この記事はホームページに一頁に書き上げたものでしたが、ホームページを辞めたのでブログに再度アップすることにしました。ブログの文字数の限界があるため三話になりました。
この記事は長文になりますが、どうしても書きたかった内容です。
「東日流外三郡誌」を本物だという擁護派の方も是非読んでいただきたいと思います。
この文献と申しますか古文書ですが、多くの人がだまされ、その資料を参考に多くの本が出版され、その本を読んだ人が
また参考文献にしネズミ講のごとくその出版物は増えてゆき、東北の古代史ファンに大きな影響を与え、取り返しがつかないほど広まってしまったのだ。
それは、マスコミを巻き込み、また数か所の町までだまされてしまった。現在もTVで名前が出てきました困ったものです。
私は多賀城にある「あらはばき神社」に興味を抱いたことからこの神の存在を知りたくなり古代史を調べるよう
あらはばき神社 多賀城 arahabaki 私の作品です。
「東日流外三郡誌」の影響は古代出雲の研究者にも一部東北に関する部分で引用されてしまっている。
「東日流外三郡誌」については、当初私も根本的な部分は本物で和田喜八郎氏が追記したりして偽書扱いされたとばかり思っていた。
何故偽書とされたのか?
著作権の裁判とはどんなものだったのか?
この古文書の真相を探りたいと思い次の三冊の本から抜粋してその内容を記載したいと思います。
偽書「東日流外三郡誌」事件 斎藤光政(東奥日報社 )
だまされるな東北人ー「東日流外三郡誌」をめぐって 責任編集 千坂嵃峰 本の森
幻想の荒覇吐秘史 「東日流外三郡誌」の泥濘 原田実 著 批評社
この記事の中に古田武彦氏・・と出てきますが、この方は「東日流外三郡誌」を広めた一人でもあります。
こんな本も出しています。 彼は擁護派です。
この本で影響を受けた人も多いと思います。 人は活字になると信用してしまいますよね。
この吉田氏。先日、朝日新聞の書籍の紹介のところで新刊を出したのか? 掲載されていました。
著者の紹介のところに「邪馬台国」は無かった発表し歴史家たちから見向きもされなくなった・・・?みたいな紹介文でした。
これから紹介するなかで良く出てくる人物なので、事前に紹介しました。
それでは、各書籍の文を引用する形になりますが、その内容の一部を記載したいと思います。
序 谷川健一 氏
「東日流外三郡誌」は明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕をおそらく戦後になってから書きつづったものである。
和田長三郎の末裔と称する和田喜八郎氏の著「東日流蝦夷王国」の序文の一節に・・・・・
安倍一族の子孫の秋田孝季とその縁者の和田長三郎吉次であり、編纂のために二人は
(1789)以来三十三年の歳月をかけて、北は北海道から南は九州まで日本諸国をめぐり歩いて資料蒐集につとめた。
寛政元年
この二人は長崎においてバテレン(宣教師)トマスに師事して、西洋史学を学び、これを取り入れて、
東北日本史を語るという当時において画期的な追及をもなしとげたという。 とある。
だが禁教時代にキリスト教を布教する外国人が存在したなどということは、およそ多少の知識ある者は考えることは不可能である。
また、「東日流外三郡誌」上巻143ページに次の文章がある。
「依て都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか。吾が一族の血肉は、人の上に人を造らず人の下に人を造らず、
平等相互の暮らしを以て祖来の業とし・・・・・・」
元禄十年七月秋田頼李が書いたとあるこの文章が福沢諭吉の有名な言葉を下敷きにしているのを見るとき唖然とするのである。
この福沢諭吉云々が私のみならず多くの人々に不審な思いをもたれていることを察してか、福沢の手紙が和田家に十通のこされていることを、
その友人の藤本光幸氏を通じて平成五年(1993)五月二日付の「陸奥新報」紙に発表している。
それは嘘の上塗りするために和田氏が新たにねつ造した偽りの手紙であることは明白でである。
この手紙は安本美典氏らによって徹底して分析され、追及されることになるがそれについてはここではこれ以上触れない。
後で記しますが、筆跡や福沢家の証言で偽物であることがわかっています。
「戯画」が本物の絵画より芸術的にすぐれている場合があるように、古今東西に偽書と称されるものは数多いが、
その中に読ませるものが混じっている。 本物と寸分違わぬという以上に本物の特質を捉えている場合がある。
だが、「東日流外三郡誌」はそうではない。文章も文法も滅茶苦茶で、拙劣、醜悪の限りをつくしている。
偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である。
古文書の出自
有るものは無い 無いものはある
これが「東日流外三郡誌」を書いたペテン師の自分に言い聞かせる呪文である。
この呪文を三回となえたのちに彼は仕事に取り掛かる。
原本はない。しかし写本は有る。 写本が有る以上は原本がある。といった具合である。
天井を張らないことが普通の、東北の農家の天井から、古文書の入った長持ちが一度ならずしきりに落ちてくるのも面白い光景である。
また写真に撮った山中の城が次には忽然と消えているというのも印度の魔術以上の鮮やかな風景である。
