ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

偽書「東日流外三郡誌」つがるそとさんぐんし 3-2

2023年10月15日 16時55分20秒 | 古代史
「東日流外三郡誌」は現代人が作ろうとした神話だったのです。上記の和田家の写真をご覧ください。
この家がその夢の跡なのでしょう。

写真の女性がキヨヱさんが言う。
「本当にはんかくさい!。私が最初から言ってるじゃないですか。すべて喜八郎さんの作り話だと。
もともとこの家には何もなかったんです。
古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それもよりによって何千巻もだなんて・・・・。
それなのに、なんで、頭のいいはずの学者たちがコロッとだまされたんでしょうか。
不思議でしかたがありません。いいですか聞いて下さい。
古文書が落ちてきたという1947年頃、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。
原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井版を張っていませんでした。有りもしない古文書が、
ありもしない天井版を突き破って落ちてきたなんて、本当にはんかくさい話ですよ」
和田の家を、隣に住むいとこのキヨヱが買い取ったのは2002年12月だった。
和田の土地と建物は和田の死後、長男にあたる中年男性が相続していた。しかし、その男性は不幸にも2002年病死した。
様々な事情から所有権は金融業者に移り、青森地方裁判所五所川原支部で競売かけられたのを落札したのがキヨヱだった。
キヨヱにとって、この家は家庭の事情で十四歳から、結婚して隣に引っ越す十九歳まですごした「我が家同然の建物」だった。
だから、人手に渡るのがしのびなかった。
何より少女時代を過ごした家が「「東日流外三郡誌」発見の地」として、奇異な目で見られることは耐えられないことだった。
キヨヱの案内で回ったこの家は木造一部二階建てで、広さは二百平方メートルほどだった。
和田が事あるごとに強調していた「旧家」というイメージとはちょっと違う印象を受けたが、それもそのはずで、キヨヱによると
太平洋戦争直前の1940年頃の建築だという。
その事実については実際にあたった大工の小野元吉(五所川原市、故人)も証言していた。
和田が主張するほど古い家ではなかったというわけだ。
次に原田と斎藤、キヨヱ、そして私は問題の部屋へ移動することにした。
「寛政原本が壁の中に隠されている」と擁護派が繰り返し強調していたあの「二階」だった。 
そこは和田が常にこもっていたという、書斎ともいうべき空間だった。
中二階へ続く階段の入口は、隠し扉のように改造が加えられていた。
細くきしむその階段を上がると六畳ほどの小部屋があった入って正面と左側が土壁、
右側が窓という造りだった。
平屋に中二階を無理矢理くっつけたようなこの構造は東北地方では珍しいことではなく、「マゲ」と呼ばれていた。
まず、目に飛び込んできたのは、土壁の一部が壊され、崩された跡と、おびただしい数のペットボトル(1.8L)だった。
土壁に空けられた穴から向こう側をのぞいてみた。  
そこには、先ほど、一階の座敷から見上げた天井裏が広がっているだけだった。
          問題の中二階の壁の中には、寛政原本を隠す空間など存在しなかったのである。
「この家が空き家になった直後に勝ってに入り込んで、わざわざ土壁を崩した人がいるのではないでしょうか。
おそらく”寛政原本が中二階の壁の中にある”という和田さんの話を真に受けて、宝さがしに来たのでしょうね。  
しかし、この通り、土壁に開けられた穴から見えるのは一階の天井裏だけ。 
せっかく穴をあけたのに目当てのものがなくて気落ちして帰ったんだと思います。




和田の書斎と上記に記載した写真ですが、ペットボトルがあります。この中味は「尿」でした。 
「新しい和紙を古く見せるためにおしっこを付けるということを聞いたことがあります。それかなぁ?」と原田氏がいう。
「私たちはこの瞬間、文献偽作の作業場に足を踏み入れたのかも知れません。
ここが「東日流外三郡誌」事件の”現場”そのものではないでしょうか」

量的には史上最大の偽書『外三郡誌』


             



