大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書 5章1~18節

2018-08-07 11:30:22 | ヨハネによる福音書

2018年7月1日 大阪東教会主日礼拝説教 起き上がり、歩きなさい吉浦玲子

 

<ほんとうの苦しみは何か>

 

 主イエスは地上でのご生涯において、多くの病人を癒されました。そのことを思う時、主イエスはスーパードクターであったといえなくはありません。聖書に詳しく記述されている癒し以外にも、その生涯において多くの人々を癒され、そこにはそれぞれ個別の物語があったと思われます。しかしその癒しは、マンツーマンで行われたようです。これは不思議なことです。神の力をもってすれば、たとえば、主イエスの周りに集まった半径100メートル以内の人々をいっせいに瞬時に癒す、などということだっておできになったはずです。しかし、主イエスは、一人一人と話をされ、一人一人に固有なやり方で癒されました。たとえば、聖書には生まれつき目の見えない人を癒す物語が多く出てまいりますが、ある人には主イエスは土をこねて目に塗って池にいって洗いなさいとおっしゃいました。その通りにその人が池にいくとその人は目が見えるようになりました。またある盲人には言葉でだけ「見えるようになれ」と主イエスはおっしゃり、癒されました。

 

 一人一人異なるやり方で、主イエスは癒されました。十把一絡げで癒されたわけではありませんでした。それは、一人一人とキリストは出会い、肉体の病の癒しを越えた、ほんとうの癒しをなさろうとされたからです。肉体の病よりもっと重い病、人間にとって致命的なもっとも酷い病、それは罪という病です。そのもっともタチの悪い病、重篤な病、死に至る病である罪という病を主イエスは癒そうとされたのです。その癒しのために、主イエスは、十羽一絡げで癒されるのではなく、一人一人と出会われました。

 

 そして今日の聖書箇所に出てくる38年も病気であった人とも出会われました。ベトザダの池というのは有名な池でした。この池にはいいつたえがありました。迷信と言ってもいいでしょう。主の御使いがときどき水の上に下りてくるという言い伝えでした。御使いが水の上に下りる時、水が動く、その水が動いた時、まっさきに池に入った人が病を癒されるという言い伝えがあったのです。ですから、その池の周りには病の人が大勢横たわっていたのです。そのような迷信にすがるしかないような病の人々が横たわっていました。そこには貧しくて医者にかかることができない人もいたかもしれません。また医者にはかかれたけれど匙を投げられてしまった病人もいたかもしれません。いずれにせよ、苦しみに満ちた光景がそこにはありました。そのようななかに、38年間病だった人もいたのです。水が動く時、一番に水に入って癒されようとしていたのです。

 

 主イエスは「その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。」とあります。38年も病気の人に対して、「良くなりたいか?」とお聞きになるなんて、とんでもないことのように感じられます。常識的に考えるとデリカシーのかけらもないような言葉のようです。しかし、なぜ主イエスがその質問をされたかということが次の男性の答えでわかります。「主よ、水が動くとき、わたしを池に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

 

 「良くなりたいか」その言葉に対して、「当り前じゃないですか」という言葉ではなく違う言葉をこの人は返しました。「こことここが痛いのです」とか「もうずっと脚が動かないのです」「医者にも見放されたのです」という困窮を訴える言葉でもないのです。「水が動くとき、自分を池まで連れて行ってくれる人がいない」とその人は言うのです。つまりその人にとって、誰からも顧みられないということがもっとも大きな苦しみだったのだということがここでわかります。長く病んでいても、かたわらに心配してくれる家族がいたり、助けてくれる人がいる、そこにはまだいくばくかの希望があります。しかし、この38年間病の中にある人は、肉体の病以上に深い絶望を抱えていたのです。

 

