ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

終わりと始まりと/小林稔詩集「夏の氾濫」より

2016年08月04日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年刊より


終わりと始まりと
小林稔

波動が周囲に揺れをおびき寄せ、

君を捕らえたときの私の胸を震わせているのに

君はいない。

いったん曳いた潮が記憶の糸を海原に靡かせているのに、

そいつが再び私の胸に満ちてくるから、

重力をなくした私の肉体が不在の君を握りしめている。

外套を脱ぐように輪郭を

与え合ったのだから

一刻も早くこの郷愁に別れを告げなければならない。


君の微笑は蝶のように舞い上がって私の目蓋に消えていく。

失速する未来への想いに胸が引きちぎられ

目覚めると 君の名を呼ぶ。

君は薄闇のどこからか現われるから 私も微笑する。

幻影の君が微笑しているのか、微笑している私が幻影なのか分からなくなる。

でも 目覚めるのを終わりにするわけにはいかない。


踵をくるりと返す君の素足の指先から まっすぐに道が伸びている。

たよりなく静かな足音を響かせ、白い空の境に去っていくだろう。

その道は私の故郷へ続いていて、君が擦れ違うと

私の記憶が一つ一つしおれていく。


君が背を向けた道を私は辿らなければならない。

道端の花が私の足元で咲くと、君の匂いが立ち込めてくる。

かつて君を包んだ私の指が、唇が、眼が、胸が、君のかたちをさぐり直そうとする。


     (昨日のまでのぼくをどこに置いてきてしまったのだろう。)

     (ぼくを呼んでいる声がする。それは道の向こうから聞こえてくる。)

     (あなたは誰?)


いつか君と逢えるときがあるなら、この道の果てではないのだろうか。

白髪の老人が私と道端で擦れ違った。

私には覚えがなかった。

老人はしばらく私を見つめていたが、

やがて私が進む道と正反対の道を歩いていった。



copyright 1999 以心社

無断転載を禁じます。


オベリスク/小林稔詩集「夏の氾濫」より

2016年07月22日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

オベリスク  
小林稔

すっぽりえぐられた私の胸の入江に夕陽が落ち
魂をかすめていった君の幻影がたゆたって
いくつもの帆船を浮かべてみたが無残であった。
海水にもつれあった神経の糸が見え隠れして
私を海上の道に連れ出さない。
その一本が君の心臓に弱電を送りつづけている。
可能な限り遠くへ旅立つ君の瞳に 砕けた私の破片が見えているのだろうか。

教会でモーツアルトのレクイエムを聴く。
垂れ込めた鉛色の空のした
ふたりの脳髄を声が昇りつめるが、
サンミシェル広場に向けてサンジェルマン通りを急がなければならない。
カルチュラタンの路地を散策し
リュクサンブル公園に行くと 噴水のある泉に舟を浮かべている男の子がいる。
サンミッシェル通りを外れまで歩くと
地下鉄ポートロワイアル駅の近くに昔泊まった安ホテルがある。
水晶のようにきらめいている君の瞳に私の心は弾む。
コンコルド広場のオベリスクに辿り着こうと
交差点に立つ君と私が見えるが、
いつのまにか君は梅田の陸橋を渡って人混みにのまれ消えてしまった。

  空までつづいた坂道をぼくは歩いて行くんだ。
  粉々になった兄を拾いに、
  記憶を火で焚きながら、かつて喜び勇んだぼくが、
  今は不安でぼろぼろになった身体を引きずり
  坂の反対の斜面を登ってくる男に逢いに行くんだ。

初めって逢った日の君の微笑む顔がいくども私に向けられ
向けられるたびに優しく、向けられるたびに強く
私の心に烏口が引かれるので痛い痛い。
君に逢うまでの私の過去は消えてしまった。
たぐり寄せる糸がどんな時の流れに漂うのか。
砕けた夕陽が水面に揺れている。

