★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2010.03.10)寺越外雄さんの家族の現状-東
京連続集会51
■寺越外雄さんの家族の現状-東京連続集会51
以下は、「寺越外雄さんの家族の現状」をテーマに、平成22年2月24日に開催
された「東京連続集会51」の記録です。文責=編集部
寺越事件:昭和38(1963)年5月11日深夜、石川県富来町(現志賀町)の寺越
昭二さん、弟の外雄さん、二人の甥(長兄の子)の武志さんがハチメ(メバル)
漁に出た。港から400mの所で網を仕掛けていたところ、北朝鮮の工作船が侵入
し、漁船に衝突。その後、抵抗した昭二さんが銃撃され海に沈められ(安明進元
工作員証言)、残された二人が北朝鮮に拉致された事件。北朝鮮は、「北朝鮮の
船が遭難していた3人を救助した。3人は北朝鮮で生きていくことを選び、昭二さ
んは1968年3月30日に北朝鮮で死亡」と主張。政府は平成19(2007)年11月6日、
福田康夫首相名で同事件は「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に該
当」との見解を初めて示した。
西岡力・救う会会長代行
◆外雄さんの家族写真
この写真を見てください(寺越外雄さん、妻の韓福生さん、長男の金明哲さん、
長女の金明心さんの家族写真)。後ろに写っているのが寺越外雄さんです。1989
年1月に写されたものです。寺越友枝さんの二度目の訪朝の時に、友枝さんが預
り、兵庫県に住んでいる外雄さんの兄の文雄さんに届けられたものです。
このような写真がかなりたくさんあります。外雄さんが北朝鮮に連れて行かれ
向こうで結婚し子どもがいたということは、一部では知られていましたが、配布
資料(メールニュース・ホームページ22.02.24参照)にある通り、外雄さんは、
残念なことに肺癌で、94年9月5日に亡くなったとされますが、このことは私たち
は間違いないと思っています。北朝鮮の「遺骨」は信用できないものですが、肉
親が「亡くなった」という手紙を書いてきていますので。
その後、97年に家族会ができ、またその後救う会ができました。我々としても、
亡くなった人より生きている人の救出を考えていたこともあって、外雄さんの名
前をあまり表に出してこなかったのです。
◆寺越武志さんの戸籍回復
私は1991年に、『諸君!』という雑誌に拉致のことを書き、拉致被害者名簿13
人の中で、寺越昭二さん、外雄さん、武志さんのことも書きましたが、情報が錯
綜していていました。どこかに外雄さんが94年に死んだということが書かれたた
め、3人とも死んだものと思ってしまい、97年の時点では武志さんも死んだと思っ
ていました。それを荒木和博さんが『月刊正論』に書いたのです。それに対し、
母親の寺越友枝さんから抗議が来て、「武志は生きている!」と言われました。
これが友枝さんと我々との最初の出会いです。
そこで友枝さんと色々話をして、「生きているということであれば戸籍を回復
したらどうですか」ということになって、97年の6月に武志さんの戸籍は回復さ
れたのです。
その時、外雄さんの戸籍も一緒に回復されてもよかったのです。そして、今日、
法務省で話を聞いてよく分かったのですが、地上での管轄は警察ですが、漁業の
操業中に行方不明になった海難事故の場合の管轄は海上保安庁だそうです。海上
保安庁が、死体は上がっていないが、諸般の状況から死亡だと認定することが法
的になされ、それにもとづいて市区町村で戸籍の処理がなされるということです。
武志さんの戸籍回復は保安庁で行いました。本人が生きていて、テレビにも出
てきていますし、写真もありますので、生きている証拠があります。そこで、63
年に死んだのは間違いだったということで、97年時点で死亡取消し認定をし、そ
れに基づいて戸籍が回復しました。
しかし、97年時点で外雄さんは亡くなっていたので、死亡日の変更レベルのこ
とだったのです。海上保安庁から兵庫に住んでおられる外雄さんの兄の文雄さん
に電話がかかってきたそうです。ここには来ておられませんが、今日の要請には
来られました。そして、「外雄さんの戸籍回復をどうしますか」と言われたそう
です。
◆外雄さん家族の戸籍回復を
その時、今日、文雄さんが中井大臣にもおっしゃっていましたが、「自分とし
ては、もう死んでいる人の死亡日だけ変えることをしても、役所の人の手間をわ
ずらわすだけで申し訳ないのでやらなくていいですよと言ってしまった」と。し
かし、二人の子どもは日本の戸籍に載っていません。死亡日を変えなかったため
に、死亡の後に生まれたことになります。従って、戸籍回復のために出生届を出
そうとしても、死んだ人に子どもが生まれるわけはないということになってしま
うわけです。
友枝さんは97年の時点で名乗りを上げて、家族会に入ると言ってみたり、また
入らないと言ってみたり色々なことがありましたが、それ以外の寺越昭二さんの
家族の人たち、そして外雄さんの家族と長く文通をしていた文雄さんたちは、そ
