何だか世俗の事がどうでもよくなってきた。
年末にテレビがお陀仏になったと勘違いして以来テレビをしばらく観なかったので、真剣にブラウン管を凝視する事も随分少なくなってしまった。
元々さして面白くもないテレビには結構前から興味を失っていたのだけれど…。
その時によって夢中になっているものが結構違うのが私という人間で、いま興味があるのがカトリック教会という組織。
元々は自分には手に負えない事が多くなって、祈る場所が必要だった事もある。
基本的に自分の事はどうでもよくて、祈るのは社会病理や他人の幸せばかりである。
この辺りの問題になってくると自分ではどうにも出来ないから、全て「神」に押し付けてしまうのだ。
信者さんからは非常に感心されていて、誉められてしまう。
私が真剣に神に祈る姿勢が彼らには嬉しいらしい。
でも私はイエスをそう崇めたててもいないから、少々心が痛む。
余談ではあるが私は特定の人物を手放しで崇め奉る事は決してないのでそこは勘違いしないで頂きたい。
才能や実績や作品は素直に評価はするし、楽しまなければ損だと思っているので、ライヴなどのイベントでは意図的にノルようにはしているけれど…。
歴史的な古さからか数ある宗教の中でもカトリックのミサというものは儀式として非常に完成度が高く、催眠術とプラシーボ効果の応用で、出席すると、一定の効用があり、ひとときではあるのだが得も言われぬ気持ちの晴れやかさが持続する。
生まれ育った環境や土地柄からそう宗教に抵抗がない私は、その儀式に出る事により精神衛生が保てる事を経験的に知っていたようなのだ。
秩序が崩壊し、そこで生きている人々を確実に蝕んでいるこの現代社会に於いて、このことを知っていたのは非常に大きかった。
90年代半ばの大きな事件などから、宗教=悪、と考えている人が多いようだが、それは正しくもあり間違いでもある事。
他人を安易に信じられなくなってしまった現代日本では、社会生活を営む事により、心の平安を保つように出来ている生物である人間は精神のバランスを崩しやすい。
精神のバランスを崩した時はまず精神科に行き医師の診断を受ける事をオススメする。
ただそこにはコミュニティーが存在しないので、悩みや喜びの「分かち合い」が医師やカウンセラー以外とは出来ないのが痛い点。
田舎の現在はどうかは知らないけれど、都会の場合、その分かち合いが出来る場所の1つである地域コミュニティー自体が殆ど機能していないので、そのコミュニティーを自ら探さなけばならない。
まぁ別に宗教ではなくともいいのであるが、そこにいる人間の質の保証が出来ないのが問題でもある。
とことん底意地の悪い人間は実際に存在するので…。
コミュニティーに属したはいいがより精神的な問題を抱えては元も子もない。
各宗教にもよるし、その場所にもよるので一概には言えないのだが、規模が大きく、信徒も多く、つまり経済的に困ってなく、また教理を強引に押し付けもせず、勧誘も激しくない宗教ならまずは大丈夫。
私のこの半年の経験から判断するにその点でカトリックはまず安全。
信者になるもならないも割と自由。
全員が全員ではないけれど、一般社会のコミュニティーに比べて圧倒的に善人が多いのも事実。
たまにスピリチュアルに酷く傾倒した人もいるけれど、そこは適当に流しておけばよい。
近過ぎず、また放置でもなく、程よい距離で新しい仲間を受け入れてくれもする。
私は初めに述べた祈り事に加え、長崎県出身者という事で自分のルーツたるカトリックの勉強をちゃんとしたいとの理由で勉強会からスタートしたのだが、いつの間にかミサもすっかり好きになってしまった。
ミサは神父が完全に司祭に成りきって進められる優れたショウである。
日曜日ごとのミサや特別なミサの時は献金籠が回ってくるが、あんなものは貧乏人は100円も入れておけば充分。
そこら辺は上手く出来ていてお金を持っている人は千円くらいをポンと入れてくれているから、持たざる者は「気持ち」で払える額を収めれば構わない。
ほぼ毎日教会に行き、下手な信者さんよりもカトリックに熱心な私は、信者さんから早く洗礼受けられるといいわね!! なんて事を言われる。
カトリックに対して熱心=洗礼志願者、という概念が彼らには強くあるのもまたカトリック教徒。
でもそこは色々と理由を付けて頑なに拒否している。
「洗礼は受けません!」
と力強く言うと彼らの頭の上にはクエスチョン・マークが百くらい立ち上がり、またこの矛盾を解決したがる。
色々と目立つ私は知りたがりの信者さんの格好の好奇心の的で玩具(苦笑)なのだ。
さて困ったなっと思っていたら、私を面白がり可愛がってくれている神父さんが助け船を出してくれた、即ち「求道者」。
うんいいじゃないか、「求道者」。
とりあえずカトリックに於いて道を求め、修行に励むのも悪くない。
