ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「朝倉宏哉詩選集140篇」(コールサック社刊)を読む。2009年12月COALSACK65号掲載から

2012年02月10日 | 詩集批評
詩の泡立つところへ――真実を発見できる場としての日常。
『朝倉宏哉詩選集一四〇篇』を読む COALSACK65号(2009年)から転載。    
 小林 稔  


詩は詩人にとって永遠の謎である。スフィンクスに対峙した
オイディプスのように、詩人は詩とは何かという謎に立たされ
る。詩歴が四十年、五十年となれば、ますます深まる謎に足を
すくわれる思いであろう。冷酷なアポローン神の予言を回避し
ようとする策が逆に予言を成就させてしまうという非合理。神
話の怪物も神々も人間という不可解な生き物を顕すべく人間が
創り出したものだ。芭蕉は己を俳諧へと駆り立ててやまない心
の動きを「物」と捉え、風羅坊と名づけた。「ある時は倦んで
放擲せん事をおもひ、ある時はすすんで人に勝たん事を誇り、
是非胸中に戦うて、是が為に身や安からず。しばらく身を立て
ん事をねがへども、これが為に障へられ、暫く学んで愚を暁ら
ん事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無芸にしてた
だ此一筋に繋がる。」(『笈の小文』の冒頭文より)生涯をか
けて詩へと唆す魔物としか表現しようのない「物」である。
「物」であるとは、己の意識では手に負えない存在であるから
だ。実際、「栖去之弁」では「風雅の魔心」と著し、仏教観で
の罪悪の意識をも匂わせていた。

今回上梓されたコールサック詩文庫2『朝倉宏哉・詩選集一
四〇篇』の最後に置かれた未刊の詩二篇では、朝倉氏の詩への
思いが直截に表現され、まず私の関心を惹いた。

 詩よ
 アンタとお付き合いして半世紀にもなるが
 アンタはボクに正体を見せたことはない 
               (「詩よ」の冒頭部より)

 詩をアンタと呼びかけるのは、「これしきのために貴重な時
間と労力をついやして/むなしく老いて死んでいくのか」とい
う憎悪と、「アンタの言葉の肉体は豊潤で真実で/抱擁すれば
/ボクも一緒に豊潤で真実になれる」という愛があるからだ。
 私と朝倉宏哉氏の詩との出逢いは第六詩集『乳粥』に始まる。
実際にお逢いするまえに彼の詩に触れ、批評で応えられること
は幸運と言うべきである。詩は極めて個人的な行為でありなが
ら、個人を超えたものであり、真実の言葉において他者との接
点を持つものだからである。この世に生を受けたとき詩人とし
て生まれたのではなく、詩を読んだ感動が大きく関与している。
詩へのそこはかとない憧れから書き始める、あるいは激しい衝
動に駆られるにせよ、ほんとうの詩が始まるのは自分をとりま
く世界と対峙したときである。五十年以上におよぶ詩人の業績
を俯瞰したとき、着実に現実を歩いてきた人生と、そこから詩
を獲得した強い意志に感じ入るばかりである。私との年齢の差
はわずかに十年であるが、詩想の違いに驚くばかりだ。当然、
世代では片付けられないことだが、詩か現実生活かを迫られた
二十代前半のころの私の事情から考えれば、仕事を堅実にし、
家庭を築き、かつ現実との格闘から詩を続けてこられたことは
一種の驚異である。朝倉氏の詩には現実から決して逸らさない
透徹した眼差しがあり、安易な叙情や曖昧な自己表出を許さず、
それが強い言語表現を生んでいるのであろう。

 おまえは赤い凛性の舌の根元に
 呻きに似た長い叫びを埋めている
 爪が草のようにのびる春の夜
 いっせいに孵化しようとする声を抑えて
 おまえの不眠の舌は/磔状に垂れたままだ

 荒い呼吸がみえる きこえる
 腹這いになった土を顫わせ
 おまえの優しさのほてりが伝わってくる
 そのほてりには強い獣の匂いがあって
 おれの青い獣性を脅かす

 おまえは夜行性を生捕りされている
 犬の 狼の 肉食獣の
 めくるめく野性の光景を生捕りにされている
 繋がれたトキ色の感受性は
 飼育され 訓練されて/使途のように柔順だが
 今/あまりにもヒトに似た瞳の奥では
 復讐の予感に/おののいているようだ 
            (「盲導犬」の冒頭部より)