れまで友枝さんの活動を見守っていたのです。
寺越家では、「3人の拉致被害者はいるけれど、生きているのは武志だけだ。
武志が一番いいようにするのが優先だ。北が拉致と認めていないのに、『拉致だ』
と、友枝さんと違うことを言うのは、武志にもしも危害が加えられることがあっ
てはと、我慢していた」というわけです。特に、昭二さんの家族に対しては、
「遺骨」といわれるものが来たけれど土しか入っていなかったので、言いたいこ
ともいっぱいあったわけですが、武志さん優先ということでずっと黙っておられ
たのです。
◆「拉致だ!」と言っても危害を加えられない
それから5年経って、2002年に小泉訪朝がありました。そこで金正日が拉致を
認めた。「拉致疑惑」が「拉致」になった。そして、「拉致していない」と言っ
ていた人のうち、5人が生きて帰ってきた。それを見て、「拉致だ!」と言って
も危害を加えられないことを目の前で見て、「武志のことはあるけれど、金正日
が拉致を認めたのだから他の家族が拉致と言っても武志に危害を加えることはな
い」と判断され、昭二さんの3人の子どもたちと文雄さんが家族会に入ると言わ
れたのです。それが2002年の10月。
その時、私はお会いして色々な話を聞きました。寺越家は11人兄弟で、武志さん
のお父さんが長男で、昭男さんたちのお父さんの昭二さんが次男、文雄さんが3
男、外雄さんが4男です。また昭二さんが拉致されたため、子ども3人のうち2人
は養子に行かれるなど色々複雑です。3人の被害者の中でも、一人昭二さんは、
北朝鮮は病死と言いますが、安明進証言ではその場で殺されたということで、昭
二さんに北朝鮮で会った人はいない。外雄さんは北朝鮮で日本人に会っています。
そして病死となっており、武志さんは健在とそれぞれの状況が違います。
◆墓に「遺骨」があるのか
そういう複雑な状況の中で、我々の運動の中で、昭二さんの子ども3人が名乗
り出られました。昭二さんの遺骨が本物なのかどこにあるのか、現場で殺された
という安明進証言は正しいのかどうか。北朝鮮はこの墓(写真)の中にあると言
うのですが、コンクリートが新しかったり、墓に刻まれている誕生日が違ってい
たり、本人が嘘の誕生日を北に教えるのかということもあって、「問題が起きた
から墓を作ったのではないか」という疑惑があります。
だから、墓に遺骨があるというのなら遺骨を返してくれ。DNA鑑定をして、本
人のものであれば、現場で殺されたのではなく、北朝鮮に上陸して病死したとい
う北の主張が正しいことになる。墓が空っぽであれば、安明進が言っているよう
に、現場で殺されて海に死体が投げ棄てられたという説が正しいことになる。真
相を究明してほしい。そうでなければ、国交正常化になった時に、寺越家は、遭
難を助けてもらったと、北朝鮮に感謝しなければならない。自分たちは北朝鮮に
感謝する立場なのか、お父さんが殺されたのかはっきりしてほしいと言われてき
ました。
外務省でも、今のアジア局長である斎木さんが参事官の時に何回か行き、「分
かりました」ということで、外務省も遺骨の返還問題を日朝交渉に出してくれま
したが、北朝鮮からは返事がありません。
◆武志さんは「私は拉致じゃない」
他方、友枝さんは今も訪朝して武志さんを経済的に支え、武志さんは、「自分
は拉致ではない」と言い続けています。武志さんの問題で、我々が貢献したと思っ
ていることが一つあります。97年、家族会ができ、続いて救う会ができ、「武志
さんも拉致だ、拉致だ」と言ったのです。それに対し、武志さんが記者会見して、
「私は拉致じゃない」、「北朝鮮はいい国だから残ったのだ」と言った。その後
武志さんは引っ越したのです。
それまでは、平壌の北にある亀城(クソン)市という地方都市に住んでおり、
旋盤工ということになっています。それが平壌に引っ越して、平壌市の職業総同
盟の副委員長になった。ものすごく広いマンションに住んで、そこで誕生パーティ
ができるくらい。そこに日本から政治家が行って、森元総理もそこに行って金容
淳(故人、元朝鮮労働党中央委秘書=対南担当)などと会っている。「北朝鮮の
方がいいから日本に連絡しなかった」と言っている人の家が貧しい家なら、嘘に
なってしまいます。「いい暮らしをしている」と言わせた以上は、いい暮らしを
見せなくてはならない。そして待遇が上がったのです。副委員長と言っても権限
はないと思いますが、階級に合った配給になります。
その頃は大飢饉の頃でした。その頃、配給のいい階級にあげることができたと
いうことは、向こうでは「迷惑だ」と口には言っていますが、我々の運動の成果
ではないかと内心思っていました。名前を出して訴えたらどうなるか。待遇が上
がったのです。
そして武志さんは2001年に、『人情の海』という長編手記を出したのです。そ
の中で、こう言っています。「出漁していたら変な船とぶつかって海に投げ出さ
れた。気がついたら北朝鮮のベッドで寝ていた」。ぶつかった船は北の船ではな
いことになっています。正体不明の船にぶつかって、その後、助けてくれたのが
