ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

青の思想/小林稔・詩誌「ヒーメロス」より

2016年02月25日 | ヒーメロス作品

青の思想

小林 稔

 

 

堆積する時の狭間に流れ行く水の

こころに染み入る青の波動は 

止めどなく白い布地を闇にさらす

 

生きて有ることの拠(よ)る辺なさ 

無きものたちへの悔悛と負い目に

青を引き寄せ青に引き寄せられた私がいて

死者は 夏に繁らせた青葉を確実に食んでいる

廻る歳月を迎え入れ どのような花が待たれるというのか

海に指を突き出す半島に太陽が垂直に落ち始めると

辺りいちめんを血の色に染め 刻一刻と青を加えついに空化する

 

終わりのない旅への想いを雲にひたすらゆだねて

巻きとられた織物(タペストリー)を転がし広げれば

すでに後ろに見送ったいくつもの光景が立ち現われ

入り交るひとびとの声がかすかに耳に響く

 

――そびえ立つ尖塔 乳房のようにふくよかなドーム

内奥の闇をしばらく辿り突如として空ける中庭の一角

隠れたる神を讃える声が 蛇のように中央の泉に這い出で

真上の空の青に吸い込まれ いっせいにひとびとは頭(こうべ)を垂れた

青と黄色の幾何学模様の壁から右半身を覗かせる少年が現われると

もう一方の壁の切れ目から瞳を定めた

私の片割れの少年がいる

 

周波する季節に逆立つ傷跡の痛みを覚えて

君たちは若葉の輝きと永遠と信じられた無疵(むきず)なこころを

ひとり私に託し置き 摂理の階段を踏みしめ老いていったのか

引き戻せない途に立ち 世界を思惟する〈わたし〉の紙上の言葉が

海の青と空の青にやがては消える私の

肉体の墓碑にならんことを祈り記すのだ


朔太郎論「宗教の始まりと抒情詩の隆盛」小林稔個人詩誌「ヒーメロス32号」より一部紹介

2016年02月17日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

宗教の始まりと抒情詩の隆盛

 私は、本来、宗教の発生と詩や哲学の発生の場を同じくすると先述した。そのことを説明してみよう。仏教哲学者、井筒俊彦氏は「およそ存在する者はすべて無を契機として含んでおり、あらゆる存在者の根底には必ず無をひそんでいる」(『神秘哲学』)という。我われの経験世界で絶対的に有と言えるものはなく、無の絶壁上に懸けられた危うく脆い存在である。存在者の有は本質的に相対的存在であるということを「無の深淵」の不安として実存的に捉えられる。井筒氏は、「存在の無とは自己のうちなる無であるとともに、他者に対する無」でもあり、「すなわち全ての存在者は他者を否定することなしには自らの存在を確保できない罪深いものなのである」と指摘する。西暦紀元前七世紀から五世紀にまたがる「宇宙的痙攣」(ロマン・ロラン)の三百年は、文明が隆興と壊滅を繰り返す「万物流転」の時代であり、ギリシア民族の生活を根底からくつがえしたと言われる。ホメロス・ヘシオドスによる、光溢れるオリュンポスの芸術的神々の世界は、このような動乱の時代には、「なぜにこの世はかくまで不幸に充満し、重い軛を背負わなければならないのか」という切実な問題に神話が答えなければならず、人々の信頼に応えることができなくなった。「イオニア的考えによれば存在そのものがすでに「不義」なのだ」という。「他を否定し、他を限定し、また他によって否定され、限定され、かくて相互に罪を犯しつつ存在する」と井筒氏は解釈する。「一切のものは無に顚落し、その同じ瞬間にまた有に向って突き上げられながら、永遠にそれを自覚することなく永遠の交換(ヘラクレイトス)を繰り返す」が、人は忽然とその実相が開示される瞬間がきて、絶望の叫喚を発するとともに、落下する自己と万物を受け留める不思議な「愛の腕」(一者)に気がつく。すなわちこれが宗教の始まりであると井筒氏はいう。「宗教的懊悩とは相対的存在者が自己の相対性を自覚した結果、これを超脱しようとし、しかも流転の世界を越えることのできない苦悩であり、宗教的憧憬とは、それでもなお霊魂が永遠の世界を瞻望し、絶対者を尋求してこれに帰一しようとする切ない願いにほかならない」と井筒氏は説く。この「愛の腕」(一なるもの)とは、生命の源泉、あらゆる存在の太源、「存在」そのもの、宇宙的愛の主体としての「存在」あろうという。

