ヒーメロス通信


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「ガラスの道」 小林稔詩集「白蛇」より

2016年01月12日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

ガラスの道
小林稔


 粉粉に打ち砕かれ 散乱したガラスの舗道を、素足で歩い

ている。うつむく額に 朝の光が射して、利之は人ひとりい

ないビルディングの谷間をひたすら歩いた。

 羽撃(はばた)きの音が足元で発ち上がった。鳩が飛び立

ったのか、と顔を起こして見たが 思い違いで、記憶を何か

がよぎっていったのだ。踏みしめるガラスの音と 血の破線

だけが、彼の証であるかのようだ。とりわけ悲惨を育ててい

るわけではない。汚れていない画布を水で洗うように、群れ

から離れたこの子羊は、歩いていると 頭の中が透けてくる

ような気がするのだ。

「今日は、ぼくは十四歳になったんだ。希望なんていったっ

てさ、ぼくには力がないから」

 そんな思いに気を取られていたら、左足の踵に挟まったガ

ラスの板が 舗道を滑って、利之は転んだ。ガラスの割れる

音が周囲に響くと、利之の耳元にも共鳴した。

だから、やなんだ。もう考えるのはよそう」

 膝小僧を抱えていたが、力が抜けて、静かに両腕を伸ばし

指は耳元で広げられた。利之の体の輪郭が、朝の光で消えて

いきそうな気配。

「時間だ。時間が来たんだ。時間がぼくを追いかけている」

 靴音がいくつもやって来て、舗道に光るガラスの破片を震

わせている。よろけるようにして立つと、ガラスが背中から

胸に突き刺さっていた。傷みは微塵もない。肩をすぼめては

足跡の真ん中に 滴り落ちる血の破線を引きながら歩いた。

 ガラスのかけらが 風に揺すられ 触れて鳴っている。

 なんという静けさだろう。どうしたことか、舗道に姿を見

せていた人と自動車が、石膏の模型になっていた。

 どこまでも続くガラスの散らばった道の向こうから、フラ

ッシュの洪水が迫った。

 やさしいソプラノのアリアが降ってくる超高層四十七階の

窓窓。四つ角のポリバケツから溢れた残飯。廃品回収の罎。

公衆トイレの便器。風俗営業の看板。踏まれ 舗道にこびり

ついた新聞紙。物たちの眼差しが、静かな動きを止めた彼に

狙(ねら)いを定めていた。



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「芸術家の告白」ボードレール『パリの憂欝』小林稔訳より

2016年01月12日 | ボードレール研究

3 芸術家の告白

 

 秋の夕暮れはなんと心に沁み入ることだろう! ああ! 苦悩にまで沁み入る! というのは、曖昧さが熱烈さを追い払うことはないという、そんな甘美な感覚が確かにあるからだ。「無限」の鋭い切っ先ほど鋭い切っ先はない。

 大いなる恍惚とさせる喜びよ、空と海の広大さの中に視線を溺らせる歓喜こそは! 

孤独よ、沈黙よ、空の青の比類ない純潔よ! 水平線に打ち震え、そのちっぽけさとひとりぼっちさによって、取り返しのつかない私の実存を模倣する一艘の帆船、波のうねりの単調な旋律、このすべての物たちは私によって思考する、あるいは、それらによって私は思考する。(なぜなら、夢想の広大さの中で「自己」は素早く消滅するからだ!)物たちは思考する、とは言え、音楽的に、絵画的に、理屈なく、三段論法もなく、演繹法もなく思考するのだ。

 しかしながらこれらの思考が、私から発するにせよ、物たちから飛び出すにせよ、まもなくあまりにも強烈なものになる。不快さや積極的な苦悩によって作り出された逸楽のなかのエネルギー。あまりにも張りつめた神経は、耳障りな痛々しい顫動だけを与える。

 今、空の深淵が私を唖然とさせる。その透明さが私を苛立たせる。

 海の冷淡さや光景の変わりばえのなさが私を激怒させる…ああ! 永久に苦しまねばならないのか、さもなくば永久に美から逃走しなければならないのか? 自然よ、無慈悲で魅惑的な自然よ、いつも勝ち誇る競争相手よ、私をそっとしておいてくれ! 私の欲望と自尊心を挑発するのをやめよ! 美の研究とは、芸術家が敗北する前に恐怖の叫び声を上げる決闘なのだ。

 

    confiteor =「告白」と訳したが、告解の前にする祈りのことである。

 

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