ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

斉藤征義「三陸鉄道北リアス線」・橋本征子「柘榴」、詩誌「極光」17号。2012年1月31日発行。

2012年02月25日 | 同人雑誌評

贈られてきた同人雑誌より(1)

斉藤征義「三陸鉄道北リアス線」、橋本征子「柘榴」
詩誌『極光』第17号20012年1月31日発行

 

 長年詩を書きついてきたであろう、北海道に在住する実力のある16名の同人が、
それぞれ一家をなすような詩作品を掲載している。今回特に心に残ったのが、去
年の3・11の東北大震災に訴えかける斉藤征義氏の「三陸鉄道北リアス線」と、橋
本征子氏の「柘榴」であった。まず前者は関東地方にまで放射線を運んできて下
水処理場を汚染した出来事を描いている。

 3月15日の雨が 北西方向へ泥の帯をくねらせ
 だれがそんなに急がせたのか
 だれの眼にも見えない胞子を吐き
 紺青色キラキラ青く
 だれの眼にも逆さまに映った
 モササウルスの骨にからまり
 ねらいどおりに
 都市をねらったのだ
               「三陸鉄道北リアス線」第二連

 モササウルス(海の王者とも言われる白亜紀に生存した大型動物)の形状を借
りて雲を表現している。都市まで運ばれた雲(放射線ブルーム)に降る雨が放射
線を撒き散らした。実際、3月15日に関東地方を襲った事件であった。

 ブドリよ
 でてこい
 ねらいどおりに
 トーキョーをふるえあがらせたぞ
               「同」第四連

 ブドリとは、宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」のブドリであろう。地
熱発電を開発した科学者で、フクシマ原発と科学者のあるべき姿を重ねて呼びか
けているのだろうか。もう一度この童話を読んでみようと思った。その後の連で
は震災で破壊された鉄路が描写されている。

 このさざなみの重さ
 重く 重く ふるえる青い光の重量が
 わたしをわたし自身であろうとする根拠を
 ぐらぐらさせる
           「同」第六連最終行

 ここから詩人の心情の吐露が始まっている。今回の震災と原発事故で日本人の
多くが自分自身の根拠を危くさせられたのではないか。

 ここまできたら もう滅びることはかいまみえているのに
                        「同」第七連の部分
 
 なんという絶望感だ。わたしたちはついにここまできてしまった。深く沈んだ
沿岸を思うにつれ、どうすればいいかなど想をえることなど愚かしくさえなるの
だ。わたしたち皆が持ってしまった無力感であろう。

 見えない敵に引張られて
 もう ファンタジーは何も救ってはくれない
 線量計の数字が
 ふるえている
                        「同」最終連

 このような現況から今後、文学は詩は何を語ることができるのか。一人ひとり
の自己がいかに生きていくべきか、自分に問いただす創作行為に向かうだろうと
私は思えてならない。斉藤氏の「三陸鉄道北リアス線」という作品は、無駄のな
い言葉で創造力を駆使して私たちに今一度、今回の震災の意味を脳裡に焼き付け
てくれる秀作であった。

 もう一つの作品。橋本征子「柘榴」は、果実の存在感を周囲にまつわる人間と
その事象を置きながら鮮やかに描き出している。現在時から始まり、過去時にさ
かのぼるが。その境界はいっそう不分別になっていく。二連目はルアンダの少年
から渡された柘榴を裂き、食む行為を描いているのであろう。そうしているうち
に、次の連ではルアンダの内戦の追憶の場面で、赤ん坊に乳をあげる少女の乳房
の形状に柘榴を見ている。つまりここでは柘榴を主役に立てながら、人事を(そ
れは刻々と移りゆく!)、背景に印象深く映像のように流しながら、いつも変わ
らない柘榴の姿を私たちの眼前に克明に描写しているように思う。

 喰らいつく 甘くて酸っぱい血のに凝り
 強く吸いとった果汁が粘つくように わ
 たしの喉を通る がりがりと噛んだ種子
  舌を刺激し 苦さを残す 吐き出され
 た種子の累積 固く紅い果皮の不規則な
 炸裂 食いちぎられた皿の上の柘榴は空
 気に触れて 赤黒く変色し 小動物の臓
 物にも見える 柘榴がフランス語で榴弾
を意味することを知ったのは何時の頃だ
ったろうか
               「柘榴」第二連後半部

 これらに作品のほかにも、巻頭の、岩木誠一郎氏の『遠い空』や、原子修氏の
『叙事詩「原郷創造」第一楽章 祖霊巡歴 水の祖霊、天津波』の連作を興味深
く読んだ。


エセー『「自己への配慮」と詩人像』(五)小林稔個人誌『ヒーメロス』13号から転載。

2012年02月24日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
〔長期連載エセー〕
自己への配慮と詩人像(五)    小林稔季刊個人誌「ヒーメロス」13号2010年3月5日発行に掲載
小林 稔


20 聴覚の受動性とロギコスであるという能動性

前回は、哲学者の修練はロゴスの主体化である、というところまで考察した。一方、キリスト教のそれは、自己放棄に向かう過程で、告解という形式を取る。このとき主体は真実の言説において客観化を行なうのに対して、ヘレニズム・ローマ期では、真実の自己客観化ではなく実践や訓練において、真実の言説を主体化することであるとフーコーは『主体の解釈学』で論述している。その書物に沿って、真実の言説の主体化としての修練に必要な形式を詳しく見てみよう。一次的な形式の第一段階は聴くことや読み書きや語ることに関する技法や実践であるとして、フーコーは順次説明していく。
 まず聴くことは、口承的な文化にとってロゴスを集めることであった。アレーテイア(真実の言説)からエートス(行動の基本原則)は聴収から始まる。プルタルコスは『聴くことについて』という論文で、聴覚はすべての感覚の中でもっともパテーティコス(受動的)であると同時にロギコス(ロゴス的)であると述べる。視覚や触覚は避けることが可能だ、だが聴覚は外界に対して無防備であり、不意打ちを食らうこともあり、聴くことで驚いたり、動揺させられる、つまりそれが受動的ということである。また聴覚は他のどの感覚より強く魂を魅惑するものであるとプルタルコスは主張する。
 オデュッセウスという英雄はすべての感覚に打ち勝ち、自分自身を完全に統治し、快楽を拒むのだが、セイレーンたちの歌と音楽に魅了されてしまう話は、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』に現されている通り有名である。彼は水夫たちの耳を蜜蝋で塞いで聴こえないようにし、自分自身は帆柱に自らの身
を縛りつけて、誘惑を退けるのである。オデュッセウスは聴覚がいかにパテーティコス、つまり受動的であることをよく知っていたからだとフーコーはいう。プラトンが『国家』においていわゆる詩人追放論を論じていることもフーコーは示唆している。このことについては後の章で論を展開してみたい。聴覚の両義性としてプルタルコスは他の感覚よりもロゴスを最もよく受容できる感覚であることを主張する。「聴覚以外の感覚は、本質的には快楽(眼の快楽、味の快楽、触れる快楽)に導く」が「また、視覚的な誤謬、目の誤謬」にも導き、「悪徳を学ぶ」ものである。聴覚は、「徳を学ぶことのできる唯一の感覚である。」「徳はロゴスから、すなわち理性的な言語、実際に現前し、表現される言語、おとにおいて言語的に分解され、理性によって理性的に分節された言語から切り離すことができないからである」とフーコーはプルタルコスの主張を説明する。プルタルコスのいう聴覚の両義性は、ローマ期(一、二世紀)の文献でも見つけられるとフーコーはいう。例えばフーコーは、セネカの書簡集一〇八とエピクテトスを挙げている。
 セネカは聴覚の受動性の利点というものを考える。受動的な態度で臨んでもロゴスは魂になんらかの働きかけをし哲学を学ぶ人だけでなく、周りにいる人にも有益なものをあたえるとセネカは述べる。つまりロゴスによって覚醒されられるということであり、ロゴスの本性にもと基づくことであるという考えである。一方、哲学の活用という点では活用できる者とできない者の違いが生じる。ロゴスは自動的に魂に影響を与えることができるが、実際に活用するにはある技法が必要であるとセネカは説く。その技法は後に考察することにして、次にエピクテトスの『人生談義』では同じ問題を取り上げている。エピステトスは聴覚そのものが危険に晒されていることを指摘し、聴覚はロゴス的な能動的な活動を引き起こすが、一方でパトスの次元に属する何かがあるという。ロゴスはそのままでは現われず、「聞き手の魂まで至るためには発話が必要であるという。発話を可能にするには、言説的な組織に結びついた要素」が必要であり、一つはレクシス(表現法)であるという。聞き手は語られることだけでなく、レクシスの要素や語彙の要素に留まる危険がある。エンペイリア(能力や経験)とトリペー(熱心な実践)が語るときと同様に必要だという。有害なものになり得る聴覚の受動性を排除し、ロゴスを純粋な状態で受け入れるか、ロゴス的な聴取の純化をいかにすべきかという問題に移って三つの方法をフーコーは取り上げている。第一の方法は沈黙である。饒舌は哲学を学ぼうとする入門者が第一に治すべき悪徳であるという。「沈黙には深みというか神秘的なところがある」とプルタルコスは『饒舌について』で述べている。語ることを学ぶのはその後でよいということであろう。
 沈黙についてはすでにピュタゴラス学派が主張した古い規則であり、教育や議論の過程で五年間は語る権利を持たず、ひたすら聴かなければならなかったとフーコーは、ポルフェリオスの『ピュタゴラス伝』を読み解いて述べ、ストア派でもこの教えを継承していることを指摘する。「言語と対立する沈黙という節制の歴史が霊性においてどのような役割を果たしたのか」を考えなければならない。プルタルコスにとっては、教育の基本原則であるばかりでなく、「ひとは一生涯言葉の厳密な節制によってみずからを支配しなければならない」ということであったとフーコーは解読する。言葉の厳密な節制はいかなる点において必要なのか。プルタルコスは次のように考える。賢者が語るのを聴いたり、詩の朗誦や格言の引用を聞いたりしたとき、記憶し保持しなければならない。言説にすぐに変換してはならない。「沈黙のオーラや王冠で飾ってやらなければならない。饒舌な人はロゴスを保持できず、自分の言説に流しだしてしまう。饒舌な人は空の瓶であると。つまり沈黙がロゴスの所有に大切であるということである。フーコーはキリスト教的霊性では言葉と沈黙の配分規則はまったく異なるという。
フーコーが分析している聴取を純化させる一番目の方法は沈黙だったが、二番目の方法はある種の能動的態度である。物理的な面での態度とは身体の不動性である。聴取は聞き手に身体の平静さを要求する。身体は魂の平静さを表現すると考えられていた。魂の語られている事柄への注意や透明性の質を保証していると考えられていたとフーコーは論述している。

 21 聞き手と話し手の交流における注意の記号論

 魂が語られたロゴスを障害物なしに受け取るには身体は沈着冷静でなければならないと考えられていたが、一方ではロゴスを十分に理解し受け取られていることを聞き手の身体は示さなければならない、つまり話し手と聞き手の記号論的なシステムがあったことを、フーコーは、フィロンの『瞑想的生活について』という文献を引き論述している。聞き手は演説者の方に顔を向けなければならないと記されている。古代の身体文化の視点から興味深いとフーコーはいう。身体の動揺、意志に元図かない動き、自発的な動きに好意的でない判断をし、不動の彫刻的な造形が道徳的性格のほしょうとして重要であった。またそれは、演説者の身振り、説得しようとしている人の身振りは的確な言語を構成していると説明する。無作法な身振りや身体の絶え間ない動きは、魂や精神や注意の絶え間ない動揺の肉体的な現われと考えられていたとフーコーは解いている。フィロンは理解していることを示すような記号が必要であると考える。例え
ば、話に賛成したときは微笑みや頭の軽い動き、話についていけないときは頭をゆっくり横に振り、右手
の人差し指を上げるなど、つまりは沈黙の重要性を伝えているのだとフーコーは説明する。
 真実の言説のよき聴取の一番目は終えて、二番目は聞き手の契約、あるいは意志の表明を身体的な態度で示すこととは別の方法をフーコーは取り上げる。エピクテトスの『人生談義』に次のような話がある。師(エピクテトス)の話を聞きにきた若者の一人に、香水をつけ髪を縮れさせた若者がいた。彼は師に私に注意を払ってくれなかったことを訴える場面がある。エピクテトスは「君は私を刺激しない。君と議論してどうなるのか教えてくれ。私に欲望を起こさせてくれ。君自身の聴く能力を示してくれたまえ。」つまり、若者の着飾り髪をなでつけた姿では、哲学を聴くことはできないと師は言いたいのだ。この話にはソクラテス的主題が暗示され、ソクラテスのように少年の美しさという魅惑に抵抗するからだとフーコーはいう。しかし、真理を聴き取るためにエロスが必要だとするソクラテス的なものはない。ソクラテスは生徒に肉体的な美を感じ取るが、その誘惑に対しては屈しない。アルキビアデスが指導を求め自分を追いかける魂の美しさへの愛に基づく愛がソクラテスにはある。しかしエピクテトスが香水をつける若者を拒否するのは、真理にしか関心を寄せてはならないということに過ぎない、「師の言説における真理の聴取の非エロス化である」とフーコーは読み解いている。
 
  22 自分自身に対するすばやい視線で聴取を締めくくる

 フーコーが語る真実の言説のよき聴取の三番目は、哲学的言説は修辞的な言説と完全には対立しないということである。真理のロゴスを通して語られたことを捉えなければならない。聞き手の能動性を重視しなければならないということである。形式の美しさや、文法や語彙、ソフィスト的な瑣末な議論に注意を向けてはならず、表現の指示対象に向けるべきだということ。セネカの書簡集一〇八をふたたびフーコーは取り上げ説明している。ウェルギリウスの『農耕詩』からの引用で、「時は急ぎ去って再び帰らず」という表現がある。文法家が留意するのは、この詩人が「いつも病と老年をひとつにしている」ということであるが、セネカは詩人(ウェルギリウス)が老年に「わびしい」という形容詞をつけていることを指摘する。セネカの解釈は次のようになる。「最も美しい日々は最初に奪い去られる。だから私たちも歩みを早めて、最も先に逃れ去ってしまうものと肩を並べられるようにしないでよいだろうか。最もよいものはあっというまに過ぎ去り、最も悪いものがそれに続く。」セネカは似た引用を見つけたり、語の結合を指摘したりする文法家の方法をしりぞける。また、あるひとつの命題から始め、要素ごとに変化させ、行為的な教えへと近づいていく聴取もある。このような二つの側面(語られた真理と与えられる教え)から聞き取った後で記憶化の活動が始まるとフーコーはいう。聴取の倫理において伝統的に与えられる忠告が生まれる。「だれかが重要なことを言うのを聴いたとき、すぐに細々した議論を始めてはならず、沈思黙考して聴いたことを心によく刻み、自分自身をすばやく吟味しなければならない。」さらに「自分自身にすばやく目をやって、どこまで進んだのかを確認し、すでに持っている備えと比べてどのくらい新しいことを聴いたり学んだりしたのかを調べ、どの段階まで、どの程度まで自分を完成させることができたのかを見る」、このように魂が自分自身に注意を払うことによって身についた言説となると、フーコーは真実の言説の主体化について述べる。

