ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ショパン論 小林稔評論集『来るべき詩学のために(二)』より

2016年01月01日 | ショパン研究

小林稔季刊個人誌『ヒーメロス』20号に掲載


  『ヒーメロス』最新号(20号)2012年3月25日発行 無断転用禁止


書評 (前編)
情念のエクリチュール
小説『ショパン 炎のバラード』
ロベルト・コトロネーオ 河島英昭訳 集英社 二〇一〇年十月刊
小林 稔
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 今しばらくは私の音楽との関わりを通して、ロベルト・コトロネーオというイタリアの新鋭が、一九九五年十月に満を持して(訳者の弁)世に問うた処女長編小説、原題『プレスト・コン・フォーコ』(情熱の炎をこめて迅速に)の日本語訳を読みながら、主人公が音楽に抱いた思念を考え、それを一人称で書き進める小説のエクリチュールを考察してみようとするのが、この短い書評の意図するところである。
この書物を語りつぐ「私」なる人物、ピアニストの巨匠アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが七十五歳で亡くなった四ヵ月後にこの小説は出版されたことになるが、作者は「私」がミケランジェリであることは明かしていない。しかし、記述の内容から他の人物であるとは考えにくいことである。生前から謎の多い人物であるということのほかに、主人公の名を明かさない理由の一つに、ミケランジェリの音楽への思念は、あくまで作者自身の想像の域を出ないことにあるのではないか。当然のことながら作者の解釈にすぎないのだが、真の人物像にどの程度肉迫しているのかを読み手に納得させることができるかに、この小説の真価が問われるであろう。コトロネーオの描く〈ミケランジェリ〉が、私自身の〈ミケランジェリ〉と相違することを恐れながら、ドラクロアの描くショパンのデッサン画をブックカバーにもつこの小説を私は読んでいった。

「情念の筆跡というものもあるはずだ。」小説の書き出し、第一章の冒頭は、この一文から始まる。物語の中盤で、「私」に不意にもたらされることになる、これはF・ショパンの「バラード四番」の手稿譜を示している。十二章とエピローグからなるこの物語の第一章と第十二章、そしてエピローグが「私」の現在時、つまり一九九五年、スイス山中の山荘における、死の直前までになされる幼年時代の追憶、後年の著名なピアニストとの邂逅などのモノローグが記される。その間の第二章から第十一章が数年間のパリ滞在の回想になる。そこで偶然に知り合う一人の女性と、ショパンの手稿譜を「私」に託すロシア人男性との出逢いなどが語られる。
  
   一

五線譜に書かれた、なめらかに、荒々しく刻まれた音符の群れ、閃きを定着させる表音記号。例えばショパンのプレリュード集のある曲に人々は名前をつける。しかし彼は思うのだ、「音楽を何か別のものであるかのごとくに意味づけようと」すれば、「冒瀆以外の何ものでもない」と。

私に見えるのは一台のピアノだけだ。(p.10)

幼い子どものころ、母親がチェルニーの練習曲のために使用していたピアノに向かい、《幻想即興曲》を弾いていた瞬間、不眠の夜を過ごしたせいで発熱していた彼は、女性に対する想念がかすめていき、「漠とした不確かな霧の中へ」右手は速度を緩めていった。《作品》が生身の異性への関心を呼び起こしたのである。その後十四歳になった彼は、ラフマニノフのピアノ協奏曲四番ト短調を弾きこなした。「まるで全世界が私の気紛れに、平伏しているかのように思いこむのであった」。十五歳で音楽学院の卒業資格を所得する。あたかも、「成熟した女にならないうちに、あまりにも早く愛の果実を知った小娘のように」、男を見れば誘惑し思いを遂げながら男を閉じ込め、「男の目からおのれの妄念の代償を引き出そうと求めつづけるのであった。虚しくも性の虜になった自分自身を解放させようとするように。未熟であった彼からスタインウェイのピアノ一台は「調教師のように」才能を引きずり出し、人々は彼を天才と褒めそやしたが、彼は怯え戸惑うしかなかった。彼は自分が天才に値するものと思えず恥じてさえいたのである。今日の人々は彼を変人扱いにし伝記を書くように求める。彼はそこから解放されたいのだ。彼には「我慢がならない」。「私は自分のことを大切にしているだけ」である。今や音楽を読み解くことだけが日課になっていた。

 ヴァイオリンやチェロは演奏者の肉体の一部であるかのように音を響かせるが、ピアノという楽器では演奏者は「物理的に音楽から切り離されている」。「私」の情感を強く表現することには限界がある。ピアノには演奏者と音楽との距離が絶えずあり、楽器との対決を強いられる。そうであるなら、「音楽はそれ自体で漂っていくべきだ」と彼は考えるようになった。

楽器というものは、際限のない不実さで作られている。弾き手が若くして、自分の望むすべてを演奏するために、ピアノのテクニックを身につけていても、演奏するための円熟さを備えていなければ。ただし、それを実践できる円熟さを備えたときに、かつて若き日に身につけていた、あの指の完璧さを、失っていれば。そして八十歳の老人が同じ柔軟性を駆使して弾ける、と信じることができるのは、批評家たちだけである。(p.30)

演奏家にとって《作品》はどのような存在なのかを考えたとき、一様でないことは想像される。作曲者とその《作品》との関係が深く関与するからだ。この小説の主人公「私」(ミケランジェリ)とショパンについて考えてみよう。「私」は幼少のころから難曲を弾きこなせる技術を獲得している。彼の人生経験は、大人たちが《作品》に喚起される人生を完璧に弾きこなすことで擬似体験される。右に引用した「演奏するための円熟」さは、楽譜を読み解くことと実人生を送ることの複雑な様相のもとで養われるだろう。あらゆる現代批評がそうであるように、《作品》は作者を超越するものとして解釈される。音楽に人生を擬えるのは彼にとって冒瀆であった。

  二

ショパンの音楽には、創作の契機となった現実の体験を超えて踏み出そうとする音の世界がある。とはいえ、リストのように技巧を凝らしたピア二ズムに走らない。それは現実と隔離した別の世界だ。ショパンには、イデア世界に羽ばたこうとする高揚感と、現実に楔を打ち込むような激情が湧出し、それまでの美的な世界に亀裂をもたらそうとする欲求が生まれる。それゆえ現実との接触は絶えずあり、たんなる夢に終わることはない。少年の無垢な空にとつぜんに襲ってくる深い哀しみを表現するモーツアルトとも、厳格な理想主義の、恐ろしいまでの至福を垣間見せるベートーベンとも相違するショパンは、ある意味で「青春」の原型を表現したといえるのではないだろうか。
二十代半ば、偶然にもミケランジェリの『フレデリック・ショパン』というレコードに私は出逢った。一九七一年にミュンヘンで録音されたとライナーに記されている。A面には十のマズルカが第四十三番から始まり次が第三十四番というように置かれ、おそらく曲想の配慮からミケランジェリ自身が順番を構成し直したと思われる。B面には《前奏曲嬰ハ短調作品45》、《バラード第一番ト短調作品23》、《スケルツォ第二番変ロ短調作品31》の三曲が収録されている。私はこれらを「青春三部作」と勝手に名づけた。私は熱心なクラシック・フアンではなかったが、それまで聴いた演奏とはどこか違うものを感じた。ミケランジェリの奏でる音楽を聴いているとき、私はピアノの鍵盤や演奏者を連想することがない。鍵盤から遠いところで音楽そのものが自らを奏でているといった印象であった。私の固定観念では、ピアノの華やかさはどこか貴族性を匂わせるゆえの虚飾に結ばれ、真の人間性から遠い存在に思われていたのであった。だが、ミケランジェリのショパンは質素な暖炉の燃える、あるいは窓からアルプスの見える山小屋から聴こえてくるような響きであった。それでいて崇高な音の響きを耳に残した。それ以来、彼の弾くベートーベンやラベルやシューマンを録音したレコードを立てつづけに聴き、ミケランジェリ以外の演奏にも耳を傾けたが、最初に受けた印象は消えることがない。さらに三十歳にならんとするころ、私は無謀にも自らピアノを弾くようになったのであったが、演奏することで作曲者の内面に深く分け入りたかったという一念からであった。

程度の差はあれ、すべての芸術家は実人生と芸術から知りえた他者の人生と《作品》を受容し、創造の糧にしていくのだが、ショパンという作曲者と「私」という演奏者の、芸術への志向が交差する場をもちえたということがわかる。芸術は人生の模倣ではなく、人生からすべてを分析できるものではなく、その領域からの「超出」こそが芸術の真髄であるということである。それは後期ロマン主義と称されるショパンのいくつかの《作品》を特徴づけるものであると思われる。例えば《エチュード作品10、25》。練習曲という枠を超えて全体を一つの紆余曲折のある流れとして捉えている。あるいは《プレリュード作品28》の構成を考えてみれば納得されるであろう。それぞれの最終曲の劇的な終わりは、音楽に終止符を打とうとするかのようだ。ショパンの人生に降りかかった破局、それが愛や疾病であろうと、危機を梃子に「流れ逝く時間」を直視ようとしている。《バラード第四番作品52》。この楽曲のフィナーレの激しさもその一つに過ぎないのである。主人公の「私」は、ショパンの楽譜からショパンの見つめた「時間の真髄」を音で追っていくのだ。それは一つ一つが原子のような音の流動である。それは演奏者とピアノとの対決を通してのみなされることであった。
ところが「私」に転機が訪れる。ショパンが「死の直前に書き遺したという《バラード第四番》の手稿譜」の予期せぬ出逢い、それはいかにしてなされたか。それがこの小説の主題であるが、「私」の音楽に陰翳の足跡を刻むことになった。

  三

あたかも芸術論らしき様相を呈していた第一章が終わり、第二章から第十一章までがこの長編小説の本領である。しかし、帯文に記された「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」であると期待して読むならば落胆するに違いない。すべて一人の音楽家の内省的告白以上のものではないからだ。
死の年、つまり一九九五年の追憶は十七年前に始まる数年間に遡ることになる。当時ミラノに居を構えていた彼に自動小銃が突きつけられる。一九七八年四月のことだ。アルド・モーロ前首相がテロリスト集団の手に落ち、ミラーノは厳戒体制下にあった。四名の官憲はドイツ・グラマフォンとの契約書簡の入ったカバンを奪い、その内容を理解できない彼らは「私」を反政府の危険分子として連行し彼は留置所で一晩過ごした。翌日彼は釈放されたが、身辺を整理しイタリアを離れた。
彼が亡命の地に選んだのはパリであった。セーヌ川のオルレアン河岸に面したアパルトマンに、スタインウエイ社、一九三八年製のCD三一八型のピアノといっしょに身を落ち着かせた。そのアパルトマンはサン・ルイ島にあるミツキェヴィッチ記念館とポーランド図書館のごく近くに位置していた。ミツキェヴィッチは生涯を亡命のうちに過ごしたポーランドの詩人で、その詩に触発されたショパンは四曲のバラードを書いたと伝えられる。ポーランド図書館にはショパンの遺品や自筆譜、デスマスクまで展示されている。
ピアノという楽器は室内の環境や空気の湿度によって微妙に音色を変える。ましたそこに弾く者の心理状況が加われば鍵盤の深さがいつもと違っているように感じられもする。彼はミラーの滞在時から《ノクターン作品48‐1》の録音を考えていた。このピアノは完全であると主張する技術者に抗議するため、しばらく指を置くことなく、サン・ジェルマン界隈のカフェを梯子してはそこに座る女性を眺めていたが、いく日か後に再び情熱が湧き上がりピアノに向かうことが多くなる。
ある晩、ラスパイユ大通りとレンヌ通りの交差点を少し過ぎたところにあるカフェで、一人の若い女性に出逢うことになった。「彼女の顔立ちは、ドラクロアの絵に描かれた、大きな帽子の娘のことを、思い出させた」。以後、彼は帽子をかぶった娘と名づけるようになる。娘を連れて(彼女がそれを要求したのだ)帰宅したのであったが、翌日、音楽について語ることをあれほど嫌っていた彼が、あのノクターンについて息つくひまなく話しつづける。なぜか?

ショパンのあの曲と、あの女に私が触れて服を脱がせることのあいだには、類似したものがあったからだ。(p..46)

そう記してすぐに否定する。音楽には他の動きに類似しているものはなく、明晰なものであると。「ひとりの男の性的衝動と音楽感覚との危ういバランス」を保とうとする。「私にとってダンテ風の地獄」とまで記される。この二つの相反する思いを断ち切ろうと、彼女にもう逢うことなく、ノクターンからも離れようと彼は心に決めたのであった。
「私が九歳か十歳のころ」であったと記す。ベートーベンの《熱情》を求められた演奏会で、多くの演奏者に賞賛を浴びせかけるために作られたに過ぎない速度に反抗し、最終楽章をテンポを速めずに弾いたのであった。そのとき彼は「自分が弾く作曲家の主人になった」ことを知った。それ以来、「自分の完璧主義との闘い」を始めるようになった。「世界と生き方に対する私の確信とヴィジョンとを明確に反映させようと」する「微細な部分への妄執」が、いっそう孤独への道を突き進ませることになった。このような彼だけが感じ取る「差異」について聴き手としての他者がいなくなり、「同じ感性を共有」してくれる者がいなくなることが問題である。それゆえの孤独である。それはあらゆる芸術上の問題を喚起する。耐えなければならない孤独であるが、それはどのような有意義をもたらすのであろうか。

私はピアノを弾くことによって人生を過ごしてきた。いままでに誰かと何かの取引をしたこともない。(p.56)

 三メートルはある二階のアパルトマンの窓の下で、五時間も私のピアノに聴き入る男がいた。「私」が何者であるかを明らかに知っている。「私」はドビュッシーの《ベルガマスク組曲》をしきりに弾いていた。髯を生やした虚ろな眼差しのその男は、「悶え苦しみ」「金縛りにあったように身動きができなくなっていた」。
「金銭の必要に迫られているのだろうと想像してみる。とにかく事情を知るためにカフェに誘い話を聞くことになった。ロシアで三度「私」のコンサート聞いたことがあるといった。エフゲニーという名のパリに亡命してきたロシア人であることを自ら明らかにするが「私」は強い疑いを持つ。しかし男がバラード第四番の自筆譜について語り始めると関心を持たざるをえなくなった。この楽曲が終結すると誰もが思っていると、第二一二小節以降コーダの始まり、「鏡の内に映し出されたかのように」「感情の爆発のごときものへと収斂し「作品の終わりを告げる決然とした怒り」が繰り広げられる。「抑制されて、ひそかに持続していた愛が、知性の戯れのように、最後にこらえきれずに爆発して、火花の感覚のように、周囲を驚かすのにも似ている」と「私」は考えるが、その終結部(コーダ)について明確にすべき言葉をもたないでいた。別れぎわにエフゲニーはショパンの自筆譜を後日持参することを告げる。「あなただけが、完全に弾きこなせることができるでしょう」と言い残して。男は何かしらの金額で「私」と取引をしようとしていることを暗に知らしめたのである。

   四

敢えて待ちつづけようとする好奇心の形態もあるのだ。(p.60)

