ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「永遠と夏」 小林稔詩集『砂の襞』(思潮社刊2008年)より

2016年01月15日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

永遠と夏
     小林 稔


かつてテラと呼ばれたこの島
古代の遺跡から掘り出された壁画の
赤土のような皮膚をした彼らの裸体
首筋を剃り 巻き毛を垂らして腰を突き出す
ボクシングをする二人の少年のように
どうしたことか 君とぼくはサントリーニ島にいて
照りつける夏の陽射しに 全身を焼かれている
海を少し隔てひっそりと浮かぶ小島
海底に沈んだという 伝説のアトランティスの火山から
灰がこちらに吹き寄せられた断崖に
レストランやカフェのある
外壁に視界をさえぎられた坂道を 
ぼくたちは歩いていた

七つの島を廻るぼくたちの脳裏に絶えずあった
アテネで見た巨大なブロンズのゼウス像
世界を統治する力と調和に全身をゆすられ
兄弟であろうとさまよい出たぼくたちに
一撃を喰らわせる父なる存在
君を倒そうともくろんだことはなかったが
家の庇が影を落とすように ぼくの存在によって
君は傷口をひろげ 化膿している
(すべてを失いつつある兄であるぼく)
知と財産を共有できないのは当然だ
生きるとは不可逆性であるから
(二つの道はどんどん離れてゆく)
富の不均衡と嫉妬は消滅しない

ミューズに導かれたぼくは
いっそう不可解になる迷路で
運命にあそばれる狂人のように
他者になる夢を棄てられない
北極の氷塊に立っているような断崖で
海と空の青に溶け合った 
青春の残された日々が染められる
この白い建物とゆがんだ道を
裸で歩き回ったぼくたちの
宿命のボクシングは 終わりそうにない

 

copyright2016以心社


井筒俊彦研究『「神秘哲学」』再読 第十回 小林稔

2016年01月15日 | 井筒俊彦研究

第四章 知性の黎明

 

   ホメロスは天に近く、ヘシオドスは地に近い

不気味な怪物が猛威を振るった時代に幕を降ろした光あふれる神々の支配する世界は、知性の誕生を告げる世界でもあった。「ギリシアが精神的には確かに一度、このような清澄の高層圏を通過したことを人は忘れてはならない」と井筒は主張する。混沌から神々の世界の光を生み出したことは、以後の、例えばプラトン哲学に見られるような、ギリシア文化の成熟の一歩になったと言えるだろう。

 ヘシオドスという詩人にして思想家の特徴は、現実主義であることである。世界の実相を単に描くだけでなく因果的に説明しようとする。根本原因を説明するために神話を選び出す。井筒によれば、切実な人生問題に神話によって思想的解答をすることは神話のメタモルフォ―ゼであるという。彼は予言者であり、現実の救済を心に留める。彼の『神統記』は神々の系譜における秩序である。世界開闢と生成を理性的統一において説明することが彼の意図であった。現実の世界悪を世界善に転成させる宗教的倫理的枢軸として、「正義」の思想を置く。「正義」はゼウスの意志と同一である。「正義」の思想はホメロスにすでにあったが、それは客観思想であるのに比べて、ヘシオドスのそれは主観的であり、世界と人類を救済する根源力であり、「正義」という神体をゼウスの愛娘として新たに創り出したのである。

 

 ギリシア抒情詩の先駆者ヘシオドス

 ヘシオドスには、ホメロスにない反省的思惟と、人間および人間を取り巻く世界に対して個人的判断を下そうとする知性的欲求を併せ持っていると井筒はいう。それはヘシオドスには「我の自覚」があるということであり、それを極度に推し進め、詩華に開花させたのが紀元前七世紀から六世紀末の抒情詩であったという意味では、ヘシオドスはギリシア抒情詩人たちの先駆者であったと言えるという。抒情詩の生まれる背景には、現実批判をする個人的知性活動の始まりがあったが、ついにはヘシオドスの世界観さえ否定するに至ったのである。自然神秘思潮によって超個人主義に翻転するまではつづいたのであった。

 

