ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ボードレール『悪の花』から「われとわが身を罰する者」の訳詩・小林稔

2013年04月29日 | ボードレール研究

 

ボードレール『悪の花』から「われとわが身を罰する者」の訳詩・小林稔

15 われとわが身を罰する者 L´HÉAUTONTIMOROUMÉNOS

 

 私は君を打つだろう、怒りもなく

憎悪もなく、者のように、

岩を打つモーゼのように!

君の目蓋から

 

苦しみの水が湧き出でるだろう、

私のサハラ砂漠を水びたしにするために。

期待に膨らんだ私の欲望は

君の塩辛い涙のうえを泳ぐだろう、

 

沖に舵を取る船のように。

君のいとしい嗚咽は、

その響きに酔う私の心に

突撃を打ち破る太鼓のように鳴り渡るだろう!

 

神に捧げる交響楽のなかの、

私を震わせ、私に噛みつく

貪欲な「皮肉」の恩恵で

私は調子はずれの和音ではないのだろうか?

 

そいつは私の声のなかにいる、耳障りなやつ!

私のすべての血、それはこの黒い毒物!

憎しみと羨望の女神メガイラが自らをそこに映す

私は不吉な鏡なのだ。

 

私は傷口にして刃物!

私は平手打ちにして頬!

私は四肢にして、処刑の車輪である

生け贄にして執行人!

 

私は私の心臓の吸血鬼、

――笑いの永遠の刑に処せられた

これら偉大なる見捨てられびとたちの、私は

もはや微笑することができぬ者たちの一人なのだ!

 

 

 copyright 以心社 2013

無断転載禁じます。


ボードレール『悪の花』から「祝福」の訳詩・小林稔

2013年04月27日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「祝福」の訳詩・小林稔

 

14 祝福 BÉNÉDICTION

 

至高なる力の命じるところによって

「詩人」がこの陰鬱なる世に現れ出たとき

母親は不安に慄き、呪詛の言葉を胸に留め、

憐れみを与え給う神に向かって、拳を握りしめる。

 

――「ああ! まったく、なぜ私は蝮らの一塊を産み落とさなかったのか、

こんな嘲笑の種を養い育てることになるくらいなら!

夜よ、呪われてあれ! 仮初の快楽に

私の胎内に呼気を宿したあの夜。

 

そなたが、みじめな夫の嫌悪の的になるために私を

すべての女から選ばれたのだから、

このやつれた怪物を、恋文のように炎のなかに投げ棄てる

ことなど、かなわぬことだから。

 

私を苦しめるそなたの憎悪を跳ね返らせよう、

そなたの悪意の呪われた道具のうえに。

そしてこの哀れな樹を思いっきりねじ曲げ

悪臭放つ芽が出るのをやめさせてしまおう!

 

母親はかくて憎悪の泡を飲み込んで

永遠なる神の思し召しをわからぬままに

ゲヘンナの谷底で、自ら準備するのは

母親の罪に割り当てられた火刑台。

 

しかしながら、「天使」の見えぬ監視のもとで

見捨てられた「子供」は太陽に酔い痴れ、

飲むものはすべて永遠の命を授かる神々の食べ物になり

食べるものはすべて不老不死の真っ赤な神酒になる。

 

彼は風と戯れ、雲とおしゃべりをし、

歌いながら、十字架の道にうっとりとする。

そして、巡礼のなかで彼の後を追う「精霊」は

森の一羽の鳥のように陽気な彼を見て、涙を流す。

 

彼が愛することを望むすべての人々は、恐れを抱き彼を見守る。

そうかと思えば、おとなしさにつけあがり、

苦痛の叫びを上げさせようと、

彼らは自ら持つ残忍さを彼に試してみる。

 

彼の口に入れるべきパンと葡萄酒に

彼らは灰を不潔な唾に混ぜ合わせる。

彼の触れた物を彼らは投げ捨てる偽善ぶり、

彼の足跡に足を入れ踏んだと自分を責める。

 

彼の妻は広場から広場を叫びながら歩み、

「私を崇めたいほど美しいと思うなら

私は古代の偶像の務めをはたしましょう、

その像に似せて私を金箔で塗り直させましょう。

 

私は酔いしれよう、香油を、薫香を、没役を、

跪拝を、そして肉と葡萄酒を、

私を讃美する夫の心のなかの、神に捧げるべき賛辞を

笑いつつ奪い取れるかどうかを知るために!