23 思考の主体への働きかけを目的とする「省察」の概念

 真実の言説の主体化に必要な形式の聴くことについて考えてみたが、次は読むことと書くことをフーコーとともに考えていこう。ギリシア・ローマ期では作品の要約が重要視されている。作品をくまなく読み理解するのではなく、重要と思われる節を選んで読むことが広く行なわれていたとフーコーは指摘する。なぜならば、理論の基本原則を何度も呼び起こし、同化し、それについて語る主体になることが要求されているからだ、例えばエピクロスは死後弟子たちによって作られた要約によって知られていたという。要約のほかに、作家の命題や省察を集め文通相手に送ることがセネカとル伐りウスのあいだで行なわれていた。哲学的な読書の対象や目的は、ある作家の作品を知ることではなく、理論を深く理解することでもない、読書によって省察の機会を与えることであるとフーコーは分析する。この「省察」という言葉の意味を私たちの考えるそれとははなはだしく相違していることを指摘する。
 まず私たちが今日使っている「省察」の意味は、あることについて特別の集中力で思考しようと試みることであり、規則的な順序で思考を発展させることである。「省察」という語はフランス語ではmedeitationであるが、ラテン語のmeditatioから由来する。さらにそれはギリシア語のメレテーであり、動詞形はメレターンである。メレターンとは訓練する、熟練するという意味であり、ギュムナゼインと近い意味を持つが、ギュムナゼインは事柄それ自体に立ち向かう方法に対して、メレターンは思考訓練を意味する。つまりメレターンは思考によって自分のものにする訓練のことであるとフーコーは解いている。したがってラテン語に翻訳したメディターティオとは、真理が精神に刻み込まれ、なおかつ必要なときにはすぐに思い出し、行為の原則とすることができるようにする。真実を思考する主体から行動する主体への移行であるといえよう。さらにもう一つの役割をあたえている。それは主体が対象に働きかけることである。フーコーは死についての省察を例に挙げている。ギリシア・ラテン期の人々が死について省察するとは、死につつある人の状況に思考によって身を置くことだ。「思考によって、死につつある人あるいは今にも死のうとしている人になる、ということ」であるという。省察という実践の歴史をたどり直さなければならない、つまり古代における省察、gン視キリスト教における省察、十六世紀から十七世紀におけるその復活、あるいは新たな重要性というようにたどることだ、とフーコーは主張する。主体の思考に対する働きかけでなく、思考の主体への働きかけである。とりわけ十七世紀のデカルトが『省察』を書いたのは後者の意味においてであった。フーコーによると、デカルトはすべてを疑う主体の状況に身を置くが、疑いえるものの存在を問い尋ねることではなく、疑いえぬものを探求する者の状況に身を置くことであり、ここには、思考の効果の関係における主体の位置の移動があるという。デカルトの省察には古代における省察の継承があるということであろう。ギリシア・ラテン期では、「主体が思考によって虚構の状況に身を置き、そこで自分を試練にかけることという省察的な機能ゆえにこそ、哲学的読書は多くの場合作者に無関心であり、文や格言が置かれたコンテクストにも無関心なのだ」とフーコーは述べる。この時期に一般的である実践的な行為への強い主張を感じることができるのである。ある作品で作者が言いたかったことを理解するのではなく、自分のものとなる命題を見つけ出し、行動の原則とすることである。

  24「こうして思考したり書いたり文章を読んでいるときにも死は私を襲いうる」

 フーコーによると、一、二世紀には書くことは自己訓練の重要な要素となり強化されていたという。読むことと書くことは密接な関係を保ち、省察をする上で必須のことだったのである。セネカは読むことと書くことをバランスよくしなければならないと『書簡八四』で述べている。「読書によって集めたものを、文章の表現によって作品化しなくてはならない。書くことが作品化を保証してくれる。」また、エピクテトスは「省察し(メレターン)、書き(グラフィエン)訓練する(ギュムナゼイン)することが必要である。」と述べている。そして次のように結論する。「こうして思考したり書いたり文章を読んでいるときにも、死は私を襲いうる」と。つまり書くことは訓練の一要素なのである。この訓練は二つの利点を持っているとフーコーは分析する。一つは自分自身のための使用である。各琴で思考している事柄に同化することができる。魂や身体に植えつけられ習慣のようなものになる。実際、読んだ後に書き、それを声を出して読み直すことを習慣とするように勧められていたのである。真理やロゴスを自分のものとするための肉体的な訓練である。読み、書き、読み直すことはpraemeditatio molorum、災悪をあらかじめ予期する訓練の一部であったとフーコーは解く。もう一つは、他人に役立つための使用である。一、二世紀には文通が極めて重要な媒介手段であった。互いに自分自身について知らせること、相手の魂に生じていることを問い合わせること、それを知らせてくれるようにたずねることである。この活動には、相手の状態についてたずね忠告を与えること、相手に与える忠告を自分も記憶することを可能にする二面性がある。つまり文通によって恒常的に自己指導の状態に身を置きつづけることができるのだとフーコーは要約する。
 十六世紀のヨーロッパで内面の日記や人生の航海日誌、文通が復活したことにフーコーは関心を寄せている。しかしその内実は大変違うものである。セネカの書簡やプルタルコスの著作では、自伝を書くということは見られないが、キリスト教の影響(例えば聖アウグスティヌスの『告白』)があり、十六世紀では自伝が中心的なテーマであったことに注意する。「どのように真理を語る主体になるか」というテーマから「どのように自分について真理を語ることができるか」というテーマへの移行があったことをフーコーは指摘している。
 
  25 自己について真理を語ることが主体の自分自身との関係の基本原則となる瞬間

 キリスト教では、師のすべての言葉は聖書のエクリチュールとの関係においてなされるが、キリスト教の霊性や司牧制に見出され、多くの場合異なった人間によって、教育、説教、告解などの役割が分かれ、さまざまな軋轢があるとフーコーはいう。しかしフーコーの関心は導かれる者が何か言うべきことを持ち、真理を語らねばならないという点にある。このとこはそれ以前の世界、古代ギリシアヘレニズム、ローマの世界にはなかったものだからである。導かれる者が語るべき真理とは彼自身の真理である。それは救いのために必要な手続きであり、主体の自己練磨や自己変容の技術として司牧的な綱領に書き込まれ、西洋の主体性の歴史あるいは主体と真理の関係の歴史において大変重要な瞬間であるとフーコーは指摘する。この瞬間、自己について真実を語ることは、共同体の帰属のために必要な要素になったのだという。告解を拒否するものは破門されたのである。
 古代ギリシア、ヘレニズム、ローマでは自己の真理を話すことは必要とされなかった。もちろん司法機関で宗教的な実践においては告白は要求されたが、キリスト教に見られるような霊的告白とは異なるとフーコーはいう。主体は真理の主体にならなければならず、真実の言説を師から聴くことから始まるのである。前記したように沈黙が尊ばれたのである。ソクラテスは相手の無知を気づかせ主体を試練にかけので
ある。対話や語録で導かれる者から奪い取る言葉は、つまりは師の言説に真理の全体があるということを示しているとフーコーは解釈する。さらにフーコーは師の言葉とは何かを論述していく。「真実のゲームにおいて、真実の言説が主体化されるゲームにおいて、師の言説やそれが展開する方法が介在する余地はあるのだろうか」とフーコーは問い、ここにパレーシアという概念が現れるという。弟子(導かれる者が沈黙で応じるように、師はパレーシアの原理に従う言説をしなければならず、弟子において主体化された真実の言説になるために必要なことなのであると分析する。パレーシアとは率直であること、心を開くことなどの意味がある。パレーシアとはすべての語る主体に要求される道徳的資質であるとフーコーはいう。
 さらに詳しくフーコーは説明している。哲学とレトリックの問題を考えたとき、古代ギリシアからローマ帝国滅亡まで多くの争いがあった。「ある種の言語的な身体がなければ哲学的なロゴスはない。言語的身体とは、固有の性質を持ち、固有の造形を持ち、悲壮感を醸し出すものであり、必要な諸要素は、語り手が哲学者である場合には、レトリックという術(弁論術)というテクネーであってはならない。技法でも倫理でもあるもの、術でも道徳でもあるもの、それこそがパレーシアである」とフーコーは定義づける。弟子の主体が完成されるような言説でなければならず、このように真理の言説を表現する規則をこの時期の哲学者たちは考えていたのである。
 
  26 プラトン『国家』における「詩人追放論」の深層(一)

 プラトン四十歳に公表されたという大長編『国家』では詩人に非常に厳しい評価が下され、さまざまな論議がなされてきた。その論議は後に紹介するとして、まずテクスとに即してプラトンの論述するところに耳を傾けてみよう。
 <正義>とは何かという話から始まり、個人における正義が国家の正義と等しく論じられる。国家の中心をなす統治者や国の守護者に求められる知恵、勇気、節制、正義が個人の問題として幼年期を過ごすべきかという論議がなされる。つまり教育の問題が第二巻十七でソクラテスの対話に現われるのである。身体のために体育があり、魂のために音楽・文芸があり、まず音楽・文芸を先にすべきであるとソクラテスは語る。言葉には真実のものと作り事のものがあり、後者の教育を先にすべきである。私たちは子供に最初は物語を聞かせるが、よい物語とそうでない物語があり、その多くは悪いものであるという。ここでホメロスとヘシオドスを俎上にのせる。彼らを非難すべきところは「神々や英雄たちがいかなるものであるかについて、言葉によって劣悪な似すがたを描く場合のこと」(377E)とし、「たとえほんとうのことであったとしても、思慮の定まらぬ若い人たちに向けて、そう軽々しく語られるべきではない」(378)と語る。つまり、神々や英雄が闘ったり、策略をしたりすることをえがくべきでないという、若い人に対する教育的観点から述べられたことである点に留意する必要がある。「徳をめざしてできるだけ立派につくられた物語を聞かせるように、万全の配慮を「(378E)ということである。しかし、神は善き者であり、悪については神を原因に求めず他に求めるべきであり、神には不完全なものはなく単一であり、物語にある変身譚は偽りであると語るのである。
 ソクラテスはホメロスやその他の詩人たちの作品の一部を取り出し、立派な人間や神々が悲嘆にくれたり、笑われたりする物語は、詩としては上手く多くの人たちを喜ばせるが、「死よりも隷属のほうを深く恐れる自由な人間とならねばならない人々は、こうした詩句を聞くべきではない」とする。
 さらにこれらのことと関連して第三巻では、プラトンにとって重要なミメーシス論が登場する。ミメーシスとは真似ることであるが、詩人や芸術家の行為としてプラトンは捉えている。『国家』の訳者にして哲学者である藤沢令夫氏の註によるところでは、プラトン以前にも行なわれ前五世紀には有力な考えであったとする。まず作者が作中人物の言葉を真似るという点を第三巻393Bでソクラテスは指摘する。「あたかも自分がクリュセスであるかのように語り、話しているのはホメロスではなく年老いた神官であるというふうに、できるだけわれわれに思わせるようと努めている」。作中での人物の会話が、登場する人物に成り代わって、つまり真似て語ることを問題にしている。小説ではごく一般的な手法だが、なぜそれが問題になるのか。それは、詩人(作家)は自分を覆いかくしているからである。したがってせりふなしに語る場合は「単純な叙述」とみなされる。逆に悲劇や喜劇の場合はすべてせりふで構成されている。これらはその全体が真似るというやり方によるものである。叙事詩などの場合は作者自身の報告とせりふの両方が見られる。さらに読み進めていくと、ソクラテス(プラトン)は国の守護者たちとの比較で語られることになる。「同じ一人の人間がたくさんのものを真似ようとしても、ただ一つのものを真似するようには、うまくできない」(394E)「人間の自然的素質というものは、それよりさらに小さなものへと細分化されているように見える。だからたくさんの物事をうまく真似するということは、あるいは、そうした<真似>事によって描写する実際の物事を数多く行なうこともだが、元来不可能なのだ」(395B)とある。それぞれの職人はそれぞれにおいて専門家でなければならず、国の守護者たちはそれらの仕事から解放されていなければならない。しかしすべての真似がいけないのではなく、「勇気ある人々、節度ある人々、敬虔な人々、自由精神の人々」の性格は真似すべきであると語られている。また物語の叙述の「すぐれた人物のある言葉なり行為なりのところ」は真似すべきであるという。作品において<真似>と単純な叙述の両方のやりとり方を見て、「語り手がつまらない人間であればあるほど、それだけいっそう何もかも真似することになる」(397)と語られている。ここまで論を進めてきて奇異な印象を私はもつ。人物として生き方と作品としての優劣が真似ということをめぐって同列に置かれていることである。国の守護者に求められていることと詩人に求められていることの混在である。それはもう少しテクストを進めてから考えてみよう。さらに詩における言葉や調べ、リズムにまで守護者たるべき人の教育的観点を展開する。
「リズムと調べというものは、何にもまして魂の内奥へと深くしみこんで行き、何にもましてその人を気
品ある人間に形づくり、そうでない場合には正反対の人間にするのだから」(401D)とある.私たちにとってこれらは詩の表現技法以外の何ものでもないと言える。しかしソクラテス、あるいはこの時代の人々にとっては大変重要なことであった。藤沢令夫氏の『国家』補注によれば、プラトンが生きていた時代の「さまざまな通念や思潮を吟味批判するためにソフィストや弁論家たちとしばしば対決していることは、多くの対話篇から知るところである。しかし、人間の生き方に関わる価値の問題を扱う仕事の分野として、ソフィストや弁論家たちの言説よりも、もっとはるかに古い伝統をもち、はるかに根づよいジャンルは、ホメロス以来の叙事詩・抒情詩・悲劇などの文学(詩)にほかならなかった」と藤沢氏は補注で述べている。つまり倫理的問題や日常生活に至るまで、ホメロスや悲劇は大きな役割を果たしていたのであった。
 さらにミメーシス論は第十巻において発展させている。ソクラテスは寝椅子を例に挙げ説明する。寝椅子においてイデア(実相)は一つあるだけである。(イデアについては別の章で詳しく論じる。)プラトンは三つの寝椅子を取り上げ説明する。寝椅子を作る職人はイデアを見つめ寝椅子を作る。それを私たちは使う。実相そのものを職人は作ることができない。しかし鏡を手に持ち回す。そこにすべてのものが作られる(映し出される)ことになるが、それらはほんとうにあるものではない。つまり写像である。このような行為を画家はしているという。寝椅子作りの職人は、イデアを作るのではなく、つまり真にあるものではなく、あるものに似ているものを作る。あるものとは本性界(実在)にあり神が作ったものである。神を本性製作者と呼び、職人、ここでは大工であるが寝椅子の製作者と呼ぶとすれば、画家は神や大工の作った寝椅子を真似る者とソクラテスは呼ぶことにした。そして画家のみならず悲劇作家や詩人を含めてそう呼んでいるのである。それでは画家が真似て描写する対象は実在界にあるものか、職人の作った製作物かとソクラテスは対話者の相手に尋ねる。職人たちの製作物であるという返答がくる。さらに実際ある通りに真似るのか、それとも見える通りにかと尋ねる。実際には異なることのない寝椅子は見る角度によってさまざまな姿に見える。画家はあるものをあるがままに真似るのではなく、見える姿を見えるままに真似て写すという結論に合意する。つまり真似る技術があり、それは真実から遠く離れたところにあるし、すべてを作り上げることができる理由になるとソクラテスはいう。「それぞれの対象のほんのわずかの部分にしか、それも見かけの影像にしか、触れなくてもよいからなのだ」(598B)と述べる。画家は職人の技術も対象物に対する知識も持っていない。「上手な画家ならば、子供や考えのない大人を相手に、大工の絵をかいて遠くから見せ、欺いてほんとうの大工だと思わせることだろう」(598C)とある。
 先述したようにホメロスや悲劇作家たち(真実から遠ざかること三番目のもの)は、当時の社会では絶大なる信頼を勝ち得ていた。しかしソクラテスは「真似師が作るのは見かけの姿」だと述べ、「もしほんとうに知識をもっているのであれば、その人は似姿のために熱意を傾けるよりは、実際にそれを行なうことのほうに、ずっと真剣になることだろう」(5998B)言い張るのであった。また、ホメロスがタレスやピュタゴラスなどの哲学者のように実際的な知恵や後裔者を育成していないことを非難する。すべての作家たちは、人間の特に似せた影像を描写しているにすぎない、技術のもつうわべの言葉で韻律やリズムで立派に見せているが、その内実は貧相なものであると主張する。「花ざかりにあるけれども、もともと美しくない人たちの顔のようなものではないか。花ざかりに見棄てられたとき、そのような子尾がどのように見えるか」とさえいう。したがって真実そのものには触れていないと主張する。使用ということに関して「詩によって真似る人は、自分が詩に作るところの題材に関する知恵にかけては、さぞ御立派なものだろう!」(602)という皮肉さえ言ってのけるのであった。「要するに<真似ごと>とはひとつの遊びごとにほかならず、まじめな仕事などではない」(602B)と結論に辿り着いたのであるが、理想国家での詩人追放論はここで終らずに、詩の感情的効果に論議は進んでいくのである。