 ミケランジェリは高名なピアニストの中でも最も録音する曲が少ないピアニストの一人だ。録音だけでなく、まれに開催されるコンサートを突然キャンセルすることでも有名である。この『炎のバラード』という小説において著者コトロネーオは、「私」の思念としてさまざまな想いを書き込んでいる。ミケランジェリ自身の自伝がなく真実は闇に包まれてしまった以上、他者の詮索に委ねるしかない。第三章はピアニストになり変わった「私」の告白である。ドビュシーの前奏曲の第二巻の収録のためパリに来ていた。十二の小品で全三十八分のために十年の歳月を費やしてしまったことを嘆いている。ルービンシュタインなら、第一巻、第二巻の合計二十四曲を録音するのに二日間で終えてしまうというのに。収録に時間をかけるピアニストにグレン・グールドがいる。「私」よりもっと時間をかけ、バッハの《インベンション》に二十年弱を費やした。ひとつの曲のある部分を納得できるまで何十回となく繰り返し、最良の部分をモンタージュする。聴き手にとっては何の相違も感じられないというのにである。しかし「私」はそうはしない。「私」と「私のピアノ」は一体であり、作品は演奏されるその瞬間における「私」である。その瞬間において「私の未来は、すでに、再構築されるべき過去と、似ているはずだ」と確信している。あのロシア人が金銭を巻き上げようと、よく分からない品物を(自筆譜)売ろうとすることなど「私」にとって何ほどの価値もないことだ。あのとき「私」はなんと動揺していたことだろう。「一時的な虚脱状態」にあったと語られる。これらはピアニストが晩年にスイスの山荘でパリにいたころを回顧する場面である。さらに遡って「私」は幼いころの自分を回想している。
 夕暮れ時、三階の自室で本を読んでいた。「夏の光に輝いていたあの一日が、ゆっくりと翳って、険しい様相を帯び、一瞬のうちに、夏から冬へとあたりが変わった。」家の周囲に闇が訪れ、人工の雪が舞っていた。そのとき白い服の母が現われ、何か言い出そうとする「私」を制止するように視線で示し、ピアノを弾くように命じているのが、母の表情から読み取れた。譜面台に広げられた音符は読み取ることができない。鍵盤の上に両手を凭れかけるだけで体を震わせるだけであった。母は不思議な笑みを浮かべるとピアノの前に座り、「不意に家を襲った雷鳴のように、激しい響き」を奏でた。《練習曲(エテュード)作品一〇の第十二番ハ短調(革命)》であった。「母の左手が鍵盤の上に降りて圧倒的な速さで低い音調を生み出していった」ので「私の心臓は激しく高鳴った。」アルフレッド・コルトーが弾いていたときよりいっそう速く正確であった。これほど速く弾かれた「エテュード」を聴いたことがないと思った。「私の正気を失わせた」ほどである。おそらく「私」のピアノとの、ほんとうの出逢いであった。当時、パリで失意の「私」に訪れた夢のような過去が甦る。世間ではなぜ私が「作品一〇」を演奏しないのかと言う。あの幼いとき聴いた母の「エテュード」が、夢の中で何度も弾かれ、「私」はそのときから、この曲は「生涯にわたって演奏するまい」と決めたのである。いかなる評論家も「私」の心の苦しみは理解できないのだ。
 
私のスタインウェイが独りでに鳴りだすのではないか、あの忌まわしいエテュードの録音を上に乗せた機械が、自動装置のように弾きだすのではないか、と私の不安はつのった。(p.65)

 「私」は願っていた、「過去の数世紀を復活させる力が、沈黙の譜面が白と黒の鍵盤のうちに響きわたりながら、人生の神秘に合致していくことを。」神秘を追い払いながらも追い求めていることになる。「物悲しげな始まり」へと向かうが、それは「無であった」。「無」であるがゆえすべてを可能にする音の神秘、それはどのような場所へも、魅惑的な肉体のまで入り込む。レンヌ通りのカフェで知ったあの娘にも。しかしそれ以上考えようとすると恐ろしさに襲われるのであった。「類似によって音楽を考えようとしたからだ。」

音楽は《意志》だ、《表出》ではない。音楽は世界との関連をもたない。音楽はそれを説明しない。ましてや世界を創出したりしない。その形態を変え、その気質を修正する。私は自分の惑乱や自分の感情に意味を与えるために、楽曲をあれこれと探しに戻ったりしてはならなかった。(p.68)

 宇宙は「音楽的周波から成り、不連続で」あり、不調和であり、不規則であるが、ピアノによって再調整され聴覚によって最後は調整されると考えたいのだが、それでは「私」は「事物を調整する術」を心得た男であるか。しかし当時の私は論理的に調整が困難であった。背反二律において「自分を鍛えてきた」ということができる。「私の肉体と聴覚の幻影」の関係性を断言できずにいるのだ。「私」は古本屋の立ち並ぶセーヌ河岸を歩く。ショパンの《前奏曲(プレリュード)作品二八》の二十四曲がつぎつぎに心に甦ってくる。そうしているうちに足取りは速められエッフェル塔への橋を過ぎ、ジェラール・ド・ネルヴァルが一八五三年に運び込まれた精神病の診療所があったことを思い出した。かつて『シルヴィ』を何度も読んでいた少年時代の自分を顧みた。「私」は読書の好きな若者で、読むことを禁じられた本の書棚もあったが、父の書斎からホラティウス、マルティアリスはおろか、ジョルダーノ・ブルーノ、ジローラモ・カルダーノ、ジャーコモ・カサノーヴァ、プローティノースまで見つけたのである。「最後の作家の、少年に宛てた危険な手紙」までも父は所有していて、大人になってから「私」に説明したのであった。スクリャービンの《ピアノソナタ第十番》の悪魔的で異教的な悩みを、ひどく掻き立てる音楽であったが、言葉を必要としないから許されていた。ネルヴァルの『シルヴィ』は、音楽的物語の破片であるショパンの前奏曲と同様に「私」を魅了していた。ネルヴァルがリストと会ったことは記録されているが、リストと同時代のショパンがネルヴァルと会ったことはないだろう。しかしお互いに名前は知っていた可能性が高い。『シルヴィ』にショパンは熱狂したのではないのか。なぜなら「未解決の部分を含んでいたから」。数日前訪ねてきた友人の言うように、「私」は、ネルヴァルが病んでいた同じ病に冒されているのだろうかと思う。シテ島が眼前に姿を現してきたとき、日が暮れていて深い疲労を感じた。家に帰り、自由に楽譜を選び取れる書棚を見て不安も疲労も消えた。

   五
 
一九七八年六月二十四日早朝、差出人の記載されない一通の手紙を受け取ることになる。「いっさいの世俗的な触れあいを絶っていたが、まだ研究に没頭できずにいく日も当てもなく歩き回っていた。しかし苦しみや不安は消えかけていた。差出人の不明な手紙は恐怖を覚えたが、読むうちに謎は消えていき至福の感覚さえ味わえるようになっていた。手紙は例の謎のロシア人であった。丁寧な裏側には威嚇が張りついてゆすりに手馴れた男であることが読み取れた。カフェで知り合いになった娘が次の朝「私」の家を出るところまで目撃している。「私」を尾行していることまで知らせている。この手紙から与えられた傷は今でも痛む。

 低俗な人間のために自分が窮地に立たされ、自分の創造力を阻まれ、自分が生み出そうとしていた完璧な世界を、すなわち演奏されるべき姿のように演奏されたショパンの練習曲を、混乱に落とし入れられたことには、我慢がならなかった。(p.90)

 《バラード第四番》の完全な手稿譜は誰も所有していない。世間に流布している印刷された楽譜と違っているなら大変な事態である。コーダの部分が始まる第二一一小節から二三九小節は誰もが当惑させられるのだ。「それらに音楽の原子や微細な部分を理解できればと願ってきた。このページにまつわる秘密をどう物語ればよいのか。このコーダを書いていたときショパンはノアンにいた。ジョルジュ・サンドとともに。ショパンはコンサートが開けないほど肉体は病んでいた。親友のウジューヌ・ドラクロアも数日間過ごしたことのある家であった。《バラード第四番》とドラクロアの絵画の大作の間に色彩に関してある種の対話があると「私」は絶えず考えていた。サンドは凡庸な作家でショパンの音楽をほんとうには理解していなかったと「私」は考えている。ドラクロアはショパンを理解していた。おそらくノアンに出入りしていた人物はこのバラードを何度も聴いていたに違いない。ショパンは自ら弾いているうちに何度も書き換えようとしたであろう。ショパンとドラクロアはお互いを真の友人と見なしていたが、相手の芸術の細部を理解していたかどうかを「私」は疑う。「私」はドラクロアの絵が好きである。「あの豊饒な色彩の海に溺れる感覚」が。ルーブル美術館には「二つに引き裂かれた、ショパンの肖像画」が展示されている。「私」の祖父は一八七四年の競売でこの絵を落札しようとして入手しそこねたことがあった。(祖父は素人のピアニストでリストの前でピアノを弾いたこともあり、ドビュシーとも親しかったと聞いている。「私」が生まれる四年前に他界していた。)ドラクロアはサンドの欠点を、ショパンの方は天賦の才と偉大さを見抜き描いたのではないかと考える。「私」があのバラードを愛するのは私自身に似ているからだと告白する。「自制心と熱情、理性と狂気、そして最後に到達する神秘。それらの総体といってもよい。」いく年か前にショパンは《前奏曲作品二八》を完成していた。マヨルカ島での辛い経験をショパンに思い起こさせる。サンドの語るショパンは、「幻覚に囲まれ」た「忌まわしい病人」である。若手ピアニストの練習曲集を聴いても、「彼らの演奏が練習以外の何ものでもない、と感じてきた。」前奏曲集も聴いたが、「冷ややかに弾かれる」だけで、「日々、苦しみ、咳き込んでいたショパンの、あの絶望の気配は、とうてい感じ取れなかった。」そのような演奏になってしまうのは、彼らが技法の妄執の虜になっているからである。グレン・グールドがそうであるように。彼はショパンを弾かなかった。トロントの風景はバッハの風景にふさわしいだろう。もはやそこには修道士も亡霊もいないから。
 「私」の妄執はモスクワに、ロシアの風景にある。ロシア人はショパンを真に理解したためしはなくてもである。ショパンはバラードをホーランドの国民詩人、ミツキェヴィッチの詩行に想を借りた。ロシア人は侵略者である。「侵略者には、バラードが孕むポーランドの精神を理解できない。」ロシアの圧政下にあったホーランドはショパンの苦しみの種であった。にもかかわらず、ロシア人のひとりが《バラード第四番》の手稿譜を保有しているとは奇怪なことである。「だが、なぜ、一度は失われた手稿譜が発見されたのか。「私」はそれを熱情で繫ぎ合わせ再構成したようと「当惑するばかりの熱狂とともに、神秘を暴きたい、と思い立った。」それにはあのロシア人と会わなければならなかった。彼にあって手稿譜を見せてもらい、本物かどうかを確認しなければならなかった。本物であるかどうかを調べるには、ショパンのことなら何でも知っている、ロンドンにいる古い友人と会わなければならなかった。

   六
 
小説『ショパン 炎のバラード』の第五章は、翻訳本の帯の裏面に「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」と記されるにふさわしい部分である。一般の読者はそういった展開こそ興味をそそられるものであろう。登場人物によって明かされる話においてであり、全体的に多くを占めていないとしても。しかし、この小説はミステリーではない。ひとりのピアニストの心の葛藤を主題にしているのだ。つまりミケランジェリというピアニストに関心をもったことのある人であれば、奇人とさえ噂された演奏上の完全主義とはどのようなものであったのか、なぜ彼が私たちの心を打つのかを考えさせる小説ではないかと私は考えるのだ。とはいえこの小説は芸術論や音楽批評ではない。ピアニスト本人が告白する自伝でもなく、綿密な調査を尽くして書かれたものであっても虚構を駆使した小説である。主人公のピアニストが作品の異稿にこだわらなければならない以上は、その行方はストリーを要求することになる。
ロシア人が所有すると語るショパンの手稿譜の真偽を確かめるため、「私」はロンドンに住む友人を訪ねる。ボストンで生まれたアメリカ人であるが外交官の父に連れられてロンドンに住み始め、その後イギリス国籍を得た男である。「私」がそのジェイムズと名のる人物(仮名で語ることを「私」はつけ加える)と知り合いになったいきさつは、ロンドンで美雲か担当官をする、母方の叔父がジェイムズの父と親しかったことによる。「私」より四歳年上である。若いころ将来を期待されるピアニストであったが、叔父から伝え聞くところによると、「二十歳を過ぎたころ、彼は強烈な精神の枯渇に襲われて、音楽から、一挙に、遠ざかった」という。別の人が語るところによると、登山中の事故で障害を及ぼす後遺症によりピアニストを断念したということであった。今は二年前(およそ十五年前)に亡くなってしまったが、そのころの彼は音響再生装置に関心をもち世界中から機械を蒐集していた。それらの中には精巧を極めた機械があり、リヒャルト・シュトラウス、グリーク、サン・サーンス、スクリャービン、マーラー、ブゾーニ、ドビュシーなどの演奏を再現することができた。ドビュシーを聴かせてもらったときは、彼が自作を弾く作曲家となったのではないかと怯えさせるほどであった。

私は、作曲した者の権威や、その正当性を確立する者の権威に、怯えやすかった…(略)他人によって書かれたもの、与えられたページを、無限に解釈し、説明することならばできる。ベヒシュタイン(自動ピアノ)は、要するにジェイムズの裏返しだった。(p.107)

