アラハバキ神と謎の古代史「記紀」1
1話~7話までありましたが、この1ページにまとめました。
「記紀」とは、古事記、日本書紀のことですが、当然私は素人であり考古学者でもなければ歴史学者でもありません。
そもそも、私が「アラハバキ」に興味を持ったのは20年も前のことです。
友人から「中央政権(朝廷)が東北を支配するまでは全部アラハバキと言う神様を信仰していたらしいぞ!」と聞いてからでした。 それが真実かどうか気になっていたのです。
たまたま、身近にそのアラハバキ神社がありました。
以前記事にした多賀城国府の近くにあるアラハバキ神社と先日の宮城県大崎市岩出山にあるアラハバキ神社です。
その謎を知りたくて本が無いかと探しましたら一冊の本と巡り合えました。
それが「記紀解体・アラハバキ神と古代史の現像」彩流社 ¥1800 近江雅和著です。
最近もう一冊求めましたが、まだ目を通していませんので、この本を中心に引用して記したいと思います。
アラハバキに行く前に普段使わない言葉や名前、神様や天皇、古氏族の家系が出て来ます。
そんなわけで、順序立てて書きたいと思います。それでも分けがわからなくなるかも知りませんが?
これは、私の資料として記した物ですので興味の無い方はパスしてください。
でも日本人のルーツについて興味のある方は読んで見て下さい。長くなりますが
前書きにこんなことが書いてありました。
日本の正史とされてきた記紀の古代記述では、どうしても「人」の歴史としては考えられないことが分かった。
真実を語る古代からの貴重な伝承や記録は記紀の編纂と同時に全て抹殺されてしまい何も残っていない。
また、建国記念日についてもこんなことが…
独立国として建国記念日がないのは格好がつかないということで決めたのが、こともあろうが否定したはずの神話にある「記紀」の神武即位の日であった。
こんな矛盾した子供だましのことで誰が納得するのだろうか?
滑稽を通り越して情けなくなってくる。
それでは、神武即位の何が変なのでしょう?
「記紀」では゛皇紀元年゛つまり初代天皇の即位の年がBC660年です。
この時代は縄文時代で古学的にも文化的裏付けを証明するものは認められないようです。
しかも、神武から仁徳にいたるまで百歳を越える天皇が十一人もいるのです。
誰が見ても不自然な話しです。
これは、「讖緯説(しんいせつ)」といって易学思想で一蔀(いちぼう)ごとの辛酉(しんゆう:かのととり)の年に天下を揺るがす、国家的な大変革が起こるというものです。
※一蔀とは
干支60年で一巡=これを「一元」又は「一運」
その21倍を「一蔀」といいます。
つまり「一蔀」=1260年です。
そこで、推古天皇9年(601年)辛酉から一蔀さかのぼって辛酉の年を神武元年としたのです。ですから辻褄が合わなくなって100歳を越える天皇ができたのです。
図表1
統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国、男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくいのです。
だいたい、この時代は古墳時代で各地に豪族がいた分けですから素人の私でも容易に想像がつきます。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり、卑弥呼は神功皇后のことであると言わんばかりの引用でありながら、その真偽については一切口をつぐんでいるのです。
神功皇后をヒミコとするには干支二運(120年)を引き上げなければならなかったために前期した讖緯説の「一蔀」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われます。
また、「神功皇后紀」が真実であるかのようにまたは作成するために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、勝手にその年代を繰り上げて使用するという暴挙までしている。
国外の歴史まで工作し悪質な編纂ですね。
下の表を比べて見れば一目瞭然ですよ。
「三国史記」 「日本書紀」
●375 百済・近肖古王没 ◎255 肖古王没
●384 百済・近仇首王没、枕流王即位 ◎264 貴須(仇首)王没、枕流王即位
●391 百済・泰和四年銘刀を倭王に贈る ◎252 百済王七支刀を神功皇后に贈る
●392 百済・辰斯王没、阿莘王即位 ◎272 辰斯王を殺し、阿花王即位
●402 新羅・未斯欣を人質にする ◎200 新羅の微叱己知波珍千岐を人質とする
●403 新羅・倭の使者を厚遇する ◎250 使者の千熊長彦ら百済から帰る
●405 新羅・倭兵、明活城を攻める ◎205 人質の微叱許智伐早を新羅に返す
●405 百済・阿莘王没、腆支王即位 ◎277 直支王の記事
●420 百済・腆支王没、久爾辛王即位 ◎294 直支王没、久爾辛王即位
同じ歴史なのに、年代をこんなに誤魔化している。
歴史は常に勝者によって作られ、都合の良いように改変され、また、たまたま世に出ても偽書扱いされてしまうのが常ですね。
史実に迫ろうとする時は、勝者と敗者の記録を照合し矛盾点を掘り下げていくべきでしょう。
日本の古代と同時代にできた中国の史書には邪馬台国や女王卑弥呼のことが出てきますが「記紀」とは全く噛み合わない、しかも多くの矛盾や疑問がある。
弥生と聞くと縄文よりは生活が良くなりますがイメージ的には原始生活を想像してしまいませんか?
しかし、隣りの中国では、弥生よりもはるか以前に黄河文明があり文字も使われていたというのに、考古学で言う弥生文明とでは、その落差があまりにも違い過ぎないでしょうか?
日本にももっと高度なものがあってもいいのでは?と考えますが当時の精神文化を考古学では伺い知ることができないのですね。
日本の古代史を解明するには、中国、朝鮮、インドを視野に考えがちですがそれだけではまだまだ足りないく、もっと広く人類の発生から世界史の流れを踏まえて考察でするべきでしょう。
昭和の初めにこんな説があったそうです。
日本の古代文化がメソポタミアのシュメールにあるのではないか?
紀元前1600年シュメール帝国の消滅によって宗教用語以外が死後化したはずのシュメール語で「古事記」が読めるという説である。
しかし、古事記がシュメール語で読めるなら、未だに意味不明な言語がある「万葉集」も読めなければならないはずなので、チョット疑問をいだく。
日本書紀
「日本書紀」「古事記」は6世紀頃成立したと言われています。
「帝紀」や「旧辞」があったらしいが現存していません。
これについては日本書紀の文中に「帝王本紀」の名があげられています。
編纂
天武天皇十年(681)に川島皇子、忍壁皇子らが「帝紀及び上古諸事」の作定事業から始まりそれ以来「帝紀」「旧辞」を軸として諸種の資料を幅広く集めて編集作業を進めた。
持統天皇5年(691)……10年後……
大三輪(おほみわ)・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・藤原・石川・巨勢(こせ)・膳部(かしはで)・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群(へぐり)・羽田・佐伯・采女・穂積・阿雲ら十八氏(一人不明?)に「墓記:おくつきのふみ」の提出が命ぜられる。
これは、名門氏族の系譜や事蹟を材料とするための提出であった。
しかし、日本書紀が朝廷に都合よく書き改められた後には、改ざんの事実を暴露されないために没収ないしは検閲だった疑いがあります。
また、百済関係の資料として神功皇后紀・応神紀・雄略紀には「百済記」
雄略紀・武烈記には「百済新撰」
継体・欽明紀には「百済本記」がそれぞれ引用され、また本文にも利用されています。
和銅年間(708~714)に「風土記」の編纂提出を命じられたが完本として残るのが「出雲風土記」のみと考えらる。
完本に近いものが播磨・肥前・豊後・常陸だけしかなく、しかも古代豪族とゆかりの深い国の風土記は、申し合わせたように姿を消している。
古事記も基本的には、日本書紀と共通した内容になっていることから、同じ資料によって編纂されたのがわかります。
違うのは「日本書紀」が漢文体で書かれているのに対して「古事記」が古体の日本語て書かれているのです。
これは、「記紀」編纂時に大陸からの帰化人が続々と渡来しており、今日言われる「日本語の乱れ」のような状態にあったのでしょう。
その為に古事記は日本語のテキストの役目に作ったのだという説もあります。
日本書紀の編纂は藤原不比等が中心となってやったが天皇家藤原家による支配体制の確立を目的として偽作をしたようだ。
古代において家柄・氏(うじ)が絶対であったが、藤原の前身である中臣は、中流の家柄だった。
権力を持つためには天皇家を利用する…
それが最大の手段であり蘇我・物部・尾張氏を見てもはっきりしている。
天皇家にあってもその出自や王朝の一系については、語りたくない事情があり支配体制の強化の為にも偽作の線は藤原家と利害が一致したわけです。
そもそも、藤原というのは中国系の渡来人だとされています。
統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくい。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり卑弥呼は神功皇后のことであるといわんばかりの引用でありながらその真意についてはいっさい口をつぐんでいる。
神功皇后をヒミコとするには干支二通(120年)を引き上げなければならなかったために前記しましたが、讖緯説の「一部」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われる。
また、「神功皇后記」を作るために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、これもあろうに勝手にその年代を繰り上げてしようするという暴挙までしている。
これは、先ほど比較した通りです。
※神功皇后
第14代・仲哀天皇の皇后、仲哀天皇はあるとき、皇后の神功(じんぐう)に「西海の宝の国(新羅国)を授ける」という住吉大神の神託が下がったが、仲哀はこれを信じず、神の怒りに触れて急死した。
その後、再び神功に、「胎中(はらのうち)の皇子(みこ)【応神天皇】に新羅を授ける」という神託が下った。
そこで神功は男装して渡海し、新羅を服属させると共に、高句麗、百済にも朝貢を誓わせ帰国した。
朝鮮半島における日本領(内宮家屯倉・うちつみやけ)はこの時に誕生したとされるが、仲哀・神功ともに非実在との有力な説があり、神功による三韓征伐は創作の可能性が高い。
歴代天皇FILE(学習研究社)著者:不二龍彦 ¥476 から
※渡来人=帰化人
古代に日本に渡来し住みついた人々
4世紀後半から大和朝廷が南朝鮮に進出すると捕虜や人質として技術者や知識人が渡来し、漢字をはじめ学問・芸術・宗教や統治技術・産業技術を伝えた。
7世紀後半には百済・高句麗・の滅亡で渡来人が増加し、律令国家の形成に寄与。
漢(あや)氏・秦(はた)氏が有名。
●漢氏(あやうじ)
秦氏(はたうじ)と並ぶ古来渡来人系の氏族。
漢の王室の子孫、阿知使主(あちのおみ)が応神の時渡来したという伝説があるが朝鮮半島の楽浪郡の漢人の子孫が5世紀初め頃渡来したものらしい。
大和にいたもの東漢(やまとのあや)氏、河内にいたものを西漢(かちのあや)氏といい、直(あたい)の姓(かばね)をもつ。
工芸、文筆などで朝廷に仕えて、蘇我氏の下で活躍。
天武朝に連(むらじ)、次いで忌寸(いみき)となった。
7世紀頃から坂上(さかのうえ)、文(あや)などの多数の氏に分かれた。
●秦氏(はたうじ)
漢氏(あやうじ)と並ぶ古代の有力な渡来人系氏族。
応神天皇の世に秦(しん)の始皇帝の子孫と称する弓月君(ゆづきのきみ)が帰化したと伝える。楽浪郡(らくろう)滅亡後南朝鮮にいた中国人が5世紀初めごろ渡来したものであろう。機織り技術を伝えたらしく、各地の秦部の統率者として朝廷に仕え財政事務にもあずかった。
今の淀川中流から上流の盆地を中心に繁栄し天武天皇の時に造(みやつこ)から連(むらじ)姓、さらに忌寸(いみき)・宿禰(すくね)姓を賜った。
※三国史記
朝鮮三国 (新羅・しらぎ)・(高句麗・こうくり)・(百済・くだら)時代の史書で古代朝鮮における現存最古の正史
全50巻あり、新羅12巻・高句麗10巻・百済6巻・年表3巻・雑志9巻・列伝10巻
※魏志倭人伝
中国の正史「三国志」のうちの「魏書」巻30の中にある一伝
「東夷伝」中に倭人の記録があり通称これを「倭人伝」と呼ぶ3世紀の日本を記した重要な史料。
アラハバキ神と謎の古代史 「記紀」2 アマテラスとオオモノヌシ
「天孫」で辞典を引くと、〔天つ神の子孫。特に天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)〕となっている。
天孫族の祖神がアマテラスであるなら、最初から「皇祖アマテラス」であってよいはずなのに記紀ではこのように書いてある。
「古事記」ではアマテラスはイザナギが黄泉国(よもつくに)から帰って禊(みそぎ)をした際、左の目を洗った時に出現している。
「日本書紀」では、イザナギ・イザナミが相談して大日孁貴(おおひるめのむち)を生んだとある。
「日孁」とは、日の神を祀る女という意味です。
また、本文中にはオオヒルメノムチは「光うるわしく六谷(くに)の内に照りとおる」とし「ひととなりうるわしく天地に照らし臨ましむ」とあるから太陽神の性格が濃厚です。
「古事記」でも、アマテラスが天の岩屋にこもったので国中が真暗になったと太陽神の性格を述べている。
「日本書紀」では崇神天皇が宮廷に祀っていたアマテラスと倭大国魂の神を宮廷外に祀ることにした。
次の垂仁天皇(すいにん)はアマテラスを豊鍬入姫に祀らせていたが、姫がノイローゼになったので倭姫に代えた。
次の景行天皇(けいこう)は五百野皇女(いほのの)に祀らせる。
神功皇后に憑りついた神は「日本書紀」ではアマテラスの名を撞賢木巌之御魂天疎向津媛となっている。
宮廷や伊勢神宮に受け継がれている祭りの様式を見るとアマテラスが皇祖神として登場するのは、わずかに祈年祭(としごいのまつり)と月次祭(つきなみのまつり)の祝辞に数々の神の名の後に「伊勢にいます神」という名で出ているだけでとても皇祖神という扱いにはなっていない。
となれば、本当の皇祖は他にいるのではと思うのが筋!
