ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

他者たち 「ヒーメロス38号」小林稔個人誌

2018年03月10日 | ヒーメロス作品

他者たち

 

小林稔

 

 

 

私という自我は取り返すべくもなく、他者をつぎつぎに食して変成

しつづけるのであった。深紅の片(かけら)がいくつもせめぎあう薔薇の愕(うてな)

を思わず唇に含んでそのいとおしさに、口惜しいまでの執念をもっ

て、ひとひらひとひら舌でなでまわしていたころ、友愛を願わずに

はいられない人が私の眼前に現れたのであった。

 

友愛への想いは幼少期まで遡るが、そうした想いの根は思春期を迎

えるにつれ茎を地上に伸ばし、十二歳を過ぎたころから、植物への

欲求の硬い蕾がゆるみ始めていたのであった。そして十六歳にもな

れば、その病根は狂おしいほどの邪悪な願望であるという自覚から、

隠蔽すべき種子を肉体の秘めた部位に蓄えていたとはいえ、増殖す

る細胞の逆らいがたい潮は防波堤を越えて太腿を浸すこともあった。

同化したいという願望が繁殖し始めていたのであった。左肢をひき

ずり右肩の関節をはずしたように歩く彼は、私がなるべき人型であ

ると直覚したのであった。その日から彼の一挙手一投足を真似るよ

うになった。

 

鏡面に向かったときにしばしば起こる相似の感情に捉えられ、逃げ

ようとする思い虚しく、いっそう惹き寄せられた。それは情念(エロース)の引

力のゲームというべきもの、すなわち嘗める他者の肉体だけでなく、

私を牽引する他者の思惟であり、ポエジーに纏(まつ)わるある種の音楽で

あり絵画であった。

 

しなやかな肢体は闇に抛(ほう)られていた。生きものという、たましひを

呼び込んだ物質は凋落の一途を辿る。私のたましひは他者のたまし

ひとの融合を希求し変貌(メタモルフォゼ)の機をうかがっていた。身を焼くほどに

恋焦がれ花びらの襞に踏みこもうと触手を伸ばし舌を這わせる。合

わせ鏡に写された未熟な二体は移り逝く〈時〉のはかなさを知りえ

ているので、いとおしさに抱擁の絆をいっそう強めるのであった。

 

夜明けに肉体は各々所有者に還され、たましひもまた痕跡を残して

納められるのだが、焦がれることによって絶えず浮遊している。痕

跡は記憶され何度も甦生し老いることがない。老いてゆく私の肉体

に幽閉された他者の痕跡は言葉になって私を未知なる域に導いてゆ

く。一本の肢を、突き立てた指を、荒涼とした砂丘の背のくぼみを、

肋骨の下に広がる沼地を、谷間に咲き乱れる百合を讃え、かつて耳

にしたピアノの楽曲が記憶の淵より海面に身を翻す魚のように浮か

び上がり、私の肉体を貫いてさらに深く海底の方へ降下してゆく。

 

十八歳を迎えたとき、晴れ渡る青空と暴風雨打ちつける運命の日、

いくつかの人型で養われた私の肉体は他者の肉体をもって他者のた

ましひに触れるという稀有な、第二の誕生というべき〈時〉に虚無

の階段を真っ逆さまに転げ落ちたのであった。それは他者が私のた

ましひを奪って闇に姿をくらましたからであった。空洞になった私

の肉体は藁人形に過ぎなかったが、時間が記憶の扉を少しずつ開い

て空洞を他者のたましひで満たし始めた。

 

白や黄色や赤の朝露に濡れた花びらに陽が差しこめ、やわらかに縁

取る流線の鮮やかさを加えてゆく薔薇の片(かけら)が外側に向けて夜を開き

やがて萼(うてな)からもがれ地上に落ちふたたび闇に沈む。花々を食み愛で

た私の肉体もまた朽ちるが、他者たちの記憶は、書物に編まれた言

葉の呼びかけによって、生まれてくる他者たちのたましひを凌駕し、

〈非在〉へのさらなる筆記(エクリチュール)を促している。

 



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