 紀元前六世紀にイオニアに、「我の自覚」とともに抒情詩が生み出されたが、哲学者もまた「存在界の生滅成壊を主題として思索していた」。そこでは詩人も自然学者も区別はなかったし、宗教と哲学は同一であったと井筒氏は指摘する。先述したように、「存在の根源的悪」、絶対者に対する悪ではなく、個別相互間の「罪」であり「不義」に対する哀傷は、前六世紀のイオニアの精神的空気である。井筒氏は、抒情詩の時代から自然哲学に移行する中間地帯に「自然神秘主義」体験を置き、後のギリシア哲学の頂点を成したプラトンの哲学の深奥に横たわる神秘哲学と、そこから発展するアリストテレス、プロティノスの神秘哲学を、ソクラテス以前の自然神秘主義に求めようとするのであるが、その論考は別の章を必要とする。ここでは朔太郎の宗教に通底する罪の意識と詩作の根源とが一元的に抵触する場において、時代や場所を問わず、あるいは朔太郎がどれほど深く思索したか否かにかかわらず、生の儚さに向き合う時の普遍的な感情を解き明かしてみようとしただけに留める。

 朔太郎が、このような、人々の普遍的な感慨にどの程度抵触しえたのかは定かではないが、日本の来たるべき詩を、ミューズの故郷から西洋の詩に引き継がれたものと、我われの詩歌の源泉から引き継がれたものとの融合と考えられるのであるなら、粟津則雄氏が「詩語の問題」で言う、「実人生での「罪」と、想像力がはらむ「罪」とによって激しく動かされた朔太郎」という指摘が説得力をもって迫って来るのである。      次回(二)につづく。


朔太郎論「光ある芸術の真髄」小林稔個人詩誌「ヒーメロス32号」より

2016年02月16日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

光ある芸術の真髄

 白秋宛ての朔太郎の書簡に、「私は絶大なる恐怖と驚愕と羞恥と困惑との間に板ばさみとなって煩悶して居ります。私は恐るべき犯罪(心霊上の)を行なったために天帝から刑罰されて居るのです」という言葉がある。河村政敏氏(『月に吠える』)によれば、天帝よりの刑罰とはエレナという人妻との密通と関連し、白秋の「ソフィーと呼んでいた人妻との事件」と重ねられ、その衝撃と罪の意識が「浄罪詩篇」製作の動機となり、「一旦浄罪が始められれば、それは逃げられない刑罰として実感され、自虐的神経に作用されていよいよ深められ、ついには人間の原罪的な思念にまで進んでゆく」。ついには懺悔者のイメージに発展するという。しかし佐藤氏は、「病者の歪みとして、罪として問い、告発せざるを得なかったところにこそ、彼のいう「浄罪」に真義はあったのではないか」と問い、「その人の全存在本能が傾注されて場合に」始めて、「光ある芸術ができる」(大正四年四月二七日)とは、朔太郎の詩観の本髄をなすものでもあったと論じている。つまり、「疾患」が詩作の進化への起因になっているということを言いたいのであろう。佐藤氏は、「疾患」を詩法として「すべて見えざるものを」をも見る「見者」たることと、「疾患」をその歪みと罪のゆえに、これを浄め、正し給えと祈らざるをえないこと、ここに「霊と肉」との祈りと詩の、一元的な把握があると佐藤氏は主張する。「疾患」を否定的に受け止める「浄罪」があり、肯定的に受け止めれば、信仰の発見によって、キリストに救われることによって「素人詩人」から免れる、まさしく信仰と詩は一元として捉えられているのだという。

