カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

中国に関する醜聞 157 慈悲がない

2016年11月10日 08時04分42秒 | アジア

本人が否定しようが、肯定しようが、誰にも醜聞があります。

ここでは最近の「中国の醜聞」を集めてみました。必要な方のために出典も明示しています。 


中国人は〈哀れみの心(bowels)〉は持っているが〈慈悲心(mercies)〉は全く持たない。:P.238 アーサー・H・スミス「中国人的性格」石井宗晧・岩﨑菜子訳 中公叢書2015年8月25日初版発行 


ことばの定義と翻訳の問題が重なり、難しいところですが

日本では「哀れみ」も「慈悲心」も似たような言葉だと思います。

スミスは、中国人の中には、哀れな人たちをみて心を痛める人がいるけれども

    1. 哀れな人たちを救おうと思う人がいない
    2. 哀れな人たちを救おうとする組織がない
    3. 哀れな人たちが減る社会を望んでいない

とみたのであり、だからこそ

中国人には哀れみの心はあるが、慈悲心はない」と述べたのでしょう。

120年も前の中国を観察したアメリカ人宣教師の話ですから割り引いて考えなければなりませんが、弾圧支配の継続しか念頭にない中国共産党をみていると、スミスの説がいくらキリスト教的な見方に過ぎないとはいえ、納得すること多々ある、と言えます。

ただし当初

この本を読み始めた時には感じませんでしたが、ややキリスト教的な教義に裏打ちされた理念が見られ、現在ヨーロッパやアメリカと言ったキリスト教系の国がかかえている本質的な問題を思い出してしまうのでした。

キリスト教を国是とする限り、イスラム教国との対立はおさまらないでしょう。

ISを

イラクやシリアから追い出すことは、困難でしょうが近く実現すると思われます。しかしそれでキリスト教とイスラム教の対立が終わったわけではないのですね。

イラクやシリアを追われたイスラム過激派が、豊富な資金力を携えたまま中央アジアから中国西部へ逃げて、そこで何か事件を起こすのでは、と憂えています。

問題は多いかも知れませんが、まだ人間の平等を説く仏教のほうに、どちらかといえば軍配を挙げたいと私は思うのでした。私には、いくら立派なことを言っても、キリストやアッラーの教えに従っている限り両者の対立はおさまりそうにない、と思われるのです。

また

キリスト教があるから「かろうじて」道徳が残り、イスラム教があるから「かろうじて」一体感がある

というなら

あのひどい年間暴力事件20万件とされる中国で中国共産党があるから「かろうじて」弾圧支配できている

とさえ言えるのでしょう。補足すれば、中国共産党がなくなれば、もうどんな不法地帯になるかわからない、という意味です。

スミスの中国批判は

注意深くとらえなければなりませんが、かといって昔の中国や今の中国が好ましいとは絶対になりません。今の中国は最悪であり、なんとかして改善されなければならない、私はそう信じております。


中国では、1人の栄達は1家1族の栄達につながる。そのことを「1人得道9祖昇天」(1人が成功すれば9代前の祖先までパラダイスに行ける)とか、「1人得道鶏犬昇天」(1人が成功すればその家で飼っているニワトリや犬まで天国暮らしができる)と言われている。

もちろん、その逆は「1人有罪、誅其9族」(1人が罪になると遠い親戚まで課せられる)と言い、失脚した時は9族無慈悲に誅殺される運命が待っている。

:P.75-76 黄文雄「儒禍 中国2000年の呪縛」2014年9月20日初版第1刷発行 光文社 


ある1人が出世すれば親戚中に富が行き渡る

これは一見してよさそうなのですが、実は役得・賄賂・不正蓄財などを黙認・推進することにつながり、そうとう深刻な問題です。120年前に比べそう変わりがないのをみると、これこそ中国の本質と言えそうです。

これだから歴代の中国で、人は命がけで仕官を試み、裕福に暮らすことを夢みるのですね。夢みることは大切ですが、それが無数の衝突対立を生んで、支配者はそれをあおることで支配を続けられていることを理解している人は、そう多くないと思うのです。

ニンジンをぶら下げて国民を夢であおり、自らの不正を隠蔽する国家には明日がない、とみるのはやむを得ません。

今の中国は、日本でいうなら平安時代末期、あるいは戦国時代のような、不安におののく暗い時代です。私たちはほんの一握りの中国人たちだけを見せられて、何らかの判断をしているのではないか、と思うのです。

現実の悲惨な中国を取材することを中国共産党政府が認めるはずなど、絶対にありません。

中国には交代すべき政党が存在せず

方針に反する人物を秘密裏に粛清し、どんな失政があろうとも、国民への言論弾圧を行使して何も言わせず、報道規制によって永遠に中国共産党を称賛し続けています。

しかしこういったいびつな状態が長く続くのかどうかは疑問で、私としては、1000年前の日本を演じる中国共産党政府に幸あれと祈るばかりです(笑)。

平家一族が船で逃亡を企て壇ノ浦で滅亡したように、中国共産党幹部連中が船を使って黄河経由で逃亡を企て滅亡する、あるいはこれに類似することが、近々起こりそうに思えてなりません。

それほどヒドい国民無視を続けているからで、このような悪夢さえ近々実現しそうに思われます。

もう一つの問題点は

儒教に特有ですが、罪人の子孫は永遠に「罪人の子」という深刻な理念。

ただし「不都合な過去を隠蔽」する工作は中国共産党らしいところです。韓国で初対面の相手にしつこく先祖を聞きたがることが多いと聞いていますが、この時にも立派に生きている工作ですね(笑)。

この「罪人の子は罪人」という考え方は「ニンジンをぶら下げて支配する」のと対をなす重要な儒教の法則らしく、いずれも恐怖の弾圧につながります。中国社会がいまだに時代劇を演じるしかないことの遠因になっております。

このような中国が不法に得た富を奪い取ろうとする世界中の人たちに、私は幸あれと祈らずにはいられません。

これらの人にとって、実際の中国での人権無視や弾圧など、どうでもいいのでしょう。


「往来において口論の上、然のみならず喧嘩をいたし、上(かみ)多用のところ手数をかくる段不届きの至り、重きお咎めもあるべきところ今般格別のお慈悲をもって許しつかわす。以後喧嘩口論を致すときは、きっと糾明申しつくるものなり、その旨心得て一同、(声を張り上げ)立ちませえッ」

:P.57-58 三遊亭圓生「圓生古典落語1」「佐々木政談より抜粋」関山和夫監修 集英社文庫 昭和54年10月25日第1刷 


これは

落語「佐々木政談」の一部で、子供が「裁きの遊び」をしている光景を、本物の奉行が見ている、という設定になっています。

ここでは、例の北朝鮮が韓国を威嚇するときの「無慈悲な攻撃を覚悟せよ」で有名な「慈悲」が、お上のありがたい「慈悲」に代わっております。

私など

20歳の頃の漫才全盛時代から落語に興味をもっていたので、昨今が空前の落語ブームだと言われても、「そんなはずはない」と思うだけで、さっぱりその意味が分りません。

  • このブームを当て込んだ業者たちがもうかり、ブームが去ればどこかへ行ってしまう人たちが多いのではないかと、私は冷静に見ております。
  • 全国の落語家が何百名にも達すると聞けば、確かに多すぎると思うと同時に、江戸の落語会がひとつにまとまる気配は見られません!全国で200名程度が相場ではないかと思います。
  • ただし「噺家」の概念が変わってきて、従来の落語ではない新しい分野が生まれるのではないか、と思っています。

このブームもいずれ去るときがくるはず、とにらんでおります。

さてさて、皆様はどう思われますか。


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