
アラハバキ神と謎の古代史「記紀」1
「記紀」とは、古事記、日本書紀のことですが、当然私は素人であり考古学者でもなければ歴史学者でもありません。
そもそも、私が「アラハバキ」に興味を持ったのは20年も前のことです。
友人から「中央政権(朝廷)が東北を支配するまでは全部アラハバキと言う神様を信仰していたらしいぞ!」と聞いてからでした。 それが真実かどうか気になっていたのです。
たまたま、身近にそのアラハバキ神社がありました。
以前記事にした多賀城国府の近くにあるアラハバキ神社と先日の宮城県大崎市岩出山にあるアラハバキ神社です。
その謎を知りたくて本が無いかと探しましたら一冊の本と巡り合えました。
それが「記紀解体・アラハバキ神と古代史の現像」彩流社 ¥1800 近江雅和著です。

最近もう一冊求めましたが、まだ目を通していませんので、この本を中心に引用して記したいと思います。
アラハバキに行く前に普段使わない言葉や名前、神様や天皇、古氏族の家系が出て来ます。
そんなわけで、順序立てて書きたいと思います。それでも分けがわからなくなるかも知りませんが?
これは、私の資料として記した物ですので興味の無い方はパスしてください。
でも日本人のルーツについて興味のある方は読んで見て下さい。長くなりますが
前書きにこんなことが書いてありました。
日本の正史とされてきた記紀の古代記述では、どうしても「人」の歴史としては考えられないことが分かった。
真実を語る古代からの貴重な伝承や記録は記紀の編纂と同時に全て抹殺されてしまい何も残っていない。
また、建国記念日についてもこんなことが…
独立国として建国記念日がないのは格好がつかないということで決めたのが、こともあろうが否定したはずの神話にある「記紀」の神武即位の日であった。
こんな矛盾した子供だましのことで誰が納得するのだろうか?
滑稽を通り越して情けなくなってくる。
それでは、神武即位の何が変なのでしょう?
「記紀」では゛皇紀元年゛つまり初代天皇の即位の年がBC660年です。
この時代は縄文時代で古学的にも文化的裏付けを証明するものは認められないようです。
しかも、神武から仁徳にいたるまで百歳を越える天皇が十一人もいるのです。
誰が見ても不自然な話しです。
これは、「讖緯説(しんいせつ)」といって易学思想で一蔀(いちぼう)ごとの辛酉(しんゆう:かのととり)の年に天下を揺るがす、国家的な大変革が起こるというものです。
※一蔀とは
干支60年で一巡=これを「一元」又は「一運」
その21倍を「一蔀」といいます。
つまり「一蔀」=1260年です。
そこで、推古天皇9年(601年)辛酉から一蔀さかのぼって辛酉の年を神武元年としたのです。ですから辻褄が合わなくなって100歳を越える天皇ができたのです。
図表1

統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国、男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくいのです。
だいたい、この時代は古墳時代で各地に豪族がいた分けですから素人の私でも容易に想像がつきます。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり、卑弥呼は神功皇后のことであると言わんばかりの引用でありながら、その真偽については一切口をつぐんでいるのです。
神功皇后をヒミコとするには干支二運(120年)を引き上げなければならなかったために前期した讖緯説の「一蔀」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われます。
また、「神功皇后紀」が真実であるかのようにまたは作成するために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、勝手にその年代を繰り上げて使用するという暴挙までしている。
国外の歴史まで工作し悪質な編纂ですね。
下の表を比べて見れば一目瞭然ですよ。
「三国史記」 「日本書紀」
●375 百済・近肖古王没 ◎255 肖古王没
●384 百済・近仇首王没、枕流王即位 ◎264 貴須(仇首)王没、枕流王即位
●391 百済・泰和四年銘刀を倭王に贈る ◎252 百済王七支刀を神功皇后に贈る
●392 百済・辰斯王没、阿莘王即位 ◎272 辰斯王を殺し、阿花王即位
●402 新羅・未斯欣を人質にする ◎200 新羅の微叱己知波珍千岐を人質とする
●403 新羅・倭の使者を厚遇する ◎250 使者の千熊長彦ら百済から帰る
●405 新羅・倭兵、明活城を攻める ◎205 人質の微叱許智伐早を新羅に返す
●405 百済・阿莘王没、腆支王即位 ◎277 直支王の記事
●420 百済・腆支王没、久爾辛王即位 ◎294 直支王没、久爾辛王即位
同じ歴史なのに、年代をこんなに誤魔化している。
歴史は常に勝者によって作られ、都合の良いように改変され、また、たまたま世に出ても偽書扱いされてしまうのが常ですね。
史実に迫ろうとする時は、勝者と敗者の記録を照合し矛盾点を掘り下げていくべきでしょう。
日本の古代と同時代にできた中国の史書には邪馬台国や女王卑弥呼のことが出てきますが「記紀」とは全く噛み合わない、しかも多くの矛盾や疑問がある。
弥生と聞くと縄文よりは生活が良くなりますがイメージ的には原始生活を想像してしまいませんか?
