寺越外雄さんの家族の現状-東京連続集会51/救う会全国協議会ニュース(2)

2010-03-16 18:32:39 | 北朝鮮
◆婚姻の日も出生日も分からない
結婚については、『再会』という冊子、これは島崎譲さんという社会党の元国
会議員が、87年の友枝さんご夫妻の最初の訪朝に付いていって、帰ってきてから、
「北朝鮮に感謝する」と、「これは遭難救助事件だった」と言って作ったもので
す。寺越家にもお金を払えと言って買い上げさせられたいわく付きのものです。
1冊500円でした。これに結婚の年月日が書いてある。島崎さんは、生きていた外
雄さんから聞いたのでしょうが、子どもの生まれた日はこれには書いてない。

出生届を出すには、生まれた日付が分からないで日本の戸籍にのせることがで
きるのだろうか、と考えたわけです。だからと言って、北に電話して戸籍謄本を
送ってくれとか、外国人登録証を持ってきてくれと言えるような関係ではない。
北朝鮮は、「本人たちは誇らしい北朝鮮の国民で幸せに暮らしている。なぜ今、
日本国籍を作らなくてはならないのか」となりかねない。「右翼の反動どもがま
た陰謀をしている」となりかねない。本人たちがそれに協力すると、何か言われ
るかもしれない。そういう中で生年月日をどう特定するか。分からない中で、ど
ういうことができるのか陳情もし、法務省にも聞きにいきました。

昨日の夜まで、長瀬さんが、主要な手紙をスキャンして、それを東京に送って
きてみんなで読み、やっと生年までは特定できましたが、月日が分からない。89
年1月11日付けの外雄さんからの新年の手紙があり、「新しい年を迎え僕は50才、
妻は43才、明哲は18才、明心は15才に成りました」と書いてありました。89年で
すから、まだ外雄さんは生きておられたのです。外雄さんの出生日は分かってい
ます。1939年2月7日生まれです。そこから逆算しました。

満年齢なのか数えなのか、1月11日時点のものかどうかなど、色々と考えられ
ます。しかし、その前年の1月2日付けでは、「僕の長男明哲は今年17歳で9月に
中学校を卒業します」とあったり、94年12月には、「今年わが家では不祥事が」
あり、お父さんが死亡した、と明哲さんから手紙が来て、そこでは大学の5学年
とありました。北朝鮮では大学の5学年は満で21か22歳です。2001年に福生さん
から来た手紙では、「明哲もみなさんの援助のおかげで無事に結婚にゴールイン
致しました。今年は明心の番になりました。相手は中学校の先生で私の友達の息
子さんです(30才)。明心も27才でヨメに行く年はもうすぎたんですが、明哲の
ためおそくなりました」とありました。

これらを総合すると、福生さんが46年生れ、明哲さんが71年生れ、明心さんが
74年生れではないかと。現在の歳は、満で、福生さんが64歳、明哲さんが39歳、
明心さんが36歳となります。ちなみに武志さんは13歳で拉致され、今満60歳です。

また、『人情の海』という武志さんの手記の中で、外雄さんのことを書いてい
る部分があり、奥さん、長男長女の名前がありました。これは荒木信子さんが翻
訳したものがあり、ポクセン(福生)、ミョンチョル(明哲)、ミョンシム(明
心)と名前が合います。武志さんが「拉致はない」とした手記ですが、名前は同
じです。

実は、昨日夜まで資料を作っていたのですが、昨日北朝鮮から文雄さんに手紙
が来ました。これは偶然なのか。今までのような封筒ではなく、白い封筒でした。
文雄さんはこれを見て、朝鮮総連の人が自分たちの動きを知ってポストに入れた
のではないか」と疑ったそうですが、切手も消印も北朝鮮のものでした。我々の
資料では、「最近は手紙がない」と書いたのですが、あったことになります。そ
して、今も亀城市に住んでいます。武志さんは平壌に引越したわけですが、外雄
さんは亀城にいて、家族も亀城にいるようです。そして福生さんと、まだお嫁に
行っていない明心さんが一緒に住んでいます。明心さんは結婚したかもしれない
と思っていたのですが、それがうまくまとまらなかったようです。