  27 プラトン『国家』における「詩人追放論」の深層(二)

 画家や作家(詩人)の創作がもつ効力が人間性に与える影響へと、さらに詳細に論議が進められる。
同じものでも遠近間の違いや視覚の混乱によって違ったものに見えることがある。そこからもののほんとうの姿を捉えるため、数や長さを計算し測定することを人間は考えた。「そうした仕事は魂の中の理知的
な部分の働きである」。しかし魂は測定の結果を示していながら「反対の判断」をすることがある。つま
り魂の相反する二つの部分があり、測定や計算を信じる部分は魂の最善の部分であり反対する部分は低劣な部分である。したがって絵画や作家(詩人)など「真似の術は「何一つ健全でも真実でもない目的のために交わる仲間でありともである」(603B)視覚に訴えるものだけでなく聴覚に訴える詩も同様であるとする。詩が行なう真似は幸福や不幸の状況で苦しんだり喜んだりしているものである。このような状況のもとで心(魂)は分裂抗争という対立によって満たされている。その上で立派は人間とはどのような人を言うのか述べる。たとえば大切なものを失うという不幸な運命を背負わされたとき、「ただ悲しみに堪えて節度を保とうとする」。人から見られているときの方が一位いるときより、より悲しみと戦い抵抗する。その「抵抗を命じるのは理(ロゴス)であり法(ノモス)であり、悲しみへと引きずっていくのは、当の感情(パトス)そのものである」。(604B)このように二つのものがあり、法の導きに従っていく場合、「起こったことについて熟慮すること」で、感情をたかぶらせず平静を保つ方に向かう。このように「人間の内なる最善の部分は、理の示すところにすすんで従おうとする」。もう一方の、感情をたかぶらせる方は「非理性的にして怠惰な部分である」。後者は真似て描くことは容易であり、前者は「つねに相似た自己を保つがゆえに、それを真似てあがくのは容易ではない」。(604E)したがって「真似を事とする詩人」は人々に受け入れら用途すると感情面に働きかけようとするのは避けがたいことである。ホメロスや悲劇作家が描く、英雄が悲しみに悲嘆し不幸に胸を打つ場面を人々が同情や共感を寄せ賞賛する。ほんとうに優れた人間に求められるのは平静心を失わず不幸に堪えることを誇りとすることを讃えるソクラテスからは、「理知的部分を滅ぼす」ものとして危険視されるのである。「自分がいま目にしているのは他人の身の上のことであり、すぐれた人物と称する一人の人間がみだりに愁嘆にくれるとしても、その人を讃えたり痛ましく思ったりするのは、自分自身にとって少しも恥ずかしいことではないのだ」(606B)と言い、自分自身の苦難にあたっても平静を保持することは容易なことではないとソクラテスは主張する。喜劇においても滑稽なことをしたがる自分を抑えていた部分を緩めてしまうという。さらに愛欲や快苦においても同様である。「詩の作品としては、神々への頌歌とすぐれた人々への讃歌だけしか、国のなかへ受け入れてはならないということだ」と結論する。ここで二巻で述べられた音楽・文芸について語られた魂の教育を思い起こすことが必要である。プラトンは芸術のすべてを否定してはいない。
 最後に哲学と詩の相違は昔から論議されていたことを示唆する。おそらく哲学よりも詩は起源が古く生き方の規範をそこに求める風習があり、個人がいかに生きるべきかあるいは国家がいかにあるべきかという、プラトンの哲学への真摯な考察、具体的にはイデア論の確立が課題であったと言えよう。
「よく治められた国家のなかにそれ(詩)が存在しなければならないという、何らかの根拠を提出できるならば、われわれとしては、よろこんでそれの帰国を迎え入れるであろう。われわれ自身、それの魅惑に惹かれることを自覚しているのだから」(606C)とソクラテスの言葉で述べられている。
 『国家』篇は第十巻の後半は魂の不死について述べられる。訳者藤沢令夫氏によれば、ピュタゴラス派との接触によって得られたものであり、魂の不死の思想はイデア論とともにプラトンの真髄であるという。詩人に関わる直接のプラトンからの言及はこの部分にはないので、この書物の中心をなす《善》のイデアと魂の不死の問題、正義の報酬の論議は別の章で改めて論じることにする。

  28 プラトン『国家』における「詩人追放論」の深層(三)

 真実の言説の主体化としての修練の形式に求められる形式として聴くこと読むこと書くことを、ミシェ
ル・フーコーの『主体の解釈学』に導かれながらこの論考を進めてきた。聴覚のいかに受動的なものであるか、いかに魂を魅了するものであるかをフーコーは述べている。言い換えれば、聴覚は他の感覚よりロ
ゴスを受け入れるに相応しいものであるとともに、たいへんな危険にさらされているということである。ホメロスの『オデュセイア』においてオデュセウスがセイレーンたちの誘惑を避けるため、乗組員たちの耳を蝋で塞ぎ、みずからは帆柱に身体を縛らせて難を逃れ、快楽を拒み自己を統御した話に言及するとともに、プラトンが詩人や音楽家について何を言っていたかに触れている。フーコーの書物では一行で示唆しているが、その内実をプラトンの『国家』に直接あたり、その訳者藤沢令夫氏の訳注をもとにして私は考えてみようとした。ここでプラトンは詩人という存在をいかに考えていたのかを藤沢氏の言及に教えられながらまとめてみよう。
 『国家』第三巻では、前の章で取り上げたように、幼児教育の魂の教育に音楽・文芸は必要であるとソクラテスの口から語られていた。プラトンの他の書物、『プロタゴラス』(326)においても「子供たちが今度は読み書きができるようになり、書かれたものを理解しようとするころになると、彼らにすぐれた詩人たちの作品を教室であてがって読ませ、それらを暗記するようにいいつける」とあり、すぐれた人物を賞賛した言葉を示しながら、そのような人物なるように伝えるのである。また「抒情詩人の作品をとりあげ、これを竪琴の曲に乗せて教え、そのリズムと調べが子供たちの魂に同化するようにしむける」とあり、すぐれた人間になるために必要なことと考えている。それにもかかわらず『国家』第十巻(605E)で「詩人は魂の低劣な部分を呼び覚まして育て、これを強力にすることによって理知的部分を滅ぼしてしまう」から詩人を国家は受け入れるべきではないというプラトン(ソクラテス)の考えをどう解釈すべきか困惑するしかないだろう。
 藤沢氏によると、画家や詩人は「真実から遠ざかること三番目」の存在であるとするプラトンの主張に異議を唱える論評が多くの人々によってなされてきた。「画家はものの本質あるいはイデアを写さず大工の作品を写すだけであり」(598A)それゆえ絵画および詩などのミメーシスの仕事は真実から遠いのだ、と言われるとき、これは芸術一般に対するきわめて偏狭な、せいぜい極端なリアリズムの作風にしか当てはまらない見方であると非難されてきた、と藤沢氏は補注で述べている。さらに「アリストテレスは、詩は歴史よりも普遍的な事柄を語るがゆえに、より哲学的であると言い、その描写(真似)は、いかにあるかを写すのではなく、いかにあるべきかを写すと述べている」という。ここに藤沢氏から紹介されたアリストテレスの考えは私にはうなずけるものがある。そのことはさておいて、プラトンの考えに迫ってみよう。
 まずプラトンの『国家』が著されたころの時代背景を藤沢氏は次のように述べる。「人間の生き方に関わる価値の問題を扱う仕事の分野として、ソフィストや弁論家たちの言説よりも、もっとはるかに古い伝統をもち、はるかに根づよいジャンルはホメロス以来の叙事詩・抒情詩・悲劇などの文学(詩)にほかならなかった」。「そこに描かれる神々や人物の像は、広く確実に人々の心に滲透し、何が正しく美しい行為であるか、すぐれた人間とはどのような人間であるか、といった規範も、無意識のうちにそこに求められるようになるのは当然であろう」という。『国家』第十巻(598E)ソクラテスによって語られる、一般に世間に流布されて意見、「これらの作家たちはあらゆる技術を、また徳と悪徳にかかわる人間のことすべてを、さらには神のことまでも、みな知っている。ほかでもない、すぐれた作家(詩人)たる者は作品の題材として何を取り上げるにしても、それについて立派な詩作をしようとするのであれば、主題となるその事柄を必ずよく知っていて詩作するのでなければならない。そうでなければ詩の創作は不可能なのだからと、とこいうわけだ」という意見があるほど人々に対する影響力が大きかったということであろう。前の章で先述したようにソクラテスはこうした意見に否定的であった。そのような知識をもっている人であれば立派な業績を残し行為する人になり、後世讃えられる人になるほうを熱望するであろうと考えたのだ。

  29 プラトン『国家』における「詩人追放論」の深層(四)

 藤沢氏は『国家』の補注でプラトンの詩人像を明確に論述している。それによれば、プラトンは詩人たちの仕事を全否定しているのではないことが理解されるのである。プラトンが誤解を招きやすい表現を指摘しながらも、哲学と詩の対立というよりは役割の相違であり、すべての詩人がすぐれているのでもなく、詩の陥りやすい危険に警鐘を打っているのであると述べる。
 プラトンが三つの寝椅子で説明しているのは先述したが、もう少し立ち入ってみよう。「大工の寝椅子」と「寝椅子のイデア」の区別を考えたとき、たんに「現実にそのまま見出されるもの」と「現実には見出されず、理想的なかたちで思いうかべられるもの」の区別ではなく「一なるイデア」と「(同じ名で呼ばれる)多くのもの(個別)」との区別であり、「それ自体は純粋の知性や思惟によってしかとらえられないもの」と「感覚によってとらえられるもの」の区別であることを理解しておく必要がある。画家および詩人が第二の寝椅子(大工が作ったもの)を描写するということは、特定の感覚増である。画家が描くものは「感覚されるもの」であるしかない。「理想像」は現実には決して見られるものではないからである。画家が心のなかに思い浮かべるイメージにしても「思惟によって知られるもの」ではなく感覚像である。このように藤沢氏は論を進め、「芸術作品のもつ真実性は、ひとつにはその作家がどれだけ対象の本質を洞察して、どれだけよくその本質を具現したイメージ(感覚像)をもちうるかに依存するから、その意味では、作家が知識と真実の探求者であること、つまり、ひとりの芸術家にうちに哲学者が共存することは可能である」という。したがって「画家は、最も美しい人間とはどのような人間であるかという、その規範となる像を描き、あらゆる点にわたってかけるところなく、それを画として完成した」(472D)や「ちょうど画家がするように、最も真実なものへと目を向けて」(486C)という記述から、「イデアのミメーシスという考え方はプラトンにも認充分認められる」と主張するのは大工と同列になり、プラトンの考えと異なると藤沢氏は述べる。「理想像」とイデアは区別しなければならないからである。イデアを分有するものとして(後のプラトンはこの考えを修正することになるが)この理想像もやはり特定の知覚像と当時のプラトンは考えていた。
 したがって芸術作品のもつ真実性とはどれだけ対象の本質を洞察し本質を具現したイメージ(感覚像)をもちうるかに依存しているであるから、その意味ではひとりの芸術家のうちに哲学者が共存することは可能であるとプラトンは考えていたと藤沢氏は解釈する。しかし詩人は「彼の把握した物事の本質を、特定の状況における一主体の具体的な姿・行動を一度あいだに入れて、それを描き出すことによってしか表現できないということに変わりはない」と藤沢氏は述べる。このことは人に訴える力は大きいが、哲学の「それ自体の徹底的な考究」に対しては「ひとつの制約」になるともいう。ゆえに本質それ自体(イデア)から「遠ざかること第三番目は」にあるというプラトンの序列づけは変わらないであろうと藤沢氏は結論する。
 
もしもわれわれが、国家の民たる者はかつて誰ひとりとして他の同胞国民と憎み争い合ったことはないし、またそもそもそれは神意に反することだということを、なんとか説明すべきであるとすれば、まさにそのような内容のことをこそ、老人も老婆も、子供たちに向かって早くから語り聞かせなければならないし、そして彼らの年齢が長じるにつれて、詩人たちにもそういう内容に沿った物語を、彼らのために創作するようにさせなければならない。ヘラが息子に縛られた話だとか、またすべてホメロスが創作した神々どうしの戦いの話などは、たとえそこに隠された裏の意味があろうとなかろうと、けっしてわれわれの国に受け入れてはならないのだ。なぜなら若い人には、裏の意味とそうでないものとの区別ができないし、むしろ何であれ、その年頃に考えのうちに取り入れたものは、なかなか消したりできないものとなりがちだからね。こうした理由によって、おそらく、彼らが最初に聞く物語としては、徳をめざしてできるだけ立派につくられた物語を聞かせるように、万全の配慮をなすべきであろう」。(第二巻(378D)