 飼いならされた獣性。近代社会以降の体制で生きなければな
らない人間の生きざまを詩人はそこに見る。かつて人間も自然
との交流の中で熱狂的な生を送っていた。科学的思考を発展さ
せるようになり、物と心は二分され、利便性を手に入れ都市生
活者の行儀良さを身につけたが、真実の生から遠ざかってしま
った。詩は魂を揺さぶるものである。そう考える者にインドは
理想の土地と思える。第一詩集『盲導犬』を刊行したとき、朝
倉氏は三十五歳。インドに出立することは可能な年齢であった。
しかしすべてを投げ捨て旅立つことはしなかった。家庭を築き、
子どもたちにも恵まれ、仕事にも慣れた時期であろう。堅実な
市民生活を選択したと思われる。
第二詩集『カッコーが吃っている』(一九八三年刊行)の発刊ま
で十年の時が流れている。ここには子どもの成長を見届けなが
ら安定した心持ちで家族や動物たちの交流を巧みな表現技法を
駆使して描いている。そうした日々の中でも長年友情を温めた
知己の死に出逢っている。それから十一年後、第三詩集『フク
ロウの卵』(一九九四年刊行)仕事での海外体験に基づく詩と父親
の死を描いた詩が掲載された。すでに四十歳を超えた朝倉氏に
は、若かりしころにインドに憧れたような思いとは違った思い
が去来したであろう。取材旅行を通して新鮮な感動を多くの詩
に獲得していった様子を、窺い知ることができる。
第四詩集『満月の馬』(一九九九年刊行)五十歳代にその多くを
書いたと思われる。「やまかがし」は傑作である。夏の朝の草
原で蛇のぬけがらを見つけたのである。

 やまかがしはおのれと格闘したのだ
 身の丈いっぱいの/おのれの皮から脱出するために
 おのれから別のおのれを生み出すために
 朝がくるまで/壮絶なたたかいをくりひろげていたのだ

 陽がのぼり ぬけがらが乾いていく
 風がふき 草叢が膨らんでいる
 そのなかであたらしい蛇は
 未知のおのれに驚き/とぐろを巻いて
 息をととのえているだろう

 やがて草叢をふるわせて
 一匹のういういしい蛇が姿を現す
 それは一瞬 やまかがしではない
 蛇はぬけがらに目もくれず
 しなやかに身をうねらせて
 夏の朝の草原を滑っていく
             (「やまかがし」後半部より)

実在感のある描写である。「いきもの」は彼自身の秘められた
獣性を具現化したものである。擬人化ではなく、動物の生態そ
のものを描写する。詩人の観察眼を通して言葉で伝えることに
より、実際に目にする以上のリアルさを感じさせる。おそらく
これは理性に抑圧された人間が「自然との連続体」を感じ、物
言わぬ「いきもの」に己を仮託して見ているから感動を与える
のではないかと思う。朝倉氏の詩には、喜怒哀楽を表現した詩
が少ない。感傷的な詩がないのはそのためだ。極力廃すること
によって言葉の物質性が獲得されている。それは他者を動かす
大きな力である。
 この『満月の馬』という詩集にある「ひとの河」という詩は
私の好きな詩だ。さらに「インドへ行った息子に」と題された
詩は私にとって感慨深いものがあるし、朝倉氏の詩人としての
遍歴において大切なターニングポイントであったと思う。旅立
った者と残された者の構図に親子の絆を置いた詩だ。時空が主
題であるといえよう。若いころの憧れであったインドの旅を今、
息子が適えている。見送った人たちには日々の生活がある。若
かりしころに抱いた夢を息子が実現させた歓びと、無事を願う
気持ちが複雑に混在したであろう。詩人はこれまで厳しい現実
生活に堪え、詩を書きながら生きることの真実を見すえてきた。
この日常こそが真実を発見できる場なのだと詩人は知る。「花
見川の土手を行って/無心に草を食む老いた馬に出会った/お
れはそのひかりの輪のなかにいる」という詩行はそのことを著
している。どこへ行こうと、すでに掴んだ真実を携えていくこ
とになろう。だが、息子がそれを知るには別の経験が必要だっ
た。旅先で目にするもの、それはその土地に生きる人たちの日
常生活である。「ほんとうのこと」は自分が経験することでしか
知ることができない。経済的に繁栄した日本では得られない、
厳しい現実と自然に身をさらすことになる旅。旅人の視線で異
国の人々の生活を共にする旅。その欲望に駆られた者は旅に出
る。そして知るのだ、日常こそが真実を発見できる場であると。
帰国した息子とどのような会話を交わしたかは私には知る由
もないが、その後、父と息子は共にインドを旅することになる。
第五詩集『獅子座流星群』、第六詩集『乳粥』にインド体験
を基にした詩が数多く載せられているが、それ以外の詩もあり、
「犬を洗う」という詩は強く心に残っている。ニューヨーク同
時多発テロのテレビ報道のかたわらで老いさらばえた犬の哭く
声。瓦礫の下の人間の呻き声が重なり合う。人間の罪の連鎖の
中で無数の生き物が生まれ死ぬ、この救いのない現実からなに
ものも逃れられない。だからこそ天山山脈のふもとの天池を眺
めていたとき、詩人にひとつの想念が訪れたのだ。

 人類が流した涙の総量を天池はたたえて澄んでいる
                  (「天池」の後半部の一行)

 三十七年の会社勤めを終え、定年退職した男は贈られた花束
を、いつか自分も入るであろう墓前に捧げる。次に挙げる詩は、
一人の男として描いているが、朝倉氏本人であろう。

 潤む目を/微笑みにまぎらしても/足取りはぎこちない
 (略)
 重石は取れたが/還暦の男は/鳥のようには飛べない/魚の
 ようには泳げない/獣ようには走れない (「生前墓」より)