 

こんな不敬虔な悪ふざけに飽きたなら

彼の身体に私の折れそうだが強い手を置きましょう。

鷲女神の爪に似た私の爪を

彼の心臓にまで突き進ませることになるでしょう。

 

震えおののく、まだ幼い小鳥のように

私はこの真っ赤な心臓を彼の胸から引き抜いて

私のお気に入りの獣の食欲を満たすため

侮蔑して投げつけてやりましょう!

 

光り輝く玉座が見える「天」の方へ

「詩人」はこころ穏やかに、敬虔なる両腕を差し伸べると、

明晰な精神から放たれる巨大な閃光で

それぞれの国民の荒れ狂うさまは見えなくなる。

 

「祝福されてあれ、苦しみをお与え給いし私の神よ、

われらの穢れを癒す神聖なる薬のように、

そしてまた強き者たちを神聖なる逸楽に導く

より良き、より純粋なる神髄のように!

 

私は知っております、そなたが「詩人」に、

神聖な「軍団」の幸いなる隊列のなかに

一つの座を取りおきなされ、

座天使、力天使、主天使たちの永遠の祝祭へと招き給うたことを。

 

私は知っております、苦しみこそが高貴さであり

この世も冥界も決してそれに噛みつくことができぬことを、

すべての時代とすべての世界に代価を課せねばならぬことを、

私の神秘の王冠を編むために。

 

しかし、古代パルミラの失われた宝石や、

未知の金属や、海の真珠、それらをそなたの手で

備えられようとも、満ち足りることはないでしょう、

眩いばかりに澄んだ美しい王冠を飾るためには。

 

なぜならば、それは原初の光線の聖なる源から汲まれた、

純粋な光でしか作られないでしょうから、

死すべき人間の眼は、その揺るぎない煌きのなかであろうと

曇らされ、嘆きをやめない鏡でしかないのですから!」

 

 copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。


ボードレールについて(一)

2013年04月25日 | ボードレール研究

ボードレールについて(一)

小林 稔

 

 ボードレールの『悪の花』十三篇を自ら訳し終えて感得するのは、強烈な詩性である。このような詩が生み出されるには、書く主体の、つまりは生身の人間に躍動する永遠不同なる「詩人像」が内在しなければならないのだろう。ミシェル・フーコーが晩年に辿り着いた「生存の技法」、すなわちボードレールのダンディズムが要請されたことだ。言語の密度で迫力を見せつけたり、虚構を口実に小手先のレトリックで書く現代詩人の衰退した詩とはなんという相異であろうか。詩の前で詩人は消え去るべきだという、ご都合主義には騙されまい。詩は詩人より優位に置かれるべきことは当然のことであるが、ボードレールの詩のどの作品一つをとっても、詩人の存在を感じさせない詩はないと言える。それではボードレールは詩から垣間見られる生活をそのまま生きたのかと訊ねられれば、否である。生身のボードレールと詩人ボードレールとは差異があるということだ。つまりボードレールには、信念としての確固たる詩人像があり、それに近づけようとすべての私生活を代価に生きたということに他ならない。詩を追い求めて彼自身が牽引されているのだ。しかるに彼の詩の栄光のうしろに詩人の存在を感じさせることになる。このことは、彼の美術評論「生活する画家」の「現代性」の主張と関係づけることができる。詳しくは私の評論『自己への配慮と詩人像』の後半部で探求することになる。ここでは気ままな感想を述べるにとどめておこう。

