ヒーメロス通信


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アルチュール・ランボー詩集『地獄の季節』より「悪い血」小林稔訳

2014年11月30日 | ランボー研究

アルチュール・ランボー詩集『地獄の季節』より「悪い血」小林稔訳

悪い血

 

ゴールの国の先祖譲りの、眼は青白く、狭苦しい頭と喧嘩のまずさを受けついたおれだ。身につけているものもやつらと同じ野蛮さだ。だがおれは、髪の毛にバターなんかなすりつけたりしない。

 ゴール人たちは獣の皮剥ぎ人で、草を焼く民、当時のもっとも愚かな族であった。

奴らからだ、おれが生まれたのは。つまりは偶像崇拝、冒瀆への愛着。おお!すべての悪徳と怒りと淫蕩。見事なほどの淫蕩というやつ。とりわけ嘘と怠惰。

 おれは仕事という仕事がきらいだ。親方も職人たちも、すべての百姓たちも卑劣な奴らだ。ペンを持つ手も犂を持つ手も同じこと。―何という手の世紀!絶対手など持つものか。それから、召使の身分などいつまでも続く。物乞いの正直さにはがっかりさせられる。犯罪者などは去勢者と同じく嫌悪する。おれはといえば無垢なのだ、そんなこど、おれにはどうでもよいことだ。

 だがしかし! だれがおれの舌をこれほど不実にしたのか、ここまでおれの怠惰を導いたのに? 生きるために、ヒキガエルよりものらくらと体を使うこともしないまま、いろいろなところで生きてきた。おれの知らない家族など一つもない。―おれの家族と同じような家族ばかりと分かる、それはすべて、「人権宣言」を受けついている。―育ちの良い息子たちなど知りつくした!

 

フランスの歴史のどこかに前例があったらなあ!

いや、ない、まったくない。

おれはいつも劣等種族だったのは火を見るより明らかだ。おれは叛逆というものがわからない。おれの種族は略奪のためだけに蜂起する。―自分が殺したんじゃない獣に群がる狼のように。

教会の長女、フランスの歴史を思い出す。

賎民として、おれは聖なる土地を旅したのかもしれない。―おれはシュワ―ベンの平原を目指す道にいる、ビザンチウムの眺めが、ソリムの城塞が脳裏をかすめる。―マリア信仰が、十字架にかけられた人への憐憫が、数々の神を汚す魔術のなかで、おれの心に目覚める。―おれは座っている、癩を病み、陽に蝕まれた壁の足元の、割れた壺とイラクサの上に。―のちに兵隊として、おれはドイツの星の下で夜営したかもしれないのに。

 ああ! まだある。―おれは老婆と子どもたちといっしょに、赤く染まった森の空き地の夜宴で踊っている。

 おれはこの地上とキリスト教より先を思い出すことがない。おれはこの過去の中に自分の姿を見直していたら終わりがないだろう。だがおれはいつも独りだ。家族もなく、その上、おれはどんな言葉をしゃべっていたのか? キリストの教えにも、キリストの代理人のお偉方の教えにも決して従わない。

 おれは前世紀では一体、何であったのだろうか―今日のおれしか見つからない。放浪者はもう見当たらないし、訳のわからぬ戦争もない。劣等種族が全て蔽い隠してしまった。言わば民衆だ、理性だ、―国家と科学だ。

おお! 科学よ! すべて取り返したぞ。肉体のための、魂のための、聖餐だ。我々には医学と哲学がある、―民間薬とアレンジされた大衆的な唄。王子たちの気晴らしと禁じられた遊び! 地理学、宇宙形態説、力学、化学!…

 科学、新興貴族たち! 進歩。世界は動く。なぜ回らないのか?

