ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

夏の碑(いしぶみ)/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年08月22日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

夏の碑(いしぶみ)

             小林  稔

 

時の蹠(あしうら)が ぶしつけに水辺の草草を踏みしだいていく

かつて あれほどまでに信じられた夏の一日は

いま牡蠣の殻にきつく閉ざされ 煌きを増している

腐蝕がすでに始まっている私の肉体が 

命の綱を離す瞬間まで 私は携えていくだろう 

かたわらで見守りつづけた きみの十四度目の夏を

 

稲妻と豪雨に襲われ 

駆け込んだ民家の軒下でびしょぬれて

やがて宿舎に向かうタクシーの車内は 

きみの身体から放たれた草いきれで満ち

遠い記憶に呼び止められ 

私は息をすることさえはばかれた

明るい室内と夜の森を隔てる 一枚のガラス戸に 

等身で立つきみが写されている 闇の向こうに 

湖が月の破片を浮かべ ひっそりと眠っているだろう

 

素足をそっと踏んでは ためらい後ずさり

おそれ あこがれ 羽ばたき

繁茂する樹木と燃える草草に触れ

たましひは もがき 苦しんでいた

ふるさとへ向かう折り返し地点で

(私もぞんざいで若さにあふれていた)

きみの瞼から包帯を解き放ち

悦びと哀しみの邦をともに訪うための

出発はいく度も夢見られ やむなく見送られた

 

いくつもの夏が背を向けて通り過ぎ

荒涼とした原野に独り立たされる

私の眼前 無防備に投げ出された

うだるような熱風にあてられ伸びた四肢 

時の位層に残された記憶のかけらを 

蒐めては丹念に縫い合わせ

かつての追憶を在りし日のようになつかしむ 

あの日 郷愁の網にからめ捕られた私のたましひは

豊饒なあまりに生産される種子を唆(そそのか)して

私の脆弱な杖に言葉の葉叢を繁らせるだろうか

 

歳月の高みでよろけ 刻印された地上の夏の

あらかじめ失われ ふたたび失われた王国を俯瞰する

やがては空蝉を枝に懸けるように たましひは縛めから解かれ 

落ちていくだろう 湖面に映された さかしまの空に 

 

copyright2011以心社・無断転載禁じます。


部屋、声の痕跡/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年08月13日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

部屋、声の痕跡

小林稔

 