 私の唯一、敬慕する詩人である鷲巣繁男氏は、朔太郎の「天上縊死」に触れ、ダンディズムであろうと抒情としての懺悔であろうとも、「祈りの形を天上の縊死者として感得した」のであり、後期の作品『氷島』の「感情の荒くれ」に照応して見えるという。詩人を貫く希求、「文学というおぞましい存在」との苦悩となるかどうかは、彼の全生涯と全作品を注視しなければならないと述べている。(『クロノスの深み』)先述した歌集『ソライロノハナ』で朔太郎が言う「ロマンチィックの幻影」が消えた後の「本物の世界…醜い怖ろしいあるもの」、(それゆえに短歌から詩に転向することになったのであろう)、「信仰を発見しなければ『素人詩人』に終わるに違いない」と危惧させた、「文学のおぞましさ」を詩の出発点に立った若い朔太郎はそのとき直覚したのであろう。

  詩誌「ヒーメロス32号」2016年2月4日発行から一部掲載。


朔太郎『月に吠える』と浄罪詩篇

2016年02月13日 | 萩原朔太郎研究

『月に吠える』と浄罪詩篇

 詩人萩原朔太郎を論じる上で始めに置くターム(項目)が短歌からの離別であるとすれば、次に論ずべきタームは、『月に吠える』前半の「浄罪詩篇」と呼ばれる二十余篇を貫く宗教にかかわるものであろう。なぜなら、本来、詩の発生と宗教や哲学の発生の場が同じと考えることができるし、朔太郎の詩人としての有り様と深く繋がっているからである。佐藤泰正氏は、「朔太郎における神」という論考(萩原朔太郎研究/三弥井書店)で、那珂太郎氏の「おそらく日本ではじめて実存の深部をヴィジョン化した『魂の抒情詩』」という言葉と、朔太郎自身の「もし永久に私が信仰を発見しなかったら、私は永久に『苦しき懺悔者』又は『素人詩人』として終わるにちがいない」という言葉を引用して、詠嘆的抒情表白「愛憐詩篇」の直後に、「竹」などの見られる「イメージ自体を裸のまま提出する方法」に転換したのはなぜかを問い、山村暮鳥の「聖餐稜玻璃」の朔太郎に与えた影響を指摘する。しかし佐藤氏は、那珂氏のいう、「浄罪詩篇」の「懺悔」「祈り」「合掌」などに見られる宗教性は、「語彙の問題に過ぎない」という言葉に反論している。また、伊藤信吉氏のいう、浄罪の意識ではなく「浄罪を思考した」「信仰を思考した」に過ぎないとする言葉にも疑問を投げかけ、佐藤氏は「朔太郎のもっとも血肉的に本質的なものが、そこに集約的に噴出した、ひとつの特定な時期を表わしたものである」という渋谷国忠氏の論述を紹介している。だが、朔太郎の宗教性を「上層意識的なもの」と捉える一方で、「ぎりぎりの深層からの表出という実存性なるもの」とする、つまり「文学性」と「宗教性」の二元的な把握に対しても佐藤氏は異を唱えている。

「浄罪詩篇ノート」の中の「浄罪詩篇、奥附」という二篇のうちの一つ、「偉大なる懐疑」の「疾患」という言葉に佐藤氏は注目する。

 

 主よ

 あきらかに犯せるつみをば

 あきらかに犯せるつみとそらしめ給へ

 聖なる異教の偶像に供養せることをばあかしせん

 みちならぬ姦淫のつみをばあかしせん

 しかはあれども

 我は主を信ず

 我は主を信ず

 まことに主ひとりを信ず

 かかる日の懺悔をさへ

 われが疾患より出づるものとしあらば

 すべて主のみこころにまかせ給ひてよ

 しかはあれども

 われは主を信ず

主よ

あきらかに犯せるつみをば

あからかに犯せるつみと知らしめたまへ

          ―浄罪詩篇、奥附―

 

〈かかる日の〉切なる〈懺悔をさへ〉それがみずからの〈疾患より出づるもの〉ならば〈すべて主のみこころにまかせ給ひてよ〉と念ずる――その砕かれた魂の真摯なる表白こそ注目されねばならないと佐藤氏はいうのである。ならばこの懺悔とは何かは問われなければならず、「疾患」という言葉の意味が問われなければならないと佐藤氏はいう。