和田家の調査を報じる記事







訴えられた謎の古文書

訴訟の大まかな構図
「外三郡誌」の発見者とされる和田の著書と、「外三郡誌」そのものに、野村が撮影した写真と中央紙に発表した論文記事が勝手に使われた・・・・
というものであった。
①盗用された写真は猪垣と呼ばれる近畿地方にある特異な石垣。それなのに、古代の津軽に存在したとされる邪馬台城
(「外三郡誌」に登場する架空の城)が存在する証拠として使われた。
②その写真は十六年前に和田に送った。
③嘘の歴史は絶対許さない。  と説明した。
つまり、野村氏の論文記事を基に書いた記述が邪馬台城として写真と共に出版された。





上告申請書
このようなバッタ物の「東日流外三郡誌」をわずかでも信じていたと思うと吐き気がします。
筆跡鑑定
野村の和田氏に対する訴訟から五ヶ月後のことだ。
1993年3月 青森地裁の記者室にて・・・・
青森古文書研究会会長の鈴木政四郎と副会長の佐々木隆次の大きな声が響いた。
「『外三郡誌』の筆者や内容から見て、偽書としか考えられません。書かれた時期は昭和二十年代以降でしょう。これはまちがいありません」
膨大な資料を片手に、記者団に説明する二人の顔は自信に満ちていた。
肝心なことは、二人が「偽書作成」の具体的な時期まで言及していたことだった。
二人は「『東日流外三郡誌』に登場する記述の時代的整合性と筆跡について、古文書の専門家の立場から細かく調査し、分析しました。
「その鑑定結果です。」と前置きすると、次のように説明した。



① 『外三郡誌』が成立したのは江戸時代とされるにもかかわらず、明治以降に作られた新語が出てくる。
② 原本から書き写されたのは明治時代とされているが、字体には戦前から戦中にかけて教育を受けた者の特徴が見られる。
③『外三郡誌』と筆跡が同じ一連の和田家文書には、戦後に生産された版画用の和紙が使われている。
したがって、文書は戦後に作られたものに ほかならない。
記者に配布された資料にはこう記されていた。
「つまり、和田喜八郎氏の直筆でなされたものである」 偽書作成者として、和田の名が公の席で明らかにされたのはこれが初めてだった。

資料を手に調査結果を発表する佐々木副会長(左)と鈴木会長(右)
さらに筆跡か文章の専門家の証言がほしかった。
そこで浮かんできたのが、産業能率大学教授(当時)の安本美典(心理学・言語学・日本古代史)だった。
彼は、グリコ事件や連続幼女誘拐殺人事件の筆跡鑑定で知られる人物だった。
その一方で邪馬台国論争にも深くかかわっていることを歴史雑誌などを通して知っていた。
古代史と筆跡鑑定に詳しい安本は、まさに偽書追及の急先鋒にうってつけの存在であった。
その安本が『外三郡誌』問題に積極的にかかわり、独自に調査を進めていた・・・
週刊誌の「サンデー毎日」と安本自身が編集責任者を務める古代史専門誌『季刊 邪馬台国』(福岡市・梓書院)にこの件を掲載する直前だ、
と安本は語った。
安本は言った。
「いいですか、人間には癖というものがあります。個性とも言いますが、それはその人が書く文字にも反映されます。 
その観点から、私は『外三郡誌』で使われている文字と発見者とされる和田さん自身の文字を徹底的に比較しました。 
その結果、いろんなことがわかってきました。
いちばん重要なのは、『外三郡誌』の誤字と和田さんの誤字が共通しているということです。
例えば『於』という字がありますよね。 これが『外三郡誌』と和田さんの文章では『方に令と書いている(PCで文字が見当たらないので)』と
誤って書かれています。
また、『末』も同様に、上から二本目の横棒が長くなって『未』となります。
『陽』や『湯』にいたっては、もっと顕著です。 右側のつくりの『昜』が一画欠けて『易』となっているのです。
これは代表的な例にすぎません。 細かく言えば、もっとあります。
「つまり・・・・『外三郡誌』は和田さんが書いた可能性が極めて高いということです」



