ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

金子光晴研究 小林稔個人詩誌「ヒーメロス」より掲載

2015年12月22日 | 金子光晴研究

金子光晴研究
小林 稔


2004年個人詩誌『ヒーメロス』7号に掲載


平成十五年4月19日「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第一回
 四回に亘り萩原朔太郎の研究をしてきましたが、朔太郎がいかに日本近代詩にとって重要な詩人であるのか解っていただけたでしょうか。今回から、もう一人の大詩人、金子光晴を考えてみたいと思います。吉本隆明によれば、昭和初期のモダニズムの詩人たちは「高度化した社会のメカニズムを生活様式、社会様式の変化として感受したが、詩的現実の世界を生活意識からはみ出させようとしなかった。それが日本のモダニズムの特色であった。その中でももっとも優れた詩人に西脇順三郎がいる。現代詩はモダニズム派とプロレタリア派に分けられ結合することはなかった。しかしそれを試みた詩人に、中野重治、北川冬彦、金子光晴がいる」といい、そして金子光晴については「西欧近代主義の骨髄を自身の実生活の意識と結びつける契機をつかんだ。社会に投げても通用しないが、自身の内部で充分に熟知された化物のような観念を持っていた」という。このことを彼の生涯を読み解きながら考えてみようと思います。新潮日本文学アルバム「金子光晴」という書物から、彼の生い立ちの概略を見てみましょう。明治二十八年(一八九五年)十二月二十五日、愛知県津島市、大鹿和吉と里やうの三男として生まれた。今年は日清戦争に勝利し帝国主義の基盤を得た年である。生後二年にして父は事業に失敗し、建築業者清水組の支店長金子装太郎の家にもらわれていく。六歳の時、正式に養子として入籍。養父の転勤にともない、六歳の時に京都、十一歳の時に東京と移り住んだ。十七歳のころ文学に熱中する。ニ十歳の時、肺尖カタルを患った。こんな時、保泉兄弟と交際が始まり、フランス文学へのあこがれを抱く。ヴェルレーヌやボードレールの耽美的世界にひかれた。二十一歳の時、養父が胃癌で死去。遺産二十万円(現在の数億円)を養母と折半する。二十四歳の時に第一詩集「赤土の家」を出版するがほとんど反響がなかった。出入りの骨董商から欧州の旅に誘われ一回目の洋行に踏み出す。神戸よりロンドンに着き、ベルギーに渡った。一年半の滞在。この時期が金子にとって静かで充実した時であったという。この時に書いた詩を帰国後まとめ、詩集「こがね虫」を刊行する。二ヵ月後に関東大震災が起こった。翌年、森三千代と結婚。二十九歳。昭和三年、三千代といっしょに東南アジア、ヨーロッパの放浪の旅に出る。西欧諸国による苛烈な植民地支配の暴力にあえぎ虐げられた東南アジアを、キリスト教文明の過酷な収奪を目の当たりに見る。世の中の底辺にいる人々と同じ視点に立ち世界を見つめ、国家権力への批判精神を学んだ。昭和七年帰国。日本は植民地政策へと向っていた。昭和十二年、詩集「鮫」を刊行。戦争が終わると日本人はたちまち民主主義者になった。金子は抵抗詩人ともてはやされるが深い疑念を持った。詩集「人間の悲劇」自伝「詩人」詩集「非情」などを出版していく。七十代後半になってから、四十年も前の外国放浪体験を書き始め、自伝三部作として「どくろ杯「「ねむれ巴里」「西ひがし」を出版する。散文の白眉と評されている。
 さて、西欧近代主義を非情、野蛮と見なし、帰国後の軍国主義の道を走る日本にも同化できない彼は、どのように生き詩を書き続けたのであろうか。彼の詩を読みながら考えていくことにしよう。
 二冊目の詩集「こがね虫」で金子は詩人の地位を得たといえる。長い自序がつけられている。ボードレールの「旅」の詩を引用。
Mais les vrais voyageurs sont ceux-la seuls qui partent pour partir:….だが、ほんとうの旅人は旅立つためにのみ旅立つ人である。この詩句をまねて金子は「まことに、夢見るために夢見る者のみが、真実の夢想家であろう。」と書き加えている。
この詩集を要約すれば、日本の現実から可能な限り遠い青春期の夢の世界なのである。もちろん金子光晴という詩人はこういう詩を書いて世に名を記す詩人ではない。プロレタリア詩人にもあがめられるほどの詩人である。この詩集に著されている青春の誇り高い華麗な世界から地上に堕ちてきたところに驚きを禁じえない。彼をそうさせたのは関東大震災であった。中野孝次は「金子光晴」の中で次のように書いている。「こがね虫」の世界の成立そのもの、社会も他者も自然も排除して成立させたあの抽象的、人工的、高踏的な「美の殿堂」そのものが、結局はここで手ひどくそのしっぺがえしをくったのではなかったか。彼はいまや覆う何物もなく、裸で、ふるえながらその外界のきびしさに身をさらさねばならない。彼がよく知っているあの日本人の世界に直面しなければならない、と。つまりはこの詩人に生きることの厳しさを徹底的に与え、そこから這い上がらせるために、「こがね虫」の他者を破棄したナルシシズムの陶酔が必要なのであった。中野孝次は先の評論でまた次のようにいう。「詩的世界の自立性を信じ、人生を詩的世界の材料としか見ていないうちは、ひとはまだ詩人ではないのだ。人生に詩を見ようとしているうちは、その詩はまがい物である。人工的な建築物である。どんな詩的言語も、もう一度人生という波に洗いざらされ、その中をくぐって来て初めて本物の言葉となる。」「こがね虫」の次の詩集「水の流浪」から少しずつ閉じられた自己の美的世界から外の世界に歩き出しているのである。彼がほんとうの詩人になったのは、その後の海外放浪を経たあとである。晩年に書いた自伝三部作でその放浪の内実が知れてくるのである。二回目の東南アジア欧州行きには、一回目のような至福な時はなかった。金の工面をしながらの苦難の旅であった。妻三千代を道連れにした旅である。金子を鍛えようとする旅である。文学など無縁になっていた、とのちの回想で彼は語っているが、困難な旅へ自ら突き進んでいく姿を考えると、意識の根底に、詩の本質を見極める目を持ち、詩人になるための不可欠なものを本能的にかぎとっていたように私には思われる。



