ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

泉/小林稔・詩誌「ヒーメロス」より

2016年08月24日 | ヒーメロス作品



小林 稔




水が足首に触れ流れてゆく。わたしは立ちつくして時間を遡る。足

底にまといつく疲労が泉に溺れた視線を探して。


いくつも重ねられた帳の奥に

見知らぬ者の瞳の閃光。


旅はいつまでつづくのか。おそらく命あるかぎりとはいえそれほど

の長い刻(とき)ではなく、われらの瞬きの間(ま)に間(ま)に跳ぶ矢の一投のように。


それをアランブラーの裁きの内庭に喚起しようと、イスファアンの

王の聳え立つ円蓋の青にこころを塗られつくそうと、あふれんばか

りの光に照らされ称えられてある誕(はじま)りの喩ではないのか。


泉よ、わたしをさらにわたしの暗処に曳きずり込む水の竪琴よ。巻

貝の螺旋を辿るように、いくえにも広がる波動のゆくえをわたしは

追っている。いく度も行く度によみがえり再生する魂は、滅びゆく

身体から剥離することを切望し、羽化する瞬時を狙っている。いか

なる宿命の生に記憶されたのか、僧侶の想いの伽藍の奥に、あなた

の限りある命の音が瀧のように煙っている。


                 アランブラー・アルハンブラのスペイン語読みで赤い城壁のこと。



夏の碑(いしぶみ)/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年08月22日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

夏の碑(いしぶみ)

             小林  稔

 

時の蹠(あしうら)が ぶしつけに水辺の草草を踏みしだいていく

かつて あれほどまでに信じられた夏の一日は

いま牡蠣の殻にきつく閉ざされ 煌きを増している

腐蝕がすでに始まっている私の肉体が 

命の綱を離す瞬間まで 私は携えていくだろう 

かたわらで見守りつづけた きみの十四度目の夏を

 

稲妻と豪雨に襲われ 

駆け込んだ民家の軒下でびしょぬれて

やがて宿舎に向かうタクシーの車内は 

きみの身体から放たれた草いきれで満ち

遠い記憶に呼び止められ 

私は息をすることさえはばかれた

明るい室内と夜の森を隔てる 一枚のガラス戸に 

等身で立つきみが写されている 闇の向こうに 

湖が月の破片を浮かべ ひっそりと眠っているだろう

 

素足をそっと踏んでは ためらい後ずさり

おそれ あこがれ 羽ばたき

繁茂する樹木と燃える草草に触れ

たましひは もがき 苦しんでいた

ふるさとへ向かう折り返し地点で

(私もぞんざいで若さにあふれていた)

きみの瞼から包帯を解き放ち

悦びと哀しみの邦をともに訪うための

出発はいく度も夢見られ やむなく見送られた

 

いくつもの夏が背を向けて通り過ぎ

荒涼とした原野に独り立たされる

私の眼前 無防備に投げ出された

うだるような熱風にあてられ伸びた四肢 

時の位層に残された記憶のかけらを 

蒐めては丹念に縫い合わせ

かつての追憶を在りし日のようになつかしむ 

あの日 郷愁の網にからめ捕られた私のたましひは

豊饒なあまりに生産される種子を唆(そそのか)して

私の脆弱な杖に言葉の葉叢を繁らせるだろうか

 

歳月の高みでよろけ 刻印された地上の夏の

あらかじめ失われ ふたたび失われた王国を俯瞰する

やがては空蝉を枝に懸けるように たましひは縛めから解かれ 

落ちていくだろう 湖面に映された さかしまの空に 

 

copyright2011以心社・無断転載禁じます。


射的場/小林稔詩集「白蛇」より

2016年08月21日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

射的場
小林稔

 アキオの歩いていく方向に逆らって 中学生の一団が通り

過ぎた。そのとき、横を歩いていた友達がいないことに気が

ついた。遠くまで視線をやったが、見つからない。ジェット

コースターから喚声が上った。

 遊園地に来たのは初めてだった。いくつもの顔から 友達

の顔を探そうと 背伸びして見回した。人の流れが壁のよう

に立ちはだかり、何重にもアキオを取り巻いているように思

えてくる。瞳が潤んできた。こんなところで友達の名前を呼

ぶわけにはいかないだろう。

 人の流れが切れると すきまができる。アキオはそこに身

を置き、何度か繰り返しているうちに もといた場所からは

ずいぶん離れてしまっていた。入口さえ辿れない、と思うと

不安が増してきて 次第に伏し目がちになっていた。

 そのとき、人に流れの切れ目に 異様なものの気配を嗅(か)

いだ。まさか、と思って今度は瞳を瞠(みひら)いたが、もう

疑いはなかった。それはアキオの動きを追う銃口であった。

眼球を抜かれたような銃口が 執拗にアキオを捕らえて離さ

ない。全身が凍てついたように感じた。通行人の背中に隠れ、

またすぐに現われ、銃口がアキオに向けられていた。

 アキオのうしろでコルクを抜き取ったような音がして跳び

上った。そのあと続けて二回鳴った。

 銃口は狙いを逸らした。中学生が銃を肩から降ろして 背

中を見せ 群衆の背中に消された。アキオは群衆の壁に分け

入った。射的場だったのだ。棚に景品が並んでいた。さっき

の中学生が ゲームウオッチを倒すと、見ている子供たちか

ら驚きの声が湧き上がった。アキオは恐怖から放たれ、脱力

感を感じて立ちつくしたまま、コルク玉の行方を眼で追って

いた。

 息が止まるような恐ろしさを 身を持ってしたアキオは、

もう以前の自分に戻れない、と思った。


Copyright 1998 以心社 無断転載禁じます。


茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ/小林稔・詩誌「へにあすま」より

2016年08月20日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ

小林 稔

 