「記紀」は明らかにすることができない天皇家の出自の秘密を隠蔽するために、敢えてアマテラスを皇祖に仕立てて日本統治の正当性を「記紀」で表したかったのではないだろうか?
「延喜式」によれば、大嘗祭の斎場の神々の中心は
「タカミムスビノ神」(高皇産霊神)なのです。
この神こそ本来の祖神としての扱いになっていることに注目したい。
倭大国魂神はとは実はニギハヤヒのことであり、またオオモノヌシでもあったが、「記紀」ではこの三神を全く別神であるかのようにして真相をかくしてしまった。
祖先の神なら宮廷の近くに祀るのが当然なのにどうして宮廷外に出さなくてはならないのか?
そして、伊勢に落ち着くまで60年間も転々とすること23回にわたり旅を続けている。
場所は省略します。
表向きは居心地が悪いという理由ですが、どうも事実は違うようです。
「日本書紀」や「皇太神宮儀式帳」に安倍武淳川別(あべたけぬなかわわけ)・和珥彦国葦(わにひこくにぶく)・中臣大鹿島(なかとみおおかしま)・物部十千根(もののべといちね)・大伴武日(おおともたけひ)の五人の名門の豪族の長が部下を引き連れて同行していることから、武力平定のための政治的な移動だと考えられる。
大和の大王だったニギハヤヒ(オオモノヌシ)
記紀には、神武の大和突入時の在地の豪族ニギハヤヒとナガスネヒコの連合軍とのやりとりをしたことが出ている。
【日本書紀】
ナガスネヒコは使いを出し神武にいった。
「これより先、「天つ神の子があり、天磐船(あめのいわふね)で天降ってきた。
クシタマニギハヤヒといい自分の妹のミカシキヤヒメ(又、ナガスネヒメ、トミヤビネ)を妃としてウマシマジをもうけた。
自分はニギハヤヒに仕えた。
天つ神の子が二人いるはずはない。
それなのに今また、天つ神の子と称して侵入してくるのは偽者であろう」
神武は、「天つ神の子は多い。お前が仕えるニギハヤヒが本物であれば、必ず表(しるし)となるものを持っているはずだ。それを見せろ」といった。
そこでナガスネヒコはニギハヤヒの天羽々矢(あまつははや)一つと歩馭(かちゆき)を取り出して見せた。
「偽りでない」と認め、自分の天羽々矢と歩馭を持ち出して見せた。
ナガスネヒコはそれを見てかしこまったがすでに戦闘準備は整い侵入軍撃退の気勢をおさえがたい状態だった。
ナガスネヒコに反攻翻意の様子がないのを見てとったニギハヤヒは、ナガスネヒコを殺して、衆を率いて帰順した。神武はニギハヤヒが天から降(くだ)ってきたということを聞いた。
そして、天孫神武の正当なことを認めて帰順したのを褒めて優遇した。
これが物部氏の遠祖である。
※帰順=反逆の心を改めて、服従すること。
【まとめ】
お互いを疑っている。ともに天つ神の子と称して同族だったことを暗示している。
天つ神の子はたくさんいる。
天羽々矢と歩馭はどのようなものかは、別として、これを所有しているものは、同一文化系又は、同族を表している。
ニギハヤヒが物部氏の遠祖である。
古事記の同じくだりは割愛しますが、ニギハヤヒが神宝を献上したとある。
これは、天孫族間では神宝献上はありえないので、別種別だといわんばかりの扱いである。
「旧事記」(先代旧事本紀)に不満を持つ物部氏が作為的に編纂したものされたり、斎部広成が編纂した「古語拾遺」とともに評判がよくない。
先代旧事本紀は、日本書紀の引用や天皇諡号を用いていることなどから後世の偽だとされ無視されてきたが、九世紀後半に成立したことは確かでなんの根拠もなく捏造されたものではなく古く飛鳥時代頃にあった物部氏の伝承を基礎にして物部氏の主張を訴える目的で八世紀後半に物部氏の手によって「記紀」や「古語拾遺」などを引用して書いたものと思われる。
他の史書には、見られない独自の伝承があるので、むしろ「日本書紀」は物部氏の持つ古伝承を材料にしたという論もあるくらいである。
日本の古代史を見る上でも再検討されるべきである。
とこの本の著者が言っている、偽書扱いされるものもあるが角度を変えると新しいものが発見されることもあるので、今後の研究にも期待したい・・・
私がもっと若ければと思うが・・・小学校からやり直ししなければ到底追いつかないでしょう。www
ブロ友の「維真尽さん」のお国「出雲」の出雲風土記はまだ勉強していないので、これから本を探して読みたいと思います。
まだ、この記事は続きますが、物部氏がニギハヤヒの始祖となれば、出雲についても非常に気になります。
ここで出てきたニギハヤヒですが・・・
饒速日命(にぎはやひのみこと)=大物主神(おおものぬし)=大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主命=事代主(ことしろぬし)
呼び名は異なりますが、全部同一神だとも言われています。
アラハバキ神と謎の古代史「記紀」3 出雲系トミ氏
「記紀解体・アラハバキ神と古代史の現像」彩流社 ¥1800 近江雅和著
この記事は、この本の中から引用しています。
伊勢神宮の謎に入る前に出雲系の直系にあたるトミ氏の子孫が現代に伝承を残していたという、面白い記事があった。
まず、出雲族とは・・・・辞典では、天孫族の「天のホヒ」を祖とする出雲国造(他国は、「みやつこ」ですが出雲では、「こくそう」といいます。)や出雲臣の一族を指すのが通説になっているが、ホヒが出雲に入る前から、そこには原出雲族がいたはずです。
そこで純粋の出雲族といえるものを出雲系又は、トミ氏と呼ぶことにしてこの先進めます。 この本では、ホヒ一族を出雲族と呼ぶのはおかしいとしています。
縄文の晩期から弥生の初期に大陸回りで、または南からは海路で日本列島に渡来して来たのが弥生文化の起こりとなった。
その中の一団がトミ氏一族です。
その後、少し遅れて朝鮮半島経由で出雲に渡来したのがスサノオ族であり、南九州に上陸したのがニニギのいわゆる天孫族です。
この九州勢力の天孫族が出雲侵入の先遣隊として、一足早く出雲入りしたのが
ホヒ族だったのです。
この神話が史実かどうかはわかりませんが時代が下がってからの出来事を反映しているかもしれない。
出雲系の直系・トミ氏
十数年前のこと、ある女性週刊誌にこんな記事が紹介された。
「四000年のタイムトンネルに生きる男」と題して、元サンケイ新聞社編集局次長・富當雄氏のことを紹介した記事があったそうです。
「出雲王朝四千年の歴史を継ぐ、大国主命直系の子孫で、しかも古代王朝の史実を先祖から代々口伝えに伝承してきた・・・・」という内容です。
十六歳の時、十二月の下旬の夜、祖神を祀る出雲井神社の神前ではじめて養父から伝えられ、この夜から十年間にわたって、連続反復して養父から聞かされ、「この伝承は子に伝えるまで、たとえ兄弟たりとも他言無用、命にかけて、これを守れ!」という厳しいものであったそうです。
富當雄氏は内容に関しての会見や発表をしない。 富氏の持つ伝承は出雲のことだけではなく、古代史の謎を解く貴重なカギを提供してくれる。長い口誦のうちには、細かいところでは多少誤っているところはあるかも知れない。
これまで正史とされてきた「記紀」と大きく食い違う資料には、真実が隠されていることをこの本の著者は何度も確かめてきたという。
真実の暴露を恐れる故に、体制側は正史以外の書を偽書と決め付けて抹殺し続けてきたのである。
富氏の伝承には正史が曲筆した真実を数多く含んでおり、その伝承を真実としなければ説明のつかないことが余にも多いのです。
いかなる事情があって富氏の心を動かしたのかわからないが、吉田大洋氏の質問に答えるという形式で七時間余にわたって話しを聞くことができたという(謎の出雲帝国」徳間書店)←この本気になりますね 吉田氏が話を聞いたのは、昭和53年富氏は67歳だったそうです。生きていれば98歳ですから・・・微妙
富氏の語る系譜の一端を見て見ると「トミ」の付く名前が多いに気が付く
「トミ氏」「トミ族」と呼ばれる意味がわかる。
富氏の伝承による原出雲系の系譜
※「出雲秘文」「九鬼文書」ではオオクニヌシの父をサオトミとしている。
吉田大洋著 (謎の出雲帝国」より
この系図の中でオオクニシの子に「ホアカリ」がありますが、後日書きますが度会氏(わたらい)や海部氏・尾張氏の祖先にあたります。
つまりこの氏族たちは、元は一緒なのです。
この尾張氏や海部しの系図の中にヒミコ(ヒメコ)がいるのです。
つまりヒミコの祖先はオオクニヌシと繋がります。
また、イセツヒコの名前がありますが、これは伊勢に地に住んでいたのがイセツヒコです。この話は後程・・・
それでは、富氏の話に戻ります。
「この世が一夜にして氷の山になった。大先祖であるクナトノ神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え、海沿いに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。
これは、今から4000年も前のことである。我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。」と、紀元前2000年の出来事をいっている。
この文から人類の第二次拡散の故地すなわち出発点か途中の滞在地の記憶を指しているものと思います。
さらに富氏は、「東北の山や湖に関する伝承が多い。ベーリング海を渡り、北海道、東北、そして出雲へとやって来たのだろう」ともいう。
だが、この部分だけとって、原出雲は北方民族だとするのは誤りである。太古の蛇龍信仰はエジプト、シュメール、ドラヴィダ、中国の夏人にもあった。
シュメール人とドラヴィダ人はアーリア人に追われて、また南アラビア人も東方や南方に拡散している。富氏も「我々は蛇龍族だ」と断言しており、いまなお、出雲の祭神はウミヘビを捕って供えることから始まる。
東北を経由したとなれば「先代旧事本紀大成経」の「かつて長髄彦が若かりし頃、仙台で土民に製塩の法を教えた」という下りと鹽竃神社の祭神をナガスネヒコとする「大成経」の主張がにわかに真実味を帯びてくる。
正史に副わない数多の伝承を含む「大成経」が江戸時代になって偽作と断定されたうえ発禁の処分を受けたのは余にも真実を書きすぎたために体制側に抹殺されたのでしょう。
このように偽作扱いされ史料価値が無いというのはおかしな現象かもしれませんね。
いわゆる「出雲の国造り」に反対して抵抗したタケミナカタトミは、天孫族のタケミカヅチに追いかけられたすえ諏訪で降伏し、一歩も外へ出ないと誓った・・・というのが「記紀」の神話だが、富氏の伝承にはタケミカヅチなど登場しない。
タケミナカタは北陸路を北に向かい越後に入り、姫川を上って千国街道(別名糸魚川街道、松本街道とも)から信濃に入った、地元、諏訪の伝承も「記紀」と全く違う。
諏訪の先住民である守屋一族は出雲族の侵略だといっている。
「諏訪大明神絵詞」では守屋氏とタケミナカタとの戦いの様子を語っており結果はタケミナカタの勝ちであったが、タケミナカタ系は大祝(おおはふり)という象徴的な地位に祭りあげられて諏訪神社の祭祀の実権は守屋氏が握っていた。
・・・・この後も続きますが・・・・割愛させていただきます。
アラハバキ神と謎の古代史「記紀」4 ヒミコ
尾張氏の系図はホアカリを先祖にしており、「魏志倭人伝」に出てくるヒミコと男弟と思われる名前があり合致する。
この系図は、大田亮氏著の「姓氏家系大辞典」にも載っており、信頼度が高いがそのまま真実とするのもためらうとしている。
ところが、海部氏の系図が尾張氏の系図を裏付ける第一級の資料であることがわかった。
これは、最近のことですが、昭和五十一年に日本最古の系図として国宝に指定されています。
「ヒミコ」とは「ヒメミコ」の意味であり、系図の中では「日女」や「日女命」と記されています。
海部氏系図は、京都府宮津市の天の橋立の付け根にある古社で丹後国一ノ宮、籠神社(このじんじゃ)に秘蔵されてきた門外不出の秘書だった。
籠神社は「延喜式」の「神名帳」に名神大社として記載されている。
徳川光圀が「大日本史」を編纂した話は有名ですが、その時家臣を丹後につかわして海部氏に残る古系図を調べさせたところ、神宝ゆえに断られたことが出ているといいます。
「旧事記」は物部氏が作った、物部氏も尾張氏もホアカリ(天火明)を祖としている。
尾張氏の系図には一部落としているところがありますが割愛します、不注意で落としたのではなく王権によって落とすことを命ぜられたようです。
「魏志倭人伝」によると紀元170年から180年にかけて倭国に動乱がおきてなかなか治まらなかった。
男王がいたが代わってヒミコという幼女を立てて女王にした。
ヒミコは鬼道に通じ、男弟が政務を補佐していた。
その後ふたたび倭国の大乱があってヒミコの死後は宗女のトヨが女王になったと記している。
尾張氏系図と海部氏系図では第十代の日女命と、兄弟の「弟彦」がある。
それに海部氏系図によって弟彦の孫の「日女命」の又の名が小止与姫だということだから、この取り合わせ偶然の一致ではないでしょう。
次の問題は、魏志倭人伝のヒミコの活躍した時代とこの系図の時代が一致しないと話しにならないわけです。
魏志倭人伝では、紀元230年~240年がヒミコが活躍した時代です。
尾張氏の系図には第八代タテモロズミの妹であるオオアマ姫が崇神の妃になっている。
これを1話でUPした、天皇の修正実年代の表を見れば、崇神はちょうどヒミコが活躍した時代に相当することがわかります。
鉛筆で囲んでおきました。一話へ
尾張氏系図
海部氏系図 国宝指定
尾張氏は度々天皇の皇妃を出しているようだ、何らかの政治的連帯を図ったと思われます。
海部氏系図をみると二代目の日女命(コトヨ)の次の代であるタテイナタネの子の時代から海部氏と尾張氏にわかれたことがわかります。
「邪馬台国」を書くと、また長くなりますから、辞めます。
本も色々出てますし、問題は読み方からしっかりやらないとダメなようです。
中国の古文書を読むのは中国の学者でも難しいそうです。
漢字の意味が違ったり、句読点がついてませんから、点の位置を変えるだけで全く意味が変わるそうです。
中国政府が学者を集め「三国志」に標点を施しましたが、日本で定本扱いの岩波文庫の「魏志倭人伝」でも句読点の打ち方が百ケ所近くも違いがあったそうです。
たかが二千文字の本ですが、現代人では、その意味すらも大体しかわかっていない状況です。
本当の邪馬台国を知るには、この本を知ることからではないでしょうか。
また、魏志倭人伝にはヒミコが死んで「径百歩の大きな塚を造った」ことが記されています。
つまり古墳です。しかし、大きい古墳はすべて皇室の陵墓参考地に指定され、全く調査が出来ないようです。
これでは、古代史・考古学の進歩はありませんね。
知らない方がいいとゆうことですかね?それとも知られては困る天皇の秘密でもあるのでしょうか・・・?