平成十五年5月「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第二回
 今回は彼の詩「洗面器」と「古靴店」を小林が朗読し、「こがね蟲」のころの金子光晴がいかに変貌を遂げていったのかを考えてみました。彼の変貌において第二詩集「こがね蟲」の存在がどのようなものであったかをここで要約しておきたい。自序を読んで知れることは、いかにヨーロッパのロマンチシズムの影響下にあったかということである。一九一九年、「赤土の家」刊行した翌月二月にベルギーへの旅に出た。翌年十二月に帰国するが、その間に書いたという詩篇を詩集にまとめ、一九二三年に「こがね蟲」を出版した。「生涯の楽しい蜜月」と自序に書いているように、半生を顧る静かな日々であり、読書と詩作と散策に明け暮れる日々であった。のちに書かれた自伝「詩人」においてもそのころの様子を窺い知ることができる。養父から受けた遺産もあって、フランドル地方の空気を満喫したのである。日本の現実から詩人を引き離し、夢見るためには都合のよい環境が提供されたということであろう。しかしそれは長く続けられることではない。「おのれの世界に酔えるということは、それ自体が才能である。居傲とは若さの特権である。若いときに自分を信じきれない者に何ができよう。金子光晴が若くしてこのような、完璧に日常性を排除した精緻な人工的世界を構築したことを讃える。これは創るという意志によってだけ創られた、最も純粋な創造行為であった」と中野孝次氏は評論集「金子光晴」においていう。俗にいう夭折した天才詩人の詩全般に共通する魅力ともいえよう。「こがね蟲」出版の二ヵ月後に関東大震災が起こる。どこにも実体を持たない美的世界が社会の変化にもろくも崩れ去るのを自覚したのであった。ヨーロッパ的詩の世界が日本人である彼にとって「借りものにすぎないことを認識した」(金子)といえ、社会の変化によって「伝統への復帰」を許さないところまで身を投げ出されていたのであった。「彼はいまや覆う何物もなく、裸で、ふるえながらその外界のきびしさ身をさらさなければならない」(中野)のであり、その対決のあとに、ほんとうの詩人金子光晴が私たちの前に現れたのである。彼にとって対決の手段の一つに放浪があった。
 詩人と放浪の関係は普遍的なテーマに成りえるが、ここでは金子光晴に限定して話を進めていくことにしよう。一九二八年九月、妻三千代とともに子供を妻の実家にあずけ五ヵ年に渡る、東南アジア、ヨーロッパの放浪の旅に出た。このへんの事情は彼の自伝三部作「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」にくわしく書かれている。
 未刊詩集「老薔薇園」を読むと、二回目にあたる今回の渡欧には希望らしきものが見られない。「ヨーロッパにはなんの魅力もない。ただ、ほかにゆく所がなくなってしまっただけなのだ。亜細亜は、前世紀の巨龍の柱骨だ。いくら上手に骨を並べて、針金でくつけ合わせても、巨龍は行きかえってこない」(金子)といい、コスモポリタン的な立場を主張する。「私は思想のコスモポリタンです。故郷をもっていないんです。人間は自分のもちものをすててはなればなれるより方法がないのです。」(金子)これはノマドとしての詩人像を思い描いたといっていい。「そこで自分の生きていることを感じ、人間を愛し、人間を見ようという立場に彼はいる。絶対的な自由と絶対的な無とがそこでは一つになっている」(中野)のであった。先に引用した「洗面器」はヨーロッパから東南アジアに帰った時に作ったといわれている。「こがね蟲」からのなんという変貌であろうか。
 五年間の放浪から帰った時、日本は軍国主義に向って体制を整えていた。一九三七年、軍国主義や天皇制を批判した詩集「鮫」を出版。それ以後の詩人としての歩みは今回取り上げることが時間の関係で省くことにした。
 萩原朔太郎と金子光晴という詩人から知りえたことは何だったのだろうか。私には彼らが詩人像に向って変貌していくさまがなんといっても興味深かった。それはほんとうの詩人になっていく過程である。ほんとうの詩人とは何か。詩の言葉は、一般に私たちが意志伝達の道具として使っている言葉とは差異がある。「人間にとって言語は、とりわけ自国語は、絶対的に{外部}であり、どうしても手の届かぬ彼方に退いてゆく永遠の異物である」(松浦寿輝)といった意見が詩人自身からなされてもいるが、だからといって言語の遊戯に堕してはならない。日本的モダニズムの軽薄に終止符を打たなければならない。ポエジーから与えられる言葉とはわれわれの日常に亀裂を作るものである。言葉の日常性との差異は当然である。しかし、ノマドとしての詩人とその生の倫理が問われることを忘れてはならないのではないだろうか。