青森古文書研究会と六百キロ以上離れたところでほぼ同時に行われていた調査は、奇しくも同じ答えを導きだしていた。

『外三郡誌』以外に和田さんが発見したとされる一連の和田家文書も、和田さんが書いた可能性が高い。
(「東日流六郡誌絵巻」、「源頼朝の『奉寄』、「安東太郎宗季の『安東船商道之事』などの古文書にも同様の誤字などが見られる)

「東奥日報」一九九三年四月六日
審議論争を呼んでいる「東日流外三郡誌」に新たな疑問が投げかけられている。 文章心理学と古代史の専門家が、
東日流外三郡誌は「発表者とされる和田喜八郎氏がねつ造した偽書」とする調査結果を五日までにまとめ、根拠として「東日流外三郡誌」の写本と
和田氏の誤字の共通点を指摘。
調査結果は近く専門誌や週刊誌を通じて発表する。 
その他の記事内容は上記した内容と同じなので割愛します。
管理者
それにしても字は汚いし、絵もけして上手とは言えない。小生の感想ですが、嘘の上塗りで相当苦労したことでしょう。
これにだまされ多くの歴史家や出版社、町は多くの損害を受けたはずである。
未だに古田武彦氏などがこの歴史を参考に本を出版している、読んだ人はそれは信じてしまいネット上でも、歴史家はこの本を読んだ方がいい!
などとすっかりマインドコントロールされてしまっているようだ。 世の歴史家は、この本について偽書として相手にしていません。 
小生ももう少し書きますのでよく読んで判断していただきたい。




五戸弁護士事務所で公開された和田家文書(1993年5月)
名言をパクル?
このブログの偽書「東日流外三郡誌」の正体1でも触れたがあの福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の
『学問のすゝめ』の巻頭に登場する名言です。
もう記事にするのも面倒なのですが、かいつまんで・・・・
つまり福沢諭吉は「東日流外三郡誌」に書いてあった文を引用したという手紙を和田家に送られたということです。
いつもの通りで、手紙の実物は無く写しがあるというのです。毎度の子供だましですね。
これがその手紙のコピーです。いつもの如く、右上がりの癖字で前記した誤字もありました。
          

         
真っ向から否定する慶応大学
福沢諭吉研究センター長で教授の西川俊作は・・・・・・割愛
「三千通ある福沢の手紙の中で、一度も使われていない花押が記されていたり、公式記録では六月五日まで東京にいたはずの福沢が、
手紙では早くも翌日には大坂から手紙を出したりしています。
そして、自分の著書名を「学文之進め」と間違えるなど、これだけ短い文章の中におかしい点が数多くあります。
”大阪にて飛脚す”と有りますが手紙の三年前の明治五年にはすでに郵便の全国ネットワークができており、書簡が存在するなら郵送していたはずです。
第一、敬語を誤って使ったり、文章の意味がよくわからないなど不自然な個所が多すぎます」
HP管理者
この偽書を信じたいという方は、この記事を1からすべてをしっかり読んでいただきたい。
参考文献にしたこの古本を買って読んでいただければ一番いいのだが、それも大変でしょうから無料のこの記事を読んでください。
和田氏は自分の履歴についても明らかな嘘をついているのですが、その辺はカットしました。
私が書きたいと思っていることは、まだまだこれからです。 
本物の歴史家や学者が多くの矛盾をこの『外三郡誌』から証拠を出しているが、それでも信じて新たな書籍が出版されています。
        まるでオーム真理教の信者が今でも絶えないのと同じように、次々とこの本の信者が今でも増えているようです。
        それでは、参考にした本に戻ります。 現在引用している本は『偽書「東日流外三郡誌」事件』から抜粋しています。

        民俗学者で近畿大学民俗学研究所を務める谷川健一の見解

       「東日流外三郡誌」は、明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。

       (中略)「東日流外三郡誌」上巻十四ページに次の文章がある。

        依って都人の知謀術数なる輩に従わせざる者は蝦夷なるか。

       吾が一族の血肉は人の上の人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮らしを以て祖来の業とし・・・・」。