刃物の傷を記憶する円卓を、花々が織り込まれた絨緞の上にしつらえた、両腕の角度をそれぞれ違えた四脚の肘掛け椅子を向き合わせ、

うしろの白い壁に倒れかけるように立つ黒い戸棚がある。風に放った扉から盗み見られる頑丈な鋲を打ちつけた蓋のある宝石箱。銀製

の写真立て。その硝子に付着する埃が主人の幼年を隠匿している。背の剥がれ落ちた金文字の痕跡を残す革表紙の書物が置かれたかた

わらに青い硝子の水差しが黄ばんだレースの布を押している。壁に磔刑のように吊られた大きな鏡がある。反対側の壁に架けられた額

の畫が写され、薄明の丘を取り巻く水の流れに沿って走る道を家路へと急ぐ農夫たちの背後には、夜を孕んだ森の樹林の間隙を縫って

波頭が旗のように靡く海が見える。マホガニーの机が窓を背にあり、重厚な背凭れ椅子が室内の家具を統帥している。抽斗には羽根飾り

のある付けペンとインク壺が並んで、手前の真鍮のトレーに鉛筆が十数本、奥にはペーパーナイフが納められる。隣室に招く扉のない

通路からピアノの鍵盤を匿う流線型の艶のある蓋が姿を現し、夜の海を記憶する胴体を部屋の中央に横たえている。そのうえに置かれ

た左右のランプシェイドを立てる一対の照明スタンドに、硝子の格子戸に囲まれた中庭から射すやわらかな光線が届く。片隅の薄闇で

花台に載せたチューリップは四角い硝子の花器にその茎をぎっしりと寄せ水を吸い、赤い蕾を竝立させている。弦の忘れられた音は見

えない煙のように円天井から吊られたシャンデリアの縁辺を浮遊している。次に連なる隣室への開扉されてつづく廊下の暗闇で寝室と

浴室が控えている。パラフィン紙をいく枚も重ねられ透し見るような時の堆積に、の迅速に逝った過去の破片が呼びかけられるの

を待っている。静かな銃弾を浴びて倒れる兵士たちは意思を殺がれ歴史の餌食になる少年たちに換えられる。百年は過ぎ去ったように

思われた。陽光は萎え、室内を闇に沈め始める時刻の到来に明かりが一つずつ灯され円卓や戸棚や机をきらびやかに目覚めさせる。脳

髄からを引き連れて行った限りなく遠い土地への想いが、身体の間隙を擦りぬけて、私を呼び止める声を聴いた。


テーレマコスの航海/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年08月12日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

テーレマコスの航海

小林稔

 

波頭の見えない静かな海が三日つづくと、決まって四日目に強風が

吹き荒れ、転覆の危機が訪れる。船の真ん中にある帆を降ろしたマ

ストによじ登っているので、大きな揺れで嘔吐をこらえなければな

らなくなる。

 

操舵室に入る男の背中をいく度となく見たのだが、円型の覗き窓に

は船長の姿がなく、私ひとりを乗せて船はひたすら進んでいる。

 

穏やかな海の日は船底に身を横たえて本を読む。一冊の哲学書『テ

―レマコスの航海』を三十七回読んだ。読むたびに知らなかったこ

とを発見し狂喜する。私に航海の解釈を示唆してくれるのだが、例

えば七百七十一頁には「真理、すなわち神の到来を待つ主体の聖性」

について記述されている。霊性が自己をこの上もない高みに引き上

げるには、宇宙の孤独を耐えなければならぬとある。

 

私をおいてあらゆる事象を崩壊させることが必要である。連続性を

否定することとは瞬間の実在のみを信じること。記憶は何ほどでも

なく、死すべき私たちに未来は不確かである。現在は砂山が崩れる

ように未来を巻き込んでいる。

 

世界の陸地を一巡りした思い出は、得体の知れない一匹の生き物の

ように変貌を終えることがない。郷愁のような想念に捉えられる一

夜、脳裡には若年の私が抱いた瞑想がよみがえり不思議な交感(コミュニケーション)

が始まる。例えば、不思議な砂漠の王の館、十七歳の王を襲った厭

世の想いが色濃く映し出された内庭に私は佇み、大理石の柱と柱の

隙間から見遣る泉を越えて、鏡に嵌められたシンメトリー空間に、

自己が呼び止められた。

 

土地を離れ、想いを遊ばせた建築物を棄て、やがて死が記憶さえ携

えることを許さないならば、一刻も早くそれらから身を遠ざけるべ

きではないだろうか。波に洗われていた断崖が小さくなり、ついに

視界から消えていく。私は記述する、精神のスクリーンに流れる一

片の雲また雲を。それが神に由来するのか、あるいは血筋にか、そ

れとも神学と哲学から剥がれ落ちた、詩(ポエジー)と呼び得るものに由来す

るのかは定かでないとしても。

 

私はどこにいるのか。夜の大海原では一片の塵に等しい私は、すべ

てから逃れるため、老いを加速させ、事物から遠ざけた。事物の価

値を正しく見定めるため、世界との負債から勝ち得なければならな

かった。ゆえに、流れ行く想念を記述し定義していった。唯一残さ

れたのは、自己からの自由ではなかったか。鏡に写る等身大の自分

に視線を注ぎ込むこと。こうしたすべての努力は、知において自己

に回帰することであった。神の(もし存在するならば)理性に授か

ることであり、世界の構造を探り出すことである。

 