平成十五年六月「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第三回
放浪の始まり
 金子にほんとうの放浪を始めさせたのは、彼自身「どくろ杯」で記しているように一九二三年の関東大震災であった。
「地震があるまでの日本と、地震があってからあとの日本とが、空気の味までまったくちがったものになってしまった。地震が警告して、身の廻りの前々からの崩れが重なって大きな虚落になっていることに気づかされた。私の不器用な旅のきっかけは、さかのぼって、あの地震のころに始まったということができる。この天災は、後になって考えると私のしまりのない性格からくるいい気な日常にきまりをつけるための気付け薬でもあった」と書かれている。彼の旅の範囲は東南アジアとヨーロッパである。五年間の放浪を終え帰国した日本は軍国主義をひた走り、ヨーロッパの国々と同様に、海外に侵略の手を伸ばしていた。「彼は自己のうちにある古い日本を否定して、ことごとにそれに反逆するような自己をつくりあげた。彼の身につけた原理は、彼のうちにある日本と断じて合一できない性質のものであった」(中野孝次著「金子光晴 近代日本詩人選20筑摩書房刊」。「文明がみずからつくりだした怪物によって、人間を、文化を、地球を破壊している。彼は関東大地震のとき予感したものが、いま現実となって、途方もない破滅として人間世界を襲っている」(中野)という認識であった。戦後も一貫して「俗衆嫌悪」を持ち続け、言葉を武器に一人戦いを止めなかったのである。
変遷する詩人
 詩人の生涯を通して詩法といいうるものを辿る時、萩原朔太郎と金子光晴の二人ほど激しく変遷した詩人を私は知らない。朔太郎の「青猫」の耽美的世界から「氷島」の荒涼とした世界への変遷は、その内的必然をもって私を魅了するものであった。今回の金子もまたほんとうの「詩」の概念を余すことなく伝え、現代詩に問題を投げかけているように私には思われた。その変遷を中野氏の書物から大まかに辿ってみよう。「金子の本領は言うまでもなく「鮫」以後にある。最初に「こがね虫」の人工的な完成があったからこそ、この詩人はああいうところまで行けたのではないかという疑問が生じてくる。初めにつくりあげた夢の世界の完璧が砕け散り、パルナッソスの高みから限りもなく人生へと転落していったからこそ、ようやく詩と人生とが微妙な均衡の上に結晶したような、あれらの詩ができたのではないだろうか。」(中野)ここで金子自身がこのころのことを思い起している「詩人」という書物から引用してみよう。「僕のなかにまだ、近代の否定的な精神はめざめていなかった。ふるい美を無視したり、すてたりする代わりにそれによってじぶんをゆたかにしようとこころがけた。それは欧州の古典美を見てきて、日本のそれが等閑視され、新しいものが借りものにすぎないことを認識したとき誰もが陥り易い無条件な伝統への復帰というところへゆきつくものであった」と書く。朔太郎や高村光太郎のように日本回帰しないで、金子は日本文化や日本人と最後まで和解できなかったと、中野はいう。一回目のベルギー滞在は彼をヨーロッパに強く結びつけたとすれば、「こがね蟲」以後は、彼の求めた美の世界と日本という土壌との乖離を認識せざるをえなかった。そこに関東大震災である。そこに自分自身の精神の空洞化と、崩壊した古い日本の姿を見た。「僕はただ、絶代の美貌にめぐまれて、それが衰えぬ若さのあいだに死にたかったのだ」(「詩人」)。しかし彼の「強靭」な精神は「荒野」に生きることを強いたのだ。私たちにとってなんという幸運なことだろうか。なぜなら、詩は「荒野」に咲く一輪の花のようなものだからである。とにかく彼は荒野に旅立ったのだ。以後五年間の辛酸をなめつくした放浪。現代では詩人と経験の繋がりを問うことがなくなった。言語論隆盛である。「机上のランボー」ばかりである。詩は詩人の経験から独立して読み取るべきであることに異論はない。しかし言葉だけを操作して詩を書くことの限界を知るべきだ。経験と詩は深いところで密接な関係を保っている。このことは別の機会に譲ることにする。金子の二極の詩法として中野氏が引用した金子の言葉をここに挙げておく。「詩は、美の反省である。美を感じることのできなくなったものに、詩をつくる資格がない。」「詩は、ぼくらの生活以外のどこにもない。詩は生きものであり、生きものというよりなまものなのだ。」美と生活を次元を同じく詩のファクターとして述べているのだ。美学的な詩と生活の詩に今も別れてにらみ合っている詩人たちがいる。その二項を本質的に結びつけるものが詩人の経験でなくてなんであろうか。金子は詩に引き寄せられ導かれ変遷していったに過ぎない。それゆえ彼はほんとうの詩人であった。