ジェームスの書棚にはさまざまな作曲家の手稿譜の写真版や複製版が収納され、それらの資料集をまとめ仕事をしていたのである。彼は「私」にショパンの《バラード第一番》の古い話を話し始める。資料を棚の最上部に梯子を使って取り出し示し、「私」に読ませる。たった二ページに過ぎない、このト短調の楽譜の手稿譜がとんでもない高値で売りに出され、彼の友人のコレクターが買い取ろうとしていたが、それを見せてもらった彼はそれが贋物であると見抜いたというのである。真贋を見分けるには内容を理解していなければならないという。「音符の配列のされ方」、印刷された楽譜をまるで写し取ったかのような書き方から贋物であると判断される。ジェームズは別の、《マズルカ作品五九の三》の自筆稿の写真を示し、インクの染み具合や紙の汚れや歪みなどを指摘し、本物であることを指摘する。そして話が「私」にロシア人がもちかけている手稿譜にまで及ぶのであった。ショパンの楽譜を知りぬいている「私」に売りつけようとする危険を侵すものは一体誰なのかと彼は疑問視する。さらに一ロシア人がなぜ親しい友人でさえ、いやヨーロッパ中に秘密にされている「私」の住所を知り訪ねてきたのか、《バラード第四番》の完全な手稿譜がなぜ存在しないのか謎だと「私」に語った。不完全な手稿譜は二つ存在している。一つはニューヨーク、もう一つはロンドンのボドレアン・ライブラリーにある。後者はメンデルスゾーンの妻が所持していたものである。偉大な音楽家がその一部を受け取るなどということがあるだろうか。それに対して「私」は異議を唱える。ショパンは初め四分の六拍子で書き始めたが、その後八分の六に変更して書きつづけた。初めに書いた楽譜はそのまま残り、友人が見つけ大切に保有していたにであろう。ニューヨークにある手稿譜はそれで説明がつくが、ボドレアン・ライブラリーの手稿譜は第一三六小節までしか残されていないことの説明ができないし、それ以降の手稿譜はどこにあるか知られていないのだから。
 ジェイムズは一人の人物の名を口にした。フランツ・ヴェルトというピアニストで、ナチスの犯罪人であり、一九四五年、ポーランドの人の恋人と、チリのサンティアゴに身を隠したという男を。彼は「美青年で、魅力的」であり、ベルリンで多くの人々にもてはやされていた。彼は「特権的な階級を通じてのみ、近づきうる文化に弱かった」。サンティアゴではバウアーと名のった。ベルリン時代、ヴェルトは宮廷のピアニストになり、ナチスの重要人物たちと交友を結んだ。ジェイムスの友人は彼のコンサートを聴いて当惑したという。「なぜならピアノによる霊媒術は彼の(ヴェルト)の諧謔精神を刺激し、興味深いものに思われたから」。ヴェルトは秘密の手稿譜を知る機会をもっていたであろうと「私」に語った。その手稿譜の中にはモーツァルト、リスト、メンデルスゾーン、バッハ、ヘンデルなどの未発表作品があったし、ショパンのものもあったであろう。しかしなぜベルリンに辿り着いていたのかは解明できない。ナチスがパリを占領した後にベルリンに移された可能性はあると語った。
 現在の「私」は、当時ジェイムスが知りえなかった、ヴェルトに関することを知りえている。先述したポーランド人の恋人はクリスティナといい、ともにベルリンを発ち、デンマークに行き身を落ち着かせ、それからオスロに移り、ロンドンに移り数日間滞在しダブリンに行き、そこから大西洋を渡った。後にクリスティナは別の男と駆け落ちした。そのとき彼女はヴェルトがもっていた手稿譜を持ち出してしまった。彼女は(一九七六年にブエノスアイレスで死んだ。ジェイムスはその手稿譜を探そうとしたが徒労であった。ロンドン滞在時にヴェルトは手稿譜を売らなかったのであるから。「私」にわかったことは、バラード四番の手稿譜はどこにでもありうるということであった。実際、手稿譜の多くはベルリンから持ち出されモスクワに渡ったのである。あのロシア人が言ったのは嘘ではなかった。バラード四番の手稿譜は、「パリから盗み出され、ナチスによってベルリンに運ばれ、ベルリンから赤軍によってモスクワに移された」のである。あおのロシア人はそこから手稿譜をもう一度パリに持ち込んだのである。
 ジェイムスの部屋には一九二〇年代のものであろう、スタインウェイのグランドピアノが置かれていた。

時どき、何かを弾いてみたりする。だが、ある日、不意に魂を奪われて、わたしにはその影だけが残っているようなものだ。それゆえ、すでに知っている音色の、あとだけを、たどっている。回転する円盤に刻まれた物音を。あるいは、どれだけ優秀なピアニストであっても、そこまでは決して解けなかった謎を。いわば、不意に、その意味を自分に明らかにしてくれるような、沈黙のページを。(p.127)

ジェイムスの独り言のような語りに「私」は一言も返さずピアノのまえに腰を降ろす。譜面台には《ノクターン作品九第一番変ロ単調》が開かれてあった。ノクターン集の最初におかれる曲である。「技術的には非常に単純であるがゆえに、危険なものであった」と主人公の「私」は考える。私自身もかつて弾いたことがあるノクターンである。遥かなものに寄せる思いが静かに始まり、それが記憶をこちらに現出させる奥行きをもたせて、旅をするときの想念に満ちあふれた曲という印象をもつ。「私」はジェイムズの前で弾き終えると、しばらく沈黙が二人のあいだに訪れたが、それを破るようにジェイムズは楽譜の十五小節目が始まる四小節を指でたどった。フォルテ・アパッシオナート(強く熱情的に)から始まりクレッシェンドがきて、コン・フォウツァ(力をこめて)の部分である。
「魂を両手から失うとは、どういうことか、ご存知ですか?」とジェイムズは言った。右記した小節に正しい解釈を与えられないことであるという。そういう状態は憂鬱(スプリーン)である。「憂鬱が、いわば不意に襲ってきた炎のように、精神と肉体とを一挙に包みこむこと」であるとジェイムズは語る。彼の蒐集した「魂がない機械仕掛けの怪物」を「私」は眺め、「ある日、わたしは魂を奪い取られしまったらしい。その影だけが、わたしには残されている。まさにそれと同じ音を、たてているのです。ロールに刻まれた音を、わたしは……」と口にはしなかったが、「私」は彼の言おうとすることを理解したように思ったのであった。



     後編(七~十三)につづく。『ヒーメロス』20号に、全編一挙掲載されています。


書評「情念のエクリチュール」後編)小林稔 「ヒーメロス20号」最新号から転載。ショパンの評伝的小説。

2012年04月22日 | ショパン研究
書評
  情念のエクリチュール(後編)
   小説『ショパン 炎のバラード』ロベルト・コトロネーオ 河島英昭訳 集英社2010年十月刊
  
  小林 稔

 十一
 
互いにまったく異なった二つの世界があるというだけで異常というべきだ。しかも双方が偶然によっ
て支えられているとは。(p.256)

ショパンの真の誕生日とさえ伝記作家によって語られるニ月十七日は、《バラード四番》のフィナ
ーレを書き直した日である。その百年後にアンドレイ・カリトノヴィッチが逮捕されたのであったが、
彼は、「愚鈍な警官たち」を「軽蔑した微笑を浮かべながら見守っていたにちがいない」。体制側の
執行計画に則した警官たちは、理解不能な「あるドラマの進行」に手を貸していたのである。「私」
になにがしかの金と引き換えに手稿譜を与えたエヴゲニーも同様に動かされているのだ。偶然が「筋
書きを生み出し、構築物をつくりあげ、おそらく、たいした意味をもたなかったものに対しても、そ
れなりの意味を付与してきた」。数年前、「私」は「私のソランジュ」のために《バラード四番》と
最後のマズルカを弾いたが、「私」の演奏を賞賛することはなかった。彼女は「私」の肉体だけを捜
し求めたのであった。「私」は混乱した。改めてバラードを弾き、「最初の版のほうが良かったので
はないか」という結論に達した。ソランジュのわがままが書き返させたのではないかと思うようにな
った。
 母は愛するアルトゥーロ叔父が亡くなったとき、あまりの悲嘆に明け暮れ亡くなったのだと「私」
は信じている。父はそれでも苦しみに堪えながらも母を愛しつづけていたが、父は叔父のことも愛し
ていたのである。父は、叔父が才能のあるピアニストであることは認めていた。二重の苦しみのなか
で父は髪は白くなり抜け落ちていった。その三年間のあいだに「私」はショパン・コンクールへの準
備をしていた。父は沈黙を募らせていたが、ある日、「私」が弾く《マズルカ・へ単調》に耳を傾け
た。かつて母が父のために弾いていた曲であろう。「私」が鍵盤から指を離し弾くことを中断したと
き、父の心を乱してしまったことを知った。再び弾き始めたのだが、ちちは扉の向うに消えて、帰っ
てくることはなかった。ショパン・コンクールで「私」が演奏したのも、あの日に弾いた《バラード
四番》と《マズルカ作品六八の四》であり、扉の影で聴き入る父の姿を見つけ近づいていく前に姿を
消したのであった。父は叔父を一つ屋根の下に住まわせていた。「三者三様に味わった恐怖」。コン
クールに優勝し、「私」の名は世界に広まった。レコード会社との契約、二年間分の演奏日程が決定
された。しかし直後の戦争が「私の心に深い苦しみをもたらし」た。兵役の招集を避け、イタリアを
離れスイスに移り住んだのであったが、罪悪感から解放されたのは、イタリアに帰りパルチザン部隊
に参加してからであった。
 ある晩のことである。国境から数キロメートルにある集落のある一軒の家で「機械もピアノ線も剥
き出し」のピアノに出会った。「私たちのグループ」の最年長者が「私」に弾いてみるように命じた。
指を試しに置いてみると、調律がしっかりしていることが分かった。「私」はすぐにショパンのワル
ツを引き始めた。踊りだす者もいて、チャールストンを弾いてくれという声が聞こえたが、「私」は
応じなかった。ピアノを弾くのは二年ぶりであった。次にブラームスの狂詩曲を弾き始めた。周囲は
静まり返り、「私」を自分たちとは「別の存在」であるかのように見ていた。夜が明け始めて、寒さ
が募っていた。「私たち」は三百名のパルチザンと国境を越えスイスに逃亡した。数ヵ月後にミラノ
に帰った。一九四五年六月。あの夜、「私」が弾いたピアノに耳を傾けた人々は、その後さまざまな
人生を歩き出していたであろう。「私」はスイスの山荘、「ニューヨークとロンドンとパリの中間点」
にいる。あの「私」が生み出した音楽は「私の魂を、私の精神を、私の才能を剥き出しにした」ので
あり、「開かれた大きな門」を後にして嘆きとともに、人々との壁をつくったのである。父でさえ
「私の才能に当惑して」扉の蔭に隠れたのだ。しかし母はそれに耐えた。「なぜならば、私の才能の
うちに、母は叔父アルトゥーロの敗北を見抜いたからである」。母の復讐、母を拒んだことに対する
復讐といえるものであった。矛盾する感情を母は手紙に書き留めた。母の死後、それらは発見された
が、叔母の一人が焼き捨てた。暖炉のなかで燃える手紙の束を見つめながら、「私」は時を遡って、
ジョルジュ・サンドがショパンに送った手紙を自ら焼却したことを思い起こした。
 一八五一年、アレクサンドル・デュマがホーランドのシレジア地方でショパン宛のサンドの手紙を
見つけた。サンドがショパンの姉ルイーザに持ち去るように託し、ポーランドに運ばれたのであった。
なぜサンドはそうしたのか。ルイ―ザはなぜか身辺に置かず友人に渡してしまった。そこに辿り着き
手にしたのがデュマであり、サンドに知らせたのである。サンドの反応はどのようであったか。

わたしの人生のなかでも九年間を、満たしつづけた母親の情愛が、どれほどのものであったか、おわ
かりになったでしょう。確かに、それらの手紙のなかには、秘密にするべきものなどなく、どちらか
と言えば、まるでわが息子のように、あの高貴な癒しがたい心を、大切にし、かつ優しく慰めたこと
こそ、恥ずかしさと共に、わたしの誇りとすべきものでしょう.。(p.265)

 これら母とサンドの手紙の焼却の近親性を「私」は絶えず考えてきた。サンドは大部な書簡集を残
している。ショパンに送った手紙はすべて焼却している。秘密にすべきものはないとはいえないので
はないかと「私」は思う。二人の手紙が溶け合い、ソランジュに似た「もう一人のソランジュ」と出
逢ったことで「私の人生を決定的に混乱させ、私を驚愕に陥れ、ほとんど赦しがたいほどの感情のう
ちに、あの窓辺の狂気に、私を対面させたのであった」。
 あの夜、「私のソランジュ」はピアノに近づくことはなかった。別れの気配を「私」は感じ取って
いた。「あの慎みぶかい官能的な態度のうちには、遠い日に感じ取れたものと同じ、あの隔たりを、
読み取ることができた」。

この世界との係わりの一切の可能性を断ち切るために、ピアノが私から離れて、関係を終りにしてし
まうのではないか、と恐れを抱いたときのときの気配に似ていた。そうなれば、私こそが私の道具の
犠牲者であった。(p.267)

 ショパンはソランジュのために《バラード四番》のコーダを書くことができた。しかしソランジュ
には弾くことができなかったにちがいない。「彼は自分のピアノを彼の感覚の簡単な道具に、移し変
えることに本当に成功した」のである。したがってソランジュには「沈黙の、音にならない、音楽に
ならないものとしてのみ、残るであろうと知りつつ、そうした」というほかない。「私」はかつてあ
るジャーナリズムに言ったことがある。

 ピアノが、演奏家と聴衆とのあいだに存在する、仲介者であることを、考えてみてください。私の
驚異的な技術が、わたしの道具を、自立した何ものかに、私の統治を越えた怪物に、変えてしまうこ
とが、しばしば生じるのです。ついには、それ自体に、生命を吹き込んで、それ自身を、真の主人公
に変身させてしまうのです。(p.268)

 もはや芸術家の孤絶というべきものであろうか。いかなる表現であれ伝達すべき他者は存在する。
一人の人物に愛を捧げるべき情念が、芸術の形式を取るときには単なる愛の表現を超え出て普遍性を
獲得する。それゆえ対象者(愛される者)は芸術家の視線が自分に注がれていないことを知り嫉妬に
似た感情に捉えられ、自尊心を損なわれたと思うのである。それでは芸術家は誰と出逢うのだろうか。
芸術を思考するもう一人の芸術家である。「何という皮肉な調和か! 私だけが、あの困難極まりな
い、激烈なパートを、演奏できるとは」。しかし、「私のソランジュ」にパリのカフェで出遭えたと
はいえ、「私はピアニストという調和の函の内に、それを閉じこめてしまった」。ショパンを惑乱さ
せた悪魔たちのように。
 「私」はいま、スイスの山荘でこれまでの人生を回顧している。自分を自分から引き離す生活に耐
えられずに、森のなかをさまよい歩く。最近はドビュッシーを選んで弾いた、「計算ずみの不調和な
彼の情熱が好きなためであり」、「私の心の奥底には触れないから」である。稀に応じるインタビュ
ーではモーツァルトやスカルラッティやベートーベンであるが、ショパンは語らない。「なぜならば、
私には分かっているから、ショパンが私を待っていることが。最後には、私が彼のことろへ帰ってい
かねばならないことが」。
 「私」は夢の中にいた。恐ろしい静寂。いく年かまえ、スイスとイタリアの国境近くのゴンド峡谷
の五百メートルの絶壁の上にいた。「谷底は深く、暗くて、そこに幾条(いくすじ)かの道が走ってい
た」。空想の登山家たちがこの岩を登ってくる光景を思い起こした。「私」もまた《バラード》の二
番、四番の困難な部分を弾きこなしたのだから、彼らと同じといえた。クラウディオ・アラウは悪戦
苦闘して登っていた。ルビンシュタインはあらゆる困難を克服していた。彼らは老練なアルピニスト
で、「深い経験のうえに築いた、熟練の技法を駆使して、苦しみの果てに、難攻不落の絶壁を、彼の
体力の限界を超えつつ、征服してみせた光景を、目のあたりに見るような気がした」。一方で、彼ら
の中にもう一人のアルピニストがいて、完璧な動きは「自然が生まれながらに彼に授けた、天賦の才
というものであり、「岩場を生み出した自然と同質のもの、同じ才能を駆使して岩場を征服するのだ
から、子供の戯れに等しい」といえよう。「私」はその中間に位置する者である。絶壁の頂上に達し
たと思うや否や第一段階に過ぎないことを知る。《バラード四番》が示す絶壁は、その先もつづき、
想像を絶するものであろう。ショパンはいかにしてあの絶壁を登ったのか。ルビンシュタインは? 
アラウは? コルトーは? 「ショパンはあの壁を築いて、造りあげ、創造してみせたのであり、そ
の挙句に、私たちにあれを残したのだ」。
 フランツ・ヴェルト、アンドレイ・カリトノヴィッチ、そして「私」の三人が、記憶の内部に閉ざ
されたままになってしまい、「聴衆の前で弾くことができなかった楽曲」を、ショパンは「ソランジ
ュを連れ出し、賛美させた」のである。「私」が入手した手稿譜は、「私」とショパン、「私」とソ
ランジュ・デュドヴァン、「私」と「私」の母、「私」の父とのあいだの、さらにアルトゥーロ、ア
ンネッタ、ヴェルト、カリトノヴィッチ、エヴケニー、ジェイムス、そしてアラウとのあいだの決算
書といえるのだ。戦争が「私」の二十五年間を閉じこめてしまった。あの古い物語は私的な内容であ
るゆえ人前では語られるものではない。しかし「私のピアノ」こそが意味を付与するものであり完結
させるものであった。母も叔父もピアノを弾いたが、父は弾く人ではなかった。それは「彼の人生の
悲劇であった」。ソランジュに対するショパンの、叔父に対する母の、「私」に対する母の、エフゲ
ニーに対するカリトノヴィッチの、カリトノヴィッチに対する老教授の、それぞれの情念は「私」を
襲い、全体が結びつけられたとき意味をなしたといえる。それを、「私のソランジュ」が家を出て行
ったその朝に理解したのであった。彼女は戻ってくるであろう。
 手稿譜を入れてある抽き出しに写真を入れた封筒が保存されていた。「私の赤ん坊のころの写真」、
十一歳のときのピアノに向かって腰かけている「私」の後ろに母は立っている写真、それらの写真の
裏には、「アルトゥーロから」という文字があるので、叔父がファインダーを覗いたことが分かる。
母の視線は生涯、叔父を見つめたひとつであった。それぞれの「宿命の事件」がいっしょになって、
「この宇宙の神こそはまさにヘ短調の和音である、という考えに近づけてきた」。欠けているものは
「私のソランジュではなく、彼のソランジュであった」。あの手稿譜の情念の筆跡をいかに解明でき
るのか。見出されるのであれば「私の物語をひとつにまとめることができるはずであった」。ヴァン
ドーム広場には、「偉大な作曲家フレデリック・ショパンここに死す「という碑銘がある。瀕死のシ
ョパンのまえにソランジュは行かなかった。彼女の夫である彫刻家クレサンジュは、ショパンのデス
マスクを取った人である。「ペール・ラシューズ墓地のショパンの墓を飾る彫刻も彼の手になるもの
であった」。ソランジュからショパンに送った手紙や日記や手稿譜は後に姉のルイーザによってポー
ランドに移されたが、一八六三年、ロシアに反乱を起こしたコサック兵によって焼却されたと思われ
たが、手稿譜だけが奇跡的に焼かれなかったのである。