学者の本を盗み読みしながら江戸時代の文書にモンゴロイド族と書くのもなかなか愛敬があるではないか。
偽作の場
最後に《偽書「東日流外三郡誌」事件》のエプローグの中で紹介されている部分ですが、古文書が出てきた場所の検証をしています。
2003年2月,五所川原市飯詰。和田という主を失った「『外三郡誌』発見の家」での現地調査は続いていた。
懐中電灯を持って走り回る原田,この建物の現在の所有者である和田キヨヱが立ち会っていた。
かつて和田は「東日流外三郡誌」の出現の模様を次のように繰り返し語っていた。
昭和二十二年の夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばっていた。
家中みんなが飛び起き煤の塵が立ち巻く中でこの箱に入っているものを手に取ってみると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」
「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。(「和田家文献は断固として護る)『新・古代学』第一集、新泉社、1995年)
最初に落ちてきた長持ちの中を調べてから、再び天井の上を見たら、まだ六つぶら下がっていた。
しかし、天井裏には大きな長持ちをつくっておくようなスペースも、梁に長年綱縛っていたような痕跡もなかった。
第一、梁そのものが細く、「膨大な文書」が入った重い長持ちを六個も七個も支えられないことは明白だった。
生前の和田は自宅に人を上げることを極端に嫌った。それは自分の仲間であるはずの擁護派のメンバーに対してもそうだった。
(『安倍氏シンポジュウム報告書』衣川教育委員会、1990年)
和田家
この家は、キヨヱさんらの証言で文書が落ちてきたとされる昭和二十二年当時は天井板を張っていなくて、
そのかわりにカヤで編んだすだれだけを渡していたことがわかった。
「東日流外三郡誌」がつるされていたとされる部屋の天井裏を見る原田氏と古代史研究家の斎藤隆一氏
「外三郡誌」が”発見されたという和田家の座敷で、キヨエ(右)の説明を聞く原田実(左)と斎藤隆一(中)。
和田は「文書は長持ちに入って天井につってあった」と主張していた。が、
写真で見ればわかるように、天井裏にある梁は位置が低く、しかも細い・・・・・
和田家文書の現行テキストは明治から昭和初期にかけての写本とされる。
和田氏の主張によると、昭和二十三年頃、自家の天井裏に隠されていた和田家文書を見つけたということだが、その発見談は
和田氏の文章ごとに二転三転しており定まっていない。
和田が書斎にしていた中二階に大量のペットボトルの中身につては、後ほど記事にしています。
意外なものでした。
大事なことを忘れていました。「東日流外三郡誌」とは何なのか話しをていませんでした。
和田喜八郎氏によって公開された文献で「和田家文書」とも呼ばれています。その一部が「東日流外三郡誌」です。
内容ですがその昔・・・・
神武天皇の東征によって大和を追われた長髄彦の一族がアソベ族、ツボケ族などと呼ばれた津軽の原住民を平定してアラハバキ王国なるものを建て、
大和朝廷に抵抗し続けたとするものです。
このアラハバキの子孫は中世の安倍氏、近世の秋田市となり、現在も残っているという。
本当に馬鹿げた書物です。実際にあるアラハバキの神の存在を利用し、自分で古文書を作成し原本は絶対見せていません。
つまり見せられなかったのです。 実際には無かったのですから・・・
このようにみると一貫したストーリーがあるように見えますが、和田家文書は短い文章の集積でありその中には内容の重複や前後の矛盾が少なくない。
また、文体は稚拙で誤字・脱字も多く、その書体は流行した御家流よりも現代人が筆ペンで書いた文字に近い。
また、和田家文書は安倍氏、秋田家の伝承を記したもののはずなのだが素性の確かな安倍氏、秋田家の家系に伝わらない「独自の伝承」が
余りにも多すぎるのである。
寛政~文政年間、三春藩主の家臣であった秋田孝季(たかすえ)なる人物が和田氏の祖先・和田長三郎吉次とともにまとめた物だという由来を
主張している。
つまり、これが本当なら近世の古記録・古文書の類として、独自の史料価値があるということになるわけである。
ただし、秋田孝季、和田長三郎吉次なる人物は和田家文書の中にしか登場せず、その実在を裏付ける証拠はない。
平成六年秋田孝季が神社に奉納した江戸時代の額が発見されたというニュースが共同通信社から配信されたこともあったが、
同社は間もなく報道内容を否定する第二報を出し、その誤報であることを認めた。(【季刊邪馬台国】五五号、梓書院、平成六年十二月、参照)
東北は長い間、中央の差別史観の下に置かれていた。
蝦夷を人倫を知らぬ獣ときめつけ、明治維新の際には朝廷に弓を引いた朝敵として扱い、烙印を押されたのが東北であった。
東北の人々は辺境にあって蔑視に耐え、自分たちを鼓舞激励する書物の出現を待望してきた。
そこで、東北の名誉と誇りを回復したいと願う人々にとって、「東日流外三郡誌」の出現は、早天の慈雨のごときものであったことは、
充分に推察できる。
(HP管理者)
(上記の文については私も同感です。確かに当時の東北人は朝廷からはこの知識のない獣扱いでした。
東北出身の古代史ファンにとってこの本は朝廷を見返してやったと思ったことでしょう。)
