ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

演奏会/小林稔詩集「白蛇」より

2016年09月06日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

演奏会
小林稔


 会場は静まり返った。ときおり 咳をする声があちらこち

らで響いた。彼は鍵盤に落とした視線を上げ 背筋を伸ばし

た。真っ暗闇の中で、観客は息を呑んだ。

 左手の五指が 小指から鍵盤の上を這っていく。六連符が

波のように 満ちては曳いていった。ショパンのノクターン

害七番嬰ハ短調、作品二十七の一。左手の序奏が少しずつ波

のように高まり、波に浮上して 右手の人差し指、中指が 

もの憂い旋律を打ち始めた。

 主題が見え隠れするが、泡のように低音部の闇の中に消え

ていく。左手が低い三連符の音を 小さく刻み 繰り返す。

同時に 右手の重音が ゆっくりと大きな波と共に 悲壮な

高まりを見せて 激しさを増していく。

 右手の波のリズムが 変化をもたらしながらも、孤独な想

いを抱えこんで 嵐のように荒れ狂った。

 空が引き裂かれる。暗雲が裁ち切られ 青空が覗く、次の

劇的展開を予測していたとき、鍵盤を走り回る十指が あま

りにも突然停止した。

 沈黙の瞬間が訪れた。永遠にも似た一瞬であった。すぐに

弾き出せばいいのだ。かなしいかな 彼の腕から力が消えて

いた。許されるなら 鍵盤の上に 半身をうなだれてしまい

たかった。彼の体重で ハンマーで叩いたような不協和音を

会場いっぱいに響かせただろう。

 楽譜は頭上から消え失せ、指は彼に従うかのように 配列

を忘れていた。

 彼は このまま何時間でも、ピアノの前に座っていたかっ

た。だが、彼を裏切った指は 鍵盤を左から右へと走り抜け

た。青空が絶望の淵に かいま見えた。待望の勝利の歌が鳴

り響いたと想うつかの間、半音階の階段を 左手が最強音で

転げ落ちていく。再び 夜の静かな波が 鏡に映されたよう

に、寄せては曳いていく。三度の和音が 失意を優しく包み

込んで、終盤に水を注いでいった。

 演奏会は終わった。会場は深い闇の中で息をつめた。彼の

踵を波が寄せ来るようであった。


Copyright2012 以心社 無断転載禁じます。


夏を惜しむ/小林稔詩集「白蛇」より

2016年09月05日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行

夏を惜しむ
小林稔

    かんかん照りの道を 学校から帰ると、一つの死が 私を

        待ち構えていた。
    
           十二歳の私は 悲しみを覚えることなく、一年数ヶ月の生

   命の結末に 口ごもる家族と離れ、ひんやりとした廊下で 

   仰向けに寝転んで、流れる雲の行方を 追っていた。
 
    別れるときの死顔が 作りもののように思えた。商店の裏

   道を抜けて 伯父と小さな棺を担いで お寺まで急いだ。
   
    えんえんと続くお経を縫うように、鈍い木魚の音が 規則

   的に響いていた。うだるような暑さの中で私は気を遠くして

   いた。

 
    突然に 一本の電話が鳴る。姉の二度目の男の子の死を知

   らされた。あれから十五年目の夏、弟のもとに去った 十八

   歳の死を想った。立つことかなわず、言葉一つ発せずに終わ

   った未熟児。うなり声は家中とどろき、睡眠を奪ったが、死

   の前日は さらに激しかった。朝起き 体に触れると動かな

   かった、と聞く。
    
    東京にいた私は 父のもとに帰った。姉と義兄が 私を待

   ち受けていた。

   
    棺の蓋を取りのぞくと 蒼白の顔面があった。目はきつく

   閉ざされ 引きつっていた。唇の割れ目から前歯が 覗いて

   いた。そこから朱が一筋、顎の辺りまで引かれ 干からびて

   いた。花びらを亡骸(なきがら)に散らせ 釘を刺した。
 
    コンクリート壁の部屋で 猫背の男が炉の鉄の扉を開け、

   骨を 無造作に取り出した。
 
    火葬された骨は 舞うようであったが、差し出す箸(はし)

   にすがったのは 軽さのためか。
 
    私は骨壷を 肩からかけた白い布にくるみ、炎天下の道を

   のろのろとお寺へと歩いていった。

 
    毎年、夏になると どこからか笛と太鼓の音が聞こえてく

   る。祭りの前日には 朝早く御神体を抱えた男たちが かけ

   声とともに 走り回る。
 
    今年もその日が来た。人がどっとおし寄せ、男たちは酔っ

   たように 神輿(みこし)を担いでいた。

  

                 copyright1998 Ishinnsha


射的場/小林稔詩集「白蛇」より

2016年08月21日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

射的場
小林稔

 アキオの歩いていく方向に逆らって 中学生の一団が通り

過ぎた。そのとき、横を歩いていた友達がいないことに気が

ついた。遠くまで視線をやったが、見つからない。ジェット

コースターから喚声が上った。

 遊園地に来たのは初めてだった。いくつもの顔から 友達

の顔を探そうと 背伸びして見回した。人の流れが壁のよう

に立ちはだかり、何重にもアキオを取り巻いているように思

えてくる。瞳が潤んできた。こんなところで友達の名前を呼

ぶわけにはいかないだろう。

 人の流れが切れると すきまができる。アキオはそこに身

を置き、何度か繰り返しているうちに もといた場所からは

ずいぶん離れてしまっていた。入口さえ辿れない、と思うと

不安が増してきて 次第に伏し目がちになっていた。

 そのとき、人に流れの切れ目に 異様なものの気配を嗅(か)