北の船ということになっています。その時3人は、「北朝鮮は日本人を恨んでい
る。自分たちが日本人だと言ったら殺されるかもしれない。在日朝鮮人というこ
とにしよう」と言って、北朝鮮に嘘をついたことになっています。それが間違い
だった、と書かれています。なかなかうまくつじつまを合わせるものだと思いま
した。
それで、「日本のなんとか協議会とかなんとか連絡会という人たちが私のこと
を拉致と言っているけどそれは間違っている」と批判しています。「なんとか協
議会」というのは救う会全国協議会のことでしょうし、「なんとか連絡会」とい
うのは、被害者家族連絡会(家族会)のことでしょう。この2001年の本では、横
田めぐみさんの拉致も、田口八重子さんの拉致もでっちあげ、北がするわけがな
い、と書いてありますが、金正日がその1年後に拉致を認めてしまったので、武
志さんはその後、どう説明するか聞いてみたいところですが、無理やり書かされ
たということです。
◆拉致被害者なのに日本に手紙が出せたケース
しかし、この間、外雄さんのことはほとんど運動の中で取り上げてこなかった
のが実情です。この東京連続集会を友愛会館でやっていた時は、一人ひとりの被
害者家族が思い出を語るという集会をやってきましたが、外雄さんについてはや
らなかった。寺越事件は昭二さんのことだけをやり、写真パネルの中には一枚だ
け外雄さんの写真が入っていますが、外雄さんがどういう人だったのか、そして
外雄さんのことを語るのならば、外雄さんの家族を語らなくてはならなかったの
です。
外雄さんは向こうで結婚しています。しかし、あとで長瀬さん(救う会兵庫会
長)から説明がありますが、外雄さんは拉致被害者なのに日本に手紙が出せたと
いうケースです。87年からたくさん手紙が来ています。文雄さんのところに100
通くらい。その他にお姉さんのところにも送っています。外雄さんが亡くなった
後も、奥さんの韓福生(ハン・ボクセン)さんから、夫のお兄さんである文雄さ
んのところに来ています。一番新しいのは昨日来ました。だから文通ができてい
るのです。手紙のやり取りが自由にできているケースです。
余談になりますが、では87年に、なぜ北朝鮮が拉致被害者なのに手紙を許した
のだろうか。他の人はそんなことができないのに。それを考えると管理が違って
いたのではないか。60年代の寺越事件と、76年の金正日による現地化指令の後の
拉致とは、系統も担当も違うようです。
金正日の現地化指令により、テロに関わるような秘密に関わった人たちはいな
いことになっているので、手紙なんかもちろん書けないわけです。北朝鮮は関係
していないと言わなければならない。しかし、武志さんと外雄さんについては、
手紙を書かせた。結婚相手は、帰国在日朝鮮人です。前は、韓福生さんの家族の
方に手紙を書いていたのです。実家は大阪で、韓福生さんは1960年に帰国船で北
に帰ったのですが、その時、彼女のお母さんと妹は北に行ったけれども、お父さ
んとお姉さんは行かなかった。だから、お父さんとお姉さんは大阪に住んでいて、
今回上京された外雄さんのお兄さんの文雄さんは実家に行って何度も会っていま
す。
ところが、「今は縁を切った」、「だから関わり合いたくない」と言われたの
です。在日朝鮮人の中で一部にあるのですが、物の無心がたくさん来て、代も代
わってたくさんお金を送れなくなり、「もう関わらないことにした」という家庭
がかなりあります。多分、韓さんの家庭もそうだったのだろうと思います。そし
て、今は引っ越してしまって住所も分からないそうです。だから北から手紙も送
れない。送れなくなった頃に、外雄さんが、自分の実家に手紙を書くことが許さ
れたのです。
◆担当している保衛部員などが賄賂を取る
物が来ると、担当している保衛部員などが賄賂を取るのです。だから、担当者
も、在日朝鮮人扱いにして手紙を書かせ、物を取ろうとしたのです。そういう点
では、秘密を守ろうとする度合いが低かったということも言えると思います。と
にかく亡くなった後も手紙がどんどん来ていて、日本からずっと送られたお金で、
外雄家は大飢饉の時代を乗り切り、息子を大学までやれたのです。
息子の明哲さんは獣医大学を出て、最初専門学校の講師になられ、今は畜産技
師です。獣医師の資格を持ち、それを生かして働いているわけです。また、秘密
の場所ではなく、社会に出て働いています。そういう所に就職したり、大学に行っ
たり、大学で卒業論文を書いたりする度にお金が必要で、そういう手紙がずっと
来ていて、文雄さんのところでは弟の家族だし助けようということで、ずっと助
けてきたのです。
ただ、神戸大震災で文雄さんも被災者になってしまいました。文雄さんのうち
は理髪店ですが、お店もつぶれ、借金を返さなくてはならないということになっ
て、大震災の後からは頻繁にお金を送ったりすることは止められたそうです。そ
の後、明哲さんが結婚するという時にはお金を送ったりしていて、昨日来た手紙
では、「私たちから手紙が来るとぞっとするとおっしゃっているようだけど、し