コスモポリタンとしての詩
「文学なんてものに足をとられた人間は、もともと集団社会にくわわれないやつが多く、おのれひとりの感性や思考や好みにこだわって、そのこだわりを通して自己表現するものである。だが人間のうちにひそむ可能性を信じようとし、言葉という共有財を通じてそこに語りかける者と、具体的に個人しか信じようとしない者とでは径庭ができる」と中野氏は語り、日本文学の伝統がどのような精神構造でなされてきたかを分析する。もちろん金子は前者であることは言うまでもない。早くから民主主義を実現してきたイギリス、フランスでは、文学者は社会に孤立した存在ではなかったという。近代的統一国家の実現が遅れたドイツでは現実世界とは別次元の芸術に奉仕する「精神の貴族」と見なす精神の経験が著しい。ブレヒト、ベンヤミン以後は思想として政治を取り入れた、という。日本ではどうか。江戸時代の文人気質について、精神世界と社会生活を分離させ、現実とは違う芸術を志向していた。さらに遡って、西行、鴨長明、吉田兼好などでは政治的拘束から脱して塵外に遊ぶのを尊しとする気風があった、という。つまり金子は「西欧的個人主義をてっていしてわがものにしてしまった。彼の身につけた原理は、彼のうちにある日本と断じて合一できないものであった」(中野)帰国後の彼の目に映る日本は異国人の眼に映る日本であった。「ねむれ巴里」を紐とけばわかるように、一回目のヨーロッパ体験のような西欧への憧憬はなく、ヨーロッパ社会に対しては冷ややかな態度である。「彼はその半生の流浪に賭けて学びとった唯一の思想、ただ人間があるのみだ、人間のまえには国家とか民族とかイデオロギーとかは相対的な価値でしかない。日本中がいくさによいくるっている時代に、たとえそう信じるのが自分ひとりでもいい、自分だけは自分の正しさを信じぬこうと必死でたちむかう」(中野)戦後もだいぶ時を経て外圧が消えていけば自分のことはほっといてくれという一自由人に戻るのである。大衆という存在に向けた疑いの眼は終生消えることはなかった。三ヶ月に亘って金子光晴という詩人を読んできましたが、日本には稀有の詩人であるといっていいのではないだろうか。これほど徹底して美と生活を同一次元で追及した詩人は他にいなかっただろうし、今もいない。


