11月メール通信「”過去”に向き合おうことが”これから”を創る・・・」/池住義憲

2010-11-30 00:50:06 | 世界
<2010年11月メール通信>

   「過去」に向き合うことが「これから」を創る・・・
~~カンボジア トゥール・スレーン収容所生き証人
                 チュム・メイさん講演会報告~~

                2010年11月29日
                池住義憲

 被害者は過去を語らないことで「心の傷を忘れ」ようとする。加害者は過去を語らないことで「過去を封印」しようとする…。

 私が所属する立教大学で、去る10月23日、東京大学、上智大学、大竹財団、カンボジア市民フォーラムなど12の他大学・団体と協働して、講演会を企画し、開催しました。テーマは、『ポル・ポト時代の大虐殺、癒えない傷、和解への道』。定員を超える280名の参加者で会場一杯となりました。

 カンボジアの旧ポル・ポト政権下で起こった大虐殺(ジェノサイド)の被害当事者生き証人であるチュム・メイさんを招聘し、本人から直接声を聴き考える機会でした。講演会には同時に、ポル・ポト支配地域で最後の戦闘地域であったシェムリエップ州北部農村地域で、住民組織づくりを通して紛争予防・村落開発活動に取り組んでいるNGOワーカーも合わせて招聘しました。

 ジェノサイドが、なぜ、どのように行なわれたのか、今どのように思っているのか、国民和解とは何か、どうしたらその道筋が見えてくるのかなど、過去をふまえた現在のカンボジアの平和づくりと国民和解を考える貴重な機会となりました。

 講演会は東京を皮切りに、広島・長野・名古屋でも計7回開催され、820名を超える参加者がありました。講演会以外にも各地での交流会や広島の「原爆資料館」「平和記念公園」、長野の「松代大本営地下壕」、愛知の「戦争と平和の資料館ピースあいち」「笹島・栄の野宿日雇労働者テント村」訪問も合わせると、千名を超える市民との直接的な出会いがあったことになります。ご協力くださったみなさん、ありがとうございました。

 折しもポル・ポト派元幹部を裁く「カンボジア特別法廷」で最初の被告であるカン・ケク・イウ元トゥール・スレーン政治犯収容所所長に有罪判決(2010年7月26日)が出された直後でした。カンボジア人同士が殺し合うという残酷な過去を当事者であるカンボジアの人々が法廷という公の場に持ち寄り、歴史的事実として検証する最中でした。

 暴力の連鎖は暴力や報復では断ち切ることができない。特別法廷はそうした考え方に立って、加害者の処罰の最高刑を死刑でなく終身刑にしています。国民大虐殺というジェノサイドから30年経った今、「真相解明」に基づいた「公正な法の裁き」を通して暴力と報復の連鎖を断ち切り、加害者と被害者・遺族間における国民的和解に向けて歩み出しています。今回の講演会はこうした動きの最中での開催となりました。

■つらい過去を語る・・・
 チュム・メイさん(79歳)は自らの生い立ちから始まって、旧ポル・ポト政権下で逮捕され、拘束・尋問・虐待・拷問された体験を度々声をつまらせながら、生々しく語りました。旧ポル・ポト政権(1975~79年)は当時のカンボジア共産党が母体で、1975年、ポル・ポト主導で新米ロン・ノル政権を倒して実権を握り、極端な共産主義政策を推進しました。都市住民や知識層を農村へ強制移住および強制労働させ、全国200箇所に政治犯収容所を設置しました。

 そして多くのカンボジア人を”政治犯”として拘束・収容し、徹底した拷問によって自白を強要し、裏切り者と敵のあぶり出しを行ないました。カンボジア国民のほぼ4分の1にあたる約170万人以上が犠牲になったとされています。

 メイさんはポル・ポト軍支配下でエンジン修理の労務に就いていましたが、1978年10月に突然逮捕され、トゥール・スレーン収容所に連行されます。収容所では足の爪を剥がされ、鞭打ち、電気ショックなど、筆舌に尽くし難い拷問の日々が続きました。その後遺症は今も左眼・左耳・左手小指などに残っています。