       元禄十年七月に秋田頼季が書いたとある文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷きにしているのを見るとき唖然とするのである。(『白鳥伝説』1986年)

       その後、谷川は和田家から見つかったとされる福沢の書簡について、さらにこう語っていた。

       嘘の上塗りをするために、和田があらたにねつ造した偽りの手紙であることは明白である」 単刀直入。

        擁護派にとっては、これ以上ない厳しい言葉だった。

        これについては前記事の正体8に記載した通りだ。

      『外三郡誌』に対して警鐘を鳴らしている人物としては、谷川の他に偽史研究家の籐野七穂がいた。

       藤野は「偽史」という専門の観点から、次のように多くの疑問符を突きつけていた。

      「写本」そのものは未公開であり、「偽書」ではないか、という疑いは払拭されていない。 

      (中略)極端な右上がりの特徴の字癖を持つ現「写本」は、「なぜかほとんど楷書」で当用漢字(旧字は國など極めて僅小)を使用しており、

       ごく新しいものとしか思えない。(中略)古代・中世の史料としての援用はおろか、江戸期の史料としての使用すら悲観的にならざれをえない。

(「東日流外三郡誌」の秘密とその問題点)「北方の楽園みちのくの王国」一九九二年)

また地元の青森県では舌鋒鋭い評論で知られる松田弘州(故人)が、『外三郡誌』の偽書性を厳しく指摘していた。

「東日流外三郡誌」は現代人によって執筆された、現代人のための《偽作・盗作》であった。 

昭和三十年代、四十年代にさまざま執筆された地方史に影響された津軽人が、図に乗って、古文書や金石文に過ぎない。

”歴史物語”をたまたま書き上げたら、そのフィクションがどうしたわけか、「ウソでも、本当らしい」と受け取られ、

歴史学会などにも少なからず影響を与え、テレビ番組にもなったが、まともな歴史家はこれをアヤシゲなものと否定した。 

だが、いまだに一部読者の「アヤシゲだがロマンがある」なんていう、ヘンテコな倫理に支えられてているのが「東日流外三郡誌」

というものなのである。(『吉田史学の大崩壊』1991年)

このような批判があることは、擁護派の面々も承知しているはずだった。 

それなのに何故、こうした疑惑にほおかむりしたまま、新たな”発見”を宣伝し、マスコミに接触してくるのか、私には大きな謎だった。 

それは、ほかの記者も同様のはずだった。

青森市内の古本屋にぶらりと入った。やはり、視線はいつしか歴史コーナーへ向かった。 

すると、ある、ある。『外三郡誌』の影響を受けた・・・もしくはそのまま引用した本が、そんな広くもない店内にずらりと並んでいた。

ジャンルは研究書にはじまり、小説、サブカルチャー、コミック、歴史専門誌と多様で、中には有名大学の教授が書いた論文のようなものまで

交じっていた。

地方、中央の出版社が競うようにして、『外三郡誌』を商品化しているのは壮観でもあった。

『外三郡誌』が1975年に『市浦村史資料編』として世に出て以来、二十年間にいかに広く、しかも深く、日本列島に浸透していたのかを改めて

思い知らされた。

また『外三郡誌』は歴史業界の中で金になる木なのだな、と実感した。真相論争の側面の一つがおぼろげに見えてきたような気がした。


『謎の東日流外三郡誌』(佐治芳彦)

『津軽出雲 縄文神の血族』(志茂田景樹)

『津軽古代王国の謎』(佐藤有文)

『真実の東北王朝』(吉田武彦)

『日本超古代王朝の謎』(鈴木旭)

『東日流外三郡誌の旅』(小舘衷三)

『東日流外三郡誌と語り部』(佐々木孝二)

『白鳥城物語』(長尾まり子)

『古代天皇の秘密』(高木彬光)

