ヒーメロス通信


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名づけ得ぬもの「詩誌へにあずま53号」

2017年10月07日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

名づけ得ぬもの

           小林 稔

浜辺にしつらえたグランドピアノが叩く狂詩曲

この世の哀しみを蒐め、さざ波となって

寄せては還す記憶の音よ、響け

一つは生まれ出づるすべての生命のため

一つは滅び逝くすべての生命のため

誰一人、永遠を見なかった

正義は救済の名のもとに人々から命を略奪した

一つの無垢な魂のために千の破壊がいるというのか

愛を説き憎悪を躍起する、世界にあまねく宗教という宗教は絶滅せよ

神は見捨てられた我々の頭脳の工作である

己の深淵に降りていく者だけが「名づけ得ぬもの」に出逢うのだ

音楽よ、鳴り響け、私の魂の揺籃に酩酊と光と尊厳を与える音楽よ

 

日本列島の臍を震撼させた一九九五年の冬

炎上する神戸

死が我々の深奥の力を呼び起こした

蛮族の血が騒ぎ物質との絆は断ち切られた

二か月後、首都東京では一個のエゴの成就のために

カリスマが迷える子羊たちを地獄に落とそうとした

比喩を現実と取り違えた愚行のサリン元年

そのころ無垢なる魂の誕生があった

無疵の宝石に比すべき魂は

少年の肉の衣に被われていた

この者の眼に映る世界はどのようであったか

無垢なるがゆえに彼は美しかった

かつて現実を知らなかった

空想と夢は現実に起こりうる事実と地続きであった

その時、彼は言葉の不思議な力を知った

想うことで脳裏に像が実在する

虚構は少年に訪れる偶発事とは決定的に異なっていた

地獄の扉を開けて己の臓腑をひっつかんだ

射精後の世界は廃墟であった

零度の快感が少年の背を駆け抜けた

十三年の過ぎ去った時間から隔離され

彼を取り巻く世界に無数の罅が走る

少年は魔物の息遣いを猫の視線

叱りつける母親の視線に見た

少年は魔物に喰われることに怯えた

すでに魔物は少年の身体を占領していた

十四歳になった少年は分身の魔物を殺した

私は少年に自分に巣くう魔物の幻影を見た

少年に欠けていたもの、それは他者の思想であった

一個の頭脳と思考を司る言葉に

無数の人間の痕跡が眠っている

言葉への崇拝が始まったのは正しかったが

殺人に及んだとき、彼の言葉は死んだ

 

ソファーに身を沈めてまどろんでいた私の視界に

テレビの画面にそびえ立つニューヨークの

双子塔、世界貿易センタービルが映し出される

二〇〇一年九月十一日

遠い地の色をなくした静かな都会の映像

ビルの傷口から降ってくる人と物の破片

リピートする飛行機のビル突入と立ち昇る炎と噴煙

「資本」という名の神は滅び得るのか

二〇一一年、三月十一日

日本列島を激しく揺さぶりつづけた東日本大震災

十メートルを越える高波が三陸沖を呑みこんだ

海辺の原子力発電所からの汚染は次世代に引き継がれ

さらに予測される大地震に人びとは脅える

二〇一七年、朝鮮半島に君臨する狂気の独裁者

ソウル、東京を火の海にし

多くの人命を一瞬のうちに滅ぼす権力を掌握する

 

百年以上前に他者の思想を発見した少年がいた

錯乱を武器に詩を書いたが意図に反して

書き残した詩篇には彼の短い生涯の出来事が反響していた

それゆえ我々の琴線に触れるのだろう

彼は沈黙を余儀なくされた

行為から阻まれた言葉は行為とともに死滅する

詩人は生きながら地獄に降り立ったが

他者の思想が完全には理解されなかった

詩は経験であるという意味の深淵に沈潜し

詩人の足許に訪れた世界の事象から

何を甘受し、いかなる言葉を刻むのか

現実がもたらす比喩を解き明かさねばならない

恣意的な想像を駆使した言葉は悪に魂を委ねることになる

かつて起こったことが後の世にたどられる時

新しい花々が眼前にひらくだろう

今日情報に翻弄された人々の経験が異変をきたしている

かの無垢なる者が見出した他者の思想で武装し

私も地獄の対決は避けられない

 

詩誌「へにあずま」53号2017年9月25日発行

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