大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録第21章17~36節「聖なる場所とはどこか」

2021-03-14 16:28:13 | 使徒言行録

2021年3月14日大阪東教会主日礼拝説教「 」吉浦玲子 

【聖書】 

 わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。 

翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。 

 七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。 

【説教】 

<パウロの願い> 

 パウロはいよいよエルサレムに到着しました。ここでエルサレムのクリスチャンたちにパウロ一行が歓迎をされたことが描かれています。しかしまた同時に少し不可思議なことも記されています。当時のエルサレムの教会のリーダー的存在であったヤコブは、「兄弟よ、ご存知のように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っていいます」とパウロに語りかけます。ヤコブは主イエスの兄弟と言われ、従妹とも実の弟とも言われます。当時のエルサレムの教会ではペトロ以上の大きな力を持っていました。さらにヤコブは「この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。」と続けます。 

 パウロはユダヤ人ではない異邦人に対して、割礼を初めとした律法の遵守は必要ないとは言っていましたが、<異邦人の間にいる全ユダヤ人>に割礼を施すな、慣習に従うなと言ってはいません。ですから、これはまったく誤解に基づく発言です。 

 この背景には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間の根深い壁があります。モーセの時代から律法を守って来たユダヤ人にすれば、イエス・キリストを信じるということは旧約聖書で預言されていたメシアの到来を信じるということで、それは律法や預言の延長上にあることでした。一方で、イエス・キリストを受け入れた異邦人にとっては、割礼を初めとするユダヤ教の律法を守ることはむしろ救いを受け入れることの障壁となりました。この点に関して、使徒言行録の15章にあるように、エルサレムで会議が持たれ、正式に異邦人クリスチャンに対して、律法を守ることを強制しないということが決定されました。パウロはその決定に基づいて、異邦人への伝道を続けてきました。しかし、使徒会議の後もユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間の壁は取り除かれることはありませんでした。その問題はずっとくすぶっていたのです。 

 そもそもパウロは自分のことを「ヘブライ人中のヘブライ人」だと自負していました。その自分が、主イエスに救われたのは律法の遵守や善い行いのためではないということをパウロは体験していました。しかしまた同時に、パウロは福音がイスラエルの歴史と切り離されて現れたのではないことも知っていました。アブラハムに始まるイスラエルへの神の救いの歴史のなかで、福音は与えられたとパウロは誰よりも強く考えていたのです。ローマの信徒への手紙のなかで、パウロは、「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分をうけるようになった(11:17)」と語っています。もともと豊かな根を張り、茂っていたユダヤの枝が折り取られ、そこに接ぎ木されたのが異邦人であるとパウロは語っているのです。パウロはユダヤが特別に神に選ばれた民であり、その信仰的財産の上に、異邦人の救いは立っていると理解していました。むしろパウロはモーセから離れるどころか、ユダヤの信仰の土台の上に異邦人に福音が告げられたと考えていました。ユダヤの信仰の土台に立つということは律法を遵守することではなく、むしろ神の愛と救いを信仰において捉えることだとパウロは考えていました。その意味において、パウロはユダヤ人の教会と異邦人の教会は、神の救いの歴史を踏まえ一致すべきと考えていました。 

 ですからパウロは異邦人への伝道者であると同時に、ユダヤ人クリスチャンの集うエルサレムの教会も大事にしたのです。そもそも、今回のエルサレム訪問も、パウロは命の危険も顧みず、財政的に貧しいエルサレムの教会を支援するための献金を各地の異邦人教会から集めてエルサレム教会へ捧げるためにでした。この献金に関して、心無い人々から、「パウロは献金を集めて私腹を肥やしている」と噂までされていたのです。そのような中傷を受けながらも、パウロは、ユダヤ人の教会、異邦人の教会の一致を心から願って、エルサレムにやって来たのです。 

<律法を守る人を得るために> 

 このようなパウロの思いとは裏腹に、エルサレムの教会の対応はいわゆる「塩対応」といってもいいものでした。リーダーのヤコブが「幾万人ものユダヤ人が信者になって」パウロの言動に困惑していると語るのです。この「幾万人ものユダヤ人」いう言葉をヤコブが出しているということに関して、ある方は、ヤコブはここでパウロに圧力をかけていると言っておられます。つまりヤコブはパウロに、あなたが勝手なことをしたら幾万人ものユダヤ人信者が黙っていないぞということを言外ににおわせているのです。そしてヤコブはパウロに一つの提案をします。つまり誓願を立てている人々の儀式をサポートして欲しいというのです。これは旧約聖書の民数記に記されている律法に従ってナジル人の誓願をしている人が行う一連の儀式を取り仕切り費用も出してほしいというのです。このことによってパウロがけっしてユダヤの律法や伝統をないがしろにしているわけではないことをユダヤ人のクリスチャンたちに示すことができるというのです。パウロはこのヤコブの提案を受け入れます。パウロは「幾万人ものユダヤ人」と語るヤコブの圧力に屈したのでしょうか。そうではありません。もとよりパウロは死ぬことすら覚悟してエルサレムに来ているのです。人間的な力関係や圧力への恐れなどはありません。ここでもパウロはただただ、教会の一致のためにヤコブの提案に従ったのです。 