 ここに語られているのは教育に関する詩への言及であるが、教育に限定されずプラトンが詩人の仕事をいかに考えているかが知れよう。芸術家が現実に描かれたものしか描写しないと言ってはいない。プラトンの『パイドロス』などで語られる神々の物語(ミュートス)はすばらしい詩でなくて何だろう。イデアは言葉を絶する世界であり、それを語るミュートスはイデアそのものではありえない。詩に限らず芸術はそれゆえ感覚から作られるものである。詩の「感情を高ぶらせる性格」は「すぐれた人間」でさえ魂を魅了してしまうことがある。それゆえ感情(パトス)が陥りやすい非理性であり怠惰な部分に警鐘を促していると考えればよいだろう。右の引用にもある「創作」という言葉に見られるように、虚構を認めよい活用をすべきだと述べていると解釈してよいであろう。
 プラトンの『国家』という書物のテーマは《正義》と《国家》であるが、藤沢氏も指摘するように、「教育論、芸術論、認識論、存在論、魂論、数学の本性について、天文学のあり方について」など広範囲に関わり、特に「第六巻から七巻にかけて<善>のイデアに究極する哲学的認識の論究である。そのようななかでのプラトンの文学(詩)への批判を考えなければならない。「その主眼は、文学が人間の生き方を取り扱う仕事として、原理的に或る限界をもつのではないかという指摘にあった。もしそうだとすれば、人々が人生の諸問題について、そのような限界をもつ文学(詩)の提出する規範を無条件に信じることは、思想そのものとしては脆弱な観念を絶対化することにほかならず、結果は重大であるといわなければならぬ。
(哲学)がこの点を見抜いたうえで、ながらく文学(詩)にゆだねられてきた同じ問題について、もっと異なった取り扱い方と、異なった規範をするものであるならば、これを人間の営みとして確立することを課題とするプラトンにとって、文学(詩)こそ最もはげしく論争をいどまなければならない強力な相手であったといえるであろう。」と藤沢氏は補注で論じている。
 藤沢氏も言うように、『国家』で構築される理想国家は統治者や守護者の育成を考えた現実的な性格を
帯びている。「しかしイデア論と魂の不死を基調にした哲学によって、全体としてそっくり<永遠の相>に包みこまれることになる」。だが、わずかの時間のうちには、どれほどの大きなことが生じうるだろうか? というのは、幼少から老年にいたるまでのこの時間の全体などというものは、全永劫の時間に比べるならば、ほんのわずかなものにすぎないだろうからね。(中略)いやしくも不死なるものが、そんな短い時間のことに真剣な関心をもつべきだと、君は思うかね? 全永劫の時間のためにこそ、その真剣な関心を向けるべきではないだろうか」第十巻(608C~D)

 今日の我々の詩は哲学から離れ感覚を喜ばせる詩を評価する傾向にあると言える。しかし生きることと詩を書くことを同一視する詩人のなかには「いかによく生きるか」というテーマを追い求める詩人が少数であるがいる。私もその一人であると自覚しているが、それであればこそ、哲学と詩学さらに神学との相違を見極めなければならないだろう。この私の「自己への配慮と詩人像」というエセーを書く目的もそこにある。たんに哲学や神学を主題にして詩を書くことではない。プラトンにより、より善い人間の行き方が探求され、セネカやマルクスですでに論じたようにストア派に継承された。そこからキリスト教やデカルトの哲学などに変貌するが、十九世紀末にニーチェによって近代批判が鋭く抉られ、ボードレールの詩学が登場するのである。ボードレール以降の現代詩がランボー、マラルメ、ブルトンにテーマが分化されていった。明治以降、西洋の近代を受容した日本に生きる詩人たちに西洋の思想史が無縁であるはずがないであろう。構造主義やポストモダンが流布し、西欧理性の問い直しが始まったが、反理性の思想を凌駕すべきポストモダンを超える思想が求められている。さまざまな領域で狂い始めている状況を救済すべく新しい理性を探求すべき時がきている。これまでの西欧理性ではなく、古代ギリシア人の考えたロゴスのほんとうの意味を私は考察していきたいと思う。


                 (次回は「パレーシア」という概念を中心に論じていく予定。)

長期連載エセー『自己への配慮と詩人像(四)』小林稔季刊個人誌「ヒーメロス」13号2009年12月

2012年02月17日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
エセー
「自己への配慮」と詩人像(四)
小林 稔


13 主体の移動と神との本性の共有

 後期ストア派のもう一人の重要人物、マルクス・アウレリウスの考察を始めるまえに、デカルト以降の真理に対するかかわりの相違、他者および自己の救済と、前章で取り上げたセネカの思想を要約してみよう。そうすることによってマルクスの独自性が鮮明になると思えるからである。
 プラトン以来、真理の到達にいかなる代価を私は支払うことになるかという問題が提示されたとフーコーはいう。主体そのものには真理を受け入れる能力がない。したがって「操作、変容、修正」を自らに課し実践することで真理を獲得することができる。立ち返り(コンベルシオン)が問題になるのである。つまり「存在様式を変えなければ真理に到達することはできない」ということである。真理の概念において、「真理に到達するということは存在そのものに到達することであり、到達した存在そのものが同時に、その反作用として、それに到達した者の変容の動因となるような到達」であると考えることができる。このことをフーコーは、プラトン的な循環、あるいは新プラトン主義的な循環と呼んでいる。しかし、デカルトやカントによって、「明証性の糸を常に辿りつつこれをけっして手放さず真っ直ぐに考えさえすれば真理を受け入れることができる。主体が自らを変容させなくてはならないのではないと考えるようになった」とフーコーはいう。主体が認識において真理に到達できるという確信である。このようにして「真理への到達のための霊性という条件が一掃された」と述べ
ている。デカルト的なタイプの認識、つまり対象の認識という概念が真理への到達という概念に置き換えられてしまったのである。
 プラトンの、思春期における自己への配慮の主張が、老いるための自己への配慮に変わった結果、自己への配慮の目的や目標が問われるようになった。「どのような点で私たちは救われるのか」という問題提示が始まり、「医術と自己の実践の関係」が、自らの救済につながるとフーコーはいう。本来、万人に向けられた哲学者たちの呼びかけであったが、実際には少数の者にしか実現しえない呼び
かけであったのである。それは階級的な分割ではなく、自己を受け入れる能力のある者とない者との分割であるという。この呼びかけの普遍と救済の希少を持つ形式は、自己の陶冶を生み出し、紀元一、二世紀に大きな広がりをみせたという。もはや自己の実践は教育と距離を置くようになり、人生と一体になる。ここで見られる救済という概念は、後にキリスト教に引き継がれる宗教的な思考でなく、「他者に対する関係の問題」であるという。プラトンにおいて自己へ配慮するのは他者たちの面倒を見る必要があるからであった、つまり、「都市の救済の方が個人の救済を、その帰結として包含していた」のである。しかし、ヘレニズム、ローマ期においては、自己のために自己の救済をしなければならず、他者たちの救済は付随する報いのようなものだという。フーコーは、エピクロス派の友愛、エピクテロスの自己と他者の関係を論じて興味深いが、先を急ぐためにここでは割愛しよう。
 さて、セネカに戻る。セネカは職業哲学者であった。プラトンの場合のように知恵に到達してしまっている師としてではなく、セネカにおいては「自己の実践が社会的な実践と結び合うようになった」という。ネロの家庭教師をしたとも言われている。政治的活動にも多く関与している。セネカが忠告を与えた人は、彼と党友関係にあった人である。エピクテトスなどの哲学教師とは異なっていたようである。セネカには、「退く主体、世界の最高峰まで、世界の頂点まで退く主体の形象」が表れているとフーコーは指摘する。世界の頂点から世界を俯瞰するのである。「自然のもっとも内密の秘密にまで分け入らせ、同時に彼が存在している空間のわずかな一点、彼が存在している時間のわずかな一瞬を見る。まず自分自身から離脱しなければならない。悪徳や欠点から引き離す。闇の地上から光のやって来る天上へ哲学が導いてくれる。「主体自身の運動」である。自分自身からの逃亡、つまり労働の報酬にまつわる価値からの解放、自分自身に対する隷属から自由になることを述べ、自然研究がそれを保証するという。前の章で取り上げたが、哲学の形式の一つに「神を見る」ことがある。人間に関する哲学と神々に関する哲学のうちの後者であるは、光がやって来る地点で「神との本性の共有」へと至る。そして「神が世界に対してなしていることを、人間理性は人間に対してなさなければならないということになる。神の理性を授かった私たちは、そのとき初めて地上に目を向けることができるのである。そのとき「現実の生存を正確に測る」ことができ、自己を観照することができるとセネカは考える。セネカにおいては、天上への自己の後退と神々から理性を与えられ「徳ある魂」を持つ霊的な運動を条件とし、視線は自分自身や私たちの住む世界からそらされることはなく、自由が得られるということであるとフーコーはいう。

14 マルクス=フロント往復書簡から知れること

 プラトンの『アルキビアデス』に見られる自己への配慮の主題がヘレニズム・ローマ期には自己の陶冶に拡大されていったとき、いくつかの顕著な点が確認できる。まず大きな転換は、自己の実践が教育上の問題ではなくなったことである。プラトンのテキストでは、教育は恋愛的な師弟関係で実践されたが、この時期には少年愛は影を薄める。自己への配慮すべき時期が、思春期の終わりから、人生全般になったことと関係する。また他者を統治するために自己への配慮があったが、まず自己自身
のために自己へ配慮することが重要になる。したがって「自己に立ち返る」という表現が多く現れるようになったのである。そのことに関連して、政治的な活動との関係は打ち切られることになる。
セネカのときにも述べたが、たんに今ある自己に戻るのではなく、一度自己を退却すべきであるこ
とが言われ、セネカの場合は天上にまで昇りつめ、神性を共有し、視線を地上の自己に向けるが、これから述べるマルクス・アウレリウスの場合も自己からの退却が問題になる。しかし退却の形式は異なっている。詳しくは後ほど述べることにして、フーコーの言うように、マルクスは自己の自己への関係において、その最高権力の行使の法と原理とを見出す。一方、フロントという人物とマルクス・アウレリウスの往復書簡というものがあり、そこから知れることは、先述した内容に反し、師弟間の恋愛感情が見られるので、マルクスの場合はむしろ例外と考えるべきである。
マルクス・アウレリウスの生涯については、彼の著書『自省録』岩波文庫本の翻訳者、神谷美恵子氏の解説が最後に載っているので詳細は省略する。神谷氏も言うように、マルクス・アウレリウスは、プラトンが理想とした哲学者にして政治家であり、歴史上ただ一度限りのことであった。小説『ハドリアヌス帝の回想』の書き出しは、「いとしいマルクよ」という呼びかけで始まる。このマルクとはマルクス・アウレリウスのことであり、ハドリアヌス帝がマルクスに語る形式をとって書かれた、マルグリット・ユルスナール女史の、史実と虚構をちりばめた歴史小説でも知られている。
この論考に関係する範囲で彼の人となりを書き加えてみよう。マルクスは西暦一二一年の生まれで、皇帝ハドリアヌスから少年時代に寵愛を受けていたという。祖父がローマ総督の職についていたことや、マルクス自身、優れた資質を持っていたことが皇帝の目をひいたようである。八歳のとき父が死んだ。当時の社会で隆盛だったストア派の哲学に傾倒し生涯を自己の実践に励んだ。彼が十七歳のときハドリアヌス帝は死に、アントニヌスが皇帝の遺志で皇帝に即位したが、これも皇帝ハドリアヌスの遺志でマルクスとルキウスの二人を養子に迎え、マルクスにカエサルの称号を与えた。アントニヌスの死後、元老院はマルクスを皇帝に迎えようとしたが、マルクスは義弟のルキウスの二人で位に着くことを望んだ。怠惰で享楽好きのルキウスであったが、マルクスとの友情は続いた。後にルキウスは病に倒れ死ぬ。マルクスが十八歳から二十歳の間、雄弁術教師で、マルクスの先生、彼より少し年長のフロント(岩波文庫本ではフロントーとなっている。その他の人名表記もフーコーのコレージュ・ド・フランスの講義『主体の解釈学』の廣瀬浩司/原和之氏訳に準ずる)という人物との交流の様子が、二人の往復書簡集にうかがい知ることができるとフーコーはいう。フロントは哲学の師ではない。手紙の中でも言葉の表現について指摘していることからもわかるという。フーコーは、実際はこの書簡は愛情関係が支えになっていると指摘する。「私は自分の健康や身体的快適を犠牲にしてでも、今以上にさらに恋い焦がれ、そしていらっしゃらないのを残念に思いたいと思います。お元気で、親愛なるフロントよ。我が愛にして我が歓びたる君よ。お慕い申し上げます」。(マルクスからフロントに宛てた手紙の一部)。別れ別れになって相手がいないことを悲しみ、口づけを送りあっているが、性的関係にあったと考えるべきではないとフーコーは明言する。師との愛情の関係のもとにあるそれらの内容を検討すると、目覚めから就寝にいたる、たんに一日の細々した出来事を物語るものであるということがわかる。
 『自省録』の訳者、神谷氏によると、マルクスは読書と瞑想に耽ることがなにより好きな内向的な人であった。また、アテーナイの、修辞学や哲学の講座に奨励金を与えたり、新たにプラトン学派、アリストテレス学派、ストア学派、エピクロス学派を創設したという。手紙から知れる事柄をフーコーは解釈する。「これは結局、一日の物語をとおして語られた、自己の物語」なのだという。「うちに戻って、横向きになって寝る前に、私は自分の務めを思い返して、一緒におられないのが残念な私の先生に説明申し上げました」。(マルクスからフロントに宛てた手紙の一部)セネカは『怒りについて』という文章で述べる内容に近いとフーコーは指摘する。「毎晩明かりを消し、妻が口を噤むと、私は瞑想にはいり一日を確認します」。「残念ながら私は昨夜この出典を見つけることができませんでしたが、たいしたことではありません」。(『怒りについて』から抜粋)セネカは自分の生活と過去の時間の巻物を、目の前にときおり広げてみる必要性を述べているのだが、それこそがマルクスが行なっていたことであるとフーコーは指摘する。「過ぎ去った一日を顧みることにより、するべきであった事柄、おこなった事柄、およびその然るべきやり方と実際に行なったやり方の比較を総括することができ、それを先生に手紙の中で説明するのだとフーコーはいう。このような誰かに一日を説明するとい
う自己実践が社会でよく行われるようになったということ、これは言語や言説一般のというより、他者との言語的な関係の新しい倫理、パレーシア(率直)という概念であるとフーコーは語る。パレーシアにつては後に詳しく述べることにする。

