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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

長期連載エセー「自己への配慮と詩人像」(二十八回)

2018年12月24日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(二十八)

小林 稔 

 

 48 日本現代詩の源流を求めて

 

 

 「荒地」派における詩人像(一)

 

 詩と社会性

 詩人は自らの作品を前にして消え失せなければならない、という新批評以降の曲解によって、逆に詩人自身の存在ばかりが詩壇をにぎわせ、詩作品そのものが深さを喪失して軽薄きわまりないものになるという現象が生じているように思われる。一編の詩の解釈を詩人自身の経験から独立させようとすることは正しい。詩は作者である詩人を超えるものであらねばならないからである。しかし詩を生み出すまでの詩人の経験を軽視することとは別のことである。詩が生み出されるまでの水面下の、詩人独自の生きざまを無視すべきではない。詩作品の前に作者の詩人として現実との挌闘があることを知らなければならない。その上で個としての詩人を超える作品が生み出されるのである。一個人の内面を深め普遍性にたどり着くことで作品は完成に近づく。すでに述べたように、作品の解釈に作者の生を追跡するのではなく、詩とは何かを追う作者の意識を追うべきであろう。作品は作者自身にとっても未知を含むものであらねばならず、読み手とともにエクリチュールの行方を追うべきである。したがって詩人自身が普遍性にたどり着くための、経験に与えられた要請とは何かを作者自身も探求すべきである。かつて春山行夫らによるレスプリ・ヌーヴォーを掲げた日本のモダニズム以来の経験無視の傾向が二十一世紀の日本の現代詩に引き継がれてしまっていると思えてならない。しかしその間に挟まれて戦後のグループ「荒地」の詩運動にモダニスム批判が根底にあったことを忘れてはなるまいと思う。

 一九六五年思潮社刊『鮎川信夫詩論集』の冒頭「現代詩とは何か」の鮎川信夫氏の主張によると、近代詩を特徴づける象徴主義はポール・ヴァレリーの「純粋詩の概念」において「至高の明澄境」に達し、ヴァレリー以外にも純粋詩的理論を展開した詩人も多くいたが、いずれも自己を重点に置くことで詩人と社会の関係を無視したものであったと述べ、十九世紀の逃避的なロマン主義の残骸を受け継いだという。さらに鮎川氏は「現代詩の機能」という論考で、十九世紀後半から二十世紀の初頭において、詩人は文明社会からの逃避に積極的な意味づけをし、ボードレール、ランボーたちが詩に求めたものは美の絶対境であり完璧の芸術であったという。ボードレールの悪のモラル、マラルメの呪文、ランボーの錬金術、ヴァレリーの純粋詩などは夢の避難所の役割をしていたというのだ。十九世紀のヨーロッパは産業革命やフランス革命の影響を受けて、不安定で精神的統一の欠ける社会であった。そこに生きる詩人たちは孤立した自我を持ち、社会に対立し外なる世界を拒絶し内なる世界に立てこもっていた。科学と合理主義の時代である一方では、ロマン主義と想像力の時代であったのだ。二十世紀に入ると第一次世界大戦を経たヨーロッパでダダやシュルレアリズムが起こり、二十年代にエリオットは『荒地』を著し、詩人たちは十九世紀末的な逃避的態度から文明の批判者の様相を帯びてくるようになったという。ホメーロスやダンテのような古典を現代に蘇らせ知性にも訴えかけるような、哲学的、宗教的な言葉の用法も見られるようになり、それらがヨーロッパのモダニスムである。日本の表面をなぞるだけのモダニスムとはなんという違いだろう。三十年代になるとオーデンやスペンダーなどが現れ「新しい詩の社会的通路」を見出そうとした。彼らとエリオットとの断絶があるが、詩人が文明の批判者として現代詩に新しい局面を開いたという共通の性格を持っていたという。しかしボードレール詩学には、マラルメに引き継がれる象徴詩とは別の、ランボーやシュルレアリスムを生み出す、現実変革へと向かう要因があったと確信しているのは私だけではあるまい。

 

『荒地』の理念化とは何か

 黒田三郎氏の「荒地について」によると、一九四七年、雑誌「荒地」第一号が田村隆一の編集で創刊された。これは第二次「荒地」である。月刊誌であったが一九四八年に六号を出して終結した。しかし、第一次「荒地一の創刊は一九三九年に、鮎川信夫、竹内幹郎、森川義信を同人として創刊されていた。戦後の第二次「荒地」の創刊のころも「純粋詩」「サンドル」「詩学」などに発表の場をつくり<荒地>の磁場は形成されていたと北川透氏は「荒地」の文明批評的な性格をめぐって」という論考で指摘する。その磁場は「鮎川信夫の戦中、戦後を連続するはげしい理念化であった」。しかし詩的共同性が逆に同人たちの意識を規制しているように見えるという。つまり鮎川氏の理念が他の「荒地」の詩人たちを導いていたと同時に同人の内部では異なる想いが生まれていたということであろう。「荒地」の解体が顕現したのは、中江俊夫、吉本隆明などが加入した一九五四年版「荒地詩集」においてであったと北川透氏は「荒地論」で指摘している。一九五一年のアンソロジー集『荒地詩集』予告が「荒地」五号に予告がすでに出ていた。北村太郎、田村隆一、鮎川信夫、三好豊一郎、黒田三郎、加島祥蔵、木原孝一、中桐雅夫の八名が初期詩人であり、後に栗山修、高橋宗近、堀越秀夫、疋田寛吉、森川義信、堀田善衛、野田理一、衣更着信、伊藤尚志が参加、一九五四年版の『荒地詩集』には高野喜久雄,中江俊夫、吉本隆明、鈴木喜録、佐藤木実を加えたとき一つの転機を迎えたという。

それでは「荒地」の理念化とは何であったのか。それは詩の文明批評論的主張であった。「精神的交流としての「荒地」を結成した力はどこから来たのか」を黒田三郎氏は彼の「荒地論」の中で次のように論評している。一つ目は、戦中、戦後を貫く経験の問題である。「体験が経験の個別化に道を拓いた」という。二つ目は、第一次大戦後のイギリス、ヨーロッパの詩の文明批評的なものに対する関心である。具体的にはヒュームからエリオットを経て、オーデン、スペンダ―、ルイスへと流れるイギリスの現代詩である。三つ目は二つ目に関連して、日本モダニスムへの批判であった黒田氏は述べている。

 

 疑似戦後意識の修辞的共同性

ここで鮎川信夫の『荒地詩集』一九五一年版から再録した「現代詩とは何か」という論考をもう少し詳しく見てみよう。「詩と詩でないものとの間に生きている人間にとって、彼を駆り立てるものはむしろ詩でないものである」という黒田氏の「詩の難解さについて」の言葉を引用しながら、「詩と詩でないものの間に生きている人間が、自己確認の場として見出した詩の機能のうえに、如何に自己の全存在の投影を集中し得るか、そしてそれが如何なる人生的価値を持つものであるか、という可能性の問題へと発展する」という。「彼(詩人)を強く駆り立てるものはむしろ詩でないものである」という主張は、詩を求めて現実生活から分離してしまう詩の方法論への否定の立場からのものであろうが、詩でないものは現実生活意外にも多く存在しているので故意に詩でないものを架空の世界に求める詩人も今日の現代詩に多く見られ、逆に直接に非現実世界に突入する詩人も見られる。したがってこの定義は不正確である。「何のために詩を書くのか」ということに焦点をあてれば、鮎川氏は「詩を見失ったからではなく、われわれの詩に異議を与える生活を見失いたくないからである」という。「われわれにとって共通の主題は、現代の荒地である。……われわれの生活は、ヨーロッパやアメリカのような共通理念としての<文明>というものを持っていなかった。伝統の根のないところによく言われる植民地的文化の雑草が生えていただけである。守らなければならないところの<文明>を持たない民族にとっては、戦争も天災地変のような偶然の災難であったに過ぎない」と鮎川氏は主張する。

 

第一次と第二次という二つの戦後、――僕たちの戦後感覚は、単に第二次大戦後に根ざすだけのもの

ではない。僕たちの詩人としての精神は、第一次大戦後絶えず分裂と破戒を繰返してきた世界史の、

幻滅的な尖端である現代意識に於いて成長してきたからである。僕たちが戦前に於いてすでに戦後的

であったということは、第一次大戦後のヨーロッパ文学の影響によるものであろう。ダダやシュルレ

アリスムが、当時の幻滅的な環境に新鮮な刺激を与えたことも確かである。鮎川信夫「現代詩とは何か」

 