いっそ夕陽になって揺れてみようか。
  
             小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年6月30日発行より。


「オベリスク」小林稔詩集「夏の氾濫」1999年天使舎刊

2016年04月07日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

オベリスク  
小林稔

すっぽりえぐられた私の胸の入江に夕陽が落ち
魂をかすめていった君の幻影がたゆたって
いくつもの帆船を浮かべてみたが無残であった。
海水にもつれあった神経の糸が見え隠れして
私を海上の道に連れ出さない。
その一本が君の心臓に弱電を送りつづけている。
可能な限り遠くへ旅立つ君の瞳に 砕けた私の破片が見えているのだろうか。

教会でモーツアルトのレクイエムを聴く。
垂れ込めた鉛色の空のした
ふたりの脳髄を声が昇りつめるが、
サンミシェル広場に向けてサンジェルマン通りを急がなければならない。
カルチュラタンの路地を散策し
リュクサンブル公園に行くと 噴水のある泉に舟を浮かべている男の子がいる。
サンミッシェル通りを外れまで歩くと
地下鉄ポートロワイアル駅の近くに昔泊まった安ホテルがある。
水晶のようにきらめいている君の瞳に私の心は弾む。
コンコルド広場のオベリスクに辿り着こうと
交差点に立つ君と私が見えるが、
いつのまにか君は梅田の陸橋を渡って人混みにのまれ消えてしまった。

  空までつづいた坂道をぼくは歩いて行くんだ。
  粉々になった兄を拾いに、
  記憶を火で焚きながら、かつて喜び勇んだぼくが、
  今は不安でぼろぼろになった身体を引きずり
  坂の反対の斜面を登ってくる男に逢いに行くんだ。

初めって逢った日の君の微笑む顔がいくども私に向けられ
向けられるたびに優しく、向けられるたびに強く
私の心に烏口が引かれるので痛い痛い。
君に逢うまでの私の過去は消えてしまった。
たぐり寄せる糸がどんな時の流れに漂うのか。
砕けた夕陽が水面に揺れている。

いっそ夕陽になって揺れてみようか。
  
             小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年6月30日発行より。


「夏の氾濫」 小林稔詩集『夏の氾濫』より掲載

2015年12月29日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年(旧天使舎)以心社刊より


夏の氾濫
小林稔


泡しぶきが砂の要塞に雪崩れて、
洪水のように乗り上げる。
あなたの胸の扉を拓くと海が見えた。
海底ではピアノが物憂い音を鳴らしている。
突如、蒼穹を割ってきんいろの雷霆(らいてい)が落っこちた。
あなたはいない。
潮風はたしかにあなたの在処を教えているのに
ぼくは その謎のもつれた糸がほどけない。
海の青と空の青の彼方から沸き立つ微風が
鳥の羽ばたきのように書物の紙片を繰っている。
きっと あなただ、
息のあなたがぼくの髪をなびかせている。
砂が焼いた足裏を海水が鎮めてくれるけど
親指の震えが止まらない。
真綿のような雲が流れるのを見ていたら
背中から抱えられる気配に振り返って
ぼくの視線は砂の上の自分の影を捕らえた。

      私の領土に臨んだのは君だ。
      私の広げた両の腕の入江が仕掛けた罠に、
      迷い込んだ小鳥のような瞳の粗雑と無垢が君だ。
      君が運んできた若さが、褪せた私の青春をよみがえらせ
      私は躍った。悔やむことが何になる。
      君は肉をひくひくさせ 歓喜の声を洩らしたのだ。

あなたの微笑みに隠された獣の匂いがこわい。
あなたの優しさが ぼくの柔らかい部分に走る刃物だ。

      「さあ、地獄へ行こう」と戯れる私に、
      「うん、いいよ」と君は、はにかみに答えた。
      二人の笑いで視界がちぎれ、白痴の地獄の扉が軋んだ。
      海色に染まった君だから、もう父の家には帰れない。