しかし、隣りの中国では、弥生よりもはるか以前に黄河文明があり文字も使われていたというのに、考古学で言う弥生文明とでは、その落差があまりにも違い過ぎないでしょうか?
日本にももっと高度なものがあってもいいのでは?と考えますが当時の精神文化を考古学では伺い知ることができないのですね。
日本の古代史を解明するには、中国、朝鮮、インドを視野に考えがちですがそれだけではまだまだ足りないく、もっと広く人類の発生から世界史の流れを踏まえて考察でするべきでしょう。
昭和の初めにこんな説があったそうです。
日本の古代文化がメソポタミアのシュメールにあるのではないか?
紀元前1600年シュメール帝国の消滅によって宗教用語以外が死後化したはずのシュメール語で「古事記」が読めるという説である。
しかし、古事記がシュメール語で読めるなら、未だに意味不明な言語がある「万葉集」も読めなければならないはずなので、チョット疑問をいだく。
日本書紀
「日本書紀」「古事記」は6世紀頃成立したと言われています。
「帝紀」や「旧辞」があったらしいが現存していません。
これについては日本書紀の文中に「帝王本紀」の名があげられています。
編纂
天武天皇十年(681)に川島皇子、忍壁皇子らが「帝紀及び上古諸事」の作定事業から始まりそれ以来「帝紀」「旧辞」を軸として諸種の資料を幅広く集めて編集作業を進めた。
持統天皇5年(691)……10年後……
大三輪(おほみわ)・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・藤原・石川・巨勢(こせ)・膳部(かしはで)・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群(へぐり)・羽田・佐伯・采女・穂積・阿雲ら十八氏(一人不明?)に「墓記:おくつきのふみ」の提出が命ぜられる。
これは、名門氏族の系譜や事蹟を材料とするための提出であった。
しかし、日本書紀が朝廷に都合よく書き改められた後には、改ざんの事実を暴露されないために没収ないしは検閲だった疑いがあります。
また、百済関係の資料として神功皇后紀・応神紀・雄略紀には「百済記」
雄略紀・武烈記には「百済新撰」
継体・欽明紀には「百済本記」がそれぞれ引用され、また本文にも利用されています。
和銅年間(708〜714)に「風土記」の編纂提出を命じられたが完本として残るのが「出雲風土記」のみと考えらる。
完本に近いものが播磨・肥前・豊後・常陸だけしかなく、しかも古代豪族とゆかりの深い国の風土記は、申し合わせたように姿を消している。
古事記も基本的には、日本書紀と共通した内容になっていることから、同じ資料によって編纂されたのがわかります。
違うのは「日本書紀」が漢文体で書かれているのに対して「古事記」が古体の日本語て書かれているのです。
これは、「記紀」編纂時に大陸からの帰化人が続々と渡来しており、今日言われる「日本語の乱れ」のような状態にあったのでしょう。
その為に古事記は日本語のテキストの役目に作ったのだという説もあります。
日本書紀の編纂は藤原不比等が中心となってやったが天皇家藤原家による支配体制の確立を目的として偽作をしたようだ。
古代において家柄・氏(うじ)が絶対であったが、藤原の前身である中臣は、中流の家柄だった。
権力を持つためには天皇家を利用する…
それが最大の手段であり蘇我・物部・尾張氏を見てもはっきりしている。
天皇家にあってもその出自や王朝の一系については、語りたくない事情があり支配体制の強化の為にも偽作の線は藤原家と利害が一致したわけです。
そもそも、藤原というのは中国系の渡来人だとされています。