 右に引用した文章から理解できるように、鮎川氏の戦後意識は第一次世界大戦後のヨーロッパのものである。先に黒田氏から指摘されたヨーロッパ文明の崩壊と、そこから影響を受けたイギリス現代詩から摂取されたものである。第二次世界大戦に出陣した「荒地」派の詩人の意識には、北川氏が指摘するように、戦前にすでに戦後的であったのである。『荒地詩集』一九五一年版の加島祥造の論文でいう、「破滅的要素の実感は、今の僕達に、嘗ての知性的な同感としてではなく、生活と血肉の経験としてある」という主張はやはり彼らの共通の実感だったにちがいないと北川氏は述べるが、それは「荒地」の多くの詩人を戦場に拉致せしめ、また、同世代の親しいものたちを荒廃せしめた、この日本とは何かというまなざしが、日本の戦後社会に対する触感や体感が消えていると指摘する。つまりヨーロッパの戦後という疑似戦後意識のフィルターを通してしか現れない風景が詩に出現しているという。そのフィルターの共通性によって「荒地」特有の修辞的共同性が生まれたのだという。それは「敗戦革命の挫折にゆがんだ戦後インテリゲンチャの意識を象徴的につたえ」ているというのは吉本隆明が「日本の現代詩史論をどう書くか」で述べている主張である。つまり経験より先に頭脳的了解があったというのだろう。

 

 北川氏は「<経験>の意味」という論考で、「詩論のなかで、体験にしろ経験にしろ、これらのことばが詩の概念を成立させるに重要な契機をもたされたのは、わが国の詩史上でおそらく戦後になってからであり、しかも、それは「荒地」派の出現を待つほかなかったと言える」という。朔太郎の『詩の原理』は経験というような概念とは無縁であるというが、他の評論や随筆では経験のことを多く論じているではないか。西脇の『超現実主義詩論』においては「ポエジーの価値が、もっぱら経験を無化するところに求められているから」経験を論じることはなく、「プロレタリアにおいては「詩人の主体性にかかわる経験の概念そのものが入る余地が失われている」という。鮎川氏は倫理を社会の中に確立しなければならないという。北川氏によれば「鮎川氏のおける経験の概念は、単にモダニズムが欠いていた経験の回復という意味ではなく、宗教やイデオロギーでは代置できないし固有の倫理の確立という論理をともなっていたと考える必要がある」と指摘し、形式や方法、技術に対置して、倫理や社会的責任まで論じることは一般論として偏向であろうと北川氏は言うが、私はそうは思わない。詩が宗教や政治の領域まで降りてそこで詩独自の使命を確認することは戦後詩において初めて行われたことである。さらに哲学の領域と対置し乗り越える必要があると私は考える。つまりモダニズムから出発した「荒地」派が現実の素材と経験の重視に詩の存立を賭けたと考えてよい。それには第一次世界大戦後のヨーロッパの思想や文学から多くを学んでいたのであった。「疑似戦後フィルター」と言って批判すべきではなく、現在でも問題にする、詩は日常か観念かというくだらぬ論争は無視した方が良いだろう。「荒地」派によって日本語の比喩表現が拡大した功績は認めなければならないと思う。

 

 経験を超えるもの

 「荒地」の意味論の重視は、戦前のモダニズムの超克に彼らの存在根拠があると北川氏は指摘し、西脇順三郎の『超現実主義詩論』を引き合いに出し論じている。この西脇の書物はモダニズムの原理的指標であり、詩の契機として、「連想として最も遠い関係を有する概念の結合」ではランボーの無意識やダダイズム、シュルレアリズムがあり、もう一方では、「人間の伝統としての感情及び思想を破り、若しくはこれを軽蔑し、皮肉に批判する」というボードレールのイロニーを挙げている。「つまらない現実を面白くする」という西脇の理論では現実との回路を絶たれているから、連想としての遠い関係という機能主義的にものにならざるを得ないと北川氏はいう。したがってなぜ遠い関係にある言語の結合が、規範を超えた<像>が生み出すのかは問うことができず、先天的な<客観的な意志>を置かざるを得ないと北川氏は主張する。実際、西脇氏の『超現実主義詩論』では<神の形態をとるようなもの>と書かれているのである。「イロニイは経験の対象を表現する上に、その対象と正反対の対象をもって表現することである」という西脇の文章に、正反対という対象をもってくるとしても、それが経験の表現であることに変わりはないと言う矛盾をおかしていることを北川氏は指摘している。「経験を表現するのではなく、経験と相違する若しくは経験と関係なきものを表現の対象とする」と述べているからである。また北川氏は「西脇は経験という概念自体を無化してしまうために、経験によって意味づけられる比喩法自体の無効が宣告されることになると指摘する。<神の形態をとるようなもの≻とは見逃せない事柄である。神を引き合いに出す必然性はないのだが、詩を書く前と、詩を書き始めた生成における意識の問題である。鮎川氏は「現代詩とは何か」という論考で何を書くかという主題的側面ではなく、如何に書くかというモダニズムの言語機能主義を批判した。北川氏のいう「一篇の詩から、どのような明瞭な主題が浮かび上がってくるとしても、それは詩を書く前では自明のものではないはずである。たとえある主題が前提とされたとしても、それが詩作品として書かれはじめるや、ほとんどあってなきがごとくに変形され、破砕されて新しい主題にとって代えられる」ということは納得されるところである。北川氏は「詩を書く行為の内部では、経験は即時的には欠損でしかない」という。「経験が表現されるためには、客観的な意志が媒介されなければならない」ともいう。詩が成立するには経験を超え、つまり新しい経験を新しい言葉の関係でそこでなされるということが必要である。鮎川氏は『現代詩作法』で、「閉じた経験を解放する」と述べている。終着するところは西脇氏やモダニズムの主張する「経験と関係なきもの」の地点にどちらも辿りつくことになる。比喩を駆使して詩を成立させることに変わりはない。「荒地」派の詩人も例外ではない。北川氏によると、比喩が意味論の文脈でしか、解かれなかったところに「荒地」派の、いわばモダニズム批判が不可避にした論理的な偏向があるという。

加島祥造と北村太郎の箸『詩の定義』を取り上げ、北川氏は右のことを考察している。その「論考では一つの言葉を、通常の意味から別の意味へ移す」と比喩を説明しているが、北川氏はそうではなく「意味は破られる」のであり、そこに像が出現するというのである。意味規範がこわされていても、そこにイメージが創出されていれば<秩序>の意識がないのではなく、新しい価値に貫かれた<秩序>があると考えなければならないという。例えば、「さわやかな朝の風が/おれの咽喉に冷たい剃刀をあてる(鮎川「繋船ホテルの朝の歌」では「朝の風」が「冷たい剃刀」のイメージとしてつかまれたと理解すべきであり、「繃帯をして雨は曲がっていった」(田村隆一「秋」)では、雨が繃帯をしているイメージの直接性のうちに、田村の戦後現実があったと考えられるという。北川氏は吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』を引用し、「像的な喩」と「意味的な喩」を基底にアリストテレス以来の比喩の概念を考え直そうとしている。「シュルレアリスムの言語が、そのもっとも高い稜線で示しているものは、わが国の<純粋詩>の観念が体現したような単なる意味の銃殺ではなかった。それは抑圧されている社会のなかで見えなくなっている、人間の存在(意味)の根源を像として表現するための、<故郷を持たない放浪者である>(吉本隆明)言語をつかってのあてどない探索である」と北川氏は述べる。重要かつ興味をそそるテーゼであるが、別の機会に徹底して論じることにしたい。だが一言述べておくと、経験の深淵を突き抜けた後に「経験を超えるもの」に到達することに真実があるのであり、経験を避けてたどり着けるものではないだろう。デリダのエクリチュール論と井筒俊彦の仏教言語哲学の融合にその可能性を私は考えているのである。

 

 鮎川信夫の詩的世界

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

遠い昨日

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで

ゆがんだ顔をもてあましたり

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。

「実際が、影も、形もない?」

――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

Mよ、昨日のひややかな青空が

剃刀の刃にいつでも残っているね。

だがぼくは何時何処で

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。

短かった黄金時代――

活字の置き換えや神様ごっこ――

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、

「淋しさの中に落葉がふる」

その声は人影へ、そして街へ、

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

埋葬の日は、言葉もなく

立ち会う者もなかった。

憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。

空に向かって眼をあげ

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。

「さようなら。太陽も海も信ずるに足りない」

Mよ、地下に眠るMよ、

きみの胸の傷口は今でも痛むか。

             鮎川信夫「死んだ男」

 

 この詩は鮎川氏のなかでもっとも知られた詩である。Mとは、同じ「荒地」の詩人森川義信氏であり、「短かった黄金時代」を共に過ごした親友であったが、戦地で病に斃れた人である。「遺言執行人」とは鮎川自身のことである。北川氏によると、「M」としてうたったのは一人の親友の死という以上の重い意味を表現したかったのだという。戦時下で自我形成を遂げた、これらの世代の精神的な死を象徴したいと考えていたのであろうという。「M」の死を自己を含めた一つの世代の「死」と受け止め、戦後社会から解放されない彼の想像力を絶えず刺激しつつ詩的世界を広げていったのであり、それが抽象的な観念性への傾斜を免れる結果となったと北川氏は指摘する。