15 マルクス・アウレリウス(その一) 精神に現れる想念の対象をつねに定義し、記述すること 

「大ローマ帝国の皇帝という位置にあって多端な公務を忠実に果たしながら彼の心はつねに内に向かって沈潜し、哲学的思索を生命として生きていた」と翻訳者、神谷氏は翻訳書の序で述べる。
皇帝であることを忘れ、普通の人間として振る舞うという条件でのみ皇帝の務めを果たすように書かれている、つまり君主としてのよき行いが、普通の人たちのよい振る舞いであるということであるとフーコーはいう。「心の底まで『皇帝』になってしまい、それに染まりきることのないように心せよ」(フーコーの引用)という文が『自省録』に見られるのである。
マルクス・アウレリウスにも霊的な知の形象が見られるが、セネカと異なり、「主体のある種の運動を規定するような形象」であり、事物を内部まで調べつくそうとする「微分的な視覚」であるとフーコーはいう。マルクスの著書『自省録』の第三章に、「すでに挙げた数々の教えに、なお別の一項目が付け加わる」とある。すでに挙げた数々の教えとは何か。フーコーは三つに要約する。一つ目は、善とは主体にとって何か。二つ目は、私たちはいつでも好きなように意見を作る自由がある。三番目は、主体にとって存在する現実の審級は一つしかない、それは瞬間である。「現在を構成する無限に小さい瞬間、その前には何ものももはや存在せず、そのあとにはすべてが不確定である。
これらの教えに付け加えるべき一項目とは何か。それは、前記の三項目を統合する霊的な「訓練のプログラム」であるとフーコーはいう。どのような訓練をマルクスが述べているのかをフーコーは解き明かしている。第一の契機にあたるのは、「精神に現れる想念の対象をつねに定義し、記述することである」(『自省録』第三章十一)。この部分の神谷氏の翻訳では、「念頭に浮かぶ対象についてかならず定義または描写を行なってみること」となっている。このような考え方はストア派によく見られる主題であり、精神に自発的に現れる思考、あるいは知覚野に落ちかかってくるかもしれないものすべて、人が送っている人生、さまざまな出会い、目に入ってくるものなど、こうしたすべてのことを機会に与えられるような表象を、与えられるがままの姿でとらえることである、つまり、「表象の無意志的な流れに意志的な注意を向けることであり、この表象の客観的な内容を決定すること」であるとフーコーは解説する。
 デカルトが知的方法を駆使して自分と区別し排除しようとしていたものがこうしたことであり、ストア派から派生し、キリスト教において実践するようになった霊的な訓練であるとフーコーはいう。マルクスは、精神が想念に現れるような対象を定義し、記述することによって、その対象を判明に「その本質において、裸の姿において、全体的に、あらゆる側面から見ること、そしてまた、対象が分解されるような諸要素の名称を自分に言うことが必要だと記述している。まず観照すること、次に全体的に把握すること、構成要素を区別することをマルクスは述べているのだ。自分に言うこととは「事物や事物の構成要素を精神に固定させるためにも、またこれらの名称から価値体系全体を再活性化するためにもきわめて重要」であるとフーコーは指摘する。
次にその名称を記憶する訓練がある。その記憶化の訓練は視線の訓練と直接に接合し、同時に行われなければならない。つまり「視線と記憶は精神の一つの運動の中でたがいに結びついていなければならないのである。精神の運動は一方では事物に視線を向け、他方ではこれらの事物の名称を記憶の中で再活性化しなければならないという。いわばこの二重の訓練で、事物の本質が全体的に繰り広げられるのである。また対象が名によって構成されているかということだけでなく、どのような条件の下で解体され、崩壊されるのかを見ることができる。
 まず定義し、記述すること、次に記憶することを考察したが、「霊的訓練」の第二段階は価値を測ることである。「人生において現れる対象のひとつひとつを、方法と真理に則って同一化できること、
また、その対象がどうような種類の宇宙に効用をもたらしうるのか、また全体と関係でどのような価値を持つのか、そして、人間との関係では、国家の中でももっとも優れた国家、他の国家はその家にすぎないような国家の市民として、それがどのような価値を持つのかを考えるために対象のひとつひとつを吟味すること、そのこと以上に魂を偉大にしてくれるものはないのだ」とマルクスは記述する。フーコーによれば、魂を偉大にするとは、束縛や隷属から解放することであり、魂の本性を知り世界の一般的理性に対する適合性をしることができ、この魂の自由は事物への無関心や心の平静さを獲得することができることであるという。
 
16 マルクス・アウレリウス(その二) 個体性の解体(事物の核心に降りていくこと)

精神は運動しているものであり、各瞬間に新たな対象が現れ、新たなイマージュが与えられるが、
それらの表象を監視し、価値を吟味したり評価したりしなければならないということである。この
ような訓練がどのように適応されているかをフーコーはさらに分析するため、三つの訓練に分類している。第一は、対象を時間において分解するという訓練。第二は、対象を構成要素に分解する訓練。第三は、価値を低下させる縮減という主題の訓練である。フーコーが引用している第一の訓練を見てみよう。
「音楽やメロディを持った歌やうっとりさせるような歌を聴くとき、そして優雅なダンスやパンクラティオン(舞踊的な体操)の動きを見るとき、それらを全体として見ないで、できるだけ非連続的で分析的な注意を向けるようにしてみたまえ。あなたの知覚において、それぞれの音がたがいに区別され、それぞれの運動がたがいに区別されてしまうほどまでに注意を向けるのだ。」(『自省録』から抜粋)とあり、その冒頭には「うっとりするような音楽、舞踊、パンクラティオンをあなたはけいべつするだろう」(フーコーの引用した文)と書かれ、末尾には「このように事物の諸部分まで到達することを忘れてはいけない。そして分析によって、それらを軽蔑するようにすることも忘れてはいけない」というエクリチュールがなされている。これらの意味するところをフーコーに導かれながらまとめてみよう。
 舞踊の美しさやメロディの魅力に心を奪われないようにしなさいということである。そのためには全体として連続的に見ないで、瞬間ごとに分解することが大切だと言っている。現在という瞬間に与えられるものだけが、主体にとって実在的だということ、ひとつひとつの音や運動は、その実在性において現れ、実在が示すことは、音は音以上ではなく、運動は運動以上のものではないということになり、何もよいものはないので、音楽から自己の統御と支配を手に入れることになるとフーコーは読み解いている。これは音楽や運動に限らず、人生全体のことに応用できるのだ。他の章に書かれている事柄にもこのことは適用されるとフーコーはいう。第六章の十五に、

  ある物は急いで生起しようとし、ある物は急いで消滅しようとし、生じ来たったものも部分的にはもう消えうせてしまった。絶ゆることなき時の流れが永遠の年月をつねに新たに保つがごとく更新する。この流れの中にあって、我々の傍らを走り過ぎて行くもの、その上にしっかりと足を踏まえるところもないようなもののうち何をそう尊ぶことができようか。それはちょうど我々の傍らを飛んで過ぎ行く雀どもの中のいずれかを愛しにかかるのと同じようなもので、当の雀はもう鹿の外に行ってしまっているのだ。実際各人の生命それ自体も血から蒸発したもの、空気から吸い込まれたものに似ている。なぜならあたかも我々が一度空気を吸い込み、またそれを吐きもどすように、――それは各瞬間にしていることだがー―昨日か一昨日君が生まれたときに与えられた全呼吸機能を、最初君が息を汲み取った源泉へ返納するのもまったく同じことなのである。(神谷氏訳)

 これは物質の還元に関することで、マルクスが言いたいことは現代の私たちには唐突に感じられることだが簡単なことである。私たちは呼吸するたびに同じ気息を放出したり吸い込んだりしているのではないということである。このことを人生に適用することが大切だと主張しているのであろう。
「私たちが私たちのアイデンティティと思っているもの、あるいはそれを適用したり求めたりしなければならないと思い込んでいるものは、私たちの連続性を保証してくれない」ことに気づくのだとフ
ーコーは述べる。事物の細部を分析し、それらは非連続的なものであることを知り軽蔑しなさいとマ
ルクスは自分を戒めているのである。(ちなみに『自省録』の題名は『TA EIS HEAUTON(自分
自身に)』であり、初めて印刷された一五五八年から踏襲されたという)。私たちがアイデンティティを見出すたった一つここと、それは徳である。「徳は分解できない」というストア派の教説であるとフーコーはいう。もう一つ、魂は時間から自由であるという教説である。つまり分解、分割できない凝集と瞬間を永遠にする魂の凝集において私たちはみずからのアイデンティティを見いだすことができるということなのだとフーコーは解読する。時間の瞬間性と非連続性から見た、実在的なものの解体の訓練の一つを、これまで引用してきたことは表わしているのである。
 次に第二の訓練は対象を構成要素に分解するという訓練だ。第六巻の十三で考えてみよう。

  肉の料理やその他の食物については、これは魚の死体であるとか、これは鳥または豚の死体であるとか、パレルノスは葡萄の房の汁であるとか、紫のふちどりをした衣は貝の血に浸した羊の毛であるとか、また交合については、これは内部の摩擦といくらかの痙攣を伴う粘液の分泌であるなどという観念を我々はいだく。このような観念は物自体に到達し、その中核を貫き、それが一体何であるかを目に見えるように判然とさせるが、ちょうどそのように君も一生を通じて行動すべきである。すなわち物事があまりにも信頼すべく見えるときにはこれを赤裸々の姿にしてとるに足らぬことを見きわめ、その〔賞賛されぬ所以のもの〕を剥ぎ取ってしまうべきである。何故ならば自負は恐るべき詭弁者であって、君が価値ある仕事に従事しているつもりになり切っているときこそこれにもっともたぶらかされているのである。(神谷氏訳)

 私たちの食べているものとは動物の死体である。紫の縁取りをした衣は貝の血に浸した羊毛、つまり染料と羊毛である。交合(性交)とは、摩擦と痙攣を伴った分泌である。事物を裸にし、価値の少なさを見下ろしことを述べている。このような訓練は魅惑を剥奪することであり、見下すことで主体の自由を打ち立てることであるとフーコーは解読する。ここでも事物に対する無価値性だけでなく、人生に、私たち自身に適用せよと記述しているのだ。このことと関連してフーコーは他の章の記述を挙げている。例えば、第二章の二には次のように書かれている。「私とは何だろう、私とは何だろう。私とは肉や息なのではないか。そして、私は合理的な原理なのではないか。肉として私は何なのか。私は泥と血と骨と神経と静脈と動脈だ。息として私は各瞬間に自分の息の一部分を放出し、別の部分を吸い込む。そして合理的な原理、指導原理とは、残りのものであり、それこそ解放しなければならない。」肉、つまり物質を分解すると、泥と血と水と神経などになる。息は時間的分析によって非連続性を指摘できる。そのように分解していき最後に残るものは合理的な原理、つまり理性だけであるということを述べている。そこに私たちはアイデンティティを見出すことになる。
 第三の訓練は記述的な縮減、あるいは価値を低下させるための記述という訓練である。事物を取り巻く見かけや装飾、誘惑や恐怖を縮減するような表象を正確に記述することであるとフーコーは述べ、次のような例を挙げる。強力で傲慢な男が目の前に現れ、自分の優位を誇示し恐れさせようとしたら、その男の他のことをする時間を想像する。食事をしたり寝たりすることを。またこの男がどんな主人にさっきまで仕えていたか、そしてこれから同じ主人の下に仕えることを書くことによって事物の価値を縮減させてしまう訓練である。
 フーコーはセネカとマルクスの訓練を次のように比較する。両者とも上から下への視線があるが、セネカは、世界の頂点からなされるのに対して、マルクスは私たちが存在している場所を起点とする。セネカの問題は私たちの下に世界が展開するのを見て、自分自身を微小な大きさで知覚することであったが、マルクスの問題は価値をおとしめるような視線、縮減的でアイロニカルな視点を持つことであるという。マルクスの場合は、事物の核心を貫通し、最も特異な要素をすべて把握することによって、こうした事物に対する私たちの自由を示してくれるのである。それと同時に、このような視線は、私たち自身のアイデンティティは実はばらばらの要素で構成されているのだということを、つまり私たちの連続性は偽の統一性であるということをフーコーは解読している。私たちが理性的な主体である限りにおいて保証される統一性やアイデンティティに他ならない。私たちは世界全体を支配する理性であるような何かの一部にすぎないことに気づくのである。フーコーは、マルクスの霊的訓練は一
種の個体性の解体であると結論する。
 
17 ファウストの嘆き――「世界を一番深いところで束ねているものは何か」

「数々の夜明け……山間の洞窟のほとりをめぐり霊たちとともに漂い、緑の野にありてそなたのおぼろなる光のうちをさまよい、およそまやかしの一切から逃れて、そなたの露に身をひたして健やかにいのち甦りうるものならば!」(ゲーテ『ファウスト』第一部「夜」柴田翔訳)

セネカやマルクスの「自分自身に視線を向ける」という教えは、世界についての知と対峙するかたちではないとフーコーは注意を促してる。問題になっているのは知の様態化であると言い、その四つの特徴を挙げている。第一に、セネカの場合のように主体は宇宙の頂点に昇り、あるいはマルクスの場合のように事物の核心にまで下降することである。主体の運動が霊的な知にとって不可欠であると
いうことである。第二に、主体の移動によって、事物の実在性と価値を同時に把握できる可能性があるということである。価値とは世界のおける位置、と関係と固有な大きさのことであり、また自由な主体としての人間主体に対する関係や重要性や実在的な力のことであるという。第三に、主体はこ
の霊的な知で自分の現実の姿を捉えることができなければならない。主体は自分の存在の真理において、自分を見なければならないということである。第四に、主体はこうした知でみずからの自由を発見するだけでなく、幸福と可能な限りでの完璧さという存在様式を見出し、知の効果を確実にすることができるということである。主体の移動、コスモスにおける実在性によって事物を価値評価するこ
と、主体が自分自身を見る可能性、知の効果による主体の存在様式の変容、これらの条件を含む知こそが霊的な知を構成しているのではないかとフーコーは提言する。このような霊的知がやがて十六世紀から十七世紀に認識的な知に変貌していき、デカルト、パスカル、スピノザを検討すればその変容を確認できるだろうとフーコーは述べる。十六世紀から十八世紀の間の認識的な知と霊的な知の関係を問題のありかたを示す人物として、フーコーは、ファウストという人物像を挙げている。クリストファー・マーロウやレッシング、ゲーテとそれぞれの見方でファウストを捉えているが、ゲーテの『ファウスト』の第一部の冒頭にある独白を読むとき、そこに書かれているのは、「啓蒙の出現とともに消える霊的な知に対する郷愁の最後の表明であり、認識的な知の誕生へのもの悲しい挨拶なのだ」とフーコーはいう。フーコーは、セネカやマルクスの自己への回帰と世界についての知をマテーシスという観点から述べた後、アスケース(自己の自己に対する訓練としての修練)とはどのような実践なのかを展開する。マテーシスとはギリシア語で学び習得することを意味する言葉であり、アスケーシスとは実践の教義を意味する言葉である。ピュタゴラスやプラトンにも見られる古い概念である。

18 霊性の格闘家としての賢者

ムソニウス・ルフスというローマのストア哲学者に「アスケースについて」という作品がある。その中で、徳を医術の知識や音楽の知識を得るように手に入れるにはどうすればよいかを論じている。徳の獲得には二つの前提があるという。一つは観照的な知であり、二つ目は実践的な知である。実践的な知は訓練によってのみ得られると考える。先ほど述べたように古いテクストにすでに見られるが、紀元一、二世紀には自己陶冶や自己実践が大きな規模と豊かな形式を持つようになったとフーコーは
いう。
 フーコーが注意を喚起しているのは、アスケーシスは法への従属の結果ではなく、主体を真理に結びつける真実の実践だということである。「私たちは主体と認識の関係の問題を、客観化は可能か名度というかたちで立ててしまう」が、ヘレニズムと古代ローマ時代はそのようなことはく、主体と世界認識の関係で問題になるのは、「世界を主体的に霊的に様態化すること」であるとフーコーはいう。つまり世界についての知が、主体の経験や救済に霊的な形式や価値を持つということである。