そうした東北人の心情をたくみに利用して、次から次に偽書を流布して人々を手玉にとった悪徳の行為を許すことはできないが、
それに踊らされた善人たちについては、一片の同情を禁じ得ない。
しかし、虚偽を真実とすることは不可能である。
「だましの法則」から
千坂さん談話・・・・・・千坂嵃峰(ちさか・げんぽう)宮城県生まれ・東北大学文学部卒・聖和学園短大教授
北上川流域の歴史と文化を考える会、同流域地名研究会・両会長
珍しいものにひかれるという点でマスコミの果たす役割が問題になると思うのです。
例えばTBSで「東日流外三郡誌」を取り上げたことがありました。「世界不思議発見」という番組でこれをやったことがあるんですよ。
TBSの場合は、その後、「東日流外三郡誌」の問題を訂正したので、良心的な方だったのかも知れませが、やはりマスコミが、
珍しいというだけで確かめもせず報道するという姿勢は、問題ではないでしょうか。
浅見・・・・・浅見定雄(あさみ・さだお)山梨県生まれ・東京神学大学博士課程修了・ハーバード大学神学部博士課程卒業
東北学院大学文学部教授
テレビに取り上げたというだけで権威があるように思ってしまう。 権威の法則が働くんです。
信じたい人が騙されやすい
千坂 「東日流外三郡誌」も同じですね。 先だって青森県へ行きました。 最初に巻き込まれたというか、偽の古文書を発行する時に、
引き込まれて、編集なんかのお手伝いをしたいという人に会ってきたんです。 その人たちの反省の弁を紹介して、彼らも被害者だという
そういう形で紹介しようと思っているんですが、実際には加害者の面もあるんです。 やはり、今言ってたようにですね。
コミットメントの法則に当てはまるんですよ。
その後、青森県の市浦村・岩手県の衣川村・秋田県の田沢湖町などもだまされたんです。
最初希少価値のある古文書ということで「東日流外三郡誌」が地域の有力者のところに流れて来て、次に来るのが、古物。
刀ですとか、仏像ですとか、当初は和田さんが差し上げる、相手が貰うという形なんですけれども、いつの間にか、それに対して
対価を差し上げなければいけないだろうみたいなことになってくる。
自分で買っている分についてはまだいいんですけれども、それを誰かにまた斡旋するようになり、そしてほかの知人にも紹介しちゃうと
コミットメントが成立する。 コミットメント="commitment" 約束・義務・責任・献身・傾倒・・・
そこから自分はもう抜けられない。 だから、今ではだまされたと思いつつも、公言できないでいるという構造になっているんです。
浅見 若い娘さんが結婚詐欺師にひっかかる心理も同じです。 信じたいわけですよ。
信じたい人を騙すくらい簡単なことはないのです。
衣川村でも一関市でも結構ですが、信じたがっている人が相手なら、私だって偽書を作って騙しに行けます。
まず「希少性」で売り込んで、次にハバード大学の博士ですとか、テレビにもよく出ますとか、「権威の法則」で信じさせちゃえば、
あとはもう自分から信じたがってきますから・・・・・・
自己過信は騙されやすい
千坂 東北人にはある種のコンプレックスがあり、歴史に関心のある人の中には、自分たちの郷土の誇れるものを求めるあまり、
古代東北の栄光を記した「東日流外三郡誌」のよって培った情報を、何の裏付けもないままに主張し発表したりします。
それを読んだ一般の人がまた影響を受けて、嘘の歴史が出来上がってしまう。
そのようなことをそのままにしておいては、真の地域づくり妨げになるというのが、私の考えです。
「東日流外三郡誌」を見れば、いかにも教養のない者が書いたということがわかるはずですが、こんなに広まった原因を作った一人である
古田武彦氏について、お聞きしていきたいと思います。
まず、斎藤さんが一番初めに「東日流外三郡誌」と関わったきっかけからお話し願います。
※古田武彦氏については上記に記載しています。
斎藤・・・・・斎藤隆一(さいとう・りゅういち)福島県うまれ・東北の民俗と歴史を研究・市民の古代研究会会員
著書に「歴史を変えた偽書」「東日流外三郡誌」偽書の証明など多数
わたしも東北の民俗と歴史に興味があって、いろいろと地方の伝承などを調べていたので「東日流外三郡誌」についても、
当時話題になっていて注目しておりました。
それで、昭和六十一年頃、北方新社刊の六巻本を購入して読んでみると、ひとつ私の目を引いた箇所がありました。
それは『安倍大観記』という題の中の「神武軍に追われて、傷を負った長髄彦が東国へ逃れ、兄の安日彦(あびびこ)が越国へ逃れて、
出会ったところが会津という内容でした。
千坂 「古事記」にも同じような説話がありますね。
斎藤 崇神天皇の、いわゆる四道将軍派遣の説話ですが「古事記」では「大毘古命が高志国へ、建沼河別命(たけぬかわわけののみこと)が
東に行って、会津で出会った」という内容になっていて、こちらは親子ですが、当初わたしは、「古事記」説話を知っていながら、
長髄彦説話を新たに創作するというような偽作は、通常な精神では、まずやらないのではないかと思い、長髄彦説話のほうが原型ではないかと
思いかけた時期もありました。
「東日流外三郡誌」を含む「和田家文書」の大部分は、偽作にせよ、やはり、その核となる本物はあったんじゃないかと思っている人が多いのです。