 かつて萩原朔太郎は『日本への回帰』という論考で言った、「西洋からの知性によって、日本の失われた青春を回復し、古の大唐に代わるべき、日本の世界的新文化を建設しようと意志しているのだ」と。朔太郎は日本の詩の開花のために、西洋の詩の概念を掌握し、自己の内面を深く掘り下げながら、時に日本の古典に引きずられながらも、日本語による詩の確立を完遂しようと悪戦苦闘した。現代では彼の残した詩群は古いと非難するかもしれないが、彼から学ぶべきものは精神なのである。日本の詩に欠けていたものは経験なのである。一回性の人生の深い意味をそれぞれの経験から読み解いていかなければならないだろう。その意味で鮎川をはじめ「荒地」の詩人たちや、その他の同時代の詩人たちが直面せざるを得なかった戦争は、内面世だけでなく、社会と詩の対決を迫られ、日本語に深い陰影を与えたに違いない。彼らは朔太郎の詩と日本モダニズム詩の葛藤を十代の時期に身をもって経験したはずである。第一次世界大戦を経たヨーロッパの詩人たちの詩と詩学をすでに学んでから出兵する羽目になったことには多くの事柄が彼らの詩の方向を決定づけたであろう。日本モダニズムとの決別も決定的であった。鮎川氏の詩論から知れることは、彼の詩の概念が普遍性を持った西洋の詩の概念にかなり近づいていることである。吉本隆明は「鮎川信夫の根拠」という論考で、「かれ(詩人として自我)が戦火をくぐることで<喪失>したものは、全生涯であり、そうだとすれば、戦火をくぐって生き残ったことで獲得するものも、全生涯を賭けたものでなければ、釣り合いは取れない。きみは青春の途上で、生きながら全生涯を<喪失>した、という体験が、どういうものか知っているかと鮎川は言っている」ような気がすると述べている。北川氏が指摘したように、抽象的な観念性が支配し、戦後の日本との生々しい接触が見られないとしても、T・S・エリオットから同時代的な詩作の基底を知ったのだ。つまり、西洋の詩の模倣から始まった新体詩と象徴詩が朔太郎の内面の探求により、詩の普遍性(西洋詩と同列位置)に少し近づくことができ、戦争体験によってさらに接近したと言えよう。

 

 詩と伝統

 一九五四年の『荒地詩集』に吉本隆明氏らの参加によって「荒地」は解体していく。吉本隆明氏については後ほど論評するとして、それ以前の「荒地」派の詩人たちの理念を先導していったであろう鮎川氏の詩論が、現在読んでも決して古くないと思われるのは、詩の本質に触れているからである。「なぜ詩を書くか」という問いに彼はいう、「現代を荒地として、精神的自由と物質的なパンとを保証してくれるものもない不安な危機的様相の下に世界を眺めることによって、自分達意の生活の前途を見出そうとしてもがいているのである。詩人であるよりも前に一個の知識人としての自覚に於いて、僕たちはこのことをつよく意識する。僕たちにとって詩を書くということは、そうした危機の時代に生きる一つの特別な知的行為として、いわば日常の現実生活に於ける思考や感情の平面から区別されはするが、決して<危機そのもの>からは区別されない。否、<危機そのもの>を認識する一つの場所として詩を撰び採ったのであり、「詩を書く」という創造的な仕事に携わることによって、われわれは初めて危機にぶつかるのである。」

 六十年代の末に出発した私が抱えた問題と、戦場から帰還した「荒地」の詩人たちが直面した

問題とは異なるものだが、おそらく日本人が詩というものを、つまり明治期に輸入された西洋の詩を、朔太郎が言った、「西洋の知を以て日本の伝統に還れ」というプロセスを鮎川氏は継承しているに違いないのだ。したがって鮎川氏の詩論は真摯に受け止めなければならないだろう。さらに鮎川氏はいう、「救いなき精神の危機を可視的にわれわれの身近の現実の中にあがきだすことが必要なのである。見えざるものが可視的なものとなり物質的感覚を以て迫るとき始めて詩は生きてくる」と。七十年代を駆け抜けた私たちが、いわゆる政治に対する学生運動の敗北をいかに甘受し、それをのり超える詩の概念を剔出し、各自の詩作においていかに実践しているか問われなければならない。

 鮎川氏は「詩と伝統」という論考で、ポーを引用し、近代の詩は「驚きを与えるもの」と定義され、「伝統を打破するもの」と考えられてきたという。「一篇の詩が新しいと言われるのは、他の詩との比較に於いて言われるのである」が、「新しい詩の価値が如何なる基準にもとずいて認められたのか」ということが問題になる。しかし「判定の基準が一定していない」というつまり「詩の批評の公的基準」が一定していない原因は「現代詩がまだ真摯な批評の対象になるまで生長していないか、それとも公的基準を定めることが困難であるか」だが、鮎川氏は「後者を解決すれば前者は自ら解消してゆく」という。批評は比較の問題であり価値は過去と結びついたものであるから、「過去の文化的遺産は現存する過去の意識」であり「現在に働きかけ、現在を支配する力を持っている」。「詩の批評の公的基準」が定めがたい」ということはつまり「伝統の意識」がばらばらであり、「伝統が存在しないのと同じである」という。「近代詩は前世代に対する反動と脱出の連続」であり、「伝統がないかぎり、伝統を破ることもあり得ない」。日本の近代詩以降の発展は「批評的ジャーナリズムの張り合いと個人的な才能の争いだけであった」という。もっと厄介なことは、私たち日本人が問題にする「伝統の意識には、全く起源を異にするところの二つの文化に根ざした、容易に融和しない二つの伝統があるということである」。つまり「西洋的な詩の伝統」と「アジア的なものを含む日本的な詩の伝統」である。詩の西洋的伝統といってもわれわれにどこまで理解可能かはわからず、ましてや西洋的伝統に立って詩作することは不可能に近い。もし可能であるとしても国語という障害がある。では日本的伝統はと考えることになるが、日本的制度や習慣が「ヨーロッパやアメリカ文明の影響によって烈しく変化しつつあるし、西洋的文化と東洋的文化の相互浸透によって、滅ぶべきものは急速に滅んでゆくから」日本的伝統に頼ることも難しい。本来「伝統とは、決して自由な個人、或いは集団の意志によって勝手に樹立できない性質のものである。意志によって左右されない、やたらに個人的解釈を許さないもの、そして死を超えて現在の生に干渉する価値が伝統」と呼ばれるものである。ダンテやシェークスピア、あるいは世阿弥や芭蕉は「亡びることより滅びないことが容易である」という。それは「われわれに役立ち得るところの永続価値を発見できるということでもない」。それは現代に生きる我々自身の中にある「永続的な価値をわれわれ自身のなかから見出すためには、死んで、不滅となったダンテ、シェークスピアを知ることがどうしても必要である。つまりダンテやシェークスピア、あるいは世阿弥や芭蕉がいなかったとしたら、われわれは現代についての知識をいちじるしく削減されるだろう」という。これは第一次世界大戦後のヨーロッパで行われた西洋のモダニズム、とくにエリオットから鮎川氏が影響された理念に違いない。つまりヨーロッパの知性と言われたヨーロッパの二千五百年の詩と文化の伝統に継承された現代詩の基盤が、わずか百余年の日本の詩の歴史に少しずつ根付いてきたと言えないだろうか。

 

 現代詩の混迷

 明治期の新体詩から始まった日本の詩の今日までの歴史を大概的にたどってみたとき、近代という時代の宿命が見えてくる。鮎川信夫によると、進化論的な思想が新体詩から昭和初期の春山行夫率いるレスプリ、ヌーボーに至るまで詩の運動の底流をなしていたという。つまり詩的伝統の否定を掲げていた。新体詩以降は象徴派、民衆詩派、感情詩派、そしてプロレタリア詩派、モダニズム詩派とつづいたが、前世代に対する否定的感情に支配され、それぞれの派相互の交流や警鐘がほとんどなかった。日本の戦前のモダニズムとプロレタリアの詩の運動の対立が、戦後の「荒地」と「列島」に引き継がれていったとみられる部分があったと鮎川氏はいう。日本の近代は余りにも短期間に導入されたので、未熟さや脆さが露呈してしまっているので否定的にしか受け取りようがないという。日本が手本とした西洋の近代もまた深刻な危機にさらされていたと指摘する。つまりファシズム、ナチズムの抬頭がり破滅的な段階に入っていた。先進諸国の植民主義に刺激され、日本国内ではナショナリズムがたかまっていた。近代世界そのものが破産しつつあったという。「コギト」「日本浪漫派」「四季」などの伝統志向の復活があった。鮎川氏によると、新しき者の欠陥を古きものの復活で補おうとするのは敗北主義に過ぎないと一蹴する。「荒地」「列島」以後の「櫂」の詩人たち、すなわち谷川俊太郎、大岡信、飯島耕一、中江俊夫、川崎洋,茨木のり子らの出現は相互の共通性がないにもかかわらず戦後における四季派のような印象を受けたという。しかしそれは遺産ではなく、破産宣告を受けた「近代」からの負債であったと鮎川氏は指摘した。

