平成太平記

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「反アベ」で議論が終始することへの違和感 都知事選にまで持ち込まれる「ワンフレーズの正義」

2016年07月15日 17時15分44秒 | Weblog

「反アベ」で議論が終始することへの違和感 都知事選にまで持ち込まれる「ワンフレーズの正義」

■「お前は人間じゃない!」という叫び

「自・公」対「民進・共産・社民・生活」連合の戦いとなった参議院選挙に続いて、

野党統一候補・鳥越俊太郎氏の出馬で都知事選でも同様の構図が見られることになった。

 この数年、日本の政治は常に「安倍」vs「反アベ」という論点で常に語られてきた。参院選後、民進党の岡田克也代表は「安倍政権下での憲法改正論議には応じられない」旨の発言をしている。要は「アベとはまともに話せない」というスタンスだ。

「反アベ」の象徴とも言えるのが、昨年、国会前で頻繁に行なわれたデモだろう。鳥越氏も参加したこのデモには、「民進~」連合の党首たちも参加して、「連帯」ぶりを見せつけていた。

鳥越俊太郎氏

こうしたデモについて、「民主主義の健全さを示すものだ」と高く評価する論者も多い。

彼らは、「民主主義を破壊するアベの危険性がなぜ分からないのか」と危機感を募らせており、強い言葉で首相を批判し続ける。

「反知性主義」「ナチスと同じ」「戦争好き」等々。

もっとも有名なフレーズの一つは、デモに参加した学者が発した「アベに言いたい。お前は人間じゃない!」だろうか。

しかし一方で、こうした主張や論法に抵抗を持つ人も少なくない。

そういう人たちはデモこそ行なわないものの、どこかデモをする人たちに違和感を抱えているようだ。

その違和感はどこから来るものなのか。

日本大学危機管理学部教授の先崎彰容氏は、著書『違和感の正体』の中で、デモについて明晰な分析を行っている。

先崎氏は、6月21日、BSフジ「プライムニュース」に出演した際にも鋭いコメントを連発して話題となっている。

『違和感の正体』から一部を引用してみよう(以下、同書の「デモ論」より)。

 ***

■ドンキホーテの正義感

筆者が国会前デモに「違和感」を覚えたのは、ある高名な大学教授が聴衆を前にして「安倍に言いたい。

お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と叫んでいるのを、咎める人がいなかったときからです。

映像をみた瞬間、2つの違和感が一気に襲ってきた。

第一に、彼の心を占拠している正義感とドン・キホーテのそれをどう区別したらよいのでしょうか。

この知識人に筆者が「違和感」を感じたのは、批判の矛先が総理大臣という役割ではなく、安倍晋三という個人にむかっていたからです。

個人への誹謗中傷や罵詈雑言は、思想的には正反対であるはずのネット右翼のヘイトスピーチに奇妙なまでに似ています。

ヘイトスピーチの批判対象が在日外国人であれば同情の対象となり、

安倍氏にたいしては許可される根拠は、いったい何処にあるのか。

筆者は在日外国人に日々日本語を教えながら生活相談にもかかわっており、差別したことはありません。

と同時に、個人的に一切面識をもたない安倍氏にたいしては、彼の性格を戦争好き云々とイメージで誹謗する権利がそもそもありません。

総理大臣という地位のもつ特権的重要性はともかく、筆者は原則的に「人間はみな平等である」という立場なので、前者と後者に否定語を浴びせかける/かけないを分けるその基準がわからない。