ところが調べてみると「和田家文書群」だけにみられる稚拙な創作部分を除けば、その核となるのは、「古事記」だったり、
「陸奥話記」だったり、あるいは古典だけでなく、昔の地方出版物や現在の研究者だったりするので、かえってオリジナルな原本の存在は
考えにくいんです。
千坂 本当にあるなら、三年も前に原本を出すと言っていながら、いまだにでていないというのも、おかしなものですね。
斎藤 原本があるのなら何をおいても先に出すべきですが、出さない。 つまり、現代の偽作物なので原本が無いと思うしか有りません。
しかし、三内丸山遺跡なんかが記されている「大正写本」「昭和写本」といった新資料は、相変わらず和田喜八郎さんと同じ筆跡で次々と
出てくるのですから偽作は明らかなわけです。
だからといって、今さら原本を偽造するとしても、江戸時代の用語、筆法、文法、紙質、墨質などをきちんとしなければなりませんので、
まず、不可能でしょう。いくら古田さんらが「原本さえ出れば」と言っても、もう「東日流外三郡誌」の江戸期原本の出現はありえないと思いますね。
千坂 「東日流外三郡誌」は、漢籍や仏教の知識のない人物が書いた、非常に杜撰な内容ですから、ちょっとその方面の知識のある人が見れば、
すぐに偽作とわかるシロモノです。
歴史史料としては使えない
千坂 斎藤さんが「東日流外三郡誌」をダメだと思ったのは、どんなことからでしたか。
斎藤 「陸奥国の成立」を調べていたら「東日流外三郡誌」の中に多賀城の事を述べている文書「東日流古今往来」がありまして、
それには「天平宝字三年に、多賀城は蝦夷に征服され、陸奥国には一兵もいなくなり、それは田村麻呂が大軍を牽いて蝦夷を征服するまで続いた」
とありました。
つまり、「強い蝦夷軍団がいて、陸奥国を奪回したという。 わたしたち東北人には、耳ざわりの良い話なのです。
しかし、事実は違いました。天平宝字三年(759)から延暦三年(784)の間に伊冶公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱があり、
その期間の漆紙文書や木簡が、多賀城から多数発掘されておりまして陸奥国には一兵もいないどころか、多賀城が政庁として正常に機能していた
事を示しています。
それで、これは歴史史料としては、とても使える文献ではないこと示しています。
HP管理者
(漆紙文書や木簡は東北歴史博物館で実物を見ました。私は多賀城出身なので身近に政庁跡や多賀城廃寺または多賀城碑などがあります。
もちろん本物の「あらはばき神社」もあります。 和田氏が作った石塔山荒覇吐神社とは問題になりません。[工事中の写真は後ほど掲載します。])
出土や報道の後に文書が出る
千坂 彼ら(古田史学の会)は現在の考古学出土品と「東日流外三郡誌」の記述とが、一致しているという主張もしているようですが、
その点考えですか。 斉藤さんは「壺のいしぶみ」について批判しておられますね。
斉藤 色々な資料を参考にして、あれだけ書きまくった和田氏の文書の中から、ある一点のみを考古学と一致したなどと主張する事は、
こじつけにすぎません。
内容をみると石段とか普通にありうる部分だけ合っていても残りの大部分はまったく違っています。
これについては藤村明雄さんが考古学関係と「東日流外三郡誌」を比較研究していますが、彼らが見事な一致と主張している事項は、
そのすべてにおいて出土や報道が先で、その後に文書が出現しているのです。特にひどいのは、北海道の余市町の「豪華武具」出土の件です。
余市町には天内山があるので、豪華武具出土は「東日流外三郡誌」に記述のある、南朝の「天真名井宮(あまないのみや)が
渡来した証拠ではないかという、佐藤矩康さんの説が新聞報道されたのです。
そしたらほどなく寛政五年に秋田孝季が書いたという「天内山妙」(北方新社)刊 『和田家資料Ⅰ』)という新資料が出現して、
その通りの事が記されていたのです。しかも「余市の村」天内山あり。名称正しくは天真名井山なり」と書かれていたので、藤村さんが調べたら、
明治二十六年に入植してきた「あまうち=天内」家の所有地なので「天内山」という名がついた事がわかったのです。
千坂 「あまうち」を、漢字の読みだけで「あまない」と解釈してしまったのですか。偽作は歴然ですね。
しかし、この藤本さんの事は省略しますが「東日流外三郡誌」の最大のスポンサーで藤本さんも関係している偽作とみている。
「壺のいしぶみ」
斎藤 「東日流六郡誌絵巻」(津軽書房)に「都母之石碑の画」というのがあって「寛政五年」に「実写」したと書かれています。
しかし、その頃に「日本中央碑」など地上に存在しなかったのは確実で、菅江真澄がたずねても、昔埋められたという伝説しか聞けなかった事が
記載されています。 それなのに「東日流六郡誌絵巻」には、ちゃんと書いてあるのです。
これもおかしいと思い、文献的に調べてみると「日本中央碑」の形が「丸い石=つぼの形の石」という概念ができたのは、十八世紀末頃からだったのです。
それ以前の文献に現れる「日本中央碑」の形態は「細長い」形なのです。
ところが「東日流六郡誌絵巻」では、丸い形で描かれています。
つまり新しいわけです。そして現代の「日本中央碑」は昭和二十四年に出土したといわれているものですから、それと形状的にそっくりというのは、
「東日流六郡誌絵巻」は昭和二十四年以降に描かれた可能性さえもあります。
HP管理者