『竜の柩』(高橋克彦)・・・・・・


教科書に載っていない、本当の青森の歴史を知りたい(又は東北の歴史が知りたい)という人が多いですね。

面白いことに、偽書騒動が新聞に頻繁に出るようになってから、よけい売れるようになりました。 

購買層がそれまでの一部のマニアから一般の人へ広がったんじゃないでしょうか。

偽書騒ぎさまさまですね。

『外三郡誌』関係の書籍は雑誌類も含めて百三十冊を超え、二十一世紀に入ってもその出版ベースに衰えないという。驚くしかありません。




管理者
売れる本だから・・・もうやめて欲しいですね。私がこんな面倒な事を記事にしているのは、東北の歴史に興味を持ち楽しもうとしている
古代史好きの読者を自分の利益にするのは・・・。
私もその一人になっていました。隠された真実があるのではないか? 
そうしたら歴史は面白くなる。 こんな歴史が本当だったらいいな! そう思ってしまいました。
この偽書は、誰でも知っている本当の史実に付け加えて想像を膨らまし嘘を貫いたのです。
しかし本物の歴史家は単純なミスに気が付き相手にしなくなります。
しかし、この事件すらわからない世代にとっては新しくロマンに満ちた歴書に見えてくるのです。もちろん私も・・・
近くの歴史書を書いている人も、あれは偽書だから・・・と問題にしません。  
そこで私は、どこが偽書と言われるのか調べるようになったのです。 そうしたら何もかにもが嘘だったわけでした。
私は仕事でよく平泉を訪れていました。 以前はあの国道の脇に「安倍一族の墓」という大きな看板があったのです。 
それがある日突然無くなりました。 つまり偽書の作者に騙されて町では墓まで作っていたのです。偽物とわかり看板を外したのでしょう。
私は調べていて「そうだったのか」とその状況が一致しました。
それはのちほど記載します。  この本が真実に思われた原因の一つは、公的な本として、市浦村の資料編になってしまったからでしょう。
公的な場所が歴史書の史料に使ってしまったことは大きな間違いでした。 今は公開していません。
これについても、各書籍の中で詳しく述べていますので、引用してここに記事にしたいと思います。 
地元、五所川原市飯詰地区の人々は・・
「実を言うと、私たちは、『外三郡誌』がここまで大きくなるとは思っていなかったのです。 
甘く見ていたんですね。 他の地区の人達から”こうした疑惑があることを知っていながら、なぜ放置したのか。恥ずかしい”と言われ、
返す言葉がありませんでした。その通りだからです。 
飯詰に住む人たちはみんな、和田さんの家が江戸時代の文書が伝わるほど古い家柄じゃないことを知っています。 
もちろん和田さんの親類もです。
私は和田さんの字を知っているので、彼の筆跡は一目見ればわかります。とても特徴がありますからね。 
かなり前のことですが、和田家文書の写本と呼ばれるものを見たことがあります。 残念ながら、彼の筆跡でした。
これでは駄目だと思いました。
『外三郡誌』自体も、少しの歴史の知識があれ人なら、おかしいと思う内容です。
逆にあまりにもお粗末すぎるために、だれも取り合わなかったのかも知れません。
そうした面倒くさいことには関わりたくないという曖昧な姿勢が、この問題を大きくしたのかも知れません。
ねぶた師の”告発”
じつは『外三郡誌』に絡んでちょっと興味深い話があるんです。 和田家文書の一つに『東日流六郡誌絵巻』というのがありますよね。
 あの中に出てくる挿絵が、ある画集からの盗用なんです。
『東日流六郡誌絵巻』に掲載されている挿絵が、昔のカラー画集の絵と酷似している。 
その画集は日本史の名場面をまとめた『國史画帖大和櫻』(こくしがちょうやまとざくら)と呼ばれるもので、
一九三五年に東京の省文社から出版された。
酷似しているのは、画集に掲載されている絵六十一枚のうち二十枚以上。
ねぶた製作者として知られる千葉作龍(青森市)が気付き、「盗用である」と指摘している。
千葉と言えば、青森県に住む人ならばだれでも知っている「ねぶた師」だった。
武者絵をねぶたのモチーフに使うねぶた師たちは『國史画帖』のような歴史に題材をとった画集を参考資料にするんだそうです。
偽書騒ぎが起きてから『東日流六郡誌絵巻』と見比べてみてびっくり。これはほうっておくことができない思ったらしいです。
問題の『六郡誌絵巻』とは『東日流六郡誌大要』『東日流六郡誌考察図』など和田家文書とされるもの十巻以上を一冊にまとめたもので、
1986年に弘前市の出版社から発行されていた。
簡単にいえば『外三郡誌』の姉妹編のようなもの。