 現代の私たちの思考範疇では、実践の次元における主体の問題は、法への関係で考えてしまいがち
であるが、古代ギリシアやヘレニズム・ローマ時代にはそれからはなれて考えられたとフーコーはいう。「認識の領域において主体を客観化することができるか」と近代人が考えるところを、古代ギリシア・ローマ人は、「主体の霊的な経験としての世界知の構成」を考えてしまうのだとフーコーは説明する。フーコーがここでいう「法への従属」の法は広い意味で、いかに客観的に認識すべきかという範疇で使っているのであろう。「真を語り、実践し、行使する限りにおいて、主体があるべきようにあることはできるか」とフーコーは私たちに説明するが、義務と考えれば法につながって考えてしまうのが現代の私たちの思考である。霊的な経験というとき、「あるべきように」とは、神性を取り込んだ理想という概念が含まれているように私には思われる。近代人が失ってしまった思考である。
ギリシア語のアスケースと語源を同じくするであろうフランス語の禁欲を意味するascèse(アセ―ズ)という言葉がある。この言葉は私たちには現世の放棄を連想させてしまい、究極的には自己放棄という概念を思い浮かべるだろうとフーコーはいう。これは後のキリスト教がストア派のアスケースを取り入れた結果なのである。しかし古代の修練は放棄ではない。逆に自己に到達するために何かを獲得することであり、その身につけるべきものをギリシア語ではパラスケウエーと呼ばれている。
パラスケウエーとは人生の出来事に対して個人が準備することである。「修練とは、個人が未来に対して準備させること」である。「自己凌駕」という概念があるが、自己や他者を超えることではなく、起きるかもしれないことより強くなることをストア派では意味するとフーコーはいう。つまり人生で起こるかもしれないことより強くする実践をパラスケウエーと言うのである。マルクス・アウエリウスは格闘家を舞踊家に比して述べている。舞踊家は理想に到達するため、他人と自分自身を凌駕しようとするが、格闘家は出会うかもしれない攻撃、状況や他者によって加えられるかもしれない攻撃よりも、弱くなって転倒させられないようにすることが挌闘家の術に求められると、フーコーは解読する。犬儒派のデメトリオスの文章にも見られ、可能性のすべてを展開するのではなく、私たちが出会うものだけ、遭遇する出来事に対してだけ準備することをよい格闘家にも賢者にも求められているのだと、フーコーは紹介している。つまり外界から現れるすべての出来事と格闘するという。自分自身の中にある、罪、堕落した本性、悪魔の誘惑などと闘うキリスト教的格闘家、自分自身と闘う格闘家ともフーコーは比較している。

19 行為の主体となるロゴス

人生の起こり得ることすべてに備えることの必要性をストア派は主張するが、備えは何よって構成されているかといえば、ロゴイによって構成されているとフーコーはいう。ロゴイという言葉はロゴスの複数形で、論理、言説、談話という意味である。たんに命題や原理や公理項といったものを身につけることではなく、「物質的に存在する言表としての言説を考えなければならない」のである。自分のために書きつけた文や、師の教えであったり、聞いたり言ったりした文を、精神に刻み込んだ文のことである。しかしそれは当然ながら理性に基づいた命題でなければならない。「物質的に存在するロゴスとは、言説的で合理的な要素を持つ文」であり、行為の原型として主体の中に実際に書き込まれている神経や筋肉の一部であるような文であろう。
また、パラスケウエーすなわち備えは「恒常的に現存していることが必要」であり、必要であれば助けてくれるロゴスであることが条件である。ロゴスは、前にも航海の比喩で表わされることを指摘したが船上の操舵者であったり、戦争の比喩では要塞や城壁であったり、医術では治療薬であったりする。しかも手許になくてはならないものなのである。「苦悩や悲しみや不運に見舞われたとき、死が迫ったり病気なったり苦しんでいるとき、このロゴスという備えが、魂を守り、攻撃を防いでくれ、平静をたもさせてくれるとフーコーはテキストから読み取る。記憶という範疇の中にあり、命題(文)を想起し、実際に口に出すことによってロゴスを蘇らせる訓練も必要とされていたのである。「ロゴ
スは主体そのものにならなければならない」とフーコーは結論する。アスケーシスとは〈真実を語ること〉を主体の存在様態にするものであるが、キリスト教における〈真実を語ること〉とは、啓示や
聖書や信仰に規定され、修練では自分自身を放棄するような犠牲を要求するものであるとフーコーはいう。
自己への立ち返りという原則の効用を、セネカとマルクス・アウレリウスを例とし、マテーシス、つまり認識の次元で分析した後に、アスケーシス、つまり自己の実践をフーコーに導かれながら論じてきた。ヘレニズム・ローマ期の自己の実践の修練は、キリスト教的な自己放棄の修練とはまったく相違しているということをフーコーはくり返し主張している。また、哲学者の修練とは何かを身につけること、人生の出来事を防御するための装備であるとフーコーは述べる。そしてこの修練は個人を真理に結合させることであり、個人を法に従属させるものではないということを確認してきた。これらのことを獲得させるのがロゴスの言説であり、修練の意味や機能は「真実の言説の主体化」である。そうであるなら、重要なことは、「聞くことや読み書きや語りに関するあらゆる技法や実践である」と、フーコーはこの時代の「自己への配慮」の独自性を解読している。

次回は「真の主体化としての修練的実践」についてさらに詳しく見ていく予定であり、
プラトンが『国家』において、詩人という存在を非難している議論の内実にも触れる。





ディオニソスの系譜 小林稔個人誌「ヒーメロス」11号2009年9月発行

2012年02月13日 | バタイユ研究

書評
ディオニソスの系譜(400字詰め25枚)酒井健『バタイユ』(青土社)二〇〇九年四月刊
小林 稔



射程

 バタイユという大いなる矛盾体を、この書物は、第一章、夜(夜のなかの生)、第二章、グノーシス(異端のグノーシス)、第三章、非‐知(「逆説的な哲学」への旅)、第四章、死(死への意識、第二の死のために)第五章、中世(生の連続体への欲求)の五つの視点から考察し、現代の生とエクリチュールの将来を解明しようとしている。
バタイユは非常に名を馳せた作家であり、七〇年前後には多くの著作が翻訳され、詩人たちにも読まれて、悪の作家、異端の作家というイメージが定着し、すでに論じつくされた感がある。いま改めてバタイユを問題にする意味は何かと考えたとき、この書物の、二〇〇〇年以上に亘る西洋文化史からのバタイユ論の意義は大きいと言わざるをえない。まえがきで述べているように、バタイユの「近代性批判と根源の生への激しい欲求」は、現代思想が凌駕できずにいる領野に「覚醒の契機」になりえるであろう。酒井健氏の視点の根底には、思想的背景を軽視し科学や政治の問題を摂取してきた日本の近代化と、温存された前近代的意識のアマルガムが享受しなければならない「報復」を見据える視点がある。現代の混迷はそのまま現代詩の混迷でもあり、この書物が、打破すべき一歩にとっての指標になると私は信じている。

バタイユにとっての中世

 西洋史という地盤の暗部に、二つの大きな力の継続した流れが脈々と息づいていることは、これまで多くの論者が指摘してきた。古代ギリシアで形象化され名づけられたアポロンとディオニソスの像である。この二神は元来、人間に備わる一つのものが分岐したものであり、ニーチェが『悲劇の誕生』で「ディオニソス的なもの」を言語以前の生の根源として
論じたことで知られる。ニーチェの思想に共振したバタイユが、近代性批判の軸としたものだ。ミシェル・フーコーが『言葉と物』で詳細に分析したように、西洋の十七世紀以降、それまでの生の動きと言葉の一致が破られたのである。
 酒井氏の言葉を借りれば、「西欧の近代は、言葉の精神世界で眠り続けることを選んだのであり、科学革命、産業革命、政治革命を通して、徐々に人間の理性の力能を信じていった。神に依存しなくても、理性だけで文明を至福に導けると確信していった。神の位置を人間が占めるようになり、言葉はもはや神の持ち物ではなく、人間の持ち物とされた」(要点概略)のである。西洋の言語観は聖書のそれがもとになっている。中世のキリスト教世界は、新プラトン主義をとりこみ、光を神の言葉とし、闇を「神から見棄てられたもの」とする考えに、物質と精神のつながりを見る考えが加えられていったものである。ゴシックの大聖堂のステンドグラスからこぼれる光には「創世記」に描かれた光と、自然崇拝から起こる光の両方への想いが感じとられるという。ロマネスク教会の内部の装飾には「この地上の物質的なものすべてが様々に表出させている霊的な気配、神秘的な生命感のようなもの」があり、バタイユは若いときからランスのノートルダム寺院(ジャンヌ・ダルクの栄光の場として有名)の荘厳さなどに魅了され、カトリックに帰依したが、一九二〇年、ベルグソンとの出会いをきっかけに棄教する。しかし一九三〇年代後半の講演では、祭壇の十字架上のイエス像、そして葬儀と埋葬の場という死の気配を漂わせる教会堂がいかに中世の共同体に強い結集力をもたらしていたかを彼は熱心に語ったという。
 中世という時代の捉え方にはさまざまな変遷がある。「劣悪な退行的時代」という見方から、「中世においてもルネサンス、つまり古典古代の理性の復興はあった」とする見方へと移行するが、バタイユの見方はこれらと異なる。酒井氏によると、理性を相対化していたのだという。中世の人々も理性を備えていたが、理性を超える力を自然界や人間に見出し、強く心を動かされていたし、その力の体験を聖なる事態として高く評価付与していたという。それに較べて近代人は理性によって自然界の力を抑止し、個人の延命」を重視し、「理性的な個人主義、人間中心主義の時代であった。中世の人間は非理性的な力を神聖視し尊重していた。しかし、バタイユは、中世に回帰することを唱えたのではなく、中世から近代を捉え直し、理性信仰の眠りを貪る近代人を目覚めさせ、別な感性、別な価値観、別な道徳観に目を見開かせたかったのだと論じている。つまり近代の相対化という目論見なのであり、現代思想の傾向に沿った主張であるという。
 

 ソシュール言語学への批判

 酒井氏は、ソシュールは「物」に対する「言葉」の先行性と独立性を強調した人だ、と述べ、丸山圭三郎氏の『ソシュールの思想』を引用しながら、言葉以前の言語主体の経験の重要性を指摘し、まず第一に問題にすべきは、「風土の条件」なのではないかという。
「混沌たるカオスの如き連続体」の一部を言語は切り取り、非連続化して概念化するというのがソシュールの考えであるが、酒井氏は、先行するのは言葉の存在ではなく、「カオスの如き連続体」の感性的体験なのではないかという。十六世紀までは、言語主体が連続体とつながっていながら差異を感性で体験し、「差異の対立化活動」を発動する欲求をもち言語が生まれ社会で認知され、その言葉によって非連続化されていったのではないかと述べる。重要なのは、風土に生の連続体がどのように存在しているのかということである。連続体との生のつながりを望んでいた背景には自然崇拝の念が影響していたと考える。自然界のなかに聖なる現象を見出し交わることを強く欲求していたという。その後、十七世紀からデカルトが現れ、ソシュールが説くような、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の結合体に変化しいった。自然と人間が主体と客体となって分離したのだという。以後、言葉は知的な道具として発展し、活版印刷術、プロテスタンティズムの聖書重視の傾向などにより、話し言葉から書き言葉に移り、文化の周辺部にいた知識人たちが中心的存在になっていったという。十九世紀末頃から、近代物質文明に抗う芸術家たちが現れる。抽象主義のカンディンスキー、象徴主義のメーテルリンクを列挙して論じている。バタイユは前述したような中世に共感し、「カオスの如き連続体」に入っていこうとしたのである。プロティノスから影響を与えられた中世キリスト教神秘家たち、例えばイタリアのアンジェラ・ダ・フォリーニョ、中世末期の、功利主義的な風潮からの極端な逸脱者、ジャンヌ・ダルクやジル・ド・レへの関心の理由であると説いている。バタイユが中世の人々に見た情動は、自分中心の快感や嘆きではなく、逆に自分を否定しさる喜びであり涙であったという。

 逆説的な哲学

 酒井氏はヘーゲルの『法の哲学』序文を引用しながら、ゲーテの『ファースト』にあるように、哲学者の理論構築が、世界を若返らせるものではないことをヘーゲルは知っていたという。哲学者は生き生きとした世界を生きながら、「世界の思想」を作り上げることはできないということをヘーゲルは熟知していた。そうであるなら、ヘーゲルは自らの著作、『精神現象学』や『論理学』のような知的構築物をどのようなものと考えていたのだろうかと問う。バタイユは、ヘーゲルは若い頃世界の根底に降りていき、極限的な生に触れたが、そこから逃避したという。緑の世界から遠ざかった理論など絶対的と形容できるのか、絶対的と標榜しながら、自分の哲学が絶対的でないことを、ヘーゲルは自覚していたのであろうと酒井氏はいう。バタイユがいうように、体系とその外部の悪、絶対知とその彼方の非‐知、歴史の完了と未完了は、ヘーゲル自身がすでに意識していたであろう、がそうであっても、彼はバタイユのいう「恍惚の道」を歩むことはしなかったのだと酒井氏はいう。
 恍惚とは自分の外に出る、つまり脱自(エクスターズ)の状態を表わす。この自分の外の世界をバタイユは非‐知の夜とした。人々を高揚させ、生命に満ち溢れた輝く世界である。バタイユはそのような夜の世界に降りていく。非‐知は知に反省を促し、「積極的に知の働きに迫る」のである。
バタイユ自身の回想によれば、十七歳の頃にはすでに哲学的野心を持っていたことになる。哲学といっても一般的なものではなく、逆説的な哲学であった。哲学とはフィロソフィア、つまり知を愛することであるが、逆説的な哲学とは、知を愛さない哲学というと解することができると酒井氏はいう。「知る行為とその成果の知識を大切に尊重した」バタイユは、「知の彼方をめざした」のである。つまり、不可知のものに知を差し向けたのである。しかし、言葉で伝えることは不可能な領域であるがゆえに、不可知のものがあることを伝えようとしたのだ、と酒井氏はいう。したがって、バタイユの無秩序なテクストは、彼が体験した無秩序なものの表現になるであろう。しかし無秩序な知の彼方を感じ取ることはできる。バタイユは論理的な表現を推論的言語と呼び、知の彼方の内奥性は推論的言語ではとうてい表現できず、「個人であることが消え去る熱狂や、大河の捉えがたい響きや、大空の空しい透明さを持ったもの」であり、「内奥性」は、非推論的言語で切り抜けるしかないと述べた。非推論的言語は詩的な表現であり、我々の内部に秘められたいながら表出してくるものを何らか感覚させると酒井氏はいう。しかし、バタイユは執筆する著作によって、この二つの言語を使い分けるようになる。『無神学大全』三部作は非推論的言語で、『呪われた部分』、『エロティシズム』、『宗教の理論』、『至高性』というふうに。それらの理由を、第二次世界大戦中に露呈した人間の内奥性の未曾有の暴力、すなわちアウシュビッツ等の強制収容所でのユダヤ人の大量虐殺、広島、長崎への原爆投下といった殺戮行為と、『無神学大全』に対する読者の無理解にあったと酒井氏はいう。不可知な内奥性に対する一般読者との距離が増したためである。
 