伊勢神宮に隠された秘密とは
退屈な記事が続いておりますm(_ _)m
もうここで止めるわけにも行きませんので、続行させていただきます。
コメントをいただけるのであれば世間話で結構ですよ。
庶民が「お伊勢参り」をするようになったのは鎌倉時代以後で江戸時代になるといっそう盛んになりますが、この辺は時代劇でも良く見かけるのではないでしょうか。
この頃には、神棚も祀られ家庭には神符も配られたようです。
なんだかんだ言っても我が家の神棚も天照皇大神宮です。もちろん大国主神・大年神・五穀豊饒・神主代事そして台所には奥津彦神御靴姫神が祀られて・・・いや紙が貼られています。
伊勢の地ですが、元々イセツ彦がいたところとされていますが、「記紀」には神武の大和入りの際に東方に放逐(ほうちく)されたという説話になっています。
※放逐=追いやられた
その後、古名である「磯」が示す磯部一族の海人系集団が引き続いて蟠踞していました。
※蟠踞(ばんきょ)=広大な土地を領し勢力を振う。
この一族は、一つの地方政治権力となるまでに次第に勢力を増してきており度会氏(わたらい)と磯部一族を服属させるための伊勢遷宮だったようです。
垂仁天皇二十六年、皇女倭姫命が各地を巡幸ののち伊勢の五十鈴川上にアマテラスを祀りました。
しかし、現在の宇治の地ではありません。
宇治に遷るのはもっとくだって文武天皇二年(698)…この記事は「続日本紀」にでています。
※この時点では「多気大神宮」=滝原宮のこと
度会一族の滝原宮は完全に王権に祀りとられて、皇祖神アマテラスが宇治に遷されたのです。
宇治の地には、磯部氏が奉祭する地主神、荒祭宮(あらまつりのみや)があり容易に入れなかったのです。
荒祭宮(あらまつりのみや)
現在、皇大神宮の内宮のすぐ後ろに「荒祭宮」という別宮扱いの社があります。
しかし、この存在を知らないで参拝する方の方が多いのかも知れません。
公式ホームページにも説明はありますが、一般の方は内宮と外宮にしか興味が無いようで見逃しがちでしょう。
古来アマテラスの荒魂だということになっていますが、内宮も別宮十社の中で、内宮神域にあるのは、荒祭宮だけなのです。
しかも、他の別宮とは異なり、神嘗(かんなめ)月次(つきなめ)のいわゆる神宮の三節祭には、幣帛(へいはく)が内宮とこの荒祭宮だけに奉納され1月4日と旧九月の神衣祭(かむみそのまつり)では内宮と荒祭宮だけに神服織殿(かむはたおりどの)で織った神衣を供えるなど内宮と同格の扱いを受けて他の別宮とは断然格式が異なっているのです。
※幣帛=神に奉献する物の総称
伊勢神宮のHP「荒祭宮」の説明公式ホームページです
抜粋: 荒祭宮は、内宮に所属する10別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、第一別宮として正宮につぐものです。
『延喜式』に「荒祭宮一座 大神の荒魂」とも見えます。
祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮にひきつづき、同日に勅使、大宮司、少宮司以下神職がただちに参向して幣帛がたてまつられます。又、神饌の種類や数量も正宮とほとんど同一のものが供せられます。
大祭中の大祭、式年遷宮も、古来より正宮に準じて執り行われています。
古来以来の大祭、神御衣祭を受けられるのは、内宮と荒祭宮のみでありますことからも、この宮の特別な神位がうかがわれます。
荒祭宮の位置は、現在の内宮が式年遷宮をする東西の殿地の中でも最初の殿地だったとされる西殿地の真北にあたり、あたかも内宮の古い本殿のような形をとっている。
鎌倉時代の「神宮雑例集」に引用されている「大同本紀」の文には「皇大神が鎮座のとき、度会氏の祖先の大幡主が最初に荒祭宮の地に大宮を造った」という伝承がある。
荒祭宮の神域内から白玉などの祭祀遺物が出土したこと。
これらのことから荒祭宮の祭神こそ古い内宮の地主神であったと述べている。
また、「荒祭宮の神に対する仕事が特に荒祭物忌と言って特別な専属の巫女が置かれている。
これは、古い土地の豪族であった磯部氏から出した」と述べている。
伊勢神宮(内宮)荒祭宮
(「古代王権の祭祀と神話」橘書房&「伊勢の大神の宮」堀書房 桜井勝之進著 &「日本の神々」中公新書 松前健氏著)
【倭人伝】
19日の地元新聞紙「河北新報」にも纏向遺跡から国内最大の建物跡が発掘されたことから、邪馬台国の所在地について、畿内説か九州説かが再燃しているとの記事が掲載されていた。
国内最初の「都市」との見方もある纏向遺跡だが、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳が存在するが、王にふさわしい大型の建物が跡が無いことが弱点とされている。
畿内説の研究者は卑弥呼の宮室(宮殿)の可能性が高いと興奮を隠せない。
一方、九州説の専門かも黙っていない、「土器の年代が実際より古く解釈されている。4世紀以降の建物で明らかのに時代が違う」としている。
私の記事にもチラッと書きましたが。卑弥呼が活躍した時代は230年~240年ですから3世紀ですね。
この論争永遠に続くのでは・・・?
歴史のロマンは推理小説のようで楽しいではありませんかww 俺だけか?
地主神とは
「神道集」の説話があるのですが、・・・・短縮・・・・カット
天武天皇の御代に伊勢の国、度会郡から荒人神として出現し上野の国群馬郡白井の地に神となって現れたのが児持大明神である・・・・・
~割愛~
伊勢神宮の荒垣の内におられのがそれである。
群馬県吾妻郡の後藤菊次郎著「子持山縁起」では、「荒人神」が「アラハバキ姫」となっており、また、終りの部分は「伊勢神宮のあらがきの内におはします。
すなわちあらはばき是なり」とアラハバキ神の名を明記しています。
つまり、荒祭宮が伊勢の地主神=アラハバキ神だという説話なのです。
二見にも一族の二見氏がおり興玉神社がある。その沖合(鳥羽市小浜町)に「飛島」という小島があり古くは「阿波良岐島・淡良岐島」と呼ばれ、アラハバキからきたものに違いないと思われます。 二見興玉神社
渡会氏の「神道五部書」でも内宮の殿地の地主神と興玉神だと記している。
つまり、アラハバキ神だったということです。
外宮の主祭神は豊受大神である
アメノミナカヌシ(天御中主)、クニノコトタチ(国常立)、ミケツ神の諸神はいずれもトヨウケノ大神の別名としている。
大自在天は梵語では、マケイシュヴァラ:Mahesvara(摩醯首婆羅)といい、世界の主宰神で特にシヴァ神のことを指しており、密教においては、大日如来の応現ともしている。
※応現=応化(おうげ、おうけとも)仏、菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿をかえて出現すること。
つまり、アメノミナカムシはシヴァ神だというのです。
大元とは、オオモト、すなわち始源の意味であり、外宮の神はまず初めに生まれた神である。
したがって万神に先がけて生まれた神こそ最高神である。
しかし、これは表向きであり「大元尊神」実体は「アラハバキ神」のことにほかならなず、ホアカリ系が渡来以前から最高の神としていたものを巧みにカムフラージュしたもであった。
伊勢神宮には、もう一つ「太一」という信仰がある。
太一を表に出した伊雑宮(いぞうのみや)の田植え祭は有名だが、その解釈はまちまちのようです。
伊雑宮は原出雲系のイサワトミを祀る神社であった。
内宮の別宮とされながらも、由来を抹殺された磯部氏の祀る伊雑宮
伊雑宮は「延喜式」の「神名帳」に「磯神社」とある。
「倭姫世紀」では、イサワトミがヤマト姫(倭姫)を迎えて志摩国の磯部の地に穀物の神として祀った由来を述べている。
しかし、割愛しますが微妙の表現であいまいに誤魔化されてしまっている。
太一というのは、中国の陰陽五行思想から名付けられ・・・・・
太一は最高の神であり、その居所は北極とされ、北極星の神霊化であり宇宙の大元であるとしている。
この中国思想は道教に反映して道教は古代インドの密教と習合して「大元帥明王」になった。
太一という隠れ蓑を着た最高神であるアラハバキ神のことであった。
アラハバキ神すなわち大元神を
取り入れたのは、渡会氏、磯部氏の一族だけではなかった。
「記紀」編纂によると欺瞞(ギマン)の歴史の押しつけという暴挙に対して古来の伝承や系譜を持つ有力氏族が反感を抱かないはずがない。
※欺瞞=真相が見えないようにだます。
ここから時代は遡ります。
古代インドにあったアラハバキはさらに遡れば南アラビアに根源がある。
南アラビアからインドに移動して来た、アーラヴィと呼ばれる一団が「その信仰を持っていた。
だが、アーリア族の侵攻で一土俗信仰となり、ついでインド仏教の雑蜜成立にともないヒンズー教その他の諸神とともに仏教の守護神という、いわば外道の神に位置付けられた。
それが中国には、インドから移動して来た、雑蜜系の僧によってアラハバキ神がもたらされ、さらに道教と習合して大元帥明王という呼び名に変身した。
その変化をいち早く知った渡会氏は、古代アラハバキを大元神という最高神に仕立て大和朝廷に抵抗を続けた。
古代アラハバキの信仰を持って渡来した古氏族も朝廷の暴挙に不満を持ちアラハバキ大元神に替えてギリギリの自己主張をしたのである。
籠神社の先代宮司海部穀定氏が生涯をかけた研究「神代並上代系譜略団記(深秘相伝)」巻頭には「天照大神は国常立尊すなわち大元神の所顕であらせられる」とアマテラスが人格神でないことと、国常立は大元すなわちアラハバキであるとことを明記してある。
この一連の海部氏の秘伝は「記紀」が明確に記すことを避けた神の素性に関わる疑惑に明快な回答を与えるとともに日本古代史の再考を促す超一級の証書であり資料である。
アラハバキの信仰は弥生時代のごく初期、あるいは縄文時代のごく終わりの頃に渡来したものである。
そしてその原点が南アラビヤのヤマン地方にあり、アラハバキの語源は最高の神の意味である。
古代アラビア語の「アラハバキ」からきている。
かつて、中山太郎氏は「アラハバキ神は天孫族が、我が国に渡来する以前に、先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」という鋭い指摘をしたが(日本民族学②大和書房)
それ以上の追求は出なかった。
私も以前そう思っていました、またアラバキ族とかアラハバキ族という言葉も耳にします。
おそらくこの信仰を持っていたものを総称して表していた言葉なのでしょう。
アラハバキ族は和田氏が作ったウソでしたここに訂正します。詳しくは「偽書東日流外三郡誌」
時代が下れば、これも否定はできないと思います。
しかし、ここで述べているのはどこから発生したのかを追求していますので、もっと遡って考えましょう。
南アラビヤからインドへ
南アラビヤからインドに入って住み着いた一団は、その後アーリア系の侵入で森林広野に住んでいたので「アーラヴィ」(林住族)と呼ばれたことが、紀元三世紀のインド・マウリア王朝の宰相カウテリアの著書「実利論」に出てくる。
インドから中国へ
アラハキ神はシルクロード経由で雑密僧によって中国西北部の?奴に入った。