「照応」と「高翔」では詩法の一端を告知し、「敵」と「不運」では詩人の生きた過程における困難さを垣間見せる。「Ma jeunesse ne fut qu´un ténébreux orage」というロマン主義的表現で読み手を引き込むが、ボードレールはそこを超え、夢の世界に安住しない。「O douleur!  ô douleur! Le Temps mange la vie」(おお、苦痛よ! おお、苦痛よ! 「時」が命を喰らうのだ)と詩人の苦悩の叫びをあげる。永遠をこの世に開示させようとする悲痛な叫びである。「L´Art est long et le Temps est court」(「芸術」は長く、「時」は短い)という詩句は実感をもって迫ってくる。「人間と海」では、海と双生児である人間の心の深淵に荒れ狂う海のイマージュが、そこに巣食う獰猛な、殺戮や自らの死も辞さない獣性を鏡のように映し出す。私にはゴヤの「巨人」が憶い起こされる。「読者へ」は『悪の花』の冒頭に置かれた詩である。ほんとうは詩集をすべて読んだ後で読まれるべきものであろう。初めて読んだ弱年には理解できなかった。しかし、ボードレールの『悪の花』の構成は完璧である。人は「あほうどり」や「通りすがりの女」といった分かりやすい詩から足を踏み入れることもあるだろう。重厚な密度の高い言葉で叩き込む詩の後にそれらは置かれている。しかしそれらの詩は質において劣るという意味ではなく、愛すべき詩という意味で親しみやすいのである。「読者へ」では、人間の「愚かさ、過誤、罪、吝嗇」が、この世の「悪」へと導いていくという。私たちは、悔恨と悔悛を繰り返しながら地獄への階段を一段一段降りていくというのだ。しかし、ボードレールの真の偉大さは、生を営む私たちの内部に宿る悪=欺瞞を暴き出し、「私の同類よ! 私の兄弟よ! と言い放つところにある。つまり、形而上学にとどまらず、至高なる精神と俗なる現実、「不易と流行」の一致をこの地上に花ひらかせようとするところにある。

「灯台」では、ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ゴヤ、ドラクロアといった画家の描き出す世界においても同様に、ボードレールは人間の悪の主題をを読んでいる。「これらの讃歌は、千の迷宮を潜りぬけて繰り返される、同じ一つの木霊に過ぎない。これぞ死すべき人間のための、神から贈られた阿片」とまで言い放つ。人間の悪から発する叫びは「千の拡声器で送られる指令」「深い森で道に迷う猟師の叫び声だ」という。そうした、数々の芸術家が暴露するその眼差しは悪を照らし出す灯台の光なのだ。最終連においても、ボードレールの同類意識は退席しない。彼は神にささやく。芸術家が描き出す人間の悪は「われらが自らの尊厳を自らに与えるという証」であり、「そなたの永遠の岸辺」で死すべきもの=人間の証なのだと結んでいる。

「夕暮れの諧調」では音楽と詩の形式の合体が試みられ、言葉の響きが繰り返される波のように流れてゆく。「秋の歌」では、「もうすぐ冷たい暗闇へ、私たちは身を投げ沈むだろう」という衝撃的な一行から始まる。plongerという語が印象的だ。「不運」の一行、「時が命を喰らうのだ」が根底に響きわたっている。燃える薪の崩れる音に「棺に釘を打つ音」を重ねて聴き、過ぎ去る時の儚さに感じ入るが、一方では「出発を告げるように鳴り響く」という。過ぎ去る時への郷愁と未知なる時への旅立ちがボードレールには共存している。その引き合う力は互いに増大していく。この詩では過去への想いに強く引かれ、「晩秋の、黄色く心地よい陽射し」を浴びて愛するひとに慰められたいという願望にとどまる。その「たゆたう」心に音楽が彼に与える気だるい逸楽を身に受けようとする。