金子光晴研究・ワークショップ「ひいめろすの会」の報告・『ヒーメロス』7号から転載。

2012年02月05日 | 金子光晴研究
金子光晴研究
小林 稔


2004年個人詩誌『ヒーメロス』7号に掲載


平成十五年4月19日「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第一回
 四回に亘り萩原朔太郎の研究をしてきましたが、朔太郎がいかに日本近代詩にとって重要な詩人であるのか解っていただけたでしょうか。今回から、もう一人の大詩人、金子光晴を考えてみたいと思います。吉本隆明によれば、昭和初期のモダニズムの詩人たちは「高度化した社会のメカニズムを生活様式、社会様式の変化として感受したが、詩的現実の世界を生活意識からはみ出させようとしなかった。それが日本のモダニズムの特色であった。その中でももっとも優れた詩人に西脇順三郎がいる。現代詩はモダニズム派とプロレタリア派に分けられ結合することはなかった。しかしそれを試みた詩人に、中野重治、北川冬彦、金子光晴がいる」といい、そして金子光晴については「西欧近代主義の骨髄を自身の実生活の意識と結びつける契機をつかんだ。社会に投げても通用しないが、自身の内部で充分に熟知された化物のような観念を持っていた」という。このことを彼の生涯を読み解きながら考えてみようと思います。新潮日本文学アルバム「金子光晴」という書物から、彼の生い立ちの概略を見てみましょう。明治二十八年(一八九五年)十二月二十五日、愛知県津島市、大鹿和吉と里やうの三男として生まれた。今年は日清戦争に勝利し帝国主義の基盤を得た年である。生後二年にして父は事業に失敗し、建築業者清水組の支店長金子装太郎の家にもらわれていく。六歳の時、正式に養子として入籍。養父の転勤にともない、六歳の時に京都、十一歳の時に東京と移り住んだ。十七歳のころ文学に熱中する。ニ十歳の時、肺尖カタルを患った。こんな時、保泉兄弟と交際が始まり、フランス文学へのあこがれを抱く。ヴェルレーヌやボードレールの耽美的世界にひかれた。二十一歳の時、養父が胃癌で死去。遺産二十万円(現在の数億円)を養母と折半する。二十四歳の時に第一詩集「赤土の家」を出版するがほとんど反響がなかった。出入りの骨董商から欧州の旅に誘われ一回目の洋行に踏み出す。神戸よりロンドンに着き、ベルギーに渡った。一年半の滞在。この時期が金子にとって静かで充実した時であったという。この時に書いた詩を帰国後まとめ、詩集「こがね虫」を刊行する。二ヵ月後に関東大震災が起こった。翌年、森三千代と結婚。二十九歳。昭和三年、三千代といっしょに東南アジア、ヨーロッパの放浪の旅に出る。西欧諸国による苛烈な植民地支配の暴力にあえぎ虐げられた東南アジアを、キリスト教文明の過酷な収奪を目の当たりに見る。世の中の底辺にいる人々と同じ視点に立ち世界を見つめ、国家権力への批判精神を学んだ。昭和七年帰国。日本は植民地政策へと向っていた。昭和十二年、詩集「鮫」を刊行。戦争が終わると日本人はたちまち民主主義者になった。金子は抵抗詩人ともてはやされるが深い疑念を持った。詩集「人間の悲劇」自伝「詩人」詩集「非情」などを出版していく。七十代後半になってから、四十年も前の外国放浪体験を書き始め、自伝三部作として「どくろ杯「「ねむれ巴里」「西ひがし」を出版する。散文の白眉と評されている。
 さて、西欧近代主義を非情、野蛮と見なし、帰国後の軍国主義の道を走る日本にも同化できない彼は、どのように生き詩を書き続けたのであろうか。彼の詩を読みながら考えていくことにしよう。
 二冊目の詩集「こがね虫」で金子は詩人の地位を得たといえる。長い自序がつけられている。ボードレールの「旅」の詩を引用。
Mais les vrais voyageurs sont ceux-la seuls qui partent pour partir:….だが、ほんとうの旅人は旅立つためにのみ旅立つ人である。この詩句をまねて金子は「まことに、夢見るために夢見る者のみが、真実の夢想家であろう。」と書き加えている。
この詩集を要約すれば、日本の現実から可能な限り遠い青春期の夢の世界なのである。もちろん金子光晴という詩人はこういう詩を書いて世に名を記す詩人ではない。プロレタリア詩人にもあがめられるほどの詩人である。この詩集に著されている青春の誇り高い華麗な世界から地上に堕ちてきたところに驚きを禁じえない。彼をそうさせたのは関東大震災であった。中野孝次は「金子光晴」の中で次のように書いている。「こがね虫」の世界の成立そのもの、社会も他者も自然も排除して成立させたあの抽象的、人工的、高踏的な「美の殿堂」そのものが、結局はここで手ひどくそのしっぺがえしをくったのではなかったか。彼はいまや覆う何物もなく、裸で、ふるえながらその外界のきびしさに身をさらさねばならない。彼がよく知っているあの日本人の世界に直面しなければならない、と。つまりはこの詩人に生きることの厳しさを徹底的に与え、そこから這い上がらせるために、「こがね虫」の他者を破棄したナルシシズムの陶酔が必要なのであった。中野孝次は先の評論でまた次のようにいう。「詩的世界の自立性を信じ、人生を詩的世界の材料としか見ていないうちは、ひとはまだ詩人ではないのだ。人生に詩を見ようとしているうちは、その詩はまがい物である。人工的な建築物である。どんな詩的言語も、もう一度人生という波に洗いざらされ、その中をくぐって来て初めて本物の言葉となる。」「こがね虫」の次の詩集「水の流浪」から少しずつ閉じられた自己の美的世界から外の世界に歩き出しているのである。彼がほんとうの詩人になったのは、その後の海外放浪を経たあとである。晩年に書いた自伝三部作でその放浪の内実が知れてくるのである。二回目の東南アジア欧州行きには、一回目のような至福な時はなかった。金の工面をしながらの苦難の旅であった。妻三千代を道連れにした旅である。金子を鍛えようとする旅である。文学など無縁になっていた、とのちの回想で彼は語っているが、困難な旅へ自ら突き進んでいく姿を考えると、意識の根底に、詩の本質を見極める目を持ち、詩人になるための不可欠なものを本能的にかぎとっていたように私には思われる。