中国本土では三世紀の三国時代(220~280)西域の雑密僧によってアラハバキを含むプレ雑密僧文化が「呉」に入り江南を中心として中国全土に広がった。
8世紀の唐代(618~907)
密教教典の訳出が行われた。
この時代には、音写ではなく義訳による漢訳教典が続々と現れて、「元帥」「大元帥」の形になって行きました。
この漢訳教典は宮廷に設けられた内道場で、?命により秘訳されたということは、皇帝以外には行うことが許されない秘法であったことを物語る。
この時点でアラハバキ神の性格は護法神から国家鎮護の「大元帥明王法」として皇帝独占の秘法へと変わった。
(通常大元帥明王は「帥」の字を読まず「だいげんみょうおう」とよんでいる)
中国から日本へ
9世紀になると中国で漢訳された密教経典や道教と習合した大元帥明王法は遣唐使により日本へもたらされることになった。
小栗栖(オグルス)
承和4年(837)に請来(しょうらい)空海の奏上、仁寿元年(851)以降、朝廷では二つの密教秘法が毎年正月八日に行われた。
一つの「御七日後修法」(ごしちにちのみしほ)と呼ばれ天皇の玉体護持と国家安穏を祈る。
真言密教の秘密法で、もう一つが「大元帥御修法(だいげんのみしほ)」で怨敵、逆臣の調伏、国家安寧を祈る大法であった。
※古語辞典では=「大元帥の法」だいげんーのーほふ
陰暦正月八日から~十四日までの七日間、冶部省(じぶしょう)で国家鎮護のために大元帥明王と本尊として行った大法会(ほうえ)
【栄花】みはてぬゆめ
「大元帥の法といふことは、ただ公(おおやけ)のみぞ昔より行はせ給ひける」
〔訳〕大元元帥の法会ということはもっぱら朝廷だけが昔から行いなされていきた。
空海は真言密教の開祖であるが、梵語・ペルシャ語・アラビア語にも通じ、はるかインド、さらにはアラハバキの原点に指向していたのです。
古代信仰のアラハバキがインドから中国に入り大元明王に変身して皇帝独占の秘密法となったのを見逃すはずはなかった。
当時、仏教は国家仏教で庶民とは縁遠い宗教であったが、渡会氏が外宮を大元尊神とする教理を打ち立てたのと同様に、仏教に組み込まれて外道に落とされたアラハバキ神の本流への復活が狙いだったのでは無いだろうか。
政府間レベルの中国との遣唐使による国友の他に物部氏系や古代アラハバキ信仰を持って弥生初期に渡来した古氏族は、独自のルートをもって中国と交流があり道教と習合した「大元」を知っていたとしなければなるまい。
アラハバキと神社
弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も「記紀」の影響や仏教による変容で、すっかり影をひそめ江戸時代には、何神であるかは不明になってしまった。
わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために密かに今日までその伝統を守り続けた。
かろうじて文献のみその名をとどめるか、あるいは、末社で密かに生きつづけるのにすぎない。
神社や寺院にはアラハバキの名こそ消えてしまったが弥生文化といえば稲作と同時に製鉄の始まりであるからアラハバキ神は製鉄とも密接な関係があることを無視できない、草鞋、鉄製下駄を供えたり、目の神様になっていたり、習俗から見て元の神が変容していることを示す、例が数多く発見できる。
それから、多くの本殿や本堂ではなく、末社・摂社に追いやられているので注意したい
※稲作は弥生から・・・という歴史はもう古いです。縄文時代に日本では始まっていたようです。昔は5千年前と言われていて中国が6千年前といわれていたのですが、今は日本の方が中国より古く7千年前と言われているそうです。記事にしようと思っていますが忙しくて・・・
あらはばき神社はどんなところに見られるでしょう。
【青森県】 津軽地方は平安になるまで中央の大和朝廷の勢力が及びませんでしたから、かなり残っているはずですが、あまり発見されていない。
青森市松森=麁脛縢明神社(あらはばきみょうじんしゃ) 現在:松森神社(松森明神)
五所川原市=中山山地の中山修験の霊場・・・かつては古修験の聖地、仏教による変化とともに名前は消えたが、恐山のイタコの信仰とともに最も古い信仰であり、アラハバキと推測
津軽の荒磯神社・洗磯神社・磯崎神社はかつて荒脛巾神社であった。 洗磯崎神社
【宮城県】 私の記事にある岩出山の荒脛社・多賀城の荒脛巾神社
【秋田県】 雄勝郡大沢村上法寺山・・・阿良波々岐権現社・荒羽祇神社/仙北郡美郷町 客殿神社/横手市 金峰神社(アラハバキ)/横手市
【岩手県】 「丹内山神社」/花巻東和町
【山形県】 古修験の信仰から出羽三山も可能性がある
【福島県】 会津若松市湊町赤井・・・荒脛巾神社
あらはばき神社/会津若松・平沢
田村郡三春町・・・・・・田村大元神社
【千葉県】 市原郡姉ヶ崎町の式内社・姉崎神社・末社に新波々木社がある
船橋市・・大神宮、古くは音富比(オオヒ=大火か?)神宮と呼ばれていた。その社家は最近まで木更津の富の家筋で、九十九代の系譜があるという。富氏との関係があるという。
【神奈川】 横浜市戸塚区公田町に通称「アラハバキ」と呼ばれる地名があり、高さ80センチほどの石の祠は「アラハバキさま」という。
厚木市小野の式内社・小野神社末社に阿羅破婆枳神社がある。かつては本殿にあったもの。
【埼玉県】 かなり多くありますので割愛します。氷川神社が沢山あります。その末社が荒脛巾神社又は荒脛社・荒脛巾明神といわれています。 隠されたアラハバキ神の謎 2/川越氷川神社 隠されたアラハバキ神の謎/氷川神社編
【東京都】 江戸城に荒脛巾祠堂があり、大田道観が城神として信仰、のち大元明神に改称している。
五日市町養沢の門客人明神社「新編武蔵風土記稿」にアラハバキ」と片仮名で訓みをつけている。
秋川市二宮・・二宮神社末社は、荒脛社である
などなど。。。
【山梨県】 上都留郡下和井村の百歳山春日神社には地蔵尊の立像アラハバキ二体がある。
【静岡県】 伊豆の三島大社はかつて荒脛社だった。
【愛知県】 宝飯郡一宮町の式内社・砥鹿神社(とがじんじゃ)はかつて4キロほど北にある本宮山(刀鹿の峰)の頂上にあった。現在奥宮として残っておりその摂社が荒羽々気神社がある。
【新潟県】 越後の一宮といえば弥彦神社、その記録によれば神社の一角に「アラハバキ門」がある。
【京都府】 丹後の籠神社の祭神が大元尊神である。
【広島県】 安芸の宮島で知られる厳島神社の地主神は、土地では「おおもとさま」と呼んでいる。
【鳥取県】 東伯町保に大元神社(八幡さま)がある。(神社名鑑)
【島根県】 出雲大社の境内末社に門神社二社があり、出雲大社資料館の彰古館には寛政8年(1668)作成の古社図が展示してあり、門客人社と記載されている。
これは、多賀城の荒脛巾神社の記事の中で門客人の説明をしています。
八束郡千酌の爾佐神社の境外社・荒神社は、通称「お客さん」とか「まろとさん」と言われ、「アラハバキさん」と呼ばれていました。これも多賀城の荒脛巾神社で説明しています。
太田市大森町(旧、邇摩郡大森町字佐摩)の城上神社境内社が大元神社である。 (神社名鑑)
太田市祖式町(旧、邑智郡祖式村祖式)の八幡宮境内社が大元神社である。(神社名鑑)
那珂郡弥栄村木郡賀(旧、杵束村木都賀)の八幡宮境内社が大元神社である。(神社名鑑)
など他に11社ある。
【岡山県】 新見市石蟹に大本神社がある。(神社名鑑)
【愛媛県】 八幡市浜若山に大元神社がある。 (神社名鑑)
北宇和郡広見町内深田に大本神社がある(神社名鑑)
【高知県】 安芸市赤野に大元神社(旧、大本社・大本明神で大元神を祀っていた) (神社名鑑)
【壱岐】 壱岐郡郷ノ浦町渡良の物部布都神社は社記には阿良波加大明神とある。(壱岐国誌)
ここには、氏神のアラハカ様に入って漂着したという物部氏の降臨伝承がある。
【大分県】宇佐市の宇佐八幡の奥宮は大元山(御許山)の頂上にあり、大元神社という。
大元神楽舞・大元神楽式の神事がある神社
大元神楽は石見神楽とも言われる。
出雲の佐陀大社(島根県ハ束郡鹿島町)の神楽をその中心として、出雲全部にあまねく普及し山陰、山陽方面のも広く分布するようになった。
【島根県】
江津市の高倉山八幡宮 (神社名鑑)
邑智郡石見町の賀茂神社(神社名鑑)
邑智郡石見町の大原神社(神社名鑑)
邑智郡石見町の諏訪神社(神社名鑑)
邑智郡桜江町の八幡宮=郡鳩八幡宮(神社名鑑)
邑智郡川本町の三原八幡宮(神社名鑑)
邑智郡瑞穂町の八幡神社(神社名鑑)
那珂郡旭町の市木神社=旧、馬場八幡(神社名鑑)
邇摩郡温泉津町の八幡宮(神社名鑑)
地名・寺院に残るアラハバキ
「和名妙」にはアラハバキの元の発音に近いと思われる、「アラハカ」の郷名が出ている。
武蔵国豊島郡荒墓郷
越前国坂井郡荒都泊郷
常陸国那珂郡荒墓郷
難波四天王の旧地名は荒墓邑といい、四天王の山号は現在でも「荒陵山」(訓読みするとアラハカ)である。
鳥羽市小浜町区内の二見ケ浦沖合にある「飛島」は古くは「阿波良岐島」「淡良岐島」といっていた。
この他にも、アラビア語との関係や日本文化のルーツについて書きたいのですが、長くなりましたので、またいずれ・・この辺でひとまず区切りとします。
最後に、神代文字を紹介します。
秋田物部氏「物部秘史」が未公開のまま、秋田県協和町、唐松神社:名誉宮司物部長照氏に代々伝えられてきたが昭和五十八年に公刊された。
「天津祝詞」の中に「物部文字」が記されていますが、この文字は「アヒルクサ文字」といわれる字体で春日文字とか琉球神道史の中の十二支などにもこの文字の流れを見ることができるそうです。
アヒルクサ文字というのは、伊勢神宮や出雲大社などの由緒ある神社あるいわ旧家に古くから伝わる神代文字の一つのことだが、九州の阿比留家に伝わる文字の草書体と考えられたことから、江戸時代の国学者・平田篤胤らによって「アヒル草文字」と命名された。
本来はアヒル文字とは別個に紀元前に発注した文字で、最近は甲骨文字の草書体ではないかという説もある。
1話~7話までありましたが、この1ページにまとめました。
「記紀」とは、古事記、日本書紀のことですが、当然私は素人であり考古学者でもなければ歴史学者でもありません。
そもそも、私が「アラハバキ」に興味を持ったのは20年も前のことです。
友人から「中央政権(朝廷)が東北を支配するまでは全部アラハバキと言う神様を信仰していたらしいぞ!」と聞いてからでした。 それが真実かどうか気になっていたのです。
たまたま、身近にそのアラハバキ神社がありました。
以前記事にした多賀城国府の近くにあるアラハバキ神社と先日の宮城県大崎市岩出山にあるアラハバキ神社です。
その謎を知りたくて本が無いかと探しましたら一冊の本と巡り合えました。
それが「記紀解体・アラハバキ神と古代史の現像」彩流社 ¥1800 近江雅和著です。
最近もう一冊求めましたが、まだ目を通していませんので、この本を中心に引用して記したいと思います。
アラハバキに行く前に普段使わない言葉や名前、神様や天皇、古氏族の家系が出て来ます。
そんなわけで、順序立てて書きたいと思います。それでも分けがわからなくなるかも知りませんが?
