ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「不在の館」 小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社より

2016年01月30日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

七 不在の館

    

  《夢よ、愚かしき生よ。汝の魅惑の泡は、海が応える日の煌きのごとし。》

                         十七世紀無名詩人のエピグラフ

 

森を貫く銃声に鳥たちは一斉に飛び立つ。太陽はいくすじもの光線

を葉群の透き間に斜めに射しこみ、足許では水の流れがプレリュー

ドを奏でる。鹿の足音だろうか、落ち葉を打つ音が背後から聞こえ

る。もうずいぶん前から少年は樹木をすり抜けて森の外れに消えた。

 

(時に祝祭の灰塵(かいじん)が……)

 

あの館では暖炉の火が燃えて、戸棚に飾られた絵皿には橇を楽しむ

幼い二人の姉弟が揺れていたり、小さな活字の這う読みかけの本が、

寝椅子の側の床に敷いた年代物のキリム(黄色や赤や青の幾何学模

様はなんて素晴らしいのだろう!)のうえに投げ出されたりしてい

る。不在の主は兎狩りに出ているのではない。横幅三メートルの食

卓には、木片が葉の似像にくりぬかれた容器に盛られた二個の銀製

の胡桃や硝子の花瓶から針金のように伸びる枝枝があり、小さな赤

い実をつけている。

 

黒い窓枠から見える空はすでに灰色に垂れ幕のようにひろがり、遠

くでピアノが旋律をなぞっているように聴こえてくるのだが、四キ

ロメートル離れた海の、砂を曳く波の音がそのひとつひとつに蔽い

かぶさっては鍵盤から放たれた音の足跡を消していく。

 

庭の白い彫像が筋肉を隆起させた臀部はテラスに、右腕はいつか来

るであろう客に向けられ、そのサチュルヌスの滑稽な視線の定まる

ところに、さほど大きくない円型の水盤の中央から水が弱く噴き上

げ、そこから下の水槽にレース状のしずくがこぼれ落ち、丸い水滴

になって水面をころがっている。

 

館の住人は初老の男一人、夕暮れが訪れるまでの時間を書物に費や

し、時折り疲れた眼はつらなる活字を羽虫の群れに変貌させるのだ

が鳥が翼を休めるため枝に宿るように、睡眠が意識の岸辺に顕われ

る、その度にギーという悲鳴をあげる椅子を廻して、窓辺に置いた

書机の抽斗を背に、視線は室内の隅から隅に辿った。

         

雲が畳みこまれた茜色の空を見るにつけ、彼には昔の旅がよみがえ

り、追憶は此岸と彼岸の境を滅して訪れたが、生涯の残された日々

を修辞しようとするので、なされたことなされなかったことを反芻

しつづけなければならなかった。あらゆる事象が彼を呼び、紙片に

書き留められるのを待っているように思われた。

 

(時に翼が机上から羽搏いて……)

 

祖先の息吹が、われわれの身体を神経のように走る血管に翳を落と

すとき、旅人よ、広大なユーラシア大陸を西へと向かう馬群が、立

ち昇る砂塵を従え駆け抜ける幻影を目撃しなかっただろうか。征服

者の盛衰は夢の傷口から溢出する叫びとなり、彼らの信奉する神神

の争いになる。割拠する領土で培われる民族の通貨、すなわち言語

はさまざまな文明を簒奪しながら増殖しイマージュを刻印しつづけ

るだろう。

 

列柱の遠近法を縫うようにつぎつぎに胴体を陽にさらすブロンズの、

大理石の彫像。語りつがれた伝説上の英雄たちの背後から荒波が寄

せ、海上の都を呑みこんでいく。砂に埋もれた古代都市よ、われわ

れの現代の営みも建物も今ある姿は跡形もなく歴史の地層に消える。

 

ベルゲンのフィヨルドからモンテ・ローザの氷河を越え、ローマの

街角のオブジェになりはてた遺跡、アドリア海を南下しエーゲ海の

丘に聳え立つアクロポリスの神殿、さらに東の古都イスタンブール

の尖塔からアジアの邦々がインドまで名をつらねていく。讃えよ、

われわれの幻影(マーャー)は一炊の夢と滅びた虚空に、光がひかりの束を追い

つらぬき、ひとり詩人の言葉、すなわち肉体が見出されんことを。



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