 これは数の幻影だ。我々は「精神」に向かう。まったく確かなことだ、おれが言っているのは神託のことだ。おれは分かっている。異教の言葉なしでは説明できないから、黙っていたいのだ。

 

異教徒の血が戻ってくる。「精霊」は近づいている。キリストはなぜおれを助けないのか、おれの魂に高貴さと自由を与えておいて。ああ! 福音は去った。福音よ! 福音。

 おれはがつがつと神を待っている。おれはまったく永遠に劣等種族だ。

 おれは今、アルモリカの海岸にいる。なんと街々は夕闇の中で明かりを灯している。おれはヨーロッパを離れる。海の空気はおれの肺を焼く。辺鄙な土地の気候はおれの肌を焼く。泳いで、草を踏みしだき、狩りをして、とりわけタバコをふかし、沸騰した金属のようなきつい酒を飲もう。火を取り囲んで懐かしい祖先たちがしたように。

 おれは戻ってくるだろう、鉄の手足と、黒ずんだ皮膚、憤怒の目をして。おれの顔つきには、人は強い種族の人間だと思うだろう。おれは黄金を入手した。おれは無為で乱暴な奴になってやろう。女たちは灼熱の国から帰った獰猛なこれら疾病者たちの世話をする。おれは政治的事件に巻き込まれるだろう。救われるだろう。

 今、おれは呪われている。おれは祖国が怖い。もっともいいのは、砂浜で酔いつぶれて眠ることだ。

 

 出発は見合わせた。この道をまた歩いて行こう、悪徳を背負って、分別がついたころから、おれの脇腹に苦悩の根を追い立ててきた悪徳。―そいつは天に伸びておれを打ち、逆さにし、おれを引きずる。

 このうえない無邪気さと、このうえない臆病さ。その通り。おれの嫌悪と裏切りを世間に見せるな。

 さあ! 前進、重い荷物、砂漠、倦怠と怒り。

 だれにおれは身を委ねた? 一体どんな獣を崇拝しなければならないのか? どんな聖像を攻撃する? どんな心がおれは打ち砕くことになるのか? どんな嘘をおれはつかなければならないのか? どんな血の中を歩かなければならないのか?

 むしろ、正義というものを見張ることだ。生活はつらく、単純な愚鈍化、干からびた拳で棺の蓋を持ち上げ、座り息をつまらせる。そうなれば老いることもない、危険もない、恐怖はフランス的ではない。

 ―ああ! おれはほんとうに見捨てられた奴で、どんな神の姿にも、完成への情熱を捧げよう。

 おお おれの自己犠牲、おお おれの不可思議な愛徳! それでもここはこの世だ!

 深きトコロヨリ、主ヨ、ああ何という馬鹿なおれ!

 

ほんの子どもだったおれは、監獄に閉じ込められた、扱いにくい徒刑囚を驚嘆していたものだ。おれは彼が滞在で聖化された旅籠屋や貸し部屋を訪れた。おれは彼の思いで青空を眺め、平原の花に取りまかれた労働を見ていたものだ。おれは街々で彼の宿命を嗅ぎつけていた。彼は聖者に勝る力と、旅人に勝る良識を持っていた。―彼一人しかいない、彼の栄光と彼の理性の承認になるのは。

 途上、冬の夜通し、淀もなし、衣服もない、パンもなし、そこである声が凍りついたおれの心をよわさであれ締めつけた。《弱さにせよ強さにせよ、おまえはここにいる、だから強さなのだ。おまえは知らない、自分がどこへ行くのかも、なぜ行くのかも知らない。どこでも好きなところに入ってすべてに応答せよ。おまえが死骸であるかのようにもやはおまえを殺したりしないだろう。》朝に、おれの眼差しは虚ろで、態度はまるで死人、おれがあ出会った奴らには、おそらくおれが見えていなかったであろう。

 街々で突然、泥がおれの目には赤と黒に染まって見えた、ランプが隣の部屋を廻っていくときのガラスのように、森の中の宝物のように。しっかりやれ、とおれは叫んだのだ、そして空に、炎と煙の海を見た。右に左にと、無数の雷鳴のように全ての豊かさが炎を上げて燃えていた。

 しかし、乱痴気騒ぎと女たちとの連帯はおれには禁じられていた。友達一人もいなかった。激しく苛立たせる群衆に前で、死刑執行人と向かい合わせに、彼らに理解しえない不幸に許しを乞うおれの姿が見えた!―まるでジャン・ヌダルク! 《司祭たちよ、教授たちよ、親方たちよ、おれを裁判にかけようだなんてとんでもない間違いだ。おれはこのような奴らの仲間であったことは絶対なかった。キリスト教徒だったことは一度もなかった。おれは刑場で唄っている種族だ。おれは法律がわからない。おれは道徳的感覚をもたない、おれは畜生だし、おまえたちは間違っている…》