  十二
 
この小説『ショパン 炎のバラード』の記述を一章から読み進んできたが、時間軸が行きつ戻りつし
ているのは、全編が晩年における人生の回顧の上に成立しているからである。その契機は、十数年前
のパリ滞在時、ショパンの手稿譜を入手したことにある。それまでの音楽に対する思いに修正を迫ら
れてくる心理的過程が描かれ、過去の時間の意味が問われていくのである。
 「私」が「自分の過去を精一杯に私の音楽に詰めこんできた」録音の時間は十時間ほどに過ぎない。
アラウやルビンシュタインやマガノフは「山のように不出来な録音を、残してしまった」。CDでは
なく「七十八回転の、あの引っ掻くような、しわがれた声の混じった、最初に録音したときのままの
音を聴きたい。あの絶え間ない、底から湧いてくる音。あれこそは、音楽における時間の深さ、人生
と過去の深さ、人生と過去の
静けさを、伝えてくるものだ」と思う。
 《前奏曲集》にみられる未完の様相は、比べられるものにフィレンツェのメーディチ家礼拝堂にお
けるミケランジェロの彫刻群だけがある。全二四曲の最後の作品《前奏曲ニ短調》をコルトーは、
《血と逸楽と死》という言葉で規定した。荒あアラウはいう「《前奏曲集》の最後の決定的瞬間は、
まさに、荒れ狂う海の嵐だ。その後で、人生に残された大きな熱情を味わうことは、もはやない」。
「私」が近い将来の仕事に選んだのは、「《前奏曲集》がまさに、《バラード》の正反対に位置する
からだ」。最後の《前奏曲》は「宙吊にされた叙情を封印するものである」。そして「《バラード第
四番》のコーダの先触れをなすもの」である。病状が悪化し、マヨルカ島から脱出できないのではな
いかという恐怖が引き起こした未完結の構成を強いた。《バラード第四番》(むしろ「私の《バラー
ド第四番》」は、「速度を緩やかにしようと努める、漕ぎ手のものであり、たとえ虚しくとも、流れ
の力を宥めようとするものであり、最後には、勇気をもって急流に立ち向かうもの」である。
 「私」は年をとりすぎている。あの手稿譜以外は見ないようにしている。それは「私の生命の本で
あり、ショパンとあの時代に対する、私の妄念の書のようなものである。さらに私が関係してきた女
たちのための書物であり、誰とも心を通わせるすべを知らずに終わってしまった」。「私は肉体とい
う言語を偏愛してきた」のである。ソランジュの手紙も、母の手紙も焼却されてしまった。「私」に
は手稿譜に刻まれた筆跡を追い、楽譜を追って「恐れ戦くものまでも、見出していくしかなかったの
である」。
 「私」は「音楽を命ある何ものかとして取り扱ってきた」。今日のピアニストたちは、譜面に書か
れているだけのものを弾いて、事足れりとする。残りの仕事をするのは、むしろ音響の技師たちにな
るだろう」。「私の世界は、もはや誰にも分からないコードの世界に、つまり、失われた事物によっ
て成り立つ世界に、転落してしまった」といえよう。現代では精神性の探求を思考する芸術家は少な
くなった。「私は一切の幻想を擲った」。「情念の筆跡」が存在するとき、「私」は、それを解読で
きる、つまり音楽として演奏できる最後の人間であると自負している。
 「ファの一つが、どうしても思うように響かない。かすかな摩擦音がする」。調律師は「私」に言
った、「あなたは不完全な音色を望んでいるのではないか」と。「私」は納得するに至る。「いかに
も、かすかな不協和音だけが、あの魂の病から、私を自由にしてくれていたのだ」、「あの縺れあう
偶然の運命の絡まりから、私を解き放って」。「世界が、ひとつの音色のうちに潜む、かすかな、不
協和音に過ぎないこと」を知って、初めて安堵を味わったのであった。

  十三
 
ショパンはピアノの詩人と呼ばれている。それはいかなる意味で言われているのだろうか。「詩とは
何か」という曖昧な規定において呼ばれているのであれば、詩というものを探求することなしにショ
パンの本質を解明することはできない。ミケランジェリの音楽に私が何を感受し、自らショパンの楽
曲を弾く経験をするようになったのかを考えてみよう。この小説の作者が「私」に語らせた音楽への
思いに沿って考えてみることができる。この論考の冒頭で述べたように、音楽を別のものに意味づけ
ることは冒瀆であるという考えを整理してみよう。詩人が言葉に喚起され、音楽家は音に喚起される
という相違はあるが、私たちの日常空間において詩想や曲想は把握される。芸術家の関わる人生のす
べてが関与する。しかしひとたび創作が始まると、あるひとつの理想に牽引され、言葉そのものの世
界、音そのものの世界へと精神は高揚するであろう。受容する者、つまり読み手や聴き手は同じ高揚
感を共有せずして共感はない。「理想」と言おうと、プラトンの考えた「イデア」と言おうとそれほ
ど違いないのであるが、ある曲を人生のある情景の表現と考えることで事足れりとすることは、音楽
の本質を見失うことになる。詩を詩人の人生からのみ読み解くことと同様である。ひとりの詩人、ひ
とりの音楽家をつねに超出してしまうものがあり、それが詩や音楽の本質であると私は考える。それ
はある意味で現実世界からの隔絶であり、芸術家に孤独を強いるものである。芸術家を牽引するもの、
それを私は理想と述べたが、具体的には「美」であり、ポエジーと呼べるものであると私は考える。
だが留意すべきは、ポエジーは現実のわれわれの生活の中に訪れるのであり、彼方に求めるものでは
ないということである。先に「芸術家が関わる人生のすべてが関与する」と述べたことの意味である。
私が初めてミケランジェリのピアノに耳を傾けたときに感じ入ったものこそ、ポエジーであったとい
えるのである。詩人は言葉の啓示を解き明かそうとするが、音楽家は言葉以前の原初的な音=声を追
及しつづけるという違いはある。どちらも私たちの足許に訪れ、私たちをポエジーの源泉へと上昇さ
せようと誘うのである。

書評・情念のエクリチュール(中編)小説「ショパン 炎のバラード」ロベルト・コトロネーオ

2012年04月06日 | ショパン研究
小林稔個人季刊誌「ヒーメロス」20号(2012年3月25日発行)
書評「炎のエクリチュール」(中編)

小林稔


   七
 
叶うものならば音楽を高雅な行為のひとつのように、「創世記」の七日間における善き神の賜物のひとつと、私は考えたかった。すなわち音楽を、生き物や植物、太陽や月、星々と共に、天地創造の成果のひとつと、考えたかった。(p.133)

 闇の海に光を放つ星々はなぜあのように沈黙のままに浮かんでいるのだろう。「私」は神の存在を考えてみる。それは一つの声である。「無限の底のかすかな物音」。この視覚で捉えた星々が聴覚で捉えられるかすかな物音を何かの道具でたてるとすればホルンやスキソフォンのようなものか。「できうるものならば、宇宙はひとつの和音をもって鳴り響いてもらいたい。」コルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学について』では惑星のたてる音が記述されている。例えば、土星は「悲しい音」を、金星は「淫らで、淫蕩で、柔らかで、豊満で……といった風に。「私はいつも天体と音楽とのあいだの協和音を、自分の内的宇宙と真の宇宙つまり自分の外にあるものとの協和音を、求めつづけてきた」。偉大な音楽が宇宙の秩序を変える力をもっているのなら、私の向かうピアノの生み出す波動はどこへ消えていくのだろうか。私が知っているのは「この世界の調和が、音楽の調和の、冴えない模倣であることだけだ」。「たった二つの音符の和音」は何百通りもの組み合わせから成る。街路で出会う男女の目がいくつもの組み合わせを生み、葛藤や憂愁を垣間見たりするのに似ている。「音楽は、しばしば、このような対比のうちから生まれる。」幼かったころの故郷の農夫たちの口笛を思い出す。労働を終え家路に着くときに鳴らす口笛を聞いていると、「そこに私の音楽がある」と感じた。「私」がピアノを弾くとき声に出して歌ったがいまはそういう習慣は去った。あのころは生活の中に音楽があったのだ。宇宙にどこにおいても聞こえてくる音を、私たちは追い払ってしまったのである。「それは私たちの自我を守る力が弱まり、私たちの心の扉が開かれて、聞こえてくる原初の物音だ」。
 一概にコンサートといえ、聴衆を身近に感じ演奏されるそれと儀式のようになされる大きなコンサートホールでの演奏とは相違する。後者では、二十世紀にはいってはほとんどがこの環境で演奏が行なわれるが、ピアノ自体の訴えかけが聴衆に大きく作用するであろう。演奏者のコンディションが鍵盤に微妙な変化を生じさせてしまうのだ。多くに批評家はそんなことはお構いなしに演奏された作品の質を問うのである。
 パリに来るとき、数百冊の書物だけを運んだ。そのほとんどは古典であり、文学作品であった。音楽に関する書物は除外した。楽譜がすべてを物語ってくれる。ある楽譜を読んでいたとき、不意にレンヌ通りのカフェであった例の一夜を共にした娘を思い起こす。捜し出そうとすれば可能であろう。「私」はどんな「ロマン派の幻想」を作り上げようとしているのか。
 「なぜバラード四番は違っているのか」。終結部でショパンは何を創り出そうとしていたのか。公式に印刷されたバラード四番が公刊されたときショパンは心身ともに健康であった。「肉体の状態は悪化の一途をたどっていたが」。

 ぼくの手稿譜には、何の価値もないが、もしも失われたりすれば、ぼくには莫大な労力を必要とすることになってしまうだろう。

友人のクジワらに送った手紙からショパンがどれほどこの作品にこだわっていたかが理解される。手稿譜は失われずに種パン者に届けられ印刷にまわされたが、それとは別に異稿付きのバラードを出版しようとしたが間に合わなかった。ショパンの生涯最後の数ヶ月に主要作品の見直しを始めた。バラード四番の終結部を再検討しようとしたに違いない。それを強いたのはジェイン・スターリングという女性であった。ジョルジュ・サンドとの破綻後、ショパンを支えた人物である。彼女の書類の中でショパンの作品は完璧に整理されたのである。バラード四番は作品52と記される。書き出しはショパンの真執であるといわれる。この二小節の筆跡に「私」は躊躇の気配を探した。「もしかすると、偉大なショパンは、まだ若くして、おそらく老人のような震えに襲われ、わずかにこれだけの、音符を書きつづけるのさえ、大変な苦労を必要としたのかもしれない」。作品を見直すには肉体的にも大変な労力を必要としたのだ。「私」はバラード四番の終結部の異稿の手稿譜を、情念の筆跡を見たいという欲望を捨てきれずいる。そのことは、あのレンヌ通りであった娘と関係があるのだろうか、と自問しながら、「私のバラード四番ヘ短調、作品五二」を求めることになる。ドラクロアの肖像画に描かれた帽子をかぶった人物に重ね合わせる。「あの女にふたたび会わないうちは必ずや、あの楽譜を見出すことはないだろう」。とはいえ、あのロシア人の共犯者であったり、なにかかかわりがあるとは考えているわけではないが、「私が探し求めている情念の筆跡」の謎の扉を開けてくれる女性」であることを勝手に願っているに過ぎない。つまり「私」にはショパンの自筆譜とその女性への愛はどちらか一つだけを手に入れることではなく一つにつながった欲望であった。過去の音楽のページとして「ロマン主義の燃えかすに、生命を吹き込むためではなく、一つの物語に情念の火を放つことである」。

私の創り出す音の背後に、私こそが永遠に生きたかったのである。(p.151)
 
グレン・グールド。三十歳でコンサートを封印し、レコードの録音に専念したグールド。彼のレコードからは彼自身の唸り声が聞こえてくる。後世に録音テープだけが残された。「レコード盤のなかにいることを思い出させるための、それはひとつの方法だったのである」。しかし「私」はそういうタイプのピアニストではない。「楽器から発せられる音波こそ神聖なものである、と教えられ育ってきた」からだ。とはいえ、自分の録音に耳を傾けると、ピアニッシモになると、かすかに息づかいが聞こえてくる。音楽とピアニストとの深い関わりにおいて、「私」が虚しく探し求めている女性は、「私の精神の縺れ」など到底知るはずもない。「私」は理解したのだ、謎を解く鍵はすべて私の側にあったのだと。
 
 どの楽譜を介在させれば、あれらの日々の私の生活を、読み取ることができたのであろうか?(p.153)