統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくい。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり卑弥呼は神功皇后のことであるといわんばかりの引用でありながらその真意についてはいっさい口をつぐんでいる。
神功皇后をヒミコとするには干支二通(120年)を引き上げなければならなかったために前記しましたが、讖緯説の「一部」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われる。
また、「神功皇后記」を作るために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、これもあろうに勝手にその年代を繰り上げてしようするという暴挙までしている。
これは、先ほど比較した通りです。
※神功皇后
第14代・仲哀天皇の皇后、仲哀天皇はあるとき、皇后の神功(じんぐう)に「西海の宝の国(新羅国)を授ける」という住吉大神の神託が下がったが、仲哀はこれを信じず、神の怒りに触れて急死した。
その後、再び神功に、「胎中(はらのうち)の皇子(みこ)【応神天皇】に新羅を授ける」という神託が下った。
そこで
神功は男装して渡海し、新羅を服属させると共に、高句麗、百済にも朝貢を誓わせ帰国した。
朝鮮半島における日本領(内宮家屯倉・うちつみやけ)はこの時に誕生したとされるが、仲哀・神功ともに非実在との有力な説があり、神功による三韓征伐は創作の可能性が高い。
歴代天皇FILE(学習研究社)著者:不二龍彦 ¥476 から
※渡来人=帰化人
古代に日本に渡来し住みついた人々
4世紀後半から大和朝廷が南朝鮮に進出すると捕虜や人質として技術者や知識人が渡来し、漢字をはじめ学問・芸術・宗教や統治技術・産業技術を伝えた。
7世紀後半には百済・高句麗・の滅亡で渡来人が増加し、律令国家の形成に寄与。
漢(あや)氏・秦(はた)氏が有名。
●漢氏(あやうじ)
秦氏(はたうじ)と並ぶ古来渡来人系の氏族。
漢の王室の子孫、阿知使主(あちのおみ)が応神の時渡来したという伝説があるが朝鮮半島の楽浪郡の漢人の子孫が5世紀初め頃渡来したものらしい。
大和にいたもの東漢(やまとのあや)氏、河内にいたものを西漢(かちのあや)氏といい、直(あたい)の姓(かばね)をもつ。
工芸、文筆などで朝廷に仕えて、蘇我氏の下で活躍。
天武朝に連(むらじ)、次いで忌寸(いみき)となった。
7世紀頃から坂上(さかのうえ)、文(あや)などの多数の氏に分かれた。
●秦氏(はたうじ)
漢氏(あやうじ)と並ぶ古代の有力な渡来人系氏族。
応神天皇の世に秦(しん)の始皇帝の子孫と称する弓月君(ゆづきのきみ)が帰化したと伝える。楽浪郡(らくろう)滅亡後南朝鮮にいた中国人が5世紀初めごろ渡来したものであろう。機織り技術を伝えたらしく、各地の秦部の統率者として朝廷に仕え財政事務にもあずかった。
今の淀川中流から上流の盆地を中心に繁栄し天武天皇の時に造(みやつこ)から連(むらじ)姓、さらに忌寸(いみき)・宿禰(すくね)姓を賜った。
※三国史記
朝鮮三国 (新羅・しらぎ)・(高句麗・こうくり)・(百済・くだら)時代の史書で古代朝鮮における現存最古の正史
全50巻あり、新羅12巻・高句麗10巻・百済6巻・年表3巻・雑志9巻・列伝10巻
※魏志倭人伝
中国の正史「三国志」のうちの「魏書」巻30の中にある一伝
「東夷伝」中に倭人の記録があり通称これを「倭人伝」と呼ぶ3世紀の日本を記した重要な史料。
本題のアラハバキに繋がるまで、後しばらくお待ち下さい。
次回は、アマテラス、そして伊勢神宮の謎に入っていきます。
次へ
他の記事を含めホームページにまとめました。