 また鮎川氏は、「詩への希望」という論考で、詩の価値を決める方法について論じている。先述したように、詩の批評の公的基準を決めるのが困難であるということである。本来は、「詩の価値とは、その詩が人間の経験にうったえて、人間の知性ならびに感受性に及ぼす究極の効果によってきまるものである」という。しかし、詩人の信念というものは個人的な狭い防壁に閉じこもるか、あるいは外からの不安な圧迫にさらされるかのどちらかであり、「一種の偏屈」か「一種の劣等意識」につきまとわれるが、詩の価値を証明できないと思ってはならないと鮎川氏はいう。「生に対する明確な目的と善の意識を持つことなくして、如何なる経験や判断は盲目に等しい」。外的な権威や科学的実証性に頼ることなく、生きた経験と判断に重きを置くことが必要である。それは現代の詩人が自己の立場について自信を持たなければならないからであると主張する。近代の科学や唯物論は、物質的な価値を強調し精神的価値を軽視してきた。科学的な合理主義の世界観は宗教を斥けてきた。その結果信念のない詩人たちは宗教的精神と絶縁し、近代の無神論に媚びることでかろうじて文学の片隅で生きてきたという。人類の文化的遺産と言われるもので詩ほど落ちぶれ果てたものはないが、詩を真に心の糧としている人々もいる。詩を読み感動することのうちに、知性と感情の浄化を経験し得るような人々である。詩の価値が説明しがたいものであってもわれわれの仕事が深い源泉的な感情に根ざしていることを自覚するなら困難は表面的なものに過ぎないであろうと主張している。

 このような正統的な詩論を現代詩の詩人から聞かれること自体が驚きである。なぜなら二十一世紀の今日、詩人はかつての崇高な理念を遠ざけ、矮小化した存在に甘んじているからである。そのような位置から詩人を引き下ろすには、詩と経験との関連を掘り下げていくことが必要である。とりわけ、それぞれの詩人がなぜ詩を書かざるを得ないのかを真摯に考えてみることである。詩の行き着く先は普遍である。しかしそこに関与するには私たちの生から一種の啓示を感受するしかないだろう。詩人にとって経験の意味するものをどこまで深く解き明かせるかが問題である。詩は言葉に始まり言葉に終わる。啓示は言葉によってなされる。そこに他者の存在が関与する。普遍と個別、自己と他者という対立項を重要視すべきであると私は考えるのである。

 戦後詩の意味は戦争とは何かを考えることから始まった。私たちは、二十一世紀の今日とはどういう時代かを考えることから始まる。歴史の一点から不易の詩の領域の扉が開かれるのだ。

ヒーメロス39号二〇一八年十一月十五日発行所・埼玉県吉川市平沼二二六ノ一小林稔・以心社


朔太郎論/ロマン主義的精神と朔太郎・小林稔

2016年06月16日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その三・小林稔

日本現代詩の源流

萩原朔太郎における詩人像(二)

ロマン主義的精神と朔太郎

自然主義もロマン主義も西洋からの輸入に過ぎない日本のそれらは、当然ではあるが日本的な解釈をほどこされかなり変形をこうむられた。先述したように、エミール・ゾラの「没主観の科学的観察」という観点から距離を保ち、島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「蒲団」などの小説の世界で日本の自然主義文学が試みられ、作家の体験を赤裸々に描くという私小説化の流れが見られた。そこでは文章語から口語への移行が一つの要因とされよう。

朔太郎においては、文学への出発となった自筆歌集『ソライロノハナ』で指摘したように、文学と詩人としての現実との接触が一義的な主題として成立してきた。白秋や犀星の文学的現実との相違であり、一方では暮鳥の『聖三稜玻璃』に見られる言語的現実の探求とも距離を置くことにもなった理由である。私見によれば、現実と文学の抜き差しならぬ関係はランボーに近いものがあり、さらにランボーを誘発させたボードレール、さらにボードレールに多大な影響を与えたエドガー・ポーに留意する必要があろう。つまり朔太郎の文学は、ドストエフスキーを含めた西洋の近代文学を日本的土壌、つまりいかに日本の詩がグローバルな地点で可能になるかという使命感さえ意識しながら、現実の人生との格闘という卑近距離からの視点と、反対に普遍的な視点、つまり哲学的視点を兼ね備えていたものであった。その苦悩と限界を彼自身が熟知していたと言ってよいのではないか。認識し、さらに詩として開花させる詩人の生。ランボーの「思想の開花に立ち会おう」とする激しい意思を汲み取ることができる。三好達治が指摘する、「(朔太郎)の詩的態度、人生態度の根底には、明治後半以後の自然主義精神の湿潤が支配的なあるものとして潜在していたのではないか」という三好氏の臆見があり、「自然主義に対する勝手な誤解」という三好氏の指摘は的外れである。三好氏は、朔太郎の絶えず自分の人生を見つめようとする文学観に対してたんに自然主義的と言っているに過ぎない。三好氏は「実生活的な傾向を持つ一線は、始終貫かれている」というが、それゆえに詩人朔太郎の魅力が存在する。現代文学や哲学が己の存在から始める特質を持つことを思い起こすなら、思想の原点に立つ稀有な詩人である。

 

私の情操の中では、二つの違ったものが衝突している。一つは現実にぶつかっていく烈しい気持で、一つは現実から逃避しようとする内気な気持だ。この前の気質は「叛逆性」で、後の気質は「超俗性」である。前者は獅子のように怒り、後者は猫のように夢を見ている。私の思想にはポーとニーチェが同時に棲んでいる。私が芸術的感興にのってくるとき、いつもポーの大鴉のように、神秘な幻想境に入ってしまう。この芸術の至境には不平もなく議論もない。この世界は私にとってユートピアであり、唯美であり、三昧であり、慰安であり「自我を完全する所」の「芸術」である。願わくば私はいつもこの「芸術」の世界に住んでいたい。しかし私の中には、一面非常に非芸術的な気質があり、現実に執着しながら、現実に向って歯をかみならし、あらゆる環境に対して敵気の牙をむく叛逆性がある。

                       (朔太郎『烈風の中に立ちて』「日本詩人」大正十五年)

 

右記は朔太郎自身による自己分析である。己に棲まう「叛逆性」と「超俗性」。前者は結果的には『氷島』において頂点を極め、後者は『青猫』に結集された。彼がいう「非芸術的な気質」はニーチェなどに奮起された哲学への志向であり、本来は詩に内在する「生への眼差し」である。

ヨーロッパの詩が日本において成立する条件の一つと言ってよいだろう。朔太郎はこの日本に稀有な詩人像をどこから身にまとうようになったのかを考えたとき、内向的性向と西洋への関心がある。それらは「生活なき生活者の夢幻的観念、単独者的情念を掻立てる――いわば青年のロマン的気質と人間存在にまつわる実存感によると言える」と三好豊一郎氏は指摘する。

かつて古代ギリシアにおける抒情詩の発生が、ホメロスの叙事詩以後、大動乱期の個人主義的土壌から哲学と抒情詩が、ほぼ同時期に生まれた精神の土壌を分有することに留意するなら、西洋の詩の概念には強い現実意識と哲学的思考が内在し、変遷を繰り返し継承されてきたことが知られている。抒情詩の発生の源泉には哲学と共有する精神的思考ルーツがあったのである。

 

象徴主義の源泉としてのポーの詩学

 

詩は真実ではなく快楽をその直接の目的とする点で、科学の仕事と対立し、また明確な快感の変わりに、漠たる快感を目ざす点で(この目的が達せられる限りにおいて、詩となる)、ロマンスと対立する。ロマンスは明確な感覚をつたえるイメージを提供し、詩のイメージは、漠たる感覚のそれであり、その目的のためには音楽こそ本源的である。甘美なる音の知覚こそ、我々の最も漠たる知覚だからである。快感と結びつかぬ音楽は、たんに音楽というに止まる。音楽なき思念は、その明確性の故に散文である。

エドガー・アラン・ポー(ニ十一歳)

 

右記の引用は佐伯影一氏の「ポーの生涯と作品」(新潮社版「世界詩人全集」6の解説)からの引用である。佐伯氏によると、詩人ポーは「象徴主義の源泉」というべき存在であるという。T・S・エリオットでさえ「ボードレールに始まり、ヴァレリーにおいて頂点に達するこのフランス詩の伝統」を語るとき、「ポーに多くを負うていることを忘れてはならぬ」と言い切っているという。ポーの詩には、本国人(アメリカ人)の耳には、滑らかすぎ、甘美すぎ、音楽的にすぎるふしがあり、「ポーの音楽性は、とくに異国の読者の耳に訴え、楽しませるような口当たりの良き種類のものであることまでも匂わせたのは、オルダス・ハックスレーであったという。科学的精神とその散文的な態度が詩的想像力とその主題たるべき美は地球から追放され、そこで詩人がなすべきことは、遠い異界のヴィジョンを唱い上げる。「思想でないところの、微妙繊細なる一種の空想(ファンタジー)にして、私がいまだ言語を適用することの全く不可能なもの」をポーは語る。「空想」は「極度に張りつめた静謐の瞬間にのみ、ふと魂のうちに生起する何物か」であり、「夢の世界と醒めた世界とが交錯する瞬間に訪れる。ポーが「他界の一瞥」と呼んでいたもので、「まさに眠りに落ちようとする寸前で、しかも自分でその点を意識している瞬間で、強烈な恍惚感をもたらすと佐伯氏はいう。

私が度々引用するヴァレリーの『ボードレールの位置』という論評には、ボードレールとポーの「価値の交換」が述べられている箇所がある。

 