私の記事に多賀城市にある。本物の「壺の碑」があります。ここにリンクしました。
多賀城碑(壺の碑)・多賀城廃寺跡/多賀城市
千坂 現地で実際に「日本中央碑」を見た感想はどうですか。
斎藤 古いものではないでしょうね。石英質多孔岩の自然な表面に、一定しない深さで、浅く「日本中央碑」と彫ってあり、
裏をみても古田さんが言うような、はっきりした切削の痕跡などはありません。あくまでも自然な岩です。
これについては青森市の松田弘州さんも書いてまして(あすなろ舎刊『古田史学の大崩壊』)、やはり発見当時には偽作と真作両説が出て、
郷土史家の葛西覧造さん、成田彦栄さんといった人達は、文字を削った面が新しいので、近頃彫られたものだと主張しているんですね。
千坂 ちょっと専門的な人なら、偽書だという事はすぐにわかるのですが、一般の人達は、有名な人やオカルトに傾倒した人達の書いたものを、
きちんとした裏付けがないにもかかわらず、信じてしまいがちです。
東北でも地域の小出版物などの中に「アラハバキ族」とか「アラハバキ魂」などの言葉が、ときに見られますが、
それによって地域の伝承が変質するかもしれない、非常に危険な状態だと思います。
いくらおかしいという例を挙げても「それは一部で、すべてを偽作とは証明できない。何割かは真実が含まれている」と主張してきます。
しかし、学問的には、正しいと証明されない限り、すべてが疑問の対象であるはずなのに、彼らは何の学問的証明もせずに都合の良い部分だけ
引用していろいろ書いているのです。
千坂 中には、自信過剰のあまり、自分の主張が正しいのだから、証明するまでもないと考える人もいます。しかし、大部分の人達は、
定常な理性と理解力を持っていますから、だれが見ても偽書だとわかるような例をだせば問題が氷解すると思うんです。
そこで、いくつかそれを挙げてもらえませんか。
斎藤 「東日流外三郡誌」が文書学的に怪しいという例は限りなくあります。
例えば改元以前の月に、まだ使われていない年号が記されていたり、閏月に書かれた文書がほとんどなかったり、
記述の内容と年代が合わなかったり、近代的内容だったり、まったく従来の文書学の常識を逸脱したものである事は、
千坂先生もご指摘の通りで、また多くの研究家も指摘しているところです。
例えば下記の図ですが、これは太陽系の天体図と、地球の太古図のつもりでしょうが、天体図には「明治壬寅(三十五)年発行大英天文学書より」
と書かれた文書に、大正五年に発見された冥王星が記されております。
また地球の太古図には「ウエゲナー学説 明治辛巳(十四)年発表と有りますが、明治十四年といえば、ウエゲナーはまだ一歳で、
大陸移動説を発表するのは、それから三十年後のことですから、こんな文書の史料価値はありません。
偽作者は仏教に無知な現代人
偽作者の教養の無さが「東日流外三郡誌」表れていることを発見できない「東北」にも問題があるのではないかと言っている。
例えば、市浦村(後で詳しく記述します)というのは、昭和三十年に合併してできた村なのに「東日流外三郡誌」に載っていること。
または、大湯ストーンサークル環状列石(以前記事にしています)は、昭和七年に発掘されたのに、それが記されていることなど明らかにおかしい。
このような事が判れば、「事実から眼をそむけて、なんとなく反体制的なムードに流される」ということもなくなるのでは・・・
ビックバンを書いたり、宇宙の年齢とか、冥王星とか、そういうまったく新しいものを「和田家文書」に載せるということも、呆れたことですが、
下記の図を見てください。
山王坊に関する図ですが、無知というか、本当にひどいものだと思いますよ。
老荘思想とか仏教とかそういう江戸時代の知識人が持ったような知識が、「東日流外三郡誌」の作者には全然わかっていません。
仏教の知識のある人が見ると、誠にばかばかしいのです。奈良時代の宗派の事がまったくわかっていないんですよ。
奈良時代の仏教は南都六宗といいましてね、これは学校でも習うのですが、律、華厳、法相、これが左に書いてあります。
「山王坊明細図」は、江戸期の人物が書いたとは思われない。表現の誤り、誤字がいくつかみられ、仏教の知識が薄い現代人の作です。あろう。
ところが右側を見てください。 「三輪」と書いています。しかしこれは「三論」の間違いなのです。
一番下に倶舎とあるのはいいのですが、日吉神社の下のところに「実成」と書いてありますが、これは反対なのです。
「成実」(じょうじつ)といいます。
南都六宗は、今の宗派とは違うのです。
奈良時代の南都六宗は、正式のお坊さんが学ばなければならない、六つの学問分野なのです。・・・・・
和田氏はともかく、親鸞の研究者などと自称している古田氏や、専門家の佐藤堅瑞氏までが、仏教の知識不足で「東日流外三郡誌」を
擁護しているのは嘆かわしいですね。
「あんなに膨大な数の文書を一人で偽作できるはずはない」という事になるのです。
しかし、実は中味も数も、そんなに充実はしていないのです。
「北鑑全六十一巻」なんて書いてありますが、あるのは同じような内容のものが十巻程度です。張り子の虎ですよ。
これまでのものは充分一人で書ける分量です。
千坂 「東日流外三郡誌」の作者が、鎖国のさなかに日本を脱出して、中国とかロシアに渡ったということになっていますが、
最後はどこまで行ったことになっているのですか?