かし助けてください」という趣旨のことが書いてありました。
そういう中で、長瀬さんが文雄さんの所に何回も通って、手紙もたくさん見せ
てもらい、段々分かってきたのは、この二人の子どもさんは、曽我さん、ジェン
キンズさんの二人の娘さんや蓮池さん、地村さんの子どもたちと同じで、日本国
籍を持ち、拉致被害者の子どもであるということです。
◆外雄さん家族は拉致被害者支援法の支援対象
今の拉致被害者支援法では、本人及びその直系家族を支援の対象としています。
小泉総理は、二度目の訪朝の時は、被害者が帰ってきているにもかかわらず総理
大臣が子どもたちを取戻しに行ったのです。総理が出て行くような位置づけが、
被害者の子どもたちであるわけです。
従って、外雄さんの二人の子どもたちも、寺越事件が拉致だと認定されれば、
被害者の子どもとして、日本の総理が出て行って、小泉さんがジェンキンズさん
を説得したのと同じように韓福生さんを説得して、「日本を信じてください」と
か言って連れてこなくてはならないという、同じ位置づけになるべき存在です。
まだ認定されていないということがありますが、どう見ても拉致です。
しかし、それをするためにも法的なことがまだ整っていない、戸籍が整備され
ていないのです。日本にいる人で一番近い人は、お兄さんの文雄さんですが、文
雄さんは今、糖尿病になられて、74歳で、いつ自分もお迎えが来るか分からない、
と。そういう中で、最後に甥と姪のためにできることは、日本国籍を回復させる
ことだ、そして政府に拉致被害者の家族としての支援を頼むことだということで
す。
それも色々迷われて、文雄さんのところはどうも、朝鮮総連が視野に入れてい
るようです。客商売をされていますから、お客さんの中にそういう人がいるよう
です。また、寺越家の内部も複雑で、友枝さんのところと、外の寺越家の家族の
人たちの間が微妙です。援助の問題で、友枝さんは、自分は「外雄さんに渡して
ね」と言われたものを外雄さんに渡したのに、寺越の他の親戚では私が武志にえ
こひいきをしたように言っている、と本に書いていますし、文雄さんの話を聞く
と、外雄さんの分として皆で集めたものも武志さんに行っているのじゃかないか、
と疑いがあったりして、「友枝さんを通さず直接送ってくれ」という手紙が来た
りしたこともあった。だから、文雄さんが外雄さんを支えていて、友枝さんが武
志さんを支えているということになっています。
文雄さんが色々なことで活動すると、友枝さんがまた色々なことをおっしゃる。
それは昭男さんたちのことについてもあったりしました。そういう中で、「もう
歳もとったので表に出るのは」と考えておられたのです。私も一度神戸に行き、
長瀬さんは何回も通っておられますが、甥と姪のことを文雄さんしか政府にきち
んと保護を頼む人はいない、と。甥と姪は家族に間違いないのだから政府は保護
すべき対象で、日本に帰ってくれば支援法に基づいて資金の提供も受けられる資
格の人です。
外雄さんは北朝鮮で亡くなっていますが、二人の子どもがいるんだということ
を政府及び世論に分かってもらわなくてはならない。そして、戸籍上も出生届を
出さなくてはならない。そういう話をして、去年の夏くらいにとの話もありまし
たが、様々な事情から延び延びになっていましたが、新政権になって、「拉致被
害者の認定を増やす」と中井大臣も色々なところでおっしゃっているので、であ
れば寺越事件は第一番目に来る筈だし、そのことをやりながら、外雄さんの二人
の子どものことも日本政府は目を離さないでくださいよ、と言いに行こうという
ことで、今日の陳情活動になったわけです。
◆政府に3項目要請
お配りした要請書では、要請事項が3つあります。
要請事項の1は、「政府は、寺越事件を北朝鮮による拉致事件と認定すること。
また、寺越外雄の家族を拉致被害者家族として位置づけること」です。
寺越さんたちはもう家族会に入っています。我々も拉致だと思って活動してい
ますが、政府がまだ認定していないのです。「寺越外雄の家族」というのは、金
明哲さん、金明心さん、そして配偶者である韓福生さんを被害者家族とすること。
そして、実は、明哲さんに子どもがいることが分かりました。拉致被害者の孫
がいるのです。まだ名前は分からないのですが、娘さんがいる。昨日来た手紙に
そのことが書いてありました。
2は、「法務省は、寺越文雄らが進めようとしている寺越外雄の戸籍上の死亡
日の変更、長男長女の戸籍作成作業を支援すること」、3は、「外務省は、北朝
鮮との交渉において寺越外雄の妻と子ども、そしてその配偶者及び直系子孫につ
いて、安全を確保し日本への帰国を求めること」で、これらの要請をしてきまし
た。
実は、この要請文を作っていて一番大変だったのは、外雄さんが北朝鮮にいる
ことは手紙等もあって分かるのですが、いつ結婚したのかが分からない。また、
いつ子どもが生まれたかも分からないのです。手紙は約100通あるのですが、誕
生日は書いてない。
寺越外雄さんの家族の現状-東京連続集会51/救う会全国協議会ニュース(2)に続く