二人はおのおの相手に、自分の持つものを与え、自分の持たぬものを貰います。ポーはボードレールに斬新深奥な思想の一体系をそっくり引き渡します。これを啓発し、豊饒にし、多くの題目についての彼の意見を決定してやります。詩作の哲理、人工的なものの理論、近代的なものの理解と決定例外的なものとある種の奇異さの重要性、貴族的態度、神秘性、優雅と明確の趣味,政見すらも……全ボードレールは彼に浸透され、霊感され、深められます。これらの財宝と引き換えに、ボードレールはポーの思想に、無限の広褒を得させます。彼はこれを未来に提出します。※マラルメの雄大な詩句にある、詩人を彼自身に変ずるこの広褒をば、憐れなポーの亡霊に開き、確保してやるのは、ボードレールの行動であり、翻訳であり、序文類であります。(ヴァレリー『ボードレールの位置』)

         ※「永遠がつねに彼を「彼自身」に変ずるごとき……」(マラルメ『エドガー・ポーの墓』

 

ヴァレリーは、ボードレールにおいて初めてフランス詩歌はフランスの国境を出て、多くの人々に読まれ、詩人たちにも影響を与えたという。その要因の一つは、「批評的叡智と詩的効力を兼ね合わせるという例外的事情」にある。朔太郎も評論を数多く残していること。二つ目の要因は、ロマン主義全盛期に詩人としてすべきことは、先行する高名な詩人たちと異なることをすることが求められたこと。朔太郎が、白秋でもなく犀星でない別の道を進むことを意識せざるを得なかったのと同様である。ボードレールはロマン主義の巨匠たちを観察し、ロマン主義の弱点と欠落を確認し、巨匠たちの成し得なかったことをしようとしたのだとヴァレリーは指摘する。

佐伯氏は「感覚の強烈な乱用による新しいヴィジョンの獲得を主張し、実践したランボーとのつながりを――象徴主義としての源泉としてのポーの意味を思い合わせるべきであろう」と指摘する。佐伯氏は、ポーに「他界」を夢みるプラトニストの一面を見るが、朔太郎が『青猫』の序文で自ら記す、「私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢい(、、、、)を聴くであろう。その笛の音こそはプラトオのエロスーー霊魂の実在にあこがれる羽ばたき――である。」朔太郎がプラトン哲学をどのくらい深く理解していたかは別にして、感情的に共感を持っていたに違いない。

このようにしてポーやボードレールの詩的営みに朔太郎との共通点を辿ったのであるが、朔太郎は、大概的に捉えればロマン主義の特色を持つ詩人と言えるが、遠い異界に思いを漂泊させながらも、絶えず自分が置かれた現実の生活や故郷に連れ戻され喪失を嘆くという、両極に牽引された詩人像が浮かび上がるのである。

 

リリシズムとイロニー

朔太郎の「陽のあたる部分」を継承した詩人が西脇順三郎であるという篠田氏の指摘をすでに述べたが、朔太郎の「西脇順三郎の詩論」(『詩人の使命』に所収)を読むと、西脇の詩がいかに自分の詩と異なるのかを明確に分析していたことが知れる。それは、西脇の詩論集『純粋な鶯』を批判した評論であり、一言でいえば、ディレッタントの詩論であると激しく非難している。詩の精神が「非日常的飛躍」にあることは両者の一致するところであるが、それが「なぜ詩人に欲情されるかということの意志の本質問題」について西脇は知らない」という。ポエジーの本質である、「人生において、詩が欲求される必然性と、詩を歌わねばならない生活の悲哀や苦悶を知らない」のだという。西脇は、詩的精神の本質は形態(フォルム)の中につきるとし、全てのリリシズムを排斥して、詩の文学的価値は知性の鑑賞としての興味にしか過ぎないのだという。

「百合や菫の花を愛し、自然の美を好む人が詩人なのではなく、そうした言葉の中に、美のイメージ感じる人が詩人だという」西脇の言葉に共感しつつも、「詩人は花という言葉の表象に、人生において主観しているところのある情感を寄せている」。「主観の生活情操と関係なく、単に言葉の面白さ」を楽しむ人はほんとうの詩人ではなく「言語遊戯者」である。「西脇の文学論には、モラルもなく、人生もなく、意志もなく、ヒューマニティもなく、全ての文学する精神を虚脱された形態ばかりが、解剖台の上の死体のように提出されている」と異常な外科医に喩える。

 

僕はポーから「詩」を学び、ニーチェから「哲学」を学び、ドストエフスキーから「心理学」を学んだ。僕がドストエフスキーを読んだ頃は、丁度「白樺」の一派が活躍して、人道主義が一世を風靡した時代であった。その白樺派の人たちは、トルストイとドストエフスキーとを並列させて、文学の二大神様のように崇拝していた。……しかしドフトエスキーを読んだ後に、僕は白樺派の文学論を軽蔑した。なぜならドストエフスキーの小説とトルストイとは、気質的に全く対蹠する別物であり、……人道主義というごとき感傷観で、二者を無差別に崇拝する白樺派のヒロイズムは、僕にとってあまり子供らしく浅薄に思われた。(朔太郎「ドストエスキーを読んだ頃」『廊下と室房』所収)

 

西脇の詩に形態論や知性の重視、ヒューマニズムやモラルの欠如を批判していることから、それらの対極にあるものを朔太郎が主張していると思ってはならない。飯島耕一氏は、評論集『萩谷朔太郎1』で、ヒューマニズム的な一面を持つ「四季」の同人になったこと、「コギト」や「日本浪漫派」のような「ヒューマニズムをある意味で突き詰めることによって危うくする傾向の確かに底流する場への接近した」ことを指摘する。「朔太郎におけるヒューマニズムの問題は単純ではない」という。また、「朔太郎の内部には、西洋か日本かではなくて、西洋的な知性を持って日本の失われた青春を回復しようという意図があった」とも飯島氏は主張する。西脇からは、詩は道徳論や人生論は無縁であると言うだろう。だが、朔太郎のいう「人生」や「生活」は単純ではない。朔太郎には日本のシュルレアリスムを批判する批評があり、それを先導する西脇への攻撃でもあった。

西脇は朔太郎の「畸形なもの、孤独なるもの、醜悪なもの、生理的なもの、憂鬱なもの、醜悪なもの、罪悪なもの、罪の意識、兇賊的なもの、死体、死といった幻影の世界」に対して「諧謔性」に偉大さを感じ、『氷島』の「漂泊者の歌」は「まともの諧謔(イロニー)を残している」と西脇は考えていたと飯島氏は指摘し、「諧謔の視点こそ意外にポエジーの本質がある」として西脇に賛同している。西脇の詩に「生活の悲哀や苦悶の訴え」の欠如を朔太郎が批判しているが、「詩の形でナマに訴えることを拒否したのではないかと飯島氏はいう。

脳髄は人間の本来の論理性を持っているが、それが過剰に在りすぎると脳髄が圧力を感じ憂鬱になる。脳髄が諧謔を欲するのは論理的憂鬱を軽減するためであろう。(西脇「『詩学』六十七年)

 

リリシズムとイロニーは優れた詩人に内在する両極であるとも言えようが、朔太郎と西脇を引き離す差異の振幅こそが、それ以後の私たちの荒寥たる現代詩の状況を露呈していると考えられないだろうか。

 

詩を書く朔太郎の絶望と今日的問題

『月に吠える』は日本の「近代詩」の独立宣言であったという篠田氏の指摘は先述したが、ここにおいて「近代日本の詩的感受性と呼ぶにふさわしいものが始めて創られ、その方向が定められた」というのである。藤村から白秋に至る詩集群は、近代的意匠に過ぎず、「朔太郎はこの意匠遊びを最初から拒絶した」。しかし私たちが心に留めるべきは、『月に吠える』の病的な幻想世界や『青猫』の抒情的かつ夢想世界に隠された朔太郎の、日本の詩に対する絶望があったということだ。

先述したように、『月に吠える』の後を受けて、西脇順三郎の『Ambarvaria』と三好達治の『測量船』が世に出たが、三好達治が継承したという「影の部分」の内実を考えてみよう。

『青猫』の中の表題となった詩、「思想は一つの意匠であるか」という問いかけは、「自在に動き回る言葉と音に対応するだけの思念の世界の空白、もしくは欠落を痛切に感じとっていた」朔太郎の、「おのれの手中に収めた新しい言語の技法の自在さの持つおそろしさに愕然とした詩人の嘆きに外ならない」と篠田氏は指摘する。先に述べた「おのれの内部の空しさ」である。『測量船』を書いていたころの三好達治は、「口語自由詩の無秩序におのれをいましめ、日本現代詩の未来について暗い予感に襲われていた」と篠田氏はいう。そのことが伝統的定型詩に三好氏を向かわせる。「いかにしておのれのポエジーを十全な形において唱い、表現するかという熾烈な欲望、そして、そのためには現代の日本語がいかに不十分であるかという絶望的な反省」があったともいう。