「白鳥」は長さもさることながら大作であり、彼の主張する「現代性」(モデルニテ)が、「通りすがりの女へ」とともに明確に示された詩である。詳細は「詩人像」で追究することにするが、神話上の人物の身の上と、現実のパリの路上に登場する白鳥のイマージュの二重性によって、オスマン計画によって急速に変わりゆくパリを想い、憂愁の思いに浸る詩人がいる。しかしそれで終わらないのがボードレールの凄さである。パリで見かけたアフリカ女を登場させて自然と都市を対比させ、「花々のように萎れてゆく痩せた孤児たち」maigre orphelins séchant comme des fleursに詩人は想いを馳せる。「ふたたび見出されないものをすでに失ったすべての人たち」A quiconque a perudu ce qui ne se retrouve /Jamai.jamai! á ceux qui sabreuvent de pleur ……とつづく。最終連では、「島に忘れられた水夫たちを、囚人たちを、敗者たちを! さらに他の多くの者たちを!」にまで思いをめぐらすのだ。私はほとんど言葉を失いそうになる。ボードレールには詩人がなすべきこと、比喩的にいえば、神から与えられた「使命」と呼んでもいい詩人像がある。「通りすがりの女へ」は「あほうどり」と同じく、小品だが愛すべき詩だ。「白鳥」の詩にある、Dont le regard m´a fait soudainement renaîtreというフレーズを「彼女の眼差しで、私はとつぜん真実、われに目覚めた」と訳したのだが、適切な表現であったか心もとない。そうした理由には、状況はまったく異なるが、かつて私はグラナダのアルハンブラ宮殿の「裁きの庭」を訪れたとき、一種の感動といえようが、ほんとうのわれに目覚めた、私の深部に内在する「ほんとうの我=他者」に出逢えたという実感をもったという体験があったからである。(私の第五詩集『砂漠のカナリア』所収)。

 思いつくままに、『悪の花』第二版の順序によらずに試みた翻訳であったが、振り返れば私なりの理由があったことがわかる。ここではそれは言わないでおこう。次の詩群は、ボードレールの詩人像が強く浮彫りにされるいくつかの詩、まずは「祝福」から取り上げてみよう。

 

copyright 2013 以心社

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「来るべき詩」への大いなる序章。小林稔

2013年04月24日 | お知らせ

「来るべき詩」への大いなる序章 (2013年4月23日現在)

                            小林稔

創作――詩、小説

     詩学

     評論――『自己への配慮と詩人像』(執筆中)

           ミシェル・フーコー

             古代ギリシア――プラトン、アリストテレス、ストア派

             新プラトン主義、デカルト、スピノザ

             詩人像―ニィーチェ、ボードレール、ランボー、マラルメ

                 ノマディズム――マラーノの系譜

     

現代哲学

          ヘーゲル、ハイデガー、バタイユ、デリダ、レヴィナス、ラカン

バルト、ブランショ

 

東洋哲学――井筒俊彦、ギリシア哲学、ユダヤ哲学、イスラム哲学、仏教哲学

 

     音楽――バッハ、モーツアルト、ベートーベン、ショパン

 

     美術――ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、カラヴァジオ、ドラクロア、

           マネ、セザンヌ、ゴッホ、ピカソ

 

     文学――プルースト、ジャン・ジュネ、ユルスナール

 

     日本の近代詩、現代詩

         新体詩から現代詩へ、中原中也、冨永太郎、萩原朔太郎、金子光晴、西脇順三郎、

         鮎川信夫、鷲巣繁男、吉岡実

 

     日本の文学――松尾芭蕉、三島由紀夫、森茉莉、澁澤龍彦

            プラトン哲学―藤沢令夫

     

     日本の近代思想

            西田幾太郎、和辻哲郎、森有正

 

     評論家――小林秀雄、吉本隆明、粟津則雄

 

註―――上記したものは、私が長年関心を抱いてきた人物をアトランダムに図式化したものである。まだ多くの人物が付け加えられるかもしれない。私のブログのカテゴリーをごらんいただいている人には、思いつきで多方面のジャンルに手を染めているという印象を持つ人もいるかもしれない。事実はそうではなく、四十年以上にわたる詩作の途上で培ってきた私の知の遍歴といったものであるが、ミシェル・フーコーの晩年の三年間のエピステメーを解読することによって、私が動かされてきた、見えない横断面が少しずつ浮き上がってきたのである。今後は一歩一歩継続して関連性を深めていくことにする。

