20 旅
ボードレール「悪の花」より
小林稔 訳
マクシム・デュ・カンへ
一
地図と版画の大好きな少年にとって、
宇宙は旺盛な食欲に等しいものだ。
ああ! ランプの光の下では、世界のなんと大きいこと!
追憶の視線の下では、世界のなんて小さいこと!
ある朝、おれたちは船出しよう、脳髄を焔でいっぱいにして、
心は恨みと苦い欲望で膨らませ、おれたちは行こう、
波の律動に随いながら、有限な海の上に
おれたちの無限を揺すりながら。
ある者たちは、卑劣な祖国を喜び勇んで逃亡し、
他の者たちは、揺籃の土地を怖れから、そしてある者たち、
女性の眼の中に溺れた占星術師たちは、
危ない芳香を放ち、抗しがたいキルセから逃げ去る。
獣に換えられないように、彼らは
空間や光や真っ赤に染められた空に陶酔する。
彼らに噛みつく氷、赤胴色に灼く日光が
キスの痕跡をゆっくり消していく。
しかしほんとうの旅人とは、ただ旅立つために旅立つ人
心は気球のように軽く
己の宿命からは絶対に離れられないのに
なぜかも知らずいつでもいう、「行こうぜ!」
欲望が雲の形を持つその彼ら
新兵が大砲の夢を見るように
気まぐれで未知の、人間の精神が決してその名を知らなかった
とりとめのない逸楽を夢みている!
二
おれたちは恐ろしいことに模倣する!
ワルツに踊る独楽と跳躍する毬。睡眠の只中でさえ
好奇心がおれたちを拷問にかけ、おれたちを転がす、
太陽の光をたたきつける天使のように。
奇妙な運命よ、目標は移動し、どこにもないから
どこでも構わないのだろう!
決して倦むことのない希望を持ちつづける人間が
休息を見つけるために、狂人のように絶えず駆け回る運命よ!
おれたちの魂は、理想世界を探している三本帆柱
ある声が甲板の上に鳴り響く、『眼を開け!』
檣楼の上の、熱烈な、狂気の声が叫ぶ、
『愛よ……、栄光よ……、幸福よ……』地獄だ、暗礁だ。
見張りの男が知らせる、それぞれの島は
運命の女神によって約束された黄金郷エルドラドだ。
宴会を仕掛ける想像が見出すのは
朝の光の下の暗礁ばかりだ。
おお 幻想の国々に恋い焦がれる哀れな男よ!
蜃気楼が渦流の潮をより苦くする
この酔いどれの水夫、アメリカの発見者を
鉄の鎖で縛り、海に投げ入れるべきではないのか?
おなじように、泥に足を取られた老いぼれた流浪者が
空を仰ぎ、輝く天国を夢みている。
魔法をかけられた眼は逸楽の都カプアを見つけ出す、
蝋燭があばら屋に蝋燭が灯ってさえいればどこにでも。
三
驚くべき旅人よ! なんと気高き物語を
海のように深いあなたの眼の中におれたちは読み解くのか!
あなたの豊かな記憶の小箱をおれたちに見せておくれ、
星と精気でつくられたその素晴らしい宝石を。
おれたちは蒸気も帆もなく旅に出たいのだ!
牢獄の倦怠を晴らすために
画布のように張られた、おれたちの心の上に
水平線を額縁として、あなたの想い出を通過させよう。
話しておくれ、あなたは何を見たのか?
四
『おれたちは星を見た。
波を見た。おれたちは砂も見た。
多くの衝突と思いがけぬ災厄にもかかわらず
おれたちは今と同じ絶えず倦怠に襲われた。
紫色の海の上に姿を見せる太陽の栄光は、
沈みゆく太陽の中の都市の栄光は、
おれたちの心の中の、魅惑的に反射する天空に
身を投じたいという不穏な熱情に火をつけた。
この豊かさこの上ない都市も、この壮大なる風景も
偶然が雲を用いて作る、神秘的な魅力を
決して持ったことはなく、それゆえに
いつも欲望がおれたちを不安にした。
――享楽が欲望に力を与えている。
欲望よ、快楽を栄養にする老いた樹よ、
樹皮が厚くなり、固くなる間に
おまえの枝は、もっと近くに太陽を見ようと切望する!