朔太郎の、「日本近代詩人として詩を書くことの絶望」とはいかなるものであったのか。篠田氏は、「日本の近代詩がついにポエジーたりえなかった絶望」や、「日本の伝統的な詩のあり方がいまや目前に厳として迫っているヨーロッパの詩に対して無力であるという絶望」ではあるが、朔太郎の絶望にはアイロニー的な表現があることを無視してはならず、「自己劇化」せずにはいられないほど深刻であったのではないか、つまり、これらの絶望を生み出した背景に、朔太郎の実生活上の荒廃だけに目を奪われてはならず、「この詩人独自の詩の生理と原理との合体を成就させたのは、彼のヨーロッパ経験というべきものであった」と篠田氏は主張する。その「ヨーロッパ経験が、もし真実のものであるならば、それは必ず彼(近代文学の文学者)を絶望へ導くはずである。この絶望にいかに堪え、そこからかけがえのない珠玉の言葉をつくりだすかが、明治以降の日本の文学者の軽重を測る、ほとんど唯一の基準だといって差し支えない」という。

それでは二十一世紀の日本の現代詩の状況において、ヨーロッパの詩の経験はどのような意味を持つのか、あるいはこのような発想自体が無意味化されたのか。後者であるならば、朔太郎の絶望は解消されていることになろう。しかし、現在書かれ、私の目に触れる詩は、凡庸であり慎ましさをよしとするものが多く、一部では難解さを目的とした詩もあるが、大方はわかりやすい言葉で書かれた詩が評価され好まれている。西欧の詩に関心を示すのは研究者のみで、詩人と自称する人たちは、自由自在に詩作する。彼らは、日本の詩の成立やヨーロッパ経験も思い描くことはないだろう。そこから生まれる芸術全般の狭小化と商業主義に抗して、私は朔太郎以後のモダニズム詩やプロレタリア詩の動向を戦後詩まで考察する一方、短歌や俳句を含めた東洋的思考を、ヨーロッパ詩の領野から統合的に考えていこうと思う。

 

日本の〈詩〉と称する文学は、過去に於いて皆ジレッタントとダンディズムの文学だった。それは民衆の生活とも関係なく、文化の現実とも交渉なく、単に詩人自身の頭脳内でのみ構想されて居たところの、空中浮遊の風船玉文学だった。(朔太郎「西脇順三郎の詩論」)

 

今日の詩的状況はどのように推移したか。「僕らもまた海の向こうに、西洋という蜃気楼をイメージした。だがその蜃気楼は、今日もはや幻想から消えてしまった」(朔太郎『日本への回帰』)という朔太郎の趣旨は、右に引用とした論考と同じことを言っているのであって、日本回帰をすればよしと単純に言っているのではないことを飯島氏は述べている。「蜃気楼が消えて家郷に帰ってみれば、全ては失われているということである」のだという。『氷島』のテーマを思い起こされる。今日では西洋の詩学は研究者のみの対象になってしまった。詩人は日常に視線を浴びせ、方向性を持たぬまま詩的レトリックに心身を注いでいる。「文化の現実との交渉」においても、現代に詩を書く者は深く考察しなければならないだろう。


長期エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その二・小林稔

2016年06月13日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

長期連載エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その二・小林稔

48日本現代詩の源流を求めて

萩原朔太郎における詩人像(二)

朔太郎の詩が抵触したヨーロッパ詩の経験

 

 日本の詩という文学は、それの発生上における文化的『必然性』が欠けているのである。……もし超現実派という言葉を皮肉に使えば、生活的現実性がなく、現実を遊離していることにおいて、日本の詩はすべて皆超現実派であり、日本の詩人はすべて皆シュルレアリストである。この一切の原因は、要するに日本の詩人らが、真の理性的批判力を持たないことに帰着する。……いったい日本の詩人という連中は、昔の歌人や俳人時代から、伝統的に感応や趣味の上で鋭い感受性を持っているが、理性人としてのエスプリを少しも持っていないのである。……彼ら(ヨーロッパ人)の芸術の中に本質している、エスプリとしての哲学を掴むことができないのである。

     (朔太郎、一九三七年刊エッセイ集『詩人の使命』所収の「理性に醒めよ」からの一節、途中省略)

 

 

朔太郎には日本近代詩のヨーロッパ経験に対する批判を述べた多くの評論がある。全てを現代詩に当てはめることには無理があるが、現代詩の詩人に内在する問題を指摘すると思われる箇所もきわめて多い。朔太郎の初期の詩には、フランスへのあこがれを歌った「旅上」という詩があるが、実際にヨーロッパに行っていない。しかしヨーロッパの模倣から出発した日本の近代詩を深く探求することで、朔太郎の詩が初めてほんとうの意味でヨーロッパの詩に触れたと言ってよいのではないかと思う。つまり朔太郎は詩作という創造行為でヨーロッパの詩の中核に触れたということである。そのことを篠田氏の評論から示唆されるままに論じてみよう。

ヨーロッパの詩、特にシェイクスピア、テニスン、ロングフェローなどの英詩が『新体詩抄』では紹介され島崎藤村らの文語自由詩に影響を与えたが、その後、象徴詩は、北村透谷から試行され、蒲原有明や薄田泣菫によって進められた。象徴詩と言えば、篠田氏の言を待つまでもなく、ボードレールに始まり、マラルメに引き継がれた近代ヨーロッパの基本的な詩法に集約する。このフランス象徴主義を唱導する詩が日本の詩壇にも登場し始める。前記した三人の後に北原白秋や三木露風が後期象徴派として現われた。篠田氏によれば、これらはすべて「ヨーロッパの詩的意匠と、すでに枯渇化した伝統的な詩的形式(短歌や俳句)との安易な接木作業」であり、朔太郎の『月に吠える』において、「明治開国以来、ヨーロッパ文学を中軸とする、いわゆる世界文学のコンテクストをはじめて目前にして、ついにみずからのコンテクストに選ばざるを得なくなった近代文学の運命の最初の詩的実現」が可能になったという。しかし朔太郎の詩境は、口語自由詩の伸びやかな技法は決して意気揚々としたものではなく、朔太郎自身、「内面において危機を感じていた」であろうという。「自在に動き回る言葉と音に対応するだけの思念の世界の空白、もしくは欠落を痛切に感じとっていた」。しかし、『月に吠える』や『青猫』で展開した「ファンタジーの世界」に朔太郎は「耽溺することなく、これに対していわゆる自然主義的な目を向けて、四囲を観察し、自己の内部との距離をたえず目測し、夢が破れ、おのれの内部の空しさが露呈する瞬間をあまりにも敏感な姿勢で待ちうけていた」という篠田氏の鋭い詩的は傾聴に値する。つまり勝利を得るのは夢か、自然主義の目か(自然主義の定義が問題であるが)ということであり、そのことを見失っては『氷島』の世界は理解できないであろうという。そこでは「夢はますます深く、深刻な様相を帯びてくる。夢みることがもっとも深刻な現実であることを、物の見事に実現したのが朔太郎晩年の詩境」である。そこにおいてこそ、「詩のイデー、つまり詩形式によってはじめて把握でき、さらに理解されるイデーが確立されたのである。」これこそ朔太郎が「ヨーロッパ・アメリカにおけるサンボリスムの現代的展開の一環としてその正当な位置を要求することができる」と篠田氏は主張する。つまり西洋模倣の時代を朔太郎は終結させたのである。その後現われたモダニズムの文学運動とプロレタリア運動に分化して戦後詩に問題を残していくが、朔太郎の詩境におけるヨーロッパ詩の経験において、日本の詩がヨーロッパの詩の伝統に初めて接続された。要因として考えられるのは、朔太郎の文学に初めから一貫して見られる、文学と現実の一致、あるいは一致を可能にしようとする強烈な願望であると私は考える。朔太郎の詩は、『氷島』に向けて生成したと言ってよいだろう。

さらに留意すべきは、朔太郎の詩的世界はボードレールが近代ヨーロッパに果たした同じような意味を、ひとつの巨大な水源地になっていくつかの水脈が流れ出すように、日本の近代詩や現代詩に持っていると篠田氏は主張する。その水脈のいくつかは、三好達治であり西脇順三郎であるという。水脈とは、かつてヴァレリーが『ボードレールの位置』で語ったように、水源から溢れだした一部分である。ヴェルレーヌの、「内奥の感覚及び、神秘的感動と官能的熱烈の力強く混濁した混合」、ランボーの「出発の狂熱、宇宙によって掻き立てられる焦燥感、諸感覚とそれらの諧調的反響との深い意識」、マラルメの「形式的並びに技術的探求、完璧と詩的純粋性」の延長というように分化していったとヴァレリーはいう。

それでは三好達治と西脇順三郎に流れた水脈とはどのようなものか。篠田氏は、『月に吠える』は日本の「近代詩」の独立宣言であったというが、詩的言語の輝かしい顕示であるとともに詩の危機も暗示していたという。「陽のあたる部分」と「影の部分」があり、朔太郎自身が「影の部分」に自ら復讐され、「郷土望景詩」と『氷島』で必死の脱出をしたのであったが、被害妄想に冒されていた彼が、この脱出をどれほど自覚していたかは疑問であるという。その「闇の部分」を継承したのが三好達治であり、「陽のあたる部分」を継承したのが西脇順三郎であると篠田氏は指摘する。「影の部分」とは何かは後述することにして、三好達治も朔太郎同様、口語自由詩形の確立を追い求めたが、伝統的定型詩形も可能性を認めていたという。彼を理解するには、初期の『測量船』だけでなく後期の作品を論じなければならないが、それは別の機会に譲ることにして、今回は、「朔太郎の詩業を世に伝えた最上の詩人」と篠田氏が称する三好達治が、朔太郎をどのように分析していたのかを読むことで、彼の朔太郎像を掘り下げ、その賛否を考えてみよう。