詩誌「ヒーメロス」32号2016年2月4日の記事から


「人魚詩社」での前衛的な詩作。小林稔・「萩原朔太郎における詩人像(一)」より

2016年02月12日 | 萩原朔太郎研究

 「人魚詩社」での前衛的な詩作

小林稔

 室生犀星との出会いと交流があり、犀星の影響のもとに「愛憐詩篇」が生まれたことは内容的にも十分考えられることである。一九一四年(大正三年)六月に室生犀星、山村暮鳥、朔太郎の三人で「人魚詩社」を設立している。同年、北原白秋主宰の「地上巡禮」が創刊され、朔太郎も作品を発表する。翌年三月には詩誌「卓上噴水」を発刊するが、三号で廃刊になる。この年、山村暮鳥の詩集『聖三稜玻璃』が刊行された。さまざまな詩誌と朔太郎周辺の詩人たちとの交流が見られるが、特筆すべきは、この時期の朔太郎の詩が「愛憐詩篇」とははなはだしく異なるということである。それには山村暮鳥の詩の存在がある。新体詩を出発点にして、北村透谷、薄田泣菫、蒲原有明、三木露風、北原白秋へ展開してきた象徴詩の近代詩が、口語自由詩へと辿る現代詩へのプロセスにおいて、暮鳥、犀星、朔太郎の「人魚詩社」を活動の場とした磁場の意味するところは大きいと言えるだろう。北川透氏は著書『萩原朔太郎〈言語革命〉論』において、犀星と朔太郎の立場は、朔太郎自身が言うようにセンチメンタリズムであったが、そこに暮鳥が加わることによって、《金属の「リズム」》を〈センチメンタリズム〉の場所で加熱することになり、暮鳥への挑戦的な磁力になったと説明している。《金属の「リズム」》とは、「今の貴兄は金属の「リズム」と会話していると思う。金属とほんとに話しの出来る人は今ではあなた一人だ」という朔太郎の暮鳥宛の書簡から引用された、『聖三稜玻璃』に対して評価した言葉であろう。

 吉本隆明氏によると、近代詩が一歩踏み出す兆候を見せたのは、おそらく山村暮鳥の詩集『聖山稜玻璃』においてであったという。白秋や露風らの「後期印象派の特質が、無定型なもやもやとした感覚を言語過程によって実在化しよう試みたのにたいして、感覚的な表象(イメージ)そのものを実在の対象であるかのようにあつかう位相で表現しようとした」と述べている。日本の近代詩ははじめて、「こころの世界も、実在物と同じように、詩人の主体とは仮装的に独立の世界とみなしてあつかうことができるようになり、詩の対象界は、ほとんど無数の可能性としてひらけた」のである。しかし、「後期象徴詩人たちは、あくまでも感覚の世界を、感覚の世界とみなしてコトバによって実在化しようとした」のに対して、「暮鳥は、感覚の世界を実在の世界とみなして言語化しようとしている」。つまり、自己の感覚の世界を、自己の意識とは独立した世界であるように取り出しえることだという。「それは画期的な事件というべきである、なぜなら自己がその中に生活している社会の総体を、あたかも自己の外側の独立した社会として把握できるような思想的段階と対応するものである」からである。この表現段階は朔太郎や佐藤惣之助によっておしすすめられたという。「高度の感覚的な世界の表現が文学的意味と統一され集大成されている」。朔太郎は詩の思想性を獲得していったが、感覚的世界の退化をまぬかれなかったと吉本氏はいう。

このように見てくると、一九一四年は朔太郎にとって重大な転機点となる年であった。「愛憐詩篇」を発表した翌年であるが、詩風は大きく変貌する。このころの朔太郎の心の動きは、全集第十二巻に収録されている「ノート一、二」から知ることができる。『月に吠える』の「浄罪詩篇」と名づけられた「竹とその哀傷」の詩のほとんどが書かれた時期に相当する。

 

 まってゐるのは誰。土のうへの芽の合奏の進行曲である。もがきくるしみ轉げ廻ってゐる太陽の浮かれもの、心の向日葵の音樂。永遠にうまれない畸形な胎兒のだんす、そのうごめく純白な無數のあしの影、私の肉體は底のしれない孔だらけ……銀の長柄の投げ鎗で事實がよるの讃美をかい探る。