hhttp://sanpomichi114.web.fc2.com/arhabaki.html
「記紀」とは、古事記、日本書紀のことですが、当然私は素人であり考古学者でもなければ歴史学者でもありません。
そもそも、私が「アラハバキ」に興味を持ったのは20年も前のことです。
友人から「中央政権(朝廷)が東北を支配するまでは全部アラハバキと言う神様を信仰していたらしいぞ!」と聞いてからでした。 それが真実かどうか気になっていたのです。
たまたま、身近にそのアラハバキ神社がありました。
以前記事にした多賀城国府の近くにあるアラハバキ神社と先日の宮城県大崎市岩出山にあるアラハバキ神社です。
その謎を知りたくて本が無いかと探しましたら一冊の本と巡り合えました。
それが「記紀解体・アラハバキ神と古代史の現像」彩流社 ¥1800 近江雅和著です。

最近もう一冊求めましたが、まだ目を通していませんので、この本を中心に引用して記したいと思います。
アラハバキに行く前に普段使わない言葉や名前、神様や天皇、古氏族の家系が出て来ます。
そんなわけで、順序立てて書きたいと思います。それでも分けがわからなくなるかも知りませんが?
これは、私の資料として記した物ですので興味の無い方はパスしてください。
でも日本人のルーツについて興味のある方は読んで見て下さい。長くなりますが
前書きにこんなことが書いてありました。
日本の正史とされてきた記紀の古代記述では、どうしても「人」の歴史としては考えられないことが分かった。
真実を語る古代からの貴重な伝承や記録は記紀の編纂と同時に全て抹殺されてしまい何も残っていない。
また、建国記念日についてもこんなことが…
独立国として建国記念日がないのは格好がつかないということで決めたのが、こともあろうが否定したはずの神話にある「記紀」の神武即位の日であった。
こんな矛盾した子供だましのことで誰が納得するのだろうか?
滑稽を通り越して情けなくなってくる。
それでは、神武即位の何が変なのでしょう?
「記紀」では゛皇紀元年゛つまり初代天皇の即位の年がBC660年です。
この時代は縄文時代で古学的にも文化的裏付けを証明するものは認められないようです。
しかも、神武から仁徳にいたるまで百歳を越える天皇が十一人もいるのです。
誰が見ても不自然な話しです。
これは、「讖緯説(しんいせつ)」といって易学思想で一蔀(いちぼう)ごとの辛酉(しんゆう:かのととり)の年に天下を揺るがす、国家的な大変革が起こるというものです。
※一蔀とは
干支60年で一巡=これを「一元」又は「一運」
その21倍を「一蔀」といいます。
つまり「一蔀」=1260年です。
そこで、推古天皇9年(601年)辛酉から一蔀さかのぼって辛酉の年を神武元年としたのです。ですから辻褄が合わなくなって100歳を越える天皇ができたのです。
図表1

統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国、男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくいのです。
だいたい、この時代は古墳時代で各地に豪族がいた分けですから素人の私でも容易に想像がつきます。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり、卑弥呼は神功皇后のことであると言わんばかりの引用でありながら、その真偽については一切口をつぐんでいるのです。
神功皇后をヒミコとするには干支二運(120年)を引き上げなければならなかったために前期した讖緯説の「一蔀」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われます。