 

「ロマン的気質における志気」

昭和三十九年刊行の三好達治全集第五巻には、萩原朔太郎についての評論が集められている。その中の「萩原朔太郎詩の概略」に朔太郎の自然主義文学精神が指摘されている。朔太郎の詩の出発は「愛憐詩篇」にあったが、その中でも初期の作品である「夜汽車」や「こころ」の詩を引用し、北原白秋の『邪宗門』『思い出』の「粉飾体」の影響が朔太郎の詩にいかに少ないかを指摘する。「こころはあぢさゐの花」「こころは二人の旅びと」「わがこころはいつもかくさびしきなり」といった「素朴でぶっきらぼうな日常口語に近い口吻」など、白秋の詩からは「遠く異質の本質に根ざしたもの」であるという。

 

静物のこころは怒り

そのうはべは哀しむ

この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる

窓ぎはのみどりはつめたし。「静物」

 

右に引用した、「夜汽車」「こころ」の一年後の「静物」に至っては「簡素をきわめた作」であり、朔太郎自身が「きっぱり明確に自分の道を見出し始めたことだろうと推測される」といい、「再会」においては、「論理の飛躍、時間と空間の先にいったような錯雑と混乱」があり、「ふだんはかくれて睡ってゐる精神の潜在能力が触発され目ざめる」という満足を「再会」を前にして覚えるという。つまり「白秋における象徴主義は朔太郎におけるそれに転化して新しい展望を得た」のだと述べている。中村稔氏は最近の評論集『萩原朔太郎論』(ニ〇一六年二月青土社刊)において、室生犀星の『抒情小曲集』の「小景異情」には「短歌的抒情がまったくない」ことを指摘し、朔太郎の短歌的決別に大きな影響を与えたという。

三好氏は、「夜汽車」「こころ」から「静物」「再会」に至る間に朔太郎は何かを発見したのだと指摘する。それらを三つに要約すると、一つ目は後期象徴詩の粉飾と、外面上の均整と、無用の積み重ねと、横すべりと思わせぶりへの洞察、二つ目はその反撥としての素朴な人生への結びつきと、生活感情への直接な話しかけ、三つ目は、詩句の連関連想からする切り崩しあるいはその組み換えである。三つ目の発見は『月に吠える』への大きな飛躍に有力な契機を見出し実現されたという。

 

自然主義、この語をあの人(朔太郎)は徹底的に毛嫌いし敵視していたけれども、その半ばは当の自然主義に対するあの人の身勝手な誤解に根ざしているもののように、私には考えられる。歌人としての石川啄木に自然主義精神の浸潤が根底を成しているのを見るその同じ意味で、同じ程度に根ぶかく、一つの大きな気運としての時代精神、自然主義的精神は、それこそあの人をその前時代詩人たちのグループからきっぱり切り離すところのあるものとして、あの人における最深奥部の支配的なものとして潜在していたのではあるまいか。(三好達治「萩原朔太郎詩の概略」

 

三好氏はさらに朔太郎の蕪村論において、蕪村俳諧の「艶美風流ないしそのロマンチック趣味」には触れず、蕪村の「自然主義的人生観察の鋭い眼差し」に偏り過ぎていることを指摘した。だが三好氏の自然主義の概念は正当なのだろうかという疑問は否めない。三好豊一郎氏の論考『自然主義と象徴主義』によると、朔太郎が反論した自然主義は、エミール・ゾラの「没主観の科学的観察によって描き出そうとした厖大な企て」ではなく「ゾラのペシミスチックな決定論的宿命観のみを、仏教的諦念に養われた日本人独特の生活心情に結合させた私小説ないし心境小説の消末主義と、それへの安住を意味した」のであった。また「彼自身の中の自然主義――宿命観、諦念、因果律、虚無感――との抗争でもあった」。「朔太郎の詩の本質は、常に詩人の情緒的反応が経験を優越し、外的現実が自我の内面に引き起こす感情の主観的リアリティを描き出そうとする傾向の強さ」であるという。文学をその遊戯性から引き離し、現実の生活の次元から哲学的思惟を、普遍性(イデア)へと羽搏かせる朔太郎の詩学は、私にはどこかランボーの「生の変革」を想起させるところがある。前回の論考で私が朔太郎に興味を覚える理由として挙げた、詩人と詩人が生きなければならない現実と詩作行為が一体になっているということである。結果として創られる作品は、単に現実生活を題材にした「身辺雑記」とは非常に異なってくる。

三好達治の朔太郎論をさらに続けると、蕪村論や石川啄木の短歌への共感などにみられる朔太郎の「日常生活の極めて些細な具体的な寒酸な現実への凝視」から判断し、「その詩的世界はある意味では極度に狭められ、それだけ鋭く直接に人生そのものに素朴に接触交渉しようとする傾きが認められる」というのである。つまり、白秋の「装飾体」から切り離したものこそが三好氏の指摘する自然主義であった。この傾向はかすかながら初期の詩から存在し、やがて「郷土望景詩」で完成に達し、『氷島』において極点に達し「無残な頽唐と破産とが同時に併せ齎された」と三好達治は主張するのである。明治後半以後の「時代思潮としての自然主義文学精神と深く気息の相通う一線、手っ取り早く言えば甚だ簡卒に実人生的な傾向を持つ一線は、始終貫いている」と指摘し、「郷土望景詩」の詩境に至ってついに「風霜の気」と呼ぶべき飛躍を示したというのである。「風霜の気」とは世の中の厳しい苦難に立ち向かおうとする意気込みを言うのであろう。そこに「宗教的雰囲気」と「病理的なもの」が加わるが、前回述べたのでここでは省く。三好豊一郎氏が「自然主義と象徴主義」という論考で指摘するように、自然主義というよりも「ロマン的気質における志気」によるものであり、ロマンチシズムの特徴と見るべきであろう。「啄木の自然主義的文学精神が具体的現実的社会的な生活実感の上に成るものであるのに反して、朔太郎の文学精神は、生活なき生活者の夢幻的観念、単独者的観念、単独者的情念を掻き立てる、いわば青年のロマン的気質と人間存在にまつわる実存感による」とし、「魂の安息を導き入れる生活への郷愁にとどまる」。ロマン的反逆精神をボードレールに見、共鳴したとしても、どこまでも現実の生にしがみつき、人間の悪の正体を暴かずにはいないボードレールとは違い、東洋的な諦念のもとで遠いイデアを憧憬しているに過ぎない。かつて朔太郎は、日本の詩人が「現実を遊離している」ことを解いたが、それは自戒でもあった。「理性的なものは全て現実的である」というヘーゲルの言葉を朔太郎は引用したが、理性の長い歴史を持たない日本人とは違い、ボードレールやランボー、シュルレアリズムにおいても、現実を超えることがいかに困難なことであったかは、詩と詩人の人生、その言葉の闘争の痕跡を辿れば知ることができる。私たち日本人は日常と非日常に関心を集約させ、現実と超現実的感覚に疎く、西洋における詩的感覚を共有しない特質があると言える。朔太郎の日常の内実は詩人としての特異なそれであり、己を直視しようとし、己の生を実験現場とする現実であった。


エセー「自己への配慮と詩人像」(二十五)その一/小林稔

2016年06月11日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

詩誌「ヒーメロス」33号の記事から、三回に分けて掲載します。

 

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(二十五)

小林 稔

 

 48 日本現代詩の源流を求めて

 

萩原朔太郎における詩人像(二)その一

 

詩作における「感情」と「経験」

私たち詩を書く者が、詩という未来を切り開く水路となるべく方向性を見つけ出そうとするとき、己が置かれている現在時での基底が、いかなるものの上に成立しているのかを考慮しなければならないだろう。詩が言葉で構築される創造行為であることを放棄しない限り、先人たちの詩の営みを鑑みる必要に迫られるのは必然である。なぜなら、詩にいつも求められる「新しい何か」は、私たちの現存の立場に立ち批判される、過去への強い反抗から生じるものだからである。

詩集『月に吠える』『青猫』「郷土望景詩」(『純情小曲集』)『氷島』と辿る詩作のプロセスは、詩人が『氷島』に至るための必然であったと感得してしまうのは、あまりにも恣意的な読み方であろうか。『氷島』は言語表現において評価を二分する問題を内包する詩集である。詩的形式ではそれ以後の詩人たちにアンチテーゼを投げかけているものの、詩的精神を考えるなら、『氷島』は普遍的な詩人像を浮き彫りにする詩集と言えるのではないかと私は思うのである。