仕事から解かれ、拠りどころをなくしたような喪失感に一瞬
襲われたのだろう。これからの人生を、詩作で勝ち得た真実を
いかに展開させていくのか興味深いところである。次に置かれ
た詩「神秘から謎までの日日」では、誕生(神秘)から死(謎)
までを一瞥し、その途上にある現在に思いを廻らしている。

 それはすばらしい謎だ/だから
 神秘から謎までの日日が
 あやうく
 いとおしく
 ういういしく
 ぞくぞくするようなスリルにみちている
 と 感じられないか 
 (「神秘から謎までの日日」の最終連より」)

 あの「やまかがし」のように彼は、詩の泡立つところへと新
しい跳躍を完遂するのだろうか。言葉の欺瞞を許さず、事実を
直視し続けることで真実を物した詩人がここにいる。
 
芭蕉は俳諧に駆り立てる魔心に付き従いさすらいの人生を送
った。喩の表現で語るなら、詩という不可思議なものは時空の
彼方から私たちの経験の足許に降り、日常の空間を聖なる空間
へと一変させるものだ。詩そのものがこの世への「まろうと」
(客)であり、旅人である。朝倉氏は生活に執着することで詩の
正体と格闘したのだ。しかし私たちが死という宿命を回避でき
ない限り、詩は謎のまま残される。旅から学ぶのは人生そのも
のが旅だということである。それゆえ不確かなこの現実に「起
こったこと」の徴を探りあてなければならないのだろう。

鈴木正雄新詩集『死のほとりにて』(銅林社刊2011年9月1日

2011年12月17日 | 詩集批評

息子を亡くした父親の悲しみ
      詩は死からの復権である。 (個人季刊誌「ヒーメロス19号」から転載)

鈴木正雄詩集 二〇一一年九月一日刊
『死のほとりにて』(銅林社)
             
               
 子に先発たれた親の悲壮な想いは癒しようもなく深い。作者はその快癒できない苦しみを生前の十八歳の息子の面影を浮かべながら言葉に綴るのである。そうしている時間の流れの中で、息子の死を忸怩たる思いで自分に言い聞かさなければならないときもあった。

そのとき ぼくは
目をつむりながら
ひとつの言葉をのみこんだ
 (お前は死んだ)
するとそれは響動(とよ)みながら
こだまのように
ぼくの内部をわたっていった

老いていま
漠たるぼくの風景の
ふとどこか
それはなじみの場所からのように
 (お前は死んだ……)

言葉は口から零(こぼ)れれば
陽にとける霜に似て
たちまち消えるけれど
そのたびにはほっと明るみ
目覚めのようによみがえる
晩秋 もみじに染まりながら
ひととき
山が澄みかえるように
「よみがえる」

 未知の発見や驚きだけが詩なのではない。この詩集の前半(一)はよく見る光景が描かれている。それなのに作者の思いに心を重ね合わせるときの感動はこのうえもなく深いのである。やはり平易な言葉を時間にかざして息子をいたわるように舌転し紡いた結果であろう。篠崎勝巳氏によって「栞」引用された「火葬」や(une catastrophe)などの詩編は涙をそそってやまないが、右に引用した「よみがえる」にあるように、時には死者の命が自然の風景によみがえることがあるのを作者が知って読み手に安堵感を与えるのである。
 この詩集は二部仕立てになっている。一部は筆者が述べたように息子への想いが綴られ、二部ではそれ以後の作者の生活が描かれている。哀しみの刻印は消えないながらも、日常の瑣末事に喜怒哀楽を感じ生きていくしかない。じつにいきいきと技巧に走ることなく手慣れた描写を見せ、上手いと思わせる詩がつづいている。しかし一冊の詩集として構成されたものであることを忘れるわけにはいかない。一部に息子の事故死があり、それを受け入れがたく苦悩する父親の姿を知った私たちは、二部でその死をのり越えどのように生きていくのかを知りたいと思うのだ。十代にして詩作にとりつかれた私は、なぜか詩を書くことで絶えず自分の死を呼び寄せていた。詩作は生きることと同価値であった。それ以降の人生は今に至るまで変わらず、常識を超えた生のありようと他人には映っているであろう。詩は死からの復権である。十代後半の親への反抗、社会への反抗、規範への受け入れがたき謀反は、何十年も過ぎて顧みれば、それらを内包して俯瞰することができたと自負するが、さらに意識の深みへと突き進み、言葉が切り開く地平に詩作を移動させようと私はしている。詩はいろいろあってよいが私の闘いはつづいている。私にとって若者の死が悲しみをそそるのは右のような自分の詩作の根拠があるからだ。
 先述したように詩集の構成を考えたとき、一部に死があり、二部に遺された作者の生があることになれば、死を忘却するのではなく、勿論すっかり忘れているのではないが諦めと時間からの退色ではなく本質的にのり越える次の展開を一冊の詩集に期待してしまうのである。個別の死や人間の存在から流出して言葉の世界にまで辿りつく詩作。そこには詩の源泉が見つけられる。私たちの日常はそこから届けられているのであり、それゆえにこの世の事象が価値を持つ。