斎藤 エジプト、ギリシャまで行ったと書かれています。
藤本光幸さんがまとめた「和田家資料1.2」から中近東の方に行った記録がでてきます。
突然でてきます。
記録年代は同じ時期なのにそれまでの「東日流外三郡誌」には、そんな記録は一行も出てきません。
つまり出現時期とともに内容も進化しているんです。
千坂 新しく出る資料になるほど「東日流外三郡誌」の現代の作家はどんどん知識が増すことになるわけですね。
秋田孝季がいろいろなところを回ったとか、いろんなことを知っているようなことを書く。それなのに、まったく漢籍の教養もないという事が、
ものすごくアンバランスだという感じがしました。
初めての構想の段階からおかしいので、この作者はやっぱり文化的な詐欺師だということになりますよね。
今までは歴史を生かした形で、詐欺行為をやっていたので、歴史の分野から逐ー攻撃をするしかなかったわけです。
けれども最近のように、無神経に多量の創作偽書が出るようだとやはり全体の大枠の中で、今言ったような漢籍の教養さとか、
仏教に対してまったく無知であるとか、あるいは民俗学的な無知や地名などの無知を指摘することが必要ではないでしょうか。
私は、もう一つの例として阿闍羅山(あじゃらさん)を挙げたいと思います。
「アラハバキ族安倍氏の築城」の年次の中に出てくるのですが、これまたお笑いものです。
実は、安倍(阿部)氏の先祖が西暦以前の懿徳七年に築城したものとして、阿闍羅山が紹介されているのですが、
阿闍羅山というのは高速道路で北上すると、
青森県に入って碇ヶ関を過ぎたあたりに阿闍羅パーキングがあります。その左に見える山なのです。
阿闍羅というのは仏教用語で不動明王のことなのです。
偽作者は、仏教に知識がないのであまり気にしないのでしょうけれども、とにかく仏教とか漢籍に疎いという事で、
平気でこのようなことを書くのでしょうね。
だいたい不動明王の信仰が東北地方に入ってきたのは、十世紀移行と考えるのが普通です。
しかも、お釈迦様の誕生が紀元前五世紀なのでその頃に仏教が日本に渡ってくるわけがありません。
中国だって、伝来したのは一世紀です。だから、日本の紀元前に、仏教にちなんだ地名があるはずがない。
ちょっとひどすぎますね。
嘘をつくにしてももう少し仏教について学んで欲しいものです。
デタラメでも、築城の年月とか、人名や地名を詳しく、要するに細かい事をいっぱい書いて、みんなが気にしないようにするんですね。
いっぱい細かいことを書くことによって、一般人には全体像しか頭に残らないようにするといううのが「東日流外三郡誌」の
創意と構想だろうというふうに 思っています。
細かい事を指摘すればそれこそ限りがありません。正直いうと、もう構想の段階で虚偽性が見えてくるので、
この本には関わりたくないと思ってしまうのです。
「東日流外三郡誌」は他の資料を剽窃して、偽作されているようですが、一番顕著な例が『國史画帖大和櫻』(昭和十年刊行)の
絵を写している事ではないかと思われます。
これについて肯定論者は、どのような反応を示しているのでしょうか。
斎藤 下記の図は「東日流外三郡誌」と『國史画帖大和櫻』ですが、同一構図が三十五枚もありながら、
これを「東日流六郡誌絵巻」の方が自然の構図なので古いと、本末転倒の主張をしたのは、古田さんとそのグループだけで、
さすがに他の論者は一切沈黙しております。
千坂 これは誰が見ても『國史画帖大和櫻』の方が、オリジナルである事は歴然でしょう。
斎藤 専門の先生もそう言っています。『國史画帖大和櫻』の錦絵は、歌舞伎の表現を描いたものです。
一方「東日流六郡誌絵巻」は自然体なので近代的だという事です。
「東日流六郡誌絵巻」の原図(コピー)をOHPフィルム(透明シート)にコピートして重ねますと、どの図も『國史画帖大和櫻』に
ピタリと重なりますので、偽作者は『國史画帖大和櫻』の主線を鉛筆でなぞって、筆が記した事が判ります。
実は和田さんの元から漏れ出た文書が、幾度も鑑定されて、紙質や筆跡などから、戦後に偽装された事は明らかになっているのですが、
古田さんは「鑑定資料はレプリカ」「筆跡は和田さんのものではない」などと主張して、決して認めようとしません。
けれども古田さん自身が明治の紙として、「九州王朝の歴史学」というご自身の著書に載せた「和田家文書]の紙質の顕微鏡写真が実は戦後の紙のもの
だったという笑い話的なことも起きております。
斎藤 産能大教授の安本美典さんは、古田さんが「和田家文書」偽作にまで加担していると言っております。
広島の人に、古文書の紙集めを依頼したとか、古田さんのの主張どおりの新資料が次々出てくるとか和田さんの嘘に加担しているとか、
陰の噂では古田さんに関して、まだ釈明されていない怪しいところが、かなりあるようです。
虚報を作り出す人々から・・・・