『月に吠える』初版の序で、「詩の目的は感情の本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである」と朔太郎は述べたが、『氷島』では彼の生きざまを烈しく表出し、詩人の「漂泊する魂」を言葉に託し、哲学的な思惟さえ感得することができる。かつての『新体詩抄』には、日本の詩歌の主要なテーマである花鳥風月を廃し、言葉の構築性を目指し、堅固な思想の上に詩を開花させようとする意図があったはずである。つまり西洋の詩から学ぶべきことは感情や感傷に流されない思想の探求であったのではないのか。リルケが『マルテの手記』で書いた「詩は感情ではなく経験である」という言葉と、「詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである」という朔太郎の主張は、短歌ならいざ知らず、私は少なからず違和感を持つが、当時の時代状況、つまり文語的表現から口語への変換がいかに困難をきわめたかを思い至るなら、さらに晩年の達成を思えば致し方なかったとも思える。詩の「構築性」「思想」と「感情」「情緒」という概念は、朔太郎においては対立するものではなかった。フランス語でsens(サンス)は主に「知覚」を意味する言葉であり、派生語のsentiment(サンチマン)は「感情」を意味し、sensation(サンサシオン)は「感覚」を意味する。朔太郎の詩には「感覚」を駆使した詩が多くあるのだが、それを内省的に主観的に捉え、sentimentalisme(サンティマンタリスム)「感傷主義」的に把握する傾向がある。後にこのエセーで問題にするが、朔太郎においては、普遍的な想念と彼自身の生は切り離されていなかったことと、自己神話化する性向に起因する。

『氷島』は朔太郎詩のある意味で詩的達成と私は言ったが、それは決してポジティブな達成という意味ではなく、西洋詩の模倣から始めた日本の詩が、はたして本当に成立したのかという疑問を、彼の詩業は明確化したということである。その根拠となるべきものには、いまだ過ぎ去っていない現在の詩の問題が内包されていると私は考える。

 

『氷島』の詩的評価

 篠田一士氏は評論集『詩的言語』の「『氷島』論」において、この詩集の評価には賛否両論があり、評価する人は作品そのものよりも詩人の精神のあり方に瞠目し、評価しない人は朔太郎の詩的破産を読み取ろうとすると指摘する。前者は、『氷島』を朔太郎の詩的発展の絶頂とする見方であり、後者は、そこに朔太郎の詩的破産を宣告しようする動きを見るという。河上徹太郎氏や寺田透氏などの評論家たちには前者、三好達治のような詩人たちには後者が多いという。

この詩集に対しては朔太郎自ら述べたエセー「『氷島』の詩語について」がある。「当時僕の生活は破産し、精神の危機が切迫していた。僕は何物に対しても憤怒を感じ、絶えず大声で叫びたいような気持でいた。……(中略)……そこで詩を書くということは、その当時の僕にとって、心の絶叫を言葉の絶叫に現わすということだった。しかるに今の日本の言葉は、どうしてもこの表現に適応されない、といって文章語を使うのは、今さら卑怯な退却(レトリート)のような気がして厭だったし、全くそのジレンマに困惑した」と述べている。篠田氏は『氷島』を最大に評価する評論家であるが、その理由を少しずつ明らかにしていこう。

まず、朔太郎の詩集の中では「一冊の詩集として画一性と完結性を詩人自身が最も意識した詩集」であることである。詩集冒頭の「漂泊者の歌」は、「永遠に漂泊者として呪われた存在であることを意識した詩人が、その心の絶叫をうたった詩である」が、複雑な陰影にみちた高貴さをもっていて、「ある種の懐かしさを呼び起こす楽句のようにぼくたちの内面に直にしみわたる」ものがあり、日本の、どの詩人にも許されなかった輝かしい達成があると篠田氏はいう。

 篠田氏は、二十世紀スペインの詩人ロルカと比較しながら、詩的言語の伝統では全く異なってはいるが、ロルカと朔太郎は同じ姿勢でフランス・サンボリズムに向っていたという。両者から感じられるのはノスタルジアである。ノスタルジアとは「失われたものを自覚することであり、なにもない――失われるものも、獲得するものもないことを意識することだ」と篠田氏はいう。

 朔太郎、西脇順三郎、三好達治の詩業は、近代日本史の中核をつらぬく、ひとつのかがやかしい系譜をかたちづくっていると篠田氏は主張する。それは「近代日本のポエジーが否応なしに直面させられたヨーロッパ経験の深さであり、またその経験から獲得されたポエジーのまぎれもない真正さ、あるいは正統性である」という。篠田氏が詩をポエジーと呼ぶとき、日本近代詩だけでなく、短歌や俳句という伝統詩を含めた詩的精神の総称である。したがって「近代日本のポエジー」というとき、近代詩だけでなく短歌や俳句を含めて述べていることになり、それらが「ヨーロッパ経験」を問題にするという意味になるが、斎藤茂吉を唯一例外として、短歌、俳句の伝統詩は、不思議なことに明治以降のヨーロッパ経験に深く直面することはなかったことを指摘する。つまり本来は、ヨーロッパの伝統を背負った伝統がなだれ込んだとき、日本のそれまでの伝統詩に深刻な事態が起こるのが芸術一般の理法であるが、実際はそうならず、伝統詩の形式を死守した。一方、新体詩以降、ヨーロッパの模倣から始まった日本の詩は、短歌や俳句のような独自の形式の達成は完全にはいまだ実現していないというのである。

 


朔太郎論「宗教の始まりと抒情詩の隆盛」小林稔個人詩誌「ヒーメロス32号」より一部紹介

2016年02月17日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

宗教の始まりと抒情詩の隆盛

 私は、本来、宗教の発生と詩や哲学の発生の場を同じくすると先述した。そのことを説明してみよう。仏教哲学者、井筒俊彦氏は「およそ存在する者はすべて無を契機として含んでおり、あらゆる存在者の根底には必ず無をひそんでいる」(『神秘哲学』)という。我われの経験世界で絶対的に有と言えるものはなく、無の絶壁上に懸けられた危うく脆い存在である。存在者の有は本質的に相対的存在であるということを「無の深淵」の不安として実存的に捉えられる。井筒氏は、「存在の無とは自己のうちなる無であるとともに、他者に対する無」でもあり、「すなわち全ての存在者は他者を否定することなしには自らの存在を確保できない罪深いものなのである」と指摘する。西暦紀元前七世紀から五世紀にまたがる「宇宙的痙攣」(ロマン・ロラン)の三百年は、文明が隆興と壊滅を繰り返す「万物流転」の時代であり、ギリシア民族の生活を根底からくつがえしたと言われる。ホメロス・ヘシオドスによる、光溢れるオリュンポスの芸術的神々の世界は、このような動乱の時代には、「なぜにこの世はかくまで不幸に充満し、重い軛を背負わなければならないのか」という切実な問題に神話が答えなければならず、人々の信頼に応えることができなくなった。「イオニア的考えによれば存在そのものがすでに「不義」なのだ」という。「他を否定し、他を限定し、また他によって否定され、限定され、かくて相互に罪を犯しつつ存在する」と井筒氏は解釈する。「一切のものは無に顚落し、その同じ瞬間にまた有に向って突き上げられながら、永遠にそれを自覚することなく永遠の交換(ヘラクレイトス)を繰り返す」が、人は忽然とその実相が開示される瞬間がきて、絶望の叫喚を発するとともに、落下する自己と万物を受け留める不思議な「愛の腕」(一者)に気がつく。すなわちこれが宗教の始まりであると井筒氏はいう。「宗教的懊悩とは相対的存在者が自己の相対性を自覚した結果、これを超脱しようとし、しかも流転の世界を越えることのできない苦悩であり、宗教的憧憬とは、それでもなお霊魂が永遠の世界を瞻望し、絶対者を尋求してこれに帰一しようとする切ない願いにほかならない」と井筒氏は説く。この「愛の腕」(一なるもの)とは、生命の源泉、あらゆる存在の太源、「存在」そのもの、宇宙的愛の主体としての「存在」あろうという。

 紀元前六世紀にイオニアに、「我の自覚」とともに抒情詩が生み出されたが、哲学者もまた「存在界の生滅成壊を主題として思索していた」。そこでは詩人も自然学者も区別はなかったし、宗教と哲学は同一であったと井筒氏は指摘する。先述したように、「存在の根源的悪」、絶対者に対する悪ではなく、個別相互間の「罪」であり「不義」に対する哀傷は、前六世紀のイオニアの精神的空気である。井筒氏は、抒情詩の時代から自然哲学に移行する中間地帯に「自然神秘主義」体験を置き、後のギリシア哲学の頂点を成したプラトンの哲学の深奥に横たわる神秘哲学と、そこから発展するアリストテレス、プロティノスの神秘哲学を、ソクラテス以前の自然神秘主義に求めようとするのであるが、その論考は別の章を必要とする。ここでは朔太郎の宗教に通底する罪の意識と詩作の根源とが一元的に抵触する場において、時代や場所を問わず、あるいは朔太郎がどれほど深く思索したか否かにかかわらず、生の儚さに向き合う時の普遍的な感情を解き明かしてみようとしただけに留める。

 朔太郎が、このような、人々の普遍的な感慨にどの程度抵触しえたのかは定かではないが、日本の来たるべき詩を、ミューズの故郷から西洋の詩に引き継がれたものと、我われの詩歌の源泉から引き継がれたものとの融合と考えられるのであるなら、粟津則雄氏が「詩語の問題」で言う、「実人生での「罪」と、想像力がはらむ「罪」とによって激しく動かされた朔太郎」という指摘が説得力をもって迫って来るのである。      次回(二)につづく。