第五章 虚妄の神々

  理性的批判の目

 紀元前七世紀初頭までには、ギリシア人は著しく自覚的自意識的になり、つまり理性的反省期に入り、人生の究極的諸問題に真剣に取り組み始めるようになったと井筒はいう。前章でも述べたように、現実主義的なヘシオドスは、ホメロス的神々の矛盾の多い伝来の神話を整理し秩序づけようとした最初の人であった。ホメロスの叙事詩は本来、純粋な芸術の神として鑑賞されるべきものであると井筒は主張する。しかし、その芸術の神として拝する者には完璧の至美を開示する神々が、宗教として全ギリシア民族に受容されたところに、ホメロスの宿命があったと井筒はいう。したがって、オリュンポスの無秩序性は本源的なものである。通常の宗教と呼びうるものではない。それは人間的で解放的であり、愛憎の情熱、放恣性欲は官能の享楽に耽溺させるので、彼ら神々を人間から区別するものは不老不死の一言であると井筒は指摘する。擬人的性格は顕著な特徴なのである。このようなオリュンポスの神々に理性的批判の目を向けること自体がはなはだしい矛盾であり、矛盾を指摘すればすべてを破壊しない限り終らない。ヘシオドス的神学は結果的には改悪ですらある。ホメロスとヘシオドスを一括して、「ホメロス・ヘシオドス的」神々と呼び慣らし、理性的反省期に入ったギリシア人にどのように映じたかを考えてみたい、なぜならギリシア哲学の発生は、オリュンポス神学に反撥し対立した新宗教思潮に直接端を発するものであるからと井筒はいう。イオニアの哲学者たちの凄まじいオリュンポス神糾弾は、神々の不合理と矛盾にあった。イオニアの哲学者たちは、宗教を解さぬ合理主義者なのでななく、深く宗教を理解するがゆえに、愚劣で低級なおsリュンポス神に我慢できなかったのだと井筒は指摘する。

 

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鮎川信夫論 小林稔評論集『来るべき詩学について(二)』2015年以心社刊より