そうとも、おれの眼差しは、あなたたちの光には閉ざされているのだ。おれは馬鹿者さ、おれは二グロさ。だが、おれは救われるだろう。おまえたちは偽の二グロさ、偏執狂で、獰猛で、ケチな奴らさ。商人よ、おまえは二グロだ。司法官よ、おまえは二グロだ。将軍よ、おまえは二グロだ。皇帝よ、昔ながらのむずがゆさよ、おまえは二グロだ。おまえはサタンの工場の、無税の酒を飲んだ。―こんな人たちは熱病や厳腫によって吹き込まされている。病人や老人たちとても尊敬すべき人たちなので、煮立てほしいと願っている。―最も利口なやり方は、この大陸を棄てることだ。そこでは狂気が哀れな人々を人質にする権利のためにうろつきまわっている。おれはハムの子孫たちの真の王国に入っていく。

 おれは今でも自然を知っていると言えるか?おれ自身を知っているか?―もはや言葉はない。おれは死人を腹のなかに埋葬した。叫びだ、太鼓だ、踊りだ、踊りだ、踊りだ、踊りだ!白人たちが上陸し、おれは虚無に落ちていくだろう、そのような時などおれは見ようとしない。

 飢えだ、渇きだ、叫びだ、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス!

 

白人たちが上陸する。大砲だ! 洗礼を受け、着服し、仕事だ。

おれは恩恵の一撃を心臓に喰らった。ああ! そんなこと思ってもいなかった。

 おれは何にも悪いことはしていない。月日がおれの側を軽やかに過ぎていった。悔恨などなしで済まされるだろう。善には死んだも同然の魂の苦悩を味わうこともあるまい、その魂に葬儀の大蝋燭のように厳しい光が立ち昇るのだ。名門の息子の命運が、早すぎる棺が、澄んだ涙で覆われる。疑うまでもなく、放蕩は馬鹿げている。悪徳も馬鹿げたことだ。つまり腐敗したものを遠くに抛たなければならない。だが時計は純粋な苦悩の時しか打たないということにはもはやなるまい。おれは子どものように取り連れ去られ、すべての不幸の忘却の中で楽園で遊ぶことになるというのか!

 急げ!他の生き方があるというのか?――富の上に眠り込むのは不可能だ。富というのはいつも大衆のものだった。神の愛だけが知恵の鍵を与える。おれは分かった、自然というものは善良さの見世物ではないということを。さらば幻想よ、理想よ、錯誤よ。

 天使たちの理性的な歌は救世主の船から立ち上がる。これが神の愛だ。二つの愛がある!

おれは地上の愛で死ねる、自己犠牲で死ねる。おれはいく人もの魂を後に残してきた、彼らの苦しみはおれの出発でいや増すであろう魂を。あなたたちは難破した人々の間でおれを選んだのだ。残された人たちもおれの友達ではないのか?

 彼らを救え!理性がおれに生まれた。この世は良い。おれは生活お祝福しよう。兄弟たちを愛そう。もはや子供のころの約束事ではない。老いや死を免れたいという希望でもない。神がおれの力を作った。そしておれは神を称える。

 

倦怠はもうおれの愛するものではない。激怒、放蕩、狂気、おれはそれらの熱情と災厄を全部知っている。――おれのすべての重荷は下ろしてしまった。おれの無垢の広がりを眩暈しないで測りましょう。

 もう棒打ちで力づけることを頼むことはできない。おれがキリストを義父として、婚礼のためにいっしょに舟に乗り込むとは思えない。

 おれはおれの理性の囚人ではない。おれは神と言った。救われて自由が欲しいのだ。どのようにそれを求めよう? 軽薄な好みおれを棄てた。もう献身もいらない、神の愛もいらなあい。もう感じやすいこころの世紀を懐かしんだりしない。侮蔑と慈愛、おれはみんな分かりきったことだ。おれは良識の天使の梯子のてっぺんに腰をすえる。

 決まりきった幸福はどうかといえば、家庭のそれであろうとなかろうと…断じて出来やせぬ。おれは落ち着きがなく、弱すぎるのだ。生活は労働によって開花する、古いくさい真理だ。だがおれの生活には重さがないから吹き飛んで、行動という世界の重心のはるか上空を漂うのだ。おれはまるでオールド・ミスみたいだ、死を愛する勇気が不足している。

 もし神が天上の空気のような穏やかさを、祈りを、与えてくれるなら、……聖者たち!強者たち! 隠遁者、もう必要のない役者たち!