おまえは絶えず成長するのか? 糸杉より根強い大樹よ。
――だが、おれたちは入念に、貪欲なあなたたちのアルバムのために
いくらかの素描をむしり取って来たのだ。
遠くから来るものはすべて美しいと思っている兄弟たちよ!
おれたちは象の鼻をした偶像に敬礼した。
喜ばしい光を星のように散りばめた玉座も見た。
おまえたちの銀行家には破産の夢であろうそれ
精巧の限りをつくした宮殿を見たのだ。
眼を陶酔させる衣裳の
歯と爪が染められた女性たちと
蛇が絡みつく、絶妙な曲芸師をおれたちは見たのだ。』
五
それから、それからさらに何を見た?
六
『おお、子供みたいな頭脳を持つ人々よ!
一番大切なことを忘れぬため、
おれたちは見たのだ、好んでそうした訳ではないが
あらゆるところ、宿命の梯子の上から下まで、
不滅の罪の退屈きわまりない光景を。
女よ、いやしくも傲慢な、愚かなる奴隷。
冗談でなく自己崇拝し、嫌悪もせずに自己を愛する。
男よ、貪欲で好色、頑固で貪欲な暴君。
奴隷に仕える奴隷、排水溝に流れこむ溝。
快楽を享受する死刑執行人、泣きじゃくる殉教者、
流血が味をつけ香りをつける饗宴、
専制君主の神経を苛立たせる権力の毒物。
痴呆にさせる鞭を熱愛する民衆。
おれたちのそれによく似た数々の宗教は
皆、天国によじ登る、聖性の徳というものは、
気難しい男が、まるで羽根の寝台にでも寝転ぶように
悦楽を求めて針や釘の寝床にうずくまるようなものだ。
おしゃべりな人類は、自らの才能に酔い痴れ、
昔そうあったように今も愚鈍で、
怒り狂った断末魔、神に叫んでいる。
「おお わが同胞よ、おお わが主よ、おれはおまえを呪う!」
それほど愚鈍でない奴ら、狂気を愛好する大胆な奴ら、
運命に封じ込まれた大群衆から身を引き、
広大な阿片の夢の中に逃げ込んで!
―地球全体の永遠の報告書とはこのようなものだ。」
七
苦々しい知識よ、旅から引き出すそれは!
世界は単調で小さい、今日も
昨日も、明日も、いつも、おれたちにおれたちの姿を見せる。
倦怠の砂漠の中にある、恐怖のオアシスだ!
出発すべきか? 留まるべきか? 留まれるなら、留まれ。
必要なら出発するがよい。ある者は走り、ある者は蹲るが、
注意深く不吉な敵、「時」を欺くため!
なんと、休みなく奔りまわっている人たちがいる、
さまよえるユダヤ人のように、使徒のように
彼らには、この恥ずべき闘士から逃げるためには
車も船も十分ではない。他の者たちの中には、
揺籃の土地を去ることなく、「時」を殺すのを知る者もいる。
ついに「時」がおれたちの背骨を足で踏みつけるときに
希望を持ち、「前進!」と叫ぶことができるだろう。
シナを目指して昔、おれたちが出発したときと同様に
沖に眼を釘づけ、髪を風に靡かせ、
おれたちは乗り出そう、冥府の海に
若い乗客のようにこころ弾ませて。
聞こえるだろうか、可愛いらしく、陰気なこの声が。
「こっちへおいで、食べたいと思うあなたたちよ、
香り高いロータスを。あなたたちのこころが欲している
奇跡の果実を摘み取るのはここだよ。
永遠に終わることのないこの午後の
不思議な甘さに酔い痴れてみないか?」
なれなれしい口調で、おれたちは幽霊を見抜くことができる。
あそこにいる、おれたちのピラドたちは、おれたちに腕を差し出す。
「あなたのこころを爽やかにするため、あなたのエレクトラの方へ漕いで行け。」
昔、おれたちが膝に口づけした女が言う。
八
おお 死よ、老いた船長よ、錨を揚げる時が来た!
おれたちはこの国に飽き飽きしているのだ、おお 死よ! 出航だ。
空と海が墨汁のように黒いとしても
おれたちのこころはおまえも知るように光明に満ち溢れている!
おまえの毒をおれたちに注いでくれ、おれたちに力を取り戻させるために。
その火焔におれたちは脳髄を烈しく焼かれ、おれたちは望んでいる
深淵の底に身を投げることを、地獄であろうと天国であろうと、どこでもよい。
未知なるものの奥底に、新しさを見出すために!