「私」はユングフラウを見渡すスイスの山荘で十数年前のパリでの生活を追憶している。「私自身こそが決断すべき存在であったとすれば、いまや私自身が不確かなものと願ってさえいたあの記述のうちに、死に瀕していた、消耗しきっていたショパンの何を、私は見出そうとしたのだろうか?」当時の私の人生は、「まだ私の知らなかったヘ短調と等価物であった」。あの終結部の異稿は百五十年前から「私」を待っていたのだ。その手稿譜はショパンの友人から私の知らない他の人物の手に移り。ベルリンへ移って、「この曲から何一つ取り出せなかった人々の手によって演奏された。その後に、モスクワに渡り、何人かの臆病で、かつ秀れた、ピアニストによって演奏されたであろう」。そこからふたたびパリに戻ってきて「私」を待っている。「私」はそれに向かって存在のすべてをもって受け入れようとしていたのである。

   八
 
ソランジュ・デュドヴァンという名の娘はジョルジュ・サンドのわがままな娘であったという。執筆で忙しかった母親の代わりに乳母や祖母に養育された。成長し女性的感覚が見え始めると、母親は男仲間から引き離すため修道院に入れた。一八四五年、ソランジュが十七歳になったころ、彼女とショパンの関係は親密になったといわれる。多くの伝記作家は、ショパンとサンドの破綻の原因をソランジュへの愛として描いている。ソランジュにはモーリスという兄がいて、ショパンとの関係は最悪であった。サンドが病弱のショパンに厭き疎んじていたころ、ソランジュはショパンを気遣い始める。ソランジュとショパン対サンドとモーリスという構図ができていたのであった。ソランジュがクレザンジュという彫刻家と婚約したが、ショパンは「知的であるが、厚かましく、我を通す」彼を嫌っていた。一八四六年の夏、ショパンはノアンで過ごしたが、翌年からは招かれなくなった。クレザンジュを快く思わないショパンに、ソランジュは結婚式の招待状を送らなかった。ショパンはソランジュとの交友関係を続行させたくクレザンジュに対する考えを修正しようと努力する。一八四八年九月九日、ソランジュに会うために一通の手紙を書く。

変ロ短調のわたしのソナタ(第三楽章は《葬送行進曲》)をイギリスの友人たちに弾いていたときのことです。突然、ピアノの半ば開いた蓋から、呪われた者たちが立ちあがるのを見ました。それらは、ある陰鬱な宵に、修道院で、わたしの前に現われた者たちです。一瞬、その場をはずすべきでした。が、やがて、何も言わずに、わたしはまた弾き始めました。(p.160)

 一八四九年初めに、ショパンはバラード四番の終結部を書き直した自筆譜をソランジュに贈った。十月十七日にショパンが亡くなる数ヶ月前、健康状態を一瞬取り戻したショパンは多くの手稿譜を焼却するため暖炉に投げ入れた。「おそらくバラードの修正は一八四九年の初めの数ヶ月に成ったと断定できよう」。バラードが自分に献呈されているのを知ってソランジュは喜んだが、終結部の変更を見ていなかったであろう。
 
「私」はレンヌ通りであった娘にソランジュを重ね合わせていた。「人生には、しばしば小説のような奇妙な関係の生じることがあるものだ」。それには、例のロシア人、バラード四番の自筆譜を所有している男の介在がぜひとも必要とされるのだ。
 ある暑い日の午後、「私」の自室の窓辺に凭れ、視線を落すと、偶然にも「私」を見上げているあのロシア人を見つけた。「擦り切れた革製の古いカバンを、彼は両腕にしっかりと抱えていた」。「私」は怖れから身を退いた。カバンの中には凶器がしまわれているのかもしれない。手稿譜などなく「私」から金銭を奪い取ろうとするだけなのかもしれない。しかし不安は一瞬のことで消え去った。「それは、演奏会で、ピアノに向かってすわる、一瞬まえの、あの威厳にみちた、私の姿と同じものでありたかった」。窓辺に進み出て見たとき、男は「私」をじっと見た。「私」はうなずき、階段を上ってくるように合図をする。「私」の少し冷たい態度に当惑した様子であったが、広間に入るなりピアノの譜面台に広げた譜面の「私」の書きこみを覗きこんだ。わずらわしく思った「私」はソファーのある窓辺の方に誘導した。バラード四番が公式に献呈されているのはロスチャイルド男爵夫人であるが、修正した楽譜はジョルジュ・サンドの娘のソランジュに献呈され手渡されたことを男は話し始めた。ショパンは彼女の父親的な存在であった、が彼女が成長してからは紺所の婚約者に嫉妬したりして、近親相姦的な関係にあったし、それが原因でサンドとの関係が破局したことを男は話した。男によると、ショパンの亡くなる一九四九年の初めの二、三ヶ月にバラードの終結部の変更をショパンは決め、衰退した体力をふりしぼって書いたという。「私」はなぜその時期に書いたといえるのか、また男の所持する手稿譜がなぜ本物であるといえるのかを尋ねた。「私」の疑いを見抜いて男は落胆した様子であった。この手稿譜を弾いた人物がいること述べる。それはヴェルトという人物であることをすでに「私」は知っていた。友人のために自分の技を使うことができるひと、つまり「体制の奴隷のような人たち」である。ほんとうにあの手稿譜を読み取ることのできるピアニストは一人もいない。「ソランジュからヴェルトに至る物語」はどのように説明されるのか。ソランジュは一八九九年に亡くなるまで、手稿譜は抽き出しにしまわれていたであろう。一九〇六年、ピガール通りに住むある蒐集家の手に渡り、書籍類は古書店に流れ、手紙類は先述した一通を除いて行方が分からなくなっていた。サンド宛のショパンの手紙はサンドがすべて焼きつくしていた。
 「私」の部屋にいるロシア人はカバン、おそらくショパンの手稿譜のしまわれたカバンを机のうえに置かずに抱えていた。両手を震わせながら心のうちを明かす態度から、「私」は手稿譜が本物であると分かったのである。彼は手稿譜が自分の手もとに流れ込んできた経緯を語り始める。モスクワ音楽院にいた、あるピアニストが奇妙な形で弾いていたという噂が流れた。その三年後には行方不明になった。ソ連崩壊後に、このピアニストについての情報を手に入れていた。その老いアニスとの名は、アンドレイ・カリトノヴィチ。一九四九年に逮捕され強制収容所(ラーゲリ)に送られた。おそらく彼の同性愛の生活が世に知られてしまったためであろう。KGBの文書記録によれば家族全員が強制収容所に送られそこで残らず死亡したと記されている。あのロシア人によるところでは、カリトノヴィチはモスクワ音楽院で重要な役割を果していたが、教授である老ピアニストの愛人であったという。そこで彼はバラード四番の手稿譜を目にしたのであった。あのロシア人はカリトノヴィチをよく知っていて、彼の弾くショパンの作品を聴いていたという。ポーランド人であったショパンはロシア人を侵略者と呼んでいたので、第三帝国の崩壊後しばらくしてベルリンからモスクワに輸送された、赤軍に封印された荷物の中にあったものを弾く仲間たちとの集まりを彼の父は嫌っていたという。

フレデリック・ショパンの、告白しがたい情念の結実である、あのフィナーレの部分を、素晴らしい形において再現できるのは、あなた以外にいないでしょう。(173)

 そういう彼の言葉を聞いて、「私」もまた、「私だけが、自分の掌中にひとつの物語に似た何かを握っていて、それと同時に、人びとからその物語を唯一の方法で完成させるよう、私は求められていたのかもしれなかった」と思うに至る。ふたりの人物。ひとりはロシア人であったカリトノヴィチ、もうひとりはドイツ人のヴェルト。彼らは亡命ホーランド人であるショパンの譜面に、祖国から逃れ出るための慰めを探し求めたとになろう。ヴェルトについてはロンドンにいる友人から詳しく聞いていた。ナチス親衛隊の少佐であり、宮廷のピアニストであった。ベルリンからチリに逃亡し、そこで流布していないバッハやショパンの曲を弾いていたという噂が立ち、コレクターたちが彼のもとに集まったという。一方、カリトノヴィチはどのようにしてショパンの手稿譜を手に入れたのだろうか。あの老教授のために弾いたのか。カリトノヴィッチの欲望の対象が自分になく、彼の所有していた手稿譜にあったことに激怒してカリトノヴィチをソヴィエト警察に告発したのだろうか。差出人不明の手紙で「破壊活動、同性愛、学院内部の健全なる社会主義的環境を損ない、腐敗させようと試みた、怪しい人物」として。例のロシア人もまた老教授の愛人であったので逃亡を試みた。カリトノヴィチが逮捕される三日前に手稿譜をあのロシア人に託したのであった。そのロシア人は「私」のまえにその手稿譜の入ったカバンを持ってきていたのであった。ロシア人の話によると、カリトノヴィチには開けるな、隠しておけと言われたが、逮捕の知らせが届いたときカバンを開けた。「その手稿譜は、深紅色の書類入れに、収められていた。背表紙が付けられ、革の紐で、結ばれていた」という。カリトノヴィチは誰かのもとから持ち出したものであることを理解し、持ち去られた人物は私から取り戻そうとするに違いない。だから自分は危険にさらされているのだと「私」に語ったのであった。しかし手稿譜はカバンとともにロシア人に手に残された。危険はないだろう。なぜなら、カリトノヴィチが逮捕されたのは「近視眼的な道徳精神の嫌疑」からであり、「楽譜の異稿をもとにして、陰謀の嫌疑を組み立てられるほどの能力はなかった」からである。ともあれかれはモスクワを脱出し一九七六年イギリスに亡命、翌年パリへ来たのだ。

私はあのとき、狂気に襲われつつあったのだろうか? もしかすると、そうだったのかもしれない。たしかに、あの錯乱の音楽のなかで、私は心地好さを感じていたにちがいなかった。

「私」はこのパリ滞在時を追憶しそう思った。「私」はあのロシア人から手稿譜を買い受けたのであった。手稿譜がしまわれていることは暗黙の了解ではあったが、あくまでカバンを受け取ることを条件として。彼は架空の物語をし、「私」を騙したのではないかと危ぶんだ。しかし「騙されても、たとえ何ひとつ入っていなくても」、彼の言うように「あのカバンを開けるまい」と覚悟したのである。

  九
 
小説『ショパン 炎のバラード』の第八章は「物質が精神と結びつく一点がある」という一文で始まるのであるが、鍵盤と指との接触がハンマーを通じて弦を打つという単純であるとともに複雑な過程、すべてはピアニストの音楽への考えが反映するものであることを「私」は改めて思いめぐらしている。ショパンが弾いていたころのピアノは現在のそれとははなはだしく異なる。ショパンの構想する音楽は、当時のピアノでは完全には到達できなかったであろう。だから彼の偉大さは楽譜に記された記号によって判断される。演奏者はそれらを読み解き演奏することによって完成することになる。「空白に残された部分」さえ解釈し直さなければならない、物質(ピアノ)の功績によって。
 「私」はエヴゲニーとあのロシア人を呼ぶことができた。サン・ジュリアン・ボーヴァル教会の方へ向かっていこうとする彼を、「私」は窓辺から見下ろしている。「私」はカバンを見みたがすぐに開けずに、ドビュッシーの練習曲やスクリャービンの練習曲、バッハの《平均律曲集》第二巻を弾いた。パリに来て「私のソランジュ」に逢い、手稿譜を手渡そうとするロシア人と出逢うという物語が始まってから一度もバラード四番を弾いていなかったことに気づく。「もしかしたら私は決定版が見つかるのを待っていたかもしれない」。やっと手稿譜を開ける時がきた。ロシア人から聞いていたように深紅色の紙のケースの中に縁の崩れた紙片はあった。額縁に似たデザインの、象牙色の最初のページ。黒のインクで各紙片に三箇所の五線譜が施され、裏面は空白であった。十六枚ある最初のページの中央に表題の「Ballade」という文字と、右手に《ソランジュ・デュドヴァン夫人に献げる》という文字が鉛筆で書かれていた。紙片のいたるところに飛び散ったインクの飛沫。最後の二ページ、十五ページと十六ページ。この手稿譜はコピーではなく、ショパンが続けて書いたものかもしれない。そうであるならさらに別の手稿譜があることになる。訂正があり、躊躇ったあとがあり、取り消されたものもあるならば、さらに別の手稿譜が考えられよう。「私」の手にしている手稿譜が本物であるなら、筆跡からして断固とした気配が感じられる。ショパンは演奏会場で《フォルティッシモ》を《ピアニッシモ》にして自由に演奏したと伝記作家はいう。しかし自分に対して厳格な演奏者でもあった。無用な装飾音などのロマン派の気配は排除し、「正確で、直線的で、しかも明快で、情熱的で、厳格な気配に燃えあがる気配のうちに」、「私」は読み取っていたのである。、死の年、一八四九年の初めの数ヶ月、病魔が彼からを力を奪い、いくどとなく書くのをやめ、ペン先が思わぬ方向へ飛んでしまったことを思わせるインクの跡が読み取れるのであった。最後の演奏会では《ピアニッシモ》で演奏したのは、自分の音楽を解釈し直したからではなく、彼の体力のなせるものであったろう。この羊皮紙に刻印された筆跡に、河川や谷間や高台の姿を探り当てたいと「私」は思う。

 第一一六節の下の、ある一点に、非常に小さな染みを、私は認める。それは、アマランサス(不死の花)の、深紅色か。もしやそれは、血の痕ではないか、と私は自分に問いかける。咳きこんだときに、彼の肺から出たものかもしれなかった。あるいは、その後に、だれかしら私の知らない者が、落とした血の痕かもしれない。(p.192)