笑ってしまうほど真似て書いた事が素人でもわかる。私だったらもっと上手にかけますよ。管理者

これは、一連の和田家文書が偽書だという有力な根拠になります。
こんな本を信じる価値はゼロですね。夢中になって古代史好きになってしまった読者に謝罪してほしいところです。管理者
現在引用または編集している参考文献は《偽書「東日流外三郡誌」事件》からです。
分の中で・・・『私』と記載している部分は=(著者:齊藤光政)東奥日報社編集委員
挿絵
各方面から次々と伸びる偽書追及の手に、見えてくるもの・・・それは百聞は一見に如かず。 
絵は文章以上に説得力を持つとされるがそれは偽書問題でも同じだ。
「東日流外三郡誌」の挿絵盗用疑惑はまだまだ拡大する可能性があった。
古代史研究家の齊藤隆一(福島在住)を取材して明らかになった。 齊藤氏は言った。
「『外三郡誌』は『國史画帖』以外からも絵を盗用しているようです。




これを見てください。
左がタイム・ライフ・インターナショナル社が1969年に出版した『原始人』(クラーク・ハウエル著、ラディー・ザーリンジャー絵)
という本で右が八幡書店版『外三郡誌』の第一巻に出てくる日本列島の原人や先住民の図である。そっくりですね。下手ですけど。
編集者の衝撃の証言
証言者は弘前市内の中心部に近い、年季の入った木造住宅に住んでいた。 山上笙介。
弘前市の拠点を置く新聞社「陸奥新報」の編集部次長、常務取締役を歴任した後に退職し、執筆業をこなしながら悠々自適の生活を送っている
人物だった。
県内唯一の国立大学である弘前大学の國史研究会会員で、複数の市史編集委員を務める山上は郷土史家としても広く知られ、多くの著作があった。
そんな地方の著名人が『東日流六郡誌絵巻』に直接かかわっていたと聞いて、私は驚いた。
山上は和田家文書にかかわることになった発端から話始めた。
「弘前市内の出版社(津軽書房:筆者注)の代表からひとつづりの原稿を渡されたのが、発見者とされる和田さんとの間接的な出会いでした。
出版社からは”内容は面白いけど文章がひどい。手を入れて本にしてくれないか”と頼まれました。
黒いボールペンでびっしり書かれた原稿は文字も内容も非常に特徴的で、一目見れば忘れられない代物でした。
一読して、当時評判になっていた『外三郡誌』を、和田さん自身が口語文で書き直したものだとわかりました。
何やら難しいタイトルがついていましたが、「東日流蝦夷王国」と改題して、1983年に出版しました。もちろん、和田さんの著作としてです。
ところが、これが予想外に売れて。
内容がでたらめでも、日本の正史を、津軽の闇の歴史の視点から批判しているということで評判になったんです。
『東日流六郡誌絵巻』にかかわりを持ったのは、それから二年後の1985年のことです。 
「東日流蝦夷王国」の売れ行きに気を良くした和田さんが出版社に本にまとめて欲しい、と和田家文書を持ちこんだのです。 
この時初めて和田家文書というものを目にしました。つづり本を含めて十五巻ありました。 
一見、古文書風でしたが確認のため、古文書に詳しい市内の知人に紙質を鑑定してもらうことにしました。 
すると”明治かそれ以降のもの”という結果でした。
そのことを和田に問い合わせると、”原書の成立は江戸後期だが、ここにある現物は明治時代に書き写されたものだから当然だ”
という返事だったので、とりあえず納得して編集作業に入りました。
ところが、それからがひどくて・・・・
「それからです。大きな疑問に突き当たるようになったのは。 本物の近世文書に加筆し、文章を改竄したような跡が見られたのです。
そして何より最大の疑問は、古文書の筆跡と和田さんの筆跡があまりにも似ているということでした。
和田さんから本につけるあとがきのようなものをもらったのですが、そのボールペンの字と古文書の毛筆の書きが」とても似ていたのです。
口語体と文語体の違いはありましたが、使っている単語や言い回しもそっくりでした。 
それが、あなたが聞きたいという『東日流六郡誌絵巻』だったのです。
代々伝わる文書を読むうちに字まで似てくる・・・・。 和田の訴訟代理人を務める五戸が説明したのと同じ理屈だった。
そんなことが本当にあり得るのだろうか? 疑問を投げかける間もなく山上は続けた。
そして、和田家文書をめぐる奇怪な出来事が起きたのは、『東日流六郡誌絵巻』に続いて刊行した
『總輯 東日流六郡誌(そうしゅうつがるろくぐんし) 全』(1987年刊行)の編集作業にあたっていた時のことだったという。
「この時、持ち込まれた和田家文書も『東日流六郡誌絵巻』の時と同じで、文字と用語は和田さんの肉筆とそっくりでした。
内容的にもひどいものでした。
本物の古文書もありましたが、それは和田家とはまったく関係のないもので、それに書き加えることで、さも和田家文書のように見せているのです
偽造、変造文書のたぐいです。それが続々でてくるのです。
はなはだしい例としてこんなことがありました。 