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京連続集会51
■寺越外雄さんの家族の現状-東京連続集会51
以下は、「寺越外雄さんの家族の現状」をテーマに、平成22年2月24日に開催
された「東京連続集会51」の記録です。文責=編集部
寺越事件:昭和38(1963)年5月11日深夜、石川県富来町(現志賀町)の寺越
昭二さん、弟の外雄さん、二人の甥(長兄の子)の武志さんがハチメ(メバル)
漁に出た。港から400mの所で網を仕掛けていたところ、北朝鮮の工作船が侵入
し、漁船に衝突。その後、抵抗した昭二さんが銃撃され海に沈められ(安明進元
工作員証言)、残された二人が北朝鮮に拉致された事件。北朝鮮は、「北朝鮮の
船が遭難していた3人を救助した。3人は北朝鮮で生きていくことを選び、昭二さ
んは1968年3月30日に北朝鮮で死亡」と主張。政府は平成19(2007)年11月6日、
福田康夫首相名で同事件は「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない事案に該
当」との見解を初めて示した。
西岡力・救う会会長代行
◆外雄さんの家族写真
この写真を見てください(寺越外雄さん、妻の韓福生さん、長男の金明哲さん、
長女の金明心さんの家族写真)。後ろに写っているのが寺越外雄さんです。1989
年1月に写されたものです。寺越友枝さんの二度目の訪朝の時に、友枝さんが預
り、兵庫県に住んでいる外雄さんの兄の文雄さんに届けられたものです。
このような写真がかなりたくさんあります。外雄さんが北朝鮮に連れて行かれ
向こうで結婚し子どもがいたということは、一部では知られていましたが、配布
資料(メールニュース・ホームページ22.02.24参照)にある通り、外雄さんは、
残念なことに肺癌で、94年9月5日に亡くなったとされますが、このことは私たち
は間違いないと思っています。北朝鮮の「遺骨」は信用できないものですが、肉
親が「亡くなった」という手紙を書いてきていますので。
その後、97年に家族会ができ、またその後救う会ができました。我々としても、
亡くなった人より生きている人の救出を考えていたこともあって、外雄さんの名
前をあまり表に出してこなかったのです。
◆寺越武志さんの戸籍回復
私は1991年に、『諸君!』という雑誌に拉致のことを書き、拉致被害者名簿13
人の中で、寺越昭二さん、外雄さん、武志さんのことも書きましたが、情報が錯
綜していていました。どこかに外雄さんが94年に死んだということが書かれたた
め、3人とも死んだものと思ってしまい、97年の時点では武志さんも死んだと思っ
ていました。それを荒木和博さんが『月刊正論』に書いたのです。それに対し、
母親の寺越友枝さんから抗議が来て、「武志は生きている!」と言われました。
これが友枝さんと我々との最初の出会いです。
そこで友枝さんと色々話をして、「生きているということであれば戸籍を回復
したらどうですか」ということになって、97年の6月に武志さんの戸籍は回復さ
れたのです。
その時、外雄さんの戸籍も一緒に回復されてもよかったのです。そして、今日、
法務省で話を聞いてよく分かったのですが、地上での管轄は警察ですが、漁業の
操業中に行方不明になった海難事故の場合の管轄は海上保安庁だそうです。海上
保安庁が、死体は上がっていないが、諸般の状況から死亡だと認定することが法
的になされ、それにもとづいて市区町村で戸籍の処理がなされるということです。
武志さんの戸籍回復は保安庁で行いました。本人が生きていて、テレビにも出
てきていますし、写真もありますので、生きている証拠があります。そこで、63
年に死んだのは間違いだったということで、97年時点で死亡取消し認定をし、そ
れに基づいて戸籍が回復しました。
しかし、97年時点で外雄さんは亡くなっていたので、死亡日の変更レベルのこ
とだったのです。海上保安庁から兵庫に住んでおられる外雄さんの兄の文雄さん
に電話がかかってきたそうです。ここには来ておられませんが、今日の要請には
来られました。そして、「外雄さんの戸籍回復をどうしますか」と言われたそう
です。
◆外雄さん家族の戸籍回復を
その時、今日、文雄さんが中井大臣にもおっしゃっていましたが、「自分とし
ては、もう死んでいる人の死亡日だけ変えることをしても、役所の人の手間をわ
ずらわすだけで申し訳ないのでやらなくていいですよと言ってしまった」と。し
かし、二人の子どもは日本の戸籍に載っていません。死亡日を変えなかったため
に、死亡の後に生まれたことになります。従って、戸籍回復のために出生届を出
そうとしても、死んだ人に子どもが生まれるわけはないということになってしま
うわけです。
友枝さんは97年の時点で名乗りを上げて、家族会に入ると言ってみたり、また
入らないと言ってみたり色々なことがありましたが、それ以外の寺越昭二さんの
家族の人たち、そして外雄さんの家族と長く文通をしていた文雄さんたちは、そ
れまで友枝さんの活動を見守っていたのです。