 そもそもパウロは、以前にも、ギリシャ人を父に持つ若い伝道者テモテに割礼を授けています。パウロ自身、割礼は救いの条件ではないと繰り返し言っていたのに、なぜテモテに割礼を授けたかというと、テモテ自身が、ユダヤ人社会の中で受け入れられるようになるためでした。割礼の問題にしろ、誓願者への対応にしろ、それが救いの根本に関わることであれば重大なことです。そういうことであれば、エルサレム教会の命令であれ、ヤコブの言葉であれ、パウロは従わなかったでしょう。しかし、パウロはそうではないと判断をしたのです。救いの核心に関わることではないが、しかしまた、そのような些細なことから教会というものが分断されてしまうこともパウロは知っていたのです。25節にヤコブが偶像に献げられた肉について言及していますが、これはかつて使徒会議で取り上げられたことです。パウロは律法の食べ物の規定を守ることが救いの条件とは考えていませんでしたが、コリントの信徒への手紙やローマの信徒への手紙を読むと、そのような食べ物の問題で傷つく人々もいることをパウロは理解していて、配慮をしていることが分かります。 

 つまりパウロは共同体の一致のため愛の配慮をしたといえます。しかし、勘違いしてはならないのは、愛の配慮というのは何でもありということではないのです。異端的な考えや、教会を福音から離れて、なんらかの意図を持って利用しようとする動きには徹底した対応をしたのです。福音を壊し、キリストの十字架の意味を捻じ曲げ、教会を人間的な思いで動かし教会でないものにすることはゆるされません。パウロはそういったことをすべて考え尽くし、教会の一致のためにヤコブの提案に従ったのです。 

<パウロの逮捕> 

 しかしこのパウロの愛の配慮は、パウロ自身の逮捕という報われない結果をもたらしました。そもそも誓願の儀式の清めの期間が7日間にもおよぶということ自体、エルサレムでの滞在期間が延びるということで、命を狙われているパウロにとって危険この上ないことでした。しかも、神殿に出入りするという目立つ行為をしなくてはなりません。案の定、アジア州から来たユダヤ人がパウロを見かけ、捕らえます。神殿には異邦人も入れるところと、ユダヤ人しか入れない場所があるのですが、ユダヤ人たちはパウロが、本来、異邦人を入れてはならない場所へ異邦人を入れたと勘違いして、大きな騒動となります。30節に民衆がパウロを境内から引きずり出したとありますが、これは明確に彼らが最初からパウロに対して殺意を持っていたゆえの行動です。神殿で人を殺すと神殿を汚すことになるので、彼らはパウロを神殿から引きずり出したのです。そして暴行を加えたのです。実際のところ、騒ぎを聞き、駆けつけたローマの千人隊長が到着するのがもう少し遅かったら、パウロは殺されていたでしょう。 

 パウロの命を救ったのが、異邦人であるローマの兵隊であることは皮肉です。パウロが苦労をして献金を届け、そしてまた教会の一致のために心を尽くしてその指示に従ったエルサレムの教会から助けは来たとは書かれていません。幾万人ものユダヤ人信者がパウロの釈放のために祈りを捧げられたということも記されていません。パウロは結局、教会の助けを受けることなく、一人でこの状況に立ち向かいます。教会の一致を願い、自分にとって危険な要求に従ったパウロは報われないと感じます。 

 しかし、今日の聖書箇所の最後にこのような言葉があります。「パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。大勢の群衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。」 

 大勢の群衆が「殺せ」と叫ぶ場面を私たちは聖書の別の箇所で読んだことがあると思います。そうです、主イエスが十字架にかかられるときです。主イエスがなさった数々の救いの業を喜び、主イエスのエルサレム入城に熱狂した人々が一転して、主イエスに対して「殺せ」「十字架につけろ」と叫んだ受難週の出来事です。パウロはまさに、十字架の主イエスと同じように人々の罵りを受け、殺意のなかにあるのです。さらに自分の足で歩くのではなく、ローマ兵に担がれ、自由を失っています。みじめで悲惨な状況です。しかし、まさにいま、パウロは主イエスの足跡を追っているのです。十字架の主イエスに従っているのです。それはエルサレムの教会やヤコブのせいではなく、神がそのようにパウロを導いておられるのです。 

 神に従って歩んで来て、こんなさんざんな目に遭うのなら、神に従う意味はないのでしょうか?理不尽な中傷や悪意の中、報われない労苦を徹底的になしてきたパウロほどの献身はないと思うと胸が痛みます。たしかに人間的な局面だけで見れば、パウロの労苦は骨折り損のくたびれ儲け、どころか、自分自身の命の危機へと招いただけです。しかし、神の視点から考えたらまったく別のことが見えるのです。 

 パウロの献身は大きな実りを残しました。この出来事を使徒言行録の著者であるルカは見つめていました。パウロとの旅の途上においてはパウロの判断に反対をすることもあったルカが、やがてパウロの歩みを振り返るとき、そこにたしかに神の御業があったことを知りました。報われないと感じるようなパウロの徹底的な献身は、その後のキリスト教の歴史を見る時、むしろ大きく報われたのです。実際のところ、この使徒言行録がまとめられたころ、すでにエルサレムはローマによって破壊されていました。パウロが引きずり出された神殿も廃墟となっていました。そしてエルサレムの教会も無くなっていたのです。しかし、パウロを通して神の業は為りました。イスラエルを信仰の土台として、福音は全世界に広がりました。これはパウロという優れた特別な伝道者だから為しえたことではありません。いえパウロ自身、自分の働きがどのような結果をもたらすかは分かっていなかったのです。ただただ愚直に神に従って聖霊に導かれて歩んでいくとき、そこに神が大きなことを為してくださるのです。私たちもまた聖霊に導かれ歩む時、神のなさる業を必ず見ます。神に従い歩む時、報われない労苦はないのです。 一分一秒、小さな一歩一歩が神によって豊かな実りをもたらすものとされます。



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