そしてもう一つ、明哲さんに娘がいると書いてあります。ここで、拉致被害者
の孫の存在が明らかになったわけです。ここまでは昨日までの話です。

◆外雄さん家族は、戸籍回復がされていなくても「当然邦人保護の対象」
そして今日、3時に外務省、4時に法務省、5時10分に中井大臣にお会いしまし
た。外務省では、北東アジア課長に会いました。斎木局長は他用があり会えませ
んでしたが、この案件をよくご存知です。北朝鮮が出してきた昭二さんの「遺骨」
には土しかはいっていなかったこと、北朝鮮が出してきた昭二さんの「墓」だと
いう写真に刻まれている誕生日の日付が1日間違っていることなどです。北朝鮮
に上陸していれば、昭二さんが嘘をいう筈がありません。間違ったということは、
昭二さんは上陸していないと思われます。

外務省としてこの事実を認識し、交渉に出すようお願いしました。増元さんは
かなり厳しいことを言い、「寺越武志さんの帰国について交渉に出しているのか」
等言われました。私は、外雄さんの子どもがいることは写真や手紙で明らかだか
ら、北朝鮮で大混乱が起きた場合には戸籍回復がされていなくても、邦人保護の
観点から、明哲さんも明心さんも保護の対象にしてほしいと言ったら、「そのこ
とは当然そのように考えます」という話がありました。

その後、法務省民事局民事第一課に行き、戸籍関係の専門家の方々と実務的な
話をしました。既に、増元さんがるみ子さんの戸籍回復をした事例がありますが、
これは家庭裁判所でやりました。これも家庭裁判所でやらなければならないのか
な、と話しながら行ったのですが、先ほど話しましたように、海難事故なので海
上保安庁が管轄とのことでした。保安庁が死亡認定をし、それが市区町村に送ら
れて戸籍に反映されるそうです。るみ子さんの場合は、陸上での事件なのでまず
失踪届けが出て、家裁が何年か後に失踪宣告をするそうです。そして戸籍が処理
される。保安庁は行政ですから裁判所にいかなくていいようです。そして、死亡
取消認定をしてもらう。武志さんもやっていますし、63年後も生きていた証拠は
たくさんありますから簡単にできます。

しかし、94年に死亡したことは別で、死亡届を法務局に出すそうです。そして
子どもを籍に入れるには、まず婚姻届を出し、次に出生届を出す。婚姻関係にあ
る人から生まれたことを法務局が認めれば戸籍に載せる。しかし、客観的な証拠
が必要で一番いいのは公的な資料とのことです。

そこで我々が、「しかし、北朝鮮という国は書類も偽物を出します。死亡診断
書も偽物だった。そもそも人質にとられていて、そこで結婚して子どもができた
ので、本人が公的資料を取れる状況ではない。人質の子どもを保護する観点から
戸籍処理をしてほしい」とお願いしました。「北朝鮮が拉致をしているから政府
が対策本部を作っているのだから、書類がどうこうでは困る」と言いました。増
元さんが、「法務局が認めなかったら異議申し立てできるのか」と聞いたら、そ
れは裁判所に訴えればできるとのことでした。やってみないと分かりませんが、
近く、手続きを進めたいと思います。

◆「法務省と警察と相談して結論を出す」中井大臣
そして中井大臣に会いました。最初、文雄さんは緊張して、「私は床屋の親父
なのでこんな雲の上の人とは話せません」と言ったら、大臣が「床屋の親父でい
いですよ」と言ってくれたので、文雄さんがワーっと話し始めて、思いのたけを
かなり長く話していました。大臣の話はあまり多くなく、寺越事件の認定、二人
の子どもの国籍回復と保護の対象にしてほしいこと、また拉致問題全般について
民主党政権になってどこか変わったのか、今どうなっているのか、ということを
質問し、話を聞いてきました。

拉致認定と国籍回復については、法務省と警察と相談して結論を出しますとい
うことでした。法務大臣とは自分が折衝します、とのことでした。その他、金賢
姫のこともやっているということなどがありました。以上が今日の活動の報告で
す。

拉致被害者に子どもがいて、さらに孫までいるという状況です。もしかしても
う少ししたらヘギョンさんが結婚するかもしれない。子どもが生まれたら横田夫
妻のひ孫になります。そのくらい日数が経っているということです。特に寺越事
件は1963年ですから。

寺越昭男 もうすぐ半世紀になります。

西岡 次に、今回の資料整理を担っていただいた救う会兵庫の長瀬さんに補足を
してもらいます。

◆100通を越える手紙には「遭難救助」と書いてない
長瀬 今回、神戸の寺越文雄さんがもっておられる厖大な数の手紙や写真を整理
するお手伝いをしました救う会兵庫の長瀬猛です。寺越さんとのお付き合いはず
いぶん長いものになります。薄紙を重ねるように信頼関係を築いて、つい最近、
「そういうことであれば手紙を一切合財預けるから整理をしてほしい」というこ
とで、手紙をお預かりすることになりました。