これは、私の資料として記した物ですので興味の無い方はパスしてください。
でも日本人のルーツについて興味のある方は読んで見て下さい。長くなりますが
前書きにこんなことが書いてありました。
日本の正史とされてきた記紀の古代記述では、どうしても「人」の歴史としては考えられないことが分かった。
真実を語る古代からの貴重な伝承や記録は記紀の編纂と同時に全て抹殺されてしまい何も残っていない。
また、建国記念日についてもこんなことが…
独立国として建国記念日がないのは格好がつかないということで決めたのが、こともあろうが否定したはずの神話にある「記紀」の神武即位の日であった。
こんな矛盾した子供だましのことで誰が納得するのだろうか?
滑稽を通り越して情けなくなってくる。
それでは、神武即位の何が変なのでしょう?
「記紀」では゛皇紀元年゛つまり初代天皇の即位の年がBC660年です。
この時代は縄文時代で古学的にも文化的裏付けを証明するものは認められないようです。
しかも、神武から仁徳にいたるまで百歳を越える天皇が十一人もいるのです。
誰が見ても不自然な話しです。
これは、「讖緯説(しんいせつ)」といって易学思想で一蔀(いちぼう)ごとの辛酉(しんゆう:かのととり)の年に天下を揺るがす、国家的な大変革が起こるというものです。
※一蔀とは
干支60年で一巡=これを「一元」又は「一運」
その21倍を「一蔀」といいます。
つまり「一蔀」=1260年です。
そこで、推古天皇9年(601年)辛酉から一蔀さかのぼって辛酉の年を神武元年としたのです。ですから辻褄が合わなくなって100歳を越える天皇ができたのです。
図表1
統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国、男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくいのです。
だいたい、この時代は古墳時代で各地に豪族がいた分けですから素人の私でも容易に想像がつきます。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり、卑弥呼は神功皇后のことであると言わんばかりの引用でありながら、その真偽については一切口をつぐんでいるのです。
神功皇后をヒミコとするには干支二運(120年)を引き上げなければならなかったために前期した讖緯説の「一蔀」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われます。
また、「神功皇后紀」が真実であるかのようにまたは作成するために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、勝手にその年代を繰り上げて使用するという暴挙までしている。
国外の歴史まで工作し悪質な編纂ですね。
下の表を比べて見れば一目瞭然ですよ。
「三国史記」 「日本書紀」
●375 百済・近肖古王没 ◎255 肖古王没
●384 百済・近仇首王没、枕流王即位 ◎264 貴須(仇首)王没、枕流王即位
●391 百済・泰和四年銘刀を倭王に贈る ◎252 百済王七支刀を神功皇后に贈る
●392 百済・辰斯王没、阿莘王即位 ◎272 辰斯王を殺し、阿花王即位
●402 新羅・未斯欣を人質にする ◎200 新羅の微叱己知波珍千岐を人質とする
●403 新羅・倭の使者を厚遇する ◎250 使者の千熊長彦ら百済から帰る
●405 新羅・倭兵、明活城を攻める ◎205 人質の微叱許智伐早を新羅に返す
●405 百済・阿莘王没、腆支王即位 ◎277 直支王の記事
●420 百済・腆支王没、久爾辛王即位 ◎294 直支王没、久爾辛王即位
同じ歴史なのに、年代をこんなに誤魔化している。
歴史は常に勝者によって作られ、都合の良いように改変され、また、たまたま世に出ても偽書扱いされてしまうのが常ですね。
史実に迫ろうとする時は、勝者と敗者の記録を照合し矛盾点を掘り下げていくべきでしょう。
日本の古代と同時代にできた中国の史書には邪馬台国や女王卑弥呼のことが出てきますが「記紀」とは全く噛み合わない、しかも多くの矛盾や疑問がある。
弥生と聞くと縄文よりは生活が良くなりますがイメージ的には原始生活を想像してしまいませんか?
しかし、隣りの中国では、弥生よりもはるか以前に黄河文明があり文字も使われていたというのに、考古学で言う弥生文明とでは、その落差があまりにも違い過ぎないでしょうか?
日本にももっと高度なものがあってもいいのでは?と考えますが当時の精神文化を考古学では伺い知ることができないのですね。
日本の古代史を解明するには、中国、朝鮮、インドを視野に考えがちですがそれだけではまだまだ足りないく、もっと広く人類の発生から世界史の流れを踏まえて考察でするべきでしょう。
昭和の初めにこんな説があったそうです。
日本の古代文化がメソポタミアのシュメールにあるのではないか?
紀元前1600年シュメール帝国の消滅によって宗教用語以外が死後化したはずのシュメール語で「古事記」が読めるという説である。
しかし、古事記がシュメール語で読めるなら、未だに意味不明な言語がある「万葉集」も読めなければならないはずなので、チョット疑問をいだく。
日本書紀
「日本書紀」「古事記」は6世紀頃成立したと言われています。
「帝紀」や「旧辞」があったらしいが現存していません。
これについては日本書紀の文中に「帝王本紀」の名があげられています。
編纂
天武天皇十年(681)に川島皇子、忍壁皇子らが「帝紀及び上古諸事」の作定事業から始まりそれ以来「帝紀」「旧辞」を軸として諸種の資料を幅広く集めて編集作業を進めた。
持統天皇5年(691)……10年後……
大三輪(おほみわ)・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・藤原・石川・巨勢(こせ)・膳部(かしはで)・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群(へぐり)・羽田・佐伯・采女・穂積・阿雲ら十八氏(一人不明?)に「墓記:おくつきのふみ」の提出が命ぜられる。
これは、名門氏族の系譜や事蹟を材料とするための提出であった。
しかし、日本書紀が朝廷に都合よく書き改められた後には、改ざんの事実を暴露されないために没収ないしは検閲だった疑いがあります。
また、百済関係の資料として神功皇后紀・応神紀・雄略紀には「百済記」
雄略紀・武烈記には「百済新撰」
継体・欽明紀には「百済本記」がそれぞれ引用され、また本文にも利用されています。
和銅年間(708~714)に「風土記」の編纂提出を命じられたが完本として残るのが「出雲風土記」のみと考えらる。
完本に近いものが播磨・肥前・豊後・常陸だけしかなく、しかも古代豪族とゆかりの深い国の風土記は、申し合わせたように姿を消している。
古事記も基本的には、日本書紀と共通した内容になっていることから、同じ資料によって編纂されたのがわかります。
違うのは「日本書紀」が漢文体で書かれているのに対して「古事記」が古体の日本語て書かれているのです。
これは、「記紀」編纂時に大陸からの帰化人が続々と渡来しており、今日言われる「日本語の乱れ」のような状態にあったのでしょう。
その為に古事記は日本語のテキストの役目に作ったのだという説もあります。
日本書紀の編纂は藤原不比等が中心となってやったが天皇家藤原家による支配体制の確立を目的として偽作をしたようだ。
古代において家柄・氏(うじ)が絶対であったが、藤原の前身である中臣は、中流の家柄だった。
権力を持つためには天皇家を利用する…
それが最大の手段であり蘇我・物部・尾張氏を見てもはっきりしている。
天皇家にあってもその出自や王朝の一系については、語りたくない事情があり支配体制の強化の為にも偽作の線は藤原家と利害が一致したわけです。
そもそも、藤原というのは中国系の渡来人だとされています。
統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくい。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり卑弥呼は神功皇后のことであるといわんばかりの引用でありながらその真意についてはいっさい口をつぐんでいる。
神功皇后をヒミコとするには干支二通(120年)を引き上げなければならなかったために前記しましたが、讖緯説の「一部」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われる。
また、「神功皇后記」を作るために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、これもあろうに勝手にその年代を繰り上げてしようするという暴挙までしている。
これは、先ほど比較した通りです。
※神功皇后
第14代・仲哀天皇の皇后、仲哀天皇はあるとき、皇后の神功(じんぐう)に「西海の宝の国(新羅国)を授ける」という住吉大神の神託が下がったが、仲哀はこれを信じず、神の怒りに触れて急死した。
その後、再び神功に、「胎中(はらのうち)の皇子(みこ)【応神天皇】に新羅を授ける」という神託が下った。
そこで神功は男装して渡海し、新羅を服属させると共に、高句麗、百済にも朝貢を誓わせ帰国した。
朝鮮半島における日本領(内宮家屯倉・うちつみやけ)はこの時に誕生したとされるが、仲哀・神功ともに非実在との有力な説があり、神功による三韓征伐は創作の可能性が高い。
歴代天皇FILE(学習研究社)著者:不二龍彦 ¥476 から
※渡来人=帰化人
古代に日本に渡来し住みついた人々
4世紀後半から大和朝廷が南朝鮮に進出すると捕虜や人質として技術者や知識人が渡来し、漢字をはじめ学問・芸術・宗教や統治技術・産業技術を伝えた。
7世紀後半には百済・高句麗・の滅亡で渡来人が増加し、律令国家の形成に寄与。
漢(あや)氏・秦(はた)氏が有名。
●漢氏(あやうじ)
秦氏(はたうじ)と並ぶ古来渡来人系の氏族。
漢の王室の子孫、阿知使主(あちのおみ)が応神の時渡来したという伝説があるが朝鮮半島の楽浪郡の漢人の子孫が5世紀初め頃渡来したものらしい。
大和にいたもの東漢(やまとのあや)氏、河内にいたものを西漢(かちのあや)氏といい、直(あたい)の姓(かばね)をもつ。
工芸、文筆などで朝廷に仕えて、蘇我氏の下で活躍。
天武朝に連(むらじ)、次いで忌寸(いみき)となった。
7世紀頃から坂上(さかのうえ)、文(あや)などの多数の氏に分かれた。
●秦氏(はたうじ)
漢氏(あやうじ)と並ぶ古代の有力な渡来人系氏族。
応神天皇の世に秦(しん)の始皇帝の子孫と称する弓月君(ゆづきのきみ)が帰化したと伝える。楽浪郡(らくろう)滅亡後南朝鮮にいた中国人が5世紀初めごろ渡来したものであろう。機織り技術を伝えたらしく、各地の秦部の統率者として朝廷に仕え財政事務にもあずかった。
今の淀川中流から上流の盆地を中心に繁栄し天武天皇の時に造(みやつこ)から連(むらじ)姓、さらに忌寸(いみき)・宿禰(すくね)姓を賜った。
※三国史記
朝鮮三国 (新羅・しらぎ)・(高句麗・こうくり)・(百済・くだら)時代の史書で古代朝鮮における現存最古の正史
全50巻あり、新羅12巻・高句麗10巻・百済6巻・年表3巻・雑志9巻・列伝10巻
※魏志倭人伝
中国の正史「三国志」のうちの「魏書」巻30の中にある一伝
「東夷伝」中に倭人の記録があり通称これを「倭人伝」と呼ぶ3世紀の日本を記した重要な史料。
アラハバキ神と謎の古代史 「記紀」2 アマテラスとオオモノヌシ
「天孫」で辞典を引くと、〔天つ神の子孫。特に天照大神の孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)〕となっている。
天孫族の祖神がアマテラスであるなら、最初から「皇祖アマテラス」であってよいはずなのに記紀ではこのように書いてある。
「古事記」ではアマテラスはイザナギが黄泉国(よもつくに)から帰って禊(みそぎ)をした際、左の目を洗った時に出現している。
「日本書紀」では、イザナギ・イザナミが相談して大日孁貴(おおひるめのむち)を生んだとある。
「日孁」とは、日の神を祀る女という意味です。
また、本文中にはオオヒルメノムチは「光うるわしく六谷(くに)の内に照りとおる」とし「ひととなりうるわしく天地に照らし臨ましむ」とあるから太陽神の性格が濃厚です。
「古事記」でも、アマテラスが天の岩屋にこもったので国中が真暗になったと太陽神の性格を述べている。
「日本書紀」では崇神天皇が宮廷に祀っていたアマテラスと倭大国魂の神を宮廷外に祀ることにした。
次の垂仁天皇(すいにん)はアマテラスを豊鍬入姫に祀らせていたが、姫がノイローゼになったので倭姫に代えた。
次の景行天皇(けいこう)は五百野皇女(いほのの)に祀らせる。
神功皇后に憑りついた神は「日本書紀」ではアマテラスの名を撞賢木巌之御魂天疎向津媛となっている。
宮廷や伊勢神宮に受け継がれている祭りの様式を見るとアマテラスが皇祖神として登場するのは、わずかに祈年祭(としごいのまつり)と月次祭(つきなみのまつり)の祝辞に数々の神の名の後に「伊勢にいます神」という名で出ているだけでとても皇祖神という扱いにはなっていない。
となれば、本当の皇祖は他にいるのではと思うのが筋!