「手稿譜にだって、魂はあるのだ」。音符に記された記号には健康状態に偶然支配されたものではなく、一つの強い意志なのだ。さらには音符を超えて意志を伝達しようとする強固な意思だ。愛する女性に献呈しようとするだけではなく「言葉では表現しきれない何かを付加せずにはいられない、気持の表われであった」。その「意志の跡の記号」を「私」は見つめ、「何百年来、コード化されてきた規則の総体」を知るだけではなく、違った方法で「音楽を読み解く」ことを考えなければならなかった。それ以来、「私」は楽譜を見て喜びを感じ、純粋な音楽に変容させることができるようになっていた。今「私」はスイスの山荘で十七年前のパリ時代を思いめぐらしている。「ひとりの人間がすべてを見抜く感覚を備えたと信じるときには、わずかな部分からも、全能の神にまで達するかのような確信を抱くのだ」が、そうではなく、それまで拒んでいた世界に自分が参入したと考えられるのである。音符の群れが小宇宙のようなものに「私」の存在を取り戻してくれる何ものかのうちに変容させてくれると思った。「神の震えを豊かな調べへと移し変えるように用意されて」いて、「神の震えこそ、私たちの精神のうちに、音楽を生み出すのである。ショパンは一人のロシア人とイギリスに住む友人の蒐集家とパリで出会った一人の女性が、「私」を《バラード四番》の高みに達する役割を果したといえる。しかし、「私の音色の根源にまで達したのは私である」。最後の二ページが不意に現われ終わると思われたニ一一番目の小節がフィナーレの序曲であることが分かった。「私」の知らない世界であった。ピアノから立ち上がり、目眩を払うように窓辺に立った。「セーヌ川は流れ落ちる滝のように見え、ノートル・ダム大聖堂の二つの尖塔は、流れから水をすくい出す水車の、羽根のようであった。エッフェル塔でさえ、巨大な鉄の振り子のごとくに揺れ、星座は遠くの宇宙船のように走った」。「私」は「情念の筆跡」楽を読み進むにつれ、ショパンが衰えた体力に抗うように納得できるまで書き加え、取り替えた箇所があった。「まさに戦場のあとのよう」であった。今まで出版されていたバラードの楽譜とは違っていた。「私」はそこに一つの秩序を発見したのだが、清書された楽譜とは違い乱脈であった。贈られたソランジュはどのように思われたであろうか。
 《プレスト・コン・フオーコ》(情熱の炎をこめて迅速に)
「フェンシングの名手が、試合のなかで、あちこちと跳びまわって、剣を操り、巧みにかつしなやかに、相手の急所を突いて、相手の剣と激しく切り結ぶようすに似ている」。「非常な巧みさで、両手は跳びあがり、しかも腕の腱は、激しく張りつめて、指先はときに力強く鍵盤を打ち、あるいはときに優しく、鍵盤の表面を撫でる」。ショパンがこの二ページを書いたのは死の六、七ヶ月前のことで、彼自身はこの部分を弾く肉体的条件にはなかったので、弾けなかったはずである。ショパンは貧しかった。家賃の半分は友人たちが援助した。「ショパンは彼の秘密をどこに隠していたのだろうか?」ドラクロアの手紙や知人や証人たちの言葉によってショパン像は描かれていったが、「真の姿は誰らの目からも、逃げていってしまうのだ」。かれは最後の瞬間までサンド夫人のとこを尋ねていた。しかし彼女は死の直前においても逢いにくることはなかった。
 「死の床にありながらも、神々しいまでに、苦しみ抜いた、寛容な精神の持主」。「愛を拒まれたがゆえに、いつまでも恋々と愛する女を慕い、死の床にあってまで、そうでありつづけては、修復の関係をその娘とはかろうとするような」人物像が多くの伝記作家によって描かれてきた。しかし、「私」はそのような人物とは思わないのである。手稿譜の筆跡は「官能の筆跡」であるが、色彩の豊かな官能ではない。「彼と同世代の気取ったあのロマン主義とは分かちあう何ものもない」。
「何の才能のない人びとのあの集団のなかにあって、ショパンがどれほど耐えがたい苦しみに苛まれていたかを」これらのページを見て「私」は確信した。

 彼女は(サンド)は芸術家などではなかった。彼女のもっていた名高い流麗な文体は、ブルジョワたちの好みに叶っている。愚かで、重々しげで、大変な、お喋り女だ。彼女の道徳観は、門番の女や囲われ者のそれと同じ、繊細な感覚をもっている。(P.206)

右の引用はボードレールがジョルジュ・サンドについて記した文章である。「ある種の男たちが、こういう観念の淀みに陥ることを好む」と書きつづけられているが、ショパンはそのような「程度の低い」男ではなかった。それを教えてくれたのは、「私のソランジュ」、パリで知りえた娘であった。それは周知の物語だ。あのとき、最後の二ページを、「私」がどのような思いで弾き始めたのかを今では思い出せなくなっている。

  十
 
《栄光の孤立》として「私」のような特権的存在を人びとは讃えるであろうが、「老いゆく孤独」を理解しようとしない。かつてのようにショパンを弾くことはなくなった。「年をとるにつれて、身のまわりに生じる事態についての理解は、薄れていく」のだ。人生が意味をもつということを、バッハやモーツァルトは感じさせてくれる。しかしショパンは不完全で時の破片である。「ショパンは未完成の天才なのだ」。その不完全さは弾き手の「命の断片」で補強すべきであるのだが、「私」は老いて扱うことができないであいる。だからバッハに戻ってしまう。いわば「ピアニストたちがたどる老人病の末路だ」。手稿譜を入手したことを告げると、ジェイムズはロンドンから駆けつけた。ジェイムズの機械の一部になったように「無味乾燥」な自分を見出していた。機械の部品が作動しなくなったら、「私の両手は何の役に立つのであろうか?」「私」はショパンやソランジュのことは考えなかったが、「私のソランジュ」(パリで出逢った娘)のことを考えていた。捜し出さなければならないと思うが、「何の役にも立たないことは分かっていた」。この世は休符と不確実の連続ではないか。

この世を後にする瞬間が、やってきたにちがいない、とまで私は思った。地上における私の存在を閉ざす時が来た、と。そして私は思った、この世の生から私はすべてを手に入れたのだ、と。…(中略)…それにしても、私には残せる何ものもなかった。録音したわずかなもの以外には。私には後世に残すべき何の情念もなかった、わが恋人に送るべきいかなる手紙も、おのれの苦い思い出を分かちあう子供すらも。(p.233)

 「私はひとりの演奏家」に過ぎない。「思考に不向きな」、「肉体の労働者」である。そのことが「私」を苛立たせ、それゆえ手稿譜を「解明すべき暗号」のように思いなした。もしかしたら「私」を「落とし入れようとした罠」かもしれない。しかしそのように仮定した自分を笑った。そうされる必要がどこにあるのか。「類似の関係を夢想して病む者」であるなら、「私」の脳髄内に創り出した夢」であるから、外の世界に求めることは必要がなかった。
 九月のある火曜日の午後遅いころであった。フール通りと直角に交差するシェルシュ・ミディ通りを過ぎ、レンヌ通りにあるカフェの角を回った。「軽やかに吹き渡る風に振り返って見た、ソランジュの立ち姿を。彼女の眼差しは「私」の方に向けられていたが、「私」を捉えてはいなかった。「別人であるかのような印象を「私」は彼女に受けた。彼女は私の存在に気づいて見つめていたが、すぐに視線を逸らし遠ざかっていった。ほんとうに彼女であったのだろうか。

私は願ってきた。ひとりの良き技術者として、神の赦しにさえ叶うものならば、首尾よくひとつの物語を生み出すことができて、最後にはあらゆる物をあるべき場所に収めることができますように。しかも完全な形で。あの情念を美しい文字のうちに閉じ込めることを 私としては願ったのであるが、それが確かなものになったであろうか?(p242)

音楽は文学と違い、音によってロゴス化以前の感情を伝えるものであろう、絵画が色彩や形象において感覚に訴えるように。しかし、いかなる分野の芸術家であろうと己の体験や世界認識を受容する作業においては言葉によって思考することに変わりはない。表現手段が異なるのである。小説の主人公である「私」は、文字によって物語を形成しようとする。それゆえに「私のソランジュ」を求めつづける。作曲者はロゴスを音楽にするのではなくロゴスの彼方に現出させるべき音の情動である。演奏者は楽曲の解釈をしなければならないのである。なおかつ再現をする。何を再現するのであろうか。とうぜん作曲者の想いをそのまま再現することではなく、芸術家のひとつの生からそれを超えた領域に向かおうとする精神の躍動を演奏者もまた志向することを意味するのではないだろうか、演奏者もまた己のひとつの生を礎にして。
「私」は故郷での若き日の情事を思い起こす。あの日もパリのカフェで追憶するその日のように雨水がガラス窓を打っていた。十三歳のアンネッタという娘が夏のあいだ、十五歳の「私」に毎日会いに来た。彼女は「私」をカレージに誘い込み肉体的接触を迫ったのであった。そのときと同じように「私」はソランジュを求めていた。「私」はソランジュを連れて家に向かった。「ほとんど無気力にうちに、すべてが終わるのを待つばかりであった」。情事が終わると、「私」は暗がりのなかで、その一部を反芻し、「自分の楽譜を前にして、わが身が吸い込まれていくような身振りをした」。アンネッタがどれくらい自分を求めていたか分からなかったが、大人の男といっしょにいて情事を目撃してから、「自分が慰め者に過ぎなかった」ことを知り、その後「私」は女たちに多くを求めることをしなくなった。しかし、ソランジュは例外というべきであった。なぜ自分の家に戻ってこなかったのかを尋ねたが返答がないことは分かっていた。数時間後に彼女はもう「私」の家にはいなかった。
 失われた女性を懐かしく追想することは「私」を弱くする。「ロマン派の情熱だけが、複雑な記号のシステムである」と知っている。「強烈な音楽性が、玩具のように解体されて、しばしば、単純明快な一連の音符という要素に還元されてしまうから」、「書き記されたページを前にしたときだけ、私は反省という優位を味わうことができた」のであった。
 一八四九年十月三十日朝十一時、マドレーヌ寺院の聖堂でショパンの葬儀が行なわれた。ソランジュは最前列にいたであろう。オーケストラと合唱団が、モーツァルト《レクイエム》を演奏した。さらにオルガン奏者がショパンの二つの《前奏曲》を奏でてから、「第三の《前奏曲》の主題をめぐって、いくつかの変奏を行なった」。《嬰へ単調》ではなかったかと「私」は思ったので、十七歳であった「私」はアルトゥーロ叔父さんの葬儀のときにその曲を奏でたのである。母は叔父との結婚を願ったが、叔父は同性愛者であり不可能であった。叔父を完全に失わないために母は父の愛を受け入れ結婚したのである。叔父は独奏者で母の師であったから、叔父の葬儀に母は「私」が弾くことを望んだのは《前奏曲ホ短調》と《前奏曲ロ短調》であったが、番外として「私」は《前奏曲嬰へ単調》を選んだのであった。「最前列に悲しみに打ち拉がれた母親の姿があった」。ショパンが亡くなったときソランジュは二十一歳であった。彼女のために書かれた《バラード四番》を思わなかったのであろうか、ペール・ラッシェーズ墓地にドラクロアたちが棺を運んでいったときに。アルツーロ叔父は母のために弾いたのであろうか。アンネッタは家畜の通る道から「私」の弾くピアノ曲に耳を傾けることはなかったであろう。しかし、「私のソランジュ」(パリで出逢った娘)は「私」の録音してあるレコードをすべて聴いていた。彼女はショパンを好きでなかったが、彼女は「私」が放置していた足跡を追い探求してみせた。「私」がかつて弾いたドビュシーやショパン、ベートーヴェンのテレビ放送のフィルムを入手していた。実際に聴いたとさえ言った。そのなかの一つにショパンの絶筆といわれる《マズルカ作品六八の四》があったという。そのマズルカも《バラード四番》もともにヘ短調であることに「私」は気づかなかった。マズルカとバラードのコーダとの間にどのくらい差異があるかを、それらの作曲の日時の間隔がどれほど近かったことかを「私」は考えた。「あの瞬間に、私の人生が、ヘ短調のなかを突っ走っていた」ことを思い、「遥かに遠く離れた物語のいくつかを、あのように一つにまとめることが、多くの物事を知る人間たちの特権の一つであり、充分に承知したコードを介して世界を読み解き、一つの言語を導き出して、そこにさえ、存在しないと思われる文字を、そしてたぶん存在しなかった文字を、解読してみせようとするのだ」。改めてアンネッタの官能を、ソランジュの肉体を感じ始めたのであった。

  

書評「情念のエクリチュール」小林稔 「ヒーメロス」最新号から転載。ショパンの評伝的小説。

2012年03月28日 | ショパン研究
小林稔季刊個人誌『ヒーメロス』20号に掲載


  『ヒーメロス』最新号(20号)2012年3月25日発行 無断転用禁止


書評 (前編)
情念のエクリチュール
小説『ショパン 炎のバラード』
ロベルト・コトロネーオ 河島英昭訳 集英社 二〇一〇年十月刊
小林 稔
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 今しばらくは私の音楽との関わりを通して、ロベルト・コトロネーオというイタリアの新鋭が、一九九五年十月に満を持して(訳者の弁)世に問うた処女長編小説、原題『プレスト・コン・フォーコ』(情熱の炎をこめて迅速に)の日本語訳を読みながら、主人公が音楽に抱いた思念を考え、それを一人称で書き進める小説のエクリチュールを考察してみようとするのが、この短い書評の意図するところである。
この書物を語りつぐ「私」なる人物、ピアニストの巨匠アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが七十五歳で亡くなった四ヵ月後にこの小説は出版されたことになるが、作者は「私」がミケランジェリであることは明かしていない。しかし、記述の内容から他の人物であるとは考えにくいことである。生前から謎の多い人物であるということのほかに、主人公の名を明かさない理由の一つに、ミケランジェリの音楽への思念は、あくまで作者自身の想像の域を出ないことにあるのではないか。当然のことながら作者の解釈にすぎないのだが、真の人物像にどの程度肉迫しているのかを読み手に納得させることができるかに、この小説の真価が問われるであろう。コトロネーオの描く〈ミケランジェリ〉が、私自身の〈ミケランジェリ〉と相違することを恐れながら、ドラクロアの描くショパンのデッサン画をブックカバーにもつこの小説を私は読んでいった。

「情念の筆跡というものもあるはずだ。」小説の書き出し、第一章の冒頭は、この一文から始まる。物語の中盤で、「私」に不意にもたらされることになる、これはF・ショパンの「バラード四番」の手稿譜を示している。十二章とエピローグからなるこの物語の第一章と第十二章、そしてエピローグが「私」の現在時、つまり一九九五年、スイス山中の山荘における、死の直前までになされる幼年時代の追憶、後年の著名なピアニストとの邂逅などのモノローグが記される。その間の第二章から第十一章が数年間のパリ滞在の回想になる。そこで偶然に知り合う一人の女性と、ショパンの手稿譜を「私」に託すロシア人男性との出逢いなどが語られる。
  
   一

五線譜に書かれた、なめらかに、荒々しく刻まれた音符の群れ、閃きを定着させる表音記号。例えばショパンのプレリュード集のある曲に人々は名前をつける。しかし彼は思うのだ、「音楽を何か別のものであるかのごとくに意味づけようと」すれば、「冒瀆以外の何ものでもない」と。

私に見えるのは一台のピアノだけだ。(p.10)

幼い子どものころ、母親がチェルニーの練習曲のために使用していたピアノに向かい、《幻想即興曲》を弾いていた瞬間、不眠の夜を過ごしたせいで発熱していた彼は、女性に対する想念がかすめていき、「漠とした不確かな霧の中へ」右手は速度を緩めていった。《作品》が生身の異性への関心を呼び起こしたのである。その後十四歳になった彼は、ラフマニノフのピアノ協奏曲四番ト短調を弾きこなした。「まるで全世界が私の気紛れに、平伏しているかのように思いこむのであった」。十五歳で音楽学院の卒業資格を所得する。あたかも、「成熟した女にならないうちに、あまりにも早く愛の果実を知った小娘のように」、男を見れば誘惑し思いを遂げながら男を閉じ込め、「男の目からおのれの妄念の代償を引き出そうと求めつづけるのであった。虚しくも性の虜になった自分自身を解放させようとするように。未熟であった彼からスタインウェイのピアノ一台は「調教師のように」才能を引きずり出し、人々は彼を天才と褒めそやしたが、彼は怯え戸惑うしかなかった。彼は自分が天才に値するものと思えず恥じてさえいたのである。今日の人々は彼を変人扱いにし伝記を書くように求める。彼はそこから解放されたいのだ。彼には「我慢がならない」。「私は自分のことを大切にしているだけ」である。今や音楽を読み解くことだけが日課になっていた。

 ヴァイオリンやチェロは演奏者の肉体の一部であるかのように音を響かせるが、ピアノという楽器では演奏者は「物理的に音楽から切り離されている」。「私」の情感を強く表現することには限界がある。ピアノには演奏者と音楽との距離が絶えずあり、楽器との対決を強いられる。そうであるなら、「音楽はそれ自体で漂っていくべきだ」と彼は考えるようになった。

