ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

あらはばき神社(荒脛巾神社)/多賀城

2008年02月02日 19時35分58秒 | 多賀城の散歩道

あらはばき神社 

このページは下記にリンクしてあるHPの「あらはばき」の中で詳しく記載しています。

この神社をご存知であろうか
私がこの存在について知ったのは、10年以上も前のことですが、近くにその神社があることを知り、はじめて足を踏み入れました。


後ほど説明する、総社宮から100メートル東側にこの石碑はありました。

鳥居をくぐって、狭い植木の間を抜けると右側に境内社なのだろうか?






社殿には、トタン板で屋根が掛けれていました。
雪の上に足跡が残っていましたので、今でも訪れる人がいるようですが、かなり傷んでいます。
説明には
本神社の勧請は相当に古く、江戸時代には、伊達家から社領が寄進されるなど由緒の深い神社である。
塩竈神社の末社の一つとされ、願をかけると腰より下の病気が治ると言い伝えられている。
2009.10.18・・・追記新たに荒脛巾神社の記事を書きました。調べているとどうも鹽竃神社も荒脛巾だったことが考えられます。





左のお堂は何だろう?   石碑には、聖徳太子と書いてあります。



太子堂なのだろうか?



今は名前を変えたが、元はあらはばき神社だったと言われる神社は多いようです。
後ほど関連する神社をアップしたいと思います。


市史には、市川伊保石にある荒脛巾神社には、腰から下の病に霊験があるという信仰があり、脛巾・脚絆・草鞋
・足袋・足の木型・杖・男根・女陰など祈願者の患部にかかわる物の供物や絵馬がおびただしく社前に奉賽されている。
安産や子授けも願われ、願う者は供えられている小さな枕を借り受け、礼詣りに二個にして供える。
さらに仙台方面の水商売の者の参詣も多く、商売繁昌を願って供えられている男根を借り受け、礼詣りに二本にして供える信仰もある。  
   
男根が男根が供えられることから道祖神の額も奉納されている。
市川村の「書出」によれば、社領が二貫文あって明和五年(1768)に御当代様が寄進したものとある。
祭日は三月と十月の二十一日で、かつては露店も出て信者を多く集めていた。
境内には※養蚕神社と地蔵堂があり、地蔵堂は「子育て地蔵」と呼ばれ、繋がれた雑器が多く供えられており、耳垂れの平穏を願う者が、その歳の数を供えるものである。
この地蔵には子供の夜泣きや子授けも願われる。
当社にはかつて福島県伊達郡の者という菊地きえ女があって祈祷のことをし、境内にある井戸が霊泉とされ、神経病の者などをこの水を沸かした風呂に入れて祈祷をしていた。

当社は鹽竈神社の末社の一つにされており、鹽竈の神が塩を煮とき、脛巾を着けて薪をとったのでこの神号があると伝えている。
しかしこの伝承は、鹽竈神社の末社に組み込まれることによって語り出されたものと推測される。
   
「脛巾を着けて」、と漢字から神号や社名の意義を伝えているが、関係が無いと私は思います。
それは、昔(漢字が使われる前)から存在する神社と考えられます。
当然このような社殿が設けられる前の話です。
ですから、漢字は後から当てられたもので、地域により漢字は異なる。

※養蚕神社
古くは立石(壺の碑)のある岡に鎮座していた。コガイサンと呼ばれている。
かつてこの地では養蚕が盛んであったが、現在この神を養蚕の神とする信仰はない。
喘息の平癒に霊験があるとされ、願う者は痰の根を切るといって、供えられている鋏(はさみ)を一挺(いっちょう)借り受け、礼詣りに二挺にして納める。
社には供えられた多くの鋏がある。


写真を撮り直しました。 あらはばき神社/多賀城
2009.10.21
荒脛巾神社/岩出山の記事はこちらをクリック

アラハバキ神についてまとめてホームページにアップしました。

   「あらはばき」   クリック



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9 コメント

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三春のサラリーウーマンさんへ (ひー )
2011-06-19 21:54:29
どのページからメッセージを頂いたのか判断出来ず、このページにコメントを残します。
メッセージを頂ありがとうございました。
メルアドがわかれば返信出来るのですが、メッセージからだとわかりませんので この場で失礼致します。
多賀城のボランティアガイドさんなら国府多賀城駅に詰所があります。
アラハバキ神社と言われる所廻りたいのですが今回の震災で一時停止状態です。
三春町にも大元神社だったと思いますが、アラハバキと言われています。
会津にもありますので、近いうちに行きたいと考えています。
コメントありがとうございました (大京)
2011-06-23 23:19:53
ここにコメントをして頂いていることも知らずに、またコメントしてしまい失礼いたしました。
本日は、夜勤明けで、り災と被災証明書を取りがてら、教えていただいた「三春の田村大元神社」に行ってまいりました。
わたくし、地元は会津で、今までは幕末にしか興味がなかったものですから、引っ越してきてからずいぶん経つのに、三春の町を知らないのです・・・。
「三春の田村大元神社」は、素晴らしく手入れが行き届いた厳粛な神社でした。これがアラハバキ神社なのか?と思うと、また、どなたかに伝説を聞きたくなってしまいました。
また、実家に帰省した際には、会津のアラハバキ神社にもいってこようかと思っております。

国府多賀城駅で、パンフレットを物色しているわたくしに、色々な説明をしてくれた親切な方も「多賀城ボランティアガイド」の方でした。
あの場所にまで水が押し寄せ、今年の稲作ができないと聞き愕然としました。かける言葉もありません・・・。