     

すでになしえた試行錯誤の後を辿ると

     一、『自己への配慮と詩人像』、2009年から連載の形をとり、第十七回を終了し、後半は自己への配慮から詩人像を        中心に展開していく。

     二、『意識と本質』解読、井筒俊彦の東洋哲学に関する一書を中心にすえ、第十七回目を終え、さらに続け、『意識の形而上学』読解に接続する。

     三、現代詩の源流として、新体詩から現代詩までの概略を十年以上前に発表しているが、さらに深めていく。萩原朔太郎論を準備する。

     四、現代哲学の分野で、デリダ論序説(一)なる記事をブログに載せた。エクリチュールを解明していく予定。

     五、ボードレール『悪の花』の翻訳(ブログに掲載中)を通して、ボードレール論を準備している。

     六、長年構想している、ミケランジェロの伝記的小説。今年中に書き始める予定。ヘレニズムとヘブライ思想(キリスト教)の芸術家の葛藤を描きたい。

 

 これらは相互に関連して記述されていくであろう。

 これらは「来るべき詩への大いなる序章」として進行する。

 上記の記述は私のためのメモ、あるいはブログを読んでくださる人への指標に過ぎない。

 人物一覧ではなく、テーマを中心にすえ表記することもできるのだが、もう少し進めな

 いと十分に書きとめることはできない。これらのプロジェクトは「詩作」において完成

 させるべきプロセスに過ぎないのである。人生の残された時間に完成できるか知らない

 が日々の努力は要求されるであろう。


『幻竜』上野菊江「聖なる丘」大塚欽一「彼らはいつも」平野充「祈祷書」朝倉宏哉「鬼首行き」

2013年04月10日 | 同人雑誌評

詩誌「幻竜」第17号、2013年3月20日発行から

上野菊江氏「聖なる丘」、大塚欽一氏「彼らはいつも」、平野充氏「祈祷書(烏)」、朝倉宏哉氏「鬼首行き」

 

詩誌『幻竜』第17号(2013年3月20日発行)をいただいき、そこに掲載された詩群の深められたテーマの重要さに圧倒され、私のような貧しい思念しか持ち合わせていない詩人には、どこから論評すべきか思いあぐねていく日も過ぎてしまった。同人誌評や詩集評は詩の優劣を決めるという一種の権力的なものを、簡単に言えば<上から目線>の印象を与えかねないが、私はそのようにして論じているつもりはない。しかし単なる感想でもない。私の持っている問題意識と交差するものを持っていると憶測させる作品について、交差するものを深めてみたいのである。とうぜん、形式としての詩のあるべき姿、私自身が追求している作品の形態の点からも論じてみたいのである。

 

上野菊江氏の「聖なる丘」から始めてみよう。

それぞれのフレーズに無駄な言葉がなく、詩人の深い思索と諦念が伝わってきた。神の肯定も否定も人間が自分の利益のために考え出したものであろうが、人間が魂をもった存在である限り、そこにあるスピリチュアルな観念は否定しようがないのも事実である。神について何千年も争いがつづき、なんと多くの人間たちが殺戮されてきたことであろうか。人間にとって宗教も哲学も神概念からの憑依と離散の歴史であったといえる。

 

はじめも おわりもない

ノッペラボーの「時」が流れ流れて

その先端に突き刺された星のような

聖なる丘が揺れている

 

 「時」が どでっぱらのまんなかを

 激しく突き上げてくるので

 聖なる丘は憂鬱です

              「聖なる丘」第一連、第二連

 

 「聖なる丘」とは具体的に何を指示するのだろうか。まず暗示されるのがゴルゴタの丘であろうか。しかしこの詩ではそれを含めた広い意味での、私たち生きる者がそれなしでは、あったこと、なかったことの存在理由が失われてしまう根拠としての場所の概念と私には受け取られるのである。生きることがすべて悪に充ちたことに過ぎない、あるいは幻想に過ぎないという諦念に私たちが徹しきるにはあまりにも軟弱な生き物である。