人間、誰であれ相手を大声で罵倒することはよくないと思うからです。

するとおそらくデモ行為を正当化しているのは、権力=悪、弱者=善という無邪気なまでの正義感だけしか考えられません。

■ことばを放り出した凡庸な学者たちへ

彼らデモをする人は、一見、ラジカルなように見えます。

しかしほんとうに「ラジカル」なのは、自分の正義をふくめた社会一切の善悪を、一度はギロチンにかけてみる勇気ではないですか。

おそらくニーチェが主張したことはそういうことだったはずです。

社会全体が砂礫(されき)のように瓦解していくのに呑み込まれ、

善悪判断の基準があやふやになることに取り込まれ、

「ものさしの不在」に苛立ち、ワンフレーズの正義にすがるくらいなら、

知識人である資格などないでしょう。

そうではなく、むしろこの時代状況を見すえ、みずからの手で陳腐な善悪をギロチンにかける思想を生み出すことが、時代への処方箋なのです。

安易な自己主張などあり得ないことを肝に銘じ、究極の相対主義の実験に耐えながら。

知識人は今まで何のために「ことば」と格闘してきたのでしょうか。

もし現在が非常時であればある程、彼らは必死にこの時のために日頃培ってきた言論で勝負すべきではないですか。

筆者がここでいう「ことば」とは、反原発や戦争反対、反韓、反中などのワンフレーズとは異なります。

ことばとは本来、まったく異なる世界観をもって生きている他者、すぐ隣にいるのに世界を別の仕方で理解している他者とのあいだに架橋する営みのことです。

自分と他者とのあいだには手探りしなければ分からない壁のようなものがある。

だからこそ私たちは抑揚や使い方を意識し、工夫を凝らし続けるのです。

***

都知事選に限らず、選挙において、表層的ではない議論が繰り広げられることを期待する人は多いだろう。

すでにワンフレーズの応酬にうんざりしている有権者は多いのではないだろうか。

デイリー新潮編集部


韓国経済、「失われた20年」への招待状

2016年07月15日 16時19分59秒 | Weblog

韓国経済、「失われた20年」への招待状

『田中秀臣』 2016/03/22

先日、韓国の公営放送KBSから取材をうけた。

題材は「韓国経済は日本と同じように失われた20年に陥るのだろうか」というものだった。

私の答えは明瞭で、このままの政策を続ければ確実にイエスであった。

 
2015年の経済成長率は、政府の目標成長率である3.1%を下回る2.6%であり、
 
朴槿恵政権が発足してからの平均成長率は2.9%と過去の政権の中でも低レベルな成果しかあげていない。
 
 
98年のアジア経済危機以降では、歴代政権の中で最低の平均成長率だともしばしば批判されている。
 
また経済の減速は、実感レベルでは特に顕著であり、「ヘル朝鮮」(地獄のような韓国)という流行語までも生み出している。
 
実際に失業率は3.6%だが、若年層の失業率は過去最高の9.2%にまで達している。
 
どの経済でもある程度共通しているが、
 
新卒などの若者、主婦層などの女性、高齢者などは、労働市場での交渉力が弱く、
 
また社会的評価(経済外的勢力という)が低いために、不利な雇用環境に直面しやすい。
 
韓国でも経済失速の重しが、雇用弱者である若者層に強くのしかかっている。
 
また職を探しても見つからないので断念してしまう、「求職意欲喪失者」も増加している。
 
韓国の真の失業率は、「求職意欲喪失者」などを含めると二けた近いだろう。
 
働く能力が著しく低い社員を企業が解雇できるという政府の方針に抗議し集会を開く労組員ら
 
経済評論家の上念司は、
 
ニールセン(米国の調査会社)の公表した消費者信頼感指数を利用して、
 
韓国の景気停滞への実感は、
 
ちょうど日本でいえば東日本大震災と長期不況が重なった2011、12年頃に該当するだろうと指摘している。
 
また韓国の四大財閥が擁する企業群も不振であり、サムスン電子、現代自動車、LG電子などの主要企業の減益が顕著である。
 
このような経済の停滞をうけて、
 
韓国では「日本化」(90年代後半からの20年に及ぶ経済停滞=失われた20年)を警戒する論調が盛んになっている。
 
また韓国の朴大統領をはじめとする政策当事者、経済学者やエコノミストたち主流派の意見は、
 
この韓国の経済低迷の主因を「構造的要因」に求めているのが一般的だ。
 
例えば、韓国銀行(中央銀行)が公表した論文では、
 
韓国が21世紀になってから次第に低成長に移行していく過程を、全要素生産性の低下として解説している。
 
全要素生産性とは、ある国が一定の資本や労働の下でどれだけ効率的に財やサービスを生み出すことができるかを示す指標である(生産性パラメーター、効率性パラメーターなどともいう
 