平成十五年5月「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第二回
 今回は彼の詩「洗面器」と「古靴店」を小林が朗読し、「こがね蟲」のころの金子光晴がいかに変貌を遂げていったのかを考えてみました。彼の変貌において第二詩集「こがね蟲」の存在がどのようなものであったかをここで要約しておきたい。自序を読んで知れることは、いかにヨーロッパのロマンチシズムの影響下にあったかということである。一九一九年、「赤土の家」刊行した翌月二月にベルギーへの旅に出た。翌年十二月に帰国するが、その間に書いたという詩篇を詩集にまとめ、一九二三年に「こがね蟲」を出版した。「生涯の楽しい蜜月」と自序に書いているように、半生を顧る静かな日々であり、読書と詩作と散策に明け暮れる日々であった。のちに書かれた自伝「詩人」においてもそのころの様子を窺い知ることができる。養父から受けた遺産もあって、フランドル地方の空気を満喫したのである。日本の現実から詩人を引き離し、夢見るためには都合のよい環境が提供されたということであろう。しかしそれは長く続けられることではない。「おのれの世界に酔えるということは、それ自体が才能である。居傲とは若さの特権である。若いときに自分を信じきれない者に何ができよう。金子光晴が若くしてこのような、完璧に日常性を排除した精緻な人工的世界を構築したことを讃える。これは創るという意志によってだけ創られた、最も純粋な創造行為であった」と中野孝次氏は評論集「金子光晴」においていう。俗にいう夭折した天才詩人の詩全般に共通する魅力ともいえよう。「こがね蟲」出版の二ヵ月後に関東大震災が起こる。どこにも実体を持たない美的世界が社会の変化にもろくも崩れ去るのを自覚したのであった。ヨーロッパ的詩の世界が日本人である彼にとって「借りものにすぎないことを認識した」(金子)といえ、社会の変化によって「伝統への復帰」を許さないところまで身を投げ出されていたのであった。「彼はいまや覆う何物もなく、裸で、ふるえながらその外界のきびしさ身をさらさなければならない」(中野)のであり、その対決のあとに、ほんとうの詩人金子光晴が私たちの前に現れたのである。彼にとって対決の手段の一つに放浪があった。
 詩人と放浪の関係は普遍的なテーマに成りえるが、ここでは金子光晴に限定して話を進めていくことにしよう。一九二八年九月、妻三千代とともに子供を妻の実家にあずけ五ヵ年に渡る、東南アジア、ヨーロッパの放浪の旅に出た。このへんの事情は彼の自伝三部作「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」にくわしく書かれている。
 未刊詩集「老薔薇園」を読むと、二回目にあたる今回の渡欧には希望らしきものが見られない。「ヨーロッパにはなんの魅力もない。ただ、ほかにゆく所がなくなってしまっただけなのだ。亜細亜は、前世紀の巨龍の柱骨だ。いくら上手に骨を並べて、針金でくつけ合わせても、巨龍は行きかえってこない」(金子)といい、コスモポリタン的な立場を主張する。「私は思想のコスモポリタンです。故郷をもっていないんです。人間は自分のもちものをすててはなればなれるより方法がないのです。」(金子)これはノマドとしての詩人像を思い描いたといっていい。「そこで自分の生きていることを感じ、人間を愛し、人間を見ようという立場に彼はいる。絶対的な自由と絶対的な無とがそこでは一つになっている」(中野)のであった。先に引用した「洗面器」はヨーロッパから東南アジアに帰った時に作ったといわれている。「こがね蟲」からのなんという変貌であろうか。
 五年間の放浪から帰った時、日本は軍国主義に向って体制を整えていた。一九三七年、軍国主義や天皇制を批判した詩集「鮫」を出版。それ以後の詩人としての歩みは今回取り上げることが時間の関係で省くことにした。
 萩原朔太郎と金子光晴という詩人から知りえたことは何だったのだろうか。私には彼らが詩人像に向って変貌していくさまがなんといっても興味深かった。それはほんとうの詩人になっていく過程である。ほんとうの詩人とは何か。詩の言葉は、一般に私たちが意志伝達の道具として使っている言葉とは差異がある。「人間にとって言語は、とりわけ自国語は、絶対的に{外部}であり、どうしても手の届かぬ彼方に退いてゆく永遠の異物である」(松浦寿輝)といった意見が詩人自身からなされてもいるが、だからといって言語の遊戯に堕してはならない。日本的モダニズムの軽薄に終止符を打たなければならない。ポエジーから与えられる言葉とはわれわれの日常に亀裂を作るものである。言葉の日常性との差異は当然である。しかし、ノマドとしての詩人とその生の倫理が問われることを忘れてはならないのではないだろうか。