寺越家では、「3人の拉致被害者はいるけれど、生きているのは武志だけだ。
武志が一番いいようにするのが優先だ。北が拉致と認めていないのに、『拉致だ』
と、友枝さんと違うことを言うのは、武志にもしも危害が加えられることがあっ
てはと、我慢していた」というわけです。特に、昭二さんの家族に対しては、
「遺骨」といわれるものが来たけれど土しか入っていなかったので、言いたいこ
ともいっぱいあったわけですが、武志さん優先ということでずっと黙っておられ
たのです。
◆「拉致だ!」と言っても危害を加えられない
それから5年経って、2002年に小泉訪朝がありました。そこで金正日が拉致を
認めた。「拉致疑惑」が「拉致」になった。そして、「拉致していない」と言っ
ていた人のうち、5人が生きて帰ってきた。それを見て、「拉致だ!」と言って
も危害を加えられないことを目の前で見て、「武志のことはあるけれど、金正日
が拉致を認めたのだから他の家族が拉致と言っても武志に危害を加えることはな
い」と判断され、昭二さんの3人の子どもたちと文雄さんが家族会に入ると言わ
れたのです。それが2002年の10月。
その時、私はお会いして色々な話を聞きました。寺越家は11人兄弟で、武志さん
のお父さんが長男で、昭男さんたちのお父さんの昭二さんが次男、文雄さんが3
男、外雄さんが4男です。また昭二さんが拉致されたため、子ども3人のうち2人
は養子に行かれるなど色々複雑です。3人の被害者の中でも、一人昭二さんは、
北朝鮮は病死と言いますが、安明進証言ではその場で殺されたということで、昭
二さんに北朝鮮で会った人はいない。外雄さんは北朝鮮で日本人に会っています。
そして病死となっており、武志さんは健在とそれぞれの状況が違います。
◆墓に「遺骨」があるのか
そういう複雑な状況の中で、我々の運動の中で、昭二さんの子ども3人が名乗
り出られました。昭二さんの遺骨が本物なのかどこにあるのか、現場で殺された
という安明進証言は正しいのかどうか。北朝鮮はこの墓(写真)の中にあると言
うのですが、コンクリートが新しかったり、墓に刻まれている誕生日が違ってい
たり、本人が嘘の誕生日を北に教えるのかということもあって、「問題が起きた
から墓を作ったのではないか」という疑惑があります。
だから、墓に遺骨があるというのなら遺骨を返してくれ。DNA鑑定をして、本
人のものであれば、現場で殺されたのではなく、北朝鮮に上陸して病死したとい
う北の主張が正しいことになる。墓が空っぽであれば、安明進が言っているよう
に、現場で殺されて海に死体が投げ棄てられたという説が正しいことになる。真
相を究明してほしい。そうでなければ、国交正常化になった時に、寺越家は、遭
難を助けてもらったと、北朝鮮に感謝しなければならない。自分たちは北朝鮮に
感謝する立場なのか、お父さんが殺されたのかはっきりしてほしいと言われてき
ました。
外務省でも、今のアジア局長である斎木さんが参事官の時に何回か行き、「分
かりました」ということで、外務省も遺骨の返還問題を日朝交渉に出してくれま
したが、北朝鮮からは返事がありません。
◆武志さんは「私は拉致じゃない」
他方、友枝さんは今も訪朝して武志さんを経済的に支え、武志さんは、「自分
は拉致ではない」と言い続けています。武志さんの問題で、我々が貢献したと思っ
ていることが一つあります。97年、家族会ができ、続いて救う会ができ、「武志
さんも拉致だ、拉致だ」と言ったのです。それに対し、武志さんが記者会見して、
「私は拉致じゃない」、「北朝鮮はいい国だから残ったのだ」と言った。その後
武志さんは引っ越したのです。
それまでは、平壌の北にある亀城(クソン)市という地方都市に住んでおり、
旋盤工ということになっています。それが平壌に引っ越して、平壌市の職業総同
盟の副委員長になった。ものすごく広いマンションに住んで、そこで誕生パーティ
ができるくらい。そこに日本から政治家が行って、森元総理もそこに行って金容
淳(故人、元朝鮮労働党中央委秘書=対南担当)などと会っている。「北朝鮮の
方がいいから日本に連絡しなかった」と言っている人の家が貧しい家なら、嘘に
なってしまいます。「いい暮らしをしている」と言わせた以上は、いい暮らしを
見せなくてはならない。そして待遇が上がったのです。副委員長と言っても権限
はないと思いますが、階級に合った配給になります。
その頃は大飢饉の頃でした。その頃、配給のいい階級にあげることができたと
いうことは、向こうでは「迷惑だ」と口には言っていますが、我々の運動の成果
ではないかと内心思っていました。名前を出して訴えたらどうなるか。待遇が上
がったのです。
そして武志さんは2001年に、『人情の海』という長編手記を出したのです。そ
の中で、こう言っています。「出漁していたら変な船とぶつかって海に投げ出さ
れた。気がついたら北朝鮮のベッドで寝ていた」。ぶつかった船は北の船ではな
いことになっています。正体不明の船にぶつかって、その後、助けてくれたのが
北の船ということになっています。その時3人は、「北朝鮮は日本人を恨んでい