 わたしをまってゐるのは誰。

 黎明のあしおとが近づく。蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。眠れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神経のきみぢかな花が顫へている。それだのに病める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂いに何をみつけやうといふのか。嵐よ。わたしの幻想の耳よ。

(『聖三稜玻璃』の「Á FUTURE」冒頭部分)

 

山村暮鳥の『聖三稜玻璃』を今の私にはそれほど興味深く思うことはないが、唯一の散文、「Á FUTUR」は、私が詩を書き始めて間もない七十年前後に、「現代詩手帖」で一世を風靡した詩誌「騒騒」の帷子耀や金石稔や山口哲夫らを思い起こさせるものがある。以後、詩壇の先祖返り的雰囲気の中で省みられなくなった。大岡信氏は「大正詩序説」で暮鳥の散文詩を、「無秩序で乱雑な、しかし何度読み返しても強く惹きつける不思議な力をもった散文詩は、口語自由詩がもたらした言語意識上の解放感なくしては書かれ得なかった種類のまさに「ばくれつだん」的な存在であった」と評した。また、昭和初期のモダニズム詩、現在我々が書きつつある詩にまで通じるもの、「現代詩の病の、おそらく最も早いあらわれ」、「詩人自身にとっても稀にしか出会うことのない種類のデーモンの訪れを暗示している」と指摘する。「病い」であり「デーモン」と大岡氏がいう、言語上の意義を文学全体から考察しなければならないだろう。インスピレーションから生み出される言葉群の向こうに見えてくる未知なる地平へ惹気、そこに詩人が生きるべき空間を見出そうとする、あるいは思想性を発見しようとする、遊戯的言語とは全く別種の真摯さである。このような言語への重い比重は、私自身の詩の出発と深く関係することであった。そこから文学の普遍性へ脱出するには、文学と経験の「ゼロ地点からの出発」を私は強いられ、「経験」と言語の背離と融合、詩作と哲学と神学のアナロジー的接近を試みる方向へと考察を進めている。

 先にも挙げた藤原定の「「感情」詩派の新風」によると、『聖三稜玻璃』以前に、一九〇九年、イタリアのマリネッティが「未来派宣言」をパリの「フィガロ」に発表したり、表現派やフォーヴィズムや立体派などの新興言述運動が起きていて、第一次世界大戦勃興前の異常な社会不安と精神文化の動揺による必然的な所産であったという。それらとは直接一致しないが、印象主義、象徴主義の芸術を否定し乗り越えようとした芸術衝動においてヨーロッパの新興芸術運動に相応するところが多分にあったと主張する。

 大岡氏の「朔太郎問題」という論考において、朔太郎が暮鳥と共有していた言語革命的な磁場から生み出された、「聖餐餘録」や「遊泳」や「秋日歸郷」が『月の吠える』からなぜはずされたのかを設定し論じていることを北川氏は前書で紹介している。大岡氏の考えは、朔太郎は短歌の世界につながる自分自身の世界を自覚し、「におひ」の香料を加えることによって多くの読者に受け入れられることを考慮したという。朔太郎自身は、「日本における未来派の詩とその解説」という論考で「あまり進みすぎたるものは、遅れすぎたものよりも危険が多い」と述べる。仮に朔太郎が、論理的錯乱の世界のスタイルを保ち続けていたら、『月に吠える』の詩壇的成功はなかったであろうし、暮鳥の『聖三稜玻璃』の蒙った運命、つまり詩壇からの追放が証明しているという。作品を内容と形式に分けて考えてみると、作品の評価、あるいは読者の好みはそのバランスにあるように思われる。内容重視で表現上の未熟さが目立てば読者を十分に納得させず、反対に形式、つまり表現上の技巧が強調されれば内容は後ろに引くか、無きに等しいものになり、いわゆる難解な詩に堕してしまうだろう。また時代とも連関し、躍動期には方法論が先行する。

 

詩誌「ヒーメロス32号」20016年2月4日発行より一部を紹介