全要素生産性が低下しているということは、
 
人間の体でたとえると肉体の節々に老廃物がたまり、
 
次第に疲労が募り、十分に自分の体を動かすことができなくなることに似ている。
 
韓国での主流の意見は、この老廃物がたまりやすいのは、
 
生活習慣のため(構造的問題)であり、これを徹底的に鍛え直すことが重要だというものだ。
 
日本でも「失われた20年」で一貫して唱え続けられてきた「構造問題仮説」の韓国版である。
 
この構造問題仮説は、
 
例えば韓国の代表的企業がグローバル経済に対応できなくなり、
 
旧来型の産業構造が温存されているためだとする「グローバル構造不況説」、
 
または韓国の消費者たちが新しいイノベーションを伴った製品が現れないために
 
飽きてしまったとする「消費飽和説」などとして、政策レベルで議論されている。
 
日本でいうと、小泉純一郎政権発足間もないころに標語になっていた「構造改革なくして景気回復なし」と同じ議論である。
 
そして小泉政権の時もそうだったが、韓国経済の最近の低迷もまた構造問題説でとらえるのは端的に間違いである。
 
一国の経済は総供給(財やサービスの生産側)と総需要(財やサービスを実際に求める側)とに分けて考えるのが妥当である。
 
 
いまの韓国経済の状況は、総需要(消費、投資、政府支出、純輸出)が不足している状況が継続している。
 
先ほどの構造問題というのは、すべて生産する側をいかに効率化するかという問題である。
 
総需要不足が問題の核心であるならば、いくら生産する側を効率化しても事態は改善しない。
 
例えば売上げ不振に悩む企業がそのためにリストラをして生産の効率化をすすめれば、当然に解雇された人たちの所得は大幅に減少する。
 
そのためその人たちの消費が低下し、それはまた企業の売上に響いてくるだろう。
 
朴大統領自身もしばしば韓国の労働市場の「構造改革」をすすめることを今般の停滞の打開策のひとつとしている。
 
先ほどの若年層の失業率の急上昇を抑制するために、賃金ピーク制の導入を進めたい考えだ。
 
韓国では60歳以上の定年延長が義務化され、これに対応して延長された年限に応じて賃金を下方調整していく仕組みである。
 
これで企業側の若い労働者の採用コストを低めようという狙いだ。
 
しかしこのような構造改革では経済停滞は脱出できない。
 
総需要不足に原因があるのは、実は上記した一連の経済データから明らかである。
 
朴政権になってからの経済成長率の低下、
 
失業率の累増、そして加えるにデフレ突入を懸念されるインフレ率の低下といった現象を同時に説明できるのは、
 
総需要不足でしかありえないからだ(詳細は、野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』東洋経済新報社参照)。
 
実際にOECDの統計では、2012年度以降、総供給(潜在GDP)と総需要の開きは拡大する一方である。
 
実は日本でも90年代から、経済成長率の低迷、失業率の高止まり、低インフレからデフレへの長期継続といった現象が観測されてきた。
 
消費や投資など総需要不足が原因なのは疑いなかった。
 
 
だが、政策の現場やマスコミなどでは構造問題仮説が主流であり、そのため経済の無駄をなくせの大合唱のもと、構造改革が推し進められてきた。
 
このことは単に政策のミスマッチでしかない。
 
このミスマッチを解消する方向に政策の舵を切られたのが、第二次安倍晋三政権、つまりアベノミクス採用後である。
 
なんで「失われた20年」にも及ぶほど、日本は正しい経済政策をとりえなかったのだろうか。
 
簡単にいうとそれは財務省・日本銀行が政策のミスを認めたくなかったこと、そしてそれに事実上の支援を続けた日本の政治家たちに原因がある。
 
同じことがいまの韓国経済にもいえる。
 
問題の本質は総需要不足にあるならば、構造改革は問題解決になりえないどころか、解決を遅らせるだけ害をもたらす政策思想である(既得観念ともいう)。
 
中国経済の景気後退は韓国の輸出に大きなダメージを与え、それはまた韓国の総需要を低下させる。
 
また昨年のMERS(中東呼吸器症候群)による売り上げや観光客減少などももちろん無視することはできない。
 
しかしチャイナショックもMERSショックもたかだか昨年からの出来事であり、ここ数年も続く低迷を説明することは困難である。
 
経済分野の会議で声を張り上げ不満を爆発させた韓国の朴槿恵大統領=2月24日、ソウルの青瓦台(聯合=共同)
 
例えば、韓国銀行はインフレ目標政策(3%±1%)を採用しているが、朴政権誕生後、そこから逸脱し、デフレが懸念される状況を放置している。
 
度重なる金利低下を韓国銀行は採用をしているが、日本がアベノミクス下で行った大胆な金融緩和で目標インフレ率の回復を目指すという意思に乏しい。
 
事実上の“非”緩和スタンスのため、為替レート市場では一貫してウォン高が進行している。
 
これが韓国の代表的な企業の「国際競争力」を著しく低下させていることは疑いない。
 
では、なぜ韓国は大胆な金融緩和政策を採用することができないのか? 
 
それは大胆な金融緩和を行えば、一挙にウォン安が加速する。
 
そうなるとウォン建ての資産の魅力が急減し、
 
海外の投資家たちが韓国市場からひきあげてしまい、
 
株価などが大幅に下落することを、政府と中央銀行が恐れている、
 
というのが日本のいわゆるリフレ派論者の見方だ(代表的には、高橋洋一、上念司、片岡剛士ら)。
 
もちろんいまの事態を放置してしまえば、緩やかに韓国は長期停滞に埋没していくだろう。
 
それはアジア経済危機のときのような劇的なものではなく、日本がかって体験したように持続的に緩やかに経済がダメになっていくのである。
 
日本の論者には、韓国が大胆な金融緩和政策を行えないのは、日韓スワップ協定などで潤沢なドル資金を韓国に融通する枠組みに欠けているからだという指摘もある。
 
たしかにその側面はあるかもしれないが、私見ではより深刻なのは、朴政権と韓国銀行に蔓延している間違った政策観(既得観念による構造問題仮説)である。
 
この既得観念が政策当事者を拘束しているかぎり、韓国経済に「失われた20年」の招待状が届く日は目前である。