いだ。まさか、と思って今度は瞳を瞠(みひら)いたが、もう

疑いはなかった。それはアキオの動きを追う銃口であった。

眼球を抜かれたような銃口が 執拗にアキオを捕らえて離さ

ない。全身が凍てついたように感じた。通行人の背中に隠れ、

またすぐに現われ、銃口がアキオに向けられていた。

 アキオのうしろでコルクを抜き取ったような音がして跳び

上った。そのあと続けて二回鳴った。

 銃口は狙いを逸らした。中学生が銃を肩から降ろして 背

中を見せ 群衆の背中に消された。アキオは群衆の壁に分け

入った。射的場だったのだ。棚に景品が並んでいた。さっき

の中学生が ゲームウオッチを倒すと、見ている子供たちか

ら驚きの声が湧き上がった。アキオは恐怖から放たれ、脱力

感を感じて立ちつくしたまま、コルク玉の行方を眼で追って

いた。

 息が止まるような恐ろしさを 身を持ってしたアキオは、

もう以前の自分に戻れない、と思った。


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遊戯/小林稔詩集「白蛇」より

2016年08月13日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

遊戯
小林稔


「きたねんだよ」

 少年の怒声(どせい)が飛んで、寝室の壁に 亮一はブチあ

たった。天井の照明が揺れている。

 亮一は 少年にされるがままだった。抵抗はなかった。

「このやろう」と叫んで、少年は亮一の首につかみかかった。

至近距離で 少年の瞳を凝視した。少年の手が緩んだら少年は

の唇が 亮一のそれに、かすかに触れた。あわてて壁に張り付

いた亮一の体から視線を逸らし リビングに駆け込んだ。

 少年の笑い声がする。テレビの音量が増す。亮一は脱ぎ捨て

てあったズボンとシャツを拾い、ゆっくりと身にまとった。自

分の首に指先を触れてみた。熱かった。知らずに少年の息づか

いを 真似ていた。涙が線を引いて足の指に 落ちた。

 亮一がリビングに現れると、カーテンを降ろした暗闇の中で

ソファーから身をのり出して テレビに釘付けになっていたい

る少年がいた。画面から溢れる光が、少年の目鼻立ちを稲妻を

走らせたように映し出した。亮一は肩を並べた。

 許してくれ。亮一は心の中で叫んだ。裸の膝小僧を握ってい

る少年の手の指が 小刻みに震えている。

 亮一が少年を見つめて笑ったのは不覚であった。少年は視線

を乱した。消し忘れた浴室の明かりが廊下を照らしていた。

 少年は歩いていって蛇口をひねり、指を水に浸して、唇を何

度もぬぐった。

「もう、おれ帰るから」

 少年は昨日と同じ言葉を棒読みする。


 亮一は寝室のワードローブから学生服を引き抜いて、少年に

着せ替える。ズボンに少年の脚を通すため曲げると、ギーとい

う音がする。腕を袖に差し込む度に、少年の前髪が亮一の顔に

触れた。ベルトを締めつけると 少年の上体が浮いて亮一の胸

にバタンと倒れた。

 少年はゲームを終えたように体を起こし、うつむいたまま笑

みを浮かべて すたすたと帰っていった。扉の閉まる音が部屋

中に響いた。





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夏を惜しむ/小林稔詩集「白蛇」より

2016年08月03日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行

夏を惜しむ
小林稔

    かんかん照りの道を 学校から帰ると、一つの死が 私を

        待ち構えていた。
    
           十二歳の私は 悲しみを覚えることなく、一年数ヶ月の生

   命の結末に 口ごもる家族と離れ、ひんやりとした廊下で 

   仰向けに寝転んで、流れる雲の行方を 追っていた。
 
    別れるときの死顔が 作りもののように思えた。商店の裏

   道を抜けて 伯父と小さな棺を担いで お寺まで急いだ。
   
    えんえんと続くお経を縫うように、鈍い木魚の音が 規則

   的に響いていた。うだるような暑さの中で私は気を遠くして

   いた。

 
    突然に 一本の電話が鳴る。姉の二番目の男の子の死を知

   らされた。あれから十五年目の夏、弟のもとに去った 十八

   歳の死を想った。立つことかなわず、言葉一つ発せずに終わ

   った未熟児。うなり声は家中とどろき、睡眠を奪ったが、死

   の前日は さらに激しかった。朝起き 体に触れると動かな

   かった、と聞く。
    
    東京にいた私は 父のもとに帰った。姉と義兄が 私を待

   ち受けていた。

   
    棺の蓋を取りのぞくと 蒼白の顔面があった。目はきつく

   閉ざされ 引きつっていた。唇の割れ目から前歯が 覗いて

   いた。そこから朱が一筋、顎の辺りまで引かれ 干からびて

   いた。花びらを亡骸(なきがら)に散らせ 釘を刺した。
 
    コンクリート壁の部屋で 猫背の男が炉の鉄の扉を開け、

   骨を 無造作に取り出した。
 
    火葬された骨は 舞うようであったが、差し出す箸(はし)

   にすがったのは 軽さのためか。
 
    私は骨壷を 肩からかけた白い布にくるみ、炎天下の道を

   のろのろとお寺へと歩いていった。

 
    毎年、夏になると どこからか笛と太鼓の音が聞こえてく

   る。祭りの前日には 朝早く御神体を抱えた男たちが かけ

   声とともに 走り回る。
 
    今年もその日が来た。人がどっとおし寄せ、男たちは酔っ

   たように 神輿(みこし)を担いでいた。

  

                 copyright1998 Ishinnsha