また、近々みちのく公園の荒吐ロックフェスに出かけます。宮城でお金を落とすことも復興の一つだと思って、自分も頑張ります。
大京さんへ (ひー)
2011-06-24 10:01:11
大元の神・・・アラハバキとは表現していませんが、一番最初の大元であった神様のことでしょう。
今は祭神が変わったりして不明になっている部分があるかもしれません。
先日、総社宮に行って来ました。
今日も行きます。
数日後にモクレンやご神木をアップしたいと思います。
落ち着くまで、なかなか出かけられませんが、会津と三春には必ず行くつもりです。
また、アラハバキの記事を追加で書く予定です。

たまに覗いていただければ嬉しいです。
たまにと言われても・・・ (大京)
2011-06-25 22:57:26
電源を入れる度に覗いています。
総社宮の白木蓮には感動してしまって、本当にしなやかで雄大な名木でした。・・・ただ、自分の簡単デジカメでは全身像を捉えられず、自分の目に焼き付けて帰りました。となりの老杉も立派で、なかなか枝分かれしている杉には出逢えないので、ちょっとびっくりしました。(京都の庭園で人工的に作られたものや、杉の種類は違うけれど「屋久杉」とかしか知りませんので・・・)
アラハバキ神社のサルスベリもかなりの名木で、赤穂の花岳寺にあるサルスベリを思い出しました。お寺や神社にある名木を見れば、その場所の古が伝わるような気がします。三春の大元神社も色々な名木で取り囲まれておりました。そこだけ空気が違いますね。
そういえば、ボランティアガイドさんが、作貫地区の木蓮も案内してくれました。こちらは紫木蓮のようなので、見比べるために、また、咲いている時期にも訪れなければなぁと思った次第です。
ひーさんのHPの写真は素晴らしいので、楽しみにしています。
大京さんへ (ひー )
2011-06-25 23:39:10
樹木にお詳しいのですね。
私は、サッパリ気付きませんで適当に撮影しています。
御神木は気を付けて見ますがやはりその大木を一枚の写真に収めるには広角レンズが必要ですね。
先日は、自分もコンデジでしたので、その存在しか撮影してきませんでした 。
面白いものですね。
参拝者の趣味趣向で着目点が違ってきますね。
私も樹木や花にも観察を広めたいと思います。
私の最初の入口は狛犬に興味が湧いたことでした。
表情が面白くてね。
お疲れ様です (大京)
2011-08-01 00:41:13
引っ越し、お疲れ様です。
震度6強の郡山でも全壊でさら地になってしまったところが目立ちます・・・。震度7の宮城は如何ばかりか・・・。落ち着いた日常が戻ると良いですね。

こちらも放射線が高く、どうすることもできませんが、ここにしか住めないので、なんとか前を向いているところです。私も40歳を過ぎましたので、深く考えないようにしています。私たち夫婦には子供がいないので、裏の畑の野菜も気にせずに食べるようにしていますが、小さな子供がいる家は深刻です。今後どうするかは、それぞれがあらゆる情報を探り、自分で選択し決定するしか方法がありません。(おっと、いけません。本日はこの話ではありませんでした。)

先日、3週間待って、ようやく「記紀解体」が手に入りました!まだ読み始めたばかりで、漢字も多いし読みずらいですが、それでも面白いです!古代は謎に満ちていますね。
大京さんへ (ひー)
2011-08-01 07:13:38
あの本、買われましたか・・、あの中に一部「東日流外三郡誌」つがるそとさんぐんし(和田家文書)の記事が出てきますが、現在は「偽書」とされています。
紙や記述が歴史的に食い違うようです。
その話は、いずれ記事にします。
また、あらはばきについて追記する予定です。
古代への興味が尽きません。
当然私も素人でありますから、なかなか頭に入りませんよww
放射線ですが、福島信夫山辺りが強いようですね。
どこもかしこも・・・・
困ったものです。
また、コメント下さい。
また、失礼いたいます。 (大京)
2011-09-13 19:25:44
日本書記も古事記も、ひーさんが言われるようになかなかグロテスクですよね。
わたしも、頭に入らない年頃になってまいりました・・・。
今は、自分で日本書紀の家系図を作成しております。
漫画でも数ページしか進んでいないのに、レポート用紙3枚もつぎ足しました・・・。
完成するかな?
先日、荒吐ロックフェスに出かけた帰りに、大崎八幡宮に寄りました。
何度も訪れておりますが、今回初めて由来に「田村麻呂」の名前を見つけました。直接関係なさそうでしたが、ちょっと気になりました。
おまけに最近、摂社、末社が気になり、初めてよくよく見てみましたが、祭神が大物主神だったように思います。
関係あるのでしょうか?

そういえば、田村麻呂生誕1200年祭は無事に終わったようです。
今度は、滝根町に田村麻呂と豪族「オオタキ丸」が戦った跡地に碑を建てるらしいです。
大京さんへ (ひー )
2011-09-14 07:53:29
大崎八幡は伊達家と共に転々と鎮座地を移転してきました。
当然、この地にも古くから別の神社があったと見ても不思議じゃ無いですね。また移動している間に合祀された物もあったかもしれません。
これも、一つの勢力によりよる影響なのかも知れませんね?
田村磨呂の活躍や伝説は多いですね。
アテルイの征伐から始まり、あちこちにありますね。
京都の清水寺にアテルイのお墓があります。
坂上田村磨呂の創建ですが、一説にはアテルイの為に・・・と云う説もあります。
都に連れられたアテルイを随分擁護したそうですが、処刑にあいました。
初の征伐夷大将軍、厳密には二番目かも?ですが、本来蝦夷征伐をする大将軍であり 後の鎌倉時代や江戸時代の徳川になると、位としての意味だけになってますね。
時代と共に色々と変化していくものです。



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