非‐知とは意味づけに逆行する内奥からの根源的暴露作用である

「認識するとは、何かを既知のものに関係づけることだ」とバタイユはいう。しかしどうしても関係づけられない不可知のものは「意味不明」という意味づけをするしかない。バタイユは逆に、不可知のものそれ自体を露呈させ、見たり、感性的な反応を起こさせ、交わることを欲していると、酒井氏は説いている。デカルトの主体と客体の二元論を乗り越えるため、主体と客体の融合をバタイユは主張する。さらにバタイユの理論はラディカルである。「意識が何ものかの物への意識であることをやめてしまう瞬間へ私たちが到達すること」が大切であり、それは「消費へ解消する一瞬間の決定的な意味を私たちが意識すること」であり「対象として何ものも持たない意識」であるとバタイユはいうのだ。
 バタイユを理解しようとするとき、私たちに決定的に欠落しているキリスト教体験を考えなければならない。今日、「書く」という行為を宿命づけられた者にとって、バタイユがいかにキリスト教から乖離し、しかもなお聖なる概念を持ちつづけ、エクリチュールの構造において、いかに近代を凌駕しようとしたかを考えることは、西洋の人たちの問題にとどまらないことである。ヨーロッパ近代を取り込みながら、なおかつ風土との葛藤に苦悩するわれわれ日本人の問題でもある。書く者の現実から離脱した観念にあるのではなく、日常生活に浸透している。それゆえ、そこまで辿りえたバタイユの思考の根源を考えなければならないのである。
 酒井氏は「一九一四年という年は、第一次世界大戦が始まった年なので西欧人にとって特別の意味がある」と指摘する。バタイユ十七歳の頃である。ランスのノートルダム大聖堂でカトリックに帰依した年であった。しかし、バタイユのキリスト教信仰は瞑想体験が重要な意味を持っていたという。二十歳のころ、オーヴェルニュの村のロマネスク教会に閉じ込められ、一晩過ごしたことが述べられている。扉が閉められことも忘れるほどの深い瞑想体験であったのだ。この啓示を得るためになされる瞑想は、「非‐知と同様に、蔽いを取り除いて、隠されたものを露に示すという開示体験」であると酒井氏はいう。隠されたものとは、キリスト教では「窮極の意味」であり、主体は純粋に知の存在になる。つまり、「窮極の意味を開示する英知の神と、その意味を知ろうとする信者の理性的自我との間の知的な交わりにほかならない」と酒井氏はいう。窮極の意味とは「人間を救済する神の意志」である。一九一四年、戦火の迫るランスに長く梅毒を患っていた父親を残し、母親の故郷、リオン・エス・モンターニュに母親と逃亡する。翌年、残された父親は死別した。

  死の非現実はすばらしかった。だがまもなく夜は明けた。私はホテルの一室に一人で住んでいた。母は隣の部屋に住んでいた。冬の早朝、私は窓からみすぼらしい駅の界隈を見ていた。父が別の都市で突然死んだばかりのことだった。(バタイユ『聖なる神』)

 十字架上のイエスの死は人類を救済する供儀である。「バタイユは一人の敬虔な信者としてイエスのこの行為を深く感謝していたはずだ。しかし同時に、死につつあるイエスを想像しているうちに知らず神学上の聖なる力に、この世界と人間の深奥から湧出してくる破壊的な生の力に、襲われもしていたはずなのだ」と酒井氏はいう。教会における救済と脱自のバタイユの体験は、「逆説的な哲学」や「内的体験」にとって重要な意味を持つ。入信の十年後には棄教し、人間の精神の救済を第一義的に考えなくなり、理性によって隠されていたものを見るようになったと酒井氏は指摘する。

 ニーチェとバタイユ

 神とは人間を神格化したものであるという、キリスト教における神の概念を人間に見たフォイエルバッハの認識を、バタイユは継承したと酒井氏はいう。神とは、自我に与えられた保証にすぎないとバタイユは言った。あれほどまでに神の救いへの意志を語ったバタイユが、それを逆に笑い飛ばしてしまう。「客体の得体の知れない生の力と、主体の側のこれもまた得体の知れない生の力とが交わって、主客が渾然と溶融しだす非‐知の体験」(酒井氏)のほうに歩みを進めるのであった。その契機がベルグソンとの出会いである。

  いっさいを忘却し、実存の夜へ深く降りていく。無知であることをいつまでも深く懇願し、不安に溺れる。深遠の上に滑り出て、寒い孤独のなかで、人間の永遠の沈黙のなかで、震えて絶望する(いかなる文章も愚劣であり、文章という文章が空しい答となり、ただ夜の気違いじみた沈黙だけが答えてくる)。〝神〟という言葉を用いて、この孤独の底へ達したのだ。だがもう神の声は知らないし、耳にも入ってこない。神を無視すること。神という窮極の言葉は、もう少し先へ行けばすべての言葉がなくなるということを意味している。神自身の雄弁さに気づいて(神の雄弁さは避けがたいのだ)、それを笑い飛ばす。無知の茫然自失状態に到るまで笑い飛ばすのだ。笑いはもはや笑いを必要にしない。むせび泣きも同じだ。さらに進めば頭が炸裂する。人間は瞑想ではない(人間は逃げることによってはじめて安らぎを得る)。人間は懇願、戦争、不安、狂気なのだ。(バタイユ『内的体験』第二部「刑苦」)

 信仰を棄てたバタイユを襲ったのは非‐知の力である。「神の正体が人間の理想的自我だとすれば、神を笑うとは人間が自分自身を笑うということだろう。死の危機を感じて救いを求める自分自身を笑うということだ」と酒井氏はいう。バタイユが非‐知のほうに向かったのはベルグソンが契機であったが、それは「笑いは、他者を善導していく教育的な効果を持つというベルグソンの笑いの主張に対する激しい批判であった。一方では「笑いに悪意が潜んでいることもベルグソンは認めているが、笑う人と笑われる人の間に介在する深い共犯関係」にまで思考が及んでいない。「緊張緩和や伝播の動きは笑いの序曲にすぎない」とベルグソンは記したが、そうした笑いこそ、バタイユにとっては本質であった。『眼球譚』の「回想」でバタイユが書いた梅毒を患っていた父親の笑いを引用して、「笑いによって危機に瀕する道徳自我の恐怖心も、それを乗り超えさせる笑いの強い力も、ベルグソンからは積極的に論じられていない」と酒井氏は指摘する。とにかくベルグソンによって提出された笑いをバタイユは本質にまで深めたのであった。
 哲学と笑いでは何といってもニーチェが思い出される。棄教後のバタイユはニーチェの著作を読み心酔していくのである。はじめてニーチェに接したバタイユは、「私の思想、私の全思想がこれほど完全に、これほどみごとに、表現されてしまっている以上、いったいどうして省察を続ける必要があろうか」(一九五二年頃の草稿)と書いている。その二十年後にそれ以上のことを見出し、『内的体験』にまとめ出版した。それ以上のこととは何か。それはニーチェの思想を乗り超え、「別の思想を作り上げることではなく、ニーチェの深部と重なること、ニーチェ自身によっては明瞭に意識されていないが望んでいたであろうこと、すなわち彼の思想の核心をなす部分と共振することだった」と、酒井氏は指摘する。
 ニーチェの自伝「この人を見よ」で表明されているように、バタイユは、ニーチェは体系を志向していなかったと考えていた。「目的を経験的に知らない」「遊びとは別のやり方を知らない」というニーチェの告白は彼の過去を十分考慮しなければならないが、それを書いた一八八八年のトリノにおいてニーチェをそう語らせたのは、そのときの気分的なものであったこと、自伝を書く自分が軽くなっていく体験であったろうことを考慮しなければならないと酒井氏はいう。しかし、とにかくバタイユの共振したニーチェは、「童子のように無心に、無益に、ただ流れるだけの世界の生」と遊ぶニーチェであった。
   
 風土と生への覚醒

 第四章、「死」と題された章に、日本の現代詩から入澤康夫の詩「泡尻鷗斎といふ男」についての言及がある。一九七九年に絵画館の一室で行なわれた、現代詩の動向についての吉本隆明の講演会のことが書かれている。そこで吉本が朗読をし紹介したのが、この入澤の一篇の詩であった。吉本は表現での上手さを褒め称えながらも、内容面での危険な兆候を展開し始めたという。「近代日本人が陥りがちな兆候」として、明治以来、日本の近代化が進む中で、近代西欧の文化を積極的に摂取し、西欧人と互角の表現物を生み出すほどの表現者を生み出したが、「自分の死を意識するようになると、きまってそれまでの独自の表現の仕方、考え方、生き方に言い知れぬ孤独と淋しさを覚えはじめ、「アジア的な」風土への郷愁に駆られるがまま、まるで逆風を向けた凧のようにあっというまにこの風土へ転落してきてしまう。そして何も語らなくなるか、あるいはたとえ息の長い連載を続けても、内容的には自我も思想も希薄な表現物を書くだけになってしまう」というのが、吉本の講演の主旨であったと酒井氏は述べる。
「アジア的な風土」とは何か。「人間と人間、人間と自然が曖昧に溶けあっている湿潤な環境世界」であり、「個人の思想は育まれにくく、また必要にもされていない」風土であると吉本は語ったという。つまり、日本の知識人が独自の思想を表現するには、このアジア的な風土から離脱しなければ、「世界的で普遍的な」表現を形成できない。入澤のこの詩にはアジア的な風土への回帰が見られ、入澤自身も近代日本の知識人たちが陥った転落を余儀なくされているという考えを語ったという。
 酒井氏の主張はここから始まる。この詩に描かれている、泡尻鷗斎(一号、二号と名づけられている)なる人物は、右に述べた日本近代の知識人を寓意した表現であり、そのような生き方のむなしさ、無意味さを語った詩である。その生き方が詩の中で笑われているのだ。吉本は泡尻鷗斎の死に作者の死を見出して笑っているという解釈である。しかし酒井氏はそのように解釈しなかった。笑っているのは誰か。それは、「風土という場を軽蔑まじりに離別していこうとするその姿を逆に嘲笑まじりに眺めている、アジア的風土に密着して生きている人々であるという。この笑いは入澤の共感するところであり、自嘲ではないという。この詩に描かれている自然の存在に酒井氏は注目する。「瓢の中の天地」「羊の足跡」「一滴の水中に宿る幾千万の異形の者ども」などである。「このような風土の存在たちの自由な在り方こそが、滑稽な死をもたらした元凶」であるという。「風土の根底にまで、つまり死をもって迫る風土の自由な生にまで目を見開かない思想家は、風土と風土に生きる人々にただ愚弄されて、訳の分からないまま死んでいくだけだ」というところにこの詩の主題を読み取ったのである。
 吉本の視線の先には、アジア的風土に生きる無名の人々がいたが、個々の人間の死、個々の物々の消滅を、彼らの感性の深さが十分に取り込まれていないと酒井氏は主張する。「アジア的な自我の希薄さは外部の自然に反応しやすいということはあるが、洋の東西を問わず、生への感性は存在している。風土の底に感性を開けば、東洋と西洋、知識人と大衆、独自性云々といった識別は崩れ去るということを入澤は知っていたという。
 入澤は死の意識をどのようにとらえていたかを酒井氏は考察する。「死の意識は大きな生への開けであり、死者たちへの思いは生者たちとの深い糸口になっていた」という。風土とはこの大きな生が見えるところを指す。「風土の風景には、固有性、独自性を問う思想とは別の広大で普遍的な思想が開かれていることを入澤は知っていたという。合理的な近代西欧人がこのことを感じ取ることはまれなことであったろうという。入澤が研究に携わったネルヴァルはその少数の一人であった。「シュルレアリストたちが彼の「オーレリア」を先駆的な存在として称えたが、シュルレアリストが詩の表現の刷新に熱心であったのに対し、バタイユは狂的な幻想を生みだす生そのものに強く引かれていた」と酒井氏はいう。
 入澤は詩人としてネルヴァルやバタイユのような、書きながら存在の道を選ぶことはしなかった。ここで酒井氏はバタイユに論をつなげていく。「異端の思想家としてバタイユは二〇世紀西洋の近代文化のなかに、深層の生への覚醒の道を切り拓こうとした」という。バタイユは「ドキュマン」の論文で、「低い唯物論」の立場から、近代人が嫌悪する変形したもの、腐敗したものといった異形のものたちに存する豊穣な生を示し、西洋の観念的な説明原理、例えば神やイデアなどが笑われ、滅ぼされていくことを欲していたという。
 上昇志向の近代人にさえ、奥深い生に取りつかれているとバタイユは誘惑という言葉で指摘し、西洋の風土の古層ではおおらかに肯定されているという。バタイユはこの奥深い生に全身をあずけ自我を危機に陥れる。自我や主体は消滅する、それでこそ奥深い生の流れに接することができる。「この巨大で圧倒的な生の流れのなかで自分の書いたものがいかにむなしいか、書くそばから意識していたという意味で」、ネルヴァルも、ニーチェも、バタイユも、泡尻鷗斎の一人であったと酒井氏はいう。

 バタイユの思想はポストモダン社会のはるか彼方にある

 二〇〇七年『クリティク』誌(バタイユが創刊し現在も刊行)にペロニカ・ナジ女史の、「中世の情動」という特集号での巻頭言を引用し、「現代西欧の中世史家たちの何人かは、ようやくそのような(実証的な裏付けが得られないまま)感性と勇気をもって、中世人の情動という目には見えないものに眼差しをむけるようになった」と酒井氏はいう。「このような試みは、ポスト・モダンと言われる我々の社会に固有の、情緒への傾倒を反映しているのだろう。…これらの変化は、啓蒙の時代の合理主義を継承する者たちには必ずしも芳しく評価されないが、我々の社会の大変動を意味するものなのだ」とナジ女史は論じた。
 だが、酒井氏は彼女のような情動の中世史家たちに批判を加える。なによりポスト・モダン社会の「情動への傾倒」に批判的なのである。それは「個人の快意」の追求を本質にしているからだという。電子媒体の発達を享受する近代人の姿勢、つまり「メディアを使った個人の欲求の」充足をポスト・モダン社会の人間はもちつづけているからだと考える。「個人は望むまま他者から安らかに隔離され、単体として快適に生き、非理性的なものを自分の体制が壊れない限りで取り入れる、あるいは完全に排除する」姿勢であると言い、「個人の枠組みを超えていく力を支持しているのではない」という。このような見方では、バタイユを、さらに彼が論じたジル・ド・レを単なる悪の肯定論者と誤解されかねないと警告する。ポスト・モダンは消費文化の近代の質的な転換に十分にならなかった、「よりしたたかに理性的な個人主義を実践している」にすぎないというポスト・モダン批判を酒井氏は述べている。

