。平安朝の「眺め」を彼は解説する。「新古今」的幽玄追求において
「眺め」の意識は「茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識
主体的態度ではなかったろうか」と井筒氏は問う。眼前の具体的な事物を認知した
とたん、普遍的「本質」が見えてしまうのだが、「できるだけぼかすことによって、
本質の存在規定性を極度に弱めようとする」のだと解釈する。
 
ながむれば我が心さへはてもなく、行くへも知らぬ月の影かな
                          式子内親王

 井筒氏によると、「詩人の意識は事物に鋭く焦点を合わせていない。それらは遠
い彼方に、限りなく遠いところにながめられている」という。視線の先で、事物は
「本質」的限定を越え、そこに存在深層の開顕があるという。この「眺め」意識は
事物のマーヒーヤを否定するものではなく、肯定するからこそぼかそうとするのだ
と井筒氏は指摘する。
 
 さて芭蕉についての考察に入る。芭蕉は上のような態度は取らなかった。フウィ
ーヤを追求する激しさにおいてリルケとひけを取ることはなく、詩的実存のすべて
をかけて追求したと井筒氏はいう。しかし普遍的な本質であるマーヒーヤの実在性
を否認することはなかったもいう。事物のフウィーヤはマーヒーヤと同一であると
考えた。普遍的なものと個体的なものが具体的存在者の現前において結びついたこ
とになる。つまり「概念的普遍者ではなく実在的普遍者としての「本質」が、いか
にして実在する固体の個体的「本質」でもありえるのか。」このアポリアを以下の
ように井筒氏は解読する。
 普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべ
きことを芭蕉は説いたのだと井筒氏はいう。芭蕉の俳句では、マーヒーヤがフウィ
ーヤに突如転成する瞬間が詩的言語に結晶するという、実存的緊迫に満ちた瞬間の
ポエジーであったのだと井筒氏は主張する。

  物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし
                            芭蕉
 永遠不易の「本質」、それは事物の存在深層に隠れた「本質」であると井筒氏は
指摘する。「物」と「我」が分裂し、主体(物)が自己に対立するものとして客観
的に外から眺めることのできる存在次元を存在表層と呼ぶとすれば、存在深層とは
存在表層を越えた、「認識的二極分裂以前の根源的存在次元」であると井筒氏は分
析する。この事物の普遍的「本質」、マーヒーヤを芭蕉は「本情」と呼んだのであ
る。
 井筒氏によると、芭蕉のいう「本情」は表層意識では捉えられず、直接触れるに
は根本的な変質が行われなければならない、この変質を芭蕉は「私意をはなれる」
と表現し、このような美的修練を「風雅の誠」と呼んだのだという。さらに、「本
情」は不断に表れるものではなく、ものを前にして突然「・・・の意識」が消える瞬間
があり、そういう瞬間にこそ、ものの「本質」がちらっと光るのだと井筒氏は説く。
「物の見えたる光」のことである。
 さらに井筒氏の解釈に沿って要約していこう。人がものに出会う瞬間に、人ともの
との間に一つの実存的磁場が現成し、人の意識は消え、ものの「本情」が自己を開示
するというのだ。「物に入りて、その微の顕われ」ることである。
 すなわち、永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験において、突然、瞬間的に、
生々しい感覚性に変成して現れるのだと井筒氏はいう。普遍者が瞬間的に自己を感覚
化する、この感覚的なものが、その場のおけるそのものの個体的リアリティーであり、
マーヒーヤがフウィーヤに変貌する瞬間であるという。

 フウィーヤだけを意識し、マーヒーヤを概念的虚構とするリルケと、マーヒーヤの
形而上的実在性を認め、感性的表層に変成するフウィーヤの瞬間を捉えようとする芭
蕉との違いは明確になった。この二つの型に共通することといえば「即物的直視」で
あろう。しかし「即物的直視」を排し、マーヒーヤをイデア的純粋性において直観し
ようとする詩人がいると井筒氏はいう。顕著な例としてマラルメを挙げる。哲学的に
は普遍的「本質」の実在論につながるものであるといい、井筒氏は『意識と本質』Ⅲ
においてマーヒーヤ実在論を東洋哲学に探ることになる。

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