 

 ことさら陰鬱な金曜日

 アザーンに促され集まる礼拝の群れ

 午後は ビア・ドロローサ 聖なるみちゆき

 暮れれば聖夜 シャバット

 嘆きの壁にささげる聖地の祈り など

 悔しいけれど これ みんな

 永遠 無限のノッペラボーよ

 存在するとも しないとも 決め手がない

                  「聖なる丘」第四連

 

 イスラム教のアザーン(礼拝を呼びかける声)もゴルゴタまでイエスが自ら十字架を背負って歩いたヴィア・ドロローサもユダヤ教の安息日とされるシャバットも、それらの言葉自体は聖なる人間の思いを喚起させながら、なぜこれらルーツを同じくする神を祀る人間たちは憎しみあうのだろうか。神を葬り人間が全能の神に取って代わろうとした科学も、哲学も、芸術も存在する限り、「神は死にはしないのです」と私も思う。

 

 神の命の値段知ってる?

 ―――だから買収されたのです

 

 神はほのかな影だけをのこし

 売られて消えて行ったのでした

 それにしても だれが仲介したのかしら・・・・・・

                   「聖なる丘」第六連、第七連(最終連)

 

 衰退した経済を立て直すため、いま日本は物の売買を盛んにしようと懸命になっている。生きる基盤は経済であることに異論はないが、かつて日本が驚異の経済成長をとげたとき、物ではない精神の欠落を説いたのではなかったか。ここでいう精神とは、思想と生活の連結、生きる場から生み出される思想のことだ。そのとき(七十年前後)青年期を迎えた私は、日本は精神面では依然として後進国であることを強く自覚したのである。その後バブルがはじけ、経済が破綻すれば物質と精神の両面での欠落が見えてくる。東日本大震災以降、精神面での重要なこととは何かが、より具体的に見えてきたのである。一言でいえば経験の意味するものの重さであろうか。現在の日本は経済復興が先決であると叫ばれているが、詩人たる者は彼の自覚において、自らの生きる場での生と死の深い意味と行為も考えなければならないと思う。「聖なる丘」という詩への感想から離れてしまったように思われるかもしれないが、この詩の後半部は、私にそのようなことを考えさせたのである。

 

 次につづくのは、大塚欽一氏の「彼らはいつも」という詩である。冒頭の部分から始めよう。

 

 身震いするような夕焼けの壮麗から

 夜空の星たちの凍えるような輝きの闇から

 昏れていく海の茫洋とした彼方から

 山と積まれた瓦礫の異臭の下から

 彼らはいつも不意に現れる

 心にぽっかりと穴が空いている時に

                   「彼らはいつも」第一連

 

 夕焼けの壮麗、夜空の星の輝き、海の彼方から、これらは圧倒的な自然の深遠さだが、それだけでなく、瓦礫の異臭からやって来るものとは何なのだろう。異界からこの世界に訪れる霊的なものか。宗教では神は限りなく遠い世界から現実界に降臨すると考えている。私にとってはポエジーがそれとアナロジーの関係として受け取っている。深層意識の底から立ち上がってくる可能態としての言葉である。しかしこの詩の作者においては別のものとして感じられている。

 

 彼らはすぐそこに立っているが

 言葉に拘る目には見えない

見ることに拘る声は届かない

ただ彼此を隔てる存在の薄幕を通して

吐息や眼差しをかすかに感じるだけ

おおその息の何と静かなこと

                  「彼らはいつも」第三連

 

ここまで読み進めると、彼らとは死者たちであると思えてくる。詩人とは生きながらにして死を半ば生きている存在である。死はやがて己にやって来る領域であるのではなく、死を生きながらにして取り込んでいるのである。言葉とかかわる者であるからである。

 

目覚めたばかりの人が夢の跡を思い起こすように

私は思い出している

薄膜に耳を押しあて

飛び去っていったものの息を感じながら

わけもなく涙を流していた私を

幽明の境で小枝がかすかに揺れている

                 「彼らはいつも」最終第六連

 