 

茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ

あなたの背に血の滴りがかすかに見えます

わたしはいまだ闇に惑い外部へ開かれる

光の糸口さえ見出せずにいます

ここは確かにかつてあなたが足を留め

織物を紡いだところだが

あなたの遺した百丈もの布を広げて

そこに描かれた雉や牡丹を遊ばせています

世間の人は空箱をもてはやし投げ返していますが

彼らはそのことに無知なのではなく

空疎であるがゆえに飾りたて

お祭り騒ぎに乗じているように見えます

わたしがそのようなところから抜け出し

言葉の大海に乗り出せたことは幸運というべきでしょう

いったい誰に読まれるために書くというのですか

それにしても探し求めるべきほんとうのこととは何

闇を疾走する一条の光

それが存在しないとしたら

わたしはいますぐ書くことを辞めます

いくつもの声がわたしを呼んでいますが

わたしは孤島に佇み脳髄に絡む声の渦中から

わたしに発信される言葉を受信しようとしているのです

生涯の全経験を貫いて火のように立ち上がるものを待つ

邂逅を果たすべき他者をこの胸に抱き寄せるため

その瞬間にわたしは賭けているのかもしれません

その他者はすでにどこかですれ違った者であるにしても

それともこれから生まれてくる者であるにしても

互いに無疵であるはずはなく言葉によって

自己を奥底まで掘り進めた者同士にのみ許されるのです

ほんとうのこととは見える世界を夢想し

ふたたびこの世界を言葉に創り直すことで見えてくるものです

茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ

わたしは虚空を見つめているあなたを追い見つめ

捨て切れなかった夢の破片をしかと読み解きます

あなたが倒れ伏したところから一歩踏み出し

ほんとうのことを世に知らしめるため

百年の闇を礎にわたしは柱を打ち立てます

 

copyright2014以心社

無断転載禁じます。


一瞬と永遠/小林稔・詩誌「へにあすま」より

2016年08月19日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

一瞬と永遠

               小林稔

 

 

   α パリス、ノスタルジアの階梯

 

二千年の歳月を土に埋もれる試練に耐えたのち、人々の視線にさらされ、いま

わたしの視線が捉えた無名彫刻家が大理石に魂を吹き込んだ神像、その青年の

裸体に破片をつなぐ傷跡あり。しなやかな腰に少年の面影を残し、サンダルの

革紐がからまるふくらはぎ、すでに闘いを終え外されたそこから踵まで視線を

這わせ素足の先で留める。指がこころもとなく伸びて動き出さんとする様態に、

かつて少年たちの足をかたわらに見つめた一瞬の〈時〉は何度も反復されつづ

ける。かぎりなく人間に近づけて創ったという古代の彫像、それらに劣らぬ少

年たちの美しい形姿に似つかわしい魂を注ぐため、ノスタルジアの階梯をかつ

てわたしは昇りつめたが、わたしは彼らに何を与え何を授かったのであろうか。

神像の視線に正面から捉えられ、一瞬の姿を永遠の形相に変貌させた神の似像

をまえに、わたしは精神の羽搏きを感じて、しばらく立ち去ることを忘れた。

 

 

   β アルテミス、魂の分娩

 

エーゲ海の波のようになびく頭髪と清楚な面立ちがこれほどまでにわたしのこ

ころをつかんだことがあったろうか。異性との精神の分有はいかにして成立す

るかをわたしはいまだ知らない。わたしが背にした道を辿りなおさなければな

らないのは、この女神像に魂が呼ばれたからだ。身を包んだ波打つドレープの

下にどんなこころが潜んでいるのかを探りはじめてしまったからだ。天空の精

神という父性の〈精子〉と大地の子宮という母性の〈卵子〉からわたしは生を

受けたが、言葉(ロゴス)を求めつづけるわたしの旅は地上を〈さすらう〉と

いう宿命から遁れることはできない。詩がポイエーシスの賜物であるならば両

性がわたしに所有されている。魂の分娩は肉体のそれよりはるかに偉大である

と男たちを諭した知者の女性ディオティマを思う。美しく高貴で素性のよい肉

体を探し求め教育し精神の出産をしようと交わり、生まれたものを相携え育て

る。精神の分娩でもたらされる不死なる子どもは作品であるが、エロースの対

象となる少年を生むのは女性だ、という背理の糸を手繰り抜け出ようとわたし

は考えた、女性の魂の分娩とは、神々の恋とはいかなる営みであるかを。わた

しはうしろに身を構え、大理石の神像が定める視線の行く先を肩越しに追った。

 

copyright2015以心社・無断転載禁じます。

        

※「ディオティマ」はプラトン『饗宴』に登場する虚構上の人物である。