2016年01月15日 | 鮎川信夫研究

鮎川信夫研究『ヒーメロス』7号2004年発行に掲載した記事
小林 稔

平成十五年九月十四日天使舎
第十二回ワークショップ「ひいめろすの会」からの報告

鮎川信夫研究
 吉本隆明は「戦後詩の体験」で戦後詩を次のように述べている。
「戦争がもたらした破壊と、生命を剥奪される実感に耐えて生き、そのまま敗戦後の荒廃した現実を体験せざるをえなかった意味を、内部の問題としてつきつめることのなかった詩人に戦争詩人という名を冠することはできないだろう。戦争と戦後の現実体験を内部の問題として罪業のように、とにかく未来にむかって歩みはじめねばならなかった詩人たちによって、推進されねばならなかった」という。前回でも言った戦前のモダニズムとプロレタリアの不完全さをどう克服すべきかが課題であったのであり、それはとりもなおさず明治以後の近代文学全般の問題にかかわるものであった。「
 ところで、吉本は「現代詩批評の問題」で、詩の批評が小説の批評のように文芸批評家によって「はっきりとした批評的な自覚のうえに立って照らし出された」ということがないのはどういうことなのかを論じている。「詩の表現上で、コトバの格闘を余儀なくされて、形式と内容とが、分裂の危機にさらされたとき、はじめて詩と小説の概念が分裂し、和解しがたくなったのだとかんがえられる。」後期象徴派の「詩の思想性を言葉の格闘の面から獲得しようとした時期」「昭和初年、ダダイズムやシュル・レアリズムの影響下に、現代詩が手法的な試みをつきすすめた時期」に決定的になったという。後期象徴派以来、詩が文学全般から隔絶された事情を、「日本の現代詩が、衣裳やイデオロギーの転写ではない、真の意味の思想性を獲得するためには、内部世界と、外部現実と、表現との関係についての明晰な自覚が必要である」のだが、「この問題をコトバの面からの格闘によって解こうとした日本の詩人たちの態度に原因がある」とし、以後も続いているのではないかという。そして「荒地」グループは、「主体的態度の尊重、現実体験の内面化、表現領域の拡大によって、いわば小説の世界と独立に、戦後文学の課題を共通に担っているといいうる」と主張する。
 今回は鮎川の詩、「繋船ホテルの朝の歌」と「死んだ男」と「秋のオード」「アメリカ」「アメリカ覚書」などを小林が朗読した。鮎川のいくつかの詩に触れた時、思想的な詩だけでなく、抒情詩の系列の詩があることに驚く。吉本は次のように解説している。「詩への願望という意識下を軸にとってみれば現実的な上辺に、自我形成の黄金時代である戦前の下降期文化にたいする郷愁のようなものがあり、戦場の体験があり、戦後革命勢力にたいするアンビヴァレントな反応があり、下辺には母や姉にたいする近親相姦的な執着があり異性にたいする童姦性の愛憎がふかく埋没されていて内部世界の性格を決定している。」(「鮎川信夫の根拠」)また別のところでは、「姉さんごめんよ」という詩では「極限の体験から生き残ってしまった自己の象徴を、一人の男と近親の異性という微妙な設定の仕方が、なぜ必要だったのか。たぶん、ここで幼児期の体験を反芻している。幼児の心の戯れを、ひとつ残しておいて、戦争をくぐり、無理に喪失させられた青春の生が、どういう位置にあるのかを、確かめようとしている」(同書)と述べている。
「繋船ホテルの朝の歌」では恋人である女性が出てくる。
「荒廃した現実、希望のない未来、とじこめられた敗戦日本のいきぐるしさ、こういう一切から逃れたくて、死に疲れた女と、どこか遠い世界へゆきたいと願いながら、けっきょくは安ホテルで一夜をあかし、女とむかいあって白けきった朝食をとる、そういう個人的な体験をとおして、戦後日本革命の敗北してゆく現実へ、内部世界をおしひらいてみせた記念碑的な作品である」(「鮎川信夫論」)と吉本は言う。これ以上付け加えられる言葉がないが、一時代の歴史的体験を超えて、戦争の体験を持たない私にも、詩というものが絶えず内包している「根源的な喪失感」に訴えるものがある。かつて吉本は四季派の詩と戦後詩を比較して、「永続的な意味で詩的なものが含まれているかは疑問である」と言ったが、この鮎川の、極めて個人的なものに題材を求めた詩が、普遍的な詩の概念に関るところのものとは、「喪失感」であると私は思っている。詩の本質を追い求めた時に必ずや問題にされる中心的なテーマになると考えられるがここではこれ以上論じることはしない。
 さて、戦前、モダニズムから出発した鮎川が、「囲曉地」という詩を書き始めたころから、倫理的要請が彼の内部で生れ始め、戦争中、戦後と一貫してそれは存続し続けたと吉本はいう。
 瀬尾育生の二〇〇一年十一月号の現代詩手帳に発表された論文「もう一人の」によると、「鮎川信夫は戦争期を、閉ざされた内部に明晰な密室をつくるというヴァレリー的な方法によって通過した。」「だが自らの肉体をやがて戦場に赴かせようとしていた彼ら(サンボリストやモダニズムの詩人たち)にとって、この無償性の理念は十分な支えを与えなかった。」「エリオットがそうしたように、詩は社会に対して抵抗して生きることを強いられた人間にとって、何らかの有償性となるべきものだ」と考えたという。社会に対して「内的に同調しない」という抵抗を示し、「死者たちとの関係だけを拠り所にして、戦後詩の公的な場面に姿をあらわすことになる」。鮎川は、西欧の知識人が第一次世界大戦後に考えたことを、日本の戦後に語ろうとしたのである。「戦争期の体験が中世的な原罪の観念にまでつながるような射程のなかで考えられた」。しかしそれが敗戦後の日本で語ることが「いかに伝磨性を欠くものであったか」を悟り、以後「詩の理念の中に移されるのである」。『何処へ持っていっても変色しない美と真実を示すことによって、全く新しい共感の社会を創り出すこと』。(鮎川)このような詩の理念からすれば「内的世界を棄てて集団性や共同性へと逃亡したと考えられる詩人たちの責任を」鮎川は問うことになった。
 鮎川の一貫した主張は、戦後の混乱した思潮の中で孤立させ社会との接点を喪失してしまうことになったのである。『私の発言の根底には真の意味での連帯感がなく、その歪んだ戦時体験には、ほとんど伝魔性がないことを自覚していた』(鮎川)彼は民衆に対して自分は詩を書くという一点において優位性を主張した。そして吉本の戦争責任論から鮎川との差異を瀬尾育生は論じている。「吉本が戦争期の詩人たちを批判することができたのは、彼がそれらの詩人たちと同じ過程を生き、同じように汚れ、彼らに対する批判を自分自身がその一部であるような存在に対する批判として成り立たせることができたからである」と述べている。
 鮎川にとっての先行世代の詩人たちは、モダニストであったり、プロレタリア詩人だったりしたが、彼らは戦場に行く経験をもたなかった人たちである。愛国詩を戦時中はさかんに書き、戦後は謝罪し、戦前のモダニズムやプリレタリア詩に戻って行ったという。しかし鮎川は、彼らは「嘘や偽りで戦争詩を書いたのではない。」彼らの愛国心は「正真正銘のものでした」という。瀬尾は「彼らの詩にはこのときはじめて、現実と出会いうる構造、現実に裏切られれば傷つくことのできる構造が生れた」と述べている。したがって、「彼らが戦争詩を肯定し、そのうえに否定を重ねていけば、鮎川との対立は「闘争の場所となりえたかもしれない」ともいう。しかし現実には彼らは謝罪し戦前の言語芸術に戻ってしまったのである。「近代以降の日本の詩を、深い層からあらたに取り出される連続性の上に立てるための、彼らに与えられた唯一の機会だった」とする。
 以後、現代詩の詩人は孤立したまま、対立を避けたままになったのである。鮎川にとっても私たちにとっても、また日本の現代詩にとっても不幸なことであった。鮎川の戦争責任論と吉本のそれを比較し、今後考え論じなければならないテーマではないだろうか。
 戦後詩はほんとうに終わったのだろうか。社会に対立して詩人の「内的次元」を追い求め、つまり超越的なものにポエジーを追究し続ける立場と、「権力や国民の意志の大きな変動に遭遇して、一人の人間に大きな変容が強いられる時、その人間のなかで、内的な連続性と、同時に起こるその切断の相とを、衝突させ」「否定された自己にあえて権利主張させることによって、より深い層から現在の自己へとつながるもう一つの連続性を手に入れることができる」立場があることは、いまだ継続している問題であろう。