 この男性は、病の最初のころから一人ぼっちだったのでしょうか?最初は家族がいたけれどあまりにも長く病にあって、治る見込みもなかったので、だんだんとこの人の周りから人が去って行ったのでしょうか。あるいは家族や周囲の人と離れざるを得ない不幸な経緯があったのでしょうか。それはわかりません。しかし、おそらくかなり長い期間、この人はただ一人で池のそばに横たわっていたのでしょう。誰からも顧みられることのない生活をしていたのでしょう。そしてまた神の御使いが降りて来る時、池までたどり着けない、そんな自分は、神からも見放された存在であると感じていたかもしれません。自力で池にたどり着ける人の姿や、だれかに抱えてもらって池にたどり着く人の姿をこの人は繰り返しこれまで見てきて、そのたびに悔しい思いをし、やがてその悔しささえ枯れ果てたような心になっていたでしょう。この男性は、生きていながら、すでにこの世界から死んだも同然の扱いを受けていると感じていたでしょう。神からも人からも見捨てられていると感じていたのです。

 

 「良くなりたいか?」その問いに、「もちろん良くなりたいです。」と答えることのできない、深い深い闇をこの人は持っていたのです。そこにこそ、この人の苦しみがありました。

 

<起き上がりなさい>

 

 その人に主イエスはおっしゃいます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」これも普通に考えたらむちゃくちゃな言葉です。彼は起き上がれないから横たわっていたのです。好きで横たわっていたのではないのです。しかしまた、一方で、この男性は、病になった最初のころは、起き上がりたいと願っていたかもしれませんが、おそらくもう起き上がることを諦めていたでしょう。もう何年も何年も横たわったままで、起き上がることを願うこともできなくなっていたでしょう。ただ自分を池まで連れて行ってくれる誰もいない、そのことだけを悲しみ、憤り、絶望していました。しかし主イエスはおっしゃるのです。誰かに抱えられるのではなく、自分の足で起き上がりなさい、と。誰も自分を池まで連れて行ってくれない、それだけを思いつめていた人に、「あなたはもうすでに自分で起き上がれるのだ」と主イエスは語られるのです。あなたはすでに起き上がることができる、なぜなら、キリストであるわたしが来たのだから。救い主であるわたしが来たのだから。

 

 イザヤ書9章に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」とあります。クリスマスの時に良く読まれる御言葉です。光の当たらない土地、陰の地、ただの陰ではない、死の陰の地に住んでいた人々に光がさした、キリストの降誕とはそういう出来事でした。まさに生きながら死の陰の地に住んでいたこの男性にも光が輝きました。心も魂も死んでいた男性、ベトザダの池という死の陰の地に死んでいた男に主イエスの光がさしたのです。この男は、「起き上がりなさい」と言われ、「そんなことできるわけがないではないか」と答えたりはしませんでした。主イエスの言葉を聞いて、起き上がってみたのです。それはあまり深く考えての行動ではなく、とっさのものであったかもしれません。しかし、男性は主イエスの言葉を聞いてその言葉に従って行ってみたのです。そこに男性の小さな小さな信仰がありました。主イエスの言葉を信じて起き上がってみた、そうしたら起き上がれたのです。しかも、よろよろとではなく、床まで担いで歩くことができたのです。

 

 床は、この男性の世界のすべてでした。彼がすがっていた世界のすべてでした。この男性は床に横たわり、そこから池だけを見つめて日々を過ごしていました。しかしキリストが来られた今、これまで世界のすべてであると思っていた床を自ら担いで歩み出したのです。だれかに抱えてもらいたいと願っていた男性は、自分自身で、それまでの日々のすべてであった床を担ぐことができるようになりました。自由を得たのです。力を得たのです。主イエスの言葉によって、その言葉を信じてたちあがったゆえに、彼は自由を得ました。

 

 床というこれまで自分が依存していたものを担げるようになったのです。主イエスの言葉を聞き信じる時、わたしたちも担げるようになるのです。それまで自分の手ではどうにもならないと思っていたことがどうにかなるようになるのです。人生の中で自分の手ではどうにもならないと思っていたことがキリストの言葉に従って歩むとき、動いて行くのです。自分が変えられるからです。キリストによって自分自身が変えられたから、周りも変わって行くのです。重たいと思っていたことを軽々と担げるようになるのです。キリストの言葉を信じて一歩を踏み出したからです。

 

