「・・・・ああいう人間はなあ、自分の悪いことを棚に上げて、世間でなに言いふらすやわからん。そんなことがおまえさんの耳に入ったら、あまりいい気のもんやないやろ。わかったんな。ほなあすでもあさってでも市助(いちすけ)の顔見たら、あんじょうしときなはれや」 :P.99 六代目笑福亭松鶴「市助酒(いちすけざけ)」角川文庫 昭和51年9月29日3版発行
引用した松鶴の落語では
どつき漫才などではまず見られないことを、登場人物にさりげなく語らせます。晩年にいはもうろれつが回らない松鶴でしたが、こんなのは得意でしたね。
談志が「落語は業(ごう)の肯定」としたのは皮相的で、それでは江戸落語のレベルをおとしめるもの。
もっと他に言い方があるはずですが、落語を小馬鹿にしている人を揶揄(やゆ)する表現ならば、レベルの低いうぬぼれ型の談志らしい、と言えます。
しかし、そんな程度のことなら、芝居・浄瑠璃などなどで、誰でもが、とっくの昔からわかっていることなのです。
上の引用文は、
ある商家の旦那が、前を通りかかった市助を邪険に扱った番頭に説教している場面で、「世間は広いため、自分のことを棚に上げて何を言い出すかわからない人がいるので、注意し、余計なことを言わないほうがいい」、という意味でした。
言いたい人には言わせておけばいい、という日本独自の処世術で、そんな一風変った人でさえ社会から抹殺しようとせず、いくら向こうが間違っていると思っても、うっちゃっておけ、とするのが特徴です。
なぜ、これをもち出したか、といえば「棚に上げて」で中国・韓国を連想したからです。
両国では、社会の方針、つまり為政者の方針ですが、これに合致しない国民を、社会から抹殺しようとします。「自分だけが正しい・自分だけが善」という揺るぎない「妙な信仰」があるため、中国人や韓国人が「自分のお粗末さを棚に上げて、何を言い出すか分らない」とは、まさに言い得て妙。
この国の人たちが相手国を非難する言葉の中にこそ、非難している本人に一番欠けているものが含まれている、ということが直感でも分るし、冷静に見てももちろん理解できます。
自分の欠点を次から次へ述べられるのは、すべて自分の欠点ですから、自分が一番よく知っている、だからあれほど堂々と自信をもって言えるのでした(笑)。
言論の自由がまったくない中国・韓国では
国家社会の主張に従わない人を徹底的に弾圧・抹殺しようとする傾向が見られ、法律で禁止するなどの措置をとりたがるようです。
北京ではNHKの生放送内で「中国共産党が捏造した、不都合な場面になると、躊躇なく放送を遮断」して国民が視聴できなくしています。
韓国でも為政者に都合の悪いことを禁じる法律がどんどんできて、一見して法治国家のように見えますが、危険な人治国家でした。
これが「危険人物」と言えども、「余計なことを言わずうっちゃっておく」原則がある日本との大きな違いですね。
中国や韓国、その他の宗教を絶対視する国には、漫才のようなものはあっても、落語のような芸能は存在しないだろう、と思われます。
日本では、いわばガス抜きの役割を果す落語のおかげもあり、たまった不満が社会に噴出することが少なくなり、大切な役割を果していると言えるのです。
それはそうですね。国家社会を批判することは、為政者の国家運営に疑義をもたらすわけで、それを認めるか認めないだけのこと。中国での年間暴動数が10万件とか、韓国人がいつもケンカに明け暮れているのと比較すれば、この真意が分ります。
よって、社会を批判することは、一党独裁の中国共産党が建国した中華人民共和国では、厳しく禁じられていて、日本の落語のようなものが発達するはずがないのでした。
韓国でも、韓国の憲法にさえ抵触する「親日法」を平気で施行するほどですから、社会を自由に批判することなど、あり得ないでしょう(大笑)。
参考:中国の相声(そうせい/しょうせい)
落語に、このような役割があるということを初めて知った方もいらっしゃるかもしれませんが、いま静かな落語ブームらしい。私は誰も見向きもしない時代から落語の魅力を理解しておりました。
ただし番組収録の時間帯の関係かも知れませんが、NHKの演芸図鑑の観客が女性ばかりなのは、どうも不自然! いかにも「クサイ」NHKの演出、としておきましょう(笑)。