 生きながらにして死を生きる詩人には、この目にする世界が郷愁を帯びて見えてしまうことがある。それは時間の旅人である詩人にしか持ちえないものではないだろうか。若い頃の放浪した旅を記述していたとき、ふとそのときの感覚が現在時に甦ることが私にあった。そのとき私が感じた懐かしさは、どこか死者のこの世に向ける眼差しであろうと直覚したのであった。「目覚めたばかりの人が夢の跡を思い起こすように」とはそれに似た感情であろうか。作者大塚氏は、この号にもう一つの詩、「ここはどこ」を載せている。こちらは死者が命をなくしたこの世での「時」を回想している設定で書かれている。つまり死者の思いを代弁しているような描写がつづくが、何か実感が乏しいように感じられたのはなぜだろう。よく言われることだが、人は自分の死を目撃できない。ここにはエクリチュールというものの本質を解く鍵、つまり詩とは何かを解く鍵があるように思われてならない。

 

 このことと関連して、平野充氏の「祈祷書(烏)」を詠んでみよう。この詩は「亡霊」と「成生」という詩で構成されている。

 

 もうすでにいない筈のわたしなのだが

 そのいないわたしが 依然としてここにいる。

 不思議なことである。

 もしかすると

 ここにいるのは わたしではなく

 わたしの亡霊。

 そして

 その亡霊が わたしに言う。

 おまえは誰か? と。

                     「亡霊」

 

 これが「亡霊」と題された詩の全部である。生きながらにして死を抱えてしまった人の、生きる時間での逸話であろうか。「もうすでにいない筈のわたし」という確証はどこにあるのか。その確証がなければ「そのいないわたしが 依然としてここにいる」とは言えないのではないか。まして「わたしの亡霊」と言い切ることもできなのではないか。その「亡霊」が「おまえは誰か?」と問う。私にとっての詩は、この世に存在する個としての「存在」と、私のなかの深部に隠れている「他者」との「邂逅」である。経験し思考する自分を書くことが詩なのではなく、私をエクリチュールに駆り立てるものが詩なのである。経験のなかに啓示される言葉がつづられたもののことである。したがって作品は生成する詩人の一つの断面に過ぎずないと思っている。詩を書き始めた四十年以上前から、少しずつそのような思いが強くなり確信になった。そうした間にも、このように考える自分とは何者だろうと考えることがある。この詩で描かれた感情に近いものがある。「もうすでにいない筈のわたし」とは、生成する現在の自分にとっての過去の自分である。作者の思いとはおそらくずいぶんかけ離れた解釈であるかもしれない。

 次の「成生」と題された散文詩の方がわかりやすいと言えようか。

  

わたしの誤りは 産声をあげたことだ。背中を叩かれたあのとき

声をあげなかった 地上に下りることはなかったし それによって、

死に囚われることはなかったのである。

 わたしをこの死の掌中に逐いやったのは 誰の手だったのか。神

の祝福の手か。いや そうではない。あれは 紛れもない人間の手

だ。

                 「成生」第一連

 

 「生まれたことは永遠の災厄である」と考えるのは釈迦の根本思想である。したがって解脱し、輪廻転生の輪から離れ涅槃にたどり着くことを理想の境地とする。ここで述べられているように、産声をあげるときに、セネカのように高みから人生を俯瞰し、人生の開始を行なえるはずはないだろう。転生するときにはすべての記憶はゼロに戻されるからである。セネカの言おうとしたことは、死を先取りすることで生きることを選択し、この瞬間を充実して生き、ほんとうの死の瞬間に平穏な気持ちをもって迎えようとする技法なのであろう。それはともかくも、この詩の作者、は生を受けたことが死の始まりであるという強い思いから、この人生の意味はどこにあるのか、「最良の場所であるという確信」を「放棄した」と書いていることから、人生に意味はないと結論づけたのである。

 

  どのような形であるにせよ そこに留まっていたのは確かなのだ

が 痕跡は 何もなかった。そして夜明けは 無いのかも知れない

のだ。

 