手紙には色々なことが書いてあります。私が関心を持ったのは、拉致の原因が
どのように述べられているかという点です。100通を越える手紙の中に、遭難で
助けられたという箇所は、一箇所もありませんでした。拉致されたということも、
もちろん書いてありませんが、北朝鮮にとって決して都合が悪くない遭難救助が
一切書かれていないのです。

ちなみに、兄弟で上から3番目のお姉さんのところに始めて来た手紙は、「色
々な事情があって北朝鮮で今暮らしていて子どもがいる」というくだりかた始ま
ります。寺越家が訪朝することになり、外雄さんから見れば母方の親戚に当たる
方がとても尽力され、その方宛の手紙も何通かありました。そこに唯一、北朝鮮
に渡った理由が述べられています。

「金沢の人たち(友枝さん)や、社会党の島崎先生たちが言っていた。だいたい
その通りです」というくだりがあります。今回公開の対象にはしていません。こ
ういうことから、寺越事件というものは決して海難救助事件ではなかったという
ことを十分読み取ることができると思っています。

文雄さんが、非常に長い間苦労しながら、弟の家族を支えてこられたことが、
手紙の中に随所に出てきます。本当に切ない手紙です。

北朝鮮は、体制に関係ないことは案外ノーチェックです。昨日届いた手紙は、
文雄さんから公開のお許しをいただきました。これには外雄さんの家族の住所も
書かれています。文面を読ませていただきます。これは2月3日、つい最近書かれ
たものです。横田めぐみさんや有本恵子さんがいる北朝鮮から、拉致被害者の生
きる証として書かれたものです。

◆外雄さん家族会から「昨日届いた」手紙
(分かりにくい記述は一部訂正)
新年、2010年を迎えご家族のみなさんお元気ですか。お久しぶりにペンを取り
ました。

今日まで心の中に秘めていた事実を書こうと思います。私からの手紙を読むの
がぞっとするそうですが、ほんとうですか? はっきり言って今、私達の生活は
貴方らには想像もできないぐらいの“固難(苦難か?)の行軍”をしております。
もう10年も過ぎました。でも全国民が団結しその固難を貫ぬいて前進しておりま
す。親戚はもちろん、となり近所の人達と食べ物が互に助けあって生活してきま
した。

外雄さんもこの波にのって日本人ですが立派な生涯をささげてくれました。現
在まで生きていればきっと共和国英雄になったはずです。こちらで朝鮮統一に身
心をささげ国際主義戦士の模範を示したことでしょう。統一後には恋しい兄弟姉
妹のいる古里に帰ると、ひとみをかがやかしながら(話していた=救う会判読)
主人が想いうかびます。武志や明哲のでるまくではありません。

今はつらい苦しい“行軍”をしても2~3年後にはきっと豊かな朝鮮“強盛大国”
になった後、貴方達、親戚のみなさんに恩返しできるよう頑張って生きて行きな
さいと思って居ります。昔から恩は恩で返せとの言葉があるが、現在の私らには
それが出きないため、私からの手紙を見るのがぞっとすることでしょう。つらい
この気持ちを良解を望みます。

話が変りますが、(文雄さんの親戚の名前あり)さんも“ガン”のおそれがあ
ると手紙にありました。文雄さん恵子さんもみんなそれぞれに病気を持っている
ようですが、どんなに辛いことでしょう。お体に気をつけて健康でいることを願っ
て居ます。

その点、私も同じです。長年の胃カタールから3年前に中国製のアスピリンが
胃にくっついて6ヶ月間の治療でよくなったと思ったんですが悪化して、胃液が
無酸で、去年の春の診断で、“胃ガン”ときき、一時は目の前がまっ暗で、淋し
さのあまりなきくずれました。後、“ガン”でも良悪があるそうで、私の場合は
良の方だと言っています。

死を決心して人間はこわい物はありません。いろいろと心配ばかりおかけして
報いることが出来ないことが胸につかえて真に申し訳有りません。私達がみなさ
んと立場が逆だったらどうしたか、最高に尽くすことが出きたかと自分自身に問
うてもみました……。

私の一生の希望は、親戚のみなさんにお逢いして気の気く(向く?)まで話合っ
て、だき合って、身内のあたたかい情を味うことでした。それで墓参りも来てく
れ、訪朝してくれと書くようになったんです。