 1979年 1月、ヴェトナム軍によるプノンペン進攻に乗じて収容所から逃げ出します。メイさんはこの時のことを振返って、「あと1日解放が遅れていたら私の命も無かったでしょう」と語りました。逃走中に別の収容所に収容されていた妻・子どもと再会します。しかし家族3人で逃走中、メイさんの目の前で妻と息子がポル・ポト兵によって殺害されます。そして息子を葬るために村の人から鍬を借り、道端に穴を掘って埋葬し、直ぐにまた逃走しなければならなかった…。

■国民和解へ向けて
 メイさんはこうした当時のつらい過去の体験を激しく身体を震わし、涙しながら語りました。同時にメイさんは、「恨みは消えないが、加害者も、殺さなければ自分が殺される状況だった。どうしたら平和な世界になるか、いつも考えている」と語り、平和の重要性を訴えました。そして2009年9月、ポル・ポト政権下で起こったジェノサイドによる被害者・遺族の支援団体「クセム・クサン」(正義・和解・平和的な癒しの文化求める会)を立ち上げます。

 また2010年 2月からは、プノンペン市のトゥール・スレーン博物館(元収容所跡)で語り部ボランティアを始め、「時代の生き証人」として事実を若い世代の人たちに語り伝えています。自らが会長を務めるカンボジアにおける最初の犠牲者組織「クセム・クサン」のロゴマークは虹。メイさんは講演の最後に穏やかな声で次のように私たちに語りかけました。

 “虹は地面と天を結んでいます。虹は嵐や豪雨の後に必ず現れます。私たちの願いは「正義」と「平和」。それがクセム・クサンです。私たちは平和に暮らしたい。二度と戦争を起こしたくない、二度と殺し合いをしたくない。本当の平和だけほしいのです”

 ”ここにきている皆さん、ポル・ポト時代に起こった殺し合いの戦争は、カンボジアだけの問題ではありません。世界の問題です。二度と戦争が起きないために、平和な世の中を作り上げるためにどのようにしていったらよいか。それで、私はクセム・クサンを立ち上げました。私たちの組織は皆さんと一緒にそのことを考えていきたいです。戦争が起こるととても悲惨です。他の国での戦争も、とても悲惨です。どのように平和を立上げていくのか、一緒に考えていきたいです“

 講演会が終わった後、私はメイさんに和解と赦しについての考えを尋ねました。メイさんは、「加害者側が事実を事実として認め、心から謝罪すれば…」と、言葉を搾り出すように語りました。クセム・クサンの目的・原則の第一は「正義の実現」、第二に「被害者と加害者の和解」とあります。メイさんにとって正義の実現とは、事実解明とその事実を事実としてまず認め、心から謝罪すること。それなしに和解は実現しない、と言う。「過去」を語り過去に向き合うことが、「今」と「これから」を創っていく重要な一歩であることを示しました。

 このことは、私たちにとっても大きな意味を持ちます。メイさんは「被害者」の立場ですが、私たちに置き換えて考えれば、私たちはアジア・太平洋地域の人たちに対して「加害者」でした。すでに65年以上の歳月が経っていますが、過去、加害者としての侵略の事実を事実として認め、こころから謝罪し、国として十分な賠償・補償を行なってきたか否か・・・。

 メイさんの問いかけは、私たちがアジア隣国との友好・和解・平和を唱える時にもっとも基本となる視点を提示してくれました。私たち一人ひとりにとって、今後の行動にむけたあらたな出発点を提示してくれたのでした。

 注1) 講演会概要並びに「カンボジア歴史概要と特別法廷」「カンボジア近現代史」「パリ和平協定とUNTAC」「トゥール・スレーン刑務所」などについての関連参考資料は【http://aiic-rikkyo.org/activities/seminar/2010/1023.html】を参照ください。

 注2) 10/23公開講演会におけるチュム・メイさん講演録(クメール語から日本語に直接翻訳したもの)ご希望の方は池住(ikezumi@mtb.biglobe.ne.jp) まで連絡ください。添付ファイルでお送りします。
9,200字ほどです。



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