平成十五年六月「ひいめろすの会」報告
金子光晴研究第三回
放浪の始まり
 金子にほんとうの放浪を始めさせたのは、彼自身「どくろ杯」で記しているように一九二三年の関東大震災であった。
「地震があるまでの日本と、地震があってからあとの日本とが、空気の味までまったくちがったものになってしまった。地震が警告して、身の廻りの前々からの崩れが重なって大きな虚落になっていることに気づかされた。私の不器用な旅のきっかけは、さかのぼって、あの地震のころに始まったということができる。この天災は、後になって考えると私のしまりのない性格からくるいい気な日常にきまりをつけるための気付け薬でもあった」と書かれている。彼の旅の範囲は東南アジアとヨーロッパである。五年間の放浪を終え帰国した日本は軍国主義をひた走り、ヨーロッパの国々と同様に、海外に侵略の手を伸ばしていた。「彼は自己のうちにある古い日本を否定して、ことごとにそれに反逆するような自己をつくりあげた。彼の身につけた原理は、彼のうちにある日本と断じて合一できない性質のものであった」(中野孝次著「金子光晴 近代日本詩人選20筑摩書房刊」。「文明がみずからつくりだした怪物によって、人間を、文化を、地球を破壊している。彼は関東大地震のとき予感したものが、いま現実となって、途方もない破滅として人間世界を襲っている」(中野)という認識であった。戦後も一貫して「俗衆嫌悪」を持ち続け、言葉を武器に一人戦いを止めなかったのである。
変遷する詩人
 詩人の生涯を通して詩法といいうるものを辿る時、萩原朔太郎と金子光晴の二人ほど激しく変遷した詩人を私は知らない。朔太郎の「青猫」の耽美的世界から「氷島」の荒涼とした世界への変遷は、その内的必然をもって私を魅了するものであった。今回の金子もまたほんとうの「詩」の概念を余すことなく伝え、現代詩に問題を投げかけているように私には思われた。その変遷を中野氏の書物から大まかに辿ってみよう。「金子の本領は言うまでもなく「鮫」以後にある。最初に「こがね虫」の人工的な完成があったからこそ、この詩人はああいうところまで行けたのではないかという疑問が生じてくる。初めにつくりあげた夢の世界の完璧が砕け散り、パルナッソスの高みから限りもなく人生へと転落していったからこそ、ようやく詩と人生とが微妙な均衡の上に結晶したような、あれらの詩ができたのではないだろうか。」(中野)ここで金子自身がこのころのことを思い起している「詩人」という書物から引用してみよう。「僕のなかにまだ、近代の否定的な精神はめざめていなかった。ふるい美を無視したり、すてたりする代わりにそれによってじぶんをゆたかにしようとこころがけた。それは欧州の古典美を見てきて、日本のそれが等閑視され、新しいものが借りものにすぎないことを認識したとき誰もが陥り易い無条件な伝統への復帰というところへゆきつくものであった」と書く。朔太郎や高村光太郎のように日本回帰しないで、金子は日本文化や日本人と最後まで和解できなかったと、中野はいう。一回目のベルギー滞在は彼をヨーロッパに強く結びつけたとすれば、「こがね蟲」以後は、彼の求めた美の世界と日本という土壌との乖離を認識せざるをえなかった。そこに関東大震災である。そこに自分自身の精神の空洞化と、崩壊した古い日本の姿を見た。「僕はただ、絶代の美貌にめぐまれて、それが衰えぬ若さのあいだに死にたかったのだ」(「詩人」)。しかし彼の「強靭」な精神は「荒野」に生きることを強いたのだ。私たちにとってなんという幸運なことだろうか。なぜなら、詩は「荒野」に咲く一輪の花のようなものだからである。とにかく彼は荒野に旅立ったのだ。以後五年間の辛酸をなめつくした放浪。現代では詩人と経験の繋がりを問うことがなくなった。言語論隆盛である。「机上のランボー」ばかりである。詩は詩人の経験から独立して読み取るべきであることに異論はない。しかし言葉だけを操作して詩を書くことの限界を知るべきだ。経験と詩は深いところで密接な関係を保っている。このことは別の機会に譲ることにする。金子の二極の詩法として中野氏が引用した金子の言葉をここに挙げておく。「詩は、美の反省である。美を感じることのできなくなったものに、詩をつくる資格がない。」「詩は、ぼくらの生活以外のどこにもない。詩は生きものであり、生きものというよりなまものなのだ。」美と生活を次元を同じく詩のファクターとして述べているのだ。美学的な詩と生活の詩に今も別れてにらみ合っている詩人たちがいる。その二項を本質的に結びつけるものが詩人の経験でなくてなんであろうか。金子は詩に引き寄せられ導かれ変遷していったに過ぎない。それゆえ彼はほんとうの詩人であった。