もしも神が存在するとするならば! 神は退却したが、理性は消滅

したわけではあるまい。無限に遠くから、詩(ポエジー)が私たちに訪れると

き、神の気配を嗅ぎとることができる。理性によって私たちの変貌

が可能であるからである。

 

アレクサンドリアの港を出港してから数ヶ月が経った。この危険に

満ちた航海を私が難なく終えたらのことであるが、気象現象と健康

に委ねられた航海は、どこに向かって曳かれているのであろうか。

私の思考が船の操舵を導いていることは推測された。真理というも

のこそは、航海が辿るべき最後の港であろう。


胡椒あふれる水びたしの邦に/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年07月25日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

胡椒あふれる水びたしの邦に(「髀肉之嘆8」)

 小林稔 

 

遠くに端をもつ水は切れることなくしゅるしゅると音を立てている。

闇を舞う雪が窓から入り込もうとしたのはたしか昨晩のことで母屋

から一つ通りを挟んだ平屋の十畳の間にひとり寝かされた七歳の私

は障子を透いてとどくやわらかなひかりを見つめ、降り積もる雪を

車が踏みつける音を衣の擦れる音のように聴いている。墨を流した

ようなむすうのくねる線が天井の羽目板から浮き出て鬼の群れにな

って私におそいかかり、かぞえ切れないほどの蛇に変わった。蛇は

耳朶を這うようにして肩と蒲団の間に滑り込んできて私は身体を硬

くさせるが踵に滑りいるひんやりとしたものが一つならず触れ上が

ってくる。私の軀じゅうを蓋(おお)う蛇は一匹の巨大な蛸になりかけてい

て縄に縛られたように身動きできない。重い石におさえ込まれ、骨

から熱を奪い皮膚にあつめられた熱が身体のくぼんだ部位に移って

いる。列をつくる学童たちの頭上に欠落した机が浮いている。

 

襖の陰で見つづけている私は、私を救出できないでいる。

   

川に架かる土橋を自転車で渡り始めて下を見たら、穴があり水が見

えた。自転車が左右にゆれハンドルを取られ端に寄った十二歳の私

は右足のペダルを踏んで、傾いた身体を立てる。渡りきって畦道を

たどるとあいつのお兄さんが立ちはだかり、蛙のいっぱい入ったビ

ニール袋を私の手に握らせた。気持ちわるくて叫びそうになる声を

胸におしこめ、町なかにつづく道を急いで帰った。どういうわけか

姉から解剖の話が伝えられていて机の引き出しにあるメスを取り出

し庭の縁台に仰向けに寝かせた蛙をピンで留め、腹にメスを走らせ

たとき、絹を裂くような爆音が頭のてっぺんでした。ガラスに鉱石

を走らせたような直線が視界に引かれた。そのあと何をしたかは記

憶から消えているが、あのときの耳をつんざく声、脳に釘(くぎ)を打ち込

んだような痛みはなんどもよみがえる。

 

私は十二歳の私から苦しみを剔出(てきしゅつ)できないでいるのだ。

 

人差し指が中指のつけ根の皮膚にひっぱられて曲げられなかった。

ひどく溶けた薬指だけでなく手の甲が焼けておうとつがあったがず

いぶん月日を経た火傷(やけど)であることがわかる。クラス替えで初めてい

っしょになったその子の明るい笑みから視線をそらすことができず

に毎日、話をした。むごたらしさと憐れみをおそれ私は手を見ない

ように努力することはできた。少し過ぎたころなんとなくその手に

視線をすえたとき、何かうつくしい生き物のように思われ眼を離せ

なかった。十三歳の私が魅了した者は何であったのか。

 

私の脳裡の片隅で手が燃えつづけている。

 