また、「神功皇后紀」が真実であるかのようにまたは作成するために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、勝手にその年代を繰り上げて使用するという暴挙までしている。
国外の歴史まで工作し悪質な編纂ですね。
下の表を比べて見れば一目瞭然ですよ。
「三国史記」 「日本書紀」
●375 百済・近肖古王没 ◎255 肖古王没
●384 百済・近仇首王没、枕流王即位 ◎264 貴須(仇首)王没、枕流王即位
●391 百済・泰和四年銘刀を倭王に贈る ◎252 百済王七支刀を神功皇后に贈る
●392 百済・辰斯王没、阿莘王即位 ◎272 辰斯王を殺し、阿花王即位
●402 新羅・未斯欣を人質にする ◎200 新羅の微叱己知波珍千岐を人質とする
●403 新羅・倭の使者を厚遇する ◎250 使者の千熊長彦ら百済から帰る
●405 新羅・倭兵、明活城を攻める ◎205 人質の微叱許智伐早を新羅に返す
●405 百済・阿莘王没、腆支王即位 ◎277 直支王の記事
●420 百済・腆支王没、久爾辛王即位 ◎294 直支王没、久爾辛王即位
同じ歴史なのに、年代をこんなに誤魔化している。
歴史は常に勝者によって作られ、都合の良いように改変され、また、たまたま世に出ても偽書扱いされてしまうのが常ですね。
史実に迫ろうとする時は、勝者と敗者の記録を照合し矛盾点を掘り下げていくべきでしょう。
日本の古代と同時代にできた中国の史書には邪馬台国や女王卑弥呼のことが出てきますが「記紀」とは全く噛み合わない、しかも多くの矛盾や疑問がある。
弥生と聞くと縄文よりは生活が良くなりますがイメージ的には原始生活を想像してしまいませんか?
しかし、隣りの中国では、弥生よりもはるか以前に黄河文明があり文字も使われていたというのに、考古学で言う弥生文明とでは、その落差があまりにも違い過ぎないでしょうか?
日本にももっと高度なものがあってもいいのでは?と考えますが当時の精神文化を考古学では伺い知ることができないのですね。
日本の古代史を解明するには、中国、朝鮮、インドを視野に考えがちですがそれだけではまだまだ足りないく、もっと広く人類の発生から世界史の流れを踏まえて考察でするべきでしょう。
昭和の初めにこんな説があったそうです。
日本の古代文化がメソポタミアのシュメールにあるのではないか?
紀元前1600年シュメール帝国の消滅によって宗教用語以外が死後化したはずのシュメール語で「古事記」が読めるという説である。
しかし、古事記がシュメール語で読めるなら、未だに意味不明な言語がある「万葉集」も読めなければならないはずなので、チョット疑問をいだく。
日本書紀
「日本書紀」「古事記」は6世紀頃成立したと言われています。
「帝紀」や「旧辞」があったらしいが現存していません。
これについては日本書紀の文中に「帝王本紀」の名があげられています。
編纂
天武天皇十年(681)に川島皇子、忍壁皇子らが「帝紀及び上古諸事」の作定事業から始まりそれ以来「帝紀」「旧辞」を軸として諸種の資料を幅広く集めて編集作業を進めた。
持統天皇5年(691)……10年後……
大三輪(おほみわ)・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・藤原・石川・巨勢(こせ)・膳部(かしはで)・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群(へぐり)・羽田・佐伯・采女・穂積・阿雲ら十八氏(一人不明?)に「墓記:おくつきのふみ」の提出が命ぜられる。
これは、名門氏族の系譜や事蹟を材料とするための提出であった。