その希望がかなえられないユメで終ってしまいました。明哲は幸せに嫁や娘が
いる家庭であるが、明心はいまだに一人。私ひとりを当てにしてだれも知人もな
い、たった一人ぼっちになるのが可哀想で、目をつぶることができません。夜は
夜でねむることが出きません。明哲の嫁さんは主人の法事にもこない。ただ武志
の家には行くそうです。

友枝はなぜ、私や外雄さんをにくむのか? 私が寺越家に何か悪いことでもし
たのか? 今は武志も他人行儀で口もききません。

又、日本でもみなさん方も、私らがなにか物でもほしさに手紙するんじゃない
かと、当てにするな、もう最後だと淋しい手紙ばかりで、私は死んでも目をつぶ
ることが出きません。明心には父さんの墓を家の前の山へうつして、私の墓もそ
こに建ててくれとたのんでいます。

文雄兄さん、恵子さん、お願いです。私がだめなら明心だけでも暖かい春がきっ
とおとずれるとお手紙一通でもやって下さい。

私と明心は、一生懸命働いて居ります。最後の血が一滴になるまで働いていく
つもりです。のらくらしてたよりにしていると考えないでください。

まだまだ書きたい事が沢山ありますが、心がへんに興奮してドキドキして手が
ふるえ書くことができません。(文雄さんの親戚の名前あり)には生前、外雄さ
んが口ぐせのように言っていました。ところがこの度“せきずい”との怖い病気
にかかってなんともいうことができません。どうかよろしく伝えてください。

くれぐれも体に気をつけて末永く幸福をお祈り致しつつペンを置きます。さよ
うなら。命がつづくかぎり手紙します。

◆「ズボンの裾をめくりました」
以上が、昨日届いた北朝鮮の韓福生さんからの手紙です。いずれももっと切な
いことばかり書いてある手紙が文雄さんの所にありました。

文雄さんは、現金を送ってもほとんど手元に残らないことが分かったので、わ
ざとズボンの裾を短くあげて、「ズボンの裾が短いかもしれないから必ず直すよ
うに」と書いて、そこに現金を挟み込んでいたという話を聞きました。また、調
査すると、「ズボンの裾をめくりました」という手紙も出てきます。これはお話
と一致してきます。情報が少ない中で、文雄さんやご家族が支えておられたんだ
なと、手紙を拝見してつくづく思いました。

寺越さんの件では、これからもお手伝いをしていこうと思っております。これ
まで私が関わった他の拉致事件に比べて、寺越事件で最も特徴的なのは、思いが
生で聞こえるほど情報量が多いということです。手紙や写真がこんなに多いのは
初めてです。この貴重な資料をしっかりまとめて実のあるものにまとめていかな
ければならないと決意を新たにした次第です。

◆「地獄のような生活から救い出」して
寺越昭男(拉致被害者寺越昭二さん長男) 
今日は遅くまでありがとうございます。拉致問題は、みなさんのお力を借りて
被害者を取戻すことです。私たちだけでは太刀打ちできないという思いがあり、
国民の世論、そして家族会・救う会の力で解決していくしかありません。報道の
方を含め、今後とも宜しく応援してくださいますようお願い致します。

内田美津夫(拉致被害者寺越昭二さん三男)
私たちが声を上げ、東京に来た時に、寺越友枝さんが石川の新聞で誹謗・中傷
を行いました。それを東京で聞き、「弱ったなあ」と思ったのですが、地元に帰
る車の中で、兄弟三人で話合いました。「どんなに誹謗・中傷されても、武志と
友枝さんのことについては我々は言わないでおこう。我々子ども三人は、我々の
父親のことだけを思って活動していこう」。そういうことを三人で決めたことを
思い出します。そのことで8年間やってきましたが、外雄さんの家族については
何も活動してこなかったことを、今、悔やんでいます。手紙にもありますように、
北の生活は本当に大変だということが、皆さんにも分かっていただけたと思いま
す。北の国民も大変ですが、拉致被害者も苦しい生活を送っているのはまちがい
ないと思っています。一刻も早く、日本の国が動いて拉致被害者を取戻し、地獄
のような生活から救い出すことをやってほしいと思います。寺越の親族が必死に
なってまず拉致認定をしてもらい、「被害者だから早く返せ」という活動が実現
できるようやっていきたいと思っていますので、ご支援宜しくお願いいたします。

以上




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●救う会全国協議会ニュース

発行:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
TEL 03-3946-5780 FAX 03-3946-5784 http://www.sukuukai.jp


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