ひくつく心臓音でもない波打つ揺れが遠くからゆっくり寄せ、頭に

鉄の輪がはめ込まれて身体から海水が匂っている。白紙に描いた三

角形がひどく孤独に見えてくる。妖しい欲望にひきずられ宇宙の果

てにつれていかれた十四歳の私はどこにもいなくなる。波が振幅を

深くして九秒間はじめての射精がつづいた。それ以来毎日のように

反復する自瀆の時刻、波から訪れる他者に呼びとめられ世界が構築

されていった。波は無限に遠い領土から足許へと伝えられるので詩

と名状した。他者たちに解体されいくつもの死を死んだが、そのた

びに自己は再生し増殖をはじめる。私に巣食う他者の放つ知られざ

る言葉こそが私であるといえようか。かつての少年の身体を攫(さら)った

魔物は、私というペルソナに変貌したのであった。事物をすべて言

葉に仕立てようとする渇きを治癒できるものが繰り返される死から

の召還であるならば、

 

十四歳の私に導かれ私は発つ、胡椒あふれる水びたしの邦に。

 

 

註・最終行「胡椒あふれる水びたしの邦に」という一節は、ランボーの

『イリュミナシオン』の中の詩句、「胡椒のきいた水びたしの国へ行

け!」(粟津則雄訳)から喚起されたが、内容上のつながりはまった

くない


ルートヴィッヒの耳/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年07月10日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

ルートヴィヒの耳
        小林 稔


深夜、部屋でひとりピアノソナタを聴く。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの、
記憶から放たれた無垢な音の跳躍が始まり
歳月を紡いでいく旋律がページを繰るように
つぎつぎと変奏され、螺旋をつくりながら
翳の深みへと墜ちていくのであった。
だが一小節目を耳にした瞬間から、
今日は何かが違うのだ。
いつも支えていた足場が引き抜かれたように
意識がその先へ先へと墜ちていく。

ピアニストになぞらえ、身体が動く。
音の高低の距離を指先と腕の所作で計り、
想像裡の鍵盤の左右に十指を落とす。
突然の沈黙にそのまま指を宙に浮かせ、
軀の動きを同時に停止させ間を取る。
腹部に重心を据えペダルを踏んで、
左手の人差し指を白鍵に深く沈める。
稲妻のようなアレグロからアンダンテに移ると、
一音一音が右手の指から静かに浮き立ち留まる。

外套を脱ぎ捨てるように
自己から退却したベートーヴェンが、
最高峰の頂から地上の己に視線を向け、再び地上に還ると
創造者である己の運命を受け入れた。
芸術家とは詩人とは、群衆にあって孤立した存在。
不可逆なこの世の生を修練しつづける。
一日を一生の喩えに日々を迎え送る
芸術家像に詩人像に、己を近づける。

もうひとつのピアノソナタが流れている。
三連符がしづしづと闇にひろがりつづけ、
夜の静かな海に月の光がこぼれ落ち
波に運ばれ腕の入り江に寄せてくる。
次の楽章の凡庸さが何事もなく通過し終え、
いつのまにか第三楽章に転移する、
プレスト・アジタート、きわめて速く激情的に。
悔恨と焦燥の馬が地上の果てから果てを駆け抜け、
残された命を燃えつくそうと力走する音たち。
これはルートヴィヒの耳だ。
世界の事象を流動する音に変えた、ルートヴィヒの耳だ。

  すべての生きるものが死を遁れえないならば
  街々を越え、群衆を越え、山々を越え森を越え、
  国境を越え、河川を越え大陸を越え、海原を越え、
  突然に失速し、踵を返して振り向くと
  遠方に塵のように矮小な己の姿が見えるだろう。
  すべての生きるものが老いを迎えるならば、
  老いを加速させ疾走した時間を遡行せよ。
  生まれたばかりの嬰児の視線で世界を見つめよ。

今夜、いつも聴いていたベートーヴェンの音が、
初めて耳に触れたように意識の深みへと墜ちていく。
古井戸のつるべに石を降ろしていくと、
もう一方のつるべから花々が立ち上がるように
この一瞬が永遠の輝きに満ちあふれて。


 詩集『遠い岬』以心社2011年10月20日刊 初版200部 2000円 ISBN978-4-9906200-0-4C0092
tensisha@alpha.ocn.ne.jp にてご購入できます。