 途切れなくつづく茶番劇!おれの無邪気さには泣きたくなるよ。生活とはみんなが操る茶番劇だ。

 

たくさんだ! ほら罰をくらったぞ。――進め!

 ああ! 胸が燃える、こめかみががんがんする! 夜が陽ざしで、おれの眼の中を転がっていく! 心臓が……四肢が……

 どこへ行くんだ? 戦闘に? おれは弱い! 他の奴らが進んでいく。道具、武器、……時間だ!……

 撃て! おれに向かって撃て! そこだ! さもなくば降伏だ。――臆病者たちよ! おれは自殺する! おれは馬の足元に身を投げる!

 ああ!……

こんなことに慣れるのか。

 これがフランスの生活だろうか、名誉への小道なのだろうか!

 

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若き闘士、羽生結弦よ。

2014年11月12日 | お知らせ

若き闘士、羽生結弦よ。

 

 十四歳の羽生結弦が、テレビの画面を通して私の前に現れたときのことを鮮明に覚えている。全エネルギーを出し切ってスケートを終える彼の姿に、ほかのアスリートにはない魅力で私のこころはぐんぐん引きつけられていった。それ以来、毎年、彼の雄姿を目にするたびに、女の子みたいな外見を裏切る男らしさに感嘆の声を上げるしかない。このひたむきな情熱は彼の身体のどこに潜んでいるのだろう。

 11月8日の惨事、試合直前練習に起きた中国選手エンカンとの激突で、二人はしばらく倒れた身体を立ち上げられずにいた。うつろな視線を氷上に落としていた羽生結弦の額と首は、真っ赤な血で染められていた。

 

 氷上はリングに豹変し、ノックアウトされ血を流す敗者のようではないか。

 

 誰もが試合の棄権を思い描いていたとき、一度抱えられ退場した羽生は、頭部にテープを巻き、出血した顎をテーピングして六分間練習に姿を見せたのであった。「危ない。いったい彼は誰と闘おうとしているのか、棄権すべきだ」と叫んだ解説者の松岡修造は、二十分後の彼の滑りを見て、羽生は自分と闘っているのだという事を知ることになる。結弦は冷静に出場の判断を計っていた。

 蒼白の顔面に少し虚無的な形相を見せて現れた羽生結弦の横顔に、私は詩人ランボーの幻影を一瞬目撃した。

 

 羽生は己れ自身の弱さと闘っている。彼の宿命と闘っているのだ。彼の身に降りかかった東日本大震災の惨事と闘ったのだ。死者と生者を鼓舞するため闘ったのだ。宿命から自由を勝ち取るために。私にとってひとまず、アスリートはメタファーに過ぎない。詩人とは「存在」の深淵を覗き込み、思わず言葉を発する生きものであるのだが、己の「現存」のすべてを一瞬に賭ける羽生結弦というアスリートの雄姿が、同様に「現存」のすべてを生きる詩人である私の内部に棲息する「少年」と共振し合い、おお、同志よ、とそいつが叫びをあげている。

 

 詩の世界にスポーツのような判断の公平さはない。したがって、他者である読み手の心をいかに動揺させるかにすべてはかかっている。無名性を武器とする詩人の挌闘は休みない実践を強いられる。人は羽生結弦の勇気にヒロイズムを讃えるだろう。偶像を見るだろう。しかし、羽生よ、そのようにしてヒーローに仕立てることによって、君に泥(安易な賞賛)を投げつける群衆から遁れよ。詩人に賞を与え、凡庸な詩人を育ててしまうように、君から闘争心を奪ってしまうから。だが、私たち人間への慈愛をもって、私たち人間に内在する情熱と勇気を掘り起こすため、跳び続けよ。君の繊細にして粗野な舞いに、私は私の身体にうごめく「少年」の躍動の跡を追い、言葉を発信する詩人であることを止めない。おお、同志よ。君は跳ぶことによって、私はエクリチュールを織り成すことで、ともに自己変革(自己との闘争)をし続けようではないか。「苦悩はたいへんなものですが、しかも強くあらねばなりません」というランボーの声を聴きながら。

 

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