る。自分たちが日本人だと言ったら殺されるかもしれない。在日朝鮮人というこ
とにしよう」と言って、北朝鮮に嘘をついたことになっています。それが間違い
だった、と書かれています。なかなかうまくつじつまを合わせるものだと思いま
した。
それで、「日本のなんとか協議会とかなんとか連絡会という人たちが私のこと
を拉致と言っているけどそれは間違っている」と批判しています。「なんとか協
議会」というのは救う会全国協議会のことでしょうし、「なんとか連絡会」とい
うのは、被害者家族連絡会(家族会)のことでしょう。この2001年の本では、横
田めぐみさんの拉致も、田口八重子さんの拉致もでっちあげ、北がするわけがな
い、と書いてありますが、金正日がその1年後に拉致を認めてしまったので、武
志さんはその後、どう説明するか聞いてみたいところですが、無理やり書かされ
たということです。
◆拉致被害者なのに日本に手紙が出せたケース
しかし、この間、外雄さんのことはほとんど運動の中で取り上げてこなかった
のが実情です。この東京連続集会を友愛会館でやっていた時は、一人ひとりの被
害者家族が思い出を語るという集会をやってきましたが、外雄さんについてはや
らなかった。寺越事件は昭二さんのことだけをやり、写真パネルの中には一枚だ
け外雄さんの写真が入っていますが、外雄さんがどういう人だったのか、そして
外雄さんのことを語るのならば、外雄さんの家族を語らなくてはならなかったの
です。
外雄さんは向こうで結婚しています。しかし、あとで長瀬さん(救う会兵庫会
長)から説明がありますが、外雄さんは拉致被害者なのに日本に手紙が出せたと
いうケースです。87年からたくさん手紙が来ています。文雄さんのところに100
通くらい。その他にお姉さんのところにも送っています。外雄さんが亡くなった
後も、奥さんの韓福生(ハン・ボクセン)さんから、夫のお兄さんである文雄さ
んのところに来ています。一番新しいのは昨日来ました。だから文通ができてい
るのです。手紙のやり取りが自由にできているケースです。
余談になりますが、では87年に、なぜ北朝鮮が拉致被害者なのに手紙を許した
のだろうか。他の人はそんなことができないのに。それを考えると管理が違って
いたのではないか。60年代の寺越事件と、76年の金正日による現地化指令の後の
拉致とは、系統も担当も違うようです。
金正日の現地化指令により、テロに関わるような秘密に関わった人たちはいな
いことになっているので、手紙なんかもちろん書けないわけです。北朝鮮は関係
していないと言わなければならない。しかし、武志さんと外雄さんについては、
手紙を書かせた。結婚相手は、帰国在日朝鮮人です。前は、韓福生さんの家族の
方に手紙を書いていたのです。実家は大阪で、韓福生さんは1960年に帰国船で北
に帰ったのですが、その時、彼女のお母さんと妹は北に行ったけれども、お父さ
んとお姉さんは行かなかった。だから、お父さんとお姉さんは大阪に住んでいて、
今回上京された外雄さんのお兄さんの文雄さんは実家に行って何度も会っていま
す。
ところが、「今は縁を切った」、「だから関わり合いたくない」と言われたの
です。在日朝鮮人の中で一部にあるのですが、物の無心がたくさん来て、代も代
わってたくさんお金を送れなくなり、「もう関わらないことにした」という家庭
がかなりあります。多分、韓さんの家庭もそうだったのだろうと思います。そし
て、今は引っ越してしまって住所も分からないそうです。だから北から手紙も送
れない。送れなくなった頃に、外雄さんが、自分の実家に手紙を書くことが許さ
れたのです。
◆担当している保衛部員などが賄賂を取る
物が来ると、担当している保衛部員などが賄賂を取るのです。だから、担当者
も、在日朝鮮人扱いにして手紙を書かせ、物を取ろうとしたのです。そういう点
では、秘密を守ろうとする度合いが低かったということも言えると思います。と
にかく亡くなった後も手紙がどんどん来ていて、日本からずっと送られたお金で、
外雄家は大飢饉の時代を乗り切り、息子を大学までやれたのです。
息子の明哲さんは獣医大学を出て、最初専門学校の講師になられ、今は畜産技
師です。獣医師の資格を持ち、それを生かして働いているわけです。また、秘密
の場所ではなく、社会に出て働いています。そういう所に就職したり、大学に行っ
たり、大学で卒業論文を書いたりする度にお金が必要で、そういう手紙がずっと
来ていて、文雄さんのところでは弟の家族だし助けようということで、ずっと助
けてきたのです。
ただ、神戸大震災で文雄さんも被災者になってしまいました。文雄さんのうち
は理髪店ですが、お店もつぶれ、借金を返さなくてはならないということになっ
て、大震災の後からは頻繁にお金を送ったりすることは止められたそうです。そ
の後、明哲さんが結婚するという時にはお金を送ったりしていて、昨日来た手紙
では、「私たちから手紙が来るとぞっとするとおっしゃっているようだけど、し
かし助けてください」という趣旨のことが書いてありました。
そういう中で、長瀬さんが文雄さんの所に何回も通って、手紙もたくさん見せ