楽器というものは、際限のない不実さで作られている。弾き手が若くして、自分の望むすべてを演奏するために、ピアノのテクニックを身につけていても、演奏するための円熟さを備えていなければ。ただし、それを実践できる円熟さを備えたときに、かつて若き日に身につけていた、あの指の完璧さを、失っていれば。そして八十歳の老人が同じ柔軟性を駆使して弾ける、と信じることができるのは、批評家たちだけである。(p.30)

演奏家にとって《作品》はどのような存在なのかを考えたとき、一様でないことは想像される。作曲者とその《作品》との関係が深く関与するからだ。この小説の主人公「私」(ミケランジェリ)とショパンについて考えてみよう。「私」は幼少のころから難曲を弾きこなせる技術を獲得している。彼の人生経験は、大人たちが《作品》に喚起される人生を完璧に弾きこなすことで擬似体験される。右に引用した「演奏するための円熟」さは、楽譜を読み解くことと実人生を送ることの複雑な様相のもとで養われるだろう。あらゆる現代批評がそうであるように、《作品》は作者を超越するものとして解釈される。音楽に人生を擬えるのは彼にとって冒瀆であった。

  二

ショパンの音楽には、創作の契機となった現実の体験を超えて踏み出そうとする音の世界がある。とはいえ、リストのように技巧を凝らしたピア二ズムに走らない。それは現実と隔離した別の世界だ。ショパンには、イデア世界に羽ばたこうとする高揚感と、現実に楔を打ち込むような激情が湧出し、それまでの美的な世界に亀裂をもたらそうとする欲求が生まれる。それゆえ現実との接触は絶えずあり、たんなる夢に終わることはない。少年の無垢な空にとつぜんに襲ってくる深い哀しみを表現するモーツアルトとも、厳格な理想主義の、恐ろしいまでの至福を垣間見せるベートーベンとも相違するショパンは、ある意味で「青春」の原型を表現したといえるのではないだろうか。
二十代半ば、偶然にもミケランジェリの『フレデリック・ショパン』というレコードに私は出逢った。一九七一年にミュンヘンで録音されたとライナーに記されている。A面には十のマズルカが第四十三番から始まり次が第三十四番というように置かれ、おそらく曲想の配慮からミケランジェリ自身が順番を構成し直したと思われる。B面には《前奏曲嬰ハ短調作品45》、《バラード第一番ト短調作品23》、《スケルツォ第二番変ロ短調作品31》の三曲が収録されている。私はこれらを「青春三部作」と勝手に名づけた。私は熱心なクラシック・フアンではなかったが、それまで聴いた演奏とはどこか違うものを感じた。ミケランジェリの奏でる音楽を聴いているとき、私はピアノの鍵盤や演奏者を連想することがない。鍵盤から遠いところで音楽そのものが自らを奏でているといった印象であった。私の固定観念では、ピアノの華やかさはどこか貴族性を匂わせるゆえの虚飾に結ばれ、真の人間性から遠い存在に思われていたのであった。だが、ミケランジェリのショパンは質素な暖炉の燃える、あるいは窓からアルプスの見える山小屋から聴こえてくるような響きであった。それでいて崇高な音の響きを耳に残した。それ以来、彼の弾くベートーベンやラベルやシューマンを録音したレコードを立てつづけに聴き、ミケランジェリ以外の演奏にも耳を傾けたが、最初に受けた印象は消えることがない。さらに三十歳にならんとするころ、私は無謀にも自らピアノを弾くようになったのであったが、演奏することで作曲者の内面に深く分け入りたかったという一念からであった。

程度の差はあれ、すべての芸術家は実人生と芸術から知りえた他者の人生と《作品》を受容し、創造の糧にしていくのだが、ショパンという作曲者と「私」という演奏者の、芸術への志向が交差する場をもちえたということがわかる。芸術は人生の模倣ではなく、人生からすべてを分析できるものではなく、その領域からの「超出」こそが芸術の真髄であるということである。それは後期ロマン主義と称されるショパンのいくつかの《作品》を特徴づけるものであると思われる。例えば《エチュード作品10、25》。練習曲という枠を超えて全体を一つの紆余曲折のある流れとして捉えている。あるいは《プレリュード作品28》の構成を考えてみれば納得されるであろう。それぞれの最終曲の劇的な終わりは、音楽に終止符を打とうとするかのようだ。ショパンの人生に降りかかった破局、それが愛や疾病であろうと、危機を梃子に「流れ逝く時間」を直視ようとしている。《バラード第四番作品52》。この楽曲のフィナーレの激しさもその一つに過ぎないのである。主人公の「私」は、ショパンの楽譜からショパンの見つめた「時間の真髄」を音で追っていくのだ。それは一つ一つが原子のような音の流動である。それは演奏者とピアノとの対決を通してのみなされることであった。
ところが「私」に転機が訪れる。ショパンが「死の直前に書き遺したという《バラード第四番》の手稿譜」の予期せぬ出逢い、それはいかにしてなされたか。それがこの小説の主題であるが、「私」の音楽に陰翳の足跡を刻むことになった。

  三

あたかも芸術論らしき様相を呈していた第一章が終わり、第二章から第十一章までがこの長編小説の本領である。しかし、帯文に記された「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」であると期待して読むならば落胆するに違いない。すべて一人の音楽家の内省的告白以上のものではないからだ。
死の年、つまり一九九五年の追憶は十七年前に始まる数年間に遡ることになる。当時ミラノに居を構えていた彼に自動小銃が突きつけられる。一九七八年四月のことだ。アルド・モーロ前首相がテロリスト集団の手に落ち、ミラーノは厳戒体制下にあった。四名の官憲はドイツ・グラマフォンとの契約書簡の入ったカバンを奪い、その内容を理解できない彼らは「私」を反政府の危険分子として連行し彼は留置所で一晩過ごした。翌日彼は釈放されたが、身辺を整理しイタリアを離れた。
彼が亡命の地に選んだのはパリであった。セーヌ川のオルレアン河岸に面したアパルトマンに、スタインウエイ社、一九三八年製のCD三一八型のピアノといっしょに身を落ち着かせた。そのアパルトマンはサン・ルイ島にあるミツキェヴィッチ記念館とポーランド図書館のごく近くに位置していた。ミツキェヴィッチは生涯を亡命のうちに過ごしたポーランドの詩人で、その詩に触発されたショパンは四曲のバラードを書いたと伝えられる。ポーランド図書館にはショパンの遺品や自筆譜、デスマスクまで展示されている。
ピアノという楽器は室内の環境や空気の湿度によって微妙に音色を変える。ましたそこに弾く者の心理状況が加われば鍵盤の深さがいつもと違っているように感じられもする。彼はミラーの滞在時から《ノクターン作品48‐1》の録音を考えていた。このピアノは完全であると主張する技術者に抗議するため、しばらく指を置くことなく、サン・ジェルマン界隈のカフェを梯子してはそこに座る女性を眺めていたが、いく日か後に再び情熱が湧き上がりピアノに向かうことが多くなる。
ある晩、ラスパイユ大通りとレンヌ通りの交差点を少し過ぎたところにあるカフェで、一人の若い女性に出逢うことになった。「彼女の顔立ちは、ドラクロアの絵に描かれた、大きな帽子の娘のことを、思い出させた」。以後、彼は帽子をかぶった娘と名づけるようになる。娘を連れて(彼女がそれを要求したのだ)帰宅したのであったが、翌日、音楽について語ることをあれほど嫌っていた彼が、あのノクターンについて息つくひまなく話しつづける。なぜか?

ショパンのあの曲と、あの女に私が触れて服を脱がせることのあいだには、類似したものがあったからだ。(p..46)

そう記してすぐに否定する。音楽には他の動きに類似しているものはなく、明晰なものであると。「ひとりの男の性的衝動と音楽感覚との危ういバランス」を保とうとする。「私にとってダンテ風の地獄」とまで記される。この二つの相反する思いを断ち切ろうと、彼女にもう逢うことなく、ノクターンからも離れようと彼は心に決めたのであった。
「私が九歳か十歳のころ」であったと記す。ベートーベンの《熱情》を求められた演奏会で、多くの演奏者に賞賛を浴びせかけるために作られたに過ぎない速度に反抗し、最終楽章をテンポを速めずに弾いたのであった。そのとき彼は「自分が弾く作曲家の主人になった」ことを知った。それ以来、「自分の完璧主義との闘い」を始めるようになった。「世界と生き方に対する私の確信とヴィジョンとを明確に反映させようと」する「微細な部分への妄執」が、いっそう孤独への道を突き進ませることになった。このような彼だけが感じ取る「差異」について聴き手としての他者がいなくなり、「同じ感性を共有」してくれる者がいなくなることが問題である。それゆえの孤独である。それはあらゆる芸術上の問題を喚起する。耐えなければならない孤独であるが、それはどのような有意義をもたらすのであろうか。

私はピアノを弾くことによって人生を過ごしてきた。いままでに誰かと何かの取引をしたこともない。(p.56)

 三メートルはある二階のアパルトマンの窓の下で、五時間も私のピアノに聴き入る男がいた。「私」が何者であるかを明らかに知っている。「私」はドビュッシーの《ベルガマスク組曲》をしきりに弾いていた。髯を生やした虚ろな眼差しのその男は、「悶え苦しみ」「金縛りにあったように身動きができなくなっていた」。
「金銭の必要に迫られているのだろうと想像してみる。とにかく事情を知るためにカフェに誘い話を聞くことになった。ロシアで三度「私」のコンサート聞いたことがあるといった。エフゲニーという名のパリに亡命してきたロシア人であることを自ら明らかにするが「私」は強い疑いを持つ。しかし男がバラード第四番の自筆譜について語り始めると関心を持たざるをえなくなった。この楽曲が終結すると誰もが思っていると、第二一二小節以降コーダの始まり、「鏡の内に映し出されたかのように」「感情の爆発のごときものへと収斂し「作品の終わりを告げる決然とした怒り」が繰り広げられる。「抑制されて、ひそかに持続していた愛が、知性の戯れのように、最後にこらえきれずに爆発して、火花の感覚のように、周囲を驚かすのにも似ている」と「私」は考えるが、その終結部(コーダ)について明確にすべき言葉をもたないでいた。別れぎわにエフゲニーはショパンの自筆譜を後日持参することを告げる。「あなただけが、完全に弾きこなせることができるでしょう」と言い残して。男は何かしらの金額で「私」と取引をしようとしていることを暗に知らしめたのである。

   四

敢えて待ちつづけようとする好奇心の形態もあるのだ。(p.60)

 ミケランジェリは高名なピアニストの中でも最も録音する曲が少ないピアニストの一人だ。録音だけでなく、まれに開催されるコンサートを突然キャンセルすることでも有名である。この『炎のバラード』という小説において著者コトロネーオは、「私」の思念としてさまざまな想いを書き込んでいる。ミケランジェリ自身の自伝がなく真実は闇に包まれてしまった以上、他者の詮索に委ねるしかない。第三章はピアニストになり変わった「私」の告白である。ドビュシーの前奏曲の第二巻の収録のためパリに来ていた。十二の小品で全三十八分のために十年の歳月を費やしてしまったことを嘆いている。ルービンシュタインなら、第一巻、第二巻の合計二十四曲を録音するのに二日間で終えてしまうというのに。収録に時間をかけるピアニストにグレン・グールドがいる。「私」よりもっと時間をかけ、バッハの《インベンション》に二十年弱を費やした。ひとつの曲のある部分を納得できるまで何十回となく繰り返し、最良の部分をモンタージュする。聴き手にとっては何の相違も感じられないというのにである。しかし「私」はそうはしない。「私」と「私のピアノ」は一体であり、作品は演奏されるその瞬間における「私」である。その瞬間において「私の未来は、すでに、再構築されるべき過去と、似ているはずだ」と確信している。あのロシア人が金銭を巻き上げようと、よく分からない品物を(自筆譜)売ろうとすることなど「私」にとって何ほどの価値もないことだ。あのとき「私」はなんと動揺していたことだろう。「一時的な虚脱状態」にあったと語られる。これらはピアニストが晩年にスイスの山荘でパリにいたころを回顧する場面である。さらに遡って「私」は幼いころの自分を回想している。
 夕暮れ時、三階の自室で本を読んでいた。「夏の光に輝いていたあの一日が、ゆっくりと翳って、険しい様相を帯び、一瞬のうちに、夏から冬へとあたりが変わった。」家の周囲に闇が訪れ、人工の雪が舞っていた。そのとき白い服の母が現われ、何か言い出そうとする「私」を制止するように視線で示し、ピアノを弾くように命じているのが、母の表情から読み取れた。譜面台に広げられた音符は読み取ることができない。鍵盤の上に両手を凭れかけるだけで体を震わせるだけであった。母は不思議な笑みを浮かべるとピアノの前に座り、「不意に家を襲った雷鳴のように、激しい響き」を奏でた。《練習曲(エテュード)作品一〇の第十二番ハ短調(革命)》であった。「母の左手が鍵盤の上に降りて圧倒的な速さで低い音調を生み出していった」ので「私の心臓は激しく高鳴った。」アルフレッド・コルトーが弾いていたときよりいっそう速く正確であった。これほど速く弾かれた「エテュード」を聴いたことがないと思った。「私の正気を失わせた」ほどである。おそらく「私」のピアノとの、ほんとうの出逢いであった。当時、パリで失意の「私」に訪れた夢のような過去が甦る。世間ではなぜ私が「作品一〇」を演奏しないのかと言う。あの幼いとき聴いた母の「エテュード」が、夢の中で何度も弾かれ、「私」はそのときから、この曲は「生涯にわたって演奏するまい」と決めたのである。いかなる評論家も「私」の心の苦しみは理解できないのだ。
 
私のスタインウェイが独りでに鳴りだすのではないか、あの忌まわしいエテュードの録音を上に乗せた機械が、自動装置のように弾きだすのではないか、と私の不安はつのった。(p.65)

 「私」は願っていた、「過去の数世紀を復活させる力が、沈黙の譜面が白と黒の鍵盤のうちに響きわたりながら、人生の神秘に合致していくことを。」神秘を追い払いながらも追い求めていることになる。「物悲しげな始まり」へと向かうが、それは「無であった」。「無」であるがゆえすべてを可能にする音の神秘、それはどのような場所へも、魅惑的な肉体のまで入り込む。レンヌ通りのカフェで知ったあの娘にも。しかしそれ以上考えようとすると恐ろしさに襲われるのであった。「類似によって音楽を考えようとしたからだ。」

音楽は《意志》だ、《表出》ではない。音楽は世界との関連をもたない。音楽はそれを説明しない。ましてや世界を創出したりしない。その形態を変え、その気質を修正する。私は自分の惑乱や自分の感情に意味を与えるために、楽曲をあれこれと探しに戻ったりしてはならなかった。(p.68)