コスモポリタンとしての詩
「文学なんてものに足をとられた人間は、もともと集団社会にくわわれないやつが多く、おのれひとりの感性や思考や好みにこだわって、そのこだわりを通して自己表現するものである。だが人間のうちにひそむ可能性を信じようとし、言葉という共有財を通じてそこに語りかける者と、具体的に個人しか信じようとしない者とでは径庭ができる」と中野氏は語り、日本文学の伝統がどのような精神構造でなされてきたかを分析する。もちろん金子は前者であることは言うまでもない。早くから民主主義を実現してきたイギリス、フランスでは、文学者は社会に孤立した存在ではなかったという。近代的統一国家の実現が遅れたドイツでは現実世界とは別次元の芸術に奉仕する「精神の貴族」と見なす精神の経験が著しい。ブレヒト、ベンヤミン以後は思想として政治を取り入れた、という。日本ではどうか。江戸時代の文人気質について、精神世界と社会生活を分離させ、現実とは違う芸術を志向していた。さらに遡って、西行、鴨長明、吉田兼好などでは政治的拘束から脱して塵外に遊ぶのを尊しとする気風があった、という。つまり金子は「西欧的個人主義をてっていしてわがものにしてしまった。彼の身につけた原理は、彼のうちにある日本と断じて合一できないものであった」(中野)帰国後の彼の目に映る日本は異国人の眼に映る日本であった。「ねむれ巴里」を紐とけばわかるように、一回目のヨーロッパ体験のような西欧への憧憬はなく、ヨーロッパ社会に対しては冷ややかな態度である。「彼はその半生の流浪に賭けて学びとった唯一の思想、ただ人間があるのみだ、人間のまえには国家とか民族とかイデオロギーとかは相対的な価値でしかない。日本中がいくさによいくるっている時代に、たとえそう信じるのが自分ひとりでもいい、自分だけは自分の正しさを信じぬこうと必死でたちむかう」(中野)戦後もだいぶ時を経て外圧が消えていけば自分のことはほっといてくれという一自由人に戻るのである。大衆という存在に向けた疑いの眼は終生消えることはなかった。三ヶ月に亘って金子光晴という詩人を読んできましたが、日本には稀有の詩人であるといっていいのではないだろうか。これほど徹底して美と生活を同一次元で追及した詩人は他にいなかっただろうし、今もいない。