てもらい、段々分かってきたのは、この二人の子どもさんは、曽我さん、ジェン
キンズさんの二人の娘さんや蓮池さん、地村さんの子どもたちと同じで、日本国
籍を持ち、拉致被害者の子どもであるということです。
◆外雄さん家族は拉致被害者支援法の支援対象
今の拉致被害者支援法では、本人及びその直系家族を支援の対象としています。
小泉総理は、二度目の訪朝の時は、被害者が帰ってきているにもかかわらず総理
大臣が子どもたちを取戻しに行ったのです。総理が出て行くような位置づけが、
被害者の子どもたちであるわけです。
従って、外雄さんの二人の子どもたちも、寺越事件が拉致だと認定されれば、
被害者の子どもとして、日本の総理が出て行って、小泉さんがジェンキンズさん
を説得したのと同じように韓福生さんを説得して、「日本を信じてください」と
か言って連れてこなくてはならないという、同じ位置づけになるべき存在です。
まだ認定されていないということがありますが、どう見ても拉致です。
しかし、それをするためにも法的なことがまだ整っていない、戸籍が整備され
ていないのです。日本にいる人で一番近い人は、お兄さんの文雄さんですが、文
雄さんは今、糖尿病になられて、74歳で、いつ自分もお迎えが来るか分からない、
と。そういう中で、最後に甥と姪のためにできることは、日本国籍を回復させる
ことだ、そして政府に拉致被害者の家族としての支援を頼むことだということで
す。
それも色々迷われて、文雄さんのところはどうも、朝鮮総連が視野に入れてい
るようです。客商売をされていますから、お客さんの中にそういう人がいるよう
です。また、寺越家の内部も複雑で、友枝さんのところと、外の寺越家の家族の
人たちの間が微妙です。援助の問題で、友枝さんは、自分は「外雄さんに渡して
ね」と言われたものを外雄さんに渡したのに、寺越の他の親戚では私が武志にえ
こひいきをしたように言っている、と本に書いていますし、文雄さんの話を聞く
と、外雄さんの分として皆で集めたものも武志さんに行っているのじゃかないか、
と疑いがあったりして、「友枝さんを通さず直接送ってくれ」という手紙が来た
りしたこともあった。だから、文雄さんが外雄さんを支えていて、友枝さんが武
志さんを支えているということになっています。
文雄さんが色々なことで活動すると、友枝さんがまた色々なことをおっしゃる。
それは昭男さんたちのことについてもあったりしました。そういう中で、「もう
歳もとったので表に出るのは」と考えておられたのです。私も一度神戸に行き、
長瀬さんは何回も通っておられますが、甥と姪のことを文雄さんしか政府にきち
んと保護を頼む人はいない、と。甥と姪は家族に間違いないのだから政府は保護
すべき対象で、日本に帰ってくれば支援法に基づいて資金の提供も受けられる資
格の人です。
外雄さんは北朝鮮で亡くなっていますが、二人の子どもがいるんだということ
を政府及び世論に分かってもらわなくてはならない。そして、戸籍上も出生届を
出さなくてはならない。そういう話をして、去年の夏くらいにとの話もありまし
たが、様々な事情から延び延びになっていましたが、新政権になって、「拉致被
害者の認定を増やす」と中井大臣も色々なところでおっしゃっているので、であ
れば寺越事件は第一番目に来る筈だし、そのことをやりながら、外雄さんの二人
の子どものことも日本政府は目を離さないでくださいよ、と言いに行こうという
ことで、今日の陳情活動になったわけです。
◆政府に3項目要請
お配りした要請書では、要請事項が3つあります。
要請事項の1は、「政府は、寺越事件を北朝鮮による拉致事件と認定すること。
また、寺越外雄の家族を拉致被害者家族として位置づけること」です。
寺越さんたちはもう家族会に入っています。我々も拉致だと思って活動してい
ますが、政府がまだ認定していないのです。「寺越外雄の家族」というのは、金
明哲さん、金明心さん、そして配偶者である韓福生さんを被害者家族とすること。
そして、実は、明哲さんに子どもがいることが分かりました。拉致被害者の孫
がいるのです。まだ名前は分からないのですが、娘さんがいる。昨日来た手紙に
そのことが書いてありました。
2は、「法務省は、寺越文雄らが進めようとしている寺越外雄の戸籍上の死亡
日の変更、長男長女の戸籍作成作業を支援すること」、3は、「外務省は、北朝
鮮との交渉において寺越外雄の妻と子ども、そしてその配偶者及び直系子孫につ
いて、安全を確保し日本への帰国を求めること」で、これらの要請をしてきまし
た。
実は、この要請文を作っていて一番大変だったのは、外雄さんが北朝鮮にいる
ことは手紙等もあって分かるのですが、いつ結婚したのかが分からない。また、
いつ子どもが生まれたかも分からないのです。手紙は約100通あるのですが、誕
生日は書いてない。
寺越外雄さんの家族の現状-東京連続集会51/救う会全国協議会ニュース(2)に続く
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