「記紀」は明らかにすることができない天皇家の出自の秘密を隠蔽するために、敢えてアマテラスを皇祖に仕立てて日本統治の正当性を「記紀」で表したかったのではないだろうか?
「延喜式」によれば、大嘗祭の斎場の神々の中心は
「タカミムスビノ神」(高皇産霊神)なのです。
この神こそ本来の祖神としての扱いになっていることに注目したい。
倭大国魂神はとは実はニギハヤヒのことであり、またオオモノヌシでもあったが、「記紀」ではこの三神を全く別神であるかのようにして真相をかくしてしまった。
祖先の神なら宮廷の近くに祀るのが当然なのにどうして宮廷外に出さなくてはならないのか?
そして、伊勢に落ち着くまで60年間も転々とすること23回にわたり旅を続けている。
場所は省略します。
表向きは居心地が悪いという理由ですが、どうも事実は違うようです。
「日本書紀」や「皇太神宮儀式帳」に安倍武淳川別(あべたけぬなかわわけ)・和珥彦国葦(わにひこくにぶく)・中臣大鹿島(なかとみおおかしま)・物部十千根(もののべといちね)・大伴武日(おおともたけひ)の五人の名門の豪族の長が部下を引き連れて同行していることから、武力平定のための政治的な移動だと考えられる。
大和の大王だったニギハヤヒ(オオモノヌシ)
記紀には、神武の大和突入時の在地の豪族ニギハヤヒとナガスネヒコの連合軍とのやりとりをしたことが出ている。
【日本書紀】
ナガスネヒコは使いを出し神武にいった。
「これより先、「天つ神の子があり、天磐船(あめのいわふね)で天降ってきた。
クシタマニギハヤヒといい自分の妹のミカシキヤヒメ(又、ナガスネヒメ、トミヤビネ)を妃としてウマシマジをもうけた。
自分はニギハヤヒに仕えた。
天つ神の子が二人いるはずはない。
それなのに今また、天つ神の子と称して侵入してくるのは偽者であろう」
神武は、「天つ神の子は多い。お前が仕えるニギハヤヒが本物であれば、必ず表(しるし)となるものを持っているはずだ。それを見せろ」といった。
そこでナガスネヒコはニギハヤヒの天羽々矢(あまつははや)一つと歩馭(かちゆき)を取り出して見せた。
「偽りでない」と認め、自分の天羽々矢と歩馭を持ち出して見せた。
ナガスネヒコはそれを見てかしこまったがすでに戦闘準備は整い侵入軍撃退の気勢をおさえがたい状態だった。
ナガスネヒコに反攻翻意の様子がないのを見てとったニギハヤヒは、ナガスネヒコを殺して、衆を率いて帰順した。神武はニギハヤヒが天から降(くだ)ってきたということを聞いた。
そして、天孫神武の正当なことを認めて帰順したのを褒めて優遇した。
これが物部氏の遠祖である。
※帰順=反逆の心を改めて、服従すること。
【まとめ】
お互いを疑っている。ともに天つ神の子と称して同族だったことを暗示している。
天つ神の子はたくさんいる。
天羽々矢と歩馭はどのようなものかは、別として、これを所有しているものは、同一文化系又は、同族を表している。
ニギハヤヒが物部氏の遠祖である。
古事記の同じくだりは割愛しますが、ニギハヤヒが神宝を献上したとある。
これは、天孫族間では神宝献上はありえないので、別種別だといわんばかりの扱いである。
「旧事記」(先代旧事本紀)に不満を持つ物部氏が作為的に編纂したものされたり、斎部広成が編纂した「古語拾遺」とともに評判がよくない。
先代旧事本紀は、日本書紀の引用や天皇諡号を用いていることなどから後世の偽だとされ無視されてきたが、九世紀後半に成立したことは確かでなんの根拠もなく捏造されたものではなく古く飛鳥時代頃にあった物部氏の伝承を基礎にして物部氏の主張を訴える目的で八世紀後半に物部氏の手によって「記紀」や「古語拾遺」などを引用して書いたものと思われる。
他の史書には、見られない独自の伝承があるので、むしろ「日本書紀」は物部氏の持つ古伝承を材料にしたという論もあるくらいである。
日本の古代史を見る上でも再検討されるべきである。
とこの本の著者が言っている、偽書扱いされるものもあるが角度を変えると新しいものが発見されることもあるので、今後の研究にも期待したい・・・
私がもっと若ければと思うが・・・小学校からやり直ししなければ到底追いつかないでしょう。www
ブロ友の「維真尽さん」のお国「出雲」の出雲風土記はまだ勉強していないので、これから本を探して読みたいと思います。
まだ、この記事は続きますが、物部氏がニギハヤヒの始祖となれば、出雲についても非常に気になります。
ここで出てきたニギハヤヒですが・・・
饒速日命(にぎはやひのみこと)=大物主神(おおものぬし)=大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主命=事代主(ことしろぬし)
呼び名は異なりますが、全部同一神だとも言われています。
アラハバキ神と謎の古代史「記紀」3 出雲系トミ氏
「記紀解体・アラハバキ神と古代史の現像」彩流社 ¥1800 近江雅和著
この記事は、この本の中から引用しています。
伊勢神宮の謎に入る前に出雲系の直系にあたるトミ氏の子孫が現代に伝承を残していたという、面白い記事があった。
まず、出雲族とは・・・・辞典では、天孫族の「天のホヒ」を祖とする出雲国造(他国は、「みやつこ」ですが出雲では、「こくそう」といいます。)や出雲臣の一族を指すのが通説になっているが、ホヒが出雲に入る前から、そこには原出雲族がいたはずです。
そこで純粋の出雲族といえるものを出雲系又は、トミ氏と呼ぶことにしてこの先進めます。 この本では、ホヒ一族を出雲族と呼ぶのはおかしいとしています。
縄文の晩期から弥生の初期に大陸回りで、または南からは海路で日本列島に渡来して来たのが弥生文化の起こりとなった。
その中の一団がトミ氏一族です。
その後、少し遅れて朝鮮半島経由で出雲に渡来したのがスサノオ族であり、南九州に上陸したのがニニギのいわゆる天孫族です。
この九州勢力の天孫族が出雲侵入の先遣隊として、一足早く出雲入りしたのが
ホヒ族だったのです。
この神話が史実かどうかはわかりませんが時代が下がってからの出来事を反映しているかもしれない。
出雲系の直系・トミ氏
十数年前のこと、ある女性週刊誌にこんな記事が紹介された。
「四000年のタイムトンネルに生きる男」と題して、元サンケイ新聞社編集局次長・富當雄氏のことを紹介した記事があったそうです。
「出雲王朝四千年の歴史を継ぐ、大国主命直系の子孫で、しかも古代王朝の史実を先祖から代々口伝えに伝承してきた・・・・」という内容です。
十六歳の時、十二月の下旬の夜、祖神を祀る出雲井神社の神前ではじめて養父から伝えられ、この夜から十年間にわたって、連続反復して養父から聞かされ、「この伝承は子に伝えるまで、たとえ兄弟たりとも他言無用、命にかけて、これを守れ!」という厳しいものであったそうです。
富當雄氏は内容に関しての会見や発表をしない。 富氏の持つ伝承は出雲のことだけではなく、古代史の謎を解く貴重なカギを提供してくれる。長い口誦のうちには、細かいところでは多少誤っているところはあるかも知れない。
これまで正史とされてきた「記紀」と大きく食い違う資料には、真実が隠されていることをこの本の著者は何度も確かめてきたという。
真実の暴露を恐れる故に、体制側は正史以外の書を偽書と決め付けて抹殺し続けてきたのである。
富氏の伝承には正史が曲筆した真実を数多く含んでおり、その伝承を真実としなければ説明のつかないことが余にも多いのです。
いかなる事情があって富氏の心を動かしたのかわからないが、吉田大洋氏の質問に答えるという形式で七時間余にわたって話しを聞くことができたという(謎の出雲帝国」徳間書店)←この本気になりますね 吉田氏が話を聞いたのは、昭和53年富氏は67歳だったそうです。生きていれば98歳ですから・・・微妙
富氏の語る系譜の一端を見て見ると「トミ」の付く名前が多いに気が付く
「トミ氏」「トミ族」と呼ばれる意味がわかる。
富氏の伝承による原出雲系の系譜
※「出雲秘文」「九鬼文書」ではオオクニヌシの父をサオトミとしている。
吉田大洋著 (謎の出雲帝国」より
この系図の中でオオクニシの子に「ホアカリ」がありますが、後日書きますが度会氏(わたらい)や海部氏・尾張氏の祖先にあたります。
つまりこの氏族たちは、元は一緒なのです。
この尾張氏や海部しの系図の中にヒミコ(ヒメコ)がいるのです。
つまりヒミコの祖先はオオクニヌシと繋がります。
また、イセツヒコの名前がありますが、これは伊勢に地に住んでいたのがイセツヒコです。この話は後程・・・
それでは、富氏の話に戻ります。
「この世が一夜にして氷の山になった。大先祖であるクナトノ神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え、海沿いに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。
これは、今から4000年も前のことである。我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。」と、紀元前2000年の出来事をいっている。
この文から人類の第二次拡散の故地すなわち出発点か途中の滞在地の記憶を指しているものと思います。
さらに富氏は、「東北の山や湖に関する伝承が多い。ベーリング海を渡り、北海道、東北、そして出雲へとやって来たのだろう」ともいう。
だが、この部分だけとって、原出雲は北方民族だとするのは誤りである。太古の蛇龍信仰はエジプト、シュメール、ドラヴィダ、中国の夏人にもあった。
シュメール人とドラヴィダ人はアーリア人に追われて、また南アラビア人も東方や南方に拡散している。富氏も「我々は蛇龍族だ」と断言しており、いまなお、出雲の祭神はウミヘビを捕って供えることから始まる。
東北を経由したとなれば「先代旧事本紀大成経」の「かつて長髄彦が若かりし頃、仙台で土民に製塩の法を教えた」という下りと鹽竃神社の祭神をナガスネヒコとする「大成経」の主張がにわかに真実味を帯びてくる。
正史に副わない数多の伝承を含む「大成経」が江戸時代になって偽作と断定されたうえ発禁の処分を受けたのは余にも真実を書きすぎたために体制側に抹殺されたのでしょう。
このように偽作扱いされ史料価値が無いというのはおかしな現象かもしれませんね。
いわゆる「出雲の国造り」に反対して抵抗したタケミナカタトミは、天孫族のタケミカヅチに追いかけられたすえ諏訪で降伏し、一歩も外へ出ないと誓った・・・というのが「記紀」の神話だが、富氏の伝承にはタケミカヅチなど登場しない。
タケミナカタは北陸路を北に向かい越後に入り、姫川を上って千国街道(別名糸魚川街道、松本街道とも)から信濃に入った、地元、諏訪の伝承も「記紀」と全く違う。
諏訪の先住民である守屋一族は出雲族の侵略だといっている。
「諏訪大明神絵詞」では守屋氏とタケミナカタとの戦いの様子を語っており結果はタケミナカタの勝ちであったが、タケミナカタ系は大祝(おおはふり)という象徴的な地位に祭りあげられて諏訪神社の祭祀の実権は守屋氏が握っていた。
・・・・この後も続きますが・・・・割愛させていただきます。
アラハバキ神と謎の古代史「記紀」4 ヒミコ
尾張氏の系図はホアカリを先祖にしており、「魏志倭人伝」に出てくるヒミコと男弟と思われる名前があり合致する。
この系図は、大田亮氏著の「姓氏家系大辞典」にも載っており、信頼度が高いがそのまま真実とするのもためらうとしている。
ところが、海部氏の系図が尾張氏の系図を裏付ける第一級の資料であることがわかった。
これは、最近のことですが、昭和五十一年に日本最古の系図として国宝に指定されています。
「ヒミコ」とは「ヒメミコ」の意味であり、系図の中では「日女」や「日女命」と記されています。
海部氏系図は、京都府宮津市の天の橋立の付け根にある古社で丹後国一ノ宮、籠神社(このじんじゃ)に秘蔵されてきた門外不出の秘書だった。
籠神社は「延喜式」の「神名帳」に名神大社として記載されている。
徳川光圀が「大日本史」を編纂した話は有名ですが、その時家臣を丹後につかわして海部氏に残る古系図を調べさせたところ、神宝ゆえに断られたことが出ているといいます。
「旧事記」は物部氏が作った、物部氏も尾張氏もホアカリ(天火明)を祖としている。
尾張氏の系図には一部落としているところがありますが割愛します、不注意で落としたのではなく王権によって落とすことを命ぜられたようです。
「魏志倭人伝」によると紀元170年から180年にかけて倭国に動乱がおきてなかなか治まらなかった。
男王がいたが代わってヒミコという幼女を立てて女王にした。
ヒミコは鬼道に通じ、男弟が政務を補佐していた。
その後ふたたび倭国の大乱があってヒミコの死後は宗女のトヨが女王になったと記している。
尾張氏系図と海部氏系図では第十代の日女命と、兄弟の「弟彦」がある。
それに海部氏系図によって弟彦の孫の「日女命」の又の名が小止与姫だということだから、この取り合わせ偶然の一致ではないでしょう。
次の問題は、魏志倭人伝のヒミコの活躍した時代とこの系図の時代が一致しないと話しにならないわけです。
魏志倭人伝では、紀元230年~240年がヒミコが活躍した時代です。
尾張氏の系図には第八代タテモロズミの妹であるオオアマ姫が崇神の妃になっている。
これを1話でUPした、天皇の修正実年代の表を見れば、崇神はちょうどヒミコが活躍した時代に相当することがわかります。
鉛筆で囲んでおきました。一話へ
尾張氏系図
海部氏系図 国宝指定
尾張氏は度々天皇の皇妃を出しているようだ、何らかの政治的連帯を図ったと思われます。
海部氏系図をみると二代目の日女命(コトヨ)の次の代であるタテイナタネの子の時代から海部氏と尾張氏にわかれたことがわかります。
「邪馬台国」を書くと、また長くなりますから、辞めます。
本も色々出てますし、問題は読み方からしっかりやらないとダメなようです。
中国の古文書を読むのは中国の学者でも難しいそうです。
漢字の意味が違ったり、句読点がついてませんから、点の位置を変えるだけで全く意味が変わるそうです。
中国政府が学者を集め「三国志」に標点を施しましたが、日本で定本扱いの岩波文庫の「魏志倭人伝」でも句読点の打ち方が百ケ所近くも違いがあったそうです。
たかが二千文字の本ですが、現代人では、その意味すらも大体しかわかっていない状況です。
本当の邪馬台国を知るには、この本を知ることからではないでしょうか。
また、魏志倭人伝にはヒミコが死んで「径百歩の大きな塚を造った」ことが記されています。
つまり古墳です。しかし、大きい古墳はすべて皇室の陵墓参考地に指定され、全く調査が出来ないようです。
これでは、古代史・考古学の進歩はありませんね。
知らない方がいいとゆうことですかね?それとも知られては困る天皇の秘密でもあるのでしょうか・・・?