しかし、日本書紀が朝廷に都合よく書き改められた後には、改ざんの事実を暴露されないために没収ないしは検閲だった疑いがあります。
また、百済関係の資料として神功皇后紀・応神紀・雄略紀には「百済記」
雄略紀・武烈記には「百済新撰」
継体・欽明紀には「百済本記」がそれぞれ引用され、また本文にも利用されています。
和銅年間(708〜714)に「風土記」の編纂提出を命じられたが完本として残るのが「出雲風土記」のみと考えらる。
完本に近いものが播磨・肥前・豊後・常陸だけしかなく、しかも古代豪族とゆかりの深い国の風土記は、申し合わせたように姿を消している。
古事記も基本的には、日本書紀と共通した内容になっていることから、同じ資料によって編纂されたのがわかります。
違うのは「日本書紀」が漢文体で書かれているのに対して「古事記」が古体の日本語て書かれているのです。
これは、「記紀」編纂時に大陸からの帰化人が続々と渡来しており、今日言われる「日本語の乱れ」のような状態にあったのでしょう。
その為に古事記は日本語のテキストの役目に作ったのだという説もあります。
日本書紀の編纂は藤原不比等が中心となってやったが天皇家藤原家による支配体制の確立を目的として偽作をしたようだ。
古代において家柄・氏(うじ)が絶対であったが、藤原の前身である中臣は、中流の家柄だった。
権力を持つためには天皇家を利用する…
それが最大の手段であり蘇我・物部・尾張氏を見てもはっきりしている。
天皇家にあってもその出自や王朝の一系については、語りたくない事情があり支配体制の強化の為にも偽作の線は藤原家と利害が一致したわけです。
そもそも、藤原というのは中国系の渡来人だとされています。
統一国家といえる大和朝廷が実質的に成立したのは応神・仁徳からでそれ以前の天皇は「魏志倭人伝」にいう「分かれ百余国男王がいた」とあるのが実体で各国の大王の時代であり、一系の天皇だったとは考えにくい。
「魏志倭人伝」でいう邪馬台国とは大和朝廷のことであり卑弥呼は神功皇后のことであるといわんばかりの引用でありながらその真意についてはいっさい口をつぐんでいる。
神功皇后をヒミコとするには干支二通(120年)を引き上げなければならなかったために前記しましたが、讖緯説の「一部」という格好の区切りを採り入れ、紀年の引き伸ばしをしたと思われる。
また、「神功皇后記」を作るために朝鮮半島関係の「三国史記」を引用し、これもあろうに勝手にその年代を繰り上げてしようするという暴挙までしている。
これは、先ほど比較した通りです。
※神功皇后
第14代・仲哀天皇の皇后、仲哀天皇はあるとき、皇后の神功(じんぐう)に「西海の宝の国(新羅国)を授ける」という住吉大神の神託が下がったが、仲哀はこれを信じず、神の怒りに触れて急死した。
その後、再び神功に、「胎中(はらのうち)の皇子(みこ)【応神天皇】に新羅を授ける」という神託が下った。
そこで
神功は男装して渡海し、新羅を服属させると共に、高句麗、百済にも朝貢を誓わせ帰国した。
朝鮮半島における日本領(内宮家屯倉・うちつみやけ)はこの時に誕生したとされるが、仲哀・神功ともに非実在との有力な説があり、神功による三韓征伐は創作の可能性が高い。
歴代天皇FILE(学習研究社)著者:不二龍彦 ¥476 から
※渡来人=帰化人
古代に日本に渡来し住みついた人々
4世紀後半から大和朝廷が南朝鮮に進出すると捕虜や人質として技術者や知識人が渡来し、漢字をはじめ学問・芸術・宗教や統治技術・産業技術を伝えた。
7世紀後半には百済・高句麗・の滅亡で渡来人が増加し、律令国家の形成に寄与。
漢(あや)氏・秦(はた)氏が有名。
●漢氏(あやうじ)
秦氏(はたうじ)と並ぶ古来渡来人系の氏族。
漢の王室の子孫、阿知使主(あちのおみ)が応神の時渡来したという伝説があるが朝鮮半島の楽浪郡の漢人の子孫が5世紀初め頃渡来したものらしい。