私が”この文書とこの文書の間が抜けている。つながりになるような文書がないか、探してくれ”と和田さんに言うと一週間もすれば
ちょうどぴったりの文書をホイホイ出してくるんです。信じられますか。 こりゃあ、駄目だと思いました。
歴史上、存在しない津軽藩の役職名なども平気で出してくるのですから。和田さんが無理して新しく作っていたのです。
当然、出版社には刊行を中止するよう申しいれましたが、時期的に手遅れでした。 
結局発行部数を最小限に抑え、初版が売り切れ次第、絶版とすることにしました。 
私はそれ以来、和田さんと和田家文書とは一切関係を断ちました。
「門外不出」とされ、専門家ですら見ることがままならない和田家文書。 
その文書と発見者とされる和田家の内筆を同時に手にし、目にした山上の証言が持つ意味は重かった。
山上は文書と和田の筆跡が類似していることに気付いた最初の人物である可能性が高かった。
疑惑はその後の『總輯 東日流六郡誌 全』の編集作業を通して深まり、最終的に和田さんの制作と確信するに至ったのです。
じつは、『東日流六郡誌絵巻』については、最近の制作ではないかと、私が所属する弘前大学の國史研究会のなかでも話されていました。
こうした『國史画帖』というはっきりした種本が突きつけられればもう、和田さんも言い逃れはできないでしょう。 
私は今では、和田家文書全体を偽書とみます。
現代人が歴史の本や論文などからいろいろな話をピックアップし、これに筆を加えて都合よくまとめた創作物。
それが、「東日流外三郡誌」をはじめとする和田家文書の実態だと思います。
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《「東奥日報」1993年12月5日》
「東日流六郡誌 和田家文書に新たな疑惑」
「國史画帖」の流用?」
「絵巻の挿絵35枚が酷似」
  ユニークな古代、中世史論を展開する「東日流外三郡誌」の真偽論争が全国の歴史ファンの間で加熱する中、
和田家文書に新たな疑問が浮かんでいる。
文書の一つである『東日流六郡誌絵巻』に対して、県内の歴史愛好家らが「同絵巻の絵は昭和初期の画集からの流用」と
指摘しているもので絵巻を編集した郷土史家はその可能性を認めている。
本県に端を発した論争は新たな展開を見せそうだ。
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ひとつの幻
和田家文書の詳細をよく知る立場にある編集者自身が、和田家文書の偽書性を証言した波紋は大きかった。 
その後、この私の記事が各種の雑誌等に転載されたことでもそれがよくわかる。
そして私の取材からちょうど一年後。 
各方面の疑問に答えるように、山上は古代史専門誌の『季刊 邪馬台国』に、和田家文書は現代人の創作物で偽書ーと主張する文書を寄せた。
タイトルは、「『東日流誌』との遭遇と決別」。 その時点での山上の立場を明確にするものだった。
『季刊 邪馬台国』は『外三郡誌』の偽書問題を勢力的に掲載していた。 
この文章の中で、山上は「ひとつのまぼろしを見る」として、和田家文書の成立過程を一人の関係者の視点から推理していた。
つくりあげた文書に、煙や薄墨などを用いて古色をつける。 線香の火で、虫喰いも模造する。 
本物の文書を手に入れて、切り取りし、加筆するなど、都合よく変造する。
こうして、いろいろな雑多な、時代がかった「古文書」群が出来上がった。
青年は、これらを、江戸期・明治期、さらに、もっと古い時代のものと偽って、売るようになる。 
または無償で提供して、「実費」や謝礼をもらう。
骨董のたぐいも、同様に手がける。 これは古道具屋などで入手したガラクタや新作物に、適当な説明をつけた。
青年は壮年になり、初老にいたる。 この歳月のうちに、作成した「古文書」類は、膨大な量に達した。
この量がまた、「個人では不可能な仕事」と世間に錯覚をいだかせる。 しかし、十年、二十年をかければ、たった一人だけでも、
出来ないことはない。
なぜならば、その文字と文章は、きわめて粗雑であって、用語の正誤や文法を気にしない、書き飛ばし、たれ流しである。
一篇をつくるのに、たいした時間を必要とすまい。(中略)こうしたおぞましい偽文書は、現在もなお、ご本人の必要、または、
他からの注文に応じて、制作され公表されつづけられている。
「文章も文法も滅茶苦茶で、拙考、醜悪の限りをつくしている。 偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である。 
その絵も同然である。
ニセ骨董品屋も引き取らないような偽書を本物と思いこむのは丸太棒を呑み込むように難しい」(『季刊 邪馬台国』五十二号、1993年)
一方、これは真偽論争が本格化した1993年に、民俗学者の谷川健一が『外三郡誌』を評した言葉である。
 「五流の偽証」とは、学問に厳しい谷川らしい指摘だった。
    