 このようにして死は終る。

                 「成生」第六蓮、最終第七連

 

 ここには徹底した厭世観が見られよう。救いはないのであろうか。いやそうではない、この詩を書き残し人目に晒した作者がいる。言葉を信じようとする作者がいる。詩は無限に遠くから私たちの足許、つまり日常世界に到来し亀裂を与え、詩以外に心を奪うことを許さないくらい嫉妬深く、作者の不幸に群がろうとするものである。生のすべてを逆説的に獲得させようとする悪だくみなのであろうか。

 

 最後に、朝倉宏哉氏の「鬼首(おにこうべ)行き」という詩を述べてみたい。

 

 高校時代

 鬼首行きのバスを見るたびに

 乗って行きたいと思った

               「鬼首行き」第一連

 

 高校時代の「私」はバスの行き先の名前に興味が引かれていた。「人首(ひとかべ)」「姉体(あねたい)」「母体(もたい)」「生母(せいぼ)」を通って、その先に「鬼首(おにくび)」とうところがあることが第二連で書かれている。地名とは不思議なものである。そのひとつひとつに謂れがあるはずであり、想像力を駆り立てる、つまり自分自身のストーリーを持たされてしまう。調べて明確にしたいという気持ちを持続しがらも、そのまま謎にしておきたい気持ちが起こる。私たちの心の深部には、地名に限定されず、物事の秘められた部分を長い間持ち続けてしまうことが起こりえる。

 

 あれから五十有余年が経つ

 今 ぼくは

 鬼首行きのバスに乗っている

 同級生たちと

 同級会会場鬼首温泉ホテルに向かっている

                「鬼首行き」第三連

 

 「山ふところ深い」鬼首ホテルに、かつての同級生たちが集まってくる。宴会場では「この一年に鬼籍に入った六人の名前が告げられて/長い沈黙」とある。一人ひとりの肩書きが思い起こされ、いっしょに学んでいた頃の若き姿が脳裏によみがえったであろう。人の一生は短い。それゆえ一時期をともに過ごした思い出は貴重に思われてくる。

 

 六人の同級生のそれぞれの晩年と死がひそひそ語られ

 欠席者の誰彼の消息があいまいに語られているうちに

 酔いがじわっじわっとまわり

 朦朧とした目に映るのは

 白百合のマドンナも紅顔の美少年も

 おどろおどろした鬼の首

                「鬼首行き」第八連

 

 ユーモア豊かに語られているのは、人生の悲しい真相である。「鬼首」とは、鬼籍に入った人たちの首であったとは。

 

 あこがれの鬼首に勢揃いして

 今にも鬼剣舞を踊り出しそうな

 三十六匹の鬼の首

                「鬼首行き」最終第九連

 

 人は死ぬと鬼になるのだろうか。いや、この世に生きる人間自身がすでに鬼だったのだ。ボードレールは人間たちに巣食う悪を暴き出そうとした。「読者へ」という『悪の花』の巻頭詩で、「愚かさ、過誤、罪、吝嗇、それらは/われらの精神にどっぷり居座り、われらの身体を弄ぶ/われらは愛すべき悔恨を養っているのだ」と書いた。私はこの歳になって初めてこの詩の真意を読み取れたように思う。そのようなカルマから抜け出せなくしているのは「倦怠」だと彼はいう。詩はそれらに叛逆を企てるものでもある。ボードレールは「新しい花々」を見つけ出そうとした。ランボーは「思想の開花に出逢おう」と言った。現代詩から忘れ去られようとしていることではないか。話は大きくそれたがしかし詩はどのみち、この世界のことでしかない。「私の同類よ、私の兄弟よ!」と叫んだボードレールも、この世界の外に出ようとしたが、見出したのは、アフリカでのもう一つの現実でしかなかったランボーも、詩は人間界の諸事から生み出されるものでしかないということなのだろうか。

 

 今回、四人を取り上げてみたが、他にも興味を惹かれた詩が多く見られた。勝手な感想になってしまったことをお詫びしなければならない。