伊勢神宮に隠された秘密とは
退屈な記事が続いておりますm(_ _)m
もうここで止めるわけにも行きませんので、続行させていただきます。
コメントをいただけるのであれば世間話で結構ですよ。
庶民が「お伊勢参り」をするようになったのは鎌倉時代以後で江戸時代になるといっそう盛んになりますが、この辺は時代劇でも良く見かけるのではないでしょうか。
この頃には、神棚も祀られ家庭には神符も配られたようです。
なんだかんだ言っても我が家の神棚も天照皇大神宮です。もちろん大国主神・大年神・五穀豊饒・神主代事そして台所には奥津彦神御靴姫神が祀られて・・・いや紙が貼られています。
伊勢の地ですが、元々イセツ彦がいたところとされていますが、「記紀」には神武の大和入りの際に東方に放逐(ほうちく)されたという説話になっています。
※放逐=追いやられた
その後、古名である「磯」が示す磯部一族の海人系集団が引き続いて蟠踞していました。
※蟠踞(ばんきょ)=広大な土地を領し勢力を振う。
この一族は、一つの地方政治権力となるまでに次第に勢力を増してきており度会氏(わたらい)と磯部一族を服属させるための伊勢遷宮だったようです。
垂仁天皇二十六年、皇女倭姫命が各地を巡幸ののち伊勢の五十鈴川上にアマテラスを祀りました。
しかし、現在の宇治の地ではありません。
宇治に遷るのはもっとくだって文武天皇二年(698)…この記事は「続日本紀」にでています。
※この時点では「多気大神宮」=滝原宮のこと
度会一族の滝原宮は完全に王権に祀りとられて、皇祖神アマテラスが宇治に遷されたのです。
宇治の地には、磯部氏が奉祭する地主神、荒祭宮(あらまつりのみや)があり容易に入れなかったのです。
荒祭宮(あらまつりのみや)
現在、皇大神宮の内宮のすぐ後ろに「荒祭宮」という別宮扱いの社があります。
しかし、この存在を知らないで参拝する方の方が多いのかも知れません。
公式ホームページにも説明はありますが、一般の方は内宮と外宮にしか興味が無いようで見逃しがちでしょう。
古来アマテラスの荒魂だということになっていますが、内宮も別宮十社の中で、内宮神域にあるのは、荒祭宮だけなのです。
しかも、他の別宮とは異なり、神嘗(かんなめ)月次(つきなめ)のいわゆる神宮の三節祭には、幣帛(へいはく)が内宮とこの荒祭宮だけに奉納され1月4日と旧九月の神衣祭(かむみそのまつり)では内宮と荒祭宮だけに神服織殿(かむはたおりどの)で織った神衣を供えるなど内宮と同格の扱いを受けて他の別宮とは断然格式が異なっているのです。
※幣帛=神に奉献する物の総称
伊勢神宮のHP「荒祭宮」の説明公式ホームページです
抜粋: 荒祭宮は、内宮に所属する10別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、第一別宮として正宮につぐものです。
『延喜式』に「荒祭宮一座 大神の荒魂」とも見えます。
祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の奉幣の儀も、正宮にひきつづき、同日に勅使、大宮司、少宮司以下神職がただちに参向して幣帛がたてまつられます。又、神饌の種類や数量も正宮とほとんど同一のものが供せられます。
大祭中の大祭、式年遷宮も、古来より正宮に準じて執り行われています。
古来以来の大祭、神御衣祭を受けられるのは、内宮と荒祭宮のみでありますことからも、この宮の特別な神位がうかがわれます。
荒祭宮の位置は、現在の内宮が式年遷宮をする東西の殿地の中でも最初の殿地だったとされる西殿地の真北にあたり、あたかも内宮の古い本殿のような形をとっている。
鎌倉時代の「神宮雑例集」に引用されている「大同本紀」の文には「皇大神が鎮座のとき、度会氏の祖先の大幡主が最初に荒祭宮の地に大宮を造った」という伝承がある。
荒祭宮の神域内から白玉などの祭祀遺物が出土したこと。
これらのことから荒祭宮の祭神こそ古い内宮の地主神であったと述べている。
また、「荒祭宮の神に対する仕事が特に荒祭物忌と言って特別な専属の巫女が置かれている。
これは、古い土地の豪族であった磯部氏から出した」と述べている。
伊勢神宮(内宮)荒祭宮
(「古代王権の祭祀と神話」橘書房&「伊勢の大神の宮」堀書房 桜井勝之進著 &「日本の神々」中公新書 松前健氏著)
【倭人伝】
19日の地元新聞紙「河北新報」にも纏向遺跡から国内最大の建物跡が発掘されたことから、邪馬台国の所在地について、畿内説か九州説かが再燃しているとの記事が掲載されていた。
国内最初の「都市」との見方もある纏向遺跡だが、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳が存在するが、王にふさわしい大型の建物が跡が無いことが弱点とされている。
畿内説の研究者は卑弥呼の宮室(宮殿)の可能性が高いと興奮を隠せない。
一方、九州説の専門かも黙っていない、「土器の年代が実際より古く解釈されている。4世紀以降の建物で明らかのに時代が違う」としている。
私の記事にもチラッと書きましたが。卑弥呼が活躍した時代は230年~240年ですから3世紀ですね。
この論争永遠に続くのでは・・・?
歴史のロマンは推理小説のようで楽しいではありませんかww 俺だけか?
地主神とは
「神道集」の説話があるのですが、・・・・短縮・・・・カット
天武天皇の御代に伊勢の国、度会郡から荒人神として出現し上野の国群馬郡白井の地に神となって現れたのが児持大明神である・・・・・
~割愛~
伊勢神宮の荒垣の内におられのがそれである。
群馬県吾妻郡の後藤菊次郎著「子持山縁起」では、「荒人神」が「アラハバキ姫」となっており、また、終りの部分は「伊勢神宮のあらがきの内におはします。
すなわちあらはばき是なり」とアラハバキ神の名を明記しています。
つまり、荒祭宮が伊勢の地主神=アラハバキ神だという説話なのです。
二見にも一族の二見氏がおり興玉神社がある。その沖合(鳥羽市小浜町)に「飛島」という小島があり古くは「阿波良岐島・淡良岐島」と呼ばれ、アラハバキからきたものに違いないと思われます。 二見興玉神社
渡会氏の「神道五部書」でも内宮の殿地の地主神と興玉神だと記している。
つまり、アラハバキ神だったということです。
外宮の主祭神は豊受大神である
アメノミナカヌシ(天御中主)、クニノコトタチ(国常立)、ミケツ神の諸神はいずれもトヨウケノ大神の別名としている。
大自在天は梵語では、マケイシュヴァラ:Mahesvara(摩醯首婆羅)といい、世界の主宰神で特にシヴァ神のことを指しており、密教においては、大日如来の応現ともしている。
※応現=応化(おうげ、おうけとも)仏、菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿をかえて出現すること。
つまり、アメノミナカムシはシヴァ神だというのです。
大元とは、オオモト、すなわち始源の意味であり、外宮の神はまず初めに生まれた神である。
したがって万神に先がけて生まれた神こそ最高神である。
しかし、これは表向きであり「大元尊神」実体は「アラハバキ神」のことにほかならなず、ホアカリ系が渡来以前から最高の神としていたものを巧みにカムフラージュしたもであった。
伊勢神宮には、もう一つ「太一」という信仰がある。
太一を表に出した伊雑宮(いぞうのみや)の田植え祭は有名だが、その解釈はまちまちのようです。
伊雑宮は原出雲系のイサワトミを祀る神社であった。
内宮の別宮とされながらも、由来を抹殺された磯部氏の祀る伊雑宮
伊雑宮は「延喜式」の「神名帳」に「磯神社」とある。
「倭姫世紀」では、イサワトミがヤマト姫(倭姫)を迎えて志摩国の磯部の地に穀物の神として祀った由来を述べている。
しかし、割愛しますが微妙の表現であいまいに誤魔化されてしまっている。
太一というのは、中国の陰陽五行思想から名付けられ・・・・・
太一は最高の神であり、その居所は北極とされ、北極星の神霊化であり宇宙の大元であるとしている。
この中国思想は道教に反映して道教は古代インドの密教と習合して「大元帥明王」になった。
太一という隠れ蓑を着た最高神であるアラハバキ神のことであった。
アラハバキ神すなわち大元神を
取り入れたのは、渡会氏、磯部氏の一族だけではなかった。
「記紀」編纂によると欺瞞(ギマン)の歴史の押しつけという暴挙に対して古来の伝承や系譜を持つ有力氏族が反感を抱かないはずがない。
※欺瞞=真相が見えないようにだます。
ここから時代は遡ります。
古代インドにあったアラハバキはさらに遡れば南アラビアに根源がある。
南アラビアからインドに移動して来た、アーラヴィと呼ばれる一団が「その信仰を持っていた。
だが、アーリア族の侵攻で一土俗信仰となり、ついでインド仏教の雑蜜成立にともないヒンズー教その他の諸神とともに仏教の守護神という、いわば外道の神に位置付けられた。
それが中国には、インドから移動して来た、雑蜜系の僧によってアラハバキ神がもたらされ、さらに道教と習合して大元帥明王という呼び名に変身した。
その変化をいち早く知った渡会氏は、古代アラハバキを大元神という最高神に仕立て大和朝廷に抵抗を続けた。
古代アラハバキの信仰を持って渡来した古氏族も朝廷の暴挙に不満を持ちアラハバキ大元神に替えてギリギリの自己主張をしたのである。
籠神社の先代宮司海部穀定氏が生涯をかけた研究「神代並上代系譜略団記(深秘相伝)」巻頭には「天照大神は国常立尊すなわち大元神の所顕であらせられる」とアマテラスが人格神でないことと、国常立は大元すなわちアラハバキであるとことを明記してある。
この一連の海部氏の秘伝は「記紀」が明確に記すことを避けた神の素性に関わる疑惑に明快な回答を与えるとともに日本古代史の再考を促す超一級の証書であり資料である。
アラハバキの信仰は弥生時代のごく初期、あるいは縄文時代のごく終わりの頃に渡来したものである。
そしてその原点が南アラビヤのヤマン地方にあり、アラハバキの語源は最高の神の意味である。
古代アラビア語の「アラハバキ」からきている。
かつて、中山太郎氏は「アラハバキ神は天孫族が、我が国に渡来する以前に、先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」という鋭い指摘をしたが(日本民族学②大和書房)
それ以上の追求は出なかった。
私も以前そう思っていました、また
おそらくこの信仰を持っていたものを総称して表していた言葉なのでしょう。
アラハバキ族は和田氏が作ったウソでしたここに訂正します。詳しくは「偽書東日流外三郡誌」
時代が下れば、これも否定はできないと思います。
しかし、ここで述べているのはどこから発生したのかを追求していますので、もっと遡って考えましょう。
南アラビヤからインドへ
南アラビヤからインドに入って住み着いた一団は、その後アーリア系の侵入で森林広野に住んでいたので「アーラヴィ」(林住族)と呼ばれたことが、紀元三世紀のインド・マウリア王朝の宰相カウテリアの著書「実利論」に出てくる。
インドから中国へ
アラハキ神はシルクロード経由で雑密僧によって中国西北部の?奴に入った。
中国本土では三世紀の三国時代(220~280)西域の雑密僧によってアラハバキを含むプレ雑密僧文化が「呉」に入り江南を中心として中国全土に広がった。