        揺れる市浦村     
         ある日、編集局長(当時)のKから意外な事を言われた「偽書問題で市浦村が揺れているらしい。困っているといって来ている人もいる」
「地元の村役場幹部から」編集のトップである編集局長に”直訴”しているところに、市浦村役場の困惑と問題の根深さを感じた。
市浦村役場は『外三郡誌』を公的資料として刊行した偽書問題の”当事者”でもあった。
「東奥日報に”SOS"を発してきた村役場幹部は、1975年に『外三郡誌』が「市浦村史資料」として刊行された際編作業に携わった一人だった。
『村史資料編は』、和田さんが持っていた『外三郡誌』三百六十八巻のうちおかしいなというものを除いた約百二十巻で作りました。
最初に渡された文書は良かったのですが、だんだんいい加減なものが目立ってきたからです。
[資料編というタイトルでわかるとおり、私たちはこういうものがありますよ、世の中に紹介することを目的に出版を考えていました。
関係者の間では、当初から『外三郡誌』に対しては、”荒唐無稽”と首がかしげる人と、”これは立派な内容だ”と受けいる人の二種類がいました。
偽書、真書という議論は今に始まったことではなく、出版時から出ていたということです。
『外三郡誌』に対する疑念は編集当時からすでにあって、それを承知で出版したというのである。 
すべての事業を税金でまかなっているはずの公共機関が、である。


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