大和にいたもの東漢(やまとのあや)氏、河内にいたものを西漢(かちのあや)氏といい、直(あたい)の姓(かばね)をもつ。
工芸、文筆などで朝廷に仕えて、蘇我氏の下で活躍。
天武朝に連(むらじ)、次いで忌寸(いみき)となった。
7世紀頃から坂上(さかのうえ)、文(あや)などの多数の氏に分かれた。
●秦氏(はたうじ)
漢氏(あやうじ)と並ぶ古代の有力な渡来人系氏族。
応神天皇の世に秦(しん)の始皇帝の子孫と称する弓月君(ゆづきのきみ)が帰化したと伝える。楽浪郡(らくろう)滅亡後南朝鮮にいた中国人が5世紀初めごろ渡来したものであろう。機織り技術を伝えたらしく、各地の秦部の統率者として朝廷に仕え財政事務にもあずかった。
今の淀川中流から上流の盆地を中心に繁栄し天武天皇の時に造(みやつこ)から連(むらじ)姓、さらに忌寸(いみき)・宿禰(すくね)姓を賜った。
※三国史記
朝鮮三国 (新羅・しらぎ)・(高句麗・こうくり)・(百済・くだら)時代の史書で古代朝鮮における現存最古の正史
全50巻あり、新羅12巻・高句麗10巻・百済6巻・年表3巻・雑志9巻・列伝10巻
※魏志倭人伝
中国の正史「三国志」のうちの「魏書」巻30の中にある一伝
「東夷伝」中に倭人の記録があり通称これを「倭人伝」と呼ぶ3世紀の日本を記した重要な史料。
本題のアラハバキに繋がるまで、後しばらくお待ち下さい。
次回は、アマテラス、そして伊勢神宮の謎に入っていきます。
次へ他の記事を含めホームページにまとめました。
hhttp://sanpomichi114.web.fc2.com/arhabaki.html



























アラハバキについてもそうですが、九州についても、彼等は都合が悪いことを隠蔽しています。
機会があれば、筆者も九州の秘された歴史を書くかもしれません。
あくまで 権力者側からの記述ですから
でも〜
そこでも〜消し去れれないものがある訳です
たとえば〜出雲神話
荒ハバキとは
朝廷が各地の抵抗する豪族を称して
一まとめに 称したものと 想像します (^_-)〜☆
ありがとうございます。
九州も神話の国・・・隠された秘密が沢山あるはずです。
後に書きますが、どうも日本人のルーツの一つに九州に入って分かれた民族アイヌと琉球民族は血液学から同一民族ということがわかっています。
もう少しお待ちくださいね。
原稿半分くらい出来てます。まあ本を写したようなもんですが。
もう少し続きます。
長いので、短縮に必死です。
流石の私も生まれていません
アハハ〜
弥生時代・・・
多分想像出来るは、太陽と月が大きく見えたであろう・・・
長い文の中から抜粋したものですから、最低限必要なと思ったところです。
これは、これから続く記事のほんの前説です。
本題にはまだ入っていません。
太陽・・・大きかったら暑かったでしょうね。
朝鮮もそうですが、神話の世界が歴史としてまかり通っているようです。
お仕事もあるのに、大変なことになりましたね。
古代の日本の支配層は、皇族も含め、どうしたって半島から下ってきた者どもです。
文化的には、楽浪郡や百済などの、属国のような存在でした。
でもあの時代にそんなことを語れば、間違いなく非国民→前線配属でしたね。
父方の先祖のお墓は、秋田県羽後町の「三輪神社」にあります。
何が正しいのかわかりませんが・・・
いずれにせよ、想像の世界からは脱せ無いわけで、後から訂正文も書くことになるかも?
古代の氏族は、中国・朝鮮からかなり入ってきていますね。
これが終わったら、偽書扱いされている、東日流外三郡誌(つがるさんぐんし)に目を向けて行きたいと思います。
津軽にあった古代国家・・・気になります。