 酒井健著『バタイユ』から導き出される多くの事項を、急ぎ足で取り上げてみた。グノーシスや供儀の問題は割愛せざるをえなかった。書評という制約から命題の閾を跨いだところで終えたが、私自身はさらに追及していくことになろう。
 近代文明の崩壊をニーチェもバタイユも身をもって明かした。近代的理性によって隠蔽されていたディオニソス的な力が噴出したと私は考える。混沌とした生命力は暴力的な力を露出するが、バタイユにおいてはニーチェと同様に、他者に向けられる暴力行為とはならず友愛であった。バタイユの精神的な風土とは、第二次世界大戦に突入しようとする西欧のそれである。近代科学文明の終焉に政治の世界に現れた戦争の暴力は、同じディオニソス的な力の全く違った方向、つまりバタイユのいう夜の世界に対する、ヒトラーの昼の世界での異なった現れではないだろうか。前者は近代を否定、超越しようと目論み、後者は崩壊する近代に固執し、復権を願ったのであった。
古代ギリシアの単子論をルーツとする物と心の二元論が、近代科学に継承され加速されたが、環境破壊や倫理の問題から、自然科学的思考そのものを深く考え、それを取り込むかたちで新しい哲学が提示されることが緊急事になっている。プラトンの著作の翻訳と研究で知られる藤沢令夫氏は、『ギリシア哲学と現代』(岩波新書、一九八〇年刊)において、デモクリトスたちの自然科学を取り入れ、しかも二元論を解体したプラトンのイデア論の有効性を論じている。
バタイユは言語以前の生命力にあふれた世界を生きようとしたが、中世や未開の文明に戻ろうとしたのではなく、酒井氏が指摘するように、十七世紀から始まる近代科学の偏向によって人間性や自然を抹殺する社会を相対化しようとしたのである。私たちも少なからず恩恵をこうむっている西欧理性主義は、そのルーツを古代ギリシア・ローマ文明と捉えらている。したがって近代理性批判の元凶であると考えられているが、私たち日本人は古代ギリシア・ローマ文明を西洋人とは別の視点で見ることができるのではないだろうか。プラトンの哲学は異国の神、ディオニソスを上手く取り入れてしまった。現代哲学がプラトンを批判しながらも乗り越えられないでいるのはそのためであろう。ポストモダン社会の思想に影響され詩作をすることは愚行であろう。シニフィアンとシニフィエの言語ゲームを超えた言語以前の体験を重視すべきである。バタイユはその混沌とした非‐知の世界を、混沌とした伝達不可能な言葉で表現したが、彼はそのような世界に沈潜しながらも近代社会に生きる人々と同様の思考を失わずにいたのである。自らを有罪者とすることはそこに起因する。
 非‐知の内的体験をした者がいかに「コトバ」によって詩を開花させることができるかは今後の詩人の課題であろ。この『バタイユ』という書物では、筆者が風土についての考察をさらに探求していくであろうことを予測させる。今後の展開を待ちたい。また、おそらくバタイユが暴露した近代文明の諸問題を継承し発展させるのは東洋的思考であり、特に世界的に高名な井筒俊彦氏の提唱した「言語アラヤ識」は、ソシュールに始まる西洋言語学を超えるであろう。
「生」と「文化史」からの視点で論述されたこのバタイユ論は、ニーチェよって古代ギリシアに戻され、バタイユによって反近代からの脱出を主体的に引き受ける詩人の今後のありように、大きく貢献するに違いない。

                (「ヒーメロス」11号(2009年)に掲載された論考であり、無断転載禁止)

「朝倉宏哉詩選集140篇」(コールサック社刊)を読む。2009年12月COALSACK65号掲載から

2012年02月10日 | 詩集批評
詩の泡立つところへ――真実を発見できる場としての日常。
『朝倉宏哉詩選集一四〇篇』を読む COALSACK65号(2009年)から転載。    
 小林 稔  


詩は詩人にとって永遠の謎である。スフィンクスに対峙した
オイディプスのように、詩人は詩とは何かという謎に立たされ
る。詩歴が四十年、五十年となれば、ますます深まる謎に足を
すくわれる思いであろう。冷酷なアポローン神の予言を回避し
ようとする策が逆に予言を成就させてしまうという非合理。神
話の怪物も神々も人間という不可解な生き物を顕すべく人間が
創り出したものだ。芭蕉は己を俳諧へと駆り立ててやまない心
の動きを「物」と捉え、風羅坊と名づけた。「ある時は倦んで
放擲せん事をおもひ、ある時はすすんで人に勝たん事を誇り、
是非胸中に戦うて、是が為に身や安からず。しばらく身を立て
ん事をねがへども、これが為に障へられ、暫く学んで愚を暁ら
ん事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無芸にしてた
だ此一筋に繋がる。」(『笈の小文』の冒頭文より)生涯をか
けて詩へと唆す魔物としか表現しようのない「物」である。
「物」であるとは、己の意識では手に負えない存在であるから
だ。実際、「栖去之弁」では「風雅の魔心」と著し、仏教観で
の罪悪の意識をも匂わせていた。

今回上梓されたコールサック詩文庫2『朝倉宏哉・詩選集一
四〇篇』の最後に置かれた未刊の詩二篇では、朝倉氏の詩への
思いが直截に表現され、まず私の関心を惹いた。

 詩よ
 アンタとお付き合いして半世紀にもなるが
 アンタはボクに正体を見せたことはない 
               (「詩よ」の冒頭部より)

 詩をアンタと呼びかけるのは、「これしきのために貴重な時
間と労力をついやして/むなしく老いて死んでいくのか」とい
う憎悪と、「アンタの言葉の肉体は豊潤で真実で/抱擁すれば
/ボクも一緒に豊潤で真実になれる」という愛があるからだ。
 私と朝倉宏哉氏の詩との出逢いは第六詩集『乳粥』に始まる。
実際にお逢いするまえに彼の詩に触れ、批評で応えられること
は幸運と言うべきである。詩は極めて個人的な行為でありなが
ら、個人を超えたものであり、真実の言葉において他者との接
点を持つものだからである。この世に生を受けたとき詩人とし
て生まれたのではなく、詩を読んだ感動が大きく関与している。
詩へのそこはかとない憧れから書き始める、あるいは激しい衝
動に駆られるにせよ、ほんとうの詩が始まるのは自分をとりま
く世界と対峙したときである。五十年以上におよぶ詩人の業績
を俯瞰したとき、着実に現実を歩いてきた人生と、そこから詩
を獲得した強い意志に感じ入るばかりである。私との年齢の差
はわずかに十年であるが、詩想の違いに驚くばかりだ。当然、
世代では片付けられないことだが、詩か現実生活かを迫られた
二十代前半のころの私の事情から考えれば、仕事を堅実にし、
家庭を築き、かつ現実との格闘から詩を続けてこられたことは
一種の驚異である。朝倉氏の詩には現実から決して逸らさない
透徹した眼差しがあり、安易な叙情や曖昧な自己表出を許さず、
それが強い言語表現を生んでいるのであろう。

 おまえは赤い凛性の舌の根元に
 呻きに似た長い叫びを埋めている
 爪が草のようにのびる春の夜
 いっせいに孵化しようとする声を抑えて
 おまえの不眠の舌は/磔状に垂れたままだ

 荒い呼吸がみえる きこえる
 腹這いになった土を顫わせ
 おまえの優しさのほてりが伝わってくる
 そのほてりには強い獣の匂いがあって
 おれの青い獣性を脅かす

 おまえは夜行性を生捕りされている
 犬の 狼の 肉食獣の
 めくるめく野性の光景を生捕りにされている
 繋がれたトキ色の感受性は
 飼育され 訓練されて/使途のように柔順だが
 今/あまりにもヒトに似た瞳の奥では
 復讐の予感に/おののいているようだ 
            (「盲導犬」の冒頭部より)

 飼いならされた獣性。近代社会以降の体制で生きなければな
らない人間の生きざまを詩人はそこに見る。かつて人間も自然
との交流の中で熱狂的な生を送っていた。科学的思考を発展さ
せるようになり、物と心は二分され、利便性を手に入れ都市生
活者の行儀良さを身につけたが、真実の生から遠ざかってしま
った。詩は魂を揺さぶるものである。そう考える者にインドは
理想の土地と思える。第一詩集『盲導犬』を刊行したとき、朝
倉氏は三十五歳。インドに出立することは可能な年齢であった。
しかしすべてを投げ捨て旅立つことはしなかった。家庭を築き、
子どもたちにも恵まれ、仕事にも慣れた時期であろう。堅実な
市民生活を選択したと思われる。
第二詩集『カッコーが吃っている』(一九八三年刊行)の発刊ま
で十年の時が流れている。ここには子どもの成長を見届けなが
ら安定した心持ちで家族や動物たちの交流を巧みな表現技法を
駆使して描いている。そうした日々の中でも長年友情を温めた
知己の死に出逢っている。それから十一年後、第三詩集『フク
ロウの卵』(一九九四年刊行)仕事での海外体験に基づく詩と父親
の死を描いた詩が掲載された。すでに四十歳を超えた朝倉氏に
は、若かりしころにインドに憧れたような思いとは違った思い
が去来したであろう。取材旅行を通して新鮮な感動を多くの詩
に獲得していった様子を、窺い知ることができる。
第四詩集『満月の馬』(一九九九年刊行)五十歳代にその多くを
書いたと思われる。「やまかがし」は傑作である。夏の朝の草
原で蛇のぬけがらを見つけたのである。

 やまかがしはおのれと格闘したのだ
 身の丈いっぱいの/おのれの皮から脱出するために
 おのれから別のおのれを生み出すために
 朝がくるまで/壮絶なたたかいをくりひろげていたのだ

 陽がのぼり ぬけがらが乾いていく
 風がふき 草叢が膨らんでいる
 そのなかであたらしい蛇は
 未知のおのれに驚き/とぐろを巻いて
 息をととのえているだろう

 やがて草叢をふるわせて
 一匹のういういしい蛇が姿を現す
 それは一瞬 やまかがしではない
 蛇はぬけがらに目もくれず
 しなやかに身をうねらせて
 夏の朝の草原を滑っていく
             (「やまかがし」後半部より)

実在感のある描写である。「いきもの」は彼自身の秘められた
獣性を具現化したものである。擬人化ではなく、動物の生態そ
のものを描写する。詩人の観察眼を通して言葉で伝えることに
より、実際に目にする以上のリアルさを感じさせる。おそらく
これは理性に抑圧された人間が「自然との連続体」を感じ、物
言わぬ「いきもの」に己を仮託して見ているから感動を与える
のではないかと思う。朝倉氏の詩には、喜怒哀楽を表現した詩
が少ない。感傷的な詩がないのはそのためだ。極力廃すること
によって言葉の物質性が獲得されている。それは他者を動かす
大きな力である。
 この『満月の馬』という詩集にある「ひとの河」という詩は
私の好きな詩だ。さらに「インドへ行った息子に」と題された
詩は私にとって感慨深いものがあるし、朝倉氏の詩人としての
遍歴において大切なターニングポイントであったと思う。旅立
った者と残された者の構図に親子の絆を置いた詩だ。時空が主
題であるといえよう。若いころの憧れであったインドの旅を今、
息子が適えている。見送った人たちには日々の生活がある。若
かりしころに抱いた夢を息子が実現させた歓びと、無事を願う
気持ちが複雑に混在したであろう。詩人はこれまで厳しい現実
生活に堪え、詩を書きながら生きることの真実を見すえてきた。
この日常こそが真実を発見できる場なのだと詩人は知る。「花
見川の土手を行って/無心に草を食む老いた馬に出会った/お
れはそのひかりの輪のなかにいる」という詩行はそのことを著
している。どこへ行こうと、すでに掴んだ真実を携えていくこ
とになろう。だが、息子がそれを知るには別の経験が必要だっ
た。旅先で目にするもの、それはその土地に生きる人たちの日
常生活である。「ほんとうのこと」は自分が経験することでしか
知ることができない。経済的に繁栄した日本では得られない、
厳しい現実と自然に身をさらすことになる旅。旅人の視線で異
国の人々の生活を共にする旅。その欲望に駆られた者は旅に出
る。そして知るのだ、日常こそが真実を発見できる場であると。
帰国した息子とどのような会話を交わしたかは私には知る由
もないが、その後、父と息子は共にインドを旅することになる。
第五詩集『獅子座流星群』、第六詩集『乳粥』にインド体験
を基にした詩が数多く載せられているが、それ以外の詩もあり、
「犬を洗う」という詩は強く心に残っている。ニューヨーク同
時多発テロのテレビ報道のかたわらで老いさらばえた犬の哭く
声。瓦礫の下の人間の呻き声が重なり合う。人間の罪の連鎖の
中で無数の生き物が生まれ死ぬ、この救いのない現実からなに
ものも逃れられない。だからこそ天山山脈のふもとの天池を眺
めていたとき、詩人にひとつの想念が訪れたのだ。

 人類が流した涙の総量を天池はたたえて澄んでいる
                  (「天池」の後半部の一行)

 三十七年の会社勤めを終え、定年退職した男は贈られた花束
を、いつか自分も入るであろう墓前に捧げる。次に挙げる詩は、
一人の男として描いているが、朝倉氏本人であろう。

 潤む目を/微笑みにまぎらしても/足取りはぎこちない
 (略)
 重石は取れたが/還暦の男は/鳥のようには飛べない/魚の
 ようには泳げない/獣ようには走れない (「生前墓」より)

仕事から解かれ、拠りどころをなくしたような喪失感に一瞬
襲われたのだろう。これからの人生を、詩作で勝ち得た真実を
いかに展開させていくのか興味深いところである。次に置かれ
た詩「神秘から謎までの日日」では、誕生(神秘)から死(謎)
までを一瞥し、その途上にある現在に思いを廻らしている。

 それはすばらしい謎だ/だから
 神秘から謎までの日日が
 あやうく
 いとおしく
 ういういしく
 ぞくぞくするようなスリルにみちている
 と 感じられないか 
 (「神秘から謎までの日日」の最終連より」)

 あの「やまかがし」のように彼は、詩の泡立つところへと新
しい跳躍を完遂するのだろうか。言葉の欺瞞を許さず、事実を
直視し続けることで真実を物した詩人がここにいる。
 
芭蕉は俳諧に駆り立てる魔心に付き従いさすらいの人生を送
った。喩の表現で語るなら、詩という不可思議なものは時空の
彼方から私たちの経験の足許に降り、日常の空間を聖なる空間
へと一変させるものだ。詩そのものがこの世への「まろうと」
(客)であり、旅人である。朝倉氏は生活に執着することで詩の
正体と格闘したのだ。しかし私たちが死という宿命を回避でき
ない限り、詩は謎のまま残される。旅から学ぶのは人生そのも
のが旅だということである。それゆえ不確かなこの現実に「起
こったこと」の徴を探りあてなければならないのだろう。