8世紀の唐代(618~907)
密教教典の訳出が行われた。
この時代には、音写ではなく義訳による漢訳教典が続々と現れて、「元帥」「大元帥」の形になって行きました。
この漢訳教典は宮廷に設けられた内道場で、?命により秘訳されたということは、皇帝以外には行うことが許されない秘法であったことを物語る。
この時点でアラハバキ神の性格は護法神から国家鎮護の「大元帥明王法」として皇帝独占の秘法へと変わった。
(通常大元帥明王は「帥」の字を読まず「だいげんみょうおう」とよんでいる)
中国から日本へ
9世紀になると中国で漢訳された密教経典や道教と習合した大元帥明王法は遣唐使により日本へもたらされることになった。
小栗栖(オグルス)
承和4年(837)に請来(しょうらい)空海の奏上、仁寿元年(851)以降、朝廷では二つの密教秘法が毎年正月八日に行われた。
一つの「御七日後修法」(ごしちにちのみしほ)と呼ばれ天皇の玉体護持と国家安穏を祈る。
真言密教の秘密法で、もう一つが「大元帥御修法(だいげんのみしほ)」で怨敵、逆臣の調伏、国家安寧を祈る大法であった。
※古語辞典では=「大元帥の法」だいげんーのーほふ
陰暦正月八日から~十四日までの七日間、冶部省(じぶしょう)で国家鎮護のために大元帥明王と本尊として行った大法会(ほうえ)
【栄花】みはてぬゆめ
「大元帥の法といふことは、ただ公(おおやけ)のみぞ昔より行はせ給ひける」
〔訳〕大元元帥の法会ということはもっぱら朝廷だけが昔から行いなされていきた。
空海は真言密教の開祖であるが、梵語・ペルシャ語・アラビア語にも通じ、はるかインド、さらにはアラハバキの原点に指向していたのです。
古代信仰のアラハバキがインドから中国に入り大元明王に変身して皇帝独占の秘密法となったのを見逃すはずはなかった。
当時、仏教は国家仏教で庶民とは縁遠い宗教であったが、渡会氏が外宮を大元尊神とする教理を打ち立てたのと同様に、仏教に組み込まれて外道に落とされたアラハバキ神の本流への復活が狙いだったのでは無いだろうか。
政府間レベルの中国との遣唐使による国友の他に物部氏系や古代アラハバキ信仰を持って弥生初期に渡来した古氏族は、独自のルートをもって中国と交流があり道教と習合した「大元」を知っていたとしなければなるまい。
アラハバキと神社
弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も「記紀」の影響や仏教による変容で、すっかり影をひそめ江戸時代には、何神であるかは不明になってしまった。
わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために密かに今日までその伝統を守り続けた。
かろうじて文献のみその名をとどめるか、あるいは、末社で密かに生きつづけるのにすぎない。
神社や寺院にはアラハバキの名こそ消えてしまったが
それから、多くの本殿や本堂ではなく、末社・摂社に追いやられているので注意したい
※稲作は弥生から・・・という歴史はもう古いです。縄文時代に日本では始まっていたようです。昔は5千年前と言われていて中国が6千年前といわれていたのですが、今は日本の方が中国より古く7千年前と言われているそうです。記事にしようと思っていますが忙しくて・・・
あらはばき神社はどんなところに見られるでしょう。
【青森県】 津軽地方は平安になるまで中央の大和朝廷の勢力が及びませんでしたから、かなり残っているはずですが、あまり発見されていない。
青森市松森=麁脛縢明神社(あらはばきみょうじんしゃ) 現在:松森神社(松森明神)
五所川原市=中山山地の中山修験の霊場・・・かつては古修験の聖地、仏教による変化とともに名前は消えたが、恐山のイタコの信仰とともに最も古い信仰であり、アラハバキと推測
津軽の荒磯神社・洗磯神社・磯崎神社はかつて荒脛巾神社であった。 洗磯崎神社
【宮城県】 私の記事にある岩出山の荒脛社・多賀城の荒脛巾神社
【秋田県】 雄勝郡大沢村上法寺山・・・阿良波々岐権現社・荒羽祇神社/仙北郡美郷町 客殿神社/横手市 金峰神社(アラハバキ)/横手市
【岩手県】 「丹内山神社」/花巻東和町
【山形県】 古修験の信仰から出羽三山も可能性がある
【福島県】 会津若松市湊町赤井・・・荒脛巾神社
あらはばき神社/会津若松・平沢
田村郡三春町・・・・・・田村大元神社
【千葉県】 市原郡姉ヶ崎町の式内社・姉崎神社・末社に新波々木社がある
船橋市・・大神宮、古くは音富比(オオヒ=大火か?)神宮と呼ばれていた。その社家は最近まで木更津の富の家筋で、九十九代の系譜があるという。富氏との関係があるという。
【神奈川】 横浜市戸塚区公田町に通称「アラハバキ」と呼ばれる地名があり、高さ80センチほどの石の祠は「アラハバキさま」という。
厚木市小野の式内社・小野神社末社に阿羅破婆枳神社がある。かつては本殿にあったもの。
【埼玉県】 かなり多くありますので割愛します。氷川神社が沢山あります。その末社が荒脛巾神社又は荒脛社・荒脛巾明神といわれています。 隠されたアラハバキ神の謎 2/川越氷川神社 隠されたアラハバキ神の謎/氷川神社編
【東京都】 江戸城に荒脛巾祠堂があり、大田道観が城神として信仰、のち大元明神に改称している。
五日市町養沢の門客人明神社「新編武蔵風土記稿」にアラハバキ」と片仮名で訓みをつけている。
秋川市二宮・・二宮神社末社は、荒脛社である
などなど。。。
【山梨県】 上都留郡下和井村の百歳山春日神社には地蔵尊の立像アラハバキ二体がある。
【静岡県】 伊豆の三島大社はかつて荒脛社だった。
【愛知県】 宝飯郡一宮町の式内社・砥鹿神社(とがじんじゃ)はかつて4キロほど北にある本宮山(刀鹿の峰)の頂上にあった。現在奥宮として残っておりその摂社が荒羽々気神社がある。
【新潟県】 越後の一宮といえば弥彦神社、その記録によれば神社の一角に「アラハバキ門」がある。
【京都府】 丹後の籠神社の祭神が大元尊神である。
【広島県】 安芸の宮島で知られる厳島神社の地主神は、土地では「おおもとさま」と呼んでいる。
【鳥取県】 東伯町保に大元神社(八幡さま)がある。(神社名鑑)
【島根県】 出雲大社の境内末社に門神社二社があり、出雲大社資料館の彰古館には寛政8年(1668)作成の古社図が展示してあり、門客人社と記載されている。
これは、多賀城の荒脛巾神社の記事の中で門客人の説明をしています。
八束郡千酌の爾佐神社の境外社・荒神社は、通称「お客さん」とか「まろとさん」と言われ、「アラハバキさん」と呼ばれていました。これも多賀城の荒脛巾神社で説明しています。
太田市大森町(旧、邇摩郡大森町字佐摩)の城上神社境内社が大元神社である。 (神社名鑑)
太田市祖式町(旧、邑智郡祖式村祖式)の八幡宮境内社が大元神社である。(神社名鑑)
那珂郡弥栄村木郡賀(旧、杵束村木都賀)の八幡宮境内社が大元神社である。(神社名鑑)
など他に11社ある。
【岡山県】 新見市石蟹に大本神社がある。(神社名鑑)
【愛媛県】 八幡市浜若山に大元神社がある。 (神社名鑑)
北宇和郡広見町内深田に大本神社がある(神社名鑑)
【高知県】 安芸市赤野に大元神社(旧、大本社・大本明神で大元神を祀っていた) (神社名鑑)
【壱岐】 壱岐郡郷ノ浦町渡良の物部布都神社は社記には阿良波加大明神とある。(壱岐国誌)
ここには、氏神のアラハカ様に入って漂着したという物部氏の降臨伝承がある。
【大分県】宇佐市の宇佐八幡の奥宮は大元山(御許山)の頂上にあり、大元神社という。
大元神楽舞・大元神楽式の神事がある神社
大元神楽は石見神楽とも言われる。
出雲の佐陀大社(島根県ハ束郡鹿島町)の神楽をその中心として、出雲全部にあまねく普及し山陰、山陽方面のも広く分布するようになった。
【島根県】
江津市の高倉山八幡宮 (神社名鑑)
邑智郡石見町の賀茂神社(神社名鑑)
邑智郡石見町の大原神社(神社名鑑)
邑智郡石見町の諏訪神社(神社名鑑)
邑智郡桜江町の八幡宮=郡鳩八幡宮(神社名鑑)
邑智郡川本町の三原八幡宮(神社名鑑)
邑智郡瑞穂町の八幡神社(神社名鑑)
那珂郡旭町の市木神社=旧、馬場八幡(神社名鑑)
邇摩郡温泉津町の八幡宮(神社名鑑)
地名・寺院に残るアラハバキ
「和名妙」にはアラハバキの元の発音に近いと思われる、「アラハカ」の郷名が出ている。
武蔵国豊島郡荒墓郷
越前国坂井郡荒都泊郷
常陸国那珂郡荒墓郷
難波四天王の旧地名は荒墓邑といい、四天王の山号は現在でも「荒陵山」(訓読みするとアラハカ)である。
鳥羽市小浜町区内の二見ケ浦沖合にある「飛島」は古くは「阿波良岐島」「淡良岐島」といっていた。
この他にも、アラビア語との関係や日本文化のルーツについて書きたいのですが、長くなりましたので、またいずれ・・この辺でひとまず区切りとします。
最後に、神代文字を紹介します。
秋田物部氏「物部秘史」が未公開のまま、秋田県協和町、唐松神社:名誉宮司物部長照氏に代々伝えられてきたが昭和五十八年に公刊された。
「天津祝詞」の中に「物部文字」が記されていますが、この文字は「アヒルクサ文字」といわれる字体で春日文字とか琉球神道史の中の十二支などにもこの文字の流れを見ることができるそうです。
アヒルクサ文字というのは、伊勢神宮や出雲大社などの由緒ある神社あるいわ旧家に古くから伝わる神代文字の一つのことだが、九州の阿比留家に伝わる文字の草書体と考えられたことから、江戸時代の国学者・平田篤胤らによって「アヒル草文字」と命名された。
本来はアヒル文字とは別個に紀元前に発注した文字で、最近は甲骨文字の草書体ではないかという説もある。
アラハバキについてもそうですが、九州についても、彼等は都合が悪いことを隠蔽しています。
機会があれば、筆者も九州の秘された歴史を書くかもしれません。
あくまで 権力者側からの記述ですから
でも~
そこでも~消し去れれないものがある訳です
たとえば~出雲神話
荒ハバキとは
朝廷が各地の抵抗する豪族を称して
一まとめに 称したものと 想像します (^_-)~☆
ありがとうございます。
九州も神話の国・・・隠された秘密が沢山あるはずです。
後に書きますが、どうも日本人のルーツの一つに九州に入って分かれた民族アイヌと琉球民族は血液学から同一民族ということがわかっています。
もう少しお待ちくださいね。
原稿半分くらい出来てます。まあ本を写したようなもんですが。
もう少し続きます。
長いので、短縮に必死です。
流石の私も生まれていません
アハハ~
弥生時代・・・
多分想像出来るは、太陽と月が大きく見えたであろう・・・
長い文の中から抜粋したものですから、最低限必要なと思ったところです。
これは、これから続く記事のほんの前説です。
本題にはまだ入っていません。
太陽・・・大きかったら暑かったでしょうね。
朝鮮もそうですが、神話の世界が歴史としてまかり通っているようです。
お仕事もあるのに、大変なことになりましたね。
古代の日本の支配層は、皇族も含め、どうしたって半島から下ってきた者どもです。
文化的には、楽浪郡や百済などの、属国のような存在でした。
でもあの時代にそんなことを語れば、間違いなく非国民→前線配属でしたね。
父方の先祖のお墓は、秋田県羽後町の「三輪神社」にあります。