斎藤 大化改新の時に蘇我蝦夷によって焼かれたはずの「天皇記」「国記」が、和田さんのところの石塔山神社にあるという話がありまして、
古田さんも講演会などで、「見つかれば素晴らしい。歴史を覆す」と言っておりました。
その文書のことは1994年5月31日の『東奥日報』夕刊で報道されましたたが、「丑寅日本記という和田家文書に「石塔山古書目録」として
書かれている内容を見ますと、でたらめだという事が一目陵然です。
『東奥日報』の載った学者のコメントも否定的でした。
この図が「天皇記 十二巻」「国記 十二巻」の他にも「和田記 一巻」「葛城記 一巻」など知られた豪族名を書いたのは良いとしても、
「努王記 一巻」「阿毎王記 二十七巻」「多利恩比孤記 一巻」「阿輩雞彌記 一巻」など中国側の文献に出てくる表記そのままの王の記録が
書いてあったり、「磐井」を王とするなど、これは古田さんの著書の影響下に成立した文書であることは明らかです。
「石塔山古書目録」に記されている「天皇記」「国記」だが、他の「磐井王記」などの文書の名称を見ると、創作であることが明らかである。
このようなものに、朝日新聞社が騙されそうになった。
朝日新聞社の関西支局に、U記者という吉田さんに心酔している方がおられまして、その方が古田さんと一緒に、
津軽まで文書を受け取りに行きました。
その時に、和田さんの家の二階の壁に、江戸期の原本が塗り込められているという話を聞いたようです。
確認などはしなかったようですが、その時に初めて古田さんとU記者は、和田さんの家に入ったそうです。
ところが大阪本社で編集委員をしておられた高橋徹さんという、古代史の本も書いておられる方が一目で偽書だと見破りまして、
朝日新聞社が買い取る話は、消えてしまったのです。
和田さんは話が違うと怒ったといいます。 それで当時古田さんがいくらかお金を立て替えたと、噂になっております。
HP管理者
まだ途中で、しばらくこの話はつづけますが、一般の東北の古代史を愛する歴史ファンには、とんだ茶番の歴史書です。
これからもっと出てきますが、町ぐるみ騙され、その偽書から生み出された多くの出版物の影響は未だに衰えません。
タイトルになっている遮光器土偶は、アラハバキ神と思っている人がまだまだいます。
ちょっと冷静になって改めて歴史を見つめなおしてもらいたくて、この記事を書いています。
古代を想像し、自分なりの持論を語るのはいいと思います。
逆にそれが楽しいのです。
しかし、そんな素人の私たちを騙すのは許せないのです。
私たちを騙せても、その道の専門家は騙せなかったようです。
まだまだ和田家文書のほころびは続きます。
「東日流六郡誌絵巻」のデタラメサ・・・から
対談者プロフィール
小野寺永幸 1925年 岩手県生まれ 岩手青年師範学校卒業 東京大学教育学部に学ぶ、中学校校長を歴任後、東北史学研究所所長
著書に「みちのく古里物語」「秘録少年農兵隊」など、多数
千坂氏は2話で紹介しています。
小野寺永幸 地元一関の事でも、おかしいなと思うことが随分書かれています。
たとえば、「東日流六郡誌絵巻」の中で「安倍安東秋田氏遺跡八十八景」というのがあるんですが、その三十三番「小松柵跡」(下図1)は、
一関にあるはずの小松柵跡と藤沢町付近の黄海の戦いと混同しているんです。
源義家に従うものが六騎ばかりになって敗走したというのは,黄海での事なのに、一関に擬定地がある小松の柵での事件としているのです。
一関は北上川とその支流祝い磐井川によって天然の要塞となっています。
磐井川が当時の前九年の役の古戦場というふうに見ていいと思う。
ところが一関近辺の地理がわからないせいか、小松の柵の擬定地が一関萩莊なのに, それを藤沢町黄海にすりかえて平気でいるんですね。
それから阿津賀志山(下図2)というのが出てくるのですが、あれは「吾妻鏡」に記述されているように、文治五年、
頼朝が攻めてくるその時の戦場なんです。
ところが、それも前九年戦争と混同しています。とてもお話になりません。
千坂 事実の間違いもひどいもんですが、描かれている絵も相当劣悪です。
中尊寺所有の「骨寺村絵図」があります。
おそらく六百年から七百年くらい前に描かれたものではないか言われているものですが、「六郡誌絵巻」とは全く違います。
昔のものは田を中心に描くか、領地の境に力点があるかで、描き方がまるで違ってくる。
小野寺永幸 昔のものは濃淡があるんですよ。遠近感を出しているんですよね。普通はこういうふうな絵が描かれていることはないですよ。
千坂 しかし、絵だけでなくわきに書かれている説明の字も相当ひどいですね。古文書らしくするならせめて崩し字ぐらいは覚えないと。
地元の人が見てもすぐわかるような地名の取り違えが多い。
さらに平泉は四十八番にさっと出てくるだけであまり書かれていない。いいかげんな事を書くためには平泉は対象として都合が悪いのです。
古文書hが相当あって研究者が多いだけではなく、内容も深くなっていますからね。