デルフィー。世界の臍。古代のギリシア人がそう呼んだ聖域。
アポロン神殿の廃墟に立つと風が垂直に身体を吹き抜けた。
涯から来た私はもう一方の涯のアジアに視線を投げた。
私の胸に耳を載せよ。君には聞こえるだろうか。
旅から旅へと駆り立てた私の青春の血の鼓動が。

      知るもんか。あなたの匂いを石鹸で洗い落とせたらいいのに。
      あなたの視線をぼくだけに奪っていられたらいいのに。
      時間が止められるなら、
      波のレースの階段を 石蹴りするみたいに片足で昇ってみせる。

海の微風は君に何を唆(そそのか)したのか。

      父に叛逆(そむ)いたぼくの罰。あなたの汚れた策略。

喰らい合う渇きの肉が精神を妊(はら)ませる莢(さや)なのだ。

(飯を炊き葱を刻む日常の比喩をめくれ。せめぎ苛む肉の欲を解き未明の路上
に立ち、踏み込む街角のざわめきを予感する静かな朝に出立せよ。
偶像をぶち割れ。己の身体から湧き出る力のみを信ぜよ。贋神を攫まされるな。
愛こそ世界の謂い。愛と美の力学を構築せよ。)


海から冷たい微風が寄せている朝、
太陽は大空を赤らめ水面を揺さぶり始めるが、
まだ海底に沈んだままだ。
島は岩肌をあらわに眠っている。

太陽が昇ると 静寂が薄明といっしょに左右の端に追われていく、
物質文明の罠に陥った子供たちから遠く離れて。
彼らが墜ちる地獄はない。神もない。
ついにハルマゲドンが到来する、ことはない。
煙のように現われては消えていく、
甘えながら反抗する猫っかぶりの、おお兄弟たち。
世界は失われていない。
太陽は約束をしたように世界を照らすだろう。

私たちの情愛が世界を拓く千年紀の終わりと始まり、
陶酔と睡りの後で物質は歓喜に打ち震えるだろう。
岩礁が波に目覚めるだろう。

いつも今だ、現在だ。
君が扉を開けると潮があふれ花びらあふれ

死するならば夏。廻(めぐ)り還るならば海。




Copyright 1999 以心社
無断転載禁じます。


「海よ」 小林稔詩集『夏の氾濫』より掲載

2015年12月25日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年より

海よ
小林稔

海よ、私の身をどこへ連れ出そうとしているのか。
私が生まれて間もない頃、世界は重油で浸されていた。
今また、私は揺籃の海に漂う流木のようではないか。
君の声が舞い上がる蝶のようで、
いくつもの海原を渡ってくる気がしてならないではないか。

(音を消したテレビの画面で、ビルが崩れ落ちていく。炎が上がり、民家の外
壁が厚紙のように舞い、倒壊した家の人々が泣き叫んでいる。盛った砂山が、
打ちつける波に壊されるように、私の心が霧散する音、を聴き取っていた。見
えていたものが見えなくなる。)

生命が物質に宿るとき何が起こっているのだろう、
と、初めてこんなことぼくらは話したね、と言いながら
きらめいた君の瞳の奥に、
宇宙の塵のような君と私の、危うい結びつきの糸のようなものを私は見たのだが、
それが真実結ばれていたか知れなかった。

真昼の青の海は私の細胞に染み亘る。
岸辺に泡と消える波のように
私の想いが寄せてはまた滅びて寄せる。
やがて時が経ち、私の肉体と君の肉体がばらばらに失せ、
土になり岩になり樹木になるだろう。

私は今日、曲がりくねった道を曲がりくねって
一握りの人と会い、君に遠くから叫んで
いくつもの顔のバリケードに阻まれ、
封印されて今は私も解読できない伝言を君に伝えようとする、

海よ、私の想いをどこへ漂着させようとするのか。
私が見て、聞いて、触れて、味わったこの世界への欲望と断念、
その言葉と意味をどこへ辿り着かせようとするのか。




copyright 1999 以心社
無断転載禁じます。