 宇宙は「音楽的周波から成り、不連続で」あり、不調和であり、不規則であるが、ピアノによって再調整され聴覚によって最後は調整されると考えたいのだが、それでは「私」は「事物を調整する術」を心得た男であるか。しかし当時の私は論理的に調整が困難であった。背反二律において「自分を鍛えてきた」ということができる。「私の肉体と聴覚の幻影」の関係性を断言できずにいるのだ。「私」は古本屋の立ち並ぶセーヌ河岸を歩く。ショパンの《前奏曲(プレリュード)作品二八》の二十四曲がつぎつぎに心に甦ってくる。そうしているうちに足取りは速められエッフェル塔への橋を過ぎ、ジェラール・ド・ネルヴァルが一八五三年に運び込まれた精神病の診療所があったことを思い出した。かつて『シルヴィ』を何度も読んでいた少年時代の自分を顧みた。「私」は読書の好きな若者で、読むことを禁じられた本の書棚もあったが、父の書斎からホラティウス、マルティアリスはおろか、ジョルダーノ・ブルーノ、ジローラモ・カルダーノ、ジャーコモ・カサノーヴァ、プローティノースまで見つけたのである。「最後の作家の、少年に宛てた危険な手紙」までも父は所有していて、大人になってから「私」に説明したのであった。スクリャービンの《ピアノソナタ第十番》の悪魔的で異教的な悩みを、ひどく掻き立てる音楽であったが、言葉を必要としないから許されていた。ネルヴァルの『シルヴィ』は、音楽的物語の破片であるショパンの前奏曲と同様に「私」を魅了していた。ネルヴァルがリストと会ったことは記録されているが、リストと同時代のショパンがネルヴァルと会ったことはないだろう。しかしお互いに名前は知っていた可能性が高い。『シルヴィ』にショパンは熱狂したのではないのか。なぜなら「未解決の部分を含んでいたから」。数日前訪ねてきた友人の言うように、「私」は、ネルヴァルが病んでいた同じ病に冒されているのだろうかと思う。シテ島が眼前に姿を現してきたとき、日が暮れていて深い疲労を感じた。家に帰り、自由に楽譜を選び取れる書棚を見て不安も疲労も消えた。

   五
 
一九七八年六月二十四日早朝、差出人の記載されない一通の手紙を受け取ることになる。「いっさいの世俗的な触れあいを絶っていたが、まだ研究に没頭できずにいく日も当てもなく歩き回っていた。しかし苦しみや不安は消えかけていた。差出人の不明な手紙は恐怖を覚えたが、読むうちに謎は消えていき至福の感覚さえ味わえるようになっていた。手紙は例の謎のロシア人であった。丁寧な裏側には威嚇が張りついてゆすりに手馴れた男であることが読み取れた。カフェで知り合いになった娘が次の朝「私」の家を出るところまで目撃している。「私」を尾行していることまで知らせている。この手紙から与えられた傷は今でも痛む。

 低俗な人間のために自分が窮地に立たされ、自分の創造力を阻まれ、自分が生み出そうとしていた完璧な世界を、すなわち演奏されるべき姿のように演奏されたショパンの練習曲を、混乱に落とし入れられたことには、我慢がならなかった。(p.90)

 《バラード第四番》の完全な手稿譜は誰も所有していない。世間に流布している印刷された楽譜と違っているなら大変な事態である。コーダの部分が始まる第二一一小節から二三九小節は誰もが当惑させられるのだ。「それらに音楽の原子や微細な部分を理解できればと願ってきた。このページにまつわる秘密をどう物語ればよいのか。このコーダを書いていたときショパンはノアンにいた。ジョルジュ・サンドとともに。ショパンはコンサートが開けないほど肉体は病んでいた。親友のウジューヌ・ドラクロアも数日間過ごしたことのある家であった。《バラード第四番》とドラクロアの絵画の大作の間に色彩に関してある種の対話があると「私」は絶えず考えていた。サンドは凡庸な作家でショパンの音楽をほんとうには理解していなかったと「私」は考えている。ドラクロアはショパンを理解していた。おそらくノアンに出入りしていた人物はこのバラードを何度も聴いていたに違いない。ショパンは自ら弾いているうちに何度も書き換えようとしたであろう。ショパンとドラクロアはお互いを真の友人と見なしていたが、相手の芸術の細部を理解していたかどうかを「私」は疑う。「私」はドラクロアの絵が好きである。「あの豊饒な色彩の海に溺れる感覚」が。ルーブル美術館には「二つに引き裂かれた、ショパンの肖像画」が展示されている。「私」の祖父は一八七四年の競売でこの絵を落札しようとして入手しそこねたことがあった。(祖父は素人のピアニストでリストの前でピアノを弾いたこともあり、ドビュシーとも親しかったと聞いている。「私」が生まれる四年前に他界していた。)ドラクロアはサンドの欠点を、ショパンの方は天賦の才と偉大さを見抜き描いたのではないかと考える。「私」があのバラードを愛するのは私自身に似ているからだと告白する。「自制心と熱情、理性と狂気、そして最後に到達する神秘。それらの総体といってもよい。」いく年か前にショパンは《前奏曲作品二八》を完成していた。マヨルカ島での辛い経験をショパンに思い起こさせる。サンドの語るショパンは、「幻覚に囲まれ」た「忌まわしい病人」である。若手ピアニストの練習曲集を聴いても、「彼らの演奏が練習以外の何ものでもない、と感じてきた。」前奏曲集も聴いたが、「冷ややかに弾かれる」だけで、「日々、苦しみ、咳き込んでいたショパンの、あの絶望の気配は、とうてい感じ取れなかった。」そのような演奏になってしまうのは、彼らが技法の妄執の虜になっているからである。グレン・グールドがそうであるように。彼はショパンを弾かなかった。トロントの風景はバッハの風景にふさわしいだろう。もはやそこには修道士も亡霊もいないから。
 「私」の妄執はモスクワに、ロシアの風景にある。ロシア人はショパンを真に理解したためしはなくてもである。ショパンはバラードをホーランドの国民詩人、ミツキェヴィッチの詩行に想を借りた。ロシア人は侵略者である。「侵略者には、バラードが孕むポーランドの精神を理解できない。」ロシアの圧政下にあったホーランドはショパンの苦しみの種であった。にもかかわらず、ロシア人のひとりが《バラード第四番》の手稿譜を保有しているとは奇怪なことである。「だが、なぜ、一度は失われた手稿譜が発見されたのか。「私」はそれを熱情で繫ぎ合わせ再構成したようと「当惑するばかりの熱狂とともに、神秘を暴きたい、と思い立った。」それにはあのロシア人と会わなければならなかった。彼にあって手稿譜を見せてもらい、本物かどうかを確認しなければならなかった。本物であるかどうかを調べるには、ショパンのことなら何でも知っている、ロンドンにいる古い友人と会わなければならなかった。

   六
 
小説『ショパン 炎のバラード』の第五章は、翻訳本の帯の裏面に「未発表楽譜をめぐる音楽歴史ミステリー」と記されるにふさわしい部分である。一般の読者はそういった展開こそ興味をそそられるものであろう。登場人物によって明かされる話においてであり、全体的に多くを占めていないとしても。しかし、この小説はミステリーではない。ひとりのピアニストの心の葛藤を主題にしているのだ。つまりミケランジェリというピアニストに関心をもったことのある人であれば、奇人とさえ噂された演奏上の完全主義とはどのようなものであったのか、なぜ彼が私たちの心を打つのかを考えさせる小説ではないかと私は考えるのだ。とはいえこの小説は芸術論や音楽批評ではない。ピアニスト本人が告白する自伝でもなく、綿密な調査を尽くして書かれたものであっても虚構を駆使した小説である。主人公のピアニストが作品の異稿にこだわらなければならない以上は、その行方はストリーを要求することになる。
ロシア人が所有すると語るショパンの手稿譜の真偽を確かめるため、「私」はロンドンに住む友人を訪ねる。ボストンで生まれたアメリカ人であるが外交官の父に連れられてロンドンに住み始め、その後イギリス国籍を得た男である。「私」がそのジェイムズと名のる人物(仮名で語ることを「私」はつけ加える)と知り合いになったいきさつは、ロンドンで美雲か担当官をする、母方の叔父がジェイムズの父と親しかったことによる。「私」より四歳年上である。若いころ将来を期待されるピアニストであったが、叔父から伝え聞くところによると、「二十歳を過ぎたころ、彼は強烈な精神の枯渇に襲われて、音楽から、一挙に、遠ざかった」という。別の人が語るところによると、登山中の事故で障害を及ぼす後遺症によりピアニストを断念したということであった。今は二年前(およそ十五年前)に亡くなってしまったが、そのころの彼は音響再生装置に関心をもち世界中から機械を蒐集していた。それらの中には精巧を極めた機械があり、リヒャルト・シュトラウス、グリーク、サン・サーンス、スクリャービン、マーラー、ブゾーニ、ドビュシーなどの演奏を再現することができた。ドビュシーを聴かせてもらったときは、彼が自作を弾く作曲家となったのではないかと怯えさせるほどであった。

私は、作曲した者の権威や、その正当性を確立する者の権威に、怯えやすかった…(略)他人によって書かれたもの、与えられたページを、無限に解釈し、説明することならばできる。ベヒシュタイン(自動ピアノ)は、要するにジェイムズの裏返しだった。(p.107)

ジェームスの書棚にはさまざまな作曲家の手稿譜の写真版や複製版が収納され、それらの資料集をまとめ仕事をしていたのである。彼は「私」にショパンの《バラード第一番》の古い話を話し始める。資料を棚の最上部に梯子を使って取り出し示し、「私」に読ませる。たった二ページに過ぎない、このト短調の楽譜の手稿譜がとんでもない高値で売りに出され、彼の友人のコレクターが買い取ろうとしていたが、それを見せてもらった彼はそれが贋物であると見抜いたというのである。真贋を見分けるには内容を理解していなければならないという。「音符の配列のされ方」、印刷された楽譜をまるで写し取ったかのような書き方から贋物であると判断される。ジェームズは別の、《マズルカ作品五九の三》の自筆稿の写真を示し、インクの染み具合や紙の汚れや歪みなどを指摘し、本物であることを指摘する。そして話が「私」にロシア人がもちかけている手稿譜にまで及ぶのであった。ショパンの楽譜を知りぬいている「私」に売りつけようとする危険を侵すものは一体誰なのかと彼は疑問視する。さらに一ロシア人がなぜ親しい友人でさえ、いやヨーロッパ中に秘密にされている「私」の住所を知り訪ねてきたのか、《バラード第四番》の完全な手稿譜がなぜ存在しないのか謎だと「私」に語った。不完全な手稿譜は二つ存在している。一つはニューヨーク、もう一つはロンドンのボドレアン・ライブラリーにある。後者はメンデルスゾーンの妻が所持していたものである。偉大な音楽家がその一部を受け取るなどということがあるだろうか。それに対して「私」は異議を唱える。ショパンは初め四分の六拍子で書き始めたが、その後八分の六に変更して書きつづけた。初めに書いた楽譜はそのまま残り、友人が見つけ大切に保有していたにであろう。ニューヨークにある手稿譜はそれで説明がつくが、ボドレアン・ライブラリーの手稿譜は第一三六小節までしか残されていないことの説明ができないし、それ以降の手稿譜はどこにあるか知られていないのだから。
 ジェイムズは一人の人物の名を口にした。フランツ・ヴェルトというピアニストで、ナチスの犯罪人であり、一九四五年、ポーランドの人の恋人と、チリのサンティアゴに身を隠したという男を。彼は「美青年で、魅力的」であり、ベルリンで多くの人々にもてはやされていた。彼は「特権的な階級を通じてのみ、近づきうる文化に弱かった」。サンティアゴではバウアーと名のった。ベルリン時代、ヴェルトは宮廷のピアニストになり、ナチスの重要人物たちと交友を結んだ。ジェイムスの友人は彼のコンサートを聴いて当惑したという。「なぜならピアノによる霊媒術は彼の(ヴェルト)の諧謔精神を刺激し、興味深いものに思われたから」。ヴェルトは秘密の手稿譜を知る機会をもっていたであろうと「私」に語った。その手稿譜の中にはモーツァルト、リスト、メンデルスゾーン、バッハ、ヘンデルなどの未発表作品があったし、ショパンのものもあったであろう。しかしなぜベルリンに辿り着いていたのかは解明できない。ナチスがパリを占領した後にベルリンに移された可能性はあると語った。
 現在の「私」は、当時ジェイムスが知りえなかった、ヴェルトに関することを知りえている。先述したポーランド人の恋人はクリスティナといい、ともにベルリンを発ち、デンマークに行き身を落ち着かせ、それからオスロに移り、ロンドンに移り数日間滞在しダブリンに行き、そこから大西洋を渡った。後にクリスティナは別の男と駆け落ちした。そのとき彼女はヴェルトがもっていた手稿譜を持ち出してしまった。彼女は(一九七六年にブエノスアイレスで死んだ。ジェイムスはその手稿譜を探そうとしたが徒労であった。ロンドン滞在時にヴェルトは手稿譜を売らなかったのであるから。「私」にわかったことは、バラード四番の手稿譜はどこにでもありうるということであった。実際、手稿譜の多くはベルリンから持ち出されモスクワに渡ったのである。あのロシア人が言ったのは嘘ではなかった。バラード四番の手稿譜は、「パリから盗み出され、ナチスによってベルリンに運ばれ、ベルリンから赤軍によってモスクワに移された」のである。あおのロシア人はそこから手稿譜をもう一度パリに持ち込んだのである。
 ジェイムスの部屋には一九二〇年代のものであろう、スタインウェイのグランドピアノが置かれていた。

時どき、何かを弾いてみたりする。だが、ある日、不意に魂を奪われて、わたしにはその影だけが残っているようなものだ。それゆえ、すでに知っている音色の、あとだけを、たどっている。回転する円盤に刻まれた物音を。あるいは、どれだけ優秀なピアニストであっても、そこまでは決して解けなかった謎を。いわば、不意に、その意味を自分に明らかにしてくれるような、沈黙のページを。(p.127)

ジェイムスの独り言のような語りに「私」は一言も返さずピアノのまえに腰を降ろす。譜面台には《ノクターン作品九第一番変ロ単調》が開かれてあった。ノクターン集の最初におかれる曲である。「技術的には非常に単純であるがゆえに、危険なものであった」と主人公の「私」は考える。私自身もかつて弾いたことがあるノクターンである。遥かなものに寄せる思いが静かに始まり、それが記憶をこちらに現出させる奥行きをもたせて、旅をするときの想念に満ちあふれた曲という印象をもつ。「私」はジェイムズの前で弾き終えると、しばらく沈黙が二人のあいだに訪れたが、それを破るようにジェイムズは楽譜の十五小節目が始まる四小節を指でたどった。フォルテ・アパッシオナート(強く熱情的に)から始まりクレッシェンドがきて、コン・フォウツァ(力をこめて)の部分である。
「魂を両手から失うとは、どういうことか、ご存知ですか?」とジェイムズは言った。右記した小節に正しい解釈を与えられないことであるという。そういう状態は憂鬱(スプリーン)である。「憂鬱が、いわば不意に襲ってきた炎のように、精神と肉体とを一挙に包みこむこと」であるとジェイムズは語る。彼の蒐集した「魂がない機械仕掛けの怪物」を「私」は眺め、「ある日、わたしは魂を奪い取られしまったらしい。その影だけが、わたしには残されている。まさにそれと同じ音を、たてているのです。ロールに刻まれた音を、わたしは……」と口にはしなかったが、「私」は彼の言おうとすることを理解したように思ったのであった。



     後編(七~十三)につづく。『ヒーメロス』20号に、全編一挙掲載されています。