ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「空舟」「さすらいという名の父」 小林稔詩集『砂の襞』(思潮社刊2008年)より二篇

2016年01月16日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

小林稔第七詩集『砂の襞』から二編

空 舟
小林 稔



水烟が川のおもてに沸き立ち
白髪のような葦の繁る岸辺に
私のたましいを乗せた一艘の舟が
消え入らんばかりに薄墨を曳き辿りつく
(私のまなざしが後を追いつつ)
いちめんの霧の原野に浮遊する人影がある
一つ越えては振り向き その先を一つ
(大病をした母の首には蛇のうろこのような斑模様があったはず)
探しあぐねて さらに一つ越え
振り返った私のまなざしは
しろそこひの目をした母の顔をとらえる

あなたの許しを請うためにきたのです
という私の呼びかけに一言も返さず
まなざしを宙にすえ ひたひたと霧の中に遠ざかっていく
これは夢なのだ と思った瞬時 夢からも見棄てられ
闇の床で身を起こし 母の喪失に打ち震える

  あのころ、私は遠くを見ていた
  世界は生まれたばかりの喜びに充ち
  あなたから剥がれることで空が近づいた
  死の匂いにからんだ血筋を見つけ
  他者との媾合に肉を震わせた
  ほんとうに突然 私の指が
  存在の表皮を引っぱりあげた

(善と悪、隷属と自由、貧困と豊饒、存在と非在)  
生きるものの死滅と
生まれくるものの必然をたずねさすらう
祈る人を見て祈らず
初めてにして最後の挨拶をする
他者になり果てた息子の不在を堪えたあなたの
哀しみを知ることなく

鳥たちが羽ばたいているのではない
枝葉を突き抜けてきた風が 紙片をひるがえしているのだ
(死者たちの言葉を記述すること)
夜ごと夢に現われるあなたの眼に
私はうつらない
私はどこに還る 私の肉の滅びるとき
(私とはなにものでもなく)
経験は私に所有されない
季節のめぐりに遁れいく場所の記憶がある
泥水に踵をさらし洗っている私がいる



さすらひという名の父
小林稔



リヤカーを引く手がゆるんで 父は坂をすべり落ちていった
これは 母が私に語った言葉だ
商いをしていると 
おもしろいようにお札が入ってくるときがある
これは 父が私に語った言葉だ

家族をもち仕事をし 家を建てた父は
躯の自由がきかなくなって 窓から空ばかりを見ていた
父の歩いてきた道に 大鴉の群れがあらがった
一握りの貨幣に鬻いだ一生は
たとえそれが莫大なものであったにせよ
死滅をまえにして泡のようにはじけた
男に起因した子供というものほど不確かなものはなく
躯の痛みをともなわないゆえに
心の痛みは癒されることがない

父という鏡のまえに立つ
腐蝕した肉体 神経の森に
道が血管のように這い廻る
夕暮れのきんいろの燭光に焙り出で 旅する私がいる
父とならなかった私の 流浪する世界の果て
ここに父のたましいはなく
ぼろぼろになった肉の破片が 砂粒になる
歩いて闇に足をすくわれ
木々は輪郭を夜にとられ
闇に瞳孔をひらき 私はひとり地をさまよう

死のきわに父は別れを告げず
その重い仮面をひらりと脱いで
たちまち透明になって消えた
(死とは生ける者の観念に過ぎぬ)
たましいはたましいの領土に還るというのか
なんという奥行きのない紙のような中空にうごめく
形象とも文字ともつかぬ きんいろの微細な線のゆらぎ

私の躯を廻る父の血
その私の血を 私の息子に授けなかった
生殖を怠り 世界を父と命名した
私の罪ははかりがたく
ゆえに 言葉という杖を携える私の
父という名のさすらひは終わらない







「射的場」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月16日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

射的場
小林稔

 アキオの歩いていく方向に逆らって 中学生の一団が通り

過ぎた。そのとき、横を歩いていた友達がいないことに気が

ついた。遠くまで視線をやったが、見つからない。ジェット

コースターから喚声が上った。

 遊園地に来たのは初めてだった。いくつもの顔から 友達

の顔を探そうと 背伸びして見回した。人の流れが壁のよう

に立ちはだかり、何重にもアキオを取り巻いているように思

えてくる。瞳が潤んできた。こんなところで友達の名前を呼

ぶわけにはいかないだろう。

 人の流れが切れると すきまができる。アキオはそこに身

を置き、何度か繰り返しているうちに もといた場所からは

ずいぶん離れてしまっていた。入口さえ辿れない、と思うと

不安が増してきて 次第に伏し目がちになっていた。

 そのとき、人に流れの切れ目に 異様なものの気配を嗅(か)

いだ。まさか、と思って今度は瞳を瞠(みひら)いたが、もう

疑いはなかった。それはアキオの動きを追う銃口であった。

眼球を抜かれたような銃口が 執拗にアキオを捕らえて離さ

ない。全身が凍てついたように感じた。通行人の背中に隠れ、

またすぐに現われ、銃口がアキオに向けられていた。

 アキオのうしろでコルクを抜き取ったような音がして跳び

上った。そのあと続けて二回鳴った。

 銃口は狙いを逸らした。中学生が銃を肩から降ろして 背

中を見せ 群衆の背中に消された。アキオは群衆の壁に分け

入った。射的場だったのだ。棚に景品が並んでいた。さっき

の中学生が ゲームウオッチを倒すと、見ている子供たちか

ら驚きの声が湧き上がった。アキオは恐怖から放たれ、脱力

感を感じて立ちつくしたまま、コルク玉の行方を眼で追って

いた。

 息が止まるような恐ろしさを 身を持ってしたアキオは、

もう以前の自分に戻れない、と思った。


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