そういうところには和田さんは入って行かないというか能力的に入っていけないというか。
小野寺永幸 だから、多賀城とか胆沢城とか古い時代に持っていく。
伝承と歴史的事実の混同
千坂 正直言ってアテルイに関しては考古学的なものも出ていないし、文献にしても「続日本記」「日本記略」「日本後記」
にほんの少し出てくるだけだから、そういうところは自分の虚構を膨らませるのに誠に都合がいい。
和田家資料が初めて世に出てきた時期が、考古学的な発見、論文や新聞記事の後であるということは、斎藤隆一さんや多くの人が言っています。
ですから、個々の人達が「東日流外三郡誌」等の記事について、事実かどうかを自分の頭で自分の力で調べてみようと思いさえすれば、
偽書であることはすぐにわかると思うんです。
それから、遮光器土偶をアラハバキ神などとしているのですが、お笑ものですよ。
アラハバキ神が多賀城市や岩出山町にあることをしらないでしょうかね。
この神格をもう少し探求するような姿勢こそ求められるのに、彼はそういうことに必要性に認めていないのです。
多量の作り話を振りまいて、民衆を幻惑すればいいだけなんですからね。
和田喜八郎さんの経歴詐称が明らかになっていますが、ここではパスします。
アテルイ兵士の名簿
佐藤 阿弖流為が五百の兵を牽いて田村麻呂の軍門降った西暦802年のときのことを話し始めたんです。
その時「実はその五百の軍勢のうちのおよそ三百五十ぐらいの兵士の名前を書いたものがあるんだ」と言いだしたんです。
兵士のながわかるはずはないと思いましたが、「それはすごいですね」と相槌を打ったら、「これだ」と言って持ってきて、
ちらちらっと見せてすぐしまいそうになったのです。
そこで「ちょっとまって下さい」と言って、私がストップをかけて、「地元ですから、ぜひここだけでもちょっと写真を撮らせて下さい」
と頼んで撮らせてもらったんです。
そこには田茂亜吐呂井とか羽田大萬柵巣とか、男女川なんとかとか、北鵜貴とか江刺巌谷堂柵の云々だとかさらに、衣川江刺柵、
江尻子和賀の云々とかですね、つまりわれわれ阿弖流為の地に身近な地名がたくさん書かれているんですね。
「もう駄目駄目」と言われたけれど、隙を見て三、四枚、写真を撮ってきました。
表紙はちらっと見ただけで、写真に撮ることはできなかったんですが、たしか「北斗抄」というタイトルになっていました。
~割愛~
地元のところだけ見てもおかしいことは多いんです。
羽田というのは水沢のちょうど新幹線の水沢江刺駅のところなんですけれども、
そこは羽黒山神社があって、昔は羽黒堂村、そこが阿弖流為の柵の跡で擬定地だなんて言ってますけれども、
そこと田茂山村が明治八年に合併して、羽黒堂の「羽」と田茂山の「田」を取って羽田という地名が初めてできたのです。
田茂山は、戦国時代の武将の田茂山氏という人がいて、本拠を構えていたところと言われています。
宮城県の桃生の方から気仙、大船渡あたりに田茂山氏の城跡があったらしいんです。
今水沢市になっている分で言えば、江戸期から明治八年の合併以前に田茂山などの村名が使われているんです。
鵜の木についても江戸から明治二十二年まで、鵜木という地名が出てきます。
岩谷堂も文書では旧字を書いていますけれどもこれも安永風土記には出てきている地名です。
羽黒堂村も戦国時代の羽黒氏の本拠地だとかで、建武年間あたりにも出ているはずです。
地名辞典を調べても十四世紀にもあった地名なんですね。・・・・・
HP管理者
割愛しますが、矛盾が多すぎて呆れてしまいます。
佐藤
伝承に過ぎないことでも、文字になれば、それが事実なんだと思ってしまう。このような傾向はあちこちにたくさんあります。
そういう話にちょっと関連して言うとこの間、たまたま九月に遠野の常堅寺という河童狛犬のあるお寺の息子さんと、
(息子さんと言っても学校の先生を退職した人で、かなり高齢の方)と話をしました。
その時実は河童狛犬というけれども、作った時までは普通の狛犬でした。
私もやりましたけれども、ガキどもがみんな狛犬にまたがって、石で狛犬の頭を叩いて、だんだんだんだんやっていくうちに、
これは河童淵のそばにあるし、河童ということにしようと、みんなでもっと削って、
それで今や有名な河童狛犬というふうに言われるようになったんです」というんですね。
つまり、そういう話というのは、誰でも明白な嘘で、いわゆる遠野物語的というか、このような話はああ面白いという話で、
河童を見たというおじいさんと同じで温もりのある嘘であることがわかります。
「東日流外三郡誌」とは質が違いますね。私は狛犬の写真を集めていましたので、やはりここに行き、取材したことがありました。
下記の記事がそうです。
偽書「東日流外三郡誌」つがるそとさんぐんし 3-2へ
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