しばらくはこれでやり過ごそうと思っている。
年末にテレビがお陀仏になったと勘違いして以来テレビをしばらく観なかったので、真剣にブラウン管を凝視する事も随分少なくなってしまった。
元々さして面白くもないテレビには結構前から興味を失っていたのだけれど…。
その時によって夢中になっているものが結構違うのが私という人間で、いま興味があるのがカトリック教会という組織。
元々は自分には手に負えない事が多くなって、祈る場所が必要だった事もある。
基本的に自分の事はどうでもよくて、祈るのは社会病理や他人の幸せばかりである。
この辺りの問題になってくると自分ではどうにも出来ないから、全て「神」に押し付けてしまうのだ。
信者さんからは非常に感心されていて、誉められてしまう。
私が真剣に神に祈る姿勢が彼らには嬉しいらしい。
でも私はイエスをそう崇めたててもいないから、少々心が痛む。
余談ではあるが私は特定の人物を手放しで崇め奉る事は決してないのでそこは勘違いしないで頂きたい。
才能や実績や作品は素直に評価はするし、楽しまなければ損だと思っているので、ライヴなどのイベントでは意図的にノルようにはしているけれど…。
歴史的な古さからか数ある宗教の中でもカトリックのミサというものは儀式として非常に完成度が高く、催眠術とプラシーボ効果の応用で、出席すると、一定の効用があり、ひとときではあるのだが得も言われぬ気持ちの晴れやかさが持続する。
生まれ育った環境や土地柄からそう宗教に抵抗がない私は、その儀式に出る事により精神衛生が保てる事を経験的に知っていたようなのだ。
秩序が崩壊し、そこで生きている人々を確実に蝕んでいるこの現代社会に於いて、このことを知っていたのは非常に大きかった。
90年代半ばの大きな事件などから、宗教=悪、と考えている人が多いようだが、それは正しくもあり間違いでもある事。
他人を安易に信じられなくなってしまった現代日本では、社会生活を営む事により、心の平安を保つように出来ている生物である人間は精神のバランスを崩しやすい。
精神のバランスを崩した時はまず精神科に行き医師の診断を受ける事をオススメする。
ただそこにはコミュニティーが存在しないので、悩みや喜びの「分かち合い」が医師やカウンセラー以外とは出来ないのが痛い点。
田舎の現在はどうかは知らないけれど、都会の場合、その分かち合いが出来る場所の1つである地域コミュニティー自体が殆ど機能していないので、そのコミュニティーを自ら探さなけばならない。
まぁ別に宗教ではなくともいいのであるが、そこにいる人間の質の保証が出来ないのが問題でもある。
とことん底意地の悪い人間は実際に存在するので…。
コミュニティーに属したはいいがより精神的な問題を抱えては元も子もない。
各宗教にもよるし、その場所にもよるので一概には言えないのだが、規模が大きく、信徒も多く、つまり経済的に困ってなく、また教理を強引に押し付けもせず、勧誘も激しくない宗教ならまずは大丈夫。
私のこの半年の経験から判断するにその点でカトリックはまず安全。
信者になるもならないも割と自由。
全員が全員ではないけれど、一般社会のコミュニティーに比べて圧倒的に善人が多いのも事実。
たまにスピリチュアルに酷く傾倒した人もいるけれど、そこは適当に流しておけばよい。
近過ぎず、また放置でもなく、程よい距離で新しい仲間を受け入れてくれもする。
私は初めに述べた祈り事に加え、長崎県出身者という事で自分のルーツたるカトリックの勉強をちゃんとしたいとの理由で勉強会からスタートしたのだが、いつの間にかミサもすっかり好きになってしまった。
ミサは神父が完全に司祭に成りきって進められる優れたショウである。
日曜日ごとのミサや特別なミサの時は献金籠が回ってくるが、あんなものは貧乏人は100円も入れておけば充分。
そこら辺は上手く出来ていてお金を持っている人は千円くらいをポンと入れてくれているから、持たざる者は「気持ち」で払える額を収めれば構わない。
ほぼ毎日教会に行き、下手な信者さんよりもカトリックに熱心な私は、信者さんから早く洗礼受けられるといいわね!! なんて事を言われる。
カトリックに対して熱心=洗礼志願者、という概念が彼らには強くあるのもまたカトリック教徒。
でもそこは色々と理由を付けて頑なに拒否している。
「洗礼は受けません!」
と力強く言うと彼らの頭の上にはクエスチョン・マークが百くらい立ち上がり、またこの矛盾を解決したがる。
色々と目立つ私は知りたがりの信者さんの格好の好奇心の的で玩具(苦笑)なのだ。
さて困ったなっと思っていたら、私を面白がり可愛がってくれている神父さんが助け船を出してくれた、即ち「求道者」。
うんいいじゃないか、「求道者」。
とりあえずカトリックに於いて道を求め、修行に励むのも悪くない。
しばらくはこれでやり過ごそうと思っている。