 その歩み出した人に主イエスは今日の聖書箇所の後半の部分14節でおっしゃいます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」最初に主イエスは最も重い病である罪と言う病を癒されたとお話ししました。主イエスは、体の病だけではない、その人の根幹にあった罪と言う病を癒されました。しかし、14節だけを読むとすこし違和感もあります。起き上がりなさいと主イエスが男性に言われたことと罪の問題がストレートには結びつかないようにも感じます。そしてまた無理に結びつけると、肉体の病が罪のゆえに起こったとも解釈されかねません。当然ながら、風邪も脳卒中も癌も罪のゆえに起こるということではありません。しかしまた、一方で人間のすべての苦しみの根源には罪の問題が深く横たわっていることも事実です。実際に、38年間病であった男性の苦しみの根源は肉体の病以上に「誰にも顧みられていない」という思いがあったのです。本来は、創造主なる神と共に歩むはずの人間が罪のゆえに神から隔たっている、神から隔たっている人間は、隣り人とも豊かに交わることができません。神から隔たっている人間は、本当のところは、人間からも隔たっているのです。38年間病であった男性が、自分は誰からも顧みられていないと感じた思いの根源にあるのは、神からの隔たりでした。神から隔たっていること自体が罪でした。しかしもう男性はキリストと出会い、神から顧みられていることを知りました。

 

<本当の癒し>

 

 しかし、今日の聖書箇所は男が癒されて、めでたしめでたしと終わるのではありません。「その日は安息日であった」という言葉から続く10節以下のユダヤ人たちの対応の記事に移ります。癒された男が床を担いで歩いていたら、床を担ぐことは安息日には許されていないととがめられます。他の福音書でも安息日に関して主イエスとユダヤの人々の対立が多く記されています。安息日は十戒にも記されている重要な戒めです。安息日は、仕事を休み、神を礼拝する日でした。しかしそれは本来は、人間が神に立ち返るための恵みの戒めでありました。それが主イエスの時代には、本来の律法に加えて細かい<××をしてはいけない>というおびただしい禁止事項を並べたものになりました。本来は神を讃え神の業を喜ぶべき日が、人間を縛る規則の塊となっていました。病が癒されて、男が担いだ床は、男性にとって喜びの象徴でした。癒してくださったキリストを讃える行為でもありました。しかし、人々は、それを行ってはいけないというのです。神から与えられた喜びが、人間が勝手に作った規則によって冷や水を浴びせられるようなことになったのです。

 

 聖書の前の箇所に戻りますが、そもそもベトザダの池には五つの回廊があったと2節に書かれています。これはモーセ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をあらわしていると解釈されます。つまり律法を象徴しているのです。

 

 その律法を象徴する回廊に多くの病の人が横たわっていたのです。そして、この箇所で象徴的に語られているのは<律法では人は癒されない>ということです。律法が不要だというのではありません。律法は人間の罪をあぶりだすものです。律法のゆえに人間は罪を知らされます。しかし、その罪からの救いは律法ではなしえないのです。律法を象徴する回廊で迷信を信じて人々は横たわり、そしてまた、救われた人へ「今日は安息日」だという冷酷な言葉を投げかけるのが、神から離れた人間の姿です。

 

 そんな人間に主イエスはおっしゃるのです。「良くなりたいか」と。回廊で迷信を信じて横たわっている人々は愚かに見えます。しかしまたわたしたちも罪を知らずに生きている時、愚かなのです。罪にまみれながら自分は健康であると思っています。迷信なんか信じていない、律法になんて縛られていないと思うのです。本当は罪と言う病から癒して頂かなくてはいけないのに、それがわかっていないのです。多少、調子が悪いと思っていても自分の力で池まで歩いて行ける、そう思っています。実際には自分の力では罪をどうすることもできないのです。そんなわたしたちに主イエスは語りかけてくださいます。「良くなりたいか?」と。わたしたちは自分が良くないことをキリストの言葉によって知らされます。聖霊によって病を理解します。そして良くして頂くのです。ただキリストの言葉を聞き信じるのです。そのときわたしたちはまことに健やかにたちあがることができるのです。自分